天正遣欧使節、慶長遣欧使節 |
更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).6.21日
【天正遣欧使節派遣の背景事情】 | |||
「天正遣欧使節」は重要な指摘をしている。これを参照する。それによると当時の宣教師達間で、日本での布教方針が対立していたと云う。まず、日本人観に於いて食い違っており、ザビエルは日本ないし日本人賛美する親日的な見解を持っていた。イタリア人オルガンティーノも「日本人は、全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同に遥かに優っている」と述べており親日的であった。 これに対して、ポルトガル人カブラルは、「私は、日本人ほど放漫で、貪欲で、不安定で、偽装的な国民を見たことがない」と述べ反日的であった。若くして来日し、豊臣秀吉から家康の時代にかけて政治レベルでの通訳を務めたポルトガル人通事ロドリゲスは、「元来、日本人は、ヨーロッパから来たものに比べて、天武の才に乏しく、徳を全うする能力に欠けるところがある」と反日的であった。イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡は、どの宣教師の事を述べているのか不明であるが、「彼は日本人を下等な人間と呼び、『しょせんお前たちは日本人なのだ』と言うのが常だった」と記している。 その背景には、日本での布教が思わしく進展しないことにあった。そういう事情で、ヴァリニャーノは、押し付けるのではなく、日本人的感覚、習慣に順応しながら布教を進める方針を打ち出すことになった。更に、日本のクリスチャンのうち時代を担う逸材をローマのバチカンに招待し、その信仰体験、西欧見聞を布教に活かせしめようとする計画を抱くようになった。 ヴァリニャーノは、「日本巡察記」の中で次のように記している。
1583.12.12日(グレゴリオ暦)、ヴァリニャーノは、ゴアで、ヌーノ・ロドリゲス師に使節をヨーロッパへ連れて行くことになった事情の指令書を書き上げている。これは機密文書で最も信憑性が高い。原文はローマのイエズス会文書館に現存している。その使節の企てについて以下のように述べている。
「イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡」は次のように記している。
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【天正遣欧使節】日本のキリシタン一覧 | ||||||||||||
天正遣欧少年使節/wikipedia | ||||||||||||
この前の経緯を記しておく。織田信長が天下を統一した頃の1580年、日本で最初の西洋式中等教育機関「有馬のセミナリヨ」が、日野江城下に創立された。有馬のセミナリヨでは外国人教師が教べんを取り、ラテン語などの語学教育、宗教、地理学などルネサンス期の西洋の学問が、日本で初めて組織的に教えられていた。
1580年、日野江城主有馬晴信はイエズス会の巡察師アレッサンドロ・バリニャーノの教育構想に協力して、日本で初めてのヨーロッパの中等教育機関「有馬のセミナリヨ」を城下に設置した。島原半島の当時の有馬は日本一豪華な教会が建ち、外国人宣教師や海外の商人たちが闊歩する国際交流の最先端の地の一つであった。開校当時は12〜18歳の生徒22名であったが、最大時には130名もの少年たちが、ラテン語、ポルトガル語、日本語や古典の他、音楽、美術、地理学、体育など当時の日本人が想像もできなかったルネサンスを彷彿させるような教育が行われていた。 |
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1582(天正10).2月(1.28日?)、6.21(陰暦6.2日)日の本能寺の変の半年前、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の3人の九州のキリシタン大名が、伊東マンショら4人の少年をローマ教皇のもとに使節として送った。これを「天正遣欧使節」と云う。
千々石ミゲルの「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著)は次のように記している。
1.28日に長崎港を出港した少年たちは2.15日にマカオ、1583.12月にインドのゴア、喜望峰を迂回してセント・エレナ島に寄港のあと、1584.8月ポルトガルの首都リスボンへ到着した。千々石ミゲルの「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著)は次のように記している。
当時のポルトガルはスペイン王のフェリペ2世が兼ねていたので、1584.11月、スペインのマドリードに行った。フェリペ2世に謁見を賜り、その援助によって地中海を渡って、イタリアへ向かった。イタリアのトスカーナ大公国(ピサの斜塔で有名な町)でトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見。大公妃主催の舞踏会にも参加し大歓迎され、キリスト教の行事に参加したり、首都・フィレンツェに数日滞在したりと、かなりの待遇を受けている。フィレンツェを経由していよいよローマに向った。少年たちの高い知性と礼儀正しさは、アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚嘆させ、その噂は全ヨーロッパへと広がっていった。 |
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ローマイエズス会ガスパール・ゴンサルヴェス神父は次のように演説している。
グレゴリウス13世は彼らの滞在中に急逝した。教皇の急逝後、グレゴリオ13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式にも臨席した。その後、ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの今日でも有名なイタリアの諸都市を訪問している。少年たちは語学、古典、科学など、さまざまな教養を猛勉強によって吸収していった。 |
