イエズス会宣教師の日本布教史その2

 更新日/2018(平成30).4.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2006.11.2日 れんだいこ拝


【鉄砲伝来、宣教師ザビエル来日に纏わる改宗ユダヤ人マラノの介在について】
 1538年、ロヨラの聖イグナチオらが パりでイエズス会を結成し、イエズス会宣教士の世界布教が始まったことは「エズス会考」で考察した。日本布教の始発は、1549年のイエズス会宣教師ザビエル、トレス、フェルナンデスの鹿児島到着に始まる。これにつき、本サイトで検証する。

 イエズス会にネオシオニズムの陰を見て取るならば、即ちイエズス会活動をプレ・ネオシオニズムの動きとしてみれば、伝えられているものより本当の歴史はもっと根深い。1549年のザビエルの来日より6年前の1543年の鉄砲伝来から説き起こさねば真相が見えてこない。「ポルトガル人乗船のシナ・ ンヤンク船が種子島に漂着し、鉄旭伝来」こそが、ネオシオニズムの最初の出来事として記録されるべきではなかろうか。

 鉄砲伝来がなぜネオシオニズムと関係するのか、その史実を確認する。鉄砲伝来の様子については、1607(慶長12)年に記録された南浦文之(なんぽぶんし・玄昌ともいう)の「鉄炮記」やフェルナン・メンデス・ピントの「東洋遍歴記」が歴史資料として残されている。記述に若干の違いがあるが、それらを読み取ると次のようになる。

 1543年(天文12).8.25日、もしくはその前年もしくはその1年後、いずれにせよ、1543年(天文12)年辺りに種子島へポルトガルの一行がやってきた。暴風雨にあって漂着してきた、もしくは避難してきたとのことであるが、意図的に鉄砲売りつけの商売にやってきた可能性も考えられよう。

 この問題につき、2018.4.23日号「週間大衆」の98P、歴史研究家/跡部蛮「日本史ミステリー 鉄砲伝来1543年説は本当か 種子島以外の伝来ルートが浮上」が次のように記している。
 「天文12年(1543)8月25日、一艘の異国船の乗組員が種子島の浜辺に上陸した。当時、種子島の領主(島主)は種子島時堯(ときたか)という好奇心旺盛な15歳の青年武将。重臣の西村織部丞がすぐさま浜辺に駆けつけたが、もちろん、異人とは言葉が通じない。織部丞はそこで、一行の中に中国人が居るのを見つけ、持ち合わせていた杖で砂の上に文字を書いた。『彼らは西南蛮からやって来た商人です』と、やはり漢文で砂の上に文字を書いた。いわゆる筆談だ。織部丞は機転を利かし、時堯の居城のある赤尾木へ船を回すように伝え、時堯とポルトガル商人二人の会見が実現した。好奇心旺盛な時堯は、ポルトガル商人が持っていた鉄の筒に興味を示した。火縄銃。即ち鉄砲だ。時堯は鉄砲二挺を買いつけ、八板金兵衛と云う鍛冶職人に複製を命じる。金兵衛は優秀な職人だったらしく、鉄砲の筒はすぐにできたが、問題は銃の底をふさぐネジの作り方。頭を抱えた金兵衛は娘をポルトガル商人の一人に妻として差し出し、島を去った娘が翌年、南蛮の鍛冶職人を連れて島へ戻って来た。そうして金兵衛は、その職人からネジの作り方を学んだという。娘を差し出す話しが史実かどうかは疑わしいが、金兵衛が苦労しつつも国産第一号の鉄砲製作に成功するのは事実だ。

 一方、元々時堯と交流があった紀州根来寺の行人(ぎょうにん、僧兵)津田監物が時堯から一挺を貰い受け、監物は芝辻清右衛門と云う根来寺門前の鍛冶職人に鉄砲を見せ、やはり同じものを作るように命じる。清右衛門は堺の出身だったことから、その技術は堺に伝わり、やがて堺が鉄砲の一大産地になると同時に、根来寺でも鉄砲が作られ、僧兵たちが日々鉄砲の鍛錬を行って、天下無双の鉄砲集団へと化してゆく。種子島に伝来した鉄砲の連鎖は、それだけにとどまらない。時堯は鉄砲を薩摩の島津氏へ贈り、島津氏が室町幕府の12代将軍足利義晴へ献上する。その義晴が近江国友村(長浜市)の鍛冶集団にその鉄砲を見せ、やがて、国友村が堺と並ぶ鉄砲の産地となってゆくのである。こう見ると、時堯が鉄砲に興味を示して買ったことで、日本の戦国時代に於ける鉄砲の歴史が始まったことが分かる。だからこそ、『鉄砲伝来=1543年』は歴史の常識と言えるが、今回は、その常識を疑ってみたい。

 種子島に鉄砲が伝来したくだりは、南浦文之(なんぽぶんし)という禅僧が慶長11年(1606)に種子島久時の依頼で、その父時堯の事跡を顕彰するために書いた『鉄砲記』に拠っている。伝来から50年以上はたっているものの、ほぼ正確な内容を伝えているとされる。ところが、その前年、即ち天文11年に鉄砲が伝来したとする説がある。ポルトガル側の資料(アントニオ・ガルバンの『新旧大陸発見記』)によると、アントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショットの三人のポルトガル人がジャンク船に乗り、シャム(タイ)のトドラから中国の寧波に向けて航海したところ、嵐に襲われ、北緯32度付近にある日本の島に漂着。それが種子島だとされる。『新旧大陸発見記』は伝来の20年後に刊行されているから、『鉄砲記』より成立が早い。一方、『鉄砲記』に登場するポルトガル商人の名は牟良叔舎(ムラシュクシャ)と喜利志多陀猛太(キリシタダモータ)。ちなみに、種子島の鍛冶職人、八板金兵衛が娘を差し出したとするポルトガル人は牟良叔舎だ。そのムラシュクシャがフランシスコ・ゼイモト、キリシタダモータがアントニオ・ダ・モッタのことだとされている。乗組員がほぼ共通し、ポルトガルと日本の資料は年次が一年違う。つまり、どちらかが誤りということになる。(中略)

