アシュケナージユダヤ人考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和/令和5).3.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 現代ユダヤ人国家イスラエルには或る秘密が宿されていると云う。その秘密とは、ユダヤ人国家として建国されたイスラエルの支配者は古代史上のユダヤ人ではなく、「ハザール王国系新ユダヤ人」であるというものである。古来からのユダヤ人はスファラディ系であり、「ハザール王国系新ユダヤ人」はアシュケナージ系である。アシュケナージ系ユダヤ人がユダヤ人であるかどうかは大いに疑問で、新種ユダヤ教徒ではないかというものである。これを検証する。
 「アシュケナージユダヤ人考」は、世界史の面貌を変えるインパクトを持っている。というのは、アシュケナージ系ユダヤ人の発祥の地とされるカスピ海〜コーカサス山脈〜黒海の北側一帯の動きに注目することになるからである。これまでこの地域は、13世紀の大モンゴル帝国の版図拡大に関係して言及されるまで世界史上空白の気にも留められていない地域となってきている。それが、「アシュケナージユダヤ人考」によると実際にはさにあらずで、この地域の古代から中世にかけての激動が近現代ヨーロッパ史に大きく関係していることになる。この民族移動の波が西欧各国に影響し、その果てにネオ・シオニズムの形成、イスラエル建国、現代世界を牛耳る国際金融資本ユダヤ帝国があるという、凡そ世界史上の裏面史となっているという点で見過ごすことが出来ないという訳である。

 この考察につき、「三つ巴カザール帝国の歴史」、「パレスチナ問題を解くための歴史2、中世史篇」、「The Khazaria Info Center」、「The Thierteen Tribe by Arthur Koestler」、「カザール可汗国(ロシア史の補説として)」、「カザール人(年表)」、「ユダヤ教国、カザール・ハン国」、「ユダヤ問題特集(ケノが書けなかったこと)」、「湾岸報道に偽りあり(ケノが書けなかったこと)」等々を参照する。

 2006.10.13日 れんだいこ拝


【古代「内海アジア」興亡史】

 「カスピ海〜コーカサス山脈〜黒海の北側一帯」(仮に「内海アジア」と命名する)に元々住んでいた民族を特定することは困難である。世界史上に現われるのは4〜5世紀中頃、フン族がヴォルガ川とドン川を渡ってヨーロッパに向かったという記述である。5世紀中頃アッチラ大王の死後、この地域にはいろんな部族や民族が顔を出し始める。アバール人やウイグル人といった遊牧民が通り過ぎて行く。6世紀頃、アバール人が東欧とギリシャを襲っている。

 この頃、本章の主人公となる後のハザール(カザールとも云う。ここではハザールと記述する)人は、カスピ海とアラル海の間に住んでいたようである。6世紀後半、ボルガ川に居たブルガール人を追い出し、コーカサスの北で一番有力な種族となった。次にこの地を支配したのは、突厥王国(西トルコ帝国)であった。帝国は、カガン(ハガン、可汗)と呼ばれる支配者によってまとめられた種族連合国家であった。ハザールは、突厥王国下で台頭していくことになる。

 7世紀、「内海アジア」は、東ローマ帝国、ササン朝ペルシャ、西トルコ帝国の三つ巴となっていた。ハザールは、東ローマ帝国と軍事同盟を結び、コーカサス山脈を越えてペルシャ領のグルジアやアルメニアに侵攻して戦利品を奪った。ペルシャは、ドン・ドニエプル川にいたアバール人と同盟して抵抗したが、627年、ニネヴェの戦いで東ローマ帝国のヘラクレイオス皇帝軍に敗れ、弱体化した。そこへ、イスラムのウマルの軍隊が攻め込んだ為、ササン朝ペルシャは滅ばされた。

 7世紀後半、西トルコ帝国の支配力が弱まり、新たな三つ巴がうまれた。東ローマ帝国、ハザール、イスラム帝国の鼎立時代となった。コーカサス山脈は天然の障壁ではあるが、ダリエル峠ルート(現在はカズベク峠)とカスピ海沿いダルバンドからのルートがある。イスラム軍は幾度も攻め込んだが、決定的勝利は得られなかった。イスラム軍はコンスタンチノープルも南から包囲したが、落とすことができなかった。

 8世紀はじめ、帝国鼎立の下でハザールは、ブルガール人、マジャール人を征服して、クリミヤとウクライナを版図に加えていた。支配者の称号は、西トルコ帝国に倣いカガンと呼ばれた。カガン(大カガン)は、宗教的な特別な地位に就き、直接指図することはなく、カガン・ベクと呼ばれる副官が実務を取り仕切った。カガン・ベクは、それぞれ地方長官を任命し、征服地の管理と徴税をさせた。こうして、聖俗2重権力構造が確立していた。

 イスラム軍は、マルワンの指揮でカザールに対し大勝利を収めた。カザール軍はボルガ川まで押しのけられた。マルワンは征服地にイスラム教への改宗を求めた。カガンはそれに応じた。ところが、この頃ウマイア朝に内戦が勃発し、版図拡大どころではなくなった。内戦を治めたマルワン2世は、カリフまで上り詰めた。6年後に暗殺され、750年、カリフの地位はウマイア家からアッバース家のアブルの手に移った。以来、イスラム軍がコーカサスを越えることはなかった。

 ハザール帝国は、中世期のコーカサスからカスピ海北岸に、総人口が100万国家として存立した。住民はトルコ系白人(コーカソイド)で、商人・職人・武人として優れていた。首都をイティル(カスピ海西岸)に置き、シルクロードの北ルートの出発点として栄えた。イティルが何処にあったか定かではない。旅行記「モンゴル人の歴史」を書いたカルピニは、イティルはサライ・バトゥのことでキプチャク・ハーン国の首都、ボルガ川の河口にあると書いている。砦のあったサルケルをイティルだというロシア研究者も多い。10年ほど前、ボルガ川のカスピ海河口南端にある都市キーロフスキーの沖にあるチースタヤ・バンカ島で防塁と古墳の一部が見つかったと云うニュースが入っている。


【ハザール王国の国を挙げてのユダヤ教への改宗】
 但し、「東ローマ帝国、ハザール、イスラム帝国の鼎立」は、ハザール帝国に常に脅威を与え続けていた。外交的な駆け引きが続き、ハザール帝国は、東ローマ帝国との関係を強化して、姻戚関係を結び皇帝の擁立に介入した。これによりハザール人ハーフの皇帝(レオン4世)も生まれた。後にキリル文字を作りルースへの布教を行った宣教師キリルをノブゴロド公国に遣わしたポティウス司教もカザール人だった。イスラム帝国は、ボルガ中流に追いやられたブルガール人の王国(もう一つはダニューブ・ブルガール王国があった。現ブルガリアに続く)へ使節を送り、北からのハザール撹乱を画策した。しかし8世紀は大きな政治的変動は起きなかった。

 ハザール帝国は特段の宗教を持たなかったようである。それが為に、西の東ローマ帝国の原理主義的キリスト教、南のイスラム帝国のイスラム教にイデオロギー攻勢をかけ続けられていた。東ローマ皇帝とは姻戚関係にありながら、首都イティルには交易に従事するイスラム教徒の居住区があった。クリミアには、ユダヤ人のコミュニティがあった。ハザール王国は、次第に「宗教的な干渉」を受けるようになった。

 720年、東ローマ帝国のレオン3世はユダヤ教徒のクリスト教への強制改宗を行った。これにより、多くのユダヤ教徒がハザール帝国の首都イティルに逃げ込むことになった。この頃、大カガン、ブランは奇策を打った。大カガンは、3宗の高僧を集め論争を行わせた。どの宗教が最も優れているのか、決着がつかなかった。そこで、各宗の高僧を一人づつ呼びたし、自宗教の次にどちらの宗教が真理に近いかを聞いた。クリスト教の聖職者はユダヤ教と答えた。イスラム教の法学者もユダヤ教と答えた。ユダヤ教のラビは、答えようとしなかった。そこで、大カガンは国教をユダヤ教に定めた、との逸話が伝えられている。

