夏目漱石と囲碁

 更新日/2019(平成31、5.1栄和改元).5.18日

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここに、「」を転載しておく。

 2005.6.4日 2013.6.04日再編集 囲碁吉拝


 「元たばこ屋夫婦のつれづれ」の2012.2.15日、「夏目漱石も碁を打っていた」転載(少し編集替えしております。文意は変えておりません)。
 正岡子規が囲碁の句を沢山残していることが明らかになったとすると、大学予備校時代からの大親友であった夏目漱石も碁を打ったに違いない、当然のように推測されるが、確たる証拠がない、そこで秋山先生の探索が始まる。「漱石が碁を打った客観的な証拠を探すのは、きわめて難しい。漱石の碁について言及した弟子もいません。門人たちは概して碁につめたい。唯一の例外は中勘助で、碁の随筆や"独り碁や 笹に粉雪の つもる日に〟という句を残しています。証拠がなければ、漱石の作品から碁とのかかわりを見つけなくてはなりません。まず木屑録(ぼくせつろく・23歳の時、子規に見せるために漢詩文で書いた旅行記)この中で漱石は碁を打つ友人を、酒を飲んで大声を出し、大めしを食って驚かせるやつと同列に扱っている。漱石先生、ちと碁につめたいなあ。作品の順番を無視して、次は"三四郎〟ちょっとだけ引用します。佐々木与次郎が英語の教師のことを、"先生は道楽のない人ですね。酒も飲まず、煙草は・・・煙草だけはかなり呑むが、その外には何も無いぜ。釣りをするぢゃなし、碁を打つじゃなし〟という場面があります。この英語教師は漱石自身のことかもしれません」。
 
 「次は晩年の"行人〟。主人公の兄とH(どちらも同じ大学の教師)が伊豆に旅行して、宿で碁を打つ場面があります。"一時間に二番打つへぼ碁で、しかも石がごちゃごちゃしてくるといやになる。„この描写はちょっと投げやり。漱石が碁に愛情をもっていたのか首をかしげたくなります。しかし大逆転がある。出世作の"吾輩は猫である〟です。美学者迷亭君と哲学者八木独仙君が苦沙弥先生宅で碁を打つ有名な場面。会話の部分をそっくり引用します」。
 「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所に這入ってくる法はない」
 「禅坊主の碁にはこんな法は無いかも知れんが、本因坊の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
 「然し死ぬばかりだぜ」
 「臣死をだも辞せず、況や璏肩(ていけんー豚の肩の肉のこと)をやと、一つ、かう行くかな」
 「さう御出になったと、よろしい。薫風南より来って、殿閣微涼を生ず。かう、ついでおけば大丈夫なものだ」
 「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣はなかろうと思った。ついでくりゃるな八幡鐘をと、かうやったら、どうするかね」
 「どうするも、かうするもない。一剣天に倚って寒し――ええ、面倒だ。おもいきって切って仕舞へ」
 「やや、大変大変。そこを切られちゃ死んで仕舞ふ。おい冗談ぢゃない。一寸待った」
 「それだから、さっきから云わん事ぢゃない。かうなってる所へは這入れるものぢゃないんだ」
 「這入って失敬仕り候。一寸この白をとって呉れ玉へ」
 「それも待つのかい」
 「序に其の隣りのも引揚げて見てくれ給へ」
 「づうづうしいぜ、おい」
 「DoYouseetheboyか。ーなに君と僕との間柄ぢゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引揚げてくれたまへな。死ぬか生きるかと云ふ場合だ。しばらく、しばらくって花道から駆け出してくる所だよ」
 「そんな事は僕は知らんよ」
 「知らなくてもいいから、一寸どけ給へ」
 「君さっきから六返まったをしたぢゃないか」

 「どうです?古今東西、碁について書かれた最もおもしろく最もいきいきした文章だと思います。"本因坊〟"切る〟"つぐ〟と囲碁のことばがでてきて、駄洒落たっぷりなのもいい。この前段にある我輩の囲碁論も秀逸。"どうして一尺四方の狭いところで争うのか。最初は石の並べ方によっては目障りにならないが、立て込んでくるともういけない。白と黒が盤からこぼれ落ちるまでに押し合って、窮屈だからといって隣のやつにどいてもらうわけにもいかない。窮屈なる碁石の運命は、せせこましい人間の性質を代表している。人間とは強いて苦痛を求めるものだニャー〟と言う内容です」

 「文学者の観察力や想像で書いたのか。いや、碁を知っていたからこそ書けたのだと思います。その証拠を漱石の俳句から探りましょう。"盛り崩す 碁石の音の 夜寒し〟碁が終わって盤上の石を碁笥に収めるとき、手の中でいっぱいになる。それを〝盛り崩す〟と表現したのです。碁を知っていて、実際に打った者でなければ、この感じは理解できません」。

 「そう漱石先生は碁を打ったのです。子供のとき覚えたか、あるいは子規に教わったのか。長じてほとんど打たなかったとしても、僕は絶対に知っていたと確信します。強くはなかったのでしょうね。そんなことはどうでもいい。猫の対局描写だけでも初段を差し上げます。名誉五段でもよろしい。子規と同じように囲碁の殿堂に入っていただかなくては。もう一句あります。"連翹(れんぎょう)の 奥や碁を打つ 石の音〟碁を打つ石の音が冗長でやや気になりますが、すっきりと視覚と聴覚に訴えています。散歩でもして、レンギョウを庭先で見つけたのでしょうね。その向こうから碁石の音が聞こえ、ちょっぴりうれしくなった。これは愛棋家の句です。漱石の俳句の先生は子規。多くは子規に見せるために作られましたが、碁の句二つは子規没後の作です」。

 どうですか、ここまで徹底的に調べ上げての確証です。秋山先生の並ならぬ探索に囲碁にかける情熱のほとばしりを受け止めかねる感動に浸りました。




(私論.私見)