 但し、問題は他にも伝来のルートが考えられること。そこで、最後のミステリー。当時、中国人の海賊・王直が倭寇と称し、五島列島や平戸を拠点に、東シナ海で密貿易に携わっていた。種子島の浜辺で織部丞が筆談した相手というのが、その王直だった。王直が携わった密貿易の品目に火薬が含まれており、鉄砲も商っていたと言われる。王直が五島列島を拠点にしたのが、伝来の三年前。つまり、王直がポルトガル人との間で鉄砲を商っていたとしたら、種子島へ鉄砲をもたらす前に少なくとも、拠点とする五島列島に伝わっていたと見るのが自然だろう。種子島より一足早く五島列島ろ、あるいは平戸に鉄砲が伝来していた可能性は否定ではない」。

 いずれにせよ、領主の種子島時堯(ときたか、15歳)は、ポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが持っていた火縄銃の鉄砲に注目し、その威力を知り金2000両を投じて2挺を譲り受けた。その後、鉄砲は僅か2年ほどで国産化され、驚くべき速さで当時の戦国大名に伝えられていった。鉄砲は、戦争における主力兵器として活用され、軍事革命を切り開いていくことになったことは周知の通りである。

 ここまでは調べれば誰でも分かる。ここから先が問題である。「日本・ユダヤ封印の古代史」、「ユダヤ5000年の智恵」の著者として知られる元日本ユダヤ教団のラビとして知られるマーヴィン・トケイヤー氏は、2006.1.31日初版「ユダヤ製国家日本」(徳間書店)の中で次のように述べている。トケイヤー氏は、日本とユダヤの親密な歴史的繋がりを説く為に記しているのだが、内容は重大である。ピントの活躍に注目し次のように記している。
 概要「1544(天文13)年、改宗ユダヤ人マラノにして貿易商ピントと二人のポルトガル人の仲間が、日本を初めて訪れたポルトガル人であって、種子島に鉄砲を伝えた」。

 かく、鉄砲伝来に纏わる改宗ユダヤ人マラノにして貿易商ピントの介在に言及している。

  マーヴィン・トケイヤー氏の「ユダヤ製国家日本」の次のくだりも注目に値する。
 「16世紀に入ると、ポルトガル人や、スペイン人をはじめとするヨーロッパ人が、日本を頻繁に訪れるようになった。この中に、多くのユダヤ人が居た。この時代の日本人は、ポルトガル人とスペイン人を『南蛮人』、イギリス人とオランダ人を『紅毛人』と呼んで、区別していた。しかし、日本人はユダヤ人が存在していることについて、まだ知らなかった」。
 「ピントはインドと中国の間を頻繁に往復して、やがて財をなした。そして日本を四回にわたって訪れている。ピントはインドで、カトリックのイエズス会の宣教師のフランシスコ・ザビエルと会って、親交を結んだ。ピントは鹿児島湾で、海賊の手からアンジロウという日本人青年を救って、ザビエルに引き渡している。ザビエルはアンジロウに洗礼を授けて、日本へ助手として同行させている。又、イエズス会の宣教師と、日本の仏僧との論争にも立ち会っている」。

 マーヴィン・トケイヤー氏は、日ユ親和論の証拠例として、ピントの活躍を縷々語っているのだが、企図してかどうかは不明であるが重要な情報を開示している。その1、16世紀以降、改宗ユダヤ人マラノがポルトガル人、スペイン人、イギリス人、オランダ人と混じって貿易商として活躍し始めたこと。その2、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの来日を手とり足とり手引きしたのが改宗ユダヤ人マラノのピントであったこと。マーヴィン・トケイヤー氏の言に従うと、以上のようになる。まずこのことを確認しておきたい。

 2006.2.4日 れんだいこ拝 

【鉄砲の波状伝来の可能性について】
 2006.11.2日付毎日新聞文化蘭で、伊藤和史氏が、「鉄砲伝来に新説 『種子島から全国に伝播』の定説を否定」の見出しで、次のように指摘している。
 現在、「歴史の中の鉄砲伝来、種子島から戊辰戦争まで」展が、千葉県佐倉市の国立歴史民族博物館で開かれいる。企画展の責任者、宇田川武久・歴史博物教授は、「鉄砲は、種子島に伝えられた頃、西日本の各地に分散的波状的に伝来しており、種子島のケースはその中の一つに過ぎない」との新説を披瀝している。
 概要「定説は、1892(明治25)年、ドイツ史学の導入に努めた歴史学の大家、坪井九馬三(くめぞう)・東大教授が、1606(慶長11)年に書かれた『鉄砲記』を鉄砲伝来の根本資料として評価したところから定着したものである。ところが、宇田川武久教授は、『鉄砲記』は鉄砲伝来から約60年経過して書かれたものであり、領主である種子島先祖の功績誇示による脚色面が認められると云う。宇田川教授は、当時東シナ海で活躍していた倭寇ルートで入ってきた可能性が有り、『鉄砲は種子島も含めて、他に平戸や堺など、西日本各地に分散・波状的に伝来したのが真相』との新説を呈示している。

 伝来した鉄砲をモデルに日本で作られた「異風筒」(いふうづつ)が現存しているが、銃身や銃床の形などが様々であり、これは元になる伝来銃が多様であったと考えられる。定説のように種子島起点に全国に伝播したなら不自然で、『分散・波状的伝来』の重要な裏づけになる」。

