JTB職員・大迫辰雄

 更新日/2023(平成31.5.1栄和/令和5).3.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「親ユ家日本人考/JTB職員・大迫辰雄その他考」をものしておく。


【JTB職員/大迫辰雄】
 Jun.16, 2017/「“命のビザ”を繋いだもうひとつの物語、大迫辰雄社員の思いを今・・・ -前編-」、。
 76年の時を経てお迎えしたお客様~新たな交流へ~「杉原サバイバー」ソニア・リードさんのご息女がJTBに来社

 「素敵な日本人へ」というメッセージが添えられた、1枚の写真。第二次世界大戦中、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人たちを日本へと運んだJTB職員、大迫辰雄のアルバムに収められていたものだ。写真に写る女性の名前はソニア・リードさん。当時のリトアニア領事代理、杉原千畝が独断で発行した「命のビザ」を手に、ウラジオストクから日本を経由してアメリカへと渡った、いわゆる「杉原サバイバー」の1人だ。そして今年の春、亡き母の想いを胸に、ソニアさんの2人のご息女が日本にやってきた。

 【76年の時を超えて、再び日本へ】

 春の訪れとともに、アメリカから来日した2人の女性、デボラさんとシェリーさん姉妹。彼女たちの母ソニア・リードさんは、第二次世界大戦中にウラジオストクから日本を経由してアメリカへ亡命したユダヤ人たちの1人だった。そして彼女たちの人生にささやかな貢献を果たしたのが、ウラジオストクから日本までユダヤ人たちの旅の案内役を請け負った、JTBの前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローの職員、大迫辰雄。荒波にもまれる連絡船の上で、乗客たちの恐怖と疲労を少しでも和らげようと献身した大迫に、ユダヤ人たちは感謝の気持ちを添えて写真を贈った。その中の1枚、ソニア・リードさんの写真の裏側に書かれていたのが「私を思い出してください。素敵な日本人へ」というメッセージ。その言葉通り、大迫は贈られた写真をひとつ残らずアルバムに収めて、生涯大切に保管していた。そのアルバムは現在、敦賀市の「人道の港 敦賀ムゼウム」に寄贈されている。

 ウラジオストクから日本へ逃れたソニアさんは、敦賀から横浜、横浜からアメリカ東海岸へと移り住み、3人の子供をもうけた。そのうちの2人が、デボラさんとシェリーさん姉妹だ。夫の仕事の関係で生前に何度か日本を訪れたという母ソニアさんから、日本の美しさを何度となく聞かされて育った2人は、いつか日本へ行ってみたいと憧れていたそうだ。そしてついに夢が叶い、初めての日本訪問が実現した。

 【偶然見つけた1枚の名刺】

 今回2人が来日するきっかけとなったのは、敦賀市からの招待によるもの。2人はユダヤ人たちが最初に上陸した福井県敦賀市から出発して、日本各地の観光名所をめぐったあと、最後に東京にあるJTB本社を訪問。大迫辰雄の足跡をライフワークとして追いかけるジャーナリスト北出明さんの案内で、天王洲にあるオフィスへやってきた。東京湾を見渡す応接室で、髙橋広行社長とあいさつを交わす。

 「長旅でお疲れでしょう。初めての日本はいかがでしたか?」という髙橋社長の問いに、デボラさんは、「今回の旅は、私たちの期待をはるかに超える素晴らしいものでした。行く先々どこも美しい場所ばかりで、しかも桜が満開で。岡山の庭園、京都の哲学の道……。こんなに素敵な景色は見たことないわ、と思ったら、次の日にはもっと素晴らしい場所があって、毎日驚きの連続でした」と、声を弾ませた。「実は、お渡ししたいものがあるんです」。そういってデボラさんが取り出したのは、1枚の名刺だった。「旅の出発直前に、皆さんにお見せする家族写真がないだろうか亡くなった父母の遺品を引っ張り出したところ、連絡船や母の写真に紛れて、1枚の名刺が出てきたんです。思ってもみなかったので、びっくりしました」(デボラさん)。

