豊臣秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」

 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).6.27日

【豊臣秀吉のバテレンとの蜜月時代】
 フロイスは、「豊臣秀吉篇T」で次のように記している。
 「ロレンソ修道士は古参で、五畿内のすべての諸候に知られている。過日、羽柴秀吉と自由闊達に長時間談話に耽った。その対談中、冗談半分に、秀吉がロレンソ修道士に対して次のように述べた。『もし、伴天連らが予に多くの女を侍らすことを許可するなら予はキリシタンになるだろう』。ロレンソ修道士はからかい半分にこう返答した。『殿下、私が許して進ぜましょう。キリシタンにおなり遊ばすが良い。何故なら殿だけがキリシタンの教えを守らず地獄に行かれることになりましても、殿が信徒になられることにより、大勢の人がキリシタンになり救われるからでございます』。秀吉は大声を発して笑い満足げであった」。

【豊臣秀吉の危惧】

 イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、1582.12.14日付けでマカ オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のよう な手紙を出している。

 「私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、 神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能に して、理性によく従うからである。尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある」。

 これによれば、スペイン国王によるシナの植民地化が狙われており、イエズス会東インド巡察師がその手引きをしていることが判明する。但し、日本は様々な事由で征服の対象としては不向きであるとも述べている。但し、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、と述べている。

 1584年、宣教師スパ ル・コエリョやルイス・フロイスら30余名の一行が落成したばかりの大阪城に出向いている。この時のことかどうは分からないが、秀吉は南蛮服を着たり、牛肉に舌鼓したと伝えられている。

 キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長ガスパ ル・コエリョが最も行動的であった。当時の日本は準管区であったので、コエリョは、イエズス会の日本での活動の最高責任者であった。 

 1585(天正13)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。その際に、大友宗麟、 有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、その時には2艘の船を提供しよう、と申し出ている。当時、日本には外航用の大艦を作る技術はなかったので、それは有り難い申し出であった。

 これによれば、当時、宣教師は軍事コンサルタントも兼ねていた様子が判明する。シナ攻略に宣教師が一枚噛んでいたことも判明する。秀吉は、コエリョの申し出に満足したが逆に、イエズス会がメキシコやフィリピンを征服したように我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めた。

 1586(天正14)年、日本イエズス会・準管区長に新任したコエリヨが長崎を出発して大阪城の秀吉を表敬訪問した。高山右近が、オグスチーノ小西行長、シモン黒田孝高らと明石に出迎え、その接待案内を務めた。コエリヨは九州での保護を願う。秀吉は激励し、歓待した上、城中の隅々まで案内した。このときフロイスが通訳した。フロイスの年報では、秀吉がポルトガル船を依頼したように書かれているが、オルガンチノの書簡では、秀吉の歓待に思い上がって、コェリョとフロイスが、 「九州の全キリシタンが秀吉に味方する、ポルトガル船を世話する、秀吉を九州に招く」と申し出たとされている。

 同年5.4日(3.11日)、秀吉は諸大名列座の下、威儀を正してコエリヨを引見し、コエリヨは、オルガンチーノ以下、神父4人、ロレンゾ以下、修道士4名人、日本人同宿15名など総勢30余名を従え、威儀を正して会見の場に臨んだ。そこでの通訳はフロイス神父が勤めた。秀吉のコエリヨ接待は懇切丁重を極めた。公式会見の後でも高座を下りて、神父たちと談笑し、大阪城内を自ら案内している。しかしそれから暫らくして、秀吉側近のキリシタン大名の高山右近は、コエリヨ神父にキリスト教弾圧の暴風の襲来、聖堂の破壊、神父の追放の心配を語っている。(片岡弥吉「日本キリシタン殉教史」時事通信社、69頁)

 1587年(天正15).5月、秀吉は京都を前田利家に5千の兵で守らせ、大坂城は秀次の1万の兵を置き、畿内を固めた上で九州に向かい島津征討出陣した。利家は留守役に回ったが、すでに越中三郡を与えられ一人前の大名となっていた前田利長が秀吉軍に加わった。利長ら30カ国から集められた秀吉軍は総勢4万。陸は高山右近、海は小西行長のクルスの旗がはためいた。

 先頭に高山右近の軍勢があった。2年前に明石に転封となっていた右近が秀吉軍に加わり九州に向かったのは4月末だった。フロイス「日本史」によると、右近は秀吉軍の前衛総指揮官の役を命じられて明石を出陣した。600の歩兵、百の騎兵と多数の雑役で組織された右近軍は「ある者は十字架を兜(かぶと)に、あるいは旗に付け、また他の者はそれを衣裳に描き」、「鎧(よろい)の上から大きな十字架を下げて」行進した。進軍先では真っ先に敵を切り、秀吉の本陣を率先して守るなど、並々ならぬ貢献ぶりだったという(別の当代紀などには総勢1300名で旧暦2月に出陣の命を受けた、とある)。

 秀吉が九州平定のために博多に下ると、コエリョは自ら作らせた平底の日本にはまったくないフスタ型小型武装南蛮式軍艦に乗って、大提督のような格好をして出迎えた。秀吉の軍をおおいに驚かせた。コェリョは大砲などの武器を見せ、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した。反キリシタンで秀吉の侍医である施薬院全宗が秀吉に危惧を伝えている。後に巡察士ヴァリニャーノは、コェリョの軽挙と独断によって引き起こされた危機であると非難している。 

 肥後八代(熊本県)で島津義久勢を一蹴した秀吉は、軍を博多に引き返し、6月、筥崎宮(はこざきぐう)(地名は箱崎)に陣を張った。博多湾に近い千代の松原で茶席をもうけ、博多の有力商人たちを取り込んだ。堺と並び国際交易都市で知られた博多は、度重なる戦火で著しく荒廃していた。島津は5月8日降伏。6月7日秀吉は箱崎(博多)に凱旋した。薩摩を支配下に置き、西日本を完全制圧した秀吉は次なる目標、大陸進攻の基地として博多の街の復興にとりかかった。

 秀吉の天下取りの思惑とは別に、大村、有馬の両キリシタン大名を脅かす九州の雄、島津を打ち破るのは右近の願いでもあったと推定できる。秀吉と右近の関係は九州平定でますます強固になったと思われた。だが、秀吉は九州を一巡する間、キリシタン大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒した。秀吉は、かっての一向宗と同じ存在になる危険性を嗅ぎ取った。否、むしろもっと空恐ろしいものを感じ取った。


【豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発す】
 「阿修羅空耳の丘42」のTORA氏の2006.1.27日付け「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」を参照する。「2006.1.27日付株式日記と経済展望」より転載したもので、原文は、「日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし」のようである。「バテレン」(伴天連)とはポルトガル語の「パドレ (宣教師)」が日本語的に訛った言葉。その教理を読み込んだ上での卓越した当て字を編み出している。

 1587.7.24日(天正15.6.19日)夜、箱崎の陣にあった豊臣秀吉が、島津を破り、右近の役割が終わったのを見計らったよう突然、宣教師達を呼びつけ、「バテレン(伴天連)追放令」を出し、右近に棄教を迫った。準管区長コェリョに秀吉の詰問書が届けられた。

 「汝らはなぜ、仏僧のようにその寺院内だけで教えを説くことせず、他地方の者まで煽動するのか。伴天連は下九州の留まり、今までのような布教は許さない。不服ならばマカオへ帰れ。汝らは何ゆえ牛や馬を食べるのか。商人たちが奴隷として連行した日本人を連れ戻せ」。

