<報告レジメ>
1 日本の核エネルギー̶̶「まだ70 年」か「もう70 年」か?
問題の所在 現存した社会主義・ソ連邦 (1917-91)崩壊時の討論との類似性・共通性
① 1941 日本における原爆開発開始(陸軍・理研仁科芳雄・東大・嵯峨根遼吉・武谷三男ら「二号研究」と海軍・京大荒勝文策・湯川秀樹ら「F研究」)から、2011.3.11 フクシマまで、脱原発を決めたドイツとの違い(緑の党の存在)
② Transnational にみた、非核Anti-Nuclear 運動の遅れ
一一9つの「原発神話」(高木仁三郎)と10の「原爆・原子力」神話(Netizen College 加藤)
•原発神話(高木仁三郎)
(『原子力神話からの解放』講談社文庫)
原爆・原子力神話(KATO)
①「原子力は無限のエネルギー源」 ①ナチス・ドイツへの必要悪
②「原子力は石油危機を克服する」 ②早期終戦・犠牲最小化
③「原子力の平和利用」 ③唯一の被爆国
④「原子力は安全」 ④原子力時代、第3の火
⑤「原子力は安い電力を供給する」 ⑤国連・国際管理で平和利用
⑥「原発は地域振興に寄与する」 ⑥科学者の良心で統御可能
⑦「原子力はクリーンなエネルギー」 ⑦社会主義の核は防衛的
⑧「核燃料はリサイクルできる ⑧核抑止、原発潜在的抑止力
⑨「日本の原子力技術は優秀」 ⑨日本人の核アレルギー
⑩占領期原爆報道の消滅
③ 原水禁運動と原子力基本法の同時出発・別展開、核兵器と原発開発のー体性(1969「わが国の外交政策大綱」、NHK「核を求めた日本」)、藤田祐幸・山崎正勝らの科学史研究に照らして、社会科学・歴史学の不作為責任、自称「唯一の被爆国」でなぜ「ヒロシマからフクシマ
へ」の悲劇が再現したのか?
④ 吉岡斉『新版 原子力の社会史』の含意:限定的対米従属の日米原子力同盟、「社会主義的」な二元体制的(科技庁原研動燃/通産電力連合)国策共同体の「核武装スタンバイ戦略」分析=「三原則蹂躙史観」批判
⑤ 日本マルクス主義から、なぜ高木仁三郎・小出裕章が生まれなかったのかーー武谷三男の役割と意味、「トロツキスト」水戸巌、「現代修正主義者」池山重朗ら共産党から批判・排除された者の先駆性 |
2 マルクス主義政党の「原子力の平和利用」の夢と70 年後の現実̶--ソ連評価の変遷との近似性
・ 1946 JCP 科学技術部=武谷三男「日本の科学技術の欠陥と共産主義者の任務」「32 テーゼ」からの出発
・ 1949 徳田球一「原子爆弾と世界恐慌」(原爆パンフ) cf.下斗米伸夫『日本冷戦史』
・ 1950 コミンフォルム批判、朝鮮戦争(軍事利用も)、党分裂→民科・学術会議vs 中曽根・正力原発導入
・ 1956 原子力は労働者の階級的要求 (永田「原子力問題について」)→原水協・被団協→61「原子力決議」
・ 1960 年代 社会主義の防衛的核 上田耕一郎『マルクス主義と平和運動』vs 加藤『国家論のルネサンス』
・ 1970 年代 総合エネルギー公社・代替新エネルギーvs75「原爆と原発」、原子力資料情報室(武谷・高木)
・ 1980 年代 原水禁・「脱原発」運動vs「未完成技術」「放射性廃棄物をロケットに積んで太陽にぶちこむ」
・ 2011.8 存立条件と綱領変わっても「2,3 世紀先の平和的利用可能性」(志位・福島「老舗」対談) |
3 社会科学者の夢 平野義太郎の平和利用論と「資本主義の全般的危機」「社会主義=平和勢力論」
・ 戦前講座派・戦時大アジア主義・戦後平和運動(1897-1980,日本平和委員会会長) cf.労農派有澤広巳
・1948/4「戦争と平和における科学の役割」=プランゲ文庫で最初の「原子力の平和利用」論文
・1949/11「資本主義法則と科学技術」民科技術部会『資本主義法則と科学技術』4 大矛盾・3 大革命勢力
・ 民主主義科学者協会、日本学術会議、国民の科学運動、日本科学者会議、平和委員会(84 原水協分裂) |
4 自然科学者の夢 「共産党の70 年」を凝縮・先取りした伝道師・武谷三男(1911-2000)の10 年
・1946 原爆の反ファッショ的性格̶̶Transnational 核物理学共同体の偉業と米ソの組織的計画科学
・ 1947「原子力時代」啓蒙←共産党科学技術部、羽仁五郎、素粒子グループ、客観的法則性の意識的適用
・ 1948「原子力とマルクス主義」→1950 徳田「科学と技術におけるマルクス・レーニン主義の勝利」
・ 1952 民科・学術会議・平和利用3原則 「唯一の被爆国・だからこそ」の論理、安全性・許容量
・ 1956 未だ原水爆時代、水爆は人類の敵、純粋科学の分裂、ソ連批判、原水禁運動から反公害住民運動へ
・ 1976『原子力発電』(岩波新書)序→小国主義・人権主義・市民主義・原子力資料情報室(高木との距離) |
5 戦後日本民衆の「原子力」に託した夢̶̶̶「悔恨共同体」「無念共同体」と「無謬共同体」の遺産
・ 占領期の原理・存立条件の崩壊 社会主義・平和勢力・自律的科学者集団・代替エネルギー・未完成技術
・ 残されたもの 原子力基本法3原則と「労働者階級の要求」、しかし「原子力」にイメージされた実体は?
・ 「核アレルギー」はあったか? 1920『新青年』以来の「原子力家庭」の夢・憬れと戦時・占領期の連続
・ ビキニ水爆被爆・原水禁運動と中曽根予算・正力原子炉段階の「原爆と原発」分岐=55 年体制・高成長
・「夢」の先送りは「科学」たりうるか? 「純粋科学」研究・実験・実用・本格的利用段階の無意味化
・ マルクス主義は「悔恨共同体」(丸山真男)に入っていたか? 竹内洋「無念共同体」vs「無謬共同体」
・ JCP32 年テーゼ、米国OSS42 年テーゼ、米国近代化論vs ソ連ML 主義=科学の戦争動員と戦後科学支配
・ 溢れる富、自然の征服、ソヴェト権力+電化、科学技術革命論=冷戦型「生産力=破壊力」競争の帰結
・ 方法:階級主義、経済還元論、生産力主義、科学主義、「誤りを認め匡す科学者と市民の開かれたNetwork」
(ウェブ版注)以下に、当日配布した1945-61 年の付録資料、もう一人の予定報告者が病欠で報告時間が延長されたため用いたパワーポイントの1961
年以降資料、それに当日の討論とその後の調査で収集できた資料を加えて、ウェブ用データベースとする。原水禁森滝市郎の証言、「新左翼」黒田寛一の場合、それに安田常雄教授にコメントされた庶民の生活世界での受容の問題、参考文献などを補足した。
{参考}加藤「占領下日本の『原子力』イメージ」
http://members.jcom.home.ne.jp/katote/Occuatom.html |
<付録1 「マルクス主義と原子力」言説の軌跡 1945-61> 「原爆の平和利用」の系譜
● マルクス主義政党の「原子力の平和利用」の夢と70年後の現実一一武谷三男とソ連に依拠した原爆・原子力政策、武谷がスターリン批判で離れても綱領的立場として「平和利用」継続=ソ連評価の変遷に照応
1946.2『新生』武谷三男「技術論」
・原爆をつくったアメリカの科学技術は「十分に強力な科学者技術者の組織が存したならば、戦争に対しても極めて有効に阻止する役割」、科学者・技術者は「生来の理性においては合理主義者であり、本質的にヒューマニスト」「組合に協力するならばその効果は絶大」←「技術とは客観的法則性の意識的適用」。 |
1946.6 民科自然科学部会『自然科学』創刊号、武谷三男「革命期における思惟の基準̶̶自然科学者の立場から」(現代日本思想体系25『科学の思想
Ⅰ』所収、筑摩書房、1964)
•原爆=反ファッショ「文明」論、「原爆研究の平和利用」論の原型
•「今次の敗戦は、原子爆弾の例を見てもわかるように世界の科学者が一致してこの世界から野蛮を追放したのだともいえる」「原子爆弾をとくに非人道的なりとする日本人がいたならば、それは己の非人道をごまかさんとする意図を示すものである。原子爆弾の完成には、ほとんどあらゆる反ファッショ科学者が熱心に協力した。これらの科学者たちは大体において熱烈な人道主義者である」。
•「原子爆弾は日本の野蛮に対する晴天の霹靂であった。日本の科学者はかかる野蛮に対して追撃戦を行うべきことに責任ある地位にある。しかるに日本の科学者はいまだに何一つその責任を果たしていない」
参考 プランゲ文庫で占領期「原子力」の語り部であった物理学者は? 〈社会科学 平野義太郎260〉
湯川秀樹134(初代原子力委員会委員) 武谷三男 128、渡辺 慧 88(原子党宣言)、仁科芳雄 68
崎川範行 62 嵯峨根遼吉37(長岡半太郎5男)、
藤岡由夫 37(初代原子力委員) 田中慎次郎(朝日新聞社)32
伏見康治 30 長岡半太郎 23(日本学士院長)
坂田昌一 17 朝永振一郎 14
茅 誠司 14 武田栄一 13 |
1946.11 日本共産党科学技術部「日本の科学・技術の欠陥と共産主義者の任務(科学技術テーゼ)」