 おそらく、ソニアさんから写真をいただいたお礼として、大迫が手渡したのだろう。ウラジオストクの連絡船上で、大迫から母ソニアさんへ渡された1枚の名刺。表面こそ茶色く変色しているものの、角はピンとまっすぐ、破れたようすもない。76年という長い年月の間、ソニアさんが大事に保管していたことが伺える。裏を返すと、大迫の直筆で「大迫辰雄」の文字。控えめだが力強いその筆跡は、まるで大迫の人柄を表しているかのようだ。 「母は生前、私たち子供にも戦争当時のことをほとんど語ることはなかったので、名刺の存在はまったく知りませんでした。こうして名刺を目の前にして、母にとって非常に重要な意味を持っていたのだと実感しています。70年以上も大切に残していたわけですから。姉が名刺を見つけたときには、家族全員で喜びました。そしてこの名刺が、今度はJTBグループ社員の皆さんの励みになってくれればと思います」(シェリーさん)。「JTBでは現在『Perfect Moments, Always(=感動のそばに、いつも)』というブランドスローガンを掲げ、常にお客様のために尽くしていますが、そうした思いは76年前、我々の先人たちの手によってすでに始まっていた。この名刺はまさにそのことを裏付ける証です。お母さまが大切にしていた貴重な宝物を、今回お届けくださったことに心から感謝しています。この先ずっと大切に保管し、次の世代の社員たちへのメッセージとして伝えてゆきたいと思います」(髙橋社長)。さらにデボラさんからもうひとつ、髙橋社長へサプライズ。ユダヤ人を運んだ船や、若かりし母ソニアさんの姿を収めた写真をプリントした、白い抹茶碗が贈られた。発見した写真をもとに、デボラさんが手造りしたという。「大迫辰雄さんは数々の困難にもめげず、荒波を乗り越えて、自分たちの仕事を懸命にまっとうした。誰からの助けも得られず、命からがらヨーロッパを逃れてきたユダヤ人にとって、船の上で初めて出会った人のやさしさがどれほどありがたいものだったのか、計り知れません。ですから、私たちも喜んで大迫さんの名刺をJTBにお返しすることにしました。私たちには、名刺がなくても大丈夫。大迫さんの思い出は、母の思い出とともにずっと胸にしまっておけますもの。それに、こうして名刺をJTBにお返しすることで、世代を超えた交流が実現したわけですからね」(デボラさん)。

 後編に続く
 素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~
 ※社名・肩書きは取材当時のものです。

  “命のビザ”を繋いだもうひとつの物語、大迫辰雄社員の思いを今・・・ -後編-
 76年の時を経てお迎えしたお客様~新たな交流へ~
 「杉原サバイバー」ソニア・リードさんのご息女がJTBに来社

 今年の春、デボラさんとシェリーさんという2人の姉妹が来日した。彼女たちの母ソニア・リードさんは、第二次世界大戦中、JTB職員大迫辰雄が、ウラジオストクから日本へと案内したユダヤ人の一人だ。来日後、天王洲のJTB本社を訪れた2人の口から語られたのは、76年たった今でも引き継がれた日本人の『思いやりの心』だった。

 -初めて訪れた日本の印象を聞かせてください。

 デボラさん:

 敦賀では、市長さんをはじめ市民のみなさんが私たちを迎えてくださいました。敦賀港では、ヨーロッパを逃れ、無事に日本へたどり着いた母や何千人ものユダヤ人たちのことを思うと、自分がここに立っていることに感慨深いものを感じました。今回の旅では思い出に残ることばかりですが、一番印象に残っているのは日本の人々の温かさです。戦争中、母やユダヤ人たちに、人々がどれだけ親切にしてくれたか、どれだけ助けになってくれたか……、そして私たちにも同じように、出会う人全員が優しくしてくれて……。

 シェリーさん:

 戦時中、母や大勢のユダヤ人たちが感じた日本人の親切心が、76年たった今でも、同じように引き継がれている。しかも、それが今回日本を訪れた私たちにも注がれていることを、敦賀の人々やJTBの方々との出会いから強く感じました。

 -お2人が感じた経験は、まさにJTBの企業ミッション――地球を舞台に、人々の交流を創造し、平和で心豊かな社会の実現に貢献する(True creation of multicultural exchanges can contribute
to the harmony and understanding of global society)を象徴していると言えますね。

 シェリーさん:

 今回の旅で、日本人の思いやりや寛容は、世界中の人々が目指すべき理想の姿だと強く感じました。その思いやりは、私たち外国人に対してだけではなく、日本人同士でも互いに示しあっている。JTBのスローガンにもあるように、一人ひとりがお互いに思いやることによって世界に協調が生まれるのだと思います。まさに今こそ、世界が学ぶべきだと思います。

 デボラさん:

 残念ながらどの時代にも至難というものはあって、現代もその例を免れません。けれど、ユダヤ人に起きたことは二度と起きてはならない。多くのユダヤ人を死から救ってくれた杉原さん、そして彼らを日本へと導いてくれたJTBの方々、さらに大勢の日本人が、さまざまな形でユダヤ人を救ってくれました。彼らは勇気をもって行動しました。これこそが、今の時代に輝く希望の光だと思います。今日も、助けを必要としている人々は大勢います。彼らに手を差し伸べること、罪のない犠牲者をこれ以上増やしてはならないということを、世界は日本から学ぶべきだと思います。

 -いま世界では政治的な混乱を迎えていますが、そのような時代において、母ソニアさんの物語や、今回の旅はどんな意味を持つと思いますか?