 740年頃、カスピ海沿岸のハザール王国の王オバデア(ブランの孫)は、自分たちは「血統的にもアブラハムの子孫」であるとして「ユダヤ教に改宗」宣言し、国民教化に乗り出した。ハザール帝国はこうしてユダヤ人以外のユダヤ教国家となった。ハザール帝国は、8世紀末から9世紀にかけて、全国民がユダヤ教に改宗してしまうという、世界史上例を見ないことを成し遂げた。(「ハザール王国の歴史」、「<ユダヤ問題特集第2章>世界史のタブーである東洋系ユダヤ人と白人系ユダヤ人のルーツ」を参照する。目下、ほぼ転載)。

 国家的な「ユダヤ化政策(改宗政策)」を推し進めたハザール王オバデアから200年たったヨセフ王時代の書記は、以下のような記録を残し、ハザール人は全トルコ民族の先祖であるトガルマを通じ、ノアの長男セム(黄色人種)ではなく第3番目の息子ヤペテ(白人種)の直系子孫であることを断言している。
 「我々の父祖の系図から、トガルマには10人の息子があったことを知った。その子孫の名前はウィグル、デュルス、アヴァル、フン、バシリー、タルニアク、ハザール、ザゴラ、ブルガル、サビールである。我々は7番目の息子ハザールの子孫である」。

 このことに関し、イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエル共和国が建国される以前の1944年に「ハザリア」という著書を出版し、次のような見解を発表していた。
 「これらの事実から、ハザールのユダヤ人と他のユダヤ・コミュニティの間にあった問題、およびハザール系ユダヤ人がどの程度まで東ヨーロッパのユダヤ人居住地の核となっていたのか、という疑問について、新たに研究していく必要がある。この定住地の子孫――その地にとどまった者、あるいはアメリカやその他に移住した者、イスラエルに行った者――が、現在の世界で“ユダヤ人”と言われる人々の大部分を占めているのだ」。


【その後のハザール王国の国を挙げてのユダヤ教への改宗】

 ところが、ハザール帝国は、ユダヤ教国家となって以降次第に衰退していくことになった。9世紀中頃、ハザールの版図であったウクライナはルスの手に落ちた。ルス人がキエフに来て勢力を伸ばし、周辺のスラブ人を支配するようになった。その後、ノブゴロド公リューリクの息子オレグが来て先人のルス人を殺しキエフを占拠し、882年、キエフ公国を建国した。

 ハザールが支配していた東方に住むペチェネグ人が、更に東方のトルコ系民族(クズ?)の圧迫を受け、ハザールの地に流入した。ハザールは彼らの定住を拒否したので、ペチェネグは更に西方へと移動した。そこはカザールの同盟者マジャール人の地であった(現ルーマニア)。マジャールはそこを追われ、893年、カルパート山脈を越えて現ハンガリーの地に到った。これにより、マジャールとハザールとの協力関係が切れた。ハザールは帝国の版図を縮小していった。

 ハザール帝国は、4番目の勢力として立ち現われるルス人によって壊されることになった。ハザールは10%の通行税を取っていたが、ルスの不満を募らた。ルス人はボルガを下ってカスピ海にも進出した。小競り合いは何度と無く繰り返されたが、965年、決定的な事件が発生した。オレグの子スビャトラフ公がドン川の守りサルケル砦を落とした。スビャトラフの死後、内戦を治めたウラジミールは、ハザールの時と同じように宗教コンテストを行った。この時は、キリスト教が東西にあり、四つ巴となった。そしてビザンチン外交が勝利したのである。その結果、「ハザールー東ローマ帝国対ルス対イスラム」の関係が、「東ローマーロシア対ハザール対イスラム」へと変わった。

 1016年、東ローマ=ロシア連合軍は、ハザール国に侵入し、首都イティルを陥落させた。その後、この地はクズ族(クン、クマン、キプチャク、ポロベツ)の支配するところとなった。キエフ・ロシアが内戦状態になって北へ去り、カフカス地方に空白ができる。これはビザンチンの誤算であった。通商の要地がまた異教徒の手におちたのだ。カザール国の滅亡後も、12世紀までカザールの名前が出てくる。モンゴル人が、キプチャク・ハン国を打ちたてた以降に、サライ・バトゥにユダヤ教を信じるカザール人が住んでいるという旅行記が書かれている。その町の別名はサスキン、またの名はイティルである。今でもカスピ海はカザールの海と呼ばれている。

 ところで、カザール帝国のユダヤ教徒は何処へ向ったのか不詳となっている。


 9世紀、突然、スカンジナビアの民は大挙して南下を始めた。北海ルートは海のバイキング、ノルマンと呼ばれた。東は川のバイキング、ルスと呼ばれた(ルーシ。イスラム教徒はバラング人と呼んだ)。適当な大きさの小島を先ず占領し、そこを補給基地として本土を襲撃した。条件が良ければ襲撃地に住みこみ、現地人と同化していった。襲撃に失敗すれば、交易を行った。バルト海を渡ってヴォルコフ川を遡り、イルメン湖の小島に居留地を作った。ホルムガルドと名づけられた。後のノブゴロドである(862年ノブゴロド公国)。更に遡って南下し、迷路のような現在のカリーニン一帯の湿地帯からボルガ川やドニエプル川の上流を見出し、カスピ海・黒海へと向かった。

 ボルガ川ルートは、勇敢なブルガール人やカザール人が居る上にカスピ海に注いでいるため、ルス人は熱心ではなかった。しかもカザールのカガン・ベクは、東ローマ皇帝テオフィリスに使者を送り建築家と職人を求め、ドン川(ボルガ川と繋がっている)下流のサルケルに砦を築いたのである(1930年代、ロシア共産党はそこにチムリャンスク貯水池を作り、サルケル砦を水没させた)。一方、ドニエプル川ルートは、トルコ系より大人しい農民であるスラブ人が住んでいた。しかも黒海に繋がり、その先はコンスタンチノープルがある。ルス族は、スラブ人を捕まえて、カザールの首都イティルの奴隷市で売った。そうして、次第にルス族はスラブの地に住みこみ、やがて同化してゆく。何度かコンスタンチノープルを包囲したが果たせず、逆に10世紀末には、ビザンチン教会の教えを受け入れ、ルス人はロシア人となっていった。

 話の流れとは外れるが、スラブ人を狩ったのはルス族ばかりではない。西のフランク王国もそうだ。狩ってフランス東北部のヴェルダンに集め、マルセイユ経由で、東ローマやイスラムへ売りに行った。コルドバには大きな奴隷市場があった。奴隷売買の仲介をするのはユダヤ教徒の仕事だったが、それは彼らがイスラム圏にもキリスト圏にも出入りできたからだ。ここにも奇妙な三つ巴が見られる。もともと、古代ローマでは帝国内のラティフンディウム(大土地所有者)がビラ(農園)で働かせる労働力の供給を求めていた。始めはゲルマン人を奴隷とした。西ローマが滅んでも、東ローマや地中海沿のイスラム圏では要求は増大する一方だったのだ。一昔のゲルマン族やスラブ族はクリスト教徒ではないので、遠慮なくやった。英語の slave が、スラブ( Slav )に似ているのは偶然ではないのである。


【「N・M・ポロック説」】

 1966.8月、、自然科学の教科書の翻訳者であり、出版会社から頼まれて本の校正もしていた学者にしてアシュケナジー系ユダヤ人であるN・M・ポロックが、イスラエル政府に次のように抗議した。
 概要「当時のイスラエル国内の60%以上、西側諸国に住むユダヤ人の90%以上は、何世紀か前にロシアのステップ草原を徘徊していたハザール人の子孫であり、血統的には本当のユダヤ人ではない」。

 これを仮に「N・M・ポロック説」とする。イスラエル政府の高官は、ハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後にその重要証言をもみ消そうと画策した。ポロックは自分の主張を人々に伝えるため、その生涯の全てを費やしたという。

 このように「アシュケナジー系ユダヤ人」は、「旧約聖書に登場するユダヤ人(セム系民族)とは血縁的に全く関係のない民族(ヤペテ系民族)」であり、国をあげてユダヤ教に大改宗して以来、現在に至るまで“ユダヤ人”になりきってしまっている、という見方が現われたことになる。