 軍事力を誇示するコエリョに対してキリシタンの野望が事実であると確信し、キリスト教を禁ずること、宣教師を国外退去に命ずることを伝えた。これが「天正(てんしょう)の禁令」として知られる第1回のキリシタン禁止令であった。以後徳川時代にかけて、次々に発せられていくことになる。続く措置として、秀吉は、長崎の公館、教会堂を接収した。

 近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、日本で布教を続ける宣教師達が本国と連絡を取り合いながら、キリシタン大名を競合して「日本占領計画」を持っていたことが判明した。ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。となると、追放令は、その計画を察知した秀吉の自衛対抗的措置だったことになる。弾圧を強める秀吉に対して、宣教師側は四国・九州攻撃と日本国内への軍事基地の建設まで企てていた。頂点に達した両者の緊張は、秀吉の死よって終止符を打つ。しかし、キリスト教禁制はその後も徳川幕府2世紀半の鎖国政策に引き継がれていった。

 「第141回。剛直の信長・秀吉も手を焼く宣教師達の強かさ。V」が次のように記している。
 概要「信長の死で犯人がイエズス教会黒幕説もある。あの信長はそれ程対策に苦慮してた。信長の死後。天正十五年(1587年)秀吉はイエズス教会の宣教師コエリュと問答してる。日本人を奴隷として葡萄牙人が国外に連れ出している事実を詰問した。それに対し、その事実をコエリュは認め『ポルトガルが買うのは日本人が売るからである』と答えた」。(但し、フロイスの「日本史」には「日本人を奴隷として葡萄牙人が国外に連れ出している事実」に関する記事がない。
 註※1。羽柴秀吉は大阪城に夥しい婦女子をかかえていた。彼女達の約50名は織田信長とその息子なる貴公子がかって有していた人達でいずれも武将や貴人の娘であり、大いに寵愛され尊敬されていたがこれらの婦人達は秀吉夫人おね、北の政所の優位をみとめていた。秀吉の側室は十六人と言われ浅井長政の娘、淀殿。京極高吉の娘、松の丸殿。蒲生賢秀の娘、三条殿。前田利家の娘、加賀殿。織田信長の娘、三の丸殿。織田信包の娘、姫路殿他であり好色な殿下をフロイスは軽蔑嫌悪し書いている。信長は側室名に敢えて、台所用具の名を付けていたというが、省略します。 

【「伴天連(ばてれん)追放令」の論理】
 キリシタン禁止令はキリシタン禁止令は次のような内容であった。(北國新聞の2002.7.9日付け「バテレン追放令 博多・箱崎の陣で秀吉ひょう変 奴隷売買と寺院破壊を怒る」は、貴重な記事を掲載している。これを参照する )

 宣教師には次のような沙汰していた。
 日本は神国たるところ、キリシタン国より邪法を授けそうろう儀、はなはだ以って然るべからす(日本は神々の国である。宣教師は邪宗を唱えている。キリシタン国が邪法を授けている。それはよろしくない)。(日本は神の国であり、キリスト教の布教は禁止する)
 キリシタンが神社仏閣を打ち壊すのは不届きである。今後は何事も秀吉の命令に従ってやるように(彼らは諸国で宗門を広めつつ日本の神社仏閣を破壊している。かってないことであり、罰せられるべきである)。(寺院を破壊したものは処罰する。教会に領地を寄進してはならない)
 バテレンは20日以内に自国に立ち去れ。
 商船は商売のためであるから、別の問題である。貿易目的のポルトガル船の自由な往来は認める。
 今後、神と仏の教えに妨害を加えなければ日本に来るのは自由である。

 秀吉は、次のように宣告した。
 「なぜ伴天連たちは地方から地方を巡回して、人々を熱心に煽動し強制し'て宗徒とするのか。今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還させ、京、大阪、堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家財を没収する」。

 国内向けとみられる法令は11カ条からなっており、次のような内容であった。
 「キリシタン信仰は自由であるが、大名や侍が領民の意志に反して改宗させてはならない」。
 「一定の土地を所有する大名がキリシタンになるには届けが必要」。
 「日本にはいろいろ宗派があるから下々の者が自分の考えでキリシタンを信仰するのはかまわない」。
 10条「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止する」。
 11条「牛馬を屠殺し食料とするのを許さない」。

 秀吉が指令した「バテレン追放令」は、世界のキリスト教史でも重大事件で、「バテレンたちの数百枚に及ぶ膨大ともいえる文書がヨーロッパに存在している」(「南蛮のバテレン」松田毅一著)という。日本側にも資料は多く、博多で秀吉の茶会に同席していた茶人紙屋宗湛(かみや・そうたん)が残した日記によれば、天正15.6.19(西暦では1587.7.24)日、秀吉の宴席から2人の使者が出され、1人は博多湾に浮かぶバテレンの船へ、もう1人は高山右近の陣営に走ったと書かれている。

 この年、秀吉は、長崎を直轄領にした。


【「伴天連(ばてれん)追放令」の根拠考】
 「伴天連(ばてれん)追放令」を野蛮な宗教弾圧と思うべきだろうか。通俗的歴史書は、キリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていないが、そういう観点は早急に見直されるべきではなかろうか。そもそも、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対して当初は好意的であった。しかし、信長の時代はともかく秀吉の頃になると宣教師たちの植民地化活動が目に余り始めた。秀吉は、宣教師たちの間に日本占領計画が存在することを見抜いて危険視するようになった。その具体的措置として「伴天連(ばてれん)追放令」を発したことになる。

 これが、「伴天連(ばてれん)追放令」に纏わる実際の話ということになる。云える事は、秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」には充分な根拠があったということである。直接的には、神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったと考えられるが、本質的には西欧植民地主義の臭いを鋭く嗅ぎとったということであろう。してみれば、「バテレン追放令」は、当時の日本の国力を示して余りある国威の発揚であったことが判明する。

 その論理はつぎのようなところにあったものと考えられる。

 その1、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」という観点からのキリシタン禁止令であった。キリシタンの宣教は、世界史を紐解けば、西欧列強諸国の植民地政策と結びついていた。ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)であった。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸した。ルイスも改宗ユダヤ人であった。 彼らが宣教師となり、敵情視察の尖兵として送り込まれ、信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、遂には植民地化するという政策が常套化していた。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしていた、と云う。

 その2、「植民地政策と重複しているが、布教は建前で、実は略奪ビジネスである」という観点からのキリシタン禁止令であった。この頃、西欧列強諸国の一獲千金ドリーマーが、世界各地へ飛び出し、植民地ビジネスを手掛け始めていた。宣教師たちはその布教のみならず植民地ビジネスを手引きする尖兵でもあった。

 ザビエルのゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた次のような手紙が残されている。
 「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)。
 「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。

 その3、「宣教師達は、戦国大名を懐柔し、奴隷売買 で荒稼ぎしている」という観点からのキリシタン禁止令であった。ルイス・デ・アルメイダは、イエズス会の神父として来日したが、宣教師たちの生活を支えたり、育児院を建てたり、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てたりする他方で、奴隷売買を仲介した。これについては別稿「日本人女性人身売買考」で検証する。

