乗員乗客遺体安置、検視考

 更新日/2022(平成31. 5.1栄和元/栄和4).8.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、正確を期すために遺体映像を確認しておこうと思う。ところが、ネット映像の過半はコピーブロックされている。ようやく取り込めたのが下記の映像である。「日航機墜落事故の機長の遺体」その他参照。

 2017.8.17日 れんだいこ拝


 飯塚訓(いいじま・さとし、当時48歳)は遺体確認捜査の責任者の証言。
新装版 墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便
第一章 出動命令
第二章 大量遺体
第三章 最初の遺体確認
第四章 悲しみの体育館
第五章 看護婦たちの胸の内
第六章 指紋、歯が語る
第七章 身を粉にした医師の仕事ぶり
第八章 遺体の引き取り
第九章 過酷な任務
第十章 極限の日々
第十一章 最後の最後まで
 唐松、熊笹の密生する平均斜度30度の斜面約4万平方メートルの広範囲に散乱した遺体は、現場に仮設されたヘリポートから、自衛隊ヘリによって、直線で約45キロメートル離れた藤岡市立第一小学校の臨時へリポートまで搬送された。白バイまたはパトカーの先導する霊柩車で市民体育館に搬送された。刑事たちに「極楽袋」とも呼ばれる死体収納袋や毛布に包まれた収容遺体はそのまま棺に納められ、正面玄関から搬入された。棺は受付の長机の上に一時安置され、検視総括係の受付担当が完全遺体と離断遺体に区分した。そして遺体区分別に検視番号を付した。したがって検視総括係には警部補、巡査部長クラスのベテラン刑事が配置された。遺体の区分については、遺体の収容開始前に、検証班、検視班、身元確認班の各班長による打ちあわせ会議を行っている。
完全遺体 五体が完全に揃っている場合のほか、上下顎部等の一部が残存している死体または死体の一部(頭部の一部分でも胴体=心臓部=と首で繋がっている死体)
離断遺体 頭部、顔面、または下顎部等の一部がすべて離断している死体および死体の一部(頭部と胴体部が完全に離れている死体)
と区別し、検視、確認の各班にその徹底を図った。
 「遺体搬入!」。検視班長の大声が響いた後、棺が次々と搬入された。検視総括係が完全遺体と離断遺体に区分し、遺体区分別に検視番号を付す。検視番号1の検屍が始まったのは午前11時ごろ。検屍は検視官以下警察官5~6名、医師2名、看護婦2~3名、歯のある遺体には歯科医師2名が加わった。身元確認班員を2名ずつ付けて検屍の段階から身体特徴、着衣、所持品、指紋、血液型、歯型の採取の有無等、遺体からの資料を記録させる「担当遺体方式」をとった。9~13名が1組となって検屍作業を行う。明らかに自然死以外の場合に警察官が行うのが「検視」である。本件も「検視」とし、この事故での死体見分の場合は、死亡の原因が明らかであり、また離断、炭化等死体の状態からして「検屍」と表現することにした。

 検屍場は凄惨な場と化した。2階観覧席の左右に配置した12基の照明灯が22ヵ所の検屍場を煌々(こうこう)と照らす中で、200人近くの警察官と150名を越す医師、歯科医師、看護婦たちが動きまわる。検屍開始にあたって測定した外気温は35度を超えていた。棺の中から、死体収納袋や毛布に包まれた遺体が警察官の手で取りだされ、ビニールシートの上に丁重に安置される。「礼!」、検視官の号令により、検視グループ一同が手を合わせ、一礼して検屍が開始される。塊様のものを少しずつ伸ばしたり、土を落としたりしていくうちに、頭髪、胸部の皮膚、耳、鼻、乳首2つ、右上顎骨、下顎骨の一部、上下数本の歯が現れてきた。少女の身体は中央部で180度ねじれてひきちぎれ、腰椎も真っ二つに切断され、腹部の皮膚で上下がやっとつながっている。なかば焦げた左上肢、その中ほどに臓腑の塊が付着している。塊の中から舌と数本の歯と頭蓋骨の骨片が出てきた。それらを広げてゆくと、折りたたんだ紙細工のお面のように顔面の皮膚が焦げもせずに現れた。2歳くらいの幼児。顔の損傷が激しく半分が欠損している。腰部にはおむつがきちっとあてがわれている。2人の看護婦は座ったまま両肘を両足の大腿部に付け、両てのひらで顔を覆うようにして動かない。泣きだしたい感情を必死にこらえているのか両肩だけがピクッピクッと震えている。