 この説に拠ると、「アシュケナジー系ユダヤ人」が非セム系民族となり、現在、世界中に散らばっている“ユダヤ人”と呼ばれている人間の90%以上が、本来のヘブライ人とは全く関係のない異民族ということになってしまう。こうして、「N・M・ポロック説」は、恐るべき発言となった。と同時に、「キリスト殺し」の汚名を背負つてきたユダヤ人論から免責される可能性も生まれた。こうして、両刃の剣的発言となった。


【アーサー・ケストラー氏の指摘】

 木村愛二氏の「(その61)『ユダヤ人』の九〇%はタタール系カザール人だった」を参照する。

 ハンガリーで生まれのアシュケナジー系ユダヤ人であった有名な思想家アーサー・ケストラー(Arthur Koestler))は、1977年、「第13支族」(The Thirteenth Tribe、The Khazar Empire and its Heritage。第十三支族、カザール帝国とその末裔)(邦訳「ユダヤ人とは誰か(三交社)」)を著し、次のように問うた。

 「8世紀以前の世界には、ごくわずかな混血者を除いて、白人系ユダヤ人はほとんど存在していなかった。それがなぜか8〜9世紀を境にして、突然、大量に白人系ユダヤ人が歴史の表舞台に登場したのである。いったい何が起きたのか?」。

 「白人系ユダヤ人の謎」に挑戦したケストラーは、1905年にブダペストで生まれ、1922年、ウイーン大学に入学。その頃からシオニズム運動に関与し、1926年にはパレスチナを訪問している。それは、自分が聖書で言うユダヤ人であるとの自覚に拠っていた。この履歴からは、決していわゆる「反ユダヤ主義者」などではないことが判明する。

 その後、ロンドン・タイムズのパレスチナ特派員を経て、1945年にはロンドン・タイムズの特派員としてイスラエル建国前のパレスチナにいた。1957年にはイギリス王立文学会特別会員に選ばれている。1964年から1965年にはカリフォルニアのスタンフォード大学の行動科学研究所特別会員だった。有名な著作では「スペインの遺書」がある。他にも、「真昼の暗黒」、「黄昏の酒場」、「見えない手紙」、「夢遊病者」、「コール・ガールズ」などがある。さらにニュー・サイエンスの「機械の中の幽霊」、「ホロン革命」などを著した思想家としても知られている。

 1977年、彼は「第十三部族」という本を著し、白人系ユダヤ人のルーツを丹念に調べ、次のように述べた。

 概要「今日のユダヤ人はその大多数において、カザールの子孫であり、70年のエルサレム陥落の後、7世紀にユダヤ教に改宗した連中である。一般にユダヤ人と思われていたアシュケナジーは、聖書で言うユダヤ人とは全く関係ない人々である。それゆえ東欧のユダヤ人の大多数は、セム系のユダヤ人とはなんら関係がなく、西欧のユダヤ人のほとんども、東欧から来たと考えられるので、彼らもまたセム系ユダヤ人ではないといえよう」。

 概要もちろん、このことは、創世記の聖約の話によって霊感を受けたとはいえよう。しかしカザール人は、主と聖約を交わしたとはいえ、あまりにも選民の地位を主張しすぎる。かれらは、血縁的に言えば、アブラハムの子孫ではないのだから。カザール人は、セムの系図であるとの主張は、通らないし、カザールの血統を遡るならば、セムではなくノアの三男ヤペテ、もっと正確に言いうならばヤペテの孫、トガルマに行き着く。トガルマは、あらゆるトルコ系種族の先祖であるのだ。我々は父祖の家系図の中に、そのことを発見する。トガルマには10人の息子がいて、彼らの子孫の名は次の通りである云々」

 と言うことを解き明かした。こうなると、イスラエルの45%の層(アラブ人とセム系ユダヤ人を除く)と世界中の大多数のユダヤ人は、血縁的に言って、モーセ、ソロモンの部族とは全然関係がないことになる。更に、スファファディー=ユダヤのみが、血筋からして古代ヘブライ人の末裔であると考えられ、ワイズマン、シルベール、ベン=グリオン、その他多くのアシュケナジー系シオニストが長い間恋焦がれてきた故郷は、彼らのものではなかった、ということになる。

 これがケストラーの最後の著作となった。この本は、現代ユダヤ人の起源として「カザール起源説」を打ち出し世界中に衝撃を与えた。

 木村氏は、次のように述べている。

 概要「本来のユダヤ人は、数度にわたるディアスポラ(離散)にあって、1492年までは主としてイベリア半島に定住していた。ここでかれらはスペイン語を改竄したラディノ語をつくる。が、イスパニアでカトリックの力が強くなると(いわゆるレコンキスタ)、主要部族は北アフリカ、オランダ、フランス南部に移動した。この移動部隊の多くはキリスト教徒と融合しながら生き延びた。この部隊の“隠れユダヤ人”たちがマラーノである。スピノザやレンブラントはポルトガル系のマラーノの直系だった(第842夜)」。
 「他方、アシュケナージユダヤ人の流れがある。 アシュケナージとは、ドイツを意味するヘブライ語のアシュケナズから派生した呼称である。その多くは東ヨーロッパで多数のコミュニティをつくっていた。このアシュケナージはもともとはカザール人と重なっていた。かれらはやがて東欧に動いてドイツ語を改竄してイディッシュ語をつくった。この系流のユダヤ人は、ロシアのポグロムやドイツのホロコーストで迫害され、西ヨーロッパあるいはアメリカに移住した。今日、世界中に棲息するユダヤ人は1500万人ほどおり、そのうちの約90%がアシュケナージだといわれる。しかし、アシュケナージは本来のユダヤ人なのかという問題がある。ケストラーは、『アシュケナジー系ユダヤ人の歴史のカラクリ』に対し『歴史が犯したひどいジョーク』との見識を示した」。
 概要「さらにミズラヒと呼ばれるユダヤ人がいる。しばしばスファラディに含まれて語られることも多いのだが、その一部がアジアに流れていったことに特徴がある。もっとも今日のイスラエルにはスファラディとミズラヒがほぼ半分すづ居住する」。

 ケストラーは、十世紀のアラブ支配のウマイヤ朝時代にコルドバのカリフの総理大臣だったユダヤ人、ハスダイ・イブン・シャプルトと、時のカザール王ヨセフとの間で交わされたヘブライ語の手紙「カザール書簡」に対しても、「この書簡の真偽は論争の的であったが、現在では後世の書写人の気まぐれをそれなりに斟酌した上で、大体受け入れられている」と記し、同時代のアラブ側の歴史資料などと比較検討するなど、詳しい考証を行なっている。

 ケストラーの「第13支族」は、科学や思想が中心のケストラーの著作としては異色の書で、その内容は世界史の常識・認識を根底から揺さぶるほどの問題作であり衝撃を与えた。絶賛される他方で翻訳出版を控えた国も出た。

 ニューヨーク・タイムズは次のような賛辞を贈っていた。
 「ケストラーの優れた書物は非常に興味深いものである。その手腕、優雅さ、博学などはもちろんのこと、それににもまして著者そのものがそれらすべてを駆使して真実を導き出そうとした努力、さらにその結論には大いに敬意を表するに値するものがある」。

 ウォール・ストリート・ジャーナルも同じように称賛していた。
 概要「興味を持つためにユダヤ人であることが何も必要条件とはならない。今日のヨーロッパのユダヤ人達は本当に聖書が言っているセム系のユダヤ人なのか。それとも大多数は改宗したカザール人の子孫なのか。このコンパクトで興味をそそる本は、この問題に潜んでいる悲劇的かつ皮肉な結論を暗示し、それゆえに人々の心を魅了してやまないであろう」。

 但し、ただしニューヨーク・タイムズの書評の扱いに関しては、先に紹介したユダヤ系ジャーナリストのリリアンソールが、「書評欄の片隅に目立たないように押しこめられていた」と批判している。リリアンソール自身も、ケストラーより二、三年先に『イスラエルについて』を著し、次のように指摘していたという。
 「東西ヨーロッパのユダヤ人たちの正統な祖先は、これらの八世紀に改宗したカザール人たちであり、このことはシオニストたちのイスラエルへの執念を支える一番肝心な柱を損ないかねないため、全力をあげて暗い秘密として隠されつづけてきたのである」。