【藤田達生教授の鉄砲伝来論】
 2022.6.7日、藤田 達生「なぜ150年続いた戦国時代は終わったのか…尾張の小さな戦国大名・織田信長が「天下人」になれた本当の理由」を転載しておく。
 信長はなぜ「天下人」になれたのか。三重大学の藤田達生教授は「鉄炮の登場が合戦を根底から変えてしまった。大量の鉄砲を揃えるほど有利になるが、そのためには大量の資金が必要になる。このため信長は鉄炮のために領土を拡大していった」という――。
 ※本稿は、藤田達生『戦国日本の軍事革命』(中公新書)の一部を再編集したものです。
 「新兵器・鉄炮」が戦国時代を終わらせた
 鉄炮伝来以前の戦国時代の一般武士は、戦争において武器を弓→槍→刀の順でおおむね使用した。対峙する両陣営は、戦端が切られて後、徐々に接近戦となってゆくが、一日中戦闘を続けることは困難だった。まず矢種に限界があり、馬上槍にしても太刀(たち)や打刀(うちがたな)(日本刀のこと、以下では刀と記す)にしても、必ず刃こぼれと曲がりや折れが発生するからである。いうまでもないが、これらの武器はいずれも消耗品であり、種類(大太刀や鎧(よろい)通しなど用途に応じて様々)も量もそれなりの予備を持参するのが普通であり、武装してそれを使用する人間の体力の消耗も激しかった。武士は、伝統的に騎馬で出陣する。木曽馬に代表される軍馬は、その育成に相当の手間暇がかかった。馬の種類や体躯は、持ち主の身分を表した。基本的に移動手段として利用したが、当然のことではあるが戦場で騎馬戦がおこなわれることもあった。その場合、人馬が一体となって戦うため、馬にも鎧(馬鎧)を着用させることがあった。去勢していない雄馬(おすうま)は獰猛で、戦場で敵の馬や武士を殺傷するほどの実力を発揮した。鉄炮戦が一般化すると、標的になりやすいこともあって騎馬戦は一気に下火になった。
 鉄炮が変えた合戦風景
 しかし、慶長年間になっても、戦場に騎馬は登場した。白兵戦の場合、よい敵を探すのに有利だったし、いち早く移動することができ、撤退も素早くおこなうことができたからである。ただし、この時代の武士は騎馬戦に有利な沓(くつ)(鐙(あぶみ)使用に適した革製の履物)よりも歩行戦に適した草鞋(わらじ)や、その半分の長さの足半(あしなか)を履いた。たとえば、信長クラスでも戦場において足半を腰にさげており、元亀四(一五七三)年の刀根山(とねやま)合戦では恩賞として兼松正吉(かねまつまさよし)にそれを与えている(『信長公記』)。元来、騎射や馬上槍は武士の嗜(たしな)みではあったが、必ず使用時に死角ができるので、それをカバーする従者の存在が不可欠だった。そもそも、戦場に武士は単独で参陣することはできなかった。馬の口取りをはじめとする歩行の雑兵が付いたし、その周囲を馬上の一族・郎党が護衛した。それに雑兵が率いた兵粮や飼葉(かいば)などを載せた駄馬(だば)が追随するのが、彼らの伝統的な出陣風景だった。なお、兵粮は基本的に持参である。敵地で稲薙(な)ぎ・麦薙ぎをして得ることもあったが、収穫前の稲や麦は実入りが悪かった。ましてや、乱取りによって敵方から調達するのはリスクが大きく、例外的だった。後の朝鮮出兵でもそうだったが、戦場でもっとも恐ろしいのは、兵粮が尽き飢餓(きが)に苛(さいな)まれることだった。戦争が長期化する戦国時代後半以降、戦場では市が立ち、商人が出入りするようになるのである。
 鉄炮もたらした軍事革命
 武士は、日頃から戦争のための修練が不可欠だった。馬術・弓術・槍術・剣術については、戦国時代までに大坪(おおつぼ)流・日置(へき)流・新当(しんとう)流などの代表的な諸流派が成立しており、師弟の間に免許皆伝が伝授・認可される印可(いんか)制度が存在した。戦国時代の新兵種として注目されたのが足軽以下の雑兵だった。彼らの得意とする武器は、長槍である。腕自慢・力自慢の若者が雇われて、最長で信長の長槍隊のように三間半(約七メートル)もの長大な槍をもち、横隊で叩くように振り下ろしながら前進するのである。それだけでも威力があったし、槍衾(やりぶすま)をつくれば騎馬部隊に十分対抗できたから、長槍隊の効果は絶大だった。諸大名は、槍の長さを競いつつ長槍隊の編成に心がけた。ただし、長大な長槍を使いこなすには足軽たちを専属で雇って訓練せねばならないため、それ相応の資本力がないと不可能だった。戦国時代前半の戦争は、規模こそ数千人規模へ拡大したが、軍備・兵粮さらには武士や足軽の体力に限界があり、何カ月にもわたる長期戦は不可能だった。しかも勝敗が偶然性に左右される側面もあったから、天下統一など想像もできなかった。ところが鉄炮の導入に端を発する軍事革命によって、このような限界は克服されることになった。戦国時代後半の戦場に注目しよう。科学兵器としての鉄炮がもたらした「勝てる戦争」の意義を問いたい。
 鉄炮はいつ日本に伝わったのか
 それでは、鉄炮はヨーロッパからいかに伝わったか。まずは鉄炮伝来に関する研究の新たな潮流を紹介する。明治時代以来の通説は、天文十二(一五四三)年に種子島へのポルトガル人漂着によって南蛮銃が伝来したとする「鉄炮記」(後述)にもとづくものだった。それに対して、鉄炮遺品や関係史料の分析によって、種子島への伝来は一事例に過ぎず、それ以前に、倭寇がマラッカなど東南アジアで使用されていた火縄銃を伝えたとする、宇田川武久氏の説が脚光を浴びた。これに加えて、倭寇(わこう)すなわち寧波(ニンポー)(浙江省東部にあった勘合貿易の港湾都市)沖の舟山(しゅうざん)群島を拠点にした中国人密貿易商人のなかでも代表的な存在であった王直(おおちょく)(五峰(ごほう))が、自らのジャンク船(中国製の木造帆船)を使って天文十一年にポルトガル人を種子島に導いて鉄炮が伝来したとする、村井章介氏の説もある。これらの説からは、倭寇が介在した琉球や環日本海諸地域などへの鉄炮の多様な伝来のありかたが想起されるであろう。歴史的な出会いとみられてきた種子島への鉄炮伝来も、ワンオブゼムだった可能性が高まったのである。ここでは、初期の受容が海賊の拠点であった瀬戸内海でみられることを指摘しておきたい。
