親ユ家日本人考/外交官・杉原千畝、陸軍軍人・樋口季一郎、JTB職員・大迫辰雄その他考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和/令和5).3.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「親ユ家日本人考/外交官・杉原千畝、陸軍軍人・樋口季一郎、JTB職員・大迫辰雄その他考」をものしておく。


【樋口季一郎】
 2018.9.16日、「文藝春秋/2018.10月号 」の早坂隆「ユダヤ難民を救った「もう一人の日本人」を知っていますか?」参照。
 「日本人によるユダヤ難民救出」と言えば、「命のビザ」を発効したことで有名な、杉原千畝の名前を思い浮かべる人がほとんどであろう。だが、杉原千畝がユダヤ人を救った2年前に、「ユダヤ人を救ったもう一人の日本人」がいることをご存知だろうか。その人こそ「忘れられた中将」こと陸軍軍人・樋口季一郎である。しかも、樋口は「ユダヤ難民救出」の他、「アッツ島の戦い」、「占守島の戦い」においても極めて重要な役割を果たした。大東亜戦争(太平洋戦争)史を通観しても、これほど劇的な生涯を送った軍人は少ない。
 杉原千畝の2年前に難民を救出

 1938(昭和13).3月、杉原による「命のビザ」発給の2年前、ソ満国境の地・オトポールに逃れてきたユダヤ難民に対し、当時、ハルビン特務機関長の任にあった樋口は、人道的な見地から特別ビザを発給するよう満州国に要請。樋口は、ドイツと日本の関係性を憂慮するあまりユダヤ難民の入国を拒んでいた満州国外交部に対しビザ発給のための指示を与え、満洲国に受け入れさせ、難民を移送するための特別列車の手配を要請脱出ルートを開き、立ち往生していたユダヤ人難民を救出した。結果、2万人にもなるユダヤ難民が命を救われた。これが「オトポール事件」である。

 今、樋口の功績を称え、銅像を兵庫県南あわじ市などに建立する計画が進んでいる。銅像の設立委員には、孫の明治学院大学名誉教授の隆一氏をはじめ、南あわじ市・守本憲弘市長や、世界的権威のアメリカの歴史学者・エドワード・ルトワック氏らが名を連ねている。 ルトワック氏は、銅像を設立する理由について次のように語っている。

 「樋口は混乱して予測不能の困難な時代に率先して勇気ある大胆な行動を取った。 彼に助けられ、戦後、大使や科学者になった者も少なくない。しかし、ヤド・ヴァシェム(ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺の犠牲者を追悼するためのイスラエルの国立記念館)から英雄に処されていない。 いつ、どこにも良い軍人はいた。 樋口は広く顕彰されるべきだ」。
 北海道を「守った」

 その後、樋口は北方軍司令官を拝命。昭和18年5月には、アッツ島の戦いを指揮することとなった。樋口は現地軍への増援を大本営に求めたが、東京の上層部はこれを棄却。アッツ島はあえなく玉砕した。こうして樋口は「先の大戦における最初の玉砕戦の司令官」となった。多くのユダヤ人を救った男は、部下の日本人を助けることができなかった。樋口は号泣したという。

 終戦直後に勃発した占守島の戦いでは、樋口は徹底抗戦を指示。この戦いにより、ソ連軍の暴走は食い止められた。もし、この戦いがなければ、北海道が分断されていた可能性は否定できない。

 樋口とは先の大戦において、これほど重要な役割を演じた人物であった。私は樋口の生涯を考えれば考えるほど、彼ほど多くの歴史的教訓を私たちに示唆してくれる人物も稀有なのではないかと感じる。

 
そんな樋口は長く「知る人ぞ知る」存在であったが、近年では関心を持つ人々がネット社会を通じて着実に増えつつある。そんな中、今年6月、樋口の孫にあたる隆一氏が初めてイスラエルを訪問し、「ヒグチ・ビザ」によって救出された方々のご遺族と歴史的対面を果たした。 「文藝春秋」10月号 掲載の「もう一人の杉原千畝 ユダヤ難民救出『80年目の迫真証言』」では、隆一氏に現地報告の他、新たな史料や証言についても話していただいた。

 近年は「ソ連の北海道への侵攻を阻止した」との再評価が進んだことから、2020年9月、北海道の石狩に記念館が開設された。

 2021.6.7日、松原夏穂東條英機を納得させた軍人。樋口季一郎は、ユダヤ人難民と北海道を守った」。
 2020(令和2)年9月、北海道石狩市に1人の旧陸軍中将を称える記念館が開館。彼の名前は、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)。1938(昭和13)年、多数のユダヤ人難民を救出しました。ユダヤ人難民救出と言えば、「命のビザ」を発行した外交官・杉原千畝が有名ですが、樋口はその2年前に救出を行っています。また1945(昭和20)年、終戦後に関わらず千島列島の占守(しゅむしゅ)島に侵攻したソ連軍と戦い、北海道を守りました。今回はそんな彼の生涯を紹介します。
 樋口季一郎記念館長に伺う、設立への思い
 樋口季一郎記念館は、北海道石狩市内にある「古民家の宿Solii」(古民家の一棟貸しを行う宿泊施設)内の、蔵を再生して開館。館長の江崎幹夫さんに、記念館を立ち上げようと思ったきっかけを伺いました。「樋口季一郎のユダヤ人難民と北海道の分断をソ連から救った功績は、日本ではあまり知られていません。札幌市の『つきさっぷ郷土資料館』でも紹介されていますが、情報発信の場所として単独の資料館を作りたいと思ったのです。2019(令和元)年春に直系の孫である明治学院大学名誉教授樋口隆一先生に、記念館を開設したい旨をお話したところ、快諾いただき計画を進めました。石狩市は、直接関わりはありませんが、『北海道をソ連から救ってくれた人』なので、この場所でも良いのではと思いました」。
 陸軍将校として、世界各地へ

 1888(明治21)年、兵庫県淡路島の阿万村(あまむら:現南あわじ市)に生まれた樋口季一郎(旧姓奥濱)。陸軍士官学校を経て、幹部養成機関である陸軍大学校を卒業。将来を嘱望され、陸軍将校としての道を歩み始めます。

 1919(大正8)年、情報機関である特務機関員としてロシアのウラジオストクに赴任したのを皮切りに、ハバロフスクや満州国(現在は中国東北地方)のハルビン、ポーランドのワルシャワへ。陸軍将校は外交官のように、見聞や人脈を広める目的で、世界各地を赴任するのが常でした。ウラジオストクでは、ユダヤ人の私邸に住んだことも。白人の有色人種に対する差別が、激しかった頃。日本人に下宿を貸してくれたのは、ほとんどがユダヤ人でした。樋口は、「日本人はユダヤ人に非常に世話になった」と、後年語っています。樋口の任務は、軍事外交上の情報を収集すること。そのために、ワルシャワでは社交界に顔を出すことも業務の1つでした。社交界といえば、ダンスは必修科目。苦手な日本人が多い中、樋口はワルシャワに赴任して早々、ダンスのレッスンを開始。ハバロフスク時代にはピアノを習ったこともあり、楽しみながら修得していきました。ちなみに。出身地の淡路島は、淡路人形浄瑠璃が有名。幼少期は人形遣いに憧れ、元々芸術への関心は強かったようです。子孫には芸術方面で身を立てられた方が多いのも、樋口の影響かもしれません。身長170㎝以上と当時の日本人としては長身の樋口は、ワルツを踊ってもさまになりました。ときには、侍の服装をして会場を沸かすので、社交界の人気者に。こうして情報収集と人脈作りに励みます。西洋文明を柔軟に受け入れ、視野を広げていきました。
 ユダヤ人難民救出~オトポール事件
 関東軍司令部へ、上司は東條英機

 3年程ワルシャワで過ごし、国内外勤務を繰り返した樋口。
 1937(昭和12)年5月、ドイツの視察旅行に行き、ドイツのユダヤ人迫害を目にしています。同年8月、関東軍※1司令部付のハルビン特務機関長に就任。1か月前の7月には盧溝橋(ろこうきょう)事件が起こり、日中戦争へ。先のドイツとの状況と合わせて、日本の将来に不安を感じていました。政府は中国に対し軍事行動を抑える「不拡大方針」を唱えていましたが、上司で後に首相になる東條英機(とうじょうひでき)参謀長は、拡大方針。樋口は違和感を覚えながら、業務に就きました。
 第1回極東ユダヤ人大会で演説

 しばらくして、樋口は極東ユダヤ人協会会長で内科医のカウフマン博士から、ある要請を受けました。ヨーロッパで、ユダヤ人がドイツの迫害を受けている実情を世界に知らせるための大会を開きたい。それを許可して欲しいとのこと。樋口は了承し、来賓として参加することを決意。

 1937(昭和12)年12月、ハルビンで第1回極東ユダヤ人大会の開催。軍服ではなく平服で登場。「軍人ではなく、1人の日本人」という意識だったのでしょうか。ドイツを批判し、ユダヤ人を擁護する講演を行って、ドイツ外務省の怒りを買います。
 オトポール事件