【アーサー・ケストラー氏の変死】
 1983.3月、ケストラーは夫人とともに謎の死を遂げた。当時の新聞の死亡記事に記載された彼の多くの著作リストの中には、この「第13支族」は省かれていた、という。ケストラーは、「『第13支族』を世に問うた故にある筋により政策的に消された」と窺うべきであろう。

【宇野正美氏、石上玄一郎氏、松岡正剛氏らが「ケストラーのカザール起源説」紹介】

 宇野正美氏は、ケストラーの「第13支族」の邦訳「ユダヤ人とは誰か」(宇野正美 訳、三交社を出版、自著「古代ユダヤは日本に封印された」も出版し、ケストラー説を紹介した。石上玄一郎氏も「彷徨えるユダヤ人」(レグルス文庫)の中でケストラー説を改めて紹介した。

 松岡正剛氏が「千夜千冊」の中でケストラー説を整理補強して次のように述べている。

 概要「アシュケナジー・ユダヤ人と呼ばれる白人系ユダヤ人は、聖書に出てくるユダヤ人ではなく、もともと中央アジアにいたカザール(又はハザール)民族をルーツにしている。なぜカザール民族がユダヤ人と呼ばれるようになったのか。それは、紀元8世紀頃にカザールは上は王から下は奴隷に至るまで、国を挙げてユダヤ教という宗教に改宗したことに起源を発しているからである。

 当時カザール帝国はイスラムとビザンチン・キリスト教からの圧迫を受けていた。カザール帝国の支配者達は、どちらにも加担することなく、両者の根源であるユダヤ教に改宗して帝国の保身を図ろうとした。彼らはユダヤ教徒カザール人となり、のち蒙古の元が襲来して来たときに、その難を逃れるために帝国を捨て北へ移動し、今日の旧ソ連、ロシア共和国北部に定着するようになった。そして自らをユダヤ人と名乗るようになった。

 年月が流れていく中で、ユダヤ教カザール人達は東ヨーロッパ、更に西ヨーロッパへ移動し、一部は更にアメリカに渡っていった。アメリカでユダヤ人としてみるのはすべてが白人系のユダヤ人である」。

 「さまよえるユダヤ人」はいったん歴史の主舞台から姿を消し、やがてスファラディと呼ばれるようになった。なぜそうなったかといえば、度重なる十字軍の動きとキリスト教社会の矛盾に満ちた波及とともに、ロシアを含む全ヨーロッパでユダヤ人に対する追放や弾圧が始まった。多くのスファラディがスペインやポルトガルに逃げのびたことは上に述べたとおりだが(強制的に改宗させられた者も多く、そのため隠れユダヤとしてのマラーノが生まれた)、15世紀にはその逃げのびたユダヤ人がまたイベリア半島からも、フランスからも追放された。

 16世紀になると、イタリア、ドイツ、中央ヨーロッパの各地に次々にゲットーができ、それが許容できないユダヤ人は集団でイギリスやアメリカに渡った。なかで比較的寛容なオランダ移民派のスピノザが『エチカ』を書いたのは、まさにこの時期である。そのスピノザを、ヨーロッパは冷たい沈黙で迎えたものだ。

 こうしてスファラディは、むろんやむなくというべきだが、一方では改良主義に走り(モーゼス・メンデルスゾーンの改革派ユダヤ主義など)、他方ではゲットーを出て過激に走らざるをえなかった(ハシディズムの再燃など)。

 近代に向かった「モーセの民」を待っていたのは、さらに複雑な動向である。

 フランス革命がヨーロッパの精神を塗り替え、ついでナポレオンがヨーロッパの地図を塗り替えると、ユダヤ人を抱きこむ国があらわれて、いったんユダヤ人の“はかない春”がおとずれそうにもなったのだが、同時にユダヤ教など認めないという複雑骨折が次々におこっていった。

 つづくナポレオンのロシアでの決定的敗北以降は、ヨーロッパ各国は「国民国家」の形成にむけて動き出して、ユダヤ人という人種問題などまったく顧みられることがなくなっていく。そういうときに、ロマノフ朝が支配を確立したロシアで、ユダヤ人の大量虐殺(ポグロム)が断行された。

 かくして、もはやスファラディの純血はこれを守るすべがないほどに攫き乱され、アシュケナージとの交じり合いもおこりはじめた。実はマルクスやバクーニンが登場してきた時代は、こういう時期だった。ということは、これでおよその見当がつくと思うけれど、コミュニズムやアナキズムは、資本制社会や国民国家や人種差別に対する総合的なアンチテーゼだったのである。

 20世紀はユダヤ人がどのように現代社会にユダヤを定着させるかという政治行動と哲学思想の時代になる。たとえばシオニズムが吹き荒れ、マルティン・ブーバーのユダヤ実存主義が生まれ(第588夜)、フロイトアインシュタインによる意識革命のプランや科学革命のプランが噴き出してきた。ここにいたって、スファラディによって創意されてきたユダヤ主義は、大量のアシュケナージと混成していくことになった。

 1948年にイスラエルが建国されたとき、その原動力になったのはほとんどアシュケナージだった。建国後、スファラディがイスラエルに入ってきた。しかし、スファラディとアシュケナージは全く別の“人種”だったのである。

 では、今日のユダヤ人の90パーセントを占めるアシュケナージとは何なのか。

 ケストラーによると、アシュケナージとカザール(ハザール)人の歴史は重なっている。そして、この歴史こそがヨーロッパの裏側のシナリオの解読にとって最も重要なものだという。

 375年をさかいに、フン族をはじめとする民族大移動がユーラシアを動きまわった。このときビザンチン帝国の使節はフン王アッチラに親書を送り、戦士部族としてのカザール人の存在を報告した。歴史上、初のカザール人の登場である。

 フンの王国が崩壊すると、カザール人はコーカサス北部を中心にしだいに勢力を拡大していった。首長はカガンと呼ばれた。ついで広大な草原にトルコ民族の突厥(チュルク)が出現すると、カザールの民はいったん突厥の支配下に入り、アバール・ハーン王国を名のった。そのうちビザンチン帝国の版図の拡大にともなって、ビザンチンとカザールとのあいだに軍事同盟ができ、コンスタンティヌス5世がカザールの王女を娶り、その息子レオン4世が“カザールのレオン”としてビザンチン帝国の皇帝の座についた。

 その直後の740年ころ、カザールはユダヤ教に集団改宗した。理由ははっきりしない。ともかくカザールの民はいっせいにユダヤ化してみせたのだ。ノアの3番目の息子のヤペテを始祖とする“血の伝承”に関する見方もこのころにつくられた。しかし、その血統は実際にはセム系ではなく、白色トルコ系であり、その気質はあきらかに遊牧民族系だった。

 こうして、カール大帝が西ローマ帝国を治めたときは、ロシア・トルコ地域には、キエフ王国とユダヤっぽいカザール王国(首都イティル)の二つの勢力がが相並んでいたということになる。

 そのカザール王国の盛衰に終止符が打たれたのは、1236年にモンゴル軍が侵攻し(いわゆる「タタールのくびき」)、1243年にキプチャク・ハーン国が成立したときである。カザール人はバトゥ・ハーンの支配となって、ここに王国は滅亡した。

 しかしケストラーは、このあとにカザール人がロシアから東欧に移動して、のちにアシュケナージとよばれる親ユダヤ的な中核をつくったと推理して、そこにブルガール人、ブルタ人、マジャール(ハンガリー)人、ゴート人、それにスラブ人が交じっていったと判断した。ケストラー自身がハンガリー生まれだったのである。

 黒海とカスピ海に囲まれた地域を中心に広がった半径のなかにいたカザール人が、しだいにマジャールやブルガールと交じっていったことは、その後のユダヤの歴史をひどくややこしくさせている。

 まずカザール・ディアスポーラは、東欧にかなり高密度な集落をつくっていった。これはゲットーではない。自主的なコモンズで、もっぱら「シュテトゥル」と呼ばれた。この集落がロシアの地からの拡張にともなってしだいにポーランドのほうにも移行して、やがて「ユーデンドルフ」(ユダヤ村)と総称された。そのユーデンドルフに、それまで離散していたユダヤ人が少しずつ加わった。そこには”本来のユダヤ人”(セム系ユダヤ人)やスファラディも交じっていた。