「32年テーゼ」をもとに「民主主義革命のための科学技術の計画的・積極的動員」=①技術の植民地性、②科学の非実験性、③科学技術の跛行性、④技術の非科学性、⑤科学技術の人民の利益への背反、⑥科学方法論の欠如、⑦農業技術の低位、⑧大学及び公立試験研究機関の封建的官僚制、⑨資本主義的研究機関の利潤追求性、⑩軍需資本家による科学技術の独占・秘密化、⑪科学技術者の非社会性、⑫人民生活の非科学性、⑬教育の非科学性とブルジョア性(武谷三男の執筆?「科学と技術」理論社、1950.5
付録として『武谷三男著作集』第4巻1969 年にも所収、cf.中村静治『新版 技術論論争史』創風社、1995)
1947.10『日本評論』武谷三男「原子力時代」
「われわれ(研究者の一部)が原子爆弾研究をやる事になったのは、日本で原子爆弾をつくるためではなかった。われわれは日本の工業力並にウラニウムの産出高からいって、また日本の科学界の状態からいって、原子爆弾が日本でできない事などは百も承知であった。われわれの考えはまず原子爆弾という事をカン板にする事によって、何とか原子核物理学の研究という純粋な研究が不急なものとして止められる事から救う事であった」「原子力の解放が科学史上の最大の出来事の一つであり、画期的な業績である事はもはや疑う人もいない」、トルーマン声明は「科学者の頭脳」の「立派な工場化」、「原子爆弾はその最初から反ファッショ科学としての性格を強くもっていた」、アメリカの物理学者たちの「反ファッショ的熱意、人道主義的熱意」の産物、原子力開発には、意識的組織的協力、膨大な工業力の裏付け、国家的規模での統一が必要、「この社会的基礎はアメリカ資本主義の胎内において自然的に強力に発達してきた労働者の組織の民主主義的原動力であった」{←羽仁五郎「科学と資本主義」『中央公論』47.6、マルクス『資本論』の機械制大工業論}レーニン「ソヴェト建設において電化の役割の決定的なる事」「原子爆弾が将来の戦争防止の有力な契機」
1948.4『中央公論』平野義太郎「戦争と平和における科学の役割」
・科学の成果は人間の用い方いかんで平和にも戦争にも使われる
・プランゲ文庫検索では、戦後日本で初めての「原子力の平和利用」をうたった社会科学論文
1948.6『思索』武谷(野間宏対談)「現代知識人の立場」「世界の原子科学者は平和を熱望しているし、また平和のために原子爆弾を造り上げた」「原子力時代になってきたら、これは相当大きな勢力になる」
1948.7『社会』武谷「原子力とマルクス主義」
・原子力はマルキシズムの否定ではなく、むしろマルキシズムをよりはっきりと理解させるもの、「原子力は悪いように使える代物ではない。必ずいいようにしか使えない代物である。人類が、すべて生の本能を持っている限り、人類絶滅の道具として使用することはあり得ない。道徳の問題としてでなく、ザインとしてそういう事はあり得ない」「科学の限界という考え方が、現在まで進歩的な唯物論者といわれる人の間にもなお残っている」「ザインの地盤からゾルレンがザインの自己発展として出てくる。そういうのがマルキシズムの見方である」「ソヴェト体制下では、科学は資本主義体制下の科学とは違うかたちで発展している。資本主義の下では科学はある制約のもとにしか発達しない。実際は原子力の平和的利用はほとんど無視されている」「社会はつねに人民の圧力によって推進(羽仁五郎)」「資本主義が科学を発達させたというが、それは資本が発達させたのではなく、人民の圧力の関係においてのみ科学は発展する」ソヴェトは科学者に莫大な援助、必要な研究費はいくらでも要求すればとれる、科学者・技術者が優遇されその次が労働者、官吏はかえって悪い待遇、労働の安全性について組合の力はすばらしい、そのことはざまざまなソヴェト抑留者の手記に書かれている。学問の自由はソ連において真に守られている」
1948.11『子供の広場』武谷「原子力のはなし」「原子爆弾は、原子力を利用したものであるが、それが平和のきっかけをつくってくれた」「原子力は爆弾としてだけではなく、平和なしごとのうえで、これからうんと利用されるにちがいない」「原子爆弾の製造は、アメリカのような大工業の基礎があってはじめてできる」、自動車、飛行機、家庭暖房、炊事にはむかない、ウラニウムの連鎖反応必要量と放射能の問題があり「ふつうの小さな動力源としては使えない」「原子力を利用すれば、シベリアのひろい野原や砂漠のまんなか、大洋のなかの島々のように、動力源がふべんなためにいままでひらけなかった地方も、ひらいてゆける」アメリカでは5年以内に実用化、「自然力がまちがってつかわれると人類はほろびるが、ただしく使われると人類の生活をどんどんたかめることができる」〈1949.8.29
ソ連原爆実験成功〉
1950.1『新しい世界』 徳田球一「原子爆弾と世界恐慌」(原爆パンフ=「原爆の平和利用」論)「なぜ資本主義では原子力は平和的に使えないか、なぜソ同盟では平和的につかえるか」「原子爆弾と共産主義」=武谷の「原爆研究の平和利用」から一歩飛躍し「原爆の平和利用=開発力・抑止力」へ
•1949 年1 月総選挙で共産党35 議席の大躍進、夏に下山・三鷹・松川事件、10 月1 日毛沢東の中華人民共和国建国宣言、その直前にソ連初の核実験成功〈8
月29 日〉発表。すでに志賀義雄「原子力と世界国家」(日本共産党出版部『新しい世界』48 年8 月)等で「社会主義の原子力」の夢を語っていた共産党は、「光から生まれた原子、物質がエネルギーに変わる、一億年使えるコンロ」(日本共産党出版部『大衆クラブ』49
年6月号)とボルテージをあげる。その頂点が、この頃流布した日本共産党書記長徳田球一の「原爆パンフ」である。「原爆パンフ」とは、『新しい世界』1950
年1 月新年号に掲載された徳田球一「原子爆弾と世界恐慌を語る」という49 年11 月18 日談話、スターリンの70 歳誕生日直前である事に注意。すぐに『原子爆弾と世界恐慌』(永美書房、国会図書館なし)という政治パンフレットになり、労働組合活動家やレッドパージで職を失った人々の間で広く読まれた。「なぜ資本主義社会では原子力を平和的につかえないか、なぜソ同盟では平和的に使えるのか、原子爆弾と共産主義、原子爆弾は最大の浪費である」と歯切れよく「社会主義の核」の優位を説き、今日まで続く左翼版「原子力の平和利用」(ならぬ「原爆の平和利用」論、第1に荒野開拓・大規模開発技術、第2に資本主義の核への抑止力)の原型となった。(徳田「原爆パンフ」の内容←武谷三男の影響、
1949.11.10 ソ連邦国連代表ヴィシンスキー第4 回国連総会演説「われわれがソ連邦で原子力を利用するのは、原子爆弾の蓄えを増やすためではない。…われわれは、われわれの経済運営計画に沿って、われわれの経済・経済運営上の利害において原子力を利用しているのである。われわれは原子力を、平和的建設の重要課題実現に役立てることにしており、われわれは、山を砕き、河川の流れを変え、荒野を灌漑し、人間がめったに足を踏み入れたことのない場所でさらに新しい生活の路線を切り開くために原子力を役立てるのである」の影=広島大市川浩教授のご教示)
•徳田「独占資本主義のもとでは原子力は「動力源としては使えず、爆弾としてしか使えない」、なぜなら原子力を動力源にすると資本主義は生産過剰になり世界恐慌に突入する、それに対して社会主義のソ連では、平和産業が発展する」。
•原爆で「おおきな河を逆の方向に流れさすとか、大きな山をとっぱらって」「これまで不毛の地といわれたひろい土地が、有効に使われる」(cf. 45
年米国では「人工地震」計画、 占領期日本では仁科芳雄らの「台風の進路を変える」夢)、そこに「ミチューリンの方式で、新しい作物をどしどし適応させてゆく。そうすると、生産力の飛躍的な拡大となる。蒙古でもゴミの砂漠でも、新疆でも、ヨーロッパの文明圏の何倍もあるような不毛の土地が、原子力のおかげで、緑のしたたるような、ゆたかな沃野にかわっていく」
•「原子力を動力として使えば、都市や工場のあらゆる動力が原子力で動かされ」冷暖房自在で「飛行機、船舶その他ありとあらゆる動力として、つかえる」「そうすると、生活必需品も、物質の洪水みたいに、ありあまるほどつくれる」。1949.10.26
民科技術部会講演 徳田球一「科学と技術におけるマ ルクス・レーニン主義の勝利」も同様の内容(民科技術部会編『資本主義法則と科学技術』真理社、1950)=平野義太郎「資本主義法則と科学技術」、武谷三男「原子力産業と科学技術の行方」と一緒の連続講演記録、平野は唯物史観の「資本主義の全般的危機」法則=「4大矛盾・3大革命勢力」論から、徳田は「先ほどの武谷先生の話」を受けて語る。
1949,11.7『アカハタ』 徳田球一「ロシア革命32周年を迎えて」
1949.12.1 『前衛』44号 徳田球一「スターリンの70回誕生日に際して」
1949.12.14 『アカハタ』徳田球一「スターリンの70 歳誕生日を祝う挨拶」
(参考)加藤「占領下日本の『原子力』イメージ」2011.10 早稲田大学での講演記録より抜粋「原子力の平和利用」に託されたさまざまな「夢」原子力へのあこがれは、原子力発電ばかりではなかった。自動車・機関車・船・飛行機など交通手段の動力として、「機関車も燃料いらず、平和の原子力時代来れば」(『九州タイムズ』1946
