ふたたび、秋山賢司氏の「碁のうた 碁のこころ」にもどる。今回はあの俳人・松尾芭蕉が、大の囲碁好きであり、その実力も相当のものだったという事実を取り上げる。
「芭蕉は碁が好きだったんだろうな」と高木祥一さん(棋士九段)にいわれて、びっくりしたことがあります。高木さんは、俳諧七部集の一つ、"冬の日"の中の連句(歌仙)の一句、「道すがら 美濃で打ちける 碁を忘る」を知っていたのです。前後を省略しますが,独立した句としてもなかなかいい。前の晩、美濃の宿で打った碁、を道中で忘れ、どうしても思いだせない、ですね。いつもはすぐ手順が浮かんでくるのに、この日にかぎって思い出せないというニュアンスもある。
ところがこの句は別の解釈もできます。「道すがら」が「美濃で打ちける」にかかるというのです。美濃路の旅で一緒になった人(ひょっとしたら碁打ち)と歩きながら「黒十七の四」「白四の三」とかいって、盤石なしで打ち興じた。その碁を宿に着いて再現しようとしたところ、思い出せなかった、です。前者が常識的でしょうが後者も魅力ある解釈です。盤石なしでそらで打てるとしたらプロ級ですね。藤沢秀行先生は棋士の勘で、"芭蕉の棋力は現在の県代表クラス〟と認定しました。大賛成です。芭蕉こそ、わが国千数百年にわたる文芸史上、最強の巨人かもしれません。
どうして芭蕉は強くなったのか。十代から藤堂藩五千石の城代・藤堂新七郎家の藤堂良忠の小姓として仕えていたといいます。良忠さんは趣味の人で俳諧が大の得意。芭蕉少年(当時は松尾忠右衛門)は良忠から俳諧を教わったのです。趣味の人なら碁も打ったはず。俳諧と同時に碁も教わったにちがいないというのが僕の勝手な想像です。良忠の死後、23歳で京に上る。京都時代の足跡がよく分かりませんが、禅寺で漢籍や、わが国の古典を勉強したらしい。五山を中心とする京の寺は、いろいろな学問の場を提供する一種のサロンだったともいわれます。勉強のかたわら、碁に熱中したと書いても見当はずれではないでしょう。京都時代に芭蕉の棋力は飛躍的に伸び、県代表クラスになったのだと思います。
"同感だね。しかし、碁が好きで強かったという決定的な証拠が欲しいな〟と高木さん。うーん、これは難題です。棋譜が残っているか、同時代の本因坊道策と打ったという記述があれば決定的なのですが。でも、碁好きを裏付ける証拠はいくらでもある。(芭蕉のその一)続く。
松尾芭蕉が、碁を打っていたということだけでも、胸がわくわくするが、その棋力が、また凄い。現在の県代表クラスという。アマでもぬきんでている実力者である。この先の展開がますます楽しみである。 |