 検屍と身元確認作業の初日、動員された看護婦は109人。地元の藤岡、多野医師会所属の看護婦がもっとも多く48人で、日赤群馬県支部は独自の判断で31人を動員した。
原町赤十字病院看護部長、山中千代子(現足利赤十字病院看護部長)も、医師、看護婦2人とともに正午ごろ体育館に入った。1つのシーツを囲んで警察官、医師、看護婦がいる。1つのフロアで10人前後の人がうごめいている。ときどき検視官の大声があちこちのフロアから発せられる。シーツの中央に横たわっているのはさまざまな形態の遺体である。遺体を洗う、拭く、縫合する。写真を撮る、記録する。それぞれの分担作業である。遺体はどれも泥と油、血液などにまみれている。杉や唐松の葉、小枝なども絡みついているので、遺体の清拭が最初の作業である。3つのバケツの水は、何度も汲みかえられた。体育館南側外の水道との間を何十回行ったり来たりしたか。髪の泥を落とし、顔や身体、指の1本1本までていねいに拭いた。そっと拭いても、切断面の皮や肉片がどうしても剥げ落ちる。泥や油、血液に肉片までも混じったバケツの水を、体育館脇の側溝にしかたなく捨てる。ほとんどが看護婦の仕事となった。

 検屍、身元確認作業を続ける警察官、医師、看護婦ら500人を越す集団のざわめきが地鳴りのように床を這う。検屍が終わってすぐに遺族と対面し、確認、引き渡しになる遺体は最初のうちの数十体にすぎなかった。520人という数字も大変だが、実際に回収される遺体は数千体にもなっている。約4万平方メートルの広範囲に散乱した遺体は、搭乗者の座席位置により、1)機体後方の乗客は、墜落地点から北斜面を約240メートル下ったスゲノ沢付近。2)機体中央の乗客は、北斜面。3)機体前方の乗客及び操縦士などコックピット乗務員は、南斜面と大きく3つに分布されていた。生存者4名が発見された位置はいずれも1)のスゲノ沢付近で、機体の最後方部に搭乗していた。この付近からは約200体がまとまって収容されたが、完全遺体は160ともっとも多かった。離断遺体のもっとも多かったのは北西斜面で、700体以上が3つの地点にほぼまとまって飛散していた。また、南斜面を中心に収容された遺体はエンジン部に近く、機体が垂直に尾根に激突していることから、骨や肉が身体から押しだされ皮だけになったり、真っ黒に炭化してバラバラになったりしていた。中には1週間もたっていないのに白骨化しているのもある。それに加えて、連日の猛暑のため、遺体に蛆が湧き、腐敗の進行も早いため原形をとどめていないものが多く、確認作業は困難を極めた。

 遺体の付近に着衣や所持品があれば遺体と一緒の収納袋に入れた。遺体にからまるようにあるスカートなども一緒に収納した。現場では同一場所の人(とくに離断や炭化遺体)と物(衣類、所持品、携帯品)を同じ収納袋で収容するしか方法がない。検屍の場で矛盾、相違点のあるものはでき得る限りふるい分けられるが、大量遺体を次次とその日のうちに検屍しなければならないので精査してはいられない。したがって、身元確認の場では、慎重の上にも慎重を期した。1本の腕を間違えれば必ず複数が合わなくなる。男物の上着にくるまれた首のない炭化遺体が女性であったり、スカートの模様が特徴的であり、家族は「絶対に間違いない」と主張したが別人だったというケースもある。だから、上着は腕を通しているなど、着ているという状態が確かであること。ズボンや下着は足を通すなど、はいている状態を確認した遺体でなければ信じないことにした。棺の中に炭化して判別できなくなった足が3本入っていたり、右手が2本入っていたのもある。大きさが明らかに違う左右の足もある。性別の違う離断遺体、部分遺体が一緒に棺に納まっていることも当然のごとくあった。これを識別して別の棺に収納するから「移棺」として、「リ断〇番の〇〇」というふうに、棺の数と番号が増えていった。頭部顔面に損傷のない完全遺体でも遺族が間違ったことがあった。家族から聴取した特徴票の身長と明らかに違うので、血液型の判定を待ったらやはり違っていた。家族は「母親が間違いないといっているのになぜ渡してくれないのか」と強い口調で何度も私に迫った。ガスの発生でふくらみはじめた遺体が棺の中に横になっていると、家族でも見間違うことが往々にしてある。