年11 月27 日)、「月世界・金星旅行の夢ふくらむ、今日原子力の記念日」(『西日本新聞』46 年12 月3 日)と夢は広がる。ラジウム療法などは戦前から知られていたから、「原子力の医学的利用」(『海外旬報』46
年6 月10 日)、「平和のための原子力時代来る、新ラジウム完成す、安価にできるガンの治療」(『京都新聞』48 年8 月8日)はもとより、「お米の原子力時代」で農業増産(『生活科学』46
年10 月)、「農民の夢、原子力農業」(『明るい農家』49 年6 月)、はては「農家を悩ます颱風の道、原子力で交通整理」と原子爆弾で台風の進路を変えることさえ夢見る(『中国新聞』46
年7 月26 日)。寒冷地北海道の科学普及協会『新生科学』48 年12月号は「科学の目:近く原子力暖房」という具合である。つまり原子力は、敗戦・復興期の日本人の夢だった。それは人類史を画する新しい時代とされた。『科学の友』1949
年3 月号の「進歩してきた人類の文化」は、旧石器時代・新石器時代・青銅器時代・鉄器時代から始まり、フランス革命時代・産業革命時代・大戦時代を経て、ついに「原子力時代」に到達する。ヒロシマと共に原爆を経験したナガサキでも、「平和にのびる原子力、破壊→幸福の力→建設、驚異・300倍の熱量、航空機・自動車・医療へ実用化」と長崎原爆記念日に語られる(『九州タイムズ』49
年8 月9 日)。「平和のために闘う原子力」は『科学画報』49 年4 月にあり、「原子力は第2 の火、人間は別種の動物に進化」(『長崎民友』49
年1 月1 日)と讃えられ、原子力は「歴史を進める」主体、「文明」「進化」「進歩」の象徴となった。
労働組合も共産党もソ連原爆実験成功で「社会主義でこそ平和利用」
当時の華やかな労働運動のなかでも、たとえば全逓信労働組合広島郵便局支部の機関紙は『アトム』と命名され(1947 年9 月20 日)、国鉄労組東京鉄道教習所『国鉄通信教育』48
年12 月号は「第2 の火の発見ーー原子力時代」を「教養」欄で論じる。宇部セメント労働組合青年部の機関誌創刊号が『原爆』と名付けられたのは(49
年3 月1 日)、「原爆を神風にする道」(『北日本新聞』49 年8 月6 日)が唱われた時代であるから、強力な闘争の意であろうか。北越戸田労働組合の機関誌『暁星』にもコラム「原爆室」がみられ(48年9
月5 日)。左翼・革新勢力ほど、「原爆アレルギー」にはほど遠いようだ。特に1949 年は、1 月総選挙で共産党35 議席の大躍進、夏に下山・三鷹・松川事件、10
月1 日毛沢東の中華人民共和国建国宣言、その直前にソ連初の核実験成功発表である。すでに志賀義雄「原子力と世界国家」(日本共産党出版部『新しい世界』48
年8 月)等で「社会主義の原子力」の夢を語っていた共産党は、「光から生まれた原子、物質がエネルギーに変わる、一億年使えるコンロ」(日本共産党出版部『大衆クラブ』49
年6 月号)とボルテージをあげる。その頂点が、この頃流布した日本共産党書記長徳田球一の「原爆パンフ」である。「原爆」「原子力」を中性化する「アトム」「ピカドン」は漫画や物語にしかしまだ、「原爆」や「原子力」の言説クラウドでは、「原子力戦争は人類の破滅」(『週刊東洋経済』1949年4
月24 日)、「原子力と共産党員、使途は平和か武器か」(『九州タイムズ』49 年2 月25 日)、「天国の裏は地獄である、我々は何れを選ぶか」(『農民クラブ』49
年6 月)、「ソ連の原子爆弾で戦争の危機緩和か、原子爆弾に使われる危険」(『週刊東洋経済』49 年10 月)などと「原爆の裏面の平和利用」への留保があり、危惧もされる。占領軍GHQの検閲はあらゆる出版物に及び、原爆を落としたアメリカへの批判や広島・長崎の放射能被害の継続・晩成被害は隠蔽される。「ソ連に原爆と殺人光線」といった記事は検閲され(『京都新聞』48
年3 月11 日)、逆に「広島・長崎の原爆放射能消滅」というAP電はフリーパスになる(『北日本新聞』48 年10 月8 日)。ところが、「ピカドン」「アトム」とカタカナになると、あまり抵抗感なく受け入れられたようだ。カタカナの魔力は、「ピカドンと婦人、広島病院のお答え、不妊の心配なし、奇形児も生まれませぬ」(『中国新聞』1946
年7 月10 日)などと使われ、『佐世保時事新聞』48 年8 月2 日は、原爆記念日を前に「アトムの街々」特集を組み、「広島と長崎、それは原爆の地として世界注視のうちに新しい平和を求めて起つところ、人類に原子力時代到来を願って今こそ戦後の世界復興を」と訴える。広島・長崎を「アトム都市」とする記事は47
年から現れ、47 年12 月の昭和天皇の広島行幸は、「お待ちするアトム広島」(『九州タイムズ』47 年12 月1 日)、「ピカドン説明行脚、天皇がアトム広島に入られた感激の日」(『中国新聞』47
年12 月11 日)のように使われる。48 年の長崎原爆記念日は、「祈るアトム長崎、3 周年記念、誓も新た平和建設」と報じられた(『西日本新聞』48
年8 月10 日)。爆心地は「浦上アトム公園」と命名され(『熊本日日新聞』48 年8 月10 日)、「アトム公園を花の公園に」とよびかける(『長崎民友』49
年3 月24 日)。これがこどもたちの世界では、原子力をエネルギーとするロボットや怪物に化身する。「アトム先生とボン君」(『こども科学教室』(1948
年5 月1 日)、中野正治画「ゆめくらぶ・ミラクルアトム」(『漫画少年』48年8 月20 日)、和田義三作連載マンガ「空想漫画絵小説:アトム島27
号」(『冒険世界』49 年1 月1 日)、原研児「科学冒険絵物語 アトム少年」(『少年少女譚海』49 年8 月1 日)と、ほとんど無防備で「夢の原子力」へと一直線にワープする。かくして手塚治虫「鉄腕アトム」(「アトム大使」1951
年)の出現は、時間の問題だった。ヒロシマ「あとむ製薬」の滋養強壮薬「ピカドン」プランゲ文庫「占領期新聞雑誌データベース」では、広告欄と広告文も拾われている。『愛媛新聞』1949年1
月13 日広告に、「あとむ製薬」から「ピカドン」という薬も売り出されていた。調べて見ると、「あとむ製薬」は、1948 年広島市安芸区に設立された薬種会社で、その後も社名を変えて今日まで存続している。その社史によると、「あとむ製薬」は、もともと漢方薬から出発しており、「ピカドン」は新発売の滋養強壮剤だった。しかも「ピカドン」は、中国・四国地方の専売特許ではなかった。ウェブ上の「お薬博物館」には、「あとむ製薬」とは別の富山県黒部産「風邪にピカトン」という置き薬(1
包40 円)が写真入りで収納されている。富山市電子図書館にも、「かぜに新ピカトンM(Ueshima 製薬所)」とあり、同一であるかどうかは確認できない。いずれにしても、朝鮮戦争期の日本には、「ピカドン」(「ピカトン」であっても包み紙から瞭然)という薬が、広島と富山から発して、当時は普通に見られた富山の薬売りの行商を通じて全国に流通し、家庭に入ったことになる。1945
年に広島・長崎市民の生命を一瞬にして奪った原爆が、5 年もたたずに、その強力なエネルギーゆえに日本人の健康を守り強壮にしてくれるという、免疫作用のアナロジーである。50
年代に人形峠でウラン鉱脈が見つかると、「ウラン風呂」から「ウラン野菜」「ウラン饅頭」まで出現する前兆である(武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』中公新書、2011
年)
1950.1.18 JCP 第18 回拡大中央委員会報告 いわゆる「コミンフォルム批判」を受けての自己批判「ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展をしめすとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺したこと。原子力を動力源として適用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはやおかすことのできない革命の要さいであり、物質的基礎となった。」
1950.4.26 拡大中央委員会書記長一般報告草案に対する意見(志賀意見書、いわゆる国際派の所感派批判)志賀義雄「ソ同盟が原子力を保持したことをとりあげて革命の要塞を強化したというが、そこにはソ同盟が世界の恒久平和の最大の保持者であることは全く認められていない。だから、それにはブルジョア原子力外交のうらがえしを認めるだけで大衆の目をそらせソ同盟をも戦争の立役者にしたてる印象を与える。
1950.4.26JCP「当来する革命における日本共産党の基本的任務について」草案
「ソヴェト同盟において原子力の運営が卓越し、アメリカをびっくりさせ、彼等を水素爆弾の製造その他新しい武器の製造の宣伝に熱中」させている
1950.7.5JCP「戦争の危機に際して全人民に訴う」 (→国民の科学、国民の歴史学運動)