 通説よりも早く浸透していた可能性
 京都東福寺の僧侶が記した旅行記「梅霖守龍周防下向日記(ばいりんしゅりゅうすおうげこうにっき)」の天文十九年九月十九日条によると、同日の午刻(十二時頃)、備前日比島(岡山県玉野市)の付近を航行していた梅霖守龍一行の乗った船に海賊船が近づき、両船の間で交渉がおこなわれたが不調に終わり、戦いが始まったという。海賊が矢を射たのに対して、鉄炮で応戦したので、海賊側は多くの負傷者を出したことを記している。弓(最大射程三八〇メートル)に対して、格段に射程の長い鉄炮(最大射程五〇〇メートル)をはじめとする火器は、陸戦以上に海戦に有効な武器だったことを、この記事は物語っている。それにしても、この事例は天文年間(一五三二~一五五五年)に早くも西国社会で鉄炮が浸透していたことを暗示するものである。
 鉄炮を支えた「科学者たち」
 鉄炮の国産化については、きわめて短時間で可能になったようだ。これについては製造地ごとに様々な背景があったと予想されるが、種子島と国友村に伝わる一般的な理解を示しておきたい。天文十二年(一五四三年。現在では天文十一年に修正されている)八月に、王直に従ったポルトガル人が乗船したジャンク船が種子島に漂着した。島主の種子島時尭(ときたか)は、彼らをもてなしたが、その折に彼らが携えた火縄銃の試射をみてその威力に感心した。自身も隣接する大隅(おおすみ)国の禰寝(ねじめ)氏との戦争で苦慮していた時尭は、二挺を買い求め、そのうち一挺を種子島の刀鍛冶に貸して複製することを命じた。よく知られた通説であるが、これは慶長十一(一六〇六)年に種子島久時が祖父時尭を顕彰するべく、大龍寺(臨済宗、鹿児島市)を開山した南浦文之(なんぽぶんし)に執筆させた「鉄炮記」にもとづくものであり、信憑性という点ではいささか疑問符が付く史料である。担当した八板金兵衛は、高熱にも長期間の使用にも耐える銃身の製作は刀鍛冶の技術を投入して成功したが、銃底を塞ぐ尾栓(びせん)の加工に頭を悩ませた。ここを取り外せる構造は、銃身の清掃や不発弾の除去などのメンテナンスにおいて、必要不可欠だったからである。尾栓としての雄ネジと雌ネジの工夫については、娘若狭をポルトガル人に差し出して得たとする悲話を伴い、今に伝承されている。
 アジアで最初に実現した国産化
 種子島氏が購入したもう一挺は、島津氏を通じて将軍足利義晴に献上したという。義晴も、天文十三年二月に複製品の製作を国友村の善兵衛・藤九左衛門・兵衛四郎・助太夫ら四人の刀鍛冶に命じた。彼らも尾栓の技術に苦しんだが、わずか六カ月で二挺の鉄炮を製造して献上した。これは、奥書に寛永十(一六三三)年三月と記す「国友鉄炮記」(実際の成立は元禄五〔一六九二〕年以降とされている)によるものである。有名な由緒記にもとづいて紹介したが、これらはいずれも諸書の関係記事を適当につなぎ合わせたもので、信憑性は低いことが知られている。それでも、種子島といい国友村といい、わずかな期間で国産化したのは事実である。鉄炮は、それ以前にも中国や朝鮮に伝わっていたのであるが、国産化という点で日本はアジア諸国においても最速だったとされる。しかも高品質だったから、命中率が比較的高く信頼性も高かった。関与したのが刀鍛冶だったように、優れた日本刀の鍛造技術が活かされたといわれる。鉄炮の国内普及は、早くも永禄年間(一五五八~一五七〇年)には本格化した。
 量産、浸透の立役者…砲術師・鉄炮鍛冶・武器商人
 鉄炮の実戦への導入の背景としては、まず火器の取り扱い全般に長じた砲術師によって、鉄炮の扱い方や火薬の調合法が戦闘員(大名から足軽に至るまで)に広く浸透したことがあげられる。それには、稲富一夢(祐直(すけなお))のような廻国する揺籃(ようらん)期の砲術師たちの活躍が想定される。次に重要なのは、国産鉄炮の量産システムが完成したことである。これに関連するのが、製作者としての鉄炮鍛冶集団の成立である。その代表は、なんといっても堺と国友村であるが、紀伊国根来(和歌山県岩出市)や近江国日野(滋賀県蒲生郡日野町)の鉄炮鍛冶も有名である。さらに、武器商人の存在も欠かせない。鉄炮に必要な火薬(焔硝(えんしょう)に炭と硫黄を調合した黒色火薬)や玉の原料の鉛などを調達する武器商人は、領主と生産者たる鉄炮鍛冶とをつなぐ役目を果たす。なお、硝石(焔硝)であるが、当時は国内では得られず、産地の中国をはじめとするアジア諸国との貿易に依存していたから、かなり高価だったことも指摘しておきたい。たとえば、信長は上洛した翌年に撰銭(えりぜに)(商取引の際に、良貨を撰び、悪貨を拒否すること)に関する規定を発するが、金銀をもって売買する高級品のなかに「薬」すなわち火薬をあげている。
 戦国時代の国際貿易網
 硝石が国産化できた時期の詳細は不明であるが、一般的には江戸時代になってからとみられている。「煙硝」と記されるが、一向一揆の拠点越中五箇山(富山県南砺市)で戦国末期から織豊期にかけて生産され始め、大坂本願寺と一向一揆に供給したとする説もある。また鉄炮玉の原料である鉛も、安価な国内産もあるが、遺物を分析すると、その多くを国外に依存していたことがわかっている。硫黄が輸出するほど豊かだったことに比して、肝心の硝石や鉛の確保がネックになっていたのだ。いずれも、仲介人としては東アジアの武器商人と南欧(スペイン、ポルトガル)商人やイエズス会関係者などが想定され、彼らは今井宗久(そうきゅう)などの堺商人と結託し、信長のもとに集中するルートを形成していた。国際貿易を介して、日本の武器商人はアジア諸国からそれらを大量に輸入していたのである。たとえば、硝石の産地は中国の山東省や四川省だった。またタイ西部のソントー鉱山で産出された鉛は、要港である同国のアユタヤやマレー半島のパタニに集積され、これらが南欧商人によって日本に輸入されたというルートが、平尾良光氏によって指摘されている。
 織田信長の天下統一事業の背景にあるもの
 