 2000人は越すであろう遺族とその関係者らは、1遺体ごとにつけられた担当の日航職員とともに、未確認遺体が安置してある3つの体育館をかけずりまわり、棺の蓋に貼ってある遺体の特徴、その部位、検屍による歯科カルテ、ビニール袋に入れて貼付してある着衣、所持品を食い入るように見てまわる。これはと思う棺は警察官に蓋を開けさせ、遺体の特徴から「この目で」、「この手で」愛するわが子、わが夫を探しだそうとする執念の姿がいたるところで見られた。
遺族や関係者の依頼で確認班員は片っ端から棺の蓋を開けてまわる。班員には検屍の時からの担当遺体もあった。腰を伸ばす間もなく棺の中に首を突っこむ班員のどの顔も疲労でどす黒く、汗まみれだ。

 家族からの切ない苦情。遺族からの苦情、抗議も2日目になってさらに多くなった。私は3つの体育館から呼びだしを受けては伝令と車で走りまわった。伝令を3人に増やしたがそれでも足りなかった。「確認されたのになぜ早く引き渡してくれないのか。もう2時間も待たされている」、「疲れているのに、何時間も調書を取られた。まるでこっちが悪いことでもしているようではないか」、「親兄弟が間違いないといってるのになぜ早く確認してくれない。こんなところからは一刻も早く家へ連れて帰りたいんです」というのが多かった。確かにこれらの苦情にはうなずけることもままあったが、丁重に説明してどうにか納得していただいた。
 「作業の記録」。
 1985年8月に発生した日航機墜落事故を題材にしたドキュメンタリーである。著者の飯塚氏は、当時遺体確認作業の陣頭指揮をとった警察関係者である。飛行機が単独で起こした事故としては航空史上最悪の惨事となったこの墜落事故。これに関する書籍は非常に多く出版されているが遺体確認作業の詳細を綴った本は出版されていない。本書の値打ちはここにある。

 現場で回収された遺体や遺品は、全て地元の中学校の体育館に集められた。真夏の猛暑の中、マスコミの視線を遮るために全ての窓を閉め、暗幕を張って関係者以外の出入りが一切禁止となった。連日40℃を超える体育館の中で繰り広げられた遺体確認作業は壮絶だった。亡くなった人は後に520名と判明したが、ほとんどの遺体は墜落の衝撃でバラバラの肉片と化し、原形をとどめた遺体はわずかだった。急遽、全国の歯科医に協力を要請し、カルテの提示とポータブルのレントゲン撮影機の手配が行われた。ちぎれた手足、胴体しか残っていない物、1人の遺体にもう一人の遺体がめり込んだもの・・・。警察関係者はもとより、応援に駆けつけた赤十字の看護師や医師たちでさえ見たことのない遺体の姿に呆然と立ちつくした。バラバラになった遺体を収めるため、納入された棺の数は2000を超えたという。

 蒸し暑い体育館の中で蛆が増えて肥っていった。遺体確認作業はまず蛆の除去作業から始まった。腐敗のスピードが速いので、記録を取った後はドライアイスで凍らせておく。脚立に乗って遺体の記録写真を撮る警察官は泣きながらカメラのシャッターを押した。一角では、土下座するJALの担当者に食ってかかる遺族の姿。やっと肉親のものと判明した遺体(とは言っても凍った肉片なのだが)に泣きながら頬ずりする遺族もいた。そんな中で、次々と警察官や医師たちに異変が起きていた。

 本文には遺体の写真などは一切掲載はされていない。しかし、文章による描写ですら思わず眉をしかめてしまうほどの遺体の状況。膨大な肉片の中から肉親を必死で探す遺族の姿に涙が止らなかった。