「われわれは、戦争によって最も悲惨な経験をなめた国民であり、原子爆弾の犠牲になった唯ひとつの民族である! 広島と長崎では一瞬のうちに19 万4千の同胞が死に、数十万の人々が不具者となった。この恐るべき惨禍をふたたびくりかえさないために、この平和投票[ストックホルム世界平和評議会アピール]に参加することは戦争に生き残ったわれわれの任務である。すべての愛国者は、平和のための投票を」
1952.4 独立:吉田茂の「科学技術庁」構想(前田正男)、日本学術会議「茅・伏見私案」否決=「日本の科学者が、原子力について真剣な討論を交わしたほとんど唯一にして最後の機会」(藤田祐幸)1952.8『婦人画報』武谷「原子力を平和的に使えば」
・「キュリー夫人、ジュリオ・キュリー夫人、マイトナー女史、このような平和主義的母性の名をもって象徴される原子力」、
・「原子力発電では、少量の原料で大発電ができる」「北極や南極のような寒い地方、絶海の孤島、砂漠などが開発され、そういう地方にも大規模な産業がおこなわれ、大都市をつくることができる。ロケットで地球外にとぶだすこともできる」「とくにソ連やアジア大陸のように大規模な自然を持つ土地では、土地改良に原子力が大きな役割を果たすことが期待される、すでにソ連では原子爆発で山を吹き飛ばし、川の流れをかえたということもいわれている、日本などでも電力危機は完全に解消されるだろう。そして電力をもっと自由に家庭に使用することができる。今日の日本の一般家庭では電灯とラジオ位にしか使われていないが、台所の電化はもちろん、暖房、冷房、洗濯、掃除もすべて電力で行われることになるだろう」、農業には大規模温室、太陽灯でいつでも新鮮な野菜、アメリカは「武器にばかり熱心で、平和的利用にあまり力を注がない」「ソ連は原子力の利用に非常に熱心なので、おそらく10
年もすれば」可能、原子力の副産物の放射能も「化学変化の研究や医学に」、デンプン人口合成も、「きっと近いうちに肥った人がやせたり、やせた人が肥ることも自由になるだろう」「皮膚を美しくするような化粧法」
1952.11『改造』武谷「日本の原子力研究の方向」(加納実紀代のいう「だからこそ」の論理)
・「日本人は原子爆弾を自分の身に受けた世界唯一の被害者であるから、少なくとも原子力に関する限り、もっとも強力な発言の資格がある。原爆で殺された人々の霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも人を殺す原子力研究は一切日本人の手では絶対行わない。そして平和的な原子力の研究は、日本人がこれを行う権利を持っており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなす義務がある」
・民主・自主・公開3原則「日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである。また、日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない。また外国との密接な関係は一切結ばない。日本の原子力研究のいかなる場所にも、いかなる人の出入りも拒否しない。また研究のためいかなる人がそこで研究することを申し込んでも拒否しない。以上のことを法的に確認してから出発すべきである」→学術会議決議→原子力基本法
(「だからこそ」の愛国主義的論理が、「国民の科学」運動と連動しているか?)
1953.12 アイゼンハワーAtoms for Peace 演説、54.3 ビキニ水爆被爆、中曽根予算、4 月学術会議で原子力平和利用3原則
1953.4 民科物理学部会『季刊理論別冊 日本の原子力問題』(理論社)当時の科学者たちの理解の集大成
1953.8.21『北海タイムス』武谷「ソ連の水爆実験を聞いてーー戦争はこれからやりにくくなる」
・「原爆と違って水爆は戦争以外に全く役立たない」→アイゼンハワーAtoms for Peace 提案、茅・伏見提案への反対、「水爆は人類の敵」、この原爆と水爆の区別、「死の灰」体験が武谷の「転向」の出発点になる
1954.3.13『読売新聞』武谷「ガラス張り原子力憲章を」
・「原子力の平和利用は重要であり、その時期がせまっていることもたしかである。しかし日本でそれを利用
するのには、まだ10 年間は準備の余裕がある」
1954.3,29 『新潟日報』武谷「不明朗な原子炉予算」 原子力のマーシャルプラン
1954.3,30『日教組教育情報』武谷「ビキニ被爆事件について」水爆のエネルギー、死の灰は予想以上
1954.8.8『中国新聞』武谷「原子力発電の意味するもの」
・「原子力発電は原爆や水爆の製造技術や企業とは、桁違いに高級かつ困難な代物であり、現在その幾多山積している難問はまだほとんど未解決」、「死の灰の処理」は容易ではない。
1954.11『前衛』杉村敏夫「平和と民族独立のとりでソヴェト社会主義共和国同盟̶̶大十月社会主義革命37周年にあたって」
・「平和のための、原水爆禁止のための何億という人民の大運動」「今年の(ソ連)原子力発電所の建設と操業の発表ほど、世界の平和と民主主義と社会主義の事業に大きい奉仕となったものはない」。
1954.7 民科自然科学部会共同デスク『死の灰のゆくえ』(蒼樹社、第5福竜丸)
1954 .8.30 民主主義科学者協会歴史部会編『世界歴史講座』最終第6 巻、鳥居広「現代と原子力」
1954.10 民科共同デスク『死の灰から原子力発電へ』(蒼樹社)
1955.2 林克也『未来をつくりだす原子力』(青木新書、ソヴェト原子力の勝利)
1955.1.1 正力=読売新聞・CIA の原子力平和利用キャンペーン、大演説会、博覧会
1955.4 E.H.S.バーホッフ『原子力の挑戦』(中央公論社)世界平和評議会評議員、ロンドン大学
1955.10 陸井三郎・野中昌夫編訳『ソヴェトの原子力』(三一新書、1955.10)平和利用の実際、安全な原発
1955 J・アレン『原爆時代から原子力時代へ』(理論社)世界はまだ原爆時代、真の原子力時代へ
1955.4.9 世界平和評議会ストックホルム特別総会「原子力委員会の声明」(『前衛』1956.7)
「人類の希望は原子力の利用によって非常に大きくなりましたが、同時にまた恐怖も非常に大きくなりました。原子力利用のための科学者の努力と物的資源の大部分がなんと戦争の準備のためにそそぎこまれている。原子兵器競争が続いている間は研究や平和利用の分野でのどんな試みも妨げられるでしょう。恐怖から解放された世界において、原子力の建設的利用を実現するようになることは、まさにすべての諸国民の仕事であります」。
1955.7.28 日本共産党第6回全国協議会(6全協)「平和を求め、原子戦争に反対」
1955.12 原子力基本法成立
1955,8 第一回原水禁大会:武谷演説「現在の原水爆時代を克服しない限り、原子力時代は訪れない」
1956.1 原子力委員会設置(初代委員長正力松太郎、石川一郎・湯川秀樹・藤岡由夫・有澤広巳委員)
1956.6 日本原子力研究所が茨城県東海村に設置。
(参考)森滝市郎の証言(『核絶対否定への歩み』渓水社,1994より、以下同)
http://www.gensuikin.org/data/mori1.html
1955 原発の贈り物
私が広島で原発の問題にもろにぶつかったのは、一九五五年(昭和三十年)の一月末であった。一月二十八日(金)の日記 「・・・夜、原水禁広島協議会常任理事会。・・・イエーツ米国下院議員が広島に原子力発電所を建設すべしとの提案をなした、との報道が今朝の新聞・ラジオで行なわれたのでこれに関して熱心な討議。結局、市民に問題点を明示する声明書を出すこととなる。起草委員は渡辺、森滝、佐久間、田辺、迫」。一月二十九日(土)の日記
「中国新聞に昨日、私がただ一言『うかつに受け入れてはならぬ』と原子力発電所について記者の問いに答えたことが大きくとりあげられていた。午前、渡辺文学部長の部屋に起草委員が集まり、原子力発電所問題についての声明書をつくり、午後、報道関係の人々を集めて発表」。一月三十日(日)の日記
「昨日の声明書が各新聞の三面に報道された。米国にもはっきり伝えられるであろう。・・・・」。この声明の原文はいま探し出せないのが残念であるが、中国新聞に載った声明要旨は以下の通りである。原子力発電所装置の中心となる原子炉は、原爆製造用に転化される懸念がある。原子炉から生ずる放射性物質(原子核燃料を燃焼させて残った灰)の人体に与える影響・治療面の完全な実験が行なわれていないため重大な懸念がある。平和利用であっても、原子力発電所の運営に関してアメリカの制約を受けることになる。さらに、もし戦争が起こった場合には広島が最初の目標になることも予想される。原爆を落とした罪の償いとして広島に原子力発電所を設置するということもいわれているが、われわれは何よりも原子病に悩む数万の広島市民の治療、生活両面にわたる完全な補償を行なうことを要望する。この声明書を見た浜井市長は、困惑と失望を隠さなかった。出会いがしらに私に言った。「新聞であの声明書を見たときは『しまった!』と思いましたよ。マイク正岡は、本当に善意であそこまで運んでくれたのに」と。