 その4、「宣教師達は、神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、日本の祖法である平和的共存を排除している。それは日本では許されない」という観点からのキリシタン禁止令であった。高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名は、宣教師に教唆され、神杜仏閣の破壊、焼却に執心していた。これは、ユダヤーキリスト教的一神教主義の招いたものであった。秀吉は、「なぜ伴天連たちは神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか」と批判している。

 その5、「宣教師達は、牛馬を食べることを好む。それは日本の祖法に抵触している」という観点からのキリシタン禁止令であった。秀吉は、伴天連たちの牛馬を食ぺる習慣に対して、「馬や牛は労働力であり、好ましいことではない」と批判した。
 日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」は次のように記している。

 ◆日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし
 http://www.sagamiono-ch.or.jp/intercessors/2005/2005.04.jpn.pdf

 わたしは先に第4回「天主教の渡来」の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。 今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深くなりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代のわたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追害の理由から始めたいと思います。

 ◆1.キリシタン遣害の理由

 宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587年7月24日(天正15年6月19目)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。

 (1)植民地政策

 キリシタンの宣教は西欧諸国の植民地政策と結びついていました。それは、初めに宣教師を送ってその国をキリスト教化し、次に軍隊を送って征服し植民地化するという政策です。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしています。 ポノレトガル、スペインのようなカトリック教国は強力な王権をバックに、大航海時代の波に乗ってすばらしく機能的な帆船や、破壌力抜群の大砲を武器として、世界をぐるりと囲む世界帝国を築き上げていました。その帝国が築き上げた植民地や、その植民地をつなぐ海のルートを通って、アジアでの一獲千金を夢見る冒険家たちが、何百、何千とビジネスに飛ぴ出していきました。そうした中にカトリックの宣教師たちも霊魂の救いを目指して、アジアに乗り出して行ったのです。彼らが求めたのは、霊魂の救いだけではなく、経済的利益でもありました。 ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙から引用すると、「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93) 、「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。 ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)だけあって、金儲けには抜け目ない様子が、手紙を通じても窺われます。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸しました。この人も改宗ユダヤ人で、ポルトガルを飛ぴ出してから世界を股にかけ、仲介貿易で巨額の富を築き上げましたが、なぜか日本に来てイエズス会の神父となりました。彼はその財産をもって宣教師たちの生活を支え、育児院を建て、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てました。

 (2)奴隷売買

 しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249〜257から、部分的に引用したいと思います。 「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。 数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。
 (以上で「天皇の回ザリオ」からの引用を終ります)

 わたしはこれまで各種の日本キリシタン史を学んで来ましたが、この『天皇のロザリオ」を読むまでは、「奴隷」の内容について知りませんでした。しかし、こういう事実を知ったからには、同じキリスト教徒として真摯な態度で語り継いで行きたいと思います。 なお今年の1月30日に、第5版が発行された、若菜みどり著「クアトロ・ラガッツィ(四人の少年の意)」(天正少年使節と世界帝国)P.414〜417」に奴隷売買のことが報告されていますが、徳當蘇峰「近世日本国民史豊臣時代乙篇P337-387」からの引用がなされているにもかかわらず、「火薬一樽につき日本娘50人」の記録は省かれています。そして、「植民地住民の奴隷化と売買というビジネスは、白人による有色人種への差別と資本力、武カの格差という世界の格差の中で進行している非常に非人間的な『巨悪』であった。英雄的なラス・カサスならずとも、宣教師はそのことを見逃すことができず、王権に訴えてこれを阻止しようとしたがその悪は利益をともなっているかぎり、そして差別を土台としているかぎり、けっしてやむものではなかった」(p.416〉と説明して、売られた女性たちの末路の悲惨さを記しています。かなり護教的な論調が目立つ本です。 秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じています。

 (3)巡回布教

 更に秀吉は、「なぜ伴天連たちは地方から地方を巡回して、人々を熱心に煽動し強制し'て宗徒とするのか。今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還させ、京、大阪、堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家財を没収する」と宣告しました。

 (4)神杜仏閣の破壊

 更に彼は、なぜ伴天連たちは神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか」と問いました。神杜仏閣の破壊、焼却は高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名が大々的にやったことです。これは排他的唯一神教が政治権カと緒ぴつく時、必然的に起こる現象でしょうか。

 (5)牛馬を食べること

 更に彼は、なぜ伴天連たちは道理に反して牛馬を食ぺるのか。馬や牛は労働力だから日本人の大切な力を奪うことになる」と言いました。

 以上秀吉からの五つの詰問にたいする、コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答でした。高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはコエリヨを牽制しましたが、彼は彼らの制止を聞き入れず、反って長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請しました。 これは先に巡察使ヴァリニヤーノがコエリヨに命じておいたことでした。しかし、かれらの頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見てヴァリニヤーノは、戦闘準備を秀吉に知られないうちに急遽解除しました。 これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、宣教師が送られて来たという事実を認めるほかないでしょう。これらの疑問は豊臣時代だけでなく、徳川時代300年の間においても、キリシタンは危険であり、キリシタンになればどんな残酷な迫害を受けるかわからないという恐怖心を日本人全体に植え付けることになり、キリスト教の日本への土着化を妨げる要因になったと言えるでしょう。(後略)

 この下りに関係する次の論考を転載しておく。サイト元は「原田伊織の晴耕雨読な日々(第二幕)」の「百姓たちの戦国(其の十 キリシタンによる人買い人売り)」である。
 2011年8月 6日 (土)

 
 戦場の捕獲物である女・子供をはじめとする「掠奪された人びと」が、ポルトガルの黒船によって東南アジアで売りさばかれていたと述べた。一説にはその数十万人以上という。当時、マカオやマニラには多数の日本人奴隷がいた。九州では、伴天連(バテレン)の協力を得て、ポルトガル商船が多くの日本人男女を買い取り、平戸と長崎からせっせと東南アジアに積み出していたのである。伴天連たちにとっての権威であるイエズス会が、日本から少年少女を奴隷として積み出そうとするポルトガルの人買い商人に輸出認可証を発行していたのである。

 当時のヨーロッパ人の通念として、ポルトガル人たちも「正しい戦争によって生じる捕虜は、正当な奴隷である」と考えていた。では、どれが正しい戦争で、どれが正当な奴隷なのか。イエズス会は、日本人にはそれを判別する習慣がなかったので、必然的にその判別能力はないとしたのである。十四、十五世紀から二十世紀までのヨーロッパ人というのは、人類史上例をみない残虐な傲慢さを露骨に表に剥き出した、実に醜い存在であったと言っていいだろう。

 天正十五年(1587)、豊臣秀吉は「島津征伐」(九州征伐)を敢行し、島津氏を破り、遂に九州全域を支配下に置いた。この時点で、秀吉は北条氏支配下の東国以北を除く日本列島のほぼ半分を支配下に置いたことになる。島津征伐の軍を返す時、秀吉は博多でイエズス会宣教師;コエリュを詰問した。ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として買い、南方へ連れて行くのは何故か、と。この時、コエリュは「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人がポルトガル人にそれを売るからである」と、“見事な”回答をしている。この台詞、どこかで聞いたことがあるではないか。「山があるから登るのだ」・・・あれと同じである。私は、如何にも“毛唐人”らしい言い方であると思う。つまり、「売る」方がいるから「買う」者が出現する、買われて困るのなら、売らなければいいという開き直りとも言える。