 ここからはハウマンの記述が詳しいのだが、こうして、ポーランドが東方ユダヤ人の原郷とされていったのだ。これこそ、モーセ以来のセム系ユダヤの十二支族にもうひとつが加わることになった「第十三支族」なのである。

 けれども、そのポーランドこそは近現代史の悲劇の舞台であった。ポーランドはたえず分割された。そしてそのたびに「第十三支族」が影のシナリオを担わされていった。これはかつての「さまよえるユダヤ人」ではなく、新たな近現代の「さまよえる複合ユダヤ人」の物語なのである。

 これでおおざっぱなことは展望できたとおもう。ともかくも、こうして地球上をしだいに占めるようになったアシュケナージの動向は、「モーセの民」をも巻きこんだまま、今日の今日にいたるまで、イスラエルの中でも、イスラエルの内外でも、血統・勢力・宗旨・言語・風習をめぐる重大なキーをもったまま、国際政治の荒波での浮沈をくりかえす一団というふうになったのである。

 ふりかえってみると、スピノザもマルクスも、カフカもブーバーもサルトルも抱えた“ユダヤ人問題”には、いくつもの難解な特徴があった。
 3点だけ、ここではあげておく。

 第1に、「モーセの民」と「タルムードの民」は必ずしも一致していないということだ。本来のユダヤ教は「旧約聖書」と「ゾハール」と「タルムード」が聖典であるが、アシュケナージは「タルムード」しか読まない。

 第2に、言語の問題がある。「モーセの民」はヘブライ語の民である。ところがディアスポラのユダヤ人は各地でその地域の言語を編集して、新たな“ユダヤ風の言語”をつくった。それが10世紀ごろに確立されたイディッシュ語である。ドイツ語を基盤に、そこに「タルムード」の単語や句を交ぜた。これが大流行した。アシュケナージは主としてイディッシュ語をマメ・ロシュン(母語)とした。さきほどのユダヤ・コモンズ「シュテトゥル」もイディッシュ語である。

 いまではイディッシュ文学という独自の領域もある。日本でも森繁久弥がテヴィエに扮して当たったミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の原作者ショーレム・アレイヘムはその一人だった。ウクライナ生まれのアシュケナージだった。ちなみに『屋根の上のヴァイオリン弾き』の舞台写真を最初に見たとき、ぼくはマルク・シャガールの絵をふいに思い出していた。のちに知って驚いたのだが、シャガールは20世紀で最も有名なアシュケナージの画家だったのだ。

 第3にハシディズムやシオニズムの問題がある。ハシディズムはポーランドのバアル・シェーム・トーヴ(略称ベシュト)によって提唱された。18世紀である。神との交流による恍惚を謳った。

 トーヴの活動はやがてハシディズム(敬虔主義)とよばれ、南ポーランド全体に広がっていく。が、ポーランド分割の悲劇がこの活動に終止符を打たせた。

 シオニズムは選民思想である。しかし、そこにはシオニズムが投入されざるをえなかった苛酷な前段がある。

 1855年にジョセフ・ゴビノーの『人種の不平等』がユダヤ人であること自体を悪とする人種差別思想をまきちらし、1881年にキリスト教社会党を組織したアドルフ・シュテッカーが「ドイツのユダヤ化」を激しく非難したパンフレットを連打、1903年にセルゲイ・ニールスが『シオンの議定書』を書いてユダヤ人が世界支配の計画と陰謀をもっているというデッチアゲをして、これらが流布された。

 こうした異常な反ユダヤ主義(アンチセミティズム)がヨーロッパを席巻した。この悪影響はわれわれの想像を絶するもので、心あるユダヤ人たちにいわゆる「ユダヤ人の自己嫌悪」をもたらし、このアンビバレンツな感情はハインリッヒ・ハイネを嚆矢に、オットー・ヴァイニンガー、フロイト、フッサールに及んだものだった。

 この反ユダヤ主義に対して、レオン・ビンスケルが『アウト・エマンツィパツィオーン』(自力回復)を提唱する。ユダヤ人は同化されえず、自らも民族的ホームを求めるべきだというものだ。

 モーゼス・ヘスも『ローマとエルサレム』でユダヤ倫理にもとづいたユダヤ人国家をつくるしかないと説き、ヒルシェ・カーリッシュが『シオンを求む』でイスラエルの地での再民族化の機会をもつべきではないかと説いた。

 そこへドレフェス事件やエミール・ゾラの勇気ある活躍があって、ユダヤ人を認めるべきだという西ヨーロッパにおける機運がわずかに盛り上がってきた。テオドール・ヘルツルがシオニスト会議を提案した背景には、以上のような流れが渦巻いていた。

 ヘルツルのシオニズム運動は挫折するけれど、その方針は受け継がれて結局はイエラエル建国に結びつく。それがどういうものであったか、どんな問題が積み残されたかについては、第398夜の『ユダヤ国家のパレスチナ人』や、立山良司がポスト・シオニズムの動向をまとめた『揺れるユダヤ人国家』(文春新書)などを読んでもらいたい。

 以上、わずか3点だけ取り上げてみたが、これらはいずれもアシュケナージの奥にスファラディの歴史的宿命を窺うというていの問題ばかりである。

 ユダヤ人問題というのは、とうていわれわれが観測しきれるものではない。しかし、ときどきはこの問題にひそんでいる壮絶な意味を覗いてみることは、日本や日本人を考えるときのヒントになることがある。たとえば数年前、WJC(世界ユダヤ人会議)の会長ナフム・ゴールドマンが「ユダヤ人にとって良い時は、ユダヤ教にとって悪い時になる」と発言していたことは、強烈な暗示力をもっていた。

 その後、イスラエルの良心とも呼ばれるヨッシ・ベイリン労働党議員がWJC60周年記念シンポジウムで、「ユダヤ人が個人として活動が自由になっているとき、ユダヤという民族は縮んでいるのだ」と発言していた。何かものすごいことをメッセージされていると思ったことである。

 ユダヤ人の個人と、ユダヤ人という民族と、ユダヤという国家とは別なのだ。そこにはホッブズのリヴァイアサンはあてはまらない。いや、別なのではなく、それを一緒にしようとすると、歴史が必ずそこで逆巻くのである。

 その理由がどこにあったのか、たとえばエドワード・サイードにも答えを出してほしかったことである(第902夜)。


【ユダヤ人の遺伝的起源研究】
 「亜空間通信1015号」(2005.5.18日付)の木村愛二氏の「英米イスラエルの遺伝学者がユダヤ人の遺伝的起源を中央アジア」を転載しておく。

 英国・米国およびイスラエルの遺伝学者がユダヤ人の遺伝的起源を調べたところ、ユダヤ人共同体の半数以上が、中近東とは無関係の中央アジア起源だったことが判明した。

 これは、2年近く前のニュース記事であるが、アーサー・ケストラーの主張を遺伝学的に裏づけた研究成果である。文中のLevitesは、直訳すれば、レヴィ人である。ユダヤ教の聖典、旧約聖書のレヴィ記は、現在のイスラエルの極右シオニストの「大イスラエル」主義の根拠となる。
 Le・vite ━━ n. 【聖】レヴィ族の人; レヴィ人.
レヴィ記の内容は、エジプトを出たイスラエルがまだ"約束の地"に入れず、荒野を旅していた時代の口承を基にして書かれた。彼らはヤハウェの導きに従って移動を続けていて、当然ながら土地を所有していない。しかしヤハウェは[あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば]と、実現が確実な予定として土地に関する規定を命じる。
------------------------------------------------------------

 《わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで》(『創世記』15章18節)

 政治的シオニズムの統一主義者の読み方
●《聖書を所有し、聖書の民と同様に考えるものは誰でも、聖書に記された土地すべての所有を要求すべきである》(モシェ・ダヤン将軍、『エルサレム・ポスト』67・8・10)
●一九九四年二月二五日、バルーフ・ゴールドスタイン医師が、長老の墓所で祈りを捧げていたアラブ人を虐殺した。
●一九九五年一一月二五日、イガール・アミールが、《神の命令》と“約束の土地”としての“ユダヤとサマリア”(現在のヨルダン川の西)をアラブ人に譲ろうとするものは誰であろうとも処刑することを誓う彼のグループ、“イスラエルの戦士”の指示の下に、イツァク・ラビンを暗殺した。


【】
 http://www.racesci.org/in_media/central_asian_levites.htm
 
 Geneticists Report Finding Central Asian Link to Levites

By NICHOLAS WADE
New York Times 09/27/03

A team of geneticists studying the ancestry of Jewish communities has found an unusual genetic signature that occurs in more than half the Levites of Ashkenazi descent. The signature is thought to have originated in Central Asia, not the Near East, which is the ancestral home of Jews. The finding raises the question of how the signature became so widespread among the Levites, an ancient caste of hereditary Jewish priests.
The genetic signature occurs on the male or Y chromosome and comes from a few men, or perhaps a single ancestor, who lived about 1,000 years ago, just as the Ashkenazim were beginning to be established in Europe. Ashkenazim, from whom most American Jews descend, are one of the two main branches of Jews, the other being the Sephardim, whose ancestors were expelled from Spain.

