アシュケナージユダヤ人考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和/令和5).3.15日
(れんだいこのショートメッセージ) |
現代ユダヤ人国家イスラエルには或る秘密が宿されていると云う。その秘密とは、ユダヤ人国家として建国されたイスラエルの支配者は古代史上のユダヤ人ではなく、「ハザール王国系新ユダヤ人」であるというものである。古来からのユダヤ人はスファラディ系であり、「ハザール王国系新ユダヤ人」はアシュケナージ系である。アシュケナージ系ユダヤ人がユダヤ人であるかどうかは大いに疑問で、新種ユダヤ教徒ではないかというものである。これを検証する。 「アシュケナージユダヤ人考」は、世界史の面貌を変えるインパクトを持っている。というのは、アシュケナージ系ユダヤ人の発祥の地とされるカスピ海〜コーカサス山脈〜黒海の北側一帯の動きに注目することになるからである。これまでこの地域は、13世紀の大モンゴル帝国の版図拡大に関係して言及されるまで世界史上空白の気にも留められていない地域となってきている。それが、「アシュケナージユダヤ人考」によると実際にはさにあらずで、この地域の古代から中世にかけての激動が近現代ヨーロッパ史に大きく関係していることになる。この民族移動の波が西欧各国に影響し、その果てにネオ・シオニズムの形成、イスラエル建国、現代世界を牛耳る国際金融資本ユダヤ帝国があるという、凡そ世界史上の裏面史となっているという点で見過ごすことが出来ないという訳である。 この考察につき、「三つ巴カザール帝国の歴史」、「パレスチナ問題を解くための歴史2、中世史篇」、「The Khazaria Info Center」、「The Thierteen Tribe by Arthur Koestler」、「カザール可汗国(ロシア史の補説として)」、「カザール人(年表)」、「ユダヤ教国、カザール・ハン国」、「ユダヤ問題特集(ケノが書けなかったこと)」、「湾岸報道に偽りあり(ケノが書けなかったこと)」等々を参照する。 2006.10.13日 れんだいこ拝 |
【古代「内海アジア」興亡史】 |
「カスピ海〜コーカサス山脈〜黒海の北側一帯」(仮に「内海アジア」と命名する)に元々住んでいた民族を特定することは困難である。世界史上に現われるのは4〜5世紀中頃、フン族がヴォルガ川とドン川を渡ってヨーロッパに向かったという記述である。5世紀中頃アッチラ大王の死後、この地域にはいろんな部族や民族が顔を出し始める。アバール人やウイグル人といった遊牧民が通り過ぎて行く。6世紀頃、アバール人が東欧とギリシャを襲っている。 7世紀、「内海アジア」は、東ローマ帝国、ササン朝ペルシャ、西トルコ帝国の三つ巴となっていた。ハザールは、東ローマ帝国と軍事同盟を結び、コーカサス山脈を越えてペルシャ領のグルジアやアルメニアに侵攻して戦利品を奪った。ペルシャは、ドン・ドニエプル川にいたアバール人と同盟して抵抗したが、627年、ニネヴェの戦いで東ローマ帝国のヘラクレイオス皇帝軍に敗れ、弱体化した。そこへ、イスラムのウマルの軍隊が攻め込んだ為、ササン朝ペルシャは滅ばされた。 8世紀はじめ、帝国鼎立の下でハザールは、ブルガール人、マジャール人を征服して、クリミヤとウクライナを版図に加えていた。支配者の称号は、西トルコ帝国に倣いカガンと呼ばれた。カガン(大カガン)は、宗教的な特別な地位に就き、直接指図することはなく、カガン・ベクと呼ばれる副官が実務を取り仕切った。カガン・ベクは、それぞれ地方長官を任命し、征服地の管理と徴税をさせた。こうして、聖俗2重権力構造が確立していた。 イスラム軍は、マルワンの指揮でカザールに対し大勝利を収めた。カザール軍はボルガ川まで押しのけられた。マルワンは征服地にイスラム教への改宗を求めた。カガンはそれに応じた。ところが、この頃ウマイア朝に内戦が勃発し、版図拡大どころではなくなった。内戦を治めたマルワン2世は、カリフまで上り詰めた。6年後に暗殺され、750年、カリフの地位はウマイア家からアッバース家のアブルの手に移った。以来、イスラム軍がコーカサスを越えることはなかった。 