このように、鉄炮の量産・浸透システムは、砲術師 鉄炮鍛冶 武器商人(国際商人を含む)という三者間の緊密な関係が成立しなければ、誕生しなかったのである。「勝てる戦争」を保障した鉄炮であるが、高価な消費財そのものであり、その運用のためには常に資本の拡大すなわち領土の拡張と収奪の強化が必要不可欠だった。一度鉄炮の破壊力を知ると、たちまち数量をそろえたいという欲望に目覚め、必然的に高価な硝石を大量に確保したいという欲求に駆られるようになる。ここにこそ、抜け目のないイエズス会をはじめとする諸勢力が政治に付け入る隙が生まれる。信長の天下統一事業の背景には、勝ち続けるための飽くなき富の追求があった。巨大な財源の確保に向けて戦争が目的化し、継続してゆくことになる。
 藤田 達生(ふじた・たつお)

 三重大学教育学部教授 1958年(昭和33年)、愛媛県に生まれる。1987年、神戸大学大学院博士課程修了、学術博士。同年、神戸大学大学院助手。1993年、重大学教育学部助教授。2003年、同教授。2015年、三重大学大学院地域イノベーション学研究科教授兼任。専攻は日本近世国家成立史の研究。著書『天下統一論』(塙書房)、『戦国日本の軍事革命』(中公新書)など多数。

【イエズス会宣教師の日本布教史】
 当初インドに布教にやって来た聖フランシスコ・ザビエルはその地の布教状況に絶望し、その目は新天地に向けられるようになった。その頃、マラッカで薩摩の武士アンジロー(又はヤジロー)達と出会うこととなる。日本の状況を彼らに聞いたザビエルは日本布教を決意する。 アンジロー達3人の日本人が洗礼を受け最初の日本人キリスト教徒となる。アンジローはポルトガル語を習得していたため、教理書などの日本語への翻訳にあたった。インド布教に使われていた小カテキスモや、マタイ福音書なども邦訳されたようである。アンジローは元々真言宗だったらしく、訳に際して仏教用語を多く使っている。Deusを大日、Paradisoを極楽、Animaを魂、と言ったように。ザビエルは、日本で指導的立場に立てるように、とアンジロー達に徹底的にキリスト教の教えをたたき込む。イグナチウス・ロヨラ著「霊操」に基づく「心霊修行」まで受けさせている。

 1549(天文18).8.15日、聖母被昇天の祝日にして鉄砲伝来の6年後のこの日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、日本人ヤジロウの案内で二人のイエズス会士(コスメ・デ・ドーレス司祭とジョアオ・フェルナンデス修道士)と共に薩摩(鹿児島)へ上陸した。ヤジロウとは、マーヴィン・トケイヤー氏がピントの活躍紹介のくだりでアンジロウとして述べている人物のことだと思われる。こうなると、ザビエルに引き合わせたのも、薩摩(鹿児島)上陸を手引きしたのもピントと云うことになり、ザビエル来日の背後にはピント勢力の意向があった、ということになろう。

 ここにイエズス会の宣教が始まる。ザビエルの足取りに就いては、「来日宣教師列伝」で考察した。ここでは、案外知られていない「イエズス会の宣教と国内の主要事件関わり」について憶測も含めて言及してみたい。

 宇野正美氏は、「戦後50年、日本の死角」(光文社、1995.1.30日初版)の10章「新たなる歴史と民族の発見」で、次のように述べている。
 概要「1549年(天文18年)、フランシスコ・ザビエル一行が日本にやってきた。キリスト教を伝播するためだったと伝えられている。しかし、ザビエル達が持ってきたのは本当のキリスト教だったろうか。(中略)ザビエル達はキリスト教を伝えただろうか。いや、むしろ、彼らが伝えたのはデウス信仰であり、マリア信仰であった」。

 この指摘は鋭いように思われる。

 イエズス会宣教師の日本布教史の概略の流れは「関連年表」、「来日宣教師列伝」、「キリシタン大名の実態考」で個別に行うとして、ここでは政治的事件のみを抽出する。

 9.29日、ザビエルは、薩摩藩主(鹿児島)の島津貴久(しまづ たかひさ)に謁見し、宣教のための許可を求めた。ポルトガルとの貿易を望んでいた貴久は、その願いに快く許可を与えた。同時に、小さな家をも貸し与えた。ザビエルは、日本語を上手に話すことができれば、多くの人たちがキリスト教徒になるだろうと考え、宣教師たちに日本語を学ぶようにすすめている。