浜井市長の新聞談話には「原子力平和利用は一昨年から私が米国によびかけていたもので、とくに昨年渡米したときマイク正岡氏にも頼んだ。彼の熱心な運動が実を結んだのだと思う。しかし微量放射能による悪影響が解決されない限り平和利用はあり得ない。いずれにしても原子力の最初の犠牲都市に原子力の平和利用が行なわれることは、亡き犠牲者への慰霊にもなる。死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う」と。イエーツ議員が一月二十七日下院に提出した決議案の趣旨説明も、「広島に原子力発電所を建設しようとの提案は昨年九月、政府原子力委員会のマレー委員によってなされたもので、その目的は、人間の発明を死のためではなく、生のために使うよう努力すべきだ、とのアイゼンハワー大統領の提唱を実現しようとするためにある」と。生のための善意の贈り物と信じたい。しかし、浜井市長が心配した微量放射能の問題は、あれから四半世紀経た今日もなお解決していない。
1956.5-6 広島平和利用博
翌一九五六年(昭和三十一年)には「広島原子力平和利用博覧会」(五月二十七日~六月十七日)が開催されて、私たちは、またしても「平和利用」問題にぶつかった。アメリカが全世界に繰りひろげていた原子力平和利用博覧会は、すでに開催地二十六ヶ国におよび、観覧者は一千万人を突破していた。日本では東京、名古屋、京都、大阪の会場で百万人近い観覧者をのみこんでいた。それがいよいよ広島に来るというのである。
被爆者の小さな反発のつぶやきはなんともなるものではなかった。しかし原爆資料館の陳列品を撤去して、そこを会場として使用するということに対しては反発せざるを得なかった。
二月五日(日)の日記 「・・・被爆者連絡協議会世話人会。三月初旬に県内の大会。原子力利用博に原爆資料館を使用することに反対・・・」
二月十日(金)の日記 「・・・夕方、市長(渡辺氏)と原爆資料館の資料持ち出し(利用博のため)につき話し合う。持ち出しは不見識であることに市長も共鳴。しかし、いまとなっては財政上、資料館を使用せざるを得ざる段階なりと」。
四月二十五日(水)の日記 「・・・アメリカ文化センター館長フツイ氏よりアメリカ政府の回答を受け取る。三月一日のビキニ二周年集会の決議により、米英ソ三国首脳に送った水爆実験中止要請の手紙への返事。日本政府への回答と内容はほとんど同じ」。その頃、アメリカ文化センターは、広島ではアメリカ大使館の出先機関」の任務をもっていた。私は、この回答の手紙を受け取ったあと、フツイ館長に対して、原子力利用博の会場のために、原爆資料館の陳列品を持ち出すべきでないこと、被爆市民の感情をよく考慮すべきことを諄々と説いた。私は遂に、「私があなただったら、そんなことは絶対にしない」と、かなり語気強く言った。すると、フツイ館長もひらきなおって言った。「私は『平和利用!』『平和利用!』『平和利用!』で広島を塗りつぶして見せます」と。その後、広島市当局は、条例からいっても、原爆の資料展示は会期中も中止できないという理由で、会期中は基町の中央公園に移すという糊塗策をとった。
五月二十五日(金)の日記 「中国新聞の招請で原子力平和利用博覧会の下見をする。評を求められて、原子炉のいわゆる『灰』(放射性物質)の処理法法が示されていない点を指摘す」。ともかくも広島原子力平和利用博覧会は、アメリカ文化センター、広島県・市、広島大学、中国新聞社の共催で五月二十七日に華々しく開催し、反響は大きかった。会期終了後、人気を呼んだマジック・ハンドや、あらゆる型の原子力発電所や原子力船の模型は、そのまま原爆資料館に寄付され、何年間か資料館に陳列されていた。原子力は戦争に使われたらこんなに悲惨だが、平和利用の未来はかくもすばらしい、ということがひとめでわかるように。しかし、あのとき、私が原子炉の「灰」の処理方法が示されていない、と評したこの問題は、四半世紀後の今日も未解決の「放射性廃棄物の究極的処理」の問題として人類に迫ってきているのである。
1956 被団協の創立宣言
米国から広島に原子力発電所の贈り物という話が出た一九五五年(昭和三十年)は、あの感動的な第一回原水禁世界大会が広島で開催された年である。この大会では広島・長崎の原爆体験が初めて広く伝わり、原水爆禁止と被爆者救済の運動の出発点となったが、原子力の「平和利用」も「原発」も話には出なかった。ただ鳩山首相のメッセージだけが「平和利用」に言及した。松本副官房長官が代読した首相のメッセージはいたって簡単であった。いわく「本大会に外国から多数参加され敬意を表します。原子力が人類の福祉のために使用されることを祈ります。本大会の成功を祈ります」と。しかし、原水爆の禁止や核実験の禁止については一言も触れなかった。「原子力平和利用博覧会」が広島で開催された一九五六年(昭和三十一年)は、第二回原水禁世界大会が長崎で開かれた年である。さすがにこの大会では「平和利用の分科会」が設けられた。しかし、そこには「平和利用」否定の意味は微塵(みじん)もなく、「平和利用」は民衆のためのものであるべきであり、独占大資本のためであってはならぬ、という警告的な発言が多かっただけである。例えばイタリア代表のキャサディー氏は、「平和のために利用される原子力は、巨大な独占利潤を増加させるために使われるのではなく、すべての労働者がより多くのパンとより高い生活水準と、よりよい健康と安定した完全雇用と、より多くの自由と幸福を実現できるように社会の共有財産となることを望む」と述べた。ルーマニアのノヴァク教授も平和利用は民衆のためのものでなければならぬ旨を伝えた。鳩山首相は長崎の大会にもメッセージを寄せたが、前回と同様に、原水爆禁止に触れることなく平和利用のみをうたった。いわく「原子力が世界平和と人類の幸福のために善用されることを切望する」と。日本学術会議の原子力平和利用の三原則の「民主・自主・公開」が平和利用の前提であることは、この大会で国際的に認められた。「平和利用」という言葉は、このように日本の原水禁運動の初期から突きつけられたが「民主・自主・公開」という用心のカベが設けられただけで、一般には「平和利用」のバラ色の未来が待望されていたのである。
原子力の「軍事利用」すなわち原爆で、あれだけ悲惨な体験をした私たち広島、長崎の被爆生存者さえも、あれほど恐るべき力が、もし平和的に利用されるとしたら、どんなにすばらしい未来が開かれることだろうかと、いまから思えば穴にはいりたいほど恥ずかしい空想を抱いていたのである。長崎での第二回世界大会のなかで結成された日本被団協の結成大会宣言には「世界へのあいさつ」というサブタイトルがつけられていた。世界に向かって被爆者の思いのたけを述べたものであったが、その結びに近いところで、「私たちは今日ここに声を合わせて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたとふたたび繰り返してはなりません。破滅と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄の方向に向かわせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」と。しかも草案を書いたのは私自身だったのである。
1955.9『エコノミスト』武谷「『原子力時代』への考え方」
・原子力発電は「まだ基礎研究の段階」で、「現在はまだ原水爆時代」。安全性、許容量、これから 10 年実験研究、さらに10 年実用試験、「本当に経済的に実用的な意味」は20
年後。56年1月に原子力委員会設置初代委員長正力松太郎、2月スターリン批判、5月広島平和利用博覧会、6月日本原子力研究所開設1956.7「『前衛』永田博「原子力問題について」
・中央メーデーで「原水爆禁止」と共に「原子力の平和利用促進」のスローガン採択。「労働者が原子力の平和的利用に一歩ふみきったことは、原子力の研究、利用、開発がいま、鳩山内閣の計画によっておこなわれているとはいえ、労働者自らがそれにたいし積極的な意志を発表し、行動しようと決意したことを意味する。労働者階級がそのメーデースローガンとして原子力の平和利用促進をとりあげたのは、このような反動勢力の膨大な夢のような宣伝の結果よりも、労働者階級みずからの諸経験、たたかいの成果として、その必要を感じたためといわなければならない。」第一に、「国際的なたたかいの成果。とくに原子力に関しては、一つは平和勢力の中心となっているソ同盟が原水爆をもち、最終兵器ともいわれる水素誘導弾を完成しようとしている事実が、帝国主義者の原子戦争挑発をためらわせている」「ソ同盟における原子力平和利用の飛躍的発展が、アメリカ、イギリスを追いこし、ソ同盟をのぞいては、原子力平和利用を語ることができなくなった」。第二として「わが国にも、このような国際的な平和の力にそう国内の平和勢力がしだいにきずかれて強くなっている」「原子力についていえば、原水爆禁止にたいする国民の行動の統一、その世論は、なお、弱点はあるにしても、もはやゆるぎないものとなっている。」「日米原子力協定、原子力基本法についても、わが国の自主性、研究の民主的自由を主張し、鳩山内閣をして譲歩させている」「ここからして、原子兵器が全面的に禁止され、鳩山政府が打倒されるまでは、わが国における原子力平和利用の問題は、実際に問題になりえないといった機械的な態度をとることは許されない」。
