豊臣秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」その2 |
更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).6.27日
(れんだいこのショートメッセージ) |
【豊臣秀吉の説得と高山右近の殉教】 | |||
同夜、秀吉は右近にも使いを出して次のように棄教を迫った。
しかし右近は次のように答えた。
右近はいさぎよく領地を返上。 まわりの者たちは、そのような秀吉の怒りをかうような返答ではなく、口だけでも秀吉の意に沿うようにしてはどうかと忠告したが、右近はそのことばどおり伝えるように使者に命じた。 しかし秀吉は、なおも棄教を勧めた。秀吉の条件は「領地は無くしても熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」というものであった。しかし右近はこの譲歩案も拒否し、いかなる立場に置かれてもキリシタンをやめはしない、霊魂救済のためには、たとえ追放されても悔いは無いと答えた。 日本側の資料には、秀吉が右近の茶の師である千利休を使者として遣わし説得に努めたと記されている。しかし利休の説得も謝絶し次のように答えている。
翌日の6.20日、右近は博多沖の小島に身を隠し、明石にいる家族と主だった人々に知らせ、家族に淡路島に来るように伝え、自分も後に淡路島へ向かった。右近は家臣に対し、おのおのの妻子のために配慮し、糊口を求めよ、と気遣った。この時、長男十次郎は12歳、娘ルチアは生まれたばかりであった。 |
【キリシタン大名のその後】 | ||
教会は没収または破壊され、パアデレ退去の命令が出た。多くのキリシタン武将も棄教を迫られ、実際に棄教したもののいた。 黒田官兵衛はその功績のゆえに豊前を与えられていたが、棄教しなかったため、かなりの領地を没収された。 オルガンティノ神父は宣教師とセミナリオの生徒を平戸へ非難させ、京都の信者は近江へ逃れさせた。オルガンティノ神父、右近らは小西行長の領地であった淡路島の室津に集合した。行長はキリシタンであったが秀吉の追放令に動揺し、宣教師に会うことを避けていたが、ようやく室津に来て、決心を固め、小豆島を彼らの隠れ家として提供し、彼らを守ることを約束した。当時小豆島の代官はマンショ三箇であり、行長が宣教師派遣を要請して、島民の多くがキリシタンになった所であった。
小西行長は右近一家のため小豆島に隠れ家を用意。パアデレには室に隠れ家を用意した。パアデレは日本人の姿で籠にのり、潜行して信者を励まして回った。秀吉は行長がかくまっていることを知ったが行長は堂々と答え、右近を弁護した。しかし翌天正16年(1588)小西行長は肥後南半および天草諸島32万石へ転封になった。右近らも結城弥平次、日比屋ヴィセンテらと共に九州へ向かった。行長は、32万石という新たに得た莫大な禄で右近の旧家臣を迎えいれ、キリシタン、イエズス会を援助することができた。 右近は有馬に隠れていたコェリョと再会。この迫害を招いた彼の過去の失敗は一切責めることはなかった。コェリョも右近の勇敢さを讃え、自らの書簡の中で次のように記している。
コエリョはその後もスペイン国王に軍隊を派遣するように要請していたが、巡察士ヴァリニャーノが、それを阻止し、生糸の日本への輸出を差し止めるという手段により、事実上、伴天連追放令を骨抜きにした。 |
【「宣教師の反撃」】 | |
秀吉は、準管区長コエリヨに対し、凡そ以上の視点からの詰問をした。しかし、コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答であった。高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはコエリヨに進言したが、彼は彼らの制止を聞き入れなかったばかりか、ただちに有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は
金と武器弾薬を提供すると約束し、長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。2、3百人のスペイン兵の派兵が
あれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリ
ピンに要請した。これは先に巡察使ヴァリニヤーノがコエリヨに命じておいたことであった。 しかし、頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見て、ヴァリニヤーノはその能力がないと判断し戦闘準備を急遽解除した。 この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、宣教師が送られて来たという事実を認めるほかない。 キリシタンの抵抗は執拗に続いた。もはや軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年から1605年頃まで15年間日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、1599.2.25日付けで次のような手紙を、イエズス会総会長に出している。
キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、 というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。しかし、この計画は未遂に終わった。 |
【「秀吉の朝鮮出兵の動機」考】 |