 宣教師;ガスパール・コエリュ。インドのゴアでイエズス会に入会し、ポルトガルのアジア侵略拠点;マカオを経て元亀三年(1572)に来日、長崎南部の加津佐を中心に活動した。『イエズス会日本通信』を著した人物といえば、学校で習ったことを思い出される方も多いだろう。この『イエズス会日本通信』が書かれたのは天正十年(1582)であるが、この年、「天正遣欧少年使節」がローマを目指して旅立っている。コエリュによれば、この時点で、日本のキリシタンは、有馬・長崎・大村・平戸・長崎、そして京・安土を中心にして約十五万人に膨れ上がっていた。

 余談ながら、あの有名な四人の「天正遣欧少年使節」は、キリシタン大名と言われる大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣されたものであるが、彼ら大名の領内はキリスト教以外の宗教を認めないというほどのキリシタン独裁国家であった。私たち日本人は、明治以降の官軍教育によって、伴天連=キリシタンは一方的に迫害を受けた宗教弾圧の被害者であったとしか教えられていないが、この時代に於いては全く逆である。キリスト教という宗教は、一元主義の排他性の強い宗教であるが、その特性通り彼らは仏教をはじめとする他の宗教を徹底的に弾圧した。

 大村純忠領内では強制的な改宗が展開され、百姓領民はことごとく伴天連に改宗させられ、その数は四万人に達した。また、有馬晴信は、仏僧に改宗を迫り、これを拒んだ僧を追放し、約四十に及ぶ寺社を破壊した。御一新直後の長州人たちによる気狂いじみた「廃仏毀釈」について述べたことがあるが、あれと全く同じことが「天正遣欧少年使節」の故郷で行われていたのである。宣教師たちは「仏僧は諸人を地獄に落とす者であり、この国の最良のものを食い潰す存在である」と民を扇動した。現在も長崎県南部では、破壊、焼き打ちの結果として当時の仏教石造物、寺社建造物は存在しない。今から十三年前(1998)、有馬氏の本拠;日野江城跡から破壊された石塔、五輪塔など135点が発掘された。何とそれらは大手口の石段に使われていたことが判明したのである。つまり、キリシタンは人びとに「踏み絵」を強要していたと考えられるのである。

 コエリュと並んで著名な、前述したルイス・フロイスも、実は激しい弾圧を行った張本人の一人である。人びとが有馬の仏像を口之津近くの小島の洞窟に移して隠そうとしたが、これを捕え、大きい仏像を燃やし、小さい仏像を見せしめとして仏教徒の子供たちに村中を引き回させたのである。当時の宣教師たちは、自ら認めているように日本侵略の先兵であるが、仏教徒をはじめとする既存宗教に対する弾圧者としての彼らと伴天連たちの実相を一度白日に晒し、彼らの罪業は遡って糾弾されなければならない。勿論、細川ガラシャもそういう仲間の一人として認識されなければならない。

 『伴天連ら、日本仁(人)を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖を付け、船底へ追い入れ、地獄の呵責にもすぐれ〜』――当時の記録が残っている。どうやらイエス様もマリア様も、伴天連以外は人間としてお認めにならなかったようである。

 既にこれ以前より、奴隷と武器は東南アジア向けの日本の主力輸出品であった。弘治元年(1555)に多くの日本女性がポルトガル商人によってマカオに輸入されていることが、マカオ側の記録によって確認されている。ところが、当初ポルトガル商人に対して日本人の輸出認可証を発行していたイエズス会は、日本人奴隷の輸出が日本における布教の妨げになることに気づき始めた。日本侵略という本来の目的に照らせば、本末転倒になることに気づいたのである。このことは、織田信長や九州のキリシタン大名たち以外の日本の権力構造を構成する戦国大名たちにも彼らの視線が広く、深く注がれるようになったことを意味する。信長に庇護され、九州のキリシタン大名だけを相手にしている時代は、事は簡単にみえた。

 ところが、信長亡き後、権力が豊臣秀吉に移り、キリシタン大名たちの勢力というものも俯瞰してみて、日本の武士階級の精神構造にも理解が深まっていくと、戦場から吐き出されてくる捕獲物としての日本人を自国の商人へ安易に売り渡し、暴利を貪(むさぼ)っていることが布教の障害になることが明確になってきたのである。そこでイエズス会は、一転して本国の国王に日本人奴隷の売買を禁止するよう要請した。これを受けてポルトガル国王は、元亀元年(1570)、日本人奴隷取引の禁止勅令を出すに至った。イエズス会自身もその後、「少年少女を日本国外に輸出する」人買い商人に対する破門令を数度に亘って議決するのだが、既に効果は全くなかった。インド、マカオを中心に東南アジア全域に幅広く展開していたポルトガル人たちは、日本人奴隷を買うのはあくまで「善意の契約」に基づくものであり、「神の掟にも人界の法則にも違反しない」として勅令を完璧に無視したのである。日本人の売買に関しては、イエズス会自身が脛に傷をもっている。勅令さえ無視する者がイエズス会の破門令などを恐れる訳がない。かくして、捕獲物としてポルトガル商人に売り飛ばすという「掠奪した人間」の販路は依然として健在であったのだ。

 天正十五年(1587)、コエリュとやり合った秀吉は、コエリュの態度に余程怒りを覚えたのか、すぐさま「伴天連追放令」を発令し、その中(第十条)で「人身売買停止令(ちょうじれい)」も併せて発動したのである。江戸幕府にも継承されるキリスト教の禁止という基本方針は、この時の禁令が端緒なのだ。つまり、キリシタンの取り締まりと人身売買の停止は、不可分のテーマなのである。それは、日本のキリシタンやその指導者であるイエズス会が、日本人を輸出品として売り飛ばすことによって利益を上げていたからに他ならない。

 秀吉は、追放令をイエズス会に通告する際、次のような添え書きを申し送っている。――九州に来航するポルトガル人、カンボジア人、シャム人たちが、多くの日本人を買い、諸国へ連れ去っていることをよく承知している。これまでにインドをはじめ各地へ売られたすべての日本人を、日本へ連れ戻すことを求める。それが無理だというのなら、せめて現在、ポルトガル船に買われてまだ日本の港に停泊している日本人だけでも速やかに買い戻して解放せよ。その分の対価は後日与える――


 これに対する伴天連サイドの反論は、以下のような内容であった。――人身売買の廃止は、イエズス会の永年の方針である。問題は日本側にあり、特に九州の大名たちは日本人の売買を厳しく禁止しようとはしていない――


 反論にはならない単なる苦しい抗弁に過ぎないことは言うまでもないが、ここでキリシタンが言っている「九州の大名たち」というのが所謂「キリシタン大名」を指すことは言うまでもない。それにしても、永年日本人を売り飛ばす片棒を担ぎながら、人身売買の廃止が「永年の方針」であるとは、笑止千万である。

 秀吉は、「人身売買停止」という命令を国内の仲介商人たちにも適用し、現実に掠奪されて売られてきた日本人をポルトガル船に運んだ舟の持ち主を磔刑に処した。これは、九州を征討した秀吉のポルトガル人=キリシタンに対する防衛外交の一環とみることができるが、皮肉なことにその秀吉の軍が朝鮮半島に於いて多数の朝鮮人を捕獲していたことも、また事実なのである。更に、倭寇の活動まで遡れば、東アジアに於ける奴隷売買の実態はまだまだ全容が解明されていないのである。いずれにしても、戦場で捕獲された百姓や子供たちがキリシタンやポルトガル商人たちの手によって輸出品として売られるという仕組みがあったからこそ、人の掠奪が「稼ぎ」になったのである。勿論、「稼ぎ」の仕組みはこれだけではなかった。