•55 共産党六全協ー56 スターリン批判・ハンガリー民衆蜂起ー民科全国活動停止・武谷三男離反
•56 原水禁大会決議・分科会、被団協結成宣言への「原子力の平和利用」明記
•再建日本共産党の綱領討論・決定への方向付け(社会党・総評も「平和利用」促進)
1956.10『科学画報』武谷「二つの世界と二つの科学」ソ連の唯物弁証法と称するものにもお門違いが
1957.1『世界評論』武谷「大国と小国と平和と」ハンガリー事件でソ連批判、小国主義・人権主義の立場へ |
(参考) 武谷三男の立場の変遷
① 武谷三男は、敗戦直後から日本共産党の科学技術政策に関わり、原爆の「反ファッショ的性格」から「原爆研究の平和利用」を説き、徳田球一・志賀義雄ら党幹部の原爆・原子力観(「原爆の平和利用」)にも大きな影響を与えた。「原子力時代」「原子力の平和利用」論の論点を先取りし、政策的根拠を提供し、しかも占領期論壇における「原子力」専門家として党外でも大きな啓蒙的役割を果たした。坂田昌一・伏見康治と共に民主主義科学者協会の「原子力の平和利用」観をまとめあげ、湯川秀樹・朝永振一郎らとの架け橋になり、公選制の日本学術会議で「三原則」を採択する上で決定的役割を果たした。
② しかし自分自身は、日本共産党の分裂、核物理学者共同体の分裂(特に伏見康治の民科離反と茅誠司・藤岡由夫への接近)、実際の原子力予算・原子力基本法運用に失望し、ソ連の水爆実験・放射能汚染拡散以後、スターリン批判とハンガリー民衆蜂起の衝撃も重なり、ソ連を「軍事的戒厳令的社会主義」と規定することになった。「原子力時代」の夢を先送りし、なお「原水爆時代」であるとして、原水爆禁止運動・原発反対住民運動・第三世界運動に関わるようになり、安全性や許容量の考え方の啓蒙に力点を移した。
③ ただし「原子力の平和利用」との原理的決別にはいたらず、そのことが、後に一緒に原子力資料情報室を立ち上げる高木仁三郎らとの関係に影を落とす。武谷三男は、自らが重要な役割を果たした日本共産党の原子力政策が2011.3.11
まで70 年をかけて屈折・修正していく「原子力の平和利用」の論拠喪失過程を、戦後10 年余りで体験し、駆け抜け、「卒業」していった。
1957.7『中央公論』武谷「誤れる水爆主義者たち」放射能はどんな微量でもそれなりに有害、ソ連水爆実験で日本にも「死の灰」→平和論の転機、安全性・許容量→
1975 原子力情報資料室代表→1976『原子力発電』。
1957.11『前衛』「党章草案・規約」発表特集、志賀義雄「十月社会主義大革命と日本共産党」 「ソヴェト同盟が大陸間弾道弾のようないわゆる究極兵器をもっているということは、世界の人類にとってむしろ幸福だといわなければならない。なぜならば、戦後一貫して国際緊張を激化し戦争挑発者としての役割を演じてきたアメリカ帝国主義が、世界のいかなる地点においても、たとえばそれが局地的なものであろうとも戦争をはじめるということは容易にできなくなった」。
1958.6 『思想』武谷(久野収対談)ソ連=「軍事的戒厳令的社会主義」、以後反原発住民運動へ
1958.7-8『前衛』第7回党大会
野坂参三第一書記「中央委員会政治報告」
「変化の第一はソビエト連邦を先頭とする社会主義陣営が、アメリカを先頭とする帝国主義陣営にたいして優位を占めるにいたったこと」「人間の自然征服に新しい紀元をひらいたソ連の人工衛星の成功は、ソ連の科学技術の輝かしい勝利を証明している。それは社会主義体制の優位性と、その偉大な未来をさししめしている」。
宮本顕治「綱領問題についての中央委員会報告1」
「1947 年、アメリカ帝国主義者はトルーマン宣言によって、ソ連邦との戦時中の協力関係を公然と破棄し、ソ連邦に対する「力の政策」「冷い戦争」を宣言するにいたった」アメリカ帝国主義の原子戦争準備、日本の原水爆基地化、アメリカの極東原子戦略、「多くの自然科学者と技術的インテリゲンチャの少なからぬ部分が人類の未来に輝かしい展望を約束するオートメーションと原子エネルギーが、独占資本をふとらせるために、また大量殺人兵器をつくるために利用されていることにつよく反対し、それを『平和、民主、自主』の三原則により、人類の幸福にだけ研究、利用することを熱望している」。要求「四
学問・芸術・文化の発展のために」2.「原子力の軍事的目的への利用に反対、平和利用のための民主的自主的研究の奨励」、日本の技術的後進性・対米従属
1961.7 第8回党大会における確立
•前提:1957 モスクワ12 社会主義国共産党・労働者党宣言、1960.11 81 か国共産党・労働者党声明「ソ連の科学は、世界文明の発展に新しい時代を開いた。ソ連は歴史上はじめて全人類のために共産主義の道をきり開いている。」「科学・技術の決定的部門で世界一の地位を占めた強大なソビエト連邦」
・1961 年綱領「世界資本主義の全般的危機の新しい段階」
・JCPの綱領的立場としての「原子力平和利用」ー平和運動のなかでの分裂要因に(60年代原水禁、70年代反原発、80年代脱原発運動において「核と人類は共存できる」の立場で原水禁・脱原発運動批判)
1961.7『前衛』第8回党大会
野坂議長報告 「ソ連は共産主義建設を全面的に展開する時期にはいり、その他の社会主義諸国は、つぎつぎと、社会主義社会の基礎の建設をおわってその完成の時期にうつりつつある」、「ソ連は、すでに科学・技術の点でアメリカを追いこしたが、とくに人類の歴史上はじめて人間をのせた宇宙船が地球を一周して無事に帰還したことは、だれもうたがうことのできない明白は事実をもってこのことを証明した。この数年中には主要工業生産部門の生産量の点でも、ソ連はアメリカに追いつこうとしている。また社会主義陣営の工業生産総額は、おなじく数年中に、資本主義世界のそれを追いぬくであろう」。
綱領「世界資本主義の全般的危機の新しい段階」(原子力は綱領に入らず)1961 .7「原子力問題にかんする決議」(『日本共産党決議決定集 7』)
「原子力の発見と解放によって、人類は一グラムの物質から二百五十億キロワット時という巨大なエネルギーをとりだせる可能性をえたばかりでなく、工業、農業のあらゆる生産分野から医療その他の日常生活の領域にいたるまで、画期的な展望を見いだし、自然にたいする人類の英知のかがやかしい勝利を示した。原子力の問題は、「軍事的利用と平和的利用というたがいに対立する深刻な二面性をもっている。原子力についての敵の宣伝は、原子力がもつ人類の福祉のための無限の可能性が、帝国主義と独占体の支配する資本主義社会においてそのまま自動的に実現できるかのように主張している。しかし、帝国主義と独占体の支配のもとでは、軍事的利用が中心におかれ、それへの努力が陰に陽に追求され、平和的利用は大きく制限される。したがって軍事的利用を阻止し、平和利用、安全性をかちとる道は、帝国主義と独占体の支配の政策に反対する統一戦線の発展と勝利にむすびついている。原子力のもつ人類のあるゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させることは、人民が主権をもつ新しい民主主義の社会、さらに社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこのことを示している」(2011.5.10
不破哲三「『科学の目』で原発災害を考える」で「最初からきっぱり反対」の典拠とされたもの)
2011 年5 月10 日、日本共産党中央委員会主催の第4 回「古典教室」で、不破哲三・社会科学研究所所長がおこなった講演「科学の目で原発災害を考える」(5月14
日付「しんぶん赤旗」)。日本で、原子力発電が問題になってきたのは1950 年代の中ごろからで、1957 年には東海村で研究用の原子炉が初稼働し、1960
年代に商業用の発電が始まるのですが、日本共産党は、安全性の保障のない「未完成の技術」のままで原子力発電の道に踏み出すことには、最初からきっぱり反対してきました。私たちが、党の綱領を決めたのは1961
年7 月の第8 回党大会でしたが、その大会直前の中央委員会総会で、この問題を討議し、「原子力問題にかんする決議」を採択したのです。その決議は、
―「わが国のエネルギー経済、技術発展の現状においては、危険をともなう原子力発電所をいまただちに設置しなければならない条件は存在しない」
―原発の建設は、「原子力研究の基礎、応用全体の一層の発展、安全性と危険補償にたいする民主的な法的技術的措置の完了をまってから考慮されるべきである」として、日本最初の商業用発電所とされた東海村の原子力発電所の建設工事の中止を要求したものでした。それ以来、この問題でのわが党の立場は一貫しているのです。そして、ただ「反対」というだけでなく、国会では、大事な局面ごとに、この問題を取り上げて、原発のもつ危険性とそれを管理・監督する政府の態度の無責任さを、具体的に取り上げてきました。(上記下線部分はすべて省略されている)