 1938(昭和13)年3月8日、樋口は満州国との国境にあるソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が現れたとの報告を受けました。人道的には救助したい、しかし軍人としての立場を考えると、行動は慎重にならざるを得ない。結局、自らの失脚も覚悟して、救出を決意。カウフマン博士に食料や衣服の手配を要請し、部下に素早く指示を与えました。南満州鉄道には、救出のための特別列車を出すことを取りつけました。こうして移動ルートを確保。「ヒグチルート」と呼ばれています。そして3月12日、ユダヤ人難民一行がハルビン駅に到着。滞在ビザが出されました。杉原千畝の「命のビザ」発行の2年前です。

 「ヒグチルート」

 ユダヤ人難民はオトポールから満州里まで移動し、南満州鉄道に乗車。このルートは、1941(昭和16)年頃まで使われ、一説には2万人以上のユダヤ人難民を救ったとも、言われています。(樋口季一郎記念館提供)
 東條英機に物申す

 ユダヤ人難民救出後、樋口も覚悟していたように、ドイツから日本政府へ抗議書が届けられ、関東軍司令部から出頭命令が来ました。そこで対面した東條に向かい、こう言いました。「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」(早坂隆『指揮官の決断』148ページ)。東條はその主張に耳を傾け、樋口に懲罰を科すことはせず、事件は沈静化しました。樋口は戦後、東條のことを次のように語りました。(東條さんは)筋さえ通ればいたって話のわかる人である。(同上148ページ) 
 アッツ島玉砕

 太平洋戦争勃発翌年の1942(昭和17)年8月、樋口は北部軍司令官として札幌市に赴任。この頃には陸軍中将に昇進していました。この2か月前の6月、日本軍はアリューシャン列島※2の西端にあるアッツ島とキスカ島を占拠。目的は、米ソの連絡遮断、米軍の北方からの侵略阻止、日ソ開戦時にカムチャツカ半島攻略の基地とするため、でした。

 アメリカとの戦局が激しくなる中、樋口はアッツ島に米軍が攻めてくると予測して、戦闘準備を進めていました。しかし、1943(昭和18)年5月12日、予想の時期より早く米軍が上陸。日本軍は苦戦の上、アッツ島は玉砕。2000人以上の犠牲が出ました。樋口は大本営※3に部隊の増援を依頼しましたが、当時南方との戦いに力を入れており、アッツ島への増援は受け入れられませんでした。

※2 ロシアのカムチャツカ半島から、アメリカのアラスカ半島に連なる、約1930㎞の列島。
※3 日清戦争から太平洋戦争までの日本軍(陸海軍)の、最高統帥機関。
 キスカ島撤退

 増援の依頼を断られたことは、樋口には大変なショックでした。しかし、それを受け入れる代わりにキスカ島の即時撤退を申し出て、承認されました。入念に計画を練り、8月1日無事撤退し、5000人以上の兵士を救いました。樋口は撤退の際、兵器や弾薬の放棄を認めたことが、速やかな行動に繋がりました。軍人にとって武器は、生命同様。それを手放すことを認める樋口は、人命は武器より尊いと考えていたのでしょう。
 占守島の戦い

 1945(昭和20)年、戦局は日本にとって益々厳しい状況になり、8月15日終戦。8月16日、大本営は各方面軍に対し、止むを得ない自衛のための戦闘行動以外、すべての戦闘行為を停止する命令を下しました。さらに、自衛のための戦闘行動も、8月18日午後4時までと期限付き。樋口は指揮官として、部下にこの命令を伝えました。しかし、ソ連が侵攻を止めるとは到底思えなかったのです。千島列島の北東端にある占守(しゅむしゅ)島。ここにいた兵士の多くは、終戦の知らせを聞き、安堵していました。しかし、8月18日未明、ソ連軍が占守島へ上陸。樋口の元へも連絡が届き、現地に次のように連絡しました。 「断固、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」(同上227ページ)。

 自衛のための戦闘として、現場の兵士には戦うことを命じました。日本側は停戦交渉を行いましたが、ソ連は応じず。期限の午後4時を迎え、日本軍はピタリと戦闘を停止しました。日本人の律義さを感じます。結局21日に停戦が成立し、23日から武装解除が始まりました。この戦いで、日本軍はソ連の侵攻を抑え、北海道そして日本を守りました。非常に意味のある戦いゆえに、多くの人に知られてほしいと思います。
ただ、武装解除した後、多くの日本兵がシベリアに抑留されました。多くの犠牲の上に、今の日本が成り立っていることを、改めて感じました。
 戦後、軍人から一般市民へ 
 官邸から漁村へ

 1945(昭和20)年10月、参謀本部と陸軍省が廃止。樋口は半年ほど復員業務※4に就きましたが、解任後は札幌市の官邸を出て、北海道小樽市郊外の朝里(あさり)に、知人のつてを頼り家族で住みました。これまでの生活から一変。自給自足で、家族は地引網を引く手伝いをしたこともありました。

 ※4 戦時に動員した軍隊を平時の体制に戻し、召集した兵士の服務を解くこと。
 北海道小樽市朝里に住んでいた頃の樋口夫妻と地元の方々 (樋口季一郎記念館提供)
 理解を深める、アメリカ

 そんなある日、樋口の元を米軍の隊長が訪れました。樋口が率いた部隊の米軍捕虜に対する行動を、調査に来たのです。結局、捕虜に対する虐待は一切存在しませんでした。樋口は部下に「軽挙妄動は許さない」と、軍の規律を徹底させました。パンを食べたい捕虜のために、小麦粉とパン釜を提供したことも。長年の海外生活で、異文化への理解もあったのでしょう。さらに、終戦時における処理にも一切の不正がないことが明らかになり、アメリカ側の樋口に対する評価は上がっていきました。
 戦犯にしたい、ソ連。窮地を救ったユダヤ人

 対してソ連は、樋口に対し戦犯引き渡しを要求。特務機関員としてソ連に滞在していたため、スパイ罪を適用させる計算でした。その窮地を救ったのが、樋口に命を救われたユダヤ人たち。世界ユダヤ協会(本部はニューヨーク)が、ソ連の要求を拒否するよう、アメリカ国防総省に訴えました。結果、樋口に対する戦犯引き渡し要求は、立ち消えになりました。
 アッツ島と共に生きる

 1947(昭和22)年に、朝里を離れ、宮崎県など何か所か住まいを変えました。1968(昭和43)年、札幌護国神社の「アッツ島玉砕雄魂之碑」除幕式・慰霊祭に参加。その後東京都文京区に落ち着き、1970(昭和45)年82歳で老衰で亡くなりました。自室には、アッツ島を描いた水彩画が飾られており、毎朝これを拝んでいました。愛用の将棋盤の裏にも、亡くなった兵士を悼む俳句を書き残しています。戦後何年経っても、樋口の中ではアッツ島の戦いは続いていたのです。

 樺太柳の将棋盤の裏面に書かれた、俳句 「樺太に玉とむれなお輝るやなぎ 季一郎 昭和卅八年五月四日 於大磯」 昭和38年当時、樋口は神奈川県中郡大磯町に在住。
大意「樺太の地で、群れをなして散った多くの兵士たちの上には、今もなお柳の木に朝日が当たって輝いていることよ」 「玉」に玉砕を掛けています。(樋口季一郎記念館提供)
 おわりに

 以前、根井三郎(ユダヤ人難民を救出した外交官)について記事にした際、樋口のことを知り、このような軍人がいるのかと正直驚きました。人間を肩書や一面だけで判断してはいけないと、考えを改めると共に、樋口のような広い視野を持てる人間でありたいと思いました。最後に、江崎館長に「樋口のどのようなところに、惹かれましたか?」と質問しました。「軍人それも幹部という難しい立場にいながら、一貫した人道主義者であり、人命を一番大事にしたところです」
<協力>
明治学院大学名誉教授 樋口隆一氏
樋口季一郎記念館(北海道石狩市) 記念館が併設されている、古民家の宿Solii
<参考資料>
・樋口隆一編著『陸軍中将樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍』(勉誠出版、2020年)
・早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』(文芸春秋、2010年)
・中日新聞社会部編『自由への逃走 杉原ビザとユダヤ人』(中日新聞社会部、1995年)
・北出明『命のビザ、遥かなる旅路 杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社新書、2012年)
・日本経済新聞夕刊『旧陸軍幹部の功績に光』(2021年1月9日付)
産経新聞『樋口中将の遺作発見「樺太に玉と群れなお」防衛戦指令官が込めた心情は (2020年11月2日配信)

 2023.7.27日、「満州でユダヤ人を救った陸軍中将(前編):「ヒグチ・ルート」で生き延びた子孫が語る自由への逃走」。
日本人外交官・杉浦千畝が、ナチス・ドイツの迫害を受けたユダヤ人に「命のビザ」を発給する2年前、樋口季一郎陸軍中将が旧満州(中国東北部)で、2万人ものユダヤ難民を救済していた。前編では、生き延びた子孫の証言で明らかになった「ヒグチ・ルート」と呼ばれる救済策に迫る。

もう一人の「東洋のシンドラー」に熱い視線

第二次世界大戦直前、旧満州で、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、もう一人の「東洋のシンドラー」とされる樋口季一郎陸軍中将(1888-1970)の顕彰活動が本格化している。樋口中将の出身地である兵庫県淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮(淡路市)に2022年10月、銅像が建立され、神奈川県鎌倉市の円覚寺の塔頭・龍隠庵にも元平塚市長の吉野稜威雄氏ら有志が顕彰碑を建て、23年5月21日、除幕式が行われた。第5方面軍司令官としてポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道占領と日本の分断を阻止した北海道にも銅像建立計画が進められており、信念を貫き、ユダヤ人を救った樋口中将の功績に熱い視線が注がれている。