 2018-06-28、 「豊臣秀吉によるバテレン追放令の正統性」。
 映画「沈黙 -サイレンス-」によってキリスト教徒迫害の歴史が映像として蘇った。日本側のスタッフと綿密にすり合わせを行って映像化したといわれており、マーティン・スコセッシの絵作りにかける執念も重ね合わさってか、黒沢明-小泉堯史の時代劇にも匹敵するか、それ以上のリアリティがある。 キリシタン弾圧の歴史そのものは事実であるのだろうが、弾圧側にも一定の正統性があったと言われている。

 先日、ユネスコの諮問機関が環境省が提出していた「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」を世界文化遺産登録申請を取り下げ、潜伏キリシタン施設12箇所を世界文化遺産に登録した。別項に譲るが奄美大島の自然資源が狙われていると、私は常々考えている。ユネスコはその奄美大島の自然の文化遺産登録を却下して、キリシタン弾圧を世界文化遺産に登録した。キリシタン弾圧そのものは悲劇であるが、秀吉や家康のキリシタン弾圧に一定程度の正統性があり、その点が歴史に合間に埋没しようとしている。そして、「歴史の糊塗」にユネスコが加担しているのであれば、日本もトランプ大統領に習ってユネスコから脱退した方が良い

○ポルトガル人によって日本人女性50万人が奴隷として海外に売られた
 「ポルトガル人によって日本人女性50万人が奴隷として海外に売られた」の原典は、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(平成十六年十月刊、自費出版)P249〜 P282がとされている。
【「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』、『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』】引用終わり

 高山右近らのキリシタン大名の所領にて、火薬一樽で50人の日本人娘が売られていったということだ。日本では硝酸が採れず、火薬は貴重品だった。ポルトガルに売るものがないので、若い女性を差し出したというのだ。

 ポルトガルの奴隷貿易
 https://goo.gl/Fmq6BH
 『1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した』。

 ポルトガルが奴隷貿易を行っていたのは事実であり、日本人の奴隷が大勢取り扱われたようだ。ただし、当時の日本の人口は日本列島全土で1200万人程度とされており、50万人も奴隷として売られたとするには人員数が多すぎるという指摘がある。

 池本幸三/布留川正博/下山晃共著
 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』人文書院、1995年、
 第2章コラム、pp.158-160 より転載
 【天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)。

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった」、「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。

 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。

 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。−−奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう】

 ザビエルの来日によって布教が開始されたキリスト教は、拠点を西南九州に移してから徐々に勢力を伸ばしていった。西国の大名たちが、軍資金や軍需物資を獲得するため領国内にポルトガル船の入港を望み、宣教師たちの布教を許可したことが大きな要因であった。】
転載終わり
転載元http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html

 奴隷売買の人数はともかく、16世紀に来日したポルトガル人が日本人女性を奴隷として海外へ売り払い、なおかつ人として取り扱っていなかった、というのは事実だと推測される。

 ○キリシタン大名たちが神杜・仏閣を焼いた。

 天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に下る。秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。島原半島を支配していたキリシタン大名・有馬晴信は晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊し、仏教徒の目の前で放火したりした。また、キリシタンと僧侶 の間に争いが起きると、晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を没収した。領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超える人々が改宗したという。晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。秀吉はポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っていた事を知ると、バテレン追放令を発布、布教責任者であるイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを召喚して叱責した。コエリョはは博多にてフスタ船という平底の軍艦に大砲を積み込み、大提督のような格好をして秀吉を出迎えた。秀吉は軍事を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると確信し、その日の内に、伴天連(バテレン)追放令を出した。コエリョは日本をキリスト教国にし、当時の「明」である中国を征服しようとしていた。秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、最近では、スペインやポルトガルの明(中国)征服への対抗策であったという説が出されている。秀吉はスペインもしくはポルトガルがメキシコやフィリピンのように明を征服し、その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくると想定したと推測される。秀吉は農民の出であるので、日本の支配階級において共有されていた、8世紀の白村江の戦いにおける日本側の惨敗の歴史や、東アジアの勢力と秩序の維持についての知見がなかったと考えられる。更に国力を顧みれば、日本に大陸に軍事進出するだけの能力も軍事力もなかった。

 ○鎧を着て、銃で武装した組織的勢力が起こした島原の乱

 秀吉のあとを継いだ秀頼はキリスト教に理解を示していた。家康はスペインの軍事力と秀頼が結託することを恐れ、大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放した。1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じている。1637年のキリシタン勢力による島原の乱が勃発する。天草四郎軍ら一揆勢は、島原城下に押し寄せて放火・略奪を行い、逃げ遅れた女性を拉致した。城下の寺院、神社を焼き払い、住持の首を切り、指物にして、島原城の大手口に押し寄せたのである。大島子(有明町)の戦い、本渡での合戦と、勢いに乗った一揆軍は1万2000人に膨れ上がり、唐津藩兵が篭る富岡の城を総攻撃した。一揆軍は本丸を落とせず、討伐軍の進軍を知り、有明海を渡り、原城に籠城し、4ヶ月に及ぶ籠城戦の末に全滅させられた。

 天草側の一揆軍は、何故、浪人を雇うための巨額の軍資金や武器や防具をを持っていたのか議論になっている。一揆軍は籠城戦序盤で幕府軍の総大将を打ち取るなど、幕府軍と互角以上に戦う戦力があったのである。当時、大阪の陣や外様大名の改易が相次いで、浪人が大量に発生し、それが島原の乱で一旗挙げようとなだれ込んできた、という説がある。ポルトガルが一定程度支援していたのではないかとか、富岡城に蓄積してあった軍備を流用した、などという説もある。幕府軍は一揆軍が立て籠もる原城への攻撃にオランダ軍艦の助力を得ている。外国勢力から援軍を得ることへの批判を受けて止めている。島原の乱の1637-38年をまたぐ1618年-48年はヨーロッパで30年戦争が戦われている。フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった。そういった国際情勢と、島原の乱が一定程度の関連があっても不思議ではない。家康は島原の乱平定後の1639年にポルトガル人の渡航を禁じている。一方で朝鮮とオランダとの通商は継続しており、鎖国令の実態とはポルトガル人などのカトリック教徒に対する禁足令であったと言える。

 ○豊臣秀吉のバテレン追放令の11条目に注目すべし

 豊臣秀吉のバテレン追放令は11カ条から成り、十条で日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止している。これは、前述した通り、非道の行いであり、禁止されてしかるべきである。興味深いのは十一条で、【牛馬を屠殺し食料とするのを許さない】となっている。これは当時の労働力である牛馬を屠殺することは、生産力を低下に繋がり、よって屠殺を禁じたという事である。倫理的観点からの屠殺禁止ではない。この観点について、天皇のロザリオの著者である鬼塚英昭氏自身が、食用の家畜化が、自分達を家畜化する事に繋がっていると述べている。鬼塚氏の論旨は分からないが、私自身も食用家畜を問題だと考えている。特に哺乳類を食用とすることは、人としての生体上問題がある(別項にゆずる)。また、家畜の飼育過程で膨大な水や食料を費やすことにより、自給力の低下が発生し、結果として国際的な資本に隷属させられる、と考えることもできる。食用家畜については明治以後に欧米が持ち込んだ食文化である。人類の祖先はアフリカが発祥とされ、歯の形から類推すると穀物類を主食としてきたが、欧州へ北上した人類が、農作に適さない地域ゆえに仕方なく、牧畜を始めたとされる。ところが、肉は体内で腐るのである。消化器官が長いと、人体に対して悪影響が強くでる。よって、すばやく排泄しなければ、危険であり、消化器官が短くないと生存が難しかった、という仮説がある。仮にそれが本当であれば、腸が長い日本人は肉食に向いていない。

 現代では人の奴隷化は禁じられたが、食用家畜についてはむしろ盛んに行われている。仮に食用家畜を禁じた状態での日本産業構造を試算してみれば良い。肉食を原因とする疾病の減少も考慮すると、日本総体でかなり産業が縮小する。しかし、健康で生活できて、家畜用穀物などの輸入依存が減少すれば、外貨獲得のために無理に輸出を行う必要もなく、我々はもっと快適で労働に縛られない文化的な生活が行えるのではなかろうか?