ハザール帝国は、中世期のコーカサスからカスピ海北岸に、総人口が100万国家として存立した。住民はトルコ系白人(コーカソイド)で、商人・職人・武人として優れていた。首都をイティル(カスピ海西岸)に置き、シルクロードの北ルートの出発点として栄えた。イティルが何処にあったか定かではない。旅行記「モンゴル人の歴史」を書いたカルピニは、イティルはサライ・バトゥのことでキプチャク・ハーン国の首都、ボルガ川の河口にあると書いている。砦のあったサルケルをイティルだというロシア研究者も多い。10年ほど前、ボルガ川のカスピ海河口南端にある都市キーロフスキーの沖にあるチースタヤ・バンカ島で防塁と古墳の一部が見つかったと云うニュースが入っている。 |
【ハザール王国の国を挙げてのユダヤ教への改宗】 | ||
但し、「東ローマ帝国、ハザール、イスラム帝国の鼎立」は、ハザール帝国に常に脅威を与え続けていた。外交的な駆け引きが続き、ハザール帝国は、東ローマ帝国との関係を強化して、姻戚関係を結び皇帝の擁立に介入した。これによりハザール人ハーフの皇帝(レオン4世)も生まれた。後にキリル文字を作りルースへの布教を行った宣教師キリルをノブゴロド公国に遣わしたポティウス司教もカザール人だった。イスラム帝国は、ボルガ中流に追いやられたブルガール人の王国(もう一つはダニューブ・ブルガール王国があった。現ブルガリアに続く)へ使節を送り、北からのハザール撹乱を画策した。しかし8世紀は大きな政治的変動は起きなかった。 ハザール帝国は特段の宗教を持たなかったようである。それが為に、西の東ローマ帝国の原理主義的キリスト教、南のイスラム帝国のイスラム教にイデオロギー攻勢をかけ続けられていた。東ローマ皇帝とは姻戚関係にありながら、首都イティルには交易に従事するイスラム教徒の居住区があった。クリミアには、ユダヤ人のコミュニティがあった。ハザール王国は、次第に「宗教的な干渉」を受けるようになった。 720年、東ローマ帝国のレオン3世はユダヤ教徒のクリスト教への強制改宗を行った。これにより、多くのユダヤ教徒がハザール帝国の首都イティルに逃げ込むことになった。この頃、大カガン、ブランは奇策を打った。大カガンは、3宗の高僧を集め論争を行わせた。どの宗教が最も優れているのか、決着がつかなかった。そこで、各宗の高僧を一人づつ呼びたし、自宗教の次にどちらの宗教が真理に近いかを聞いた。クリスト教の聖職者はユダヤ教と答えた。イスラム教の法学者もユダヤ教と答えた。ユダヤ教のラビは、答えようとしなかった。そこで、大カガンは国教をユダヤ教に定めた、との逸話が伝えられている。 740年頃、カスピ海沿岸のハザール王国の王オバデア(ブランの孫)は、自分たちは「血統的にもアブラハムの子孫」であるとして「ユダヤ教に改宗」宣言し、国民教化に乗り出した。ハザール帝国はこうしてユダヤ人以外のユダヤ教国家となった。ハザール帝国は、8世紀末から9世紀にかけて、全国民がユダヤ教に改宗してしまうという、世界史上例を見ないことを成し遂げた。(「ハザール王国の歴史」、「<ユダヤ問題特集第2章>世界史のタブーである東洋系ユダヤ人と白人系ユダヤ人のルーツ」を参照する。目下、ほぼ転載)。 国家的な「ユダヤ化政策(改宗政策)」を推し進めたハザール王オバデアから200年たったヨセフ王時代の書記は、以下のような記録を残し、ハザール人は全トルコ民族の先祖であるトガルマを通じ、ノアの長男セム(黄色人種)ではなく第3番目の息子ヤペテ(白人種)の直系子孫であることを断言している。
このことに関し、イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエル共和国が建国される以前の1944年に「ハザリア」という著書を出版し、次のような見解を発表していた。
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【その後のハザール王国の国を挙げてのユダヤ教への改宗】 |