 未だに現場では、墜落した機体の破片や犠牲者の骨片が見つかるという。ちなみに、遺体確認作業に使われた体育館は現在は取り壊されているそうである。壮絶な現場で極限状態に置かれながら必死で遺体と向き合った人たちの姿も今はない。これからはこの事故の風化を如何にして食い止めるかが問題である。また、曖昧となってしまった事故原因の再調査を望む遺族も多い。まだ、あの事故は終わっていないのである。

 日航機墜落事故の遺体ってそんなに凄かったの?
 日航機墜落事故の遺体ってそんなに凄かったの?
 ここで注目したいのは地面である。ご遺体はもちろんの事、地面も一面黒焦げであることが分かる。
 「「123便事件の不可解を写真からみる①」
 「御巣鷹山 遺体
 「日航機墜落事故 遺体
 「日航機墜落事故 遺体
 「ほんとうのことを本事に」の「写真の中に写りこんだ真実 - 3 金澤忻二
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 言葉でどのように表現しても、映像のインパクトには叶わない。あまりそのまま出すのには躊躇せざるを得ないが、そのものでなければ真相を読み取ることは出来ない。真相解明のため写真を掲載する事をお許しください。
 「ほんとうのことを本事に」の「写真に写り込んだ真実 4 金澤忻二」。
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 この写真は橋本藤雄さんである。藤雄さんは、犯行現場通路の奥裏木戸近くで、仰向けの姿で、両腕を突き上げたボクサースタイルで発見された。認定では十数カ所の刺し傷があるとしているが、鼻の先端から4センチほど上に楕円形に見える穴がある。銃をつけて打ち抜い
たかのように見える穴である。ところが、この傷穴についても記載されておらず、無視されているものである。これも、凶器とされている『くり小刀』で出来る傷とは考えられないものである。そして、なによりも、このような『傷』を何故無視しているのかという事である。
 黒木瞳の親友の北原遥子の遺体が他の黒こげの死体群から離れた崖の下に殆ど無傷だった。焼け焦げた死体の傍の樹木が燃えずにあった。後部担当のスチュワーデス4人もいずれも殆ど無傷で首の骨が折れた状態で発見された。

 「あんなの人間の遺体やない!」日航機事故で娘3人を失った夫妻の怒り」。西村匡史著「悲しみを抱きしめて御巣鷹・日航機墜落事故の30年」(講談社、)
 あの悲劇の大事故から今年で30年。3人の娘を奪われた田淵夫妻が初めて明かしてくれた事故後の凄絶な日々。それは想像をはるかに超えるものだった――。

 最後の写真

 1985年8月12日午後6時56分。そのとき、親吾さん(当時56歳)は父の代から続く町場の石鹸工場で働いていた。輝子さん(同51歳)は、旅行から帰宅する3人の娘たちの夕食の準備に追われていた。ふだんと変わらぬ日常だった。田淵さん一家は、夫妻と長女の陽子さん(当時24歳)、次女満さん(同19歳)、3女純子さん(同14歳)の5人家族。実直な人柄の親吾さんは、子どもたちの学校で役員を務めるなど社交的な面ももつ。一方、輝子さんは夫の工場を手伝いながらも、子どもと過ごす時間を最優先に考え、娘たちが外出した際はどんなときでも眠らずに帰りを待つような、情愛の深い母親だった。そんな夫妻のもとで3人の娘はのびのびと育っていく。長女の陽子さんは親吾さんの会社名「山陽油脂」から一文字をとって名づけられた。仕事や家事で忙しい両親に代わって、妹たちの面倒をよくみるしっかり者である。次女の満さんは予定より1ヵ月も早く生まれた子だった。満さんがお腹のなかにいるとき、母親の輝子さんは妊娠中毒症で、医師からは「お子さんの命はあきらめてください」と告げられている。「せめて名前だけは満期に」という願いを込めて「満」という名前をつけた。控えめな大人しい性格で、飼っていた猫が一番懐くほど優しかった。3女の純子さんは「純粋に物事を考えるように」という意味で名づけられ、その名の通り真っ直ぐ育っていく。「純ちゃんは愛嬌がいいから、私の代わりにお使いにいくと、商店街のおじちゃんやおばちゃんがよく割り引きしてくれたんや。だから私もよう重宝したわ。学校や近所でもえらい人気者やった」。娘たちの話になると輝子さんは夢中になって止まらない。