「ヒグチ・サバイバル」からあふれた感謝の思い

「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーへの前向き姿勢がユダヤ人救出を可能にした」

2018年6月15日、イスラエルのテルアビブにある「ユダヤ民族基金」本部で、「ヒグチ・ルート」にて満州から生き延びたカール・フリードマン氏の息子、ダニエル・フリードマン氏は孫で明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏と面会し、樋口中将の人道主義へ感謝の思いを伝えた。

「ヒグチ・サバイバル」の息子と樋口中将の孫が感動の面会を果たせたのは、2004年から約3年間、イスラエルの日本大使館に公使として勤務していた水内龍太駐オーストリア日本大使が仲介役を担ったからだった。水内氏は、樋口中将が陸軍ハルビン特務機関長を務めたハルビンのユダヤ人社会のリーダーであり、「極東ユダヤ人協会」の会長を務めた医師のアブラハム・カウフマン博士の息子で、「青年部」リーダーとして活動したテディ・カウフマン氏の知遇を得た。テディ氏は「ヒグチこそユダヤ人の最大の理解者で友人だった」と回想し、ウィーンから満州経由で逃れ、戦後イスラエルに移住したダニエル・フリードマン氏を水内氏に紹介した。水内氏はフリードマン一家と親しくなり、2015年9月に来日したダニエル氏の息子、ミッキー氏と隆一氏を引き合わせた。こうした経験を踏まえて18年の「ユダヤ民族基金」本部でのカール氏と隆一氏との感動の面会が実現したのである。

日本側資料でも登場する「J」字入り旅券のユダヤ人

ダニエル氏は家族宛てに手紙を書いていた。それを元にカール氏は水内氏にダニエル氏の自由への逃亡を説明した。それによると、ウィーンのユダヤ人家庭に生まれたカール氏はジャーナリスト兼写真家として生計を立てていたが、1938年3月、オーストリアがナチスに併合されると、職を失った。同年10月18日、シベリア鉄道に乗るため、ベルリンに行き、他の5人の若者と知り合い、モスクワ経由で上海を目指し、そこからパレスチナへの移住を試みた。6人の若者は「われら6人」と名乗り、シベリア鉄道でロシアから満州国の国境の町、満州里に同年10月27日、到着した際、「J」字のスタンプ入り旅券のために入国審査で引っかかり、満州国から取り調べを受けた。

オーストリアを併合したドイツは、同年10月、ユダヤ人のパスポートに「ユダヤ人」を意味する単語の頭文字「J」と強制的にスタンプを始めた。日本はドイツとは査証免除協定を結んでいたため、ドイツ国籍者はビザなしで入国させていたが、無国籍者となった「J」旅券所有のドイツ系ユダヤ人には通過ビザが必要になった。カール氏らが入国審査で捕まったのは、このためだ。またユダヤ人が日本や満州に渡航する際にビザ(通過ビザ)の発給を求めてウィーンなどの在外公館に行列をなした。

6人は取り調べを受けたものの、電報で救援を依頼した「極東ユダヤ人協会」の支援と満州国の配慮で入国を許され、通過ビザを発行して大連、天津など北支方面への避難が認めたられた。通過ビザを得てハルビンに到着。ハルビンには留まらず、上海まで避難することになったが、大病を患ったカール氏は、途中の天津で定住し、病院の看護師と結婚。ダニエル氏が生まれ、戦後、イスラエル建国前後に移住した。ダニエル氏は弁護士となり、妻のミリアムさんが大学で歴史学を専攻し、カール氏が書いた手紙を元に彼のサバイバルの半生を学位論文としてまとめた。

日本側の外交史料館にも6人の行動を把握した公文書が多数あった。例えば同年10月27日、満州里にシベリア鉄道経由で到着したウィーン出身のユダヤ人6人の件で、満州里の満州国国境警察がハルビンの本部に10月30日付で報告した入国の経緯を在満州里・日本国領事館の松田領事代理が入手し、11月1日付で本省に伝えたものだ。カール氏は、日本側が把握するユダヤ難民の第一号だった。厳密には、「J」字入り旅券を持って満州に入国した最初のユダヤ系ドイツ人だった。

そのほかにも日本側資料には、カール氏ら6人が、ハルビンから1938年11月14日、山海関(さんかいかん)から北支に出国、天津に到着するまでの動向を逐一、ハルビン特務機関を通じて同年8月から陸軍参謀本部第二(情報)部長に転進した樋口中将に報告し、訓令を受けたとみられる形跡があった。

そもそも国境管理は、インテリジェンス部門の守備範囲だ。参謀本部第二(情報)部長というインテリジェンスの総責任者だった樋口中将が難民の入国を把握していたのは当然だろう。またカール氏が天津で受け入れを拒否された場合に備えて、同年11月30日には、大連特務機関長としてハルビンに来た安江仙弘大佐と鶴見憲ハルビン総領事が協議し、海運会社の協力で大連から上海に海上輸送するルートも確保している。これが約2年後に杉原千畝の「命のビザ」で救出されたユダヤ難民が日本に到着後、神戸から上海へ輸送する前例となるが、これも中央、つまり樋口中将からの指令によるものとみられる。カール氏らの「逃走」の舞台裏で樋口中将の影がちらつくのだ。

政策決定の中枢で「ヒグチ・ルート」確立

1938年10月以降、ナチス併合で追われたドイツ・オーストリア系ユダヤ人が「J」字入り旅券を持ち、続々とシベリア鉄道経由で満州に到達した。樋口中将は、カール氏らと同様に、流入するユダヤ難民の動向をハルビン特務機関に監視させ、組織的に流入を制限しようとした満州国に通過または短期滞在など留まることを可能にさせたのである。

さらに避難民が増加する中、近衛内閣は同年12月6日に五相会議を開催した。ユダヤ人の流入を阻止しようとする外務省に対し、樋口中将は国策として「ユダヤ人を差別しない」「ユダヤ人対策要綱」策定に裏方として貢献した。これは、同年1月に東條英機関東軍参謀長名で陸軍が作成した「当面のユダヤ人対策」の延長線上にあり、ナチスのユダヤ人迫害政策から明確に距離を置き、ユダヤ人の通過や移住の可能性を制度的に担保した。

一連のユダヤ難民の救出、上海脱出工作の中心に樋口中将がいたことは間違いないだろう。ユダヤ難民を満州経由で上海に脱出させ、定住するシステムを確立した。世にいう「ヒグチ・ルート」の構築である。ダニエル氏ら満州経由で生存できたユダヤ人たちの子孫は、樋口中将の厚意で生き延びることができたと考えているという。「ヒグチ・ルート」で生き延びた「ヒグチ・サバイバル」である。

樋口中将は同年3月、ソ連・満州国境オトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民を救ったことが知られているが、現場の指揮官としてではなく、むしろ東京の政策決定の中枢で、ユダヤ人避難民の救済システムを考え、最前線の現場に指示を出して多くの命を守った功績を正当に評価すべきだろう。

バナー写真:「ヒグチ・ルート」で逃れたユダヤ難民の息子ダニエル・フリードマンさん(右)と握手する、元日本陸軍中将の故樋口季一郎氏の孫で明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏=2018年6月15日、イスラエル・テルアビブ(時事)

 
 2023.7.27日、岡部 伸「満州でユダヤ人を救った陸軍中将(後編):皇居の刺繍画が伝える「ヒグチ」の功績」。
第2次世界大戦直前の旧満州(中国東北部)で、ナチスの迫害から逃れるユダヤ人に手を差し伸べ、約2万人を救ったと言われる樋口季一郎陸軍中将。後編は、シオニズムを支援したことでゴールデン・ブックに名前が刻まれるなど日本人も知らない樋口中将の功績を伝えたい。

「ヒグチこそ最大の功績者で理解者」

「ヒグチこそがハルビンにおけるユダヤ人の安定的な生活の確立に尽力した最大の功績者で理解者。日本軍人の中で最も親ユダヤ的だった」 2004年から約3年間、イスラエル日本大使館に公使として勤務した水内龍太在オーストリア大使は、イスラエル在勤中に陸軍ハルビン特務機関長だった樋口中将と個人的に親交があったテディ・カウフマン氏から、こんな言葉を聞いた。 ハルビンで、テディ氏の父親、アブラハム・カウフマン博士は、医師であり、ハルビン・ユダヤ人社会のリーダーで、「極東ユダヤ人協会」の会長だった。 1937年8月ハルビンに赴任した樋口中将をカウフマン博士が訪ねた。日増しに激化するナチスのユダヤ人差別と弾圧を訴えるため、「極東ユダヤ人大会」を開催する許可を得る狙いだった。当時、ハルビンは白系ロシア人とユダヤ人が対立し、流血事件も多発していた。36年11月、日独防共協定に調印した日本は、40年に日独伊三国同盟を結ぶ第三帝国に配慮し、ヒトラーが迫害するユダヤ人政策はデリケートな問題となっていた。樋口中将は大会の開催を許し、自身も平服で参加。日本の代表として「ユダヤ人を差別しない」と発表し、ドイツの「ユダヤ人迫害」を強く批判した。陸軍内の親独派から「ナチス批判」を問題視する声は小さくなかったが、樋口中将は「困っている者を助けるのが日本精神」として一蹴。大会後、報道陣に「世界が祖国のないユダヤ民族に一国を与えて幸福を考えない限り、この問題は解決しない」とパレスチナにユダヤ人国家建設を認める発言をした。パレスチナにイスラエルが建設されるのは11年後の48年のことだ。その後、樋口中将は流入するユダヤ難民を救出する英断を下している。 『日章旗のもとでユダヤ人はいかに生き延びたか』(勉誠出版)の著者で日本のユダヤ政策に詳しいイスラエルのヘブライ大学名誉教授、メロン・メッツィーニ氏は「この発言が終戦まで、満州および中国北部におけるユダヤ人の独立性を保障した」と説く。「この大会で、立ち往生していたユダヤ人が満州国への入国許可をもらえた」とし、ドイツの反ユダヤ主義に盲従せず、現実的解決を求めた樋口中将主導の日本陸軍の功績を評価した。