ところが、ハザール帝国は、ユダヤ教国家となって以降次第に衰退していくことになった。9世紀中頃、ハザールの版図であったウクライナはルスの手に落ちた。ルス人がキエフに来て勢力を伸ばし、周辺のスラブ人を支配するようになった。その後、ノブゴロド公リューリクの息子オレグが来て先人のルス人を殺しキエフを占拠し、882年、キエフ公国を建国した。 ところで、カザール帝国のユダヤ教徒は何処へ向ったのか不詳となっている。 |
9世紀、突然、スカンジナビアの民は大挙して南下を始めた。北海ルートは海のバイキング、ノルマンと呼ばれた。東は川のバイキング、ルスと呼ばれた(ルーシ。イスラム教徒はバラング人と呼んだ)。適当な大きさの小島を先ず占領し、そこを補給基地として本土を襲撃した。条件が良ければ襲撃地に住みこみ、現地人と同化していった。襲撃に失敗すれば、交易を行った。バルト海を渡ってヴォルコフ川を遡り、イルメン湖の小島に居留地を作った。ホルムガルドと名づけられた。後のノブゴロドである(862年ノブゴロド公国)。更に遡って南下し、迷路のような現在のカリーニン一帯の湿地帯からボルガ川やドニエプル川の上流を見出し、カスピ海・黒海へと向かった。 ボルガ川ルートは、勇敢なブルガール人やカザール人が居る上にカスピ海に注いでいるため、ルス人は熱心ではなかった。しかもカザールのカガン・ベクは、東ローマ皇帝テオフィリスに使者を送り建築家と職人を求め、ドン川(ボルガ川と繋がっている)下流のサルケルに砦を築いたのである(1930年代、ロシア共産党はそこにチムリャンスク貯水池を作り、サルケル砦を水没させた)。一方、ドニエプル川ルートは、トルコ系より大人しい農民であるスラブ人が住んでいた。しかも黒海に繋がり、その先はコンスタンチノープルがある。ルス族は、スラブ人を捕まえて、カザールの首都イティルの奴隷市で売った。そうして、次第にルス族はスラブの地に住みこみ、やがて同化してゆく。何度かコンスタンチノープルを包囲したが果たせず、逆に10世紀末には、ビザンチン教会の教えを受け入れ、ルス人はロシア人となっていった。 話の流れとは外れるが、スラブ人を狩ったのはルス族ばかりではない。西のフランク王国もそうだ。狩ってフランス東北部のヴェルダンに集め、マルセイユ経由で、東ローマやイスラムへ売りに行った。コルドバには大きな奴隷市場があった。奴隷売買の仲介をするのはユダヤ教徒の仕事だったが、それは彼らがイスラム圏にもキリスト圏にも出入りできたからだ。ここにも奇妙な三つ巴が見られる。もともと、古代ローマでは帝国内のラティフンディウム(大土地所有者)がビラ(農園)で働かせる労働力の供給を求めていた。始めはゲルマン人を奴隷とした。西ローマが滅んでも、東ローマや地中海沿のイスラム圏では要求は増大する一方だったのだ。一昔のゲルマン族やスラブ族はクリスト教徒ではないので、遠慮なくやった。英語の slave が、スラブ( Slav )に似ているのは偶然ではないのである。 |
【「N・M・ポロック説」】 | |
1966.8月、、自然科学の教科書の翻訳者であり、出版会社から頼まれて本の校正もしていた学者にしてアシュケナジー系ユダヤ人であるN・M・ポロックが、イスラエル政府に次のように抗議した。
これを仮に「N・M・ポロック説」とする。イスラエル政府の高官は、ハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後にその重要証言をもみ消そうと画策した。ポロックは自分の主張を人々に伝えるため、その生涯の全てを費やしたという。 この説に拠ると、「アシュケナジー系ユダヤ人」が非セム系民族となり、現在、世界中に散らばっている“ユダヤ人”と呼ばれている人間の90%以上が、本来のヘブライ人とは全く関係のない異民族ということになってしまう。こうして、「N・M・ポロック説」は、恐るべき発言となった。と同時に、「キリスト殺し」の汚名を背負つてきたユダヤ人論から免責される可能性も生まれた。こうして、両刃の剣的発言となった。 |
【アーサー・ケストラー氏の指摘】 | |||||||||
木村愛二氏の「(その61)『ユダヤ人』の九〇%はタタール系カザール人だった」を参照する。