 遊びにいくときはいつも一緒だったという3姉妹。御巣鷹の尾根の墓標には、そんな3人の写真が陶板に加工され貼り付けられている。日付は1985年8月9日。事故機の残骸から燃えずに見つかったフィルムを現像したもので、3人が一緒に写った最後の写真だ。私は輝子さんがこの写真をじっと見つめながら放心したような状態でつぶやいた一言が忘れられない。「どこに行くのも3人一緒。天国に行くのも3人一緒や」。事故の3日前の8月9日。3人は旅行のため、大阪の伊丹空港を出発する。茨城県で開催中だったつくば科学万博や東京ディズニーランドなどを回る3泊4日の予定だった。毎年夏休みに行われる3姉妹の恒例行事。当時、司法書士事務所に勤めていた陽子さんは夏のボーナスが出ると、そのほとんどを旅行費用に充てた。忙しい両親を気遣い、長女の陽子さんが妹たちを誘っていたのである。当初は尾瀬に行く予定だったが、親吾さんは、何気なく、科学万博に行くよう勧めた。「尾瀬にはいつでも行けるけど、万博は今年限りやからそっちに行ってきたらどうやと口を挟んでしもうて……。それで予定を変更して123便に乗ってしまったんや」。目をつぶって額を押さえ、悔しさを隠しきれない。親吾さんは事故後、ずっと自分を責め続けていたのである。墓標に置かれた備前焼の3体の、かわいらしい地蔵をさすりながらつぶやいた。「わしが余計なことを言わなければ……悔やんでも悔やみきれん」。機体の残骸から見つかったフィルムにより娘たちの最後の足取りがわかった。3人は出発した9日に羽田空港から科学万博会場に向かっている。3人一緒の最後の写真は、9日の夜、万博からの帰りの電車内で撮影したものとみられる。純子さんが身につけているイヤリングとネックレスは、姉の陽子さんから借りたものだ。翌日の10日も万博に寄っている。古代遺跡の彫刻を模ったパビリオンの前で陽子さんと純子さんが2ショットで写っていた。

 満さんはタイムカプセルにハガキを投函する姿が写真に収められている。これは「ポストカプセル2001」という企画で、このポストに投函すると16年後の2001年正月、つまり21世紀の元旦に自分宛てに配達してくれるというものだった(満さんが投函したハガキは、その後、田淵夫妻が大阪から兵庫県に引っ越ししたため、2人のもとに届くことはなかった。後日調べたところ、住所不明のため、すでに廃棄されていたことがわかっている)。万博を楽しんだあと、10日夜には千葉県で花火を見ている。たくさんの花火がフィルムに収められていた。翌11日はディズニーランドに行っている。そして最終日の12日、3人は東京タワーを訪れたのを最後に、午後6時12分発の日本航空123便に乗り込んだ。羽田から大阪・伊丹空港へ向かうはずの機体は、離陸から12分後に操縦不能となり、約32分間ダッチロールを続けた後、6時56分に御巣鷹の尾根に墜落したのだった。