 ザビエルたちの布教に感銘を受け洗礼を受ける人たちがあらわれた。そのひとりに「ベルナルド」という洗礼名を受けた青年がいた。彼は、ザビエルの忠実な同伴者となった。「ベルナルド」平戸、山口、都へと旅をともにし、1551年、ザビエルと共にインドへ赴き、さらにヨーロッパに渡り、 1553年イエズス会に入会し、日本人の最初のイエズス会司祭となっている。その後、ポルトガルで勉強を続けていたが、1557年、道なかばで病気のために亡くなっている。ザビエルが鹿児島に滞在した1年の間に約100人が洗礼を受け、信徒となつている。

 ザビエルは、日本の諸宗教を知るために、寺々を訪問し、僧侶たちと話している。そのなかのひとつ、曹洞宗 福昌寺(そうとうしゅう ふくしょうじ)をたびたび訪ね、東堂(とうどう・前住職)の忍室(にんじつ)と親しく話し合つている。しかし、しだいに仏僧たちの反感が強くなり、キリスト教の禁令を、領主貴久に要求した。貴久は、貿易のことを考え、躊躇(ちゅうちょ)していたが、1550年7月、フランシスコ・ペレイラ・デ・ミランダを船長とするポルトガル船が、鹿児島ではなく平戸に停泊したことを契機に、キリスト教の禁止に踏み切った。活動できなくなったザビエルは、祈りのうちに、ヤジロウの助けで、教理の本を日本語に翻訳したりしていた。はじめから日本の都である京都を目指していたザビエルは、この機会にそれを実行することにした。

 1550.8月8、ザビエル一行は平戸へ向かった。領主松浦隆信(まつうら たかのぶ)に謁見し、宣教の許可を得た。彼らは、隆信の家臣の木村という武士の家に滞在した。 ザビエルとフェルナンデスは、鹿児島でつくった簡単な教理の本を使って宣教を開始した。木村家は家族全員が洗礼に導かれた。この木村の孫にあたる木村セバスティアンは、最初の邦人司祭として長崎で叙階され、1622年9月10日、長崎の西坂で火あぶりによって殉教している。彼の従弟レオナルドもイエズス会に入り、1619年11月18日、長崎で殉教。甥の木村アントニオは、1619年11月26日、長崎で斬首され殉教している。この3人は日本205福者殉教者にあげられている。ザビエルたちは2カ月の間平戸に滞在し、100人くらいの人びとに洗礼を授け、彼らをトルレ神父スに任せて、都へ向かうため当時西の京と目されていた山口に向けて旅立った。

 当時、山口は、日本で一番栄えている町のひとつで、大友文化といわれる京風の文化が花開いていた。ザビエルが訪れたときの領主は、最も有力な守護大名のひとりの大内義隆(おおうち よしたか)で、彼は学問や芸術の保護を奨励し、各方面のすぐれた学者や僧侶を招いていた。ここでも、ザビエルはフェルナンデスを伴い、宣教を行った。しかし、山口で受洗した人はわずかだった。

 1550年12月、ザビエルは、フェルナンデスとベルナルドを伴い都に向かった。山口から岩国までは徒歩で、岩国から堺までは船の旅となった。この旅は、冬の厳しい寒さと、食物の不足、それにあわせて一部の人たちの不親切のために大変苦しいものとなった。堺では、後に教会の柱となる商人 日比屋(ひびや)を訪れ、歓迎された。

 1551年1月、ザビエルたちは平戸、博多、周防(山口)を経て京都へ上り、小西の家に都の宿を得た。小西家の長男 立佐(隆佐)は、それから8年後の1560年、洗礼を受けた。彼は、キリシタン大名として名高い 小西行長(こにし ゆきなが)の父である。そのころ京都は、11年にわたる応仁(おうにん)の乱ですっかり荒廃していた。後奈良天皇は力がなく、幕府の権威は地に堕ち、将軍 足利義輝(あしかが よしてる)は、近江に逃れていた。ザビエルは、内裏から日本全国で宣教する許可をもらい、都に聖母マリアを保護者とする教会を建てたいと望んでいた。しかし、「日本国王」としての天皇との謁見も、宣教も許されず、比叡山に入ることもできなかった。ザビエルは滞在わずか11日で失意のうちに都を去り平戸にもどつた。

1551年4月、ザビエルはフェルナンデスやベルナルド、もう1人の日本人キリシタンを伴い、ふたたび山口に入り宣教を試みた。先回のような貧しい姿ではなく、盛装してインドの副王使節として領主に謁見した。その際、ザビエルは、天皇に献呈するはずだったインドの副王と、ゴア司教の信任状と贈り物を大内義隆に差し出した。義隆が返礼にと用意した贈り物を辞退し、ただ福音の宣教を行うことの許しを願った。義隆は喜んで許可を与え、無人の寺を住居として提供した。宣教をはじめたザビエルは、ひとりの目の不自由な琵琶法師に洗礼を授けた。彼は、ロレンソと呼ばれ、イエズス会の最初の日本人入会者となり、説教師として多くの人に福音を伝えた。山口では、ザビエルが滞在した4カ月の間に約500人が洗礼を受けている。このころザビエルは、神を表すために用いてきた真言宗の「大日」を、ラテン語の「デウス」に改めている。これは、多くの各宗派の仏僧たちとの論争により得た成果だった。

 1551年9月に、府内(ふない)に、ポルトガル船が入港したことを聞き、ザビエルは、山口の教会を、平戸から呼びよせたトーレス神父に任せて、豊後(ぶんご)に向かった。豊後の領主大友義鎮(おおとも よししげ・後の「宗麟」そうりん)はまだ20歳で家督を継いだばかりだった。義鎮は尊敬をもってザビエルを迎え、キリスト教の話しを聞き、領地内での宣教を許可した。そのころ山口では、大内義隆が、陶隆房(すえ たかふさ・後の「晴賢 はるかた」)の反乱によって殺された。トーレス神父やフェルナンデスにも、危険が迫ったが、幸い難を逃れた。内乱がおさまると、隆房は豊後の義鎮に使者を送り、弟晴英(はるひで)を山口の領主として招くことを伝えた。晴英はこれを承諾し、翌年、山口に移り、大友義長(おおとも よしなが)と名乗った。彼が、宣教師たちを保護したので、毛利元就(もうり もとなり)が山口を占領する1556年まで、宣教が続けられ、教会は栄えた。