満州でユダヤ人を救った陸軍中将(後編):皇居の刺繍画が伝える「ヒグチ」の功績

シオニズムへの貢献でゴールデン・ブックに

樋口中将の救済発言を受け、カウフマン博士は世界ユダヤ会議に宛てた報告書で「日本がユダヤ人社会を特別に保護してくれる」と報告している。ユダヤ人国家建設を訴えた樋口中将は、カウフマン博士からの推薦で特別に記憶されるべき人物として「ユダヤ国民基金」(JNF)のゴールデン・ブックに刻まれたという。勇気あるユダヤ人保護ではなく、在ハルビン・ユダヤ人社会のシオニズムへの貢献が、その理由であった。 カウフマン博士が1940年1月22日付で「世界ユダヤ人会議幹部」に宛てた書簡では、①ユダヤ人は自由に生活を営み、就業し、独自の民族文化を涵養(かんよう)し、他民族と全く同じ権利を享受②反ユダヤ主義は存在せず、許容されない。反ユダヤ主義のロシア語紙は発禁された③上海のユダヤ人難民は1万8000人④日本はドイツに残された家族の上海移住を許可。上海で労働の意志有する者も同じ⑤日本に新たな難民受け入れの地区提供を要請した――などを伝えている。いずれも樋口中将主導の対策への評価で、日本がユダヤ人社会を保護して、感謝されていたことを示している。 1939年5月にカウフマン父子は訪日し、樋口中将はじめ陸軍関係者と会談した。父子は新たな避難民地区提供を陳情した。その様子を「世界ユダヤ人会議幹部」に報告しているが、ユダヤ難民を移住させる「河豚(ふぐ)計画」に、ユダヤ人側から提案があったことを示している。 父子は38年10月以降に「ヒグチ・ルート」と呼ばれる救済策により、でユダヤ難民が逃れたことに謝意を述べた。そして樋口中将も、自らの行動が多くのユダヤ人の運命を動かしたことを実感した。

家宝となった天皇陛下からの刺繍画

イスラエルにあるカウフマン家の居間には、皇居をモチーフに描いた日本の刺繍(ししゅう)画(タペストリー)が飾られている。陸軍から外国賓客への記念品として贈られたもようで、1939年に訪日した父子が「天皇陛下からいただいた」と伝えている。 日本画家、竹内栖鳳(せいほう)の作品で、日中戦争の恩賞で陸軍大臣から下賜(かし)品として贈られたものと同一とみられる。 45年8月、侵攻したソ連軍に逮捕され、シベリアに抑留されたアブラハム氏が建国とともに移住したイスラエルのテディ氏の元に戻ったのは、戦後16年が経過した1961年だった。満州国崩壊後の混乱の中で、この皇居の刺繍画を最も大切な「家宝」としてイスラエルまで持ち帰ったのは、父子と樋口中将との強い絆の証しと言える。 戦後、父子は日本軍に協力したとして反日的な英米ユダヤ人から非難された。それでも刺繍画を「家宝」として保管したのは、たとえ同胞から批判されても樋口中将への恩義と敬愛がそれを凌(しの)いだからだろう。 また、テディ氏の回想録やハルビンでユダヤ人向けに発行されていた新聞「Jewish Life」には、満州では五族協和で民族融和政策を取り、白系ロシア人とユダヤ人の対立はあったが、日本人とユダヤ人は共存していたと記されている。45年8月、侵攻したソ連が略奪、暴行を繰り返す中、ユダヤ人にかくまわれて生き延びた日本人もいたという。 ナチスは1938年10月、ユダヤ人の旅券に単語の頭文字「J」とスタンプを始めたため、無国籍者となった「J」旅券所有のユダヤ人は通過ビザが必要となり、日本や満州への通過ビザを求めて在外公館に押し掛けた。40年7月に「命のビザ」で知られる外交官・杉原千畝の任地・リトアニアのカウナス領事館にユダヤ人が殺到したのも、この通過ビザを求めてのことだった。そこで樋口中将が裏方として主導し、38年12月、近衛文麿内閣の「五省会議」で、ユダヤ難民政策の基本方針を定めたガイドライン「ユダヤ人対策要綱」を作成。「ユダヤ人を差別しない」ことが国策となった。 この要綱は41年12月、対米英開戦で無効となったが、代わって「時局ニ伴フ猶太人対策」が42年3月にでき、国内は元より中国や東南アジアの占領地に居住するユダヤ人を45年8月の終戦まで他の外国人と同等に扱っていた。

日本の保護政策で生き延びたのは4万人

日本が統治したバンコクと北部仏印(旧フランス領インドシナ)ハノイの日本大使宛てに外務省が伝えた公電を英国の暗号解読拠点「ブレッチリー・パーク」が傍受、解読、最高機密文書として英訳し、英国立公文書館が「日本のユダヤ人政策」として保管していた。 ハノイ宛ての公電は「同盟国ドイツがドイツ系ユダヤ人の国籍を剥奪し、ユダヤ人は『無国籍』になったが、日本が同調して特別な行動を取る必要はない。むしろ慎重に対応すべきだ」と排ユダヤ政策を始めたドイツと一線を画す考えを示した。そして「ユダヤ人を追放することは国是たる八紘一宇(はっこういちう)の精神に反するばかりか米英の逆宣伝に使われる恐れもある」とし、人道的な対応を求めている。さらに「ドイツ以外の外国国籍を所有していれば、その外国人と同等に、またドイツ国籍所有者は、ロシア革命で逃れた白系ロシア人と同等に無国籍人として取り扱う」と、ユダヤ人を公正に扱う寛容な保護政策の継続を指示した。 最終的に満州を含む上海など日本統治下の大陸中国は戦争集結まで多くのユダヤ人の避難場所となった。米国のラビ(ユダヤ教指導者)、マーヴィン・トケイヤー氏によると、世界ユダヤ人会議は、終戦当時、上海、ハルビン、天津、青島、大連、奉天、北京、漢口などでユダヤ人2万5600人の居住を確認している。これに加えて日本が占領したバンコクやハノイなど東南アジアに身を置いたユダヤ人を合計すると、前出のヘブライ大学名誉教授・メッツィーニ氏は「約4万人以上が生き延びた」と分析する。さらに「世界で反ユダヤ主義が広がり、欧州のユダヤ人がナチスの手で絶滅されようとしていたとき、日本は難民を保護した。1938年に始めたユダヤ人保護政策が米英開戦後も継続され、終戦まで続いた」と指摘している。

【Profile】


【杉原千畝】
 杉原千畝氏は、ナチスから逃れてきたユダヤ人たちにビザを発給しようとしたが、日本の外務省から「ビザを出してはいけない」と言われていたにもかかわらず独断でビザを発給し、帰国後は外務省から解職された(杉原千畝記念館サイトより)。

 リトアニアにある杉原千畝記念館を訪問しました。杉原さんの勇気ある人道的行動を、同じ日本人として、大変誇りに思います。 pic.twitter.com/3WA2uXhrqk

— 安倍晋三 (@AbeShinzo) 2018年1月14日
 Nov. 24, 2015「交流文化クロニクル」の「第四回 素敵な日本人へ ユダヤ人避難における役割」。
 01、「命のビザ」、その先に  第二次世界大戦中、命のビザを手にしたユダヤ人を日本へ

 2015年、日本は終戦から70年を迎えました。今、世界各地では当時の記録を、世代を越え継承することに高い関心が集まっています。そのひとつに「命のビザ」があります。第二次世界大戦の最中、ユダヤ人の命を救うため日本人外交官・杉原千畝(1900~1986)が発給し続けたビザの記録です。昭和15(1940)年、杉原千畝は副領事として赴任していたリトアニアで、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に政府の方針に背き日本通過のビザを発給し続けることで彼らの亡命を助けました。現在、杉原が執務にあったリトアニアの旧日本領事館は「杉原千畝記念館」として一般公開され、この功績は海外でも多くの人々に知られています。杉原のビザを手にしたユダヤ人の多くは、その後大陸を横断し、海を渡り、日本へ。そこから世界各地へ脱出し命をつなぎました。この大陸から、日本への船での輸送斡旋を担ったのが、「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」(以下、ビューロー)。現在のJTBグループでした。荒れ狂う海上でこの輸送斡旋に従事した記録が残っています。交流文化クロニクル第4回では、このユダヤ人避難でJTBグループが果たした役割と職員たちの記録を紹介したいと思います。