秀吉は急遽朝鮮出兵を打ち出す。肥前の名護屋に本陣を構え、1592年ー96年、文禄の役、1597ー98年、慶長の役に出兵する。文禄の役では、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正を大将とする15万8700名が派兵された。慶長の役は全軍14万余の兵力が投入された。二度の戦争で日本軍は完敗し、結局のところ朝鮮出兵が豊臣政権の命取りになった。 秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あり、通説は「朝鮮、明の入貢と貿易復活を求めたところ拒絶された故の外征であった」としている。が、スペインやポルトガルの宣教師の入れ智恵であったという説もある。コエリは、スペインに船を出させ、共同で明を征服しよう、と考えた。しかし、コエリョが秀吉を恫喝するような態度に出たので、独力での大陸征服に乗り出したという説がある。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったということになる。 1593年(文禄3)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。いずれにせよ、秀吉の朝鮮出兵政策の陰に宣教師達の巧言があったことが推定でき、秀吉は甘言もしくは挑発にまんまと乗せられたことになる。 |
【「伴天連(ばてれん)追放令」その後と「キリシタン弾圧」】 | |
秀吉が九州征伐後に博多で発した「伴天連(ばてれん)追放令」は、 キリスト教が予想以上に普及してい たことと、貿易を重視して南蛮交易を押し進めていたこともあり、その効力はさほど強くなかった。 1596.10月、スペイン船サン・フエリペ号が台風のため土佐の浦戸湾に漂着した。土佐の国主・長曾我部元親は、この漂着を秀吉に報告し積荷を没収した。積み荷没収と乗組員拘留が行われた際、スペイン国王による宣教師派遣には領土征服の意図が含まれており、「はじめに宣教師を送って人民を教化し、信徒が増えるのを待ってこれに内応させてその国を征服する」という趣旨の水先案内人の発言が為された。これを「サンフェリペ号事件」と云う。この頃の京都では、8月30日と9月4日に、たて続けに大地震に見舞われ、伏見城にも大きな被害が出ていた。 12月、秀吉は再び禁教令を発し、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員の捕縛(ほばく)を石田三成に命じた。これには次のような背景事情があった。この頃、イエズス会の方は天正15(1587)年の宣教師追放令が出て以来、表面的な布教活動を自粛していたが、フランシスコ会は禁令を無視して活動していた。天正13(1585)年に教皇グレゴリオ13世が日本伝道をイエズス会に限る旨の回勅を出していたが、マニラに伝道の本拠を置くフランシスコ会は日本の国内で猛然と布教を始めていた。 1597(慶長元)年、秀吉は、追放令に従わずに京都、大阪で布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師6名、信徒14名とイエズス会のパウロ三木や熱心な信者24名を次々と捕えた。この頃、ランシスコ会とイエズス会が阿吽の呼吸で結託しつつ日本で宣教していたことが判明する。 慶長2(1597)年1月3日、殉教者たち24名が、見せしめとしてまず京都の上京一条の辻で左耳たぶをそがれ、牛車で町中をひきまわされた。同様事例が伏見や大坂、堺でも発生した。1月8日に、24人全員を長崎でハリツケにせよという秀吉の命令が伝えられ、殉教者たちは京都から長崎まで800キロの死の行進をさせられることになった。キリシタンは冬の厳しい寒さの中、後ろ手に縛られながら、遥かな殉教の地長崎へ向かって徒歩で護送された。旅の途中、新たな2名の殉教者が加わった。 殉教者の世話をするために付き添い、執拗に願い出て殉教者に加わったペトロ助四郎と、殉教者を最後まで見届けようと心に誓い、願って殉教者に加わった熱心な信者フランシスコ吉の2人であった。 同2.5日(和暦12.19日)朝、殉教の地の長崎へ連れ戻された26人の殉教者達は、長崎から大村へ行く海沿いの西坂の丘で十字架に縛り付けられた。長崎奉行の弟の寺沢半三郎が出した禁足令にも拘らず、西坂の丘は処刑される殉教者を一目見ようとする群集で埋まった。員の処刑は、慶長元(1596)年2月5日の朝9時半ころから始まり、11時頃に終了した。十字架につけられた26人は賛美歌を歌い、パウロ三木は罪状に対し次のように述べている。
日本人信徒26名はわざわざ長崎まで連れて行かれて、十字架に縛り付けられたまま槍で処刑された。殉教者の最年少者は、尾張出身で12歳のルドビコ茨城少年、また最高令者は、備前出身で64歳の伝道士・デイゴ(ヤコブ)き斎であった。遺骸は80日間、そのまま十字架上にさらされた(片岡弥吉「日本キリシタン殉教史」)。世に名高い「長崎の26聖人殉教事件」である。これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。一方、宣教師ルイス・フロイスは、これを報告し、秀吉を暴君と罵っている。イエズス会とマニラ総督府は、すかさずこの26人を聖人にするという対抗手段をとった。こうして、丁々発止の攻防戦、両者の熾烈なせめぎ合いが演ぜられていくことになる。(「日本二十六聖人」参照) |
【「スペインの商船、サン・フィリップ号船長の証言」】 | |
「キリシタンに世界侵攻の危険を感じとった徳川三代の情勢判断」は、次のような逸話を紹介している。興味深いので転載する。
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【豊臣秀吉の晩年】 |
1592年、朝鮮に出兵した(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍、また明から援軍が送られてきたことで、戦況は悪化して休戦した。しかし、講和が決裂したため、1597年、再び朝鮮に出兵した(慶長の役)。 秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。 秀吉の死を契機に、慶長の役は終了した。この戦争で朝鮮の軍民と国土は大きな被害を受け、また日本側でも多くの武士が戦死し豊臣家と家臣の間に亀裂が走った。次の徳川時代では戦争によって悪化した日朝関係の改善が外交の課題の一つとなった。 |
その後の経緯は、「キリスト教禁教史」に記す。
(私論.私見)
(個人的)週刊日本新聞・過去ログ選集