 インドのイエズス会に、多くの困難があることを知ったザビエルは、出港するガマの船で、一度インドに帰り、問題を解決することにした。

 1551年11月15日、ザビエルは豊後を出港した。ザビエルが日本にきて、2年2カ月が過ぎていた。そのとき、彼は翌年、新しい宣教師を連れてふたたび日本に来るつもりだったが、これが、日本との永遠の別れとなった。ザビエルが日本を離れたとき、日本のキリスト教の信徒数は700-2000人ほどだったという。

*2 コスメ・デ・トーレス司祭
 スペインのバレンシアで生まれ、ラテン語の教師を勤めたあと、メキシコで住み込み司祭になっています。
 その時フランシスコ会から入会を勧められていますが、それを断り、後に従軍司祭としてスペイン艦隊の遠征に従軍しました。
 1546 年、彼はモルッカ諸島(インドネシア)でザビエルに出会い、深い感銘を受けました。その後、ザビエルに再会したいがため、ジャバ、マラッカ経由でゴアに行き、ザビエルが宣教の旅から帰るのを待ちつづけます。2年後の1548年、ザビエルに再会すると、早速イエズス会に入会し、日本へ宣教の旅に随行します。
 日本では、ザビエルと共に、平戸や山口で宣教活動を行い、ザビエルの離日後は、その志を継いで、20年にわたり日本で宣教をし続けました。
*3 ジョアン・フェルナンデス修道士
 スペインで生まれ、リスボンの裕福な商人でしたが、1547年、イエズス会に入会し、ほどなくして、ザビエルの一行に加わっています。
 ザビエルは、謙虚な彼を司祭にと思いましたが、彼はその申し出を辞退します。日本では1日2回、ザビエルと2人で街頭に立ち、ザビエルの通訳や、教理書を読み上げたりして、福音宣教に力を注ぎました。
 彼は、日本で修道士としての生涯をささげました。
*4 ヤジロウ
 ヤジロウは、ザビエルの手紙では、「アンジロウ」と書かれています。
 イグナチオによってインドに派遣されたザビエルは、さらに東へと宣教の足を延ばしました。1547年、マラッカ(マレーシア)で、日本人のヤジロウと出会っています。
 ヤジロウは、薩摩の国の下級武士の出身でしたが、かつて自分が犯した大きな罪(一説には、人を殺して日本にいられなくなったといわれています)の赦しを求めて、ザビエルに会いに来ました。
 ザビエルは、ヤジロウを紹介され、彼の話すポルトガル語を聞き、理知的で、知識欲旺盛な様子を見て、ヤジロウに、「もし日本に行けば、日本の人びとは信者になるだろうか」と尋ねています。ヤジロウは、「すぐにはならないでしょうが、あなたの言われたことについて色々尋ね、話されたことが本当に行われているのか、あなたの生活ぶりを見て信者になるか考えるでしょう」と答えています。
 以前から ザビエルは、「新しく発見された日本という島には、理性的な国民が住む」と、商人達から聞いていました。そして、ヤジロウと出会ったことで、日本へ宣教に赴くことは、神のみ旨ではないか、と考えるようになります。
*5 大友義鎮(1530-1587年)
 ザビエルを招待した大友義鎮は、後の大友宗麟で、豊後(今の大分)を本拠地にして肥後、日向、筑後へ勢力を伸ばしていました。
 当時の義鎮は、家督を継いだばかりの若い領主でしたが、ザビエルに来訪を懇願する手紙を送っています。ちょうどそのころ、ポルトガル船が豊後の港に入港しており、船長のドアルテ・ダ・ガマ(インド航路の発見者、ヴァスコ・ダ・ガマの息子)からも手紙を受けています。ザビエルが豊後に着くと、船からは礼砲が鳴り響き、人びとを驚かせました。義鎮は、礼砲の習慣や、聖職に対する尊敬の念を知り、感嘆しています。彼もまた、威厳と尊敬をもってザビエルを迎え、ポルトガルとの友好を求め、領内での宣教活動の許可を与えました。
 義鎮は、ザビエルから強い影響を受けており、27年後にフランシスコの洗礼名で、信仰に入っています。また、大友、大村、有馬の3人は、天正少年使節をローマに派遣しており、正使の一人、伊東マンショと義鎮は親類にあたります。
 ヤジロウは、ゴアの聖パウロ学院で教理を学び、パウロ・デ・サンタ・フェとうい霊名で、洗礼を受けました。ザビエルと共に鹿児島に上陸し、ザビエルの通訳・案内役を務めました。ザビエルの上洛後は、鹿児島に残りましたが、その後はわかりません。
 2人の出会いは、東西の宗教の交流だけでなく、互いの思想や文化の門を開くきっかけとなりました。
 ザビエルと共に来日し、シャヴィエルが去ってからはコスメ・デ・トルレス神父が後を継ぎ布教長となつた。彼はシャヴィエルの精神を受け継ぎ、日本布教に際して日本に順応する適応主義の姿勢で臨んだ。すなわち、日本人と同じものを食べ、同じものを着、同じ所で眠る。また日本を知るため彼らは相当研究していたようだ。日本文学(平家物語など)がキリシタンによって写本されていたりしている。神儒仏の三教、特に仏教の研究にも熱心であり、仏僧との討論などもよく行われていた。「日本布教の際には、ローマの教会法の適用を待ってくれ」という内容の書簡がローマ宛に送つている。
 そしてヴァリニャーノ神父に受け継がれていった。
 1552年、ガーゴ神父が府内に到着。