-----以下転載
2006年1月27日 金曜日
https://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400
 ◆日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし

 わたしは先に第4回「天主教の渡来」の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深くなりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代のわたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追害の理由から始めたいと思います。

 ◆1.キリシタン遣害の理由

 宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587年7月24日(天正15年6月19目)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。

 (1)植民地政策
 キリシタンの宣教は西欧諸国の植民地政策と結びついていました。それは、初めに宣教師を送ってその国をキリスト教化し、次に軍隊を送って征服し植民地化するという政策です。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしています。ポノレトガル、スペインのようなカトリック教国は強力な王権をバックに、大航海時代の波に乗ってすばらしく機能的な帆船や、破壌力抜群の大砲を武器として、世界をぐるりと囲む世界帝国を築き上げていました。その帝国が築き上げた植民地や、その植民地をつなぐ海のルートを通って、アジアでの一獲千金を夢見る冒険家たちが、何百、何千とビジネスに飛ぴ出していきました。そうした中にカトリックの宣教師たちも霊魂の救いを目指して、アジアに乗り出して行ったのです。彼らが求めたのは、霊魂の救いだけではなく、経済的利益でもありました。

 ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙から引用すると、「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)、「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。。

 ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)だけあって、金儲けには抜け目ない様子が、手紙を通じても窺われます。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸しました。この人も改宗ユダヤ人で、ポルトガルを飛ぴ出してから世界を股にかけ、仲介貿易で巨額の富を築き上げましたが、なぜか日本に来てイエズス会の神父となりました。彼はその財産をもって宣教師たちの生活を支え、育児院を建て、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てました。

 (2)奴隷売買

 しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249〜257から、部分的に引用したいと思います。
 「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。
 (以上で「天皇の回ザリオ」からの引用を終ります)

 わたしはこれまで各種の日本キリシタン史を学んで来ましたが、この『天皇のロザリオ」を読むまでは、「奴隷」の内容について知りませんでした。しかし、こういう事実を知ったからには、同じキリスト教徒として真摯な態度で語り継いで行きたいと思います。

 なお今年の1月30日に、第5版が発行された、若菜みどり著「クアトロ・ラガッツィ(四人の少年の意)」(天正少年使節と世界帝国)P.414〜417」に奴隷売買のことが報告されていますが、徳當蘇峰「近世日本国民史豊臣時代乙篇P337-387」からの引用がなされているにもかかわらず、「火薬一樽につき日本娘50人」の記録は省かれています。そして、「植民地住民の奴隷化と売買というビジネスは、白人による有色人種への差別と資本力、武カの格差という世界の格差の中で進行している非常に非人間的な『巨悪』であった。英雄的なラス・カサスならずとも、宣教師はそのことを見逃すことができず、王権に訴えてこれを阻止しようとしたがその悪は利益をともなっているかぎり、そして差別を土台としているかぎり、けっしてやむものではなかった」(p.416〉と説明して、売られた女性たちの末路の悲惨さを記しています。かなり護教的な論調が目立つ本です。秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じています。

 (3)巡回布教

 更に秀吉は、「なぜ伴天連たちは地方から地方を巡回して、人々を熱心に煽動し強制し'て宗徒とするのか。今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還させ、京、大阪、堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家財を没収する」と宣告しました。

 (4)神杜仏閣の破壊

 更に彼は、なぜ伴天連たちは神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか」と問いました。神杜仏閣の破壊、焼却は高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名が大々的にやったことです。これは排他的唯一神教が政治権カと緒ぴつく時、必然的に起こる現象でしょうか。

 (5)牛馬を食べること

 更に彼は、なぜ伴天連たちは道理に反して牛馬を食ぺるのか。馬や牛は労働力だから日本人の大切な力を奪うことになる」と言いました。

 以上秀吉からの五つの詰問にたいする、コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答でした。高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはコエリヨを牽制しましたが、彼は彼らの制止を聞き入れず、反って長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請しました。これは先に巡察使ヴァリニヤーノがコエリヨに命じておいたことでした。しかし、かれらの頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見てヴァリニヤーノは、戦闘準備を秀吉に知られないうちに急遽解除しました。これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、宣教師が送られて来たという事実を認めるほかないでしょう。これらの疑問は豊臣時代だけでなく、徳川時代300年の間においても、キリシタンは危険であり、キリシタンになればどんな残酷な迫害を受けるかわからないという恐怖心を日本人全体に植え付けることになり、キリスト教の日本への土着化を妨げる要因になったと言えるでしょう。(後略)

 ◆バテレン追放令 2002年7月9日 北國新聞

 もう1つの国内向けとみられる法令は11カ条からなっている。一条から九条までの内容は▽キリシタン信仰は自由であるが、大名や侍が領民の意志に反して改宗させてはならない▽一定の土地を所有する大名がキリシタンになるには届けが必要▽日本にはいろいろ宗派があるから下々の者が自分の考えでキリシタンを信仰するのはかまわない―などと規定する。注目すべきは次の十条で、日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止。十一条で、牛馬を屠殺し食料とするのを許さない、としていることである。以上の内容からは▽右近が高槻や明石で行った神社仏閣の破壊や領民を改宗させたことを糾弾▽有力武将を改宗させたのはほとんどが右近によってで、右近に棄教をさせることで歯止めがかかると見た▽バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。さらに重要なのは、日本の民と国土は、天下人のものであり、キリシタン大名が、勝手に教会に土地を寄付したり、人民を外国に売ることは許されないということである。天下統一とは、中央集権国家の確立にほかならない。キリシタンは、その足元を乱す、かつての一向宗と同じ存在になる危険性があると秀吉が感じていたことがわかる。「バテレン追放令」は、キリシタンが対象であるかのように見えて、実は日本が新しい時代を迎えるため何が課題かを暗示する極めて重要な出来事だったのである。

 「(個人的)週刊日本新聞・過去ログ選集」。
 この追放令が出た背景には諸説ある。秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際にキリシタンであることを理由に住民が拒否し秀吉が激怒したとも、九州征伐に向かった秀吉の目の前で、当時の日本イエズス会準管区長でもあったコエリョがスペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した事が原因とも、九州の有馬氏や大村氏などのキリシタン大名が寺社仏閣を破壊すると同時に、僧侶にも迫害を加えたり教会へ莫大な寄進を行っていた事が理由とも、また織田信長から継承した旧来の寺社領を解体して統一政権の支配下におく政策をイエズス会領である長崎にも適用しようとしてイエズス会側が従わなかったとも、宣教師の一部が人身売買(日本人を奴隷商品として国外へ売り払う)を行っていた事が原因とも言われている。