The new report, published in the current issue of the American Journal of Human Genetics, was prepared by population geneticists in Israel, the United States and England, who have been studying the genetics of Jewish communities for the last six years.

They say that 52 percent of Levites of Ashkenazi origin have a particular genetic signature that originated in Central Asia, although it is also found less frequently in the Middle East. The ancestor who introduced it into the Ashkenazi Levites could perhaps have been from the Khazars, a Turkic tribe whose king converted to Judaism in the eighth or ninth century, the researchers suggest.

Their reasoning is that the signature, a set of DNA variations known as R1a1, is common in the region north of Georgia that was once occupied by the Khazar kingdom. The signature did reach the Near East, probably before the founding of the Jewish community, but it is still rare there. The scholars say they cannot exclude the possibility that a Jewish founder brought the signature on his Y chromosome to the Ashkenazi population, but they consider that a less likely explanation.

The present descendants of the Khazars have not been identified. Dr. Michael Hammer of the University of Arizona, one of the authors of the report, said he was looking among the Chuvash, a Turkic-speaking people of the Volga Valley, to see if they might have contributed the R1a1 signature.

Dr. Shaye Cohen, professor of Hebrew literature and philosophy at Harvard University, said he could see no problem with outsiders being converted to the Jewish community. He said he considered it less probable, however, that outsiders would become Levites, let alone founding members of the Levite community in Europe. The connection with the Khazars is "all hypothesis," he said.

Even if the Khazar hypothesis is correct, it would have no practical effect on who is a Levite today. "Genetics is not a reality under rabbinic law," Dr. Cohen said. "Second, the function of Levites is so minimal it doesn't mean anything."

Six years ago Dr. Hammer and Dr. Karl Skorecki, of the Technion and Rambam Medical Center in Haifa, looked at the Y chromosomes of both Levites and Cohanim. Both are hereditary priesthoods passed from father to son. They were important in ancient Israel, but sometime between 200 B.C. and A.D. 500 their functions were taken over by rabbis, and Jewish status came to be defined by the biologically more reliable standard of maternal descent.

If the patrilineal descent of the two priestly castes had indeed been followed as tradition describes, then all Cohanim should be descended from Aaron, the brother of Moses, and all Levites from Levi, the third son of the patriarch Jacob. Dr. Hammer and Dr. Skorecki found that more than half the Cohanim, in both the Ashkenazi and Sephardi communities, did indeed carry the same genetic signature on their Y chromosome. Their ancestor lived some 3,000 years ago, based on genetic calculations, and may indeed have been Aaron, Dr. Skorecki said.

But the picture among the Levites was less clear, suggesting that they had a mixed ancestry. Dr. Hammer and Dr. Skorecki returned to the puzzle for their new report, based on data gathered from nearly 1,000 men of Ashkenazi and Sephardi origin and neighboring non-Jewish populations.

They found that the dominant signature among the Levites was the R1a1 signature, which is different from the Cohanim signature. The paternal ancestry of the Ashkenazi and Sephardic Levites is different, unlike the Cohanim from the two branches, who resemble each other and presumably originated before the two branches split. And the ancestor of the R1a1 signature apparently lived 2,000 years more recently than the founder of the Cohanim signature.

The Levites' pedigree does not seem to accord with tradition as well as the Cohanim one does but is venerable nonetheless. "How many people can trace their ancestry back to the 17th century, let alone a thousand years?" Dr. Hammer said.

【イギリス植民地担当国務大臣・モイン卿の主張と運命】

 木村愛二氏の「偽イスラエル政治神話その23、2章:20世紀の諸神話(その11)4節:"民なき土地に土地なき民を"の神話(その1)」を転載する。

 当時はカイロ駐在のイギリス植民地担当国務大臣だったモイン卿は、一九四二年六月九日、貴族院で、「ユダヤ人は古代ヘブライ人の子孫ではない[訳注1]から、聖なる土地の“正統な領土回復要求権”を持っていない」と言明した。パレスチナへのユダヤ人の移民を抑制する政策の賛成者だった彼は、《ヘブライ人の独立に対する執念深い敵》として非難の的となった(アイザック・ザール『救助と解放/イスラエル誕生にアメリカが果たした役割』54)。

 一九四四年一一月六日、カイロにいたモイン卿は、イツァク・シャミール[のちのイスラエル首相]指揮下のシャミール集団のメンバー、二人によって射殺された[犯人二人はアラブ側に逮捕され、処刑された]。

 その後、二〇余年を経て、オークランドの『イヴニング・スター』紙の一九七五年七月二日に掲載された記事によると、処刑された二人の死体をエルサレムの“英雄廟”に埋葬するために、二〇人のアラブ人の捕虜との交換が行われていた。イスラエルが暗殺者を褒めたたえ、英雄扱いしたことを知って、イギリス政府は慨嘆した。

 訳注1:いわゆるユダヤ人、またはユダヤ教徒の約九割は、モイン卿の発言の通り、「古代ヘブライ人の子孫ではない」。ユダヤ教を採用したカザール帝国の末裔とその係累である。タタール系の民族を中心とするカザール帝国は、七世紀から一〇世紀に掛けて南ロシア周辺で栄え、その後に滅び、住民は離散した。巻末の「訳者解説」で資料等を紹介する。


【木村愛二氏の指摘】
 木村愛二氏の「偽イスラエル政治神話』(その33)訳者解説(その1)」を転載する。
 本書の数多い主張の中には、まだまだ複雑な問題が潜んでいるが、ここでは四点についてだけ、補足をして置きたい。[中略]
 第二は、いわゆるユダヤ人の血統の問題である。本訳書ではすでに、シオニストのテロリストに暗殺されたイギリス人、モイン卿の発言(二三七頁)に、簡単な訳注を付して置いた。そのままではほとんどの日本人の読者には、前後の脈絡が分かりにくいだろうと判断したのであるが、著者が、そこで詳しく述べていないのは、欧米の読者には周知の事実だからである。

 この問題は、拙著『湾岸報道に偽りあり』でも紹介した。簡単に言うと、ユダヤ人と呼ばれている人々の内の九割ほどは、旧約聖書のユダヤ人、イスラエル人、またはヘブライ人の血統ではないのである。本書でもその問題点が指摘されているように、現在のイスラエル自体が、「ユダヤ人」の定義を、基本的には「ユダヤ教徒」に求めている。それ以外には共通の基盤がないのだ。

 「日本人」の場合にも、帰化すれば同じ「日本人」なのだから、もともと何々人という言葉自体が、厳密に血統を問う言葉ではない。だが、ユダヤ人の場合には、単なる懐古趣味の系図研究ではなくて、古代の先祖の土地所有権を争っていることになるのだから、決定的に、こだわらざるを得ない。しかも、血統が違う人々の比率が、桁外れに高いのである。

 世界のユダヤ教徒の人口の九割に当たり、アシュケナジムと呼ばれる宗教上の流派に属する人々は、古代のユダヤ人の血統上の子孫ではない。七世紀から十世紀にかけて南ロシアで栄え、国ごとユダヤ教に改宗したタタール系の民族の王国、カザール(ハザール、ハザルとも記す)の末裔とその係累なのである。だから、ロシア、ポーランドなどの東欧諸国に、桁外れに多いユダヤ人の集団が存在していたのである。彼らは、「東欧ユダヤ人」とも呼ばれている。

