松尾芭蕉と囲碁

 更新日/2019(平成31、5.1栄和改元).5.18日

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここに、「」を転載しておく。

 2005.6.4日 2013.6.04日再編集 囲碁吉拝


 「元たばこ屋夫婦のつれづれ」の2012.1.31日、「松尾芭蕉は、現在の県代表クラスの棋力があったという」転載(少し編集替えしております。文意は変えておりません)。
 ふたたび、秋山賢司氏の「碁のうた 碁のこころ」にもどる。今回はあの俳人・松尾芭蕉が、大の囲碁好きであり、その実力も相当のものだったという事実を取り上げる。

 「芭蕉は碁が好きだったんだろうな」と高木祥一さん(棋士九段)にいわれて、びっくりしたことがあります。高木さんは、俳諧七部集の一つ、"冬の日"の中の連句(歌仙)の一句、「道すがら 美濃で打ちける 碁を忘る」を知っていたのです。前後を省略しますが,独立した句としてもなかなかいい。前の晩、美濃の宿で打った碁、を道中で忘れ、どうしても思いだせない、ですね。いつもはすぐ手順が浮かんでくるのに、この日にかぎって思い出せないというニュアンスもある。


 ところがこの句は別の解釈もできます。「道すがら」が「美濃で打ちける」にかかるというのです。美濃路の旅で一緒になった人(ひょっとしたら碁打ち)と歩きながら「黒十七の四」「白四の三」とかいって、盤石なしで打ち興じた。その碁を宿に
着いて再現しようとしたところ、思い出せなかった、です。前者が常識的でしょうが後者も魅力ある解釈です。盤石なしでそらで打てるとしたらプロ級ですね。藤沢秀行先生は棋士の勘で、"芭蕉の棋力は現在の県代表クラス〟と認定しました。大賛成です。芭蕉こそ、わが国千数百年にわたる文芸史上、最強の巨人かもしれません。

 どうして芭蕉は強くなったのか。十代から藤堂藩五千石の城代・藤堂新七郎家の藤堂良忠の小姓として仕えていたといいます。良忠さんは趣味の人で俳諧が大の得意。芭蕉少年(当時は松尾忠右衛門)は良忠から俳諧を教わったのです。趣味の人なら碁も打ったはず。俳諧と同時に碁も教わったにちがいないというのが僕の勝手な想像です。良忠の死後、23歳で京に上る。京都時代の足跡がよく分かりませんが、禅寺で漢籍や、わが国の古典を勉強したらしい。五山を中心とする京の寺は、いろいろな学問の
場を提供する一種のサロンだったともいわれます。勉強のかたわら、碁に熱中したと書いても見当はずれではないでしょう。京都時代に芭蕉の棋力は飛躍的に伸び、県代表クラスになったのだと思います。

 "同感だね。しかし、碁が好きで強かったという決定的な証拠が欲しいな〟と高木さん。うーん、これは難題です。棋譜が残っているか、同時代の本因坊道策と打ったという記述があれば決定的なのですが。でも、碁好きを裏付ける証拠はいくらでもある。(芭蕉のその一)続く。


 松尾芭蕉が、碁を打っていたということだけでも、胸がわくわくするが、その棋力が、また凄い。現在の県代表クラスという。アマでもぬきんでている実力者である。この先の展開がますます楽しみである。

 「元たばこ屋夫婦のつれづれ」の2012.2.3日、「芭蕉そのⅡ、弟子もあきれた碁好きぶり」転載(少し編集替えしております。文意は変えておりません)。
 わが国の文芸史上、最強の棋力を認定された松尾芭蕉の第二弾。弟子もあきれるほどの囲碁好きで、碁を詠んだ句が沢山残っていると言う。それでは秋山賢司先生の著書に入る。 

 「芭蕉の連句を片っ端から調べておどろきました。碁を詠んだ句が出てくるわ出てくるわ。前句にほとんど無関係に碁の句をつけるのです。そんな例をご覧いただきます。連句は発句から揚(挙)句まで全部を紹介するのが筋ですが、スペースがないので前後の三句だけを続けて見ていきましょう。
     月に起臥 乞食の楽 (つきにおきふす こつじきのらく)(曽良)
     長き夜に 碁をつづり居る なつかしさ (翁)
     翠簾に二人が かはる物ごし (みすにふたりが かはるものごし)(塵生)  

元禄二年(1689)「おくのほそ道」の旅の途中、加賀の国での連句興行「ぬれて行や」五十韻の第四十句、第四十一句、第四十二句。曽良は「おくのほそ道」に同行した門人。月を旅の友とする、乞食渡世の気楽さをうたっているのですね。翁(芭蕉)
は、ここから碁をもってくる。月ー長き夜ー碁という連想です。・・・中略・・・

 こんどは貞亨元年(1684)、尾張熱田での歌仙興行、「海くれて」の第八句、第九句、第十句です。

    一輪咲し 芍薬の窓 (いちりんさきし しゃくやくのまど)(東藤)
    碁の工夫 二日とぢたる 目を明て(ごのくふう ふつかとじたる めをあきて)(翁)  
    周にかへると 狐なくなり(桐葉)

 「一輪咲し」は、窓の外の光景。ここから碁をもってくるのだから、芭蕉先生油断も隙もない。窓の外から目を室内に転じた。室内なら碁。ただそれだけの理由ですが、碁好きの面目躍如たるものがありますね。


 碁の工夫で二日も目を閉じるかね、などと理屈っぽく考えてはいけない。前句の「一輪」を受け、ユーモアで大げさに二日といったのでしょう。二日たって工夫を得たのだから、専門棋士を思わせます。あるいは碁打ちへの、憧れがあったのかもしれません。・・・後略・・・


しろうとの特権で僕が勝手に解釈しましょう。芭蕉の句は独り碁でしたが、桐葉は対局へと変えた。化けた狐が人間に挑戦したのです。中国(周)から出張してきた狐。ところが負けて化けの皮がはがれシッポを出した。そこで慌てて周に帰ると泣いた図です。昔の中国では碁盤を木野狐(ぼくやこ)と呼んだ例があります。野ギツネのように人をだましたり惑わせたり。あるいは、こんなことをふまえているのかもしれません。

 以上見た二つの連句は、芭蕉と門人との連係プレーがとてもうまく言っていると思います。いいかえると、師の碁好きを心得て、合わせている。しかし逆の場合もあります。「おくのほそ道」の途中の歌仙興行、発句は有名な〝あなむざんやな 冑(かぶと)の下のきりぎりす„その第二十一句、二十二句、二十三句です。

    うつくしき 仏を御所に賜りて (皷蟾)こせん
    つづけてかちし囲碁の仕合   (翁)
    暮かけて 年の餅搗(もちつき)いそがしき  (享子)きょうし

〝うつくしき仏„から碁をつけたのは碁好きの芭蕉ならではの感あり。仏の加護があったから碁の試合に勝ったと詠んだのです。でも強烈なしっぺ返しを食う。年が暮れて世間では、餅つきに忙しいんですよ、のんびり碁を打っている場合じゃないでしょと、たしなめているのですね。これには芭蕉先生も「おそれいりました」と苦笑いする一手だったのではないでしょうか。・・・と結んでいる。

 ここで取り上げたのは、連句の三点であるが、その碁好きが、鮮やかに浮かびあがっているではないか。はるか遠くの存在であった芭蕉が、もの凄く身近に感ぜられるようになってきた。これから先がますます楽しみである。




(私論.私見)