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2003年、ポーランド・クラクフ市のヤギウェオ大学図書館で、銀板のガラスフレームの中に挟まれた文書が発見された。旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節がラテン語と日本語で、「諸人よ、デウスを誉め奉るべし。諸人よ、天の御主は計り給うなり」と記されていた。「ローマ教皇に謁見した時にポーランド人司教が天正遣欧使節の若者たちの誰かに書いてもらったと推測されている」。使節の知性の高さを如何なく立証する新史料となった。 現在は非公開とのことである。しかしこれは奇妙なことになる。「天正遣欧使節」の若者が書いたとされる聖書の一節は、キリスト教のそれではなくユダヤ教の教義の一節を記していることになる。なぜなら、キリスト教の一説であればイエスの珠玉の言葉を記すのが普通であろう。それを何故に「天正遣欧使節」は、「旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節」を記したのか。謎である。 |
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1586.4月、カトリック国を数多く巡り歩いた後、使節たちはリスボンに戻り帰路につく。帰る途中でゴアに立ち寄り、ヴァリニャーノに再会している。ゴアでは使節の一人が演説をしている。マカオに着いたところで、日本から豊臣秀吉が伴天連追放令(1587)を発したとの報に接し、一行はインド副王の使節という資格で日本入国を許可される。 |
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1590(天正18).7.21日(6月)、一行は長崎に帰着した。往復8年の長旅となった。厳しい現実が待ち受けていたが、日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である。 1591(天正19).3月(閏1.8日)、聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏した。 使節団は、西洋の様々な利器を持ち帰っていた。中でも、西洋式活版印のグーテンベルグ印刷機は日本のそれまでの印刷技術を超えており日本における印刷文化に大きく貢献した。ローマ字や和文で綴られた「ドチリーナ・キリシタン」(1592)、「日葡辞書」、「伊曽保物語」など「キリシタン版」と呼ばれる多くの印刷物が刊行された。他にも西洋の楽器(具体的に何かは不明)、海図などをおみやげに持ち帰っている。 |
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1591.7.25日、正副四使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、天草の修練院でイエズス会に入る。キリスト教弾圧が厳しく活動の場はなかった。 正使だった伊東マンショは信仰を保って司祭となるも、1612年、長崎のコレジオ(キリスト教の聖職者になるための学校)で病死している。 正使だった千々石ミゲルは主君の大村喜前(よしあき)とともに棄教し一藩士として仕えた。ミゲルは喜前に対して「キリスト教は異国を侵略するために使われているから離れたほうがいい」と進言している。彼はヨーロッパ訪問時に現地でこき使われる奴隷を見て、キリスト教への疑問を抱いたといわれている。その違和感が帰国後も消えず、やがてキリスト教から離れる道を選んだ。その後、千々石清左衛門と名乗り、家庭を持ったと伝えられる。他の3名は司祭になったが運命を暗転させられている。棄教したことで熱心なキリシタンからは裏切り者とみなされ、仏教徒からはうさんくさい目で見られ、徐々に難しい立場に追い込まれていった。 副使だった原マルティノも司祭となるがマカオに追放され、1629年、同地で昇天した。語学や交渉の才能があったことから、布教の他に洋書の翻訳・出版などにも携わっていた。江戸幕府がキリシタン追放令を出すと大人しく従ってマカオに向かい、日本語の本を出版したりして生計を立てていたという。そのままマカオで亡くなり、恩師ヴァリニャーノと同じ場所に葬られた。 コンスタンチーノ・ドラードはマルティノと一緒にマカオへ追放されるも司祭となり、晩年はセミナリオの院長に就任。1620年、同地で亡くなる。 副使だった中浦ジュリアンはキリシタン迫害が厳しくなる日本に潜伏。九州各地で教えを説いてキリシタンたちの面倒を見ていたがついに捕らえられ、1633年、長崎で刑を受け穴吊りの刑により殉教。 アグスチーノは他の5人と違い、イエズス会に入らなかったため、記録はもちろん噂のようなものも残っていない。 |
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少年たちがほぼ同時に同じものを見て、その後4人とも全く違う道をたどった」というのは、実に興味深い。 |
【慶長遣欧使節】関連年表 |
1613.10.28(慶長18.9.15)日、「天正遣欧使節」から30年後、支倉常長は伊達政宗の命を受けて、書状を携えてスペインの宣教師ルイス・ソテロと共に仙台藩で建造した日本船に乗り、月ノ浦をサン・フアン・バウティスタ号で出帆し一路ローマを目指した。太平洋を渡り、メキシコから大西洋を横断してスペインに行った。 1615.1.30(慶長20. 1. 2)日、使節、スペイン国王フェリペ三世に謁見し、政宗の書状・贈り物を渡し、使命を述べる。 2.17(1.20)日、常長、マドリードの修道女院の教会で洗礼を受け、フィリポ・フランシスコの教名を授けられた。立ち会った人は、彼は背は低いが威厳があり、容姿端麗にして沈着、聡明にして謙譲だったと賞賛した。スペイン政府はこの使節の処遇に困惑したが、ソテロの熱意と敏腕がスペイン王を感動させ一行はその援助のもとローマに向かった。 1615.11月(元和元. 9.12)、2年以上の旅路の末にローマ法王パウロ5世に謁見し使命を果たすことができた。11.23(10.3)日、使節の常長等8人、ローマ市公民権を授与される。 1617.7.4(元和 3. 6. 2)日、使節、目的を果たせずスペインを出発し、帰国の途に着く。 1620(元和6)年、帰路は苦難の連続であったが、出発から7年後仙台に帰国した(※サン・ファン・デ・バウチスタ号で出発し、8年後に帰国したとの説あり)。9.22(8.26)日、政宗に報告する。 ところが、その直前に伊達政宗はキリシ弾圧を始めていた。六衛門は数々の招来品を政宗に献上した後、2年後の1622.8.7(元和8.7.1)日、ひっそりと亡くなった(享年52歳)(前年に亡くなったとの説もある)。 |
(私論.私見)