 この問題は、政治的シオニストの主張にとっては都合が悪いから、「血統云々」の発言を繰り返すモイン卿の暗殺にまで発展した。つまり、生命の危険を覚悟しなければ公言できない問題だったのである。当然の結果として、今も、欧米のメディアは報道しない。日本のメディアも、自称歴史学者のほとんども、欧米の習慣に従っている。しかし、本物の学問の世界では国際的な定説であり、日本でもかなり広く知られている。

 詳しい研究書もある。その日本語訳も出版されている。その一つは、日本語訳では『ユダヤ人とは誰か/第十三支族カザール王国の謎』(三交社)となっているが、原題を逐語訳すると、『第十三支族、カザール帝国とその末裔』である。著者のアーサー・ケストラーは、ハンガリー生れのユダヤ人で、平凡社発行の『世界大百科事典』にも載っている著名な作家、思想家である。

 旧約聖書に発する地中海文明の三大宗教の圏内では、「第十三支族」で意味が通じる。始祖アブラハムの子孫の内で行方が分からなくなった支族の意味だから、日本語訳の題名のように「ユダヤ人」を明記する必要がない。この原題および日本語訳の双方に現れる「第十三支族」という言葉の使用法は、あくまでも、そういう古代の伝承を借りたキャッチフレーズに過ぎない。なぜならば、カザールは、まったく別系統の民族だったからである。

 その後、ロシアの考古・歴史学者、S・A・プレェートニェヴァの『ハザール/謎の帝国』(新潮社、96)が出た。訳者の城田俊は、モスクワ大学大学院終了のロシア語教授である。長文の訳者解説には中国史、モンゴル史からの観察も加わり、知られざるユーラシア大陸史の趣きがある。

 古代ユダヤ人の直系は地中海周辺を中心に分散(ディアスポラ)していたが、イスラム帝国の発展に伴なってイベリア半島に移住した中心グループが、ヒスパニア時代を経て、ヘブライ語にヒスパニア語を交えた言語を使用するようになった。以後、その他も含めて、直系は、セファルディム(ヒスパニアからきた人々)と呼ばれるようになった。セファルディムは、当然、アラブ人と同じ肌色の有色人である。

 現イスラエルには、セファルディムの人口の方が多いが、半白人で欧米を背景とするアシュケナジムの支配下に置かれ、「黒」呼ばわりの人種差別さえ受けている。ところが、アシュケナジムが元祖の「邪教」政治的シオニズムによる人種差別主義が、逆に、被支配者側ながら古代ユダヤ人の直系であるセファルディムに乗り移り、数千年の共同生活者だったアラブ人への憎しみを募らせるという、複雑怪奇な悲劇的事態が進行つつある。白人のキリスト教徒から差別された半白人のユダヤ教徒が、有色人のユダヤ教徒を差別し、さらにそのユダヤ教徒が、有色人のイスラム教徒を差別するという、まさに、この世の地獄が現出しているのである。ラビン首相を暗殺したイガール・アミールは、日本国内でもカラー写真入りの報道があったが、典型的なセファルディムである。

カザール人考
 「ユダヤ人は彼らの書物において、自分たちは古代イスラエル人の末裔ではないと認めている!」。
 読者により翻訳いただきました。
 「ユダヤ年鑑1980年度版3P」は次のように記している。
“そのことに関して厳密に言うならば、古代イスラエル人をユダヤ人と呼ぶこと、もしくは現代のユダヤ人をイスラエル人または、ヘブル人と呼ぶのは、正しくない”

 Encyclopedia Americana (1985):

 “カザール人・・・7世紀から11世紀半ばにかけて、コーカサス山脈の北方のステップ地帯に、巨大かつ強大な国家を統治したいわゆる古代トルコ語を話す人々なのだが・・・8世紀に、その政治的、宗教的指導者は、カザールの貴族社会の大多数を率いて、異教を捨て、ユダヤ教に改宗した・・・(カザール人は、ロシアや東欧のほとんどのユダヤ人の先祖であると信じられている)”

 Encyclopedia Britannica(15th edition)

 “カザール人・・・6世紀後半、現代のヨーロッパ=ロシアの南東部一帯に、巨大な商業帝国を築き上げたトルコとイラン系部族の連合で、8世紀半ば、その支配階級は、彼らの宗教としてユダヤ教を受け入れた。”

 Academic American Encyclopedia (1985)

 “アシュケナジー・・・アシュケナジーとは、ユダヤ人を大きく分けると二つになるのだが、そのうちの一つ。もう片方をスファラディーという。”

 Encyclopedia Americana (1985)

 “アシュケナジー・・・アシュケナジーとは、先祖がドイツに住んでいたユダヤ人である。政治的シオニズムの考えを取り入れ、結局のところ、現在のイスラエルに国を樹立したアシュケナジー=ユダヤと呼ばれる人たちである。1960年代の終わりごろ、アシュケナジー=ユダヤは1,100万人に達し、世界のユダヤ人口の約84パーセントを占める。”

 The Jewish Encyclopedia

 “カザール、セム系ではない、アジア系でもない、約1世紀に東欧に移住したモンゴル系部族国家で、拡大しつつあったロシアが、カザールの人口を吸収しようかというとき、7世紀に国家をあげてユダヤ教に改宗し、よってそのことが、現在ロシア、ポーランド、リトアニア、ガラティア、ベッサラビア、ルーマニアなど東欧において、イディッシュを話すユダヤ人が多く存在する理由である。”

 The Encyclopedia Judaica (1972)

 “カザール・・・7世紀から10世紀にかけて、東欧において独立し、主権を有したトルコ系に属する国家的集団で、この間、おもだったカザール人は、ユダヤ教に改宗した。考古学的には取るに足りないものにもかかわらず、東欧におけるユダヤ人集団の存在と、ユダヤ的思考のインパクトは、中世において無視する事はできない。東から中央ヨーロッパに移住したと言われている集団は、しばしばカザールとして捉えられ、よって彼らが元カザール帝国出身である可能性を無視する事はできない。”

 The Universal Jewish Encyclopedia:

 ヘブル人の中でアシュケナジーの最も重要なポイントは、ドイツとドイツ人である。この事は、ドイツ人のもともとの先祖の出身は古代メディア王国にあるという事実であって、メディアは聖書のアシュケナジーであり、クラウスは中世初期において、カザールは時々アシュケナジーとして語られており、すべてのユダヤ人の約92パーセントもしくは、おおよそ1450万人はアシュケナジーであるという学説がある。

 New Grolier Encyclopedia

 トルコ系民族であるカザール人は、7世紀から10世紀にかけてロシア南部の相当部分を支配し、一大商業政治帝国を築き上げた。8世紀に、カザールの支配階級とその王はユダヤ教に改宗した。カザールは、ボルガ川デルタ地帯のItilに首都を置き、その後4世紀ほど、このユダヤ帝国はキリスト教国である東ローマ帝国(ビザンチン帝国)とイスラム帝国との間において、勢力のバランスを保ったのである。ドン川下流域のSarkilの防備したカザールの都市は、ビザンチン帝国の援助のもと造られており、中央アジアへの交差点として役割を果たした。カザール帝国はオリエントへ通じる多くの貿易行路を支配した_例えば、何人かのRadhanitesGaulからのユダヤ商人)は中国やインドへの道中カザール帝国を通過するのに慣れていたのだ。10世紀後半から11世紀はじめにかけて、ビザンチン帝国と帝政ロシアの連合はクリミア半島におけるカザールの勢力を駆逐した。965年キエフ候SVYATOSLAV一世は、カザールの軍隊に対し、圧倒的勝利を得た。更なる東には、トルコ系の侵略者ともいうべき新規の勢力がカザールの存続を脅かすかのように、台頭していたのだ。

 聖書:

 カザール(アシュケナジー)ユダヤはヤペテの子孫でありセムではないとしている。

“ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次の通りである。洪水の後、彼らに子が生まれた。ヤペテの子孫はゴメル・・・ゴメルの子孫はアシュケナズ・・・”創世記101_3