 シェリーさん:

 今回の旅の間、姉ともよく話していたのですが、私たちがいま強く感じるのは『Never again』――同じ過ちを繰り返してはならないということ。杉原さんや大迫さんから現代の私たちが学ぶべきことは、たとえ国が違っても、辛い状況におかれている人々に助けの手を差し伸べるということです。たとえ自らを犠牲にしてでも、正しい行いをすること。彼らの行動は、現代の私たちにとって素晴らしいお手本だと思います。

 デボラさん:

 妹がいうように、『Never again』と繰り返し語り続けることが重要だと思います。そのためにも教育はとても大事。直接戦争を体験していない世代にも、またその先の世代にもメッセージを送り続ける。歴史上の出来事を過去のものとはせず、現代に甦らせて、誰かを傷つけるような行いがなくなり、互いに助け合う。そんなメッセージを可能にするのが、教育の力なのです。

 -もし、母親のソニアさんが生きていて、2人もこうして日本人の温かさを肌で感じているのを見たら、何と言うでしょう?

 デボラさん:

 母はとてもおおらかな人で、日本をとても愛していましたし、日本の美意識というものを心から理解していました。いま私たちと一緒にいてくれたらと思います。もし母が生きていたら、きっとJTBグループ社員の皆さんに心から感謝の意を伝えていたでしょうね。

 シェリーさん:

 そして、もし大迫さんも生きていたら、私たちからも感謝の気持ちを伝えたい。あなた方の献身のおかげで、何千というユダヤ人の命が救われ、さらに何万もの子供たちの命がつながれていったのですから。

 デボラさん:

 最後にもう一言、言わせてください。北出明さんのライフワークこそ、教育の重要性を象徴していると思います。彼はかつての上司だった大迫さんからアルバムを譲り受け、写真に写っている人々を探し出すことに情熱を注いできました。そして彼らユダヤ人たちの物語を発掘し、関わった日本人の物語を本にして、世間に伝えていった北出さんに、心から感謝しています。彼が長年続けてきたことが、まさに教育そのもの。彼がいなかったら、私たちもこうして日本に来ることはなかったでしょう。彼が払った膨大な努力と功績に、心から拍手を送りたいと思います。

 【次の世代へつなぐ、コミュニケーションの輪】

 JTB本社ビル訪問のあとは、和やかなムードのまま隣のビルに移動。今回、JTBグローバルマーケティング&トラベルの発案で、デボラさんとシェリーさんを迎えるささやかな交流会が開催かれた。ジャパン・ツーリスト・ビューローの流れを引き継ぎ、現在JTBで訪日インバウンド事業を専門とするJTBグローバルマーケティング&トラベルの社員たちは、いわば大迫辰雄の後輩。会場のコミュニケーションルームには40人を超えるメンバーが集まり、デボラさんとシェリーさんを温かい拍手で迎えた。 「お2人をお迎えできて、非常に光栄です」と座間社長があいさつし、2人に花束を手渡す。76年前に大迫辰雄がソニアさんを迎えた時の風景が、いまここで再現されたかのようだ。戦争体験がない若い世代にとって、JTBが戦時中ユダヤ人の輸送に関わった事実は知っていても、その体験に直接かかわる人々と出会うのは初めて。これまでは歴史上の出来事とだと思っていたことが、いま自分たちの目の前に、現実として現れた。戦争中に母ソニアさんが感じた感動をデボラさんとシェリーさんが追体験したように、彼らJTBグループ社員にとっても、76年前の大迫辰雄の気持ちを肌で感じる機会となった。「皆さんの先輩である大迫さん、そして名前は知られていませんが、彼と共にユダヤ人の亡命に携わってくださった多くのみなさん、彼らは本当に多くの人々の人生を変えてくれました。そして彼らの跡を継ぐ皆さんも、ぜひお手本にしてください。機会のあるごとに、あらゆる手段を尽くして他人を助けることができるのだと。そしてそれを可能にすることができるのだと」(デボラさん)。