「白人系ユダヤ人の謎」に挑戦したケストラーは、1905年にブダペストで生まれ、1922年、ウイーン大学に入学。その頃からシオニズム運動に関与し、1926年にはパレスチナを訪問している。それは、自分が聖書で言うユダヤ人であるとの自覚に拠っていた。この履歴からは、決していわゆる「反ユダヤ主義者」などではないことが判明する。
と言うことを解き明かした。こうなると、イスラエルの45%の層(アラブ人とセム系ユダヤ人を除く)と世界中の大多数のユダヤ人は、血縁的に言って、モーセ、ソロモンの部族とは全然関係がないことになる。更に、スファファディー=ユダヤのみが、血筋からして古代ヘブライ人の末裔であると考えられ、ワイズマン、シルベール、ベン=グリオン、その他多くのアシュケナジー系シオニストが長い間恋焦がれてきた故郷は、彼らのものではなかった、ということになる。 木村氏は、次のように述べている。
ケストラーは、十世紀のアラブ支配のウマイヤ朝時代にコルドバのカリフの総理大臣だったユダヤ人、ハスダイ・イブン・シャプルトと、時のカザール王ヨセフとの間で交わされたヘブライ語の手紙「カザール書簡」に対しても、「この書簡の真偽は論争の的であったが、現在では後世の書写人の気まぐれをそれなりに斟酌した上で、大体受け入れられている」と記し、同時代のアラブ側の歴史資料などと比較検討するなど、詳しい考証を行なっている。 ケストラーの「第13支族」は、科学や思想が中心のケストラーの著作としては異色の書で、その内容は世界史の常識・認識を根底から揺さぶるほどの問題作であり衝撃を与えた。絶賛される他方で翻訳出版を控えた国も出た。
ウォール・ストリート・ジャーナルも同じように称賛していた。
但し、ただしニューヨーク・タイムズの書評の扱いに関しては、先に紹介したユダヤ系ジャーナリストのリリアンソールが、「書評欄の片隅に目立たないように押しこめられていた」と批判している。リリアンソール自身も、ケストラーより二、三年先に『イスラエルについて』を著し、次のように指摘していたという。
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【アーサー・ケストラー氏の変死】 |
1983.3月、ケストラーは夫人とともに謎の死を遂げた。当時の新聞の死亡記事に記載された彼の多くの著作リストの中には、この「第13支族」は省かれていた、という。ケストラーは、「『第13支族』を世に問うた故にある筋により政策的に消された」と窺うべきであろう。 |
【宇野正美氏、石上玄一郎氏、松岡正剛氏らが「ケストラーのカザール起源説」紹介】 | |||
宇野正美氏は、ケストラーの「第13支族」の邦訳「ユダヤ人とは誰か」(宇野正美 訳、三交社)を出版、自著「古代ユダヤは日本に封印された」も出版し、ケストラー説を紹介した。石上玄一郎氏も「彷徨えるユダヤ人」(レグルス文庫)の中でケストラー説を改めて紹介した。
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【ユダヤ人の遺伝的起源研究】 | |
「亜空間通信1015号」(2005.5.18日付)の木村愛二氏の「英米イスラエルの遺伝学者がユダヤ人の遺伝的起源を中央アジア」を転載しておく。
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【イギリス植民地担当国務大臣・モイン卿の主張と運命】 | |
木村愛二氏の「偽イスラエル政治神話その23、2章:20世紀の諸神話(その11)4節:"民なき土地に土地なき民を"の神話(その1)」を転載する。
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【木村愛二氏の指摘】 | |
木村愛二氏の「偽イスラエル政治神話』(その33)訳者解説(その1)」を転載する。
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【カザール人考】 | |||||||||||||||||||||||||||
「ユダヤ人は彼らの書物において、自分たちは古代イスラエル人の末裔ではないと認めている!」。
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(私論.私見)