それゆえ、聖書はアシュケナジー=ユダヤ(カザール)はセムの子孫ではないし、セム族でありえないという事を証明している。

Kimyarite King Adopts Judaism and Converts His Army and People

Kimyarite (Himyarite) see Sabeans (Jewish Encyclopedia,p.403) : 

Sabeans;聖書、古典作家、土着の碑文によると、アラビア南東部に位置した古代シェバ王国の住人。創世記の系統学者は、Sabeanの起源となった先祖であるシェバに対し、3つの系図を示している。彼らはさまざまな呼称を持つ。

1)クシ、ラアマの子孫(創世記107、歴代誌上19、エゼキエル書27223813

2)セム、ヨクタンの子孫(創世記1028、歴代誌上122 3)ケトラに生ませたアブラハム、その子ヨクシャンの子孫(創世記253、歴代誌上132)、それゆえSabeanには、3つの血統があるように思える。・・・一つはアフリカ(comp. the Ethiopian city of Saga mentioned by Starabo,Geography,p.77)そして残りの二つはアラビアである。

 The Outline of History: H.G.Wells

“ユダヤ人の先祖の大部分はパレスチナに住んでいなかったという歴史的主張は、事実として、かなりの確率で可能性が高い。”

 次に挙げるのは、ロシアに住んでいたある民族が、ユダヤ教に改宗し、東欧に住むユダヤ人の95%以上の起源となりうるというストーリーである。

 Facts Are Facts, By Benjamin Freedman

 東欧におけるユダヤ人の起源と歴史に関して、完全で正しい知識なしに、(クリスチャンが)10世紀にも及んで、ユダヤ人が振り撒いてきた有害なる影響を、理知的に理解するのは全くもって不可能であるといわざるを得ない。私の東欧におけるユダヤ人の起源と歴史に関する多くの歳月をかけた調査研究によって、暴かれた事実を初めて発表し、国家規模の衝撃を与えたとき、多くのクリスチャンがそうであったように、おそらくあなた方も驚くであろう。私の何年にも及ぶ調査研究は、あらゆる疑い、クリスチャンが一般的に受け入れている信仰に反する質問に対し答えている。歴史上、東欧においては、いつの時代も、東欧在住のユダヤ人は、聖書の伝説的“失われた10部族”では決してありえない。その歴史的事実は明白である。

 間断なき調査によって、東欧のユダヤ人は歴史上一度たりとも、聖書の伝説的“失われた10部族”の直系の子孫として正しく認識される事はないという真実を証明した。現代史における東欧のユダヤ人が、血統的に見て、聖書時代に、パレスチナの地に足を踏み入れた唯一なる古の先祖に正統性を持って行き着くとは考えにくい。その調査によると、東欧のユダヤ人はセム族ではなくて、今でもセム族ではなく、これからもどんなに想像を広げたところで、未来永劫セム族とみなされる事はないであろうと暴露されている。徹底的な調査により、クリスチャンが一般的に受け入れている“東欧のユダヤ人は、伝説の“選びの民”であると説教壇からクリスチャンの牧師に声高に宣伝された信仰は、最終的に幻想的な作り話として排斥されるのだ。

 The American Peoples Encyclopedia for1954 at 15 /292 records the following in reference to the Khazars:

 紀元740年、カザール人は、公式にユダヤ教に改宗した。一世紀経って、カザールは、スラブ系の言語を話す人々の侵入により崩壊し、ヨーロッパ中部に移動し、ユダヤ人(Jew)として知られるようになったのだ。

 上記の事から、我々には明らかにユダヤ人は、Jewish Encyclopedia for 1925 recordsの第三版としてのカザールの遺産を十分理解していることがわかる。

:“カザール[Khazars]とは_その生活と歴史がロシアにおけるユダヤ人のまさにその歴史の始まりから織り込み済みのトルコ系に起源をもつ人々。カザール王国は、Varangians(855)によるロシア君主国の土台ができるはるか以前より、南部ロシア一帯に、堅固に立てられていた。ユダヤ人は紀元1世紀初頭より黒海、カスピ海沿岸に住み着いていた。歴史はカザールのふるさととしてウラル地方を証拠として示している。中世における古典的著者の中には、彼らはChozars,Khazirs,Akatzirs,Akatirsとして知られ、ロシア年代記の中には、KhwalissesUgry Byelyyeとして知られ・・・・”

 The Encyclopedia Judaica:,Vol.10,(1971)によると、カザールについては、次のごとく説明している。

;“カザール_一般的にはトルコ系の民族集団で、7世紀から10世紀にかけて東欧において、独立し、主権を有していた。この期間に、カザールの指導層はユダヤ教に改宗した。(Encyclopedia Judicia,Vol 10(1971)

 The Universal Jewish Encyclopedia

“カザール、多分Volga Bulgarsに関係している中世の人々で、その支配層は、8世紀にユダヤ教を受け入れた。カザール人は6世紀に、東欧のステップ地域とボルガ川流域から中国国境へと拡大していった、巨大な遊牧民であるフン族の帝国から現れたようだ。カザール人の起源は、紀元200年ごろではないかとの主張も、しばしば見受けられるが、実際には、彼らに関して627年にならないと記録がない。多くのユダヤ人の歴史家は、カザールの王がユダヤ教に改宗した日時を、7世紀前半としている。”

 Academic American Encyclopedia; Deluxe Library Edition, Volume 12.page 66 states

 トルコ系の人種であるカザール人は、7世紀から10世紀の大部分において、ロシア南部を広範囲にわたり支配し、商業政治帝国を築き上げた。8世紀に、カザールの支配階級とその王は、ユダヤ教に改宗したのだ。

 The New Encyclopedia Britannica, Volume6, page 836 relates:

 “カザール・・・6世紀後半に、現代のヨーロッパ=ロシア南東地域を席巻し巨大な商業帝国を築き上げたトルコ系の言語を話す部族の連合体である・・・しかしもっとも際立ったカザールの特徴は、740年ごろ、その王と支配階級の上層部がユダヤ教を明白な形で取り入れたことである。しかしながら、事実そのものは、ユーラシア中部の歴史において、疑うすべもなく、並ぶものもない。何人かの学者はユダヤ化されたカザール人が、東欧やロシアの多くのユダヤ人の、遠い先祖であると主張する。”

 Colliers Encyclopedia: Volume 14, page 65 states:

 “カザール・・・トルコもしくはタタールに起源をもつ半遊牧民で、3世紀の前半にコーカサス地方北部にまず現れた・・・8世紀にブラン王は、ユダヤ人の支持を得るため、自分自身ユダヤ教を受け入れ、彼の民にも・・・”

 New Catholic Encyclopedia , Volume _ , page173 relates :

 “カザール人はトルコ系に属する民族集団であり、紀元2世紀の終わりごろ、コーカサス地方とボルガ川やドン川下流域にかけて定住していた・・・8世紀の始め、王朝同士のつながりを求め、カザール帝国はコンスタンチノープルに更に近づき、そのことによって、ある程度キリスト教が広まった。彼らはまた、クリミア半島、ボスフォラス海峡近辺に住んでいた、多くのユダヤ人からユダヤ教を知らされるようにもなった。ビザンチン帝国の皇帝、レオ3世が723年に、ユダヤ人を迫害したとき、多くのユダヤ人はカザール王国に避難し、その影響力は甚大であったため、8世紀の中ごろ、カザールの王と多くのカザール貴族はユダヤ教信仰を受け入れた。”

 The Cadillac Modern Encyclopedia, 822page

 “カザール、トルコ系に起源をもつ南部ロシアの人々は、その最盛期(8世紀_10世紀)にクリミア地方や、ボルガ川下流域、遠くはカスピ海に広がる帝国を築いた。カザールの王族や貴族階級は、ブラン王の治世(768_809年)の時、ユダヤ教に改宗し、ユダヤ教はその後、国教となった。” 

  戻る

 同じくユダヤ人の作家、アルフレッド=リリエンタルは、ユダヤ人の歴史に関して次のように述べている。

“イスラエル国家の存在は、理にかなったものではない。そこに通常の正当性なるものは見出せない。国家の樹立、その領土どちらをとっても、明白なる正義はないのである。まあ必要性とか驚くべき実現はあるかもしれないが・・・”




(私論.私見)