 02、4000人の命を運ぶ 荒れる海、困難な旅路、多くの命を運んだユダヤ人の輸送斡旋

 重大な決断

 昭和15(1940)年春、一件の依頼がジャパン・ツーリスト・ビューローのニューヨーク事務所に入りました。それはヨーロッパから日本経由でアメリカへ向かうユダヤ人の輸送斡旋協力の依頼でした。依頼前年の9月にナチス・ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発。ナチス・ドイツはユダヤ人を弾圧、強制収容所へと送り込みました。当時その迫害から逃れるため西欧への脱出路を断たれた多数のユダヤ人が、唯一の逃げ道であった旧ソ連領に続々と押し寄せていました。彼らの多くは杉原が発給した日本通過のビザを持っていました。この知らせを受け在米ユダヤ人協会は同胞を一人でも多く無事に助け出したいとアメリカ政府の許可のもと、旅行会社のウォルター・プラウンド社(のちのトーマス・クック社)を通じビューローに協力を依頼してきたのです。

 ヨーロッパからシベリア鉄道で終点のウラジオストクに到着するユダヤ人たち。そこから日本へ渡る唯一の避難経路は船でした。船舶で日本海を縦断し、福井県の敦賀(つるが)港で日本に入国。神戸や横浜へ移動の後、アメリカ・サンフランシスコを目指しました。ビューローはこのユダヤ人のウラジオストクから敦賀までの海上輸送とその斡旋を依頼されたのでした。

 当時の日本にとってドイツは重要な友好国。ナチス・ドイツから逃れるユダヤ人を日本の特定の機関が助けることは、時局をかんがみて様々な問題を引き起こすことも考えられました。それは、日独伊三国同盟が締結されるわずか数カ月前のことだったのです。ジャパン・ツーリスト・ビューローの本社でも、依頼を受けるべきか、さまざまな議論が交わされたといいます。最終的に人道的見地から依頼を引き受けることに決定しました。

 命がけの輸送斡旋

 ウラジオストク―敦賀間の航路に添乗員を派遣し上陸地の敦賀には駐在員を配置、まず海上輸送の体制を固めました。さらに日本入国後のユダヤ人乗客の移動にも万全の体制で臨みました。港から敦賀駅までのバス輸送の準備、さらに敦賀駅から神戸や横浜へ向けて出発する臨時列車の手配も行いました。

 昭和15(1940)年9月10日最初の船が敦賀港を出航。ユダヤ人乗客を迎えるため ウラジオストクへと向かいました。極東の港湾都市ウラジオストクまでは片道2泊3日の道のり往復で約1週間の旅程です。記録では4名の職員が交代で乗船、休みなく添乗斡旋にあたっています。当時入社2年目でこの業務に最も多く従事した職員大迫辰雄が当時の様子を回想録に残しています。

 それによれば、困難を極めたのが日本海を縦断する航海だったようです。季節が秋から春にかけての冬場。冬の日本海は時化(しけ)が多く船は揺れに揺れ、また「船酔いと寒さと下痢に痛めつけられた」と振り返っています。さらにその揺れはとても眠れたものではなかったと語り、食堂では「用意した皿、調味料台などがテーブルの上を前後左右にすっ飛び、万事休す。」と記述に残しています。

 乗船した職員同様、乗り込んだ400名以上のユダヤ人にとっても、その道のりは決して楽なものではなかったことがうかがえます。また大陸近くの海では機雷により不運にも沈没していく船もあったといいます。当時の状況を考えると、乗員にとっても乗客にとってもまさに命がけの航海だったともいえます。この海上輸送は、翌年の独ソ戦の開始によりヨーロッパからシベリア経由での避難経路が断たれるまで約10か月に渡り続けられることになります。

 03 素敵な日本人へ 「素敵な日本人へ。」一人のビューローマンに贈られた乗客からのメッセージ

 重要な船内業務

 ウラジオストクから敦賀までの海上輸送を開始させたビューロー。大迫たち職員は輸送斡旋以外にもう一つ重要な役割を担っていました。米国在住の親戚・友人からユダヤ人協会へ託された保証金。それを預かり名簿と照らし合わせ乗客の中にいる該当者へ手渡すことでした。そのお金は日本到着後アメリカへの脱出を支える貴重な資金となりました。

 その業務は日本到着後、最終目的地への移動を滞りなく進めるため、ウラジオストクから敦賀までの航海中に行われました。船の添乗にあたる職員は2泊3日という限られた時間の中で約400名にのぼる乗客の氏名と送金額のリストを照合、ひとりひとりへの給付の手配や授受の有無を確認していく必要がありました。「多くの航海中、殆どの難民は船酔い状態。悪臭漂う三等船室で一人一人をチェックすることは大変な仕事であった。」大迫は記録に残しています。

 荒れ狂う海の上、膨大なリストの中からひとりずつ名前を聞いて回り本人を探し出すのは容易なことではありませんでした。なにより苦労したのは言葉の問題でした。アメリカからの依頼を受け英語に堪能な職員で添乗員たちは構成されていました。しかしヨーロッパ各国から逃れてきた多くの乗客は多種多様な言語を話し英語を話せる方は非常に少なかったのです。職員たちがこの業務を全うできたのはユダヤ人乗客の協力によるものでした。乗客の中から英語を話せる方を探し出し通訳をお願いしたのです。どんな困難な環境でも、与えられた業務を全うする。それは現在のJTBグループにも受け継がれる職務姿勢のひとつです。そこにはその思いに共感し賛同してくれる協力者の存在が欠かせません。当時の職員たちの懸命な働きが乗客の皆さんの協力を生み出していったのではないかと考えています。

 民間外交の担い手として

 「私たちビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族の数千の難民に通じたかどうかは分からないが、私たちは民間外交の担い手として、誇りをもって一生懸命に任務を全うしたことは確かである」。回想録の中で大迫はこう結んでいます。『民間外交の担い手』という言葉。それは業務だけに留まらず困難な旅路でも常に乗客の心に寄り添うことを目指しました。大迫が残した当時のアルバムにその姿勢を垣間見ることができます。

 女性のユダヤ人乗客と大迫が甲板に並んで写ったスナップ写真。大迫が隣に寄り添う女性客は安心した笑顔をカメラに向けています。別のページには7人の乗客のポートレートが並んでいます。それは大迫が添乗した際にユダヤ人乗客から贈られたものです。裏側には大迫に宛てて様々なメッセージがつづられています。ポーランド語で書かれたある女性客のメッセージです。「私を思い出して下さい。素敵な日本人へ」。懸命に働いた大迫をはじめとした職員たち。乗客に寄り添い忘れられない交流を生み出すことにも気を配りました。その努力と姿勢が言葉をこえ、お客様の心へ届いたのではないかと考えています。

 04 どんな状況でも職務を全うする どんな困難なときも常にお客様に寄り添い、その笑顔と喜びを

 民間外交官という言葉を胸に取り組んだユダヤ人避難の輸送斡旋。ウラジオストクから約4000名のユダヤ人が海を渡り、晴れて敦賀に降り立ちました。そしてその後日本を経由し最終目的地アメリカへと無事旅立っていきました。国や情勢がいかなるものであっても、目の前のひとりひとりの大切なお客様に寄り添い懸命にお手伝いをする。どんな状況でも常に職務を全うするという気持ちがそこにはあります。その思いは時代をこえ、日本を代表するという志のもと現在のJTBグループに受け継がれているのです。

(取材協力/北出明氏)
参考文献/北出明著『命のビザ、遥かなる旅路―杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社新書)『観光文化 別冊2006 July』(財団法人日本交通公社)


【杉原千畝の美談フェイクニュース考】
  2018/5/10、「杉原千畝の美談はフェイクニュースだった!?」。
 wikipediaを見ると、「第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃
れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救った」と書かれている杉原千畝だが、DHCテレビによる髙山正之・馬渕睦夫・大高未貴の鼎談を見るとどうやら作り話的な要素があるらしいので、関連する部分を文字起こししたい。
 杉原千畝の美談