● 以上の過程での「原子力の平和利用」の存立論拠:武谷三男にとっては「見果てぬ夢」になる、その最大の問題は「原爆と違って水爆は戦争以外に全く役立たない」こと、放射性物質=「死の灰」の処理の問題だった。
① 現存社会主義の核保有・技術的優位、
② 平和勢力の闘争による軍事利用阻止(原爆の平和利用2=「社会主義」的抑止論)、
③ 利潤追求の資本主義のもとでの平和利用の限界、
④ 科学・技術者の熱望と原子力基本法3原則、
⑤ 巨大生産力の民衆的解放(原爆の平和利用1=「開発技術としての原爆」を含む)、
⑥ 自然征服こそ人類の進歩
〈参考〉 いわゆる「新左翼」、黒田寛一の場合
①「原子力の利用技術が、まずもって原水素爆弾として、次に原子力発電として開発されたことのなかに、二十世紀技術文明の悪が象徴的に示されている」(黒田寛一『実践と場所』第2
巻、345 頁)。「『原子力問題』は……たんに平和問題にかかわるだけではなく、そもそも科学・技術のブルジョア階級性に、資本の定有としての現代技術諸形態にかかわるのである。……現代技術文明そのものの歴史的性格が、その独占ブルジョア的本質そのものが、いまこそ問いなおされなければならない」(同、346
頁)。
http://blog.livedoor.jp/newrevolution/?p=2
② 一方で「革命的左翼」を自称してきた私たちはどうだったのか。 「自然の法則を探求し、自然を無限に支配してゆこうとする人類の知性は、ついに原子力の解放に成功した」。これは、黒田寛一が『現代における平和と革命』(1959)で第1章の冒頭に掲げた文章である。黒田はこのように核技術を賛美し、それを「ナチズムの打倒」や「日本帝国主義を崩壊せしめる武器」となったと賛辞を贈っていた。われわれはこの思想と批判的に向き合うことはなかった。
http://kakukyodo.jp/mirai1186.htm
③「人間の知性は、原子力の解放に成功しました。だが、原子力は、全人類の福祉の向上と平和目的に使用されず、あべこべに大量殺人兵器の製造のために動員されている……」(黒田『社会観の探求』現代思潮社、第10
刷、1967、23 頁) |
<付録2 1961年綱領後のJCP「原子力の平和利用」論の修正・形骸化過程>
第1の転機 1960年代「社会主義の防衛的核=原爆の平和利用、抑止力」に固執し、ソ連・中国の核実験を支持して原水禁運動の分裂を招く
〈参考〉森滝市郞日記・ソ連の核実験
原子力の軍事利用は否定し、平和利用は肯定するという、原子力に対する国民一般の態度は、日本の原水禁運動が起こってから数年間は無事に続いていた。ところが、軍事利用否定の根底に大きな亀裂を生ずる事件が起こった。その発端は、一九六一年(昭和三十六年)八月三十一日にソ連が核実験再開の決定を発表したことにあった。その直前、八月半ばの第七回原水爆禁止世界大会の決議では、米国の実験再開の動きを強く警戒して「こんにち、実験を再開する政府は平和の敵、人類の敵として糾弾さるべきである」と表明されたばかりのところに、ソ連が最初に実験を再開してしまったのである。それだけに衝撃と困惑は、いっそう大きかった。
八月三十一日(木)の日記 「ソ連核実験再開声明(モスクワ放送)、大きなショックと怒り。夜、県原水協担当常任理事会に於て、ソ連政府宛て再開中止要請電報を発し、理事長談話を発表して県原水協の態度を明らかにし、県民に奮起を促す」。
九月一日(金)の日記 「・・・夜、実験再開についてのソ連の声明全文を読む。再開せざるを得ない情勢と第三次大戦の勃(ぼっ)発を防ぐためという趣旨であるが、すべてこれ口実のみ。人類の立場は全然考えられていない。やはり人道への反逆である。『力』を信ずるものの犯すあやまりである」。
九月三日(日)の日記 「緊急課題としてソ連核実験再開問題。激論たたかわされ、結局は次の四項にまとまる。ソ連の核実験再開に強く抗議する。さらにその背後にある国際情勢を考え第三次大戦防止のため軍備全廃の運動をさらに推進する。国連や非同盟諸国首脳会議(ベオグラード)に核実験中止をはたらきかける。ソ連以外の核兵器保有国が連鎖的に実験をしないように各国に要請する。・・・夜七時から平和会館で今日の会議から託された四項の処理。その第一項目のソ連政府への抗議文作成。その討議の中でH氏がソ連声明支持を表明し、抗議文に態度保留・・・」。
十月十四日(土)の日記 「・・・夜、共産党広島県委員会よりM氏とY氏が代表として来訪、申入書提出。・・・ソ連核実験再開を支持することこそ今の正しい平和運動であるから県原水協のこんどの集会(十月二十三日)でもそうなるようにしてもらいたいという趣旨・・・」。思えば、これから後三年間が日本の原水禁大会のいわば煉(れん)獄の歳月であった。その間に大衆討議で練り上げられた「原水禁運動の原則」もできた。国民の良識の結晶のような「二・二一声明」も出た。しかし、いずれも無残にじゅうりんされて焼津も広島も、長崎も、すさまじい混乱と分裂の場面となった。三つの被爆地は結束して奮起せざるをえなかった。やがて原水禁国民会議の誕生ともなった。あの人類史上空前の国民的体験から、いかなる国の、いかなる理由による核実験も核兵器も絶対に是認、肯定することはできないという、核絶対否定の思念と行動以外はありえなかったのである。
1962.10 JCP 第4回中央委員会総会
・ソ連の核実験再開、日本の右翼社会民主主義者・修正主義者はソ連政府に抗議、原水禁世界大会にも、「社会主義国と資本主義国の軍事力を戦争勢力として同一視」「核兵器対人類一般という、帝国主義戦争勢力を免罪し、核兵器一般を人類の敵とするという、非階級的、非科学的な抽象的命題に解消」するスローガン持ち込み
→63・64 原水禁大会内部対立・分裂、65/1 原水禁結成 |
1964.11『前衛』第9回党大会特集
•中央委員会報告「中国が余儀なくされた核実験の基本的意義は、アメリカによる核戦争の危険をともなうアジアの侵略計画を打破するため」「わが党の当面の要求=原子力をはじめ、すべての科学、技術を米日反動の利益に奉仕させ、軍事的侵略的目的に利用することに反対し、その平和目的の自主的民主的研究と、人民の福祉と安全を保障するためにたたかう。原子力の平和利用と自主、民主、公開の3原則の厳守を要求する」→1963年10月26日に茨城県東海村で12.5MWの動力試験炉を用いて2000kWの発電に成功(10月26日は原子力の日になる)→1970年3月日本原子力発電敦賀1号機、70年11月関西電力美浜1号機、71年3月東京電力福島第一原発1号機、72年7月関西電力美浜2号機、74年3月中国電力島根1号機運転開始
1966.11『前衛』第10 回党大会特集
•「核実験による放射能は、米ソいずれの実験を問わず当然それ自体生理的に有害なものである。われわれは、この実験そのものが持つ人体への有害な作用を軽視していない。だが、そこから世界平和の大局的な利益にとってのソ連核実験の政治的意義を、物理的な現象と混同することは正しくない。社会主義国の実験は、帝国主義者による核戦争を阻止する役割をもっている」「核実験の循環競争の機動力はアメリカ帝国主義である。したがってソ連の核実験に抗議することは、世界平和の立場からみて妥当でない」→1973
年11 月日本共産党『核兵器全面禁止と原水禁運動』 でようやく転換。論拠「この数年間重要な変化がおこった。社会主義国であるソ連と中国自体が互いに対立し合うようになった。…またソ連のチェコスロバキア侵略という、われわれが非難した事態、残念ながら社会主義国の大義に反した侵略行動がおこっている。このように中ソの国際政治における立場には変化が生じている。そういう段階で初期のように、中ソの行動がすべて無条件に防衛的なものだとか、よぎなくされたものだとは、簡単にいえなくなってきている。
」 |
(参考)上田耕一郎『マルクス主義と平和運動』1965 vs. 加藤『国家論のルネサンス』1986
・JCPの平和論の枠組は、「資本主義の全般的危機」論=万年危機、具体的分析の放棄、世界史の「新段階」乱発、典型的には上田耕一郎。
・問題は、「万年危機」の断末魔イメージよりも、理論的核心としての「4大矛盾・3大革命勢力」論
「4大矛盾」とは、
(1)資本と労働の階級矛盾、
(2)帝国主義=抑圧民族と被抑圧民族の民族矛盾、
(3)帝国主義国家間の矛盾、
(4)資本主義と社会主義の体制間矛盾、
というもので、当時の国際共産主義運動が共有する時代認識。単純にして便利な世界像で、もともとブハーリンのコミンテルン綱領草案1922 年が起源。スターリン時代に世界に広がった。上田はここから、①人民の内乱=革命戦争、②帝国主義に対する民族解放戦争、③社会主義の防衛戦争、を「正義の戦争」と抽出し、他は「不正義の戦争」とした。「社会主義内部の内乱・戦争」は、論理的に出てこないものだった。(加藤『国家論ルネサンス』所収、Ⅵ・Ⅶ章、1981)同時に、「3大革命勢力」が「正義の戦争」を闘う主体でアプリオリに「平和勢力」になる