 田淵夫妻が最初に事故を知ったのは、テレビで搭乗者名簿に3人の名前が載っているのを見た、輝子さんの妹からの連絡だった。「あの子たちはいつも最終便で帰ってくる。だからその便には乗ってへんから大丈夫よ」。輝子さんはそう妹に答えるとともに、自分にも言い聞かせた。だが次第に明らかになってくる情報はどれも悲観的な内容ばかり。親吾さんは当時を振り返る。「頭からすべてが吹き飛んだ。不時着をただ祈るだけだった」。一方の輝子さんは、娘たちが亡くなっているとは想像だにしなかったという。「きっと山の中でけがをしているから、早く助けてあげなければと思ってた。死んでいるなんて夢にも思わへんかった」。
 残酷すぎる現実
 田淵夫妻は事故当日、日航が手配した大阪のホテルに駆けつけ、翌朝の臨時便で羽田空港に飛び立った。到着後、すぐにバスで群馬県藤岡市に向かう。一刻も早く娘たちに会いたいと登山靴や雨具を用意してきたが、なぜか一行が到着したのは学校の体育館だった。墜落現場での捜索ではなく、ここに運ばれてくる遺体の中から肉親を確認する作業が待っていた。生存を信じている人々にはあまりにも残酷な作業だった。山中に突っ込んだ機体は大破して炎上。奇跡的に4人が救助されたが、亡くなった520人の遺体の損傷は激しかった。首と胴体がつながっている完全遺体はわずかで、大半が部分遺体。当然ながら、身元の確認作業は難航した。しかも、真夏に起きた事故であるため、遺体の腐乱は早い。クーラーもない体育館のなかは暑さと激しい臭いが充満している。多くの遺族は肉親を失った苦痛を背負いながらも、なんとか身体の一部だけでも戻ってほしいとの思いから、遺体との対面を繰り返していた。田淵夫妻が初めて遺体の確認のために体育館に入ったのは、事故から3日経過した15日。それまでは別の体育館で遺体の検視を待っていた。ずらりと並べられた柩に入っていたものは誰のものともわからない身元不明の遺体。一つ一つ確認しても手がかりは見つからない。体育館を出た瞬間、輝子さんは叫び声をあげながら、日航職員におしぼりを投げつけてつめ寄っていた。「うちの娘とは違う!あんなの人間の遺体やない!」。
 「初めて体育館で遺体に会わせてもらったときは……忘れられへん」

 御巣鷹の尾根にある墓標の前で、輝子さんが当時の様子を話してくれたことがある。その場で力なく腰を下ろし、首を振りながら言葉に詰まった。「これは遺体やない、山の木を焼いたんやろって。声がひとりでに出たんよ。そのあとは私あまり意識ないね」。輝子さんの沈痛な表情を見て親吾さんが代わった。「あまりにも酷い状況下で感覚が麻痺し、臭いも気にならない。涙も一滴も出なかった。ただ娘たちを確認することだけに無我夢中やった」。3人の娘は燃料タンクの近くに座っていたため、火災による遺体の損傷が激しかった。親吾さんの弟で現地に駆けつけた田淵友一さんは当時、大阪府警の警察官を務めており、仕事柄遺体と向き合う機会が多かった。だが、遺体のあまりの損傷の激しさに「兄夫婦には絶対に見せられない」と思ったという。結局、輝子さんは満さんの手の一部だけは自分で確認した。満さんの手にあった傷の特徴を知っていたのは輝子さんだけだったからである。確認する箇所以外は全身が包帯で巻かれていたが、それでも変わり果てた姿が目に焼きついて離れない。「バカにするのもいいかげんにせえって言ったんや。人間の遺体というよりは炭のようやった」。

 3人の遺体の最終確認を終え、大阪の自宅に戻ったのは20日。2日後の22日に葬儀が行われた。輝子さんは、陽子さんの柩に、白地に赤い花柄模様の振り袖を入れた。長女のために自分で仕立てたお気に入りのものだ。満さんの柩には、成人式のために用意していた反物を急いで仕立てて入れる。純子さんには、陽子さんが成人式で着た赤地の振り袖を分けて入れてあげた。葬儀の様子を撮影した写真が残されている。祭壇には陽子さんの遺影を中央に左手に満さん、右手に純子さんの写真が並んだ。位牌をもつ親吾さんはうな垂れ、その傍らに立つ輝子さんは憔悴しきった表情をしている。中学生だった純子さんの同級生をはじめ、歩道から溢れ出そうなほど多くの参列者が3台の霊柩車を見送っていた。本当に大変だったのは葬儀が終わった後だった。輝子さんが錯乱状態に陥ったのである。


【機長の娘さんの思い】
 2015年8月12日付「日航機墜落30年 機長の長女はいま…」。
 520人が死亡した日航機墜落事故の機長の娘・高濱洋子さん(48)は、実は今、日本航空の客室乗務員として働いている。先月、私たちは洋子さんを取材した。事故から12日で30年。彼女を支えていたのは、ボイスレコーダーに残された父親の音声だった。
 記事全文
 520人が死亡した、日航ジャンボ機墜落事故の機長の娘は、実は今、日本航空の客室乗務員として働いている。事故から、12日で30年。彼女を支えていたのは、ボイスレコーダーに残されていた、父親の音声だった。