 まずは、杉原千畝の美談がどういうものか概略を紹介したい。映画「スギハラチウネ」の解説によれば、「日本政府の命令に背いてナチスに迫害されたユダヤ難民に日本通過のビザを発給し、6000人の命を救った」とある。書籍「杉原千畝物語―命のビザをありがとう (フォア文庫)」によれば、「千畝は迫害されたユダヤ人を救うため、外務省の命令にそむいて、自分の意志で日本通過のビザを発給しつづけ、六千人のユダヤ人の命を救ったのです。心の命令にしたがった外交官杉原千畝の生涯。愛と感動のノンフィクション。」となっている。著者は杉浦千畝の妻と長男だ。19件あるレビューのほとんどは「感動した」というものだが、1件だけ「反日NHKによるフィクション」と書いてある。
 杉原千畝について、DHCテレビの関連部分の文字起こし。動画はこちら。杉浦千畝に関しては、41分ぐらいから話が始まる。
馬渕睦夫  例の杉原千畝事件ってのがあったでしょ?あの時私はイスラエルにいたんですね(※引用者注:馬渕氏は1991年から1995年まで在イスラエル日本大使館公使だった)。イスラエルにいましたからね、日本で突然、杉原千畝がわーわーって言われたから、一体なんぞやと全部調べ直した。それでメディアで言われているのと全く事実は違うということを調べて、仕事でたまたま日本に帰ったらね、あるテレビ制作会社のディレクターが「ぜひお話しを伺いたい」と来たんですよ。それで「わかりました」って言ってね、この時とばかりに全部、「日本政府はビザは拒否していないと。出してもいいけれども、所持品を持っているとかね、最終行先地のビザがあるとかチェックして出すように。杉原は別に、その後も出世してるんですね。勲章まで貰っている。最後は外務省の人員整理で辞めたと。そういう話をね、とくとくとして「わかりました」ってそのディレクターが帰ったらね、できあがったメディアは例の日本政府がビザを出したらいけないっていうのにね、それに挑戦してビザを出した、英雄だなんてやってて。
居島一平  杉原さんが上司の意に逆らって、という物語にされているんですね。
馬渕  そうそう。みんなそれやってる。残念ながらいまだにそれはね、何度も名前だして悪いけど産経も改めてない。改めてないですよこれは。だけどあれはね、学校の副読本になっているけども全部誤りなの。でもそれは一切、日本の全部が、メディアがそういう風にね、「日本政府がNOと言ったのにそれに逆らった人道主義者だ」と報道して、フェイクの事実を作ってしまった。だからその時に私が思ったのは、まさに全てのメディアが同じ報道をするのはこれは危ない。で、今は日本の全てのメディアが反トランプなんです。これも危ない。必ず裏があるんですね。だからね、我々はその一つね、フェイクニュース、フェイクニュースなんだけれども、ものによっては産経・読売と他と違うとかあるんです、それはいいんです、健全だからね。だけども、産経読売も含めて同じことを言うと、これは危ない。これは危険だということをあらためて感じましたね。
大高未貴  よっぽどその、杉原千畝に関してユダヤ人を日本人が救出したということに関して、例えば満州国でユダヤ人にゲートを開けた樋口さん(引用者注:樋口季一郎)とか安江さん(※引用者注:安江仙弘)、ゴールデンブックにも名前が載ってます。(引用者注:ゴールデンブックとは、ユダヤ人が大切にする聖典で、主にユダヤ民族出身の世界的人物名を記載したもの)
高山正之  東条英機も入れていいよね。
大高  そうですよね。そういったことがタブーならしくて、私もあるイスラエルの団体でユダヤ人救出についての講演を依頼されたことがあって、で、この樋口さん安江さんのことに触れたいって言った時に、「それはやめてくれ」って言われたことがあるんです。あくまでも、杉原千畝が日本の国策に反して日本のシンドラーとして頑張ったという美談で、そこから逸脱して欲しくないという強い圧力があり、底知れぬ不気味さと怖さを感じたんですね。ある団体のね。なんでそういうことするんでしょうかね?
高山  やっぱりね。もし、満州国で、オトポールだっけ?あそこから多く人を入れた、しかもその杉原千
畝もそうだけど、目的地がきちんとアメリカなりなんなりあって、しかも無い人には上海の疎開地、あそこにも入れるというんで、結局全部便宜を図ってやって、あの時代に片方ではユダヤ人を救うんだとかいうのは、実際そんなことは口先では言ってるんだけど、実際に別にキリスト教徒でもないユダヤ教徒でもない日本が全て手筈をやって、満州のことをばらしたらね、認めたら、上海に入れてやったルート、それから上海からアメリカまで開いてやったルート、そういうのもどんどん出てきちゃうわけよ。そうするとあの時代、一番人道国家というのは日本だったんだって、しかもね、オトポールの事件では当時はもう絡んでるから、それがどうしてね、東京裁判で死刑になるのかっていう(引用者注:東条英機のことだと思われる)、またこれ問題になるわけで、もう杉原千畝だけでいいと、あと話は広げるなっていうのは、やっぱりさっき大使(※馬渕のこと)がおっしゃったようなさ、ある意向があってその意を踏み外させないし日本のジャーナリズムもその範囲で勝手にやんなさいと。
大高  でも日本側はそこをわかっておいて、しれーっとしてね、映画でも作ればいいと思いません?日本とユダヤの友好の物語でもなんでも。
居島  樋口季一郎さん主役にしてね。
大高  満州の国境で震えているユダヤ人の映像から入って、そこで関東軍の心の葛藤も入れて、それで感動的にゲートを開けて、そっからね上海からユダヤ人がどれだけアメリカ、新天地に渡っていって第二の人生を歩めたかって映画にするだけでもいいと思うんですけど。
居島  すごく絵になりますよね。
高山  葛藤は無かったと思うよね、だって瀋陽・奉天にはちゃんと交響楽団があってユダヤ人の人たちがたくさんやってたしね、そのうちそこに来たシロタなんとかっていうの(引用者注:ベアテ・シロタ・ゴードンの父のことか?)、わざわざ日本に招いて日本で居住させているわけだから、悪いものは何もないわけ。だけどあの時代にやっぱりほら、セントルイス号事件みたいにアメリカがユダヤ人の入国を拒否して、キューバにも拒否させて追い返して、それで強制収容所で死なせてしまったっていう事実が平行してあるんだから。対して日本では、いわゆる博愛というかね、人種差別の無い対応をしてきた。それをまさに映画化すればもうこれに勝るものはないやね。
大高  このせっかくの日本の美談を、中国がちゃっかり乗っ取って、中国が助けたみたいなね、フェイクニュース、嘘を、上海に記念館を作ってね。もう黙ってたらなんでも日本の功績を自国の功績にすり替えてしまって。
(引用者注:上海犹太难民纪念馆Shanghai Jewish Refugees Museum)。
高山  それは何、ユダヤ人は問題にしないの?ユダヤ人が日本に助けてもらったのに、あのブルーメンソール(引用者注:マイケル・ブルーメンソール)だっけ?彼は中国人と一緒にね、あの爆撃を受けたのを救助して歩いたんだって、日本が憎いみたいなことを言っているわけだよ。お前幻見てるのか?と。お前が来た時には既にもう中国にはね、日本を襲うような爆撃もないし日本はやってもいない。そういう事実があるだろと。あれをやっぱりね日本の新聞が書いてアメリカに「お前何でこんな嘘つくの?」っていうのをやればいいんだよね。
馬渕  それがね、私からも申し上げた、つまりフェイクニュース=フェイクヒストリーなんですね。だから今のようなフェイクヒストリーが横行しているわけです。日本が正しかったということはね、いわゆる「正しい歴史」は決して認められないということですね。それを遡ればね、今の人種問題ですけど、遡れば又あのウィルソン(引用者注:ウッドロウ・ウィルソン)に行くんですよ。ウィルソンは反対していたんですよ、あの国際連盟規約に人種平等の条項を入れよって日本が主張していたんです。
居島  パリ講和会議で。
馬渕  紆余曲折ありましたけどね。最終的に決をとったんです、採択を。そしたら過半数取ったんです。そしたらウィルソンが何か言っていると。何て言ったかというと「こんな重要な問題は全会一致が必要だ」って葬っちゃったんですよ。日本はだから、それ以来というかずっとですけどね、そういうその人道国家であってね、人種平等国家なんですよ。でもその日本を叩いて原爆で殺したから、そういう日本が人道国家であることがわかると具合が悪いんですよ。原爆を落とした人は戦犯ですからね。彼らこそ本当の意味での戦争犯罪を犯した人たちです。それをばらされると困るから、ずっと戦後70年、ずーっと日本は縛り付けておかなきゃならない、しかしね、私が思うのはそれも70年、80年が限度でね、永遠には嘘で縛り付けることはできないからね。だからやっぱりね、トランプが出てきたっていうのはね、日本にとっては僥倖なんです、これは。
居島  嘘の歴史も金属疲労をおこしますからね。
馬渕  だからリンカーンが言ったようにね、一人の人間を永遠に騙すことはできると。全ての人間を一時的に騙すことはできると。しかし全ての人間を永遠に騙すことはできないという有名な言葉がありますけどね。そうなんです。そういう今まで連合軍、アメリカが作り上げてきた嘘がね、嘘の歴史がいよいよばれ始めてきたと。そういう時期にあるんですね。ですからこそメディアはね、日本のメディアもしゃかりきになってそれを押し止めようとする。だから正しい歴史を取り戻そうとした安倍さんなり稲田さんなりを引きずり降ろそうとして、稲田さんは結局ね、引きずり降ろされたけれども、総理もそうでしょ、だからそれをやられたら困るんですよ。日本のメディアも困る。だって日本のメディアは嘘の歴史観の上に立ってるメディアですからね、残念ながら。
 鼎談は続くがとりあえずここまで。 本当は杉原が特別だったのではなく、多数の日本人が人種平等を訴えたりユダヤ人救出に一役買っていたのに、それを杉原一人の功績にし、かつ日本政府を悪役にすることで戦前の日本を貶めようという意思が働いていることが読み取れるかと思う。

 下記記事によれば、杉原は「日本の提示条件を満たさない避難民の日本行き乗船を、ウラジオストクで拒否せよ」と意見具申しており、日本国政府の方針に忠実に従っていた普通の外交官だったことが読み取れる。参考記事:「杉原千畝」で日本人はダマされるな!