(1)資本主義国内での労働者階級の闘争、
(2)被抑圧民族の反帝国主義民族解放運動、
(3)ソ連・中国など社会主義国家体制、が無条件に「平和勢力」になり、「帝国主義国家間戦争(ファシズム対民主主義)」の場合など必要に応じて帝国主義国家間矛盾を利用し、「動揺する小ブルジョアジー」「平和主義者」を「平和勢力」「統一戦線」へと動員・利用する理論枠組。
・1960 年「81 カ国共産党労働者党声明」をもとに、60 年代の共産党は、これを自明の前提とした
・1973 年第12 回大会で情勢変化から「社会主義の防衛的核」撤回、いわゆるユーロコミュニズムに接近し76 年第13 回大会でプロレタリア独裁を「執権」に、77
年第14 回大会で現存社会主義を「生成期」に格下げ、87 年不破哲三「「資本主義の全般的危機論の系譜と決算」でようやく理論的に離脱し、経済情勢依存、社会主義国依存、万年危機論、段階論批判。しかし肝心の4大矛盾・3大革命勢力の問題を明確にせず
、チェルノブイリ原発事故にあたっても「生成期」論の立場からのゴルバチョフ批判で対処、特にゴルバチョフのペレストロイカ・新思考における「全人類的課題」優先を「階級的視点の放棄」と批判する根拠となった。
(参考)森滝市郎証言・核なき未来、科学者の良心「核絶対否定」の立場で三県連が立ち上がり、その翌年、すなわち被爆二十周年(一九五六年)に原水禁国民会議が出発した。しかし、そのころ使われた「核絶対否定」という表現は、単に「核兵器絶対否定」の略語であって、今日、私たちが文字通り「核絶対否定」というのとは大きく違っていた。
今日の私たちは「核なき未来」をめざして、文字通り「核絶対否定」の立場に確固として立つのである。今堀誠二氏の名著「原子力時代」は「原水爆時代から原子力時代へ」をめざしているのであるが、今日の私たちは、その「原子力時代」をも否定して、「核なき未来」へ超え出ようとしているのである。原水禁国民会議が「核兵器絶対否定」から文字通りの「核絶対否定」に到達するには、約七、八年の歳月を要しているのである。そこに到達する私たちの核認識の推移をたどってみると、その要因は、やはり「放射線害」の認識が、深刻かつ痛切になってきたことにあるのではないかと思われる。被爆二十・二十一・二十二周年の原水禁大会あたりでは、まだ核兵器、核使用の恐ろしさは万人の認識となっても、「放射能害」の恐ろしさは、主として原爆被爆者の苦しみや不安に接する形で人びとに知られ伝わっていた。
被爆二十三周年の原水禁大会になると、その大会基調の中に「世界各地に続発する放射能害」という項目が設けられて、平常時でも核兵器の存在ゆえに、かくのごとく放射能害が起こっている、と警告した。すなわち国内では、佐世保で米原潜ソードフィッシュによる異常放射能で、「この魚には放射能はありません」という貼り紙が魚屋の店頭をかざるなど、放射能害についての市民の大きな反応を呼び起こしたり、六月二日には、九州大学に四千キューリーの放射能がはいったコバルト60照射実験室がある近所に、米軍のF4Cファントム先頭爆撃機が墜落したりした。一方、国外では、十四年前のビキニ水爆実験の死の灰を浴びたロンゲラップ島の住民の子どものうち、当時十歳以下だったものの九割が甲状腺機能障害を起こしていることや、一九六一年以降、アメリカの原潜基地として使用されてきたホーリーロッホ港の海底土に増加した放射能は、米原潜の放出した冷却水によるものであることがイギリス海軍によって確認されたことや、アメリカの水爆搭載機B52が墜落したスペインのパロマレスでは、放射能害により住民や家畜に奇病が発生していることなどを挙げて、「このように放射能災害は世界各地で続発しています。いまや、たとえ核戦争が起こらなくても、世界中に張りめぐらされた核兵器が世界各地で放射能害をまきちらし、人類の生存に重大な危害を及ぼしはじめています・・・」と。「放射能害」を重大視するようになった原水禁国民会議は、ついに翌被爆二十四周年(一九六九年)原水禁大会ではじめて「原子力の『平和利用』問題」を掲げた。そこでは平和利用の問題点がかなり詳述され、その結びに「私たちは軍事利用反対の立場を堅持した運動を推し進めるとともに、それに劣らない重要問題として『平和利用』を重視し、広範な国民運動にしてゆくことを、とくに今年の重要課題に設定したいと思います。このためにも、私たち自身もう一度、問題を真剣に学習し直し、自然科学的観点からみても、国民を啓蒙できる知識と能力を備えつけなければなりません」と。ともかくも被爆二十四周年から、はっきりと平和利用問題の学習にとりかかったのである。被爆二十四周年原水禁大会(一九六九年)から、重要な課題として原子力の平和利用問題に取り組み始めた原水禁国民会議は、翌年の被爆二十五周年の大会で、その基調にはっきりと「原子力発電所問題」を提言し「原発問題分科会」を設けた。そして、次の被爆二十六周年(一九七一年)の大会には、初めてスローガンの一つに「安全の保障されない原子力発電所、核燃料再処理工場設置には反対しよう!」を掲げた。
この年、一九七一年五、六月、私は原水禁オルグとして世界一周の旅をした。社会党政審勤務の丸山君が同行してくれた。主目的は「四月二十四日行進」という米国史上最大の反戦集会(ワシントン)に出席して、「ベトナムで戦術核兵器を使うな」と訴えることであったが、もう一つの目的は、原発について憂慮する学者を歴訪し、その意見を聞いたり資料を集めたりすることであった。被爆二十七周年大会(一九七二年)で「最大の環境破壊・放射能公害を起こす原発、再処理工場設置に反対しよう」というスローガンを掲げたのは、私たちの核認識がそこまで進んだということもあるが、国内では「高度経済成長」のなかで環境破壊や公害の問題がいよいよ深刻化してくるとともに、世界では同じ年の六月にストックホルムで「国連人間環境会議」が開かれるという背景もあったのである。国内では、とくに原発設置反対の現地の住民運動があちこちに起こり、それを横につなぐ全国連絡会議の必要が起こり、「情報センター」の必要性も起こり、学者・専門家の助言・協力の必要性も切実に起こっていた。原水禁国民会議は、そんな必要性に対応する態勢をこの年あたりから取りはじめていたときでもあった。
この年の国際会議(一九七二年)には、前年から予約していたゴフマン教授は身辺の都合で出席できなくなったが、入念なレポートを送ってくれたし、日本側からは辻一彦参院議員が「わが国における原子力発電所の問題点」という詳しい報告をした。とくに忘れがたいのは、この年のコルビー女史の発言であった。そのなかでコルビー女史は言った。「過去において成功とは、核兵器の全面的かつ恒久的な廃絶を究極的になしとげることを意味しました。今日、成功とは、戦時、平和時を問わず原子力が使われることによって生ずるすべての放射能の廃棄をめざして成果をあげることを意味しております」と。軍事利用、平和利用ともに否定すべき方向を提唱したのである。そして「危機に陥っている惑星の市民として暗闇の谷間から真実の進歩の高原に通じる道を示さなければなりません。そのときこそ私たちは、原子力がもはや『人類の輝かしい夢』ではなく、むしろ悪夢であることに気づくでありましょう」と結んだ。コルビー女史が原水禁国民会議の「核絶対否定」に深く共鳴し、一貫して支持・協力する理由がここにある。翌年、被爆二十八周年(一九七三年)の原水禁大会には、ゴフマン博士に代ってその盟友アーサー・タンプリン博士が来日した。博士は単に国際会議に出席するだけでなく、その前に一週間ばかり、日本各地の原発設置個所を精力的に視察したり住民運動と交流したりした。そして、国際会議では、タンプリン博士の特別講演が重要な内容となった。それ以後、この講演は、わが国の原発反対運動の基本理論を構築していく出発点ともなった。博士は、「原子炉は、いまだかつて人類が経験したことのないような大事故の可能性をもっている」とし、炉心溶解による大量の放射能流出を語る。そして、この種の事故を防ぐものとしての緊急炉心冷却装置(ECCS)も、その実験はまだすんでいないことを語る。
さらに、博士が力説したのは原子炉が大量につくりだす放射性物質の問題、放射性廃棄物の究極的処理の未解決の問題、最後に、最大の問題としてプルトニウムの軍事転用と核拡散の問題はもとより、その絶望的な猛毒性の問題、その管理のために私たちの子孫が永久的にこうむる重圧の問題。原発反対の基本論理は、ほとんど解き尽くされたのである。なお、博士は最後にミクロネシアのロンゲラップ、ウトリックの島の住民の問題にふれ「放射能は、いまなおこれらの島に残っている」と警告した。 |
1970.7『前衛』第11回共産党大会特集
・核拡散防止条約ではなく核兵器禁止協定
・対米従属化の「高度成長」 日本経済の畸形的な発展をおしすすめ、最新の重化学工業部門では国際的な巨大企業の列に入る大独占体を続出させ、電子工業、石油化学、原子力その他新産業部門をつくりだしながら、一部の産業や中小企業、農業などをきわめて困難な条件においこみ、公害問題や交通、住宅などの都市問題を特別にはげしくした。 |