 【空の安全願う…灯籠流し】
 墜落現場がある群馬県上野村で11日夜、遺族たちは、それぞれの思いを灯籠に込めた。事故で娘を亡くした女性「30年娘を失った悲しみは変わりません、本当」。事故で娘2人を亡くした女性「立ち直れたなんてことは一切言えません。いつまでも引きずっていると思います」。あれから30年がたとうとしている。

 【日航機墜落事故とは】
 1985年8月12日、午後6時56分、上野村の御巣鷹の尾根にジャンボ機、日本航空123便が墜落した。死者520人。単独の航空機事故では世界最悪の事故だった。事故の原因は、客室の気圧を保つためのお椀型の壁「圧力隔壁」だった。ここに穴が空き、吹き出した空気が垂直尾翼などを破壊、制御不能になったのだ。

 123便のボイスレコーダー。そこには、コックピットで格闘する機長たちの声が残されていた。機長(墜落32分前)「まずい、何か爆発したぞ」。機長(墜落6分前)「あたま(機首)下げろ、がんばれ、がんばれ」。副操縦士「コントロールがいっぱいです」。声の主は、高濱雅己機長(当時49歳)。高濱機長には、当時高校3年生の長女・洋子さんがいた-。

 【長女・洋子さん、客室乗務員に】
 事故から30年を前にした先月、私たちは、洋子さんを取材した。選んだ仕事は日本航空の客室乗務員。父と同じ“空の仕事”だった。洋子さんには、初めてのフライトから持ち続けているものがある。高濱洋子さん(48)「JALの飛行機を守ってくれている、そういう思いから持っております」。所々がすり切れた写真。それは、父がコックピットで写る唯一の写真だった。

 【苦悩の日々】
 自分自身も遺族である一方、“墜落したジャンボ機の機長の娘”という立場。事故当時、洋子さんにとって苦悩の日々が続いた。高濱洋子さん「『519人を殺しておいて、のうのうと生きているな』とか、たくさん電話がかかってきましたので。その度に母は、見知らぬ嫌がらせの電話にもきちんと応対し、『申し訳ございません』『申し訳ございません』、ただそれだけ何回も繰り返しておりました」。“父を探したい”、だが、昼間の遺体安置所には、多くの遺族がいた。そのため、ひと気がなくなる夜を待ってから父を探し歩いたという。しかし、事故から15年後、変化が訪れた。あのボイスレコーダーの音声が公になったのだ。

 【ボイスレコーダー、公開】
 激しく揺れる機体と最後まで闘った父の記録。機長(墜落27分前)「気合入れろ。ストール(失速)するぞ」。機長(墜落6分前)「がんばれ」。副操縦士「はい」。機長「あたま(機首)下げろ、がんばれ、がんばれ」。副操縦士「コントロールがいっぱいです」。機長(墜落前30秒)「パワー、パワー、フラップ!」。機関士「上げてます!」。機長「あげろ!」。

 高濱洋子さん「父は本当に最後まであきらめず、最後の一瞬まであきらめず、頑張ったんですが、本当に無念であっただろう。最後まで父は頑張ったんだなと、誇りに思わなければいけない、そう思いました」。

 【遺族に響いた父の声】
 ボイスレコーダーに残された父の声。ほかの遺族たちの心にも響いたという。高濱洋子さん「『本当に最後まで頑張ってくれたんだね』『ありがとう』という言葉を、ご遺族から頂いた時には、本当に胸からこみ上げるものがあって…。涙が出る思いでした」「父はボイスレコーダーによって、残された私たち家族を、ボイスレコーダーの音声という形で、私たち家族を守ってくれたと感じました」。取材中、洋子さんが機長の娘だと知る1人の乗客が話しかけてきた。洋子さんの目から涙があふれた。「これからもJALに乗るから、頑張って」。そう声をかけられたという。涙が止まらなかった。事故から12日で30年。洋子さんにとって8月12日とは-。高濱洋子さん「父が残してくれたボイスレコーダーを聞き、新たに、また安全を守っていかなければという、再認識する、そういう一日かなと思います」。以上




(私論.私見)