 コメント
 ななし より: 2017-09-23

 結局は慰安婦問題と同じで、『日本政府が悪い』とする東京裁判史観・自虐史観による洗脳の一部なんですよね。いわゆるグローバルメディアが手動して、今もまだフェイクニュースというかポスト・トゥルースを撒き散らしているようですし。パプアニューギニアの日本軍問題といい、最近のロヒンギャ問題といいホント誰の利益になるんでしょうね。
 nextir35 より: 2017-09-23

 戦勝国側が、戦勝国にも悪い面があったといったん認めた上で未来志向の国際関係を築かないと事態は変わっていかない気がします。そういう意味で、しがらみのないトランプさんに期待です。
 匿名 より: 2017-09-26

 東条英機がユダヤ人を助けていようが死刑であることには変わりないでしょう。少しぐらいいいところを知られてもいいと思いますけどね。
 nextir35 より: 2017-09-26

 そうですね。1938年、樋口季一郎中将は、独断でソ満国境のオトポールにたどり着いたユダヤ人をハルビンに受け入れています。ドイツからこの件でクレームが入り、東条英機は樋口を呼び出しますが、樋口に「五族協和」「八紘一宇」の理念を説かれ、不問に付しました。

 杉原千畝を顕彰し植林された木が一部消失 記念碑も所在不明に」。

 第2次大戦中に外交官・杉原千畝は「命のビザ」で数千人のユダヤ人を救った杉原を顕彰してイスラエルで松など400本が植林されたが、一部が消失した。伐採された可能性が高く、記念碑も撤去されて所在不明だと12日に分かった。「提供社の都合により、削除されました。概要のみ掲載しております」。

【JTB職員/大迫辰雄】
 Jun.16, 2017/「“命のビザ”を繋いだもうひとつの物語、大迫辰雄社員の思いを今・・・ -前編-」、。
 76年の時を経てお迎えしたお客様~新たな交流へ~「杉原サバイバー」ソニア・リードさんのご息女がJTBに来社

 「素敵な日本人へ」というメッセージが添えられた、1枚の写真。第二次世界大戦中、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人たちを日本へと運んだJTB職員、大迫辰雄のアルバムに収められていたものだ。写真に写る女性の名前はソニア・リードさん。当時のリトアニア領事代理、杉原千畝が独断で発行した「命のビザ」を手に、ウラジオストクから日本を経由してアメリカへと渡った、いわゆる「杉原サバイバー」の1人だ。そして今年の春、亡き母の想いを胸に、ソニアさんの2人のご息女が日本にやってきた。

 【76年の時を超えて、再び日本へ】

 春の訪れとともに、アメリカから来日した2人の女性、デボラさんとシェリーさん姉妹。彼女たちの母ソニア・リードさんは、第二次世界大戦中にウラジオストクから日本を経由してアメリカへ亡命したユダヤ人たちの1人だった。そして彼女たちの人生にささやかな貢献を果たしたのが、ウラジオストクから日本までユダヤ人たちの旅の案内役を請け負った、JTBの前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローの職員、大迫辰雄。荒波にもまれる連絡船の上で、乗客たちの恐怖と疲労を少しでも和らげようと献身した大迫に、ユダヤ人たちは感謝の気持ちを添えて写真を贈った。その中の1枚、ソニア・リードさんの写真の裏側に書かれていたのが「私を思い出してください。素敵な日本人へ」というメッセージ。その言葉通り、大迫は贈られた写真をひとつ残らずアルバムに収めて、生涯大切に保管していた。そのアルバムは現在、敦賀市の「人道の港 敦賀ムゼウム」に寄贈されている。

 ウラジオストクから日本へ逃れたソニアさんは、敦賀から横浜、横浜からアメリカ東海岸へと移り住み、3人の子供をもうけた。そのうちの2人が、デボラさんとシェリーさん姉妹だ。夫の仕事の関係で生前に何度か日本を訪れたという母ソニアさんから、日本の美しさを何度となく聞かされて育った2人は、いつか日本へ行ってみたいと憧れていたそうだ。そしてついに夢が叶い、初めての日本訪問が実現した。

 【偶然見つけた1枚の名刺】

 今回2人が来日するきっかけとなったのは、敦賀市からの招待によるもの。2人はユダヤ人たちが最初に上陸した福井県敦賀市から出発して、日本各地の観光名所をめぐったあと、最後に東京にあるJTB本社を訪問。大迫辰雄の足跡をライフワークとして追いかけるジャーナリスト北出明さんの案内で、天王洲にあるオフィスへやってきた。東京湾を見渡す応接室で、髙橋広行社長とあいさつを交わす。

 「長旅でお疲れでしょう。初めての日本はいかがでしたか?」という髙橋社長の問いに、デボラさんは、「今回の旅は、私たちの期待をはるかに超える素晴らしいものでした。行く先々どこも美しい場所ばかりで、しかも桜が満開で。岡山の庭園、京都の哲学の道……。こんなに素敵な景色は見たことないわ、と思ったら、次の日にはもっと素晴らしい場所があって、毎日驚きの連続でした」と、声を弾ませた。「実は、お渡ししたいものがあるんです」。そういってデボラさんが取り出したのは、1枚の名刺だった。「旅の出発直前に、皆さんにお見せする家族写真がないだろうか亡くなった父母の遺品を引っ張り出したところ、連絡船や母の写真に紛れて、1枚の名刺が出てきたんです。思ってもみなかったので、びっくりしました」(デボラさん)。

 おそらく、ソニアさんから写真をいただいたお礼として、大迫が手渡したのだろう。ウラジオストクの連絡船上で、大迫から母ソニアさんへ渡された1枚の名刺。表面こそ茶色く変色しているものの、角はピンとまっすぐ、破れたようすもない。76年という長い年月の間、ソニアさんが大事に保管していたことが伺える。裏を返すと、大迫の直筆で「大迫辰雄」の文字。控えめだが力強いその筆跡は、まるで大迫の人柄を表しているかのようだ。 「母は生前、私たち子供にも戦争当時のことをほとんど語ることはなかったので、名刺の存在はまったく知りませんでした。こうして名刺を目の前にして、母にとって非常に重要な意味を持っていたのだと実感しています。70年以上も大切に残していたわけですから。姉が名刺を見つけたときには、家族全員で喜びました。そしてこの名刺が、今度はJTBグループ社員の皆さんの励みになってくれればと思います」(シェリーさん)。「JTBでは現在『Perfect Moments, Always(=感動のそばに、いつも)』というブランドスローガンを掲げ、常にお客様のために尽くしていますが、そうした思いは76年前、我々の先人たちの手によってすでに始まっていた。この名刺はまさにそのことを裏付ける証です。お母さまが大切にしていた貴重な宝物を、今回お届けくださったことに心から感謝しています。この先ずっと大切に保管し、次の世代の社員たちへのメッセージとして伝えてゆきたいと思います」(髙橋社長)。さらにデボラさんからもうひとつ、髙橋社長へサプライズ。ユダヤ人を運んだ船や、若かりし母ソニアさんの姿を収めた写真をプリントした、白い抹茶碗が贈られた。発見した写真をもとに、デボラさんが手造りしたという。「大迫辰雄さんは数々の困難にもめげず、荒波を乗り越えて、自分たちの仕事を懸命にまっとうした。誰からの助けも得られず、命からがらヨーロッパを逃れてきたユダヤ人にとって、船の上で初めて出会った人のやさしさがどれほどありがたいものだったのか、計り知れません。ですから、私たちも喜んで大迫さんの名刺をJTBにお返しすることにしました。私たちには、名刺がなくても大丈夫。大迫さんの思い出は、母の思い出とともにずっと胸にしまっておけますもの。それに、こうして名刺をJTBにお返しすることで、世代を超えた交流が実現したわけですからね」(デボラさん)。

 後編に続く
 素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~
 ※社名・肩書きは取材当時のものです。

  “命のビザ”を繋いだもうひとつの物語、大迫辰雄社員の思いを今・・・ -後編-
 76年の時を経てお迎えしたお客様~新たな交流へ~
 「杉原サバイバー」ソニア・リードさんのご息女がJTBに来社

 今年の春、デボラさんとシェリーさんという2人の姉妹が来日した。彼女たちの母ソニア・リードさんは、第二次世界大戦中、JTB職員大迫辰雄が、ウラジオストクから日本へと案内したユダヤ人の一人だ。来日後、天王洲のJTB本社を訪れた2人の口から語られたのは、76年たった今でも引き継がれた日本人の『思いやりの心』だった。

 -初めて訪れた日本の印象を聞かせてください。

 デボラさん:

 敦賀では、市長さんをはじめ市民のみなさんが私たちを迎えてくださいました。敦賀港では、ヨーロッパを逃れ、無事に日本へたどり着いた母や何千人ものユダヤ人たちのことを思うと、自分がここに立っていることに感慨深いものを感じました。今回の旅では思い出に残ることばかりですが、一番印象に残っているのは日本の人々の温かさです。戦争中、母やユダヤ人たちに、人々がどれだけ親切にしてくれたか、どれだけ助けになってくれたか……、そして私たちにも同じように、出会う人全員が優しくしてくれて……。

 シェリーさん:

 戦時中、母や大勢のユダヤ人たちが感じた日本人の親切心が、76年たった今でも、同じように引き継がれている。しかも、それが今回日本を訪れた私たちにも注がれていることを、敦賀の人々やJTBの方々との出会いから強く感じました。

 -お2人が感じた経験は、まさにJTBの企業ミッション――地球を舞台に、人々の交流を創造し、平和で心豊かな社会の実現に貢献する(True creation of multicultural exchanges can contribute
to the harmony and understanding of global society)を象徴していると言えますね。

 シェリーさん:

 今回の旅で、日本人の思いやりや寛容は、世界中の人々が目指すべき理想の姿だと強く感じました。その思いやりは、私たち外国人に対してだけではなく、日本人同士でも互いに示しあっている。JTBのスローガンにもあるように、一人ひとりがお互いに思いやることによって世界に協調が生まれるのだと思います。まさに今こそ、世界が学ぶべきだと思います。

 デボラさん:

 残念ながらどの時代にも至難というものはあって、現代もその例を免れません。けれど、ユダヤ人に起きたことは二度と起きてはならない。多くのユダヤ人を死から救ってくれた杉原さん、そして彼らを日本へと導いてくれたJTBの方々、さらに大勢の日本人が、さまざまな形でユダヤ人を救ってくれました。彼らは勇気をもって行動しました。これこそが、今の時代に輝く希望の光だと思います。今日も、助けを必要としている人々は大勢います。彼らに手を差し伸べること、罪のない犠牲者をこれ以上増やしてはならないということを、世界は日本から学ぶべきだと思います。

 -いま世界では政治的な混乱を迎えていますが、そのような時代において、母ソニアさんの物語や、今回の旅はどんな意味を持つと思いますか?