 2人の話を聞いて、質問を投げかける社員

 「母ソニアさんの物語を、お2人はこの後どうやって伝えていこうと考えていますか?」 という質問が、女性社員から投げかけられると、シェリーさんはこう答えた。 「実は、姉と2人で、学校の子供たちと語り合う活動を行っています。子供たちは学校の様子を話し、私たちは母の話を語って聞かせる、というもの。単純なことですが、こんな風に分かち合えるのは素晴らしいことです。やがて彼らがメッセンジャーとなって、母の物語を自分たちの世代、そして未来の世代へと伝えていってくれることを願っています」 。

 ここでも語られたのが「Never again――決して繰り返してはならない」というメッセージ。戦争の悲劇はして過去のものではなく、今まさに、世界のどこかで誰かの身の上に起きつつある「現実」なのだ。そしてまた、2人の滞在が証明したよに、大迫が76年前に示した思いやりの心もまた、今なお生き続ける「現実」。デボラさんとシェリーさんのいう「世界の模範」である日本の心を、世界へ伝えるという使命が自分たちにゆだねられていることに、社員ひとりひとりが心動かされたようだ。

 第五営業部BoutiqueJTB営業課 椎名朝美さん
 「自分が旅行業界で心がけてきたホスピタリティや、どんな状況でもお客様一人一人のためにサービスを全うすること、そうした思いが大迫先輩の姿重なって、時を超えてもサービス業の想いが変わらないことを感じて感動しました」(第五営業部BoutiqueJTB営業課 椎名朝美さん)
 ミーティング・インセンティブ営業部コーポレート営業二課 義道有希さん

 「自分の命を顧みずに、世界の人々のために行動を起こせるというのは勇気がいることだと思いますし、なかなかできないことだと思います。今回、ソニアさんが、76年という長い時を経てまで当時の出来事を思い続けてくれていることや、ご家族が日本への想いを変わらずに持ち続けてくれていることはとても光栄に思いますし、これから日本に来たお客様が、そうした気持ちをもってくださるように頑張っていきたい、というモチベーションにつながりました」(ミーティング・インセンティブ営業部コーポレート営業二課 義道有希さん)

 第二営業部欧州シリーズ課Culoma Danieleさん

 「ツアーに添乗した際に、日本が素敵だなと思ってくださったお客様から感謝の言葉をいただくと、非常にうれしいです。私もできれば大迫先輩と同じように、将来のJTBグループ社員の見本になれればといいなと思いました。なかなかできないことだと思いますが、ゴールは大きくもって目指してゆきたいと思います」(第二営業部欧州シリーズ課 Culoma Danieleさん)

 大迫辰雄の名刺を大事にしまっていたソニア・リードさん、ソニアさんの写真をアルバムに大切に保管していた大迫。交わした言葉は少なくとも、76年にわたって2人は静かな心の交流を続けてきたようだ。そして、母ソニアさんから始まった旅は、デボラさん・シェリーさんに引き継がれ、敦賀から天王洲へと導いた。国際社会の在り方が問われる今だからこそ、「コミュニケーション」が果たす役割が大きいことを、1枚の名刺があらためて教えてくれる。「私を思い出してください」という写真の裏側に残されたメッセージの通り、敦賀の人々にも、デボラさん・シェリーさん姉妹にも、そしてJTBグループ社員にも、戦争中にユダヤ人と日本人が体験した交流は鮮やかな記憶として生き続けると願いたい。そて、今回の旅から生まれた交流が、日本と世界を結ぶ新たなコミュニケーションの出発点となるだろう。


【ヘブライ文化研究者/小辻節三(こつじてつぞう)】
 1940年、第二次世界大戦のさ中、欧州の多くのユダヤ人が外交官・杉原千畝の発給したビザを使ってナチスドイツによるホロコーストから日本に逃れた。しかし短期ビザだったため欧州へ強制送還される恐れがあった。小辻氏は当局に掛け合ってユダヤ人の滞在延長を認めせ、米国などへの渡航を助けた。数千人が助けられたと云われる。当時の日本政府がドイツと同盟関係にあったことから小辻氏はスパイ容疑で拘束され、拷問を受けたこともあったという。1973年に74歳でなくなるまで全国を講演して回るなど、ユダヤ人に対する偏見解消に尽力した。死後はエルサレムに埋葬され、杉原と並びユダヤ人の恩人とされている。次女/てる子。




(私論.私見)