There are various theories about the issuing of this Expelling edict and the cause could be that Hideyoshi was furious at the residents rejecting his order to bring a woman of Arima because she was Christian, that Coelho, Vice-Provincial of the Society of Jesus in Japan at that time boasted as if the Spanish Armada was under his command in front of Hideyoshi during the expedition to Kyusyu, that the Christian feudal lords such as ARIMA and OMURA in Kyushu destroyed shrines and temples as well as persecuted monks and made huge donations to the churches, and that the Society of Jesus did not obey when he tried to apply the policy to Nagasaki, the domain of the Society, they dissolved the old domains of temples and shrines inherited from Nobunaga ODA and place them under a unified regime, and that some of the missionaries conducted human trafficking (selling the Japanese to outside Japan as slaves)


【豊臣秀吉の説得と高山右近の殉教】

 同夜、秀吉は右近にも使いを出して次のように棄教を迫った。

 「右近の説得により身分にある武士たちにキリシタンの教えが広まっていることを不快に思う。兄弟もおよばぬ一致団結は天下にとってゆるがせにできぬ。高槻、明石のものをキリシタンにし、社寺破却は理不尽。予に仕えたければ、信仰を捨てよ」。

 しかし右近は次のように答えた。

 「私が殿を侮辱した覚えはまったくなく、高槻の家来や明石の家臣たちをキリシタンにしたのは私の手柄である。キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の霊魂の救済と引き替えることはしない。よって私の身柄、封禄、領地については、殿が気に召すように取り計らわれたい」。

 右近はいさぎよく領地を返上。 まわりの者たちは、そのような秀吉の怒りをかうような返答ではなく、口だけでも秀吉の意に沿うようにしてはどうかと忠告したが、右近はそのことばどおり伝えるように使者に命じた。 しかし秀吉は、なおも棄教を勧めた。秀吉の条件は「領地は無くしても熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」というものであった。しかし右近はこの譲歩案も拒否し、いかなる立場に置かれてもキリシタンをやめはしない、霊魂救済のためには、たとえ追放されても悔いは無いと答えた。

 日本側の資料には、秀吉が右近の茶の師である千利休を使者として遣わし説得に努めたと記されている。しかし利休の説得も謝絶し次のように答えている。

 「キリシタン信仰(宗門)が、師(茶道の師利休)、君(秀吉)の命(棄教令)よりも重いかどうかは今は分からないが、 侍はいったん志したことを変えないもので、たとえ師君の命と言えども簡単には変えるのは不本意である」。

 翌日の6.20日、右近は博多沖の小島に身を隠し、明石にいる家族と主だった人々に知らせ、家族に淡路島に来るように伝え、自分も後に淡路島へ向かった。右近は家臣に対し、おのおのの妻子のために配慮し、糊口を求めよ、と気遣った。この時、長男十次郎は12歳、娘ルチアは生まれたばかりであった。


【キリシタン大名のその後】

 教会は没収または破壊され、パアデレ退去の命令が出た。多くのキリシタン武将も棄教を迫られ、実際に棄教したもののいた。 黒田官兵衛はその功績のゆえに豊前を与えられていたが、棄教しなかったため、かなりの領地を没収された。

 オルガンティノ神父は宣教師とセミナリオの生徒を平戸へ非難させ、京都の信者は近江へ逃れさせた。オルガンティノ神父、右近らは小西行長の領地であった淡路島の室津に集合した。行長はキリシタンであったが秀吉の追放令に動揺し、宣教師に会うことを避けていたが、ようやく室津に来て、決心を固め、小豆島を彼らの隠れ家として提供し、彼らを守ることを約束した。当時小豆島の代官はマンショ三箇であり、行長が宣教師派遣を要請して、島民の多くがキリシタンになった所であった。

 このとき右近が皆に語ったことばがイエズス会年報に記されている。
 「われらが今赴かんとする戦いは悪魔に対する戦いである。たといこの戦いで死んでもキリストと共に勝利を告げ、その力のもとに日本の教会を保護するのである。..このような死はキリスト教の勝利と栄光と繁栄を来たすものであるから、神がこの恩寵を与えたもう者にとっては、生きながらえるよりも、ひたすら死を望むのである」。

 小西行長は右近一家のため小豆島に隠れ家を用意。パアデレには室に隠れ家を用意した。パアデレは日本人の姿で籠にのり、潜行して信者を励まして回った。秀吉は行長がかくまっていることを知ったが行長は堂々と答え、右近を弁護した。しかし翌天正16年(1588)小西行長は肥後南半および天草諸島32万石へ転封になった。右近らも結城弥平次、日比屋ヴィセンテらと共に九州へ向かった。行長は、32万石という新たに得た莫大な禄で右近の旧家臣を迎えいれ、キリシタン、イエズス会を援助することができた。

 右近は有馬に隠れていたコェリョと再会。この迫害を招いた彼の過去の失敗は一切責めることはなかった。コェリョも右近の勇敢さを讃え、自らの書簡の中で次のように記している。

 「知行を捨て命の危険を選び取って、関白秀吉に答えた勇敢と、不平、不満を漏らさず、むしろキリストに捧げた希望に満ちた姿に人々は感動し、尊敬を集めた。民衆は女、子どもまでも彼を一目見ようと街頭に集まった」。

 コエリョはその後もスペイン国王に軍隊を派遣するように要請していたが、巡察士ヴァリニャーノが、それを阻止し、生糸の日本への輸出を差し止めるという手段により、事実上、伴天連追放令を骨抜きにした。


【「宣教師の反撃」】
 秀吉は、準管区長コエリヨに対し、凡そ以上の視点からの詰問をした。しかし、コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答であった。高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはコエリヨに進言したが、彼は彼らの制止を聞き入れなかったばかりか、ただちに有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は 金と武器弾薬を提供すると約束し、長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。2、3百人のスペイン兵の派兵が あれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリ ピンに要請した。これは先に巡察使ヴァリニヤーノがコエリヨに命じておいたことであった。

 しかし、頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見て、ヴァリニヤーノはその能力がないと判断し戦闘準備を急遽解除した。 この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、宣教師が送られて来たという事実を認めるほかない。

 キリシタンの抵抗は執拗に続いた。もはや軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年から1605年頃まで15年間日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、1599.2.25日付けで次のような手紙を、イエズス会総会長に出している。
 概要「日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでも しも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国 を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包 囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の 生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろ う。・・・  このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るよ うにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り 囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好 な位置にある。・・・  (日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設する ことの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイ ン人の間で育てることになるだろう。・・・  スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべ きシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る」。

 キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、 というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。しかし、この計画は未遂に終わった。


【「秀吉の朝鮮出兵の動機」考】
 秀吉は急遽朝鮮出兵を打ち出す。肥前の名護屋に本陣を構え、1592年ー96年、文禄の役、1597ー98年、慶長の役に出兵する。文禄の役では、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正を大将とする15万8700名が派兵された。慶長の役は全軍14万余の兵力が投入された。二度の戦争で日本軍は完敗し、結局のところ朝鮮出兵が豊臣政権の命取りになった。

 秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あり、通説は「朝鮮、明の入貢と貿易復活を求めたところ拒絶された故の外征であった」としている。が、スペインやポルトガルの宣教師の入れ智恵であったという説もある。コエリは、スペインに船を出させ、共同で明を征服しよう、と考えた。しかし、コエリョが秀吉を恫喝するような態度に出たので、独力での大陸征服に乗り出したという説がある。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったということになる。

 1593年(文禄3)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。いずれにせよ、秀吉の朝鮮出兵政策の陰に宣教師達の巧言があったことが推定でき、秀吉は甘言もしくは挑発にまんまと乗せられたことになる。

【「伴天連(ばてれん)追放令」その後と「キリシタン弾圧」】
 秀吉が九州征伐後に博多で発した「伴天連(ばてれん)追放令」は、 キリスト教が予想以上に普及してい たことと、貿易を重視して南蛮交易を押し進めていたこともあり、その効力はさほど強くなかった。

 1596.10月、スペイン船サン・フエリペ号が台風のため土佐の浦戸湾に漂着した。土佐の国主・長曾我部元親は、この漂着を秀吉に報告し積荷を没収した。積み荷没収と乗組員拘留が行われた際、スペイン国王による宣教師派遣には領土征服の意図が含まれており、「はじめに宣教師を送って人民を教化し、信徒が増えるのを待ってこれに内応させてその国を征服する」という趣旨の水先案内人の発言が為された。これを「サンフェリペ号事件」と云う。この頃の京都では、8月30日と9月4日に、たて続けに大地震に見舞われ、伏見城にも大きな被害が出ていた。

 12月、秀吉は再び禁教令を発し、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員の捕縛(ほばく)を石田三成に命じた。これには次のような背景事情があった。この頃、イエズス会の方は天正15(1587)年の宣教師追放令が出て以来、表面的な布教活動を自粛していたが、フランシスコ会は禁令を無視して活動していた。天正13(1585)年に教皇グレゴリオ13世が日本伝道をイエズス会に限る旨の回勅を出していたが、マニラに伝道の本拠を置くフランシスコ会は日本の国内で猛然と布教を始めていた。

 1597(慶長元)年、秀吉は、追放令に従わずに京都、大阪で布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師6名、信徒14名とイエズス会のパウロ三木や熱心な信者24名を次々と捕えた。この頃、ランシスコ会とイエズス会が阿吽の呼吸で結託しつつ日本で宣教していたことが判明する。

 慶長2(1597)年1月3日、殉教者たち24名が、見せしめとしてまず京都の上京一条の辻で左耳たぶをそがれ、牛車で町中をひきまわされた。同様事例が伏見や大坂、堺でも発生した。1月8日に、24人全員を長崎でハリツケにせよという秀吉の命令が伝えられ、殉教者たちは京都から長崎まで800キロの死の行進をさせられることになった。キリシタンは冬の厳しい寒さの中、後ろ手に縛られながら、遥かな殉教の地長崎へ向かって徒歩で護送された。旅の途中、新たな2名の殉教者が加わった。 殉教者の世話をするために付き添い、執拗に願い出て殉教者に加わったペトロ助四郎と、殉教者を最後まで見届けようと心に誓い、願って殉教者に加わった熱心な信者フランシスコ吉の2人であった。

 同2.5日(和暦12.19日)朝、殉教の地の長崎へ連れ戻された26人の殉教者達は、長崎から大村へ行く海沿いの西坂の丘で十字架に縛り付けられた。長崎奉行の弟の寺沢半三郎が出した禁足令にも拘らず、西坂の丘は処刑される殉教者を一目見ようとする群集で埋まった。員の処刑は、慶長元(1596)年2月5日の朝9時半ころから始まり、11時頃に終了した。十字架につけられた26人は賛美歌を歌い、パウロ三木は罪状に対し次のように述べている。
 「今、最後の時にあたって、わたしたが真実を語ろうとすることを、皆さんは信じてくださると思います。キリシタンの道のほかに、救いの道がないことを、私はここに断言し、保証します。わたしは今、キリシタン宗門の教えるところに従って、太閤様はじめ、わたしの処刑に関係した人々をゆるします。わたしはこの人々に少しも恨みを抱いていません。ただせつに願うのは、太閤様をはじめ、すべての日本人が一日もはやくキリシタンになられることです」。

 日本人信徒26名はわざわざ長崎まで連れて行かれて、十字架に縛り付けられたまま槍で処刑された。殉教者の最年少者は、尾張出身で12歳のルドビコ茨城少年、また最高令者は、備前出身で64歳の伝道士・デイゴ(ヤコブ)き斎であった。遺骸は80日間、そのまま十字架上にさらされた(片岡弥吉「日本キリシタン殉教史」)。世に名高い「長崎の26聖人殉教事件」である。これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。一方、宣教師ルイス・フロイスは、これを報告し、秀吉を暴君と罵っている。イエズス会とマニラ総督府は、すかさずこの26人を聖人にするという対抗手段をとった。こうして、丁々発止の攻防戦、両者の熾烈なせめぎ合いが演ぜられていくことになる。(「日本二十六聖人」参照)


【「スペインの商船、サン・フィリップ号船長の証言」】

 「キリシタンに世界侵攻の危険を感じとった徳川三代の情勢判断」は、次のような逸話を紹介している。興味深いので転載する。

 慶長元年(一五九六年)五月、土佐の浦戸付近に、スペインの商船、サン・フィリップ号が座礁した。豊臣秀吉は、すでにその九年前(天正十五年)、九州を平定すると共に、キリシタンを禁止、スペインとの通商を断っている。それ故、この難破船の貨物は没収された。

 その時、この船の船長デ・ランダは、秀吉が派遣した増田長盛の前に世界地図を広げ、「わが国王の領土は、世界にわたってかくの如く広大である。この大国の国民を虐待せば、容易ならぬ禍を招きしが承知のうえか」、と威嚇した、と云われている。長盛が、「いかにしてこのように広大な領土をあわせ得たのか?」とたずねたところ、ランダ船長は、「その手段はまず、宣教師を入りこませ、キリスト教をひろめて土人を手なずけ、しかるのちに軍隊を送り、信徒と相呼応してその国を征服するのだ」、と、広言した(本音を言ってしまった)、という。この事件は、秀吉の死の直前のことだ。

【豊臣秀吉の晩年】

 1592年、朝鮮に出兵した(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍、また明から援軍が送られてきたことで、戦況は悪化して休戦した。しかし、講和が決裂したため、1597年、再び朝鮮に出兵した(慶長の役)。

 1598.8.18日、秀吉はその最中に五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で没した(享年62歳)。

 秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。

 秀吉の死を契機に、慶長の役は終了した。この戦争で朝鮮の軍民と国土は大きな被害を受け、また日本側でも多くの武士が戦死し豊臣家と家臣の間に亀裂が走った。次の徳川時代では戦争によって悪化した日朝関係の改善が外交の課題の一つとなった。 

 1600(慶長5)年、日本伝道はイエズス会に限るとした回勅は撤回されフランシスコ会、ドミニコ会、アゴスチノ会などが宣教師を派遣し、日本におけるキリスト教伝道が活発化した。これに対する弾圧も激しくなった。1600年の関が原の戦いでクリスチャン大名の小西行長が破れ、その領土が加藤清正の手に渡るとキリスト教弾圧が激しくなった。

 その後の経緯は、「キリスト教禁教史」に記す。





(私論.私見)