 シェリーさん:

 今回の旅の間、姉ともよく話していたのですが、私たちがいま強く感じるのは『Never again』――同じ過ちを繰り返してはならないということ。杉原さんや大迫さんから現代の私たちが学ぶべきことは、たとえ国が違っても、辛い状況におかれている人々に助けの手を差し伸べるということです。たとえ自らを犠牲にしてでも、正しい行いをすること。彼らの行動は、現代の私たちにとって素晴らしいお手本だと思います。

 デボラさん:

 妹がいうように、『Never again』と繰り返し語り続けることが重要だと思います。そのためにも教育はとても大事。直接戦争を体験していない世代にも、またその先の世代にもメッセージを送り続ける。歴史上の出来事を過去のものとはせず、現代に甦らせて、誰かを傷つけるような行いがなくなり、互いに助け合う。そんなメッセージを可能にするのが、教育の力なのです。

 -もし、母親のソニアさんが生きていて、2人もこうして日本人の温かさを肌で感じているのを見たら、何と言うでしょう?

 デボラさん:

 母はとてもおおらかな人で、日本をとても愛していましたし、日本の美意識というものを心から理解していました。いま私たちと一緒にいてくれたらと思います。もし母が生きていたら、きっとJTBグループ社員の皆さんに心から感謝の意を伝えていたでしょうね。

 シェリーさん:

 そして、もし大迫さんも生きていたら、私たちからも感謝の気持ちを伝えたい。あなた方の献身のおかげで、何千というユダヤ人の命が救われ、さらに何万もの子供たちの命がつながれていったのですから。

 デボラさん:

 最後にもう一言、言わせてください。北出明さんのライフワークこそ、教育の重要性を象徴していると思います。彼はかつての上司だった大迫さんからアルバムを譲り受け、写真に写っている人々を探し出すことに情熱を注いできました。そして彼らユダヤ人たちの物語を発掘し、関わった日本人の物語を本にして、世間に伝えていった北出さんに、心から感謝しています。彼が長年続けてきたことが、まさに教育そのもの。彼がいなかったら、私たちもこうして日本に来ることはなかったでしょう。彼が払った膨大な努力と功績に、心から拍手を送りたいと思います。

 【次の世代へつなぐ、コミュニケーションの輪】

 JTB本社ビル訪問のあとは、和やかなムードのまま隣のビルに移動。今回、JTBグローバルマーケティング&トラベルの発案で、デボラさんとシェリーさんを迎えるささやかな交流会が開催かれた。ジャパン・ツーリスト・ビューローの流れを引き継ぎ、現在JTBで訪日インバウンド事業を専門とするJTBグローバルマーケティング&トラベルの社員たちは、いわば大迫辰雄の後輩。会場のコミュニケーションルームには40人を超えるメンバーが集まり、デボラさんとシェリーさんを温かい拍手で迎えた。 「お2人をお迎えできて、非常に光栄です」と座間社長があいさつし、2人に花束を手渡す。76年前に大迫辰雄がソニアさんを迎えた時の風景が、いまここで再現されたかのようだ。戦争体験がない若い世代にとって、JTBが戦時中ユダヤ人の輸送に関わった事実は知っていても、その体験に直接かかわる人々と出会うのは初めて。これまでは歴史上の出来事とだと思っていたことが、いま自分たちの目の前に、現実として現れた。戦争中に母ソニアさんが感じた感動をデボラさんとシェリーさんが追体験したように、彼らJTBグループ社員にとっても、76年前の大迫辰雄の気持ちを肌で感じる機会となった。「皆さんの先輩である大迫さん、そして名前は知られていませんが、彼と共にユダヤ人の亡命に携わってくださった多くのみなさん、彼らは本当に多くの人々の人生を変えてくれました。そして彼らの跡を継ぐ皆さんも、ぜひお手本にしてください。機会のあるごとに、あらゆる手段を尽くして他人を助けることができるのだと。そしてそれを可能にすることができるのだと」(デボラさん)。

 2人の話を聞いて、質問を投げかける社員

 「母ソニアさんの物語を、お2人はこの後どうやって伝えていこうと考えていますか?」 という質問が、女性社員から投げかけられると、シェリーさんはこう答えた。 「実は、姉と2人で、学校の子供たちと語り合う活動を行っています。子供たちは学校の様子を話し、私たちは母の話を語って聞かせる、というもの。単純なことですが、こんな風に分かち合えるのは素晴らしいことです。やがて彼らがメッセンジャーとなって、母の物語を自分たちの世代、そして未来の世代へと伝えていってくれることを願っています」 。

 ここでも語られたのが「Never again――決して繰り返してはならない」というメッセージ。戦争の悲劇はして過去のものではなく、今まさに、世界のどこかで誰かの身の上に起きつつある「現実」なのだ。そしてまた、2人の滞在が証明したよに、大迫が76年前に示した思いやりの心もまた、今なお生き続ける「現実」。デボラさんとシェリーさんのいう「世界の模範」である日本の心を、世界へ伝えるという使命が自分たちにゆだねられていることに、社員ひとりひとりが心動かされたようだ。

 第五営業部BoutiqueJTB営業課 椎名朝美さん
 「自分が旅行業界で心がけてきたホスピタリティや、どんな状況でもお客様一人一人のためにサービスを全うすること、そうした思いが大迫先輩の姿重なって、時を超えてもサービス業の想いが変わらないことを感じて感動しました」(第五営業部BoutiqueJTB営業課 椎名朝美さん)
 ミーティング・インセンティブ営業部コーポレート営業二課 義道有希さん

 「自分の命を顧みずに、世界の人々のために行動を起こせるというのは勇気がいることだと思いますし、なかなかできないことだと思います。今回、ソニアさんが、76年という長い時を経てまで当時の出来事を思い続けてくれていることや、ご家族が日本への想いを変わらずに持ち続けてくれていることはとても光栄に思いますし、これから日本に来たお客様が、そうした気持ちをもってくださるように頑張っていきたい、というモチベーションにつながりました」(ミーティング・インセンティブ営業部コーポレート営業二課 義道有希さん)

 第二営業部欧州シリーズ課Culoma Danieleさん

 「ツアーに添乗した際に、日本が素敵だなと思ってくださったお客様から感謝の言葉をいただくと、非常にうれしいです。私もできれば大迫先輩と同じように、将来のJTBグループ社員の見本になれればといいなと思いました。なかなかできないことだと思いますが、ゴールは大きくもって目指してゆきたいと思います」(第二営業部欧州シリーズ課 Culoma Danieleさん)

 大迫辰雄の名刺を大事にしまっていたソニア・リードさん、ソニアさんの写真をアルバムに大切に保管していた大迫。交わした言葉は少なくとも、76年にわたって2人は静かな心の交流を続けてきたようだ。そして、母ソニアさんから始まった旅は、デボラさん・シェリーさんに引き継がれ、敦賀から天王洲へと導いた。国際社会の在り方が問われる今だからこそ、「コミュニケーション」が果たす役割が大きいことを、1枚の名刺があらためて教えてくれる。「私を思い出してください」という写真の裏側に残されたメッセージの通り、敦賀の人々にも、デボラさん・シェリーさん姉妹にも、そしてJTBグループ社員にも、戦争中にユダヤ人と日本人が体験した交流は鮮やかな記憶として生き続けると願いたい。そて、今回の旅から生まれた交流が、日本と世界を結ぶ新たなコミュニケーションの出発点となるだろう。


【ヘブライ文化研究者/小辻節三(こつじてつぞう)】
 1940年、第二次世界大戦のさ中、欧州の多くのユダヤ人が外交官・杉原千畝の発給したビザを使ってナチスドイツによるホロコーストから日本に逃れた。しかし短期ビザだったため欧州へ強制送還される恐れがあった。小辻氏は当局に掛け合ってユダヤ人の滞在延長を認めせ、米国などへの渡航を助けた。数千人が助けられたと云われる。当時の日本政府がドイツと同盟関係にあったことから小辻氏はスパイ容疑で拘束され、拷問を受けたこともあったという。1973年に74歳でなくなるまで全国を講演して回るなど、ユダヤ人に対する偏見解消に尽力した。死後はエルサレムに埋葬され、杉原と並びユダヤ人の恩人とされている。次女/てる子。




(私論.私見)