 1556年、イ ンド副管区長・ヌーネス・バレトが日本視察のためガスパ ル・ヴィレラ神父を伴い府内に到着。

 1559年、ヴィレラが、京都で宣教を開始している。総勢何名か不明であるが、かなりのイエズス会宣教師が来日していたと思われる。

 1560年、将軍足利義輝、ヴィレラに 布教許可状を交付している。この間、豊後の大友義鎮(後の宗麟)が宣教師との交流に熱心となり、続いて、 1563年、肥前の領主・大村純忠、大和沢城主・高山厨書、1564年、その息子高山右近がイエズス会の洗礼を受けたキリシタンとなっている。

 1563(永禄6)年、日本最初のキリシタン大名となった大村純忠の領内教化政策に対し、内紛が発生していることである。寺社勢力がこれを後押ししており、早くも寺社対イエズス会の抗争が始まっている。

 1565年、13代足利将軍・義輝が暗殺されている。松永久秀と三好三人衆のクーデターによって居城であった二条御所が襲撃され、衆寡敵せず、最後は三好勢によって殺害された。この将軍暗殺事件との絡みは不明であるが、この年、勅命 「大うすはらい」によりヴィレラ、フロイス神父らが京都から追放されている。

 1560年代に入ると、ポルトガルやスペインとの貿易による利益に着目する大名や、キリスト教の教えを封建体勢の強化につなげようとする大名も現れ、保護を受けたり、また大名自ら受洗する者も出てきた。こうなると、信者が増えるのは速い。大名が受洗すれば、おのずと臣下の者達や領民の改宗が進むこととなる。これまで10~100の単位でしか増えなかった信者が、あっさり1000や10000の単位で増えるのである。各地に教会、病院、神学校も建てられ、キリシタンは急速に増えていった。宣教師達は布教に際して、自然科学の講義から始める事があった。世の中の理を説き、そこからでうすの存在を証明するのである。自然科学が発達していなかった日本では、この方法は有効であった。また神学校などでは、仏僧との対決に備えて討論の練習が必須であった。 信者が増えるにつれて、洗礼や教会の儀礼を行う神父や修道士が不足した。そこで、日本人の平信徒に、洗礼を授けたり、ミサを行ったりする権限が与えていった。この体制が、潜伏時代になっても信仰を維持させる事につながった。

 1570(元亀元)年、この頃、イエズス会上長カブラルと オルガンティーノが来日している。前上長トレス死去。カブラル神父が日本布教の上長となる。彼はシャヴィエル以来の日本適応政策を弱め、貿易による有力大名との結びつきで布教を拡大しようとする。織田信長のおぼえが良かった彼はそれに成功したが、信徒や宣教師達からの評判は良くなかった。それでも布教体制は整っていった。

 1579年、巡察使ヴァリニャーノの来日によって、日本での布教体制は確立する。彼は日本適応政策を再び推進し、布教体制を整えていった。日本を独立した布教管区とすること、ローマとの通信体制の整備、布教費用の確保など次々と押し進めた。以下、長崎開港、堺港開港、本能寺の変、千利休切腹。

 1582年、ヴァリニャーノは天正遣欧少年使節を引き連れ、ローマに向かった。折しもこの年、本能寺の変が起こり、キリシタン教界の保護者・織田信長が非業の死を遂げる。しかし、しばらくはキリシタン教界は、布教拡大政策と適応主義がはまり、順調に信者を増やしつつあった。

 1587年、突如豊臣秀吉より、伴天連追放令が出されることとなる。その頃にはキリシタンは二十万人を超えるとも言われている。

【イエズス会宣教師の利権ないしは植民地化エージェント活動考】
 TORA 氏は、「阿修羅空耳の丘42」の2006.1.27日付投稿「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」で、当時の宣教師達の利権ないしは植民地化エージェントの動きを次のように伝えている。出典は、「日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし」のようである。これを参照する。

 「ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙」が残されており、次のように書かれている。
 「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)。
 「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。

 これを踏まえて、次のように述べている。

 キリシタンの宣教は西欧諸国の植民地政策と結びついていました。それは、初めに宣教師を送ってその国をキリスト教化し、次に軍隊を送って征服し植民地化するという政策です。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしています。

 ポノレトガル、スペインのようなカトリック教国は強力な王権をバックに、大航海時代の波に乗ってすばらしく機能的な帆船や、破壌力抜群の大砲を武器として、世界をぐるりと囲む世界帝国を築き上げていました。その帝国が築き上げた植民地や、その植民地をつなぐ海のルートを通って、アジアでの一獲千金を夢見る冒険家たちが、何百、何千とビジネスに飛ぴ出していきました。

 そうした中にカトリックの宣教師たちも霊魂の救いを目指して、アジアに乗り出して行ったのです。彼らが求めたのは、霊魂の救いだけではなく、経済的利益でもありました。

 ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)だけあって、金儲けには抜け目ない様子が、手紙を通じても窺われます。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸しました。この人も改宗ユダヤ人で、ポルトガルを飛ぴ出してから世界を股にかけ、仲介貿易で巨額の富を築き上げましたが、なぜか日本に来てイエズス会の神父となりました。彼はその財産をもって宣教師たちの生活を支え、育児院を建て、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てました。

 イエズス会のドン・ロゴリゴとフランシスコ会の宣教師フライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書は次のように記している。
  「殿下を日本の君主とすることは望ましい。しかし、日本には住民が多く、城郭も堅固であるため、軍隊の力による侵入は無理であるから、福音を宣伝する方策をもって 日本の国民が殿下に悦びいさんで臣事するように仕向けるほかなし」。

 この書翰(しょかん)により判明することは、キリシタン・バテレンたちの正体が対日諜報員であり、対日工作員であったということである。対日侵略は、初期の武力占拠を断念し、諸藩を貿易の利潤で誘い、キリシタンの布教を公許させる持久戦方策に転換していくことになる。




(私論.私見)