囲碁吉の天下六段の道、教育&人生訓編

 更新日/2017(平成29).10.2日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「囲碁吉の天下六段の道、人生訓編」を書きつけておく。

 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝


【棋道論その№、心技体】
 「囲碁吉の天下六段の道、メンタル編」は「心技体」を最初に採り上げる。なぜなら、ここが一番肝要と思われ、結局はこれに尽きるからである。 興味深いことは、師匠は「手」を教えることはできるが、「心」は自分で会得する以外にない、と云うことである。

 碁も相撲と同じく心技体が肝腎である。「心」は精神力、「技」は技術、「体」とは体力を云う。この全体を「地力」と云う。これはアマもプロも同じである。敢えて言えばプロの方がアマのそれより勝っていなければウソだろう。「心技体」は万事に通用する法則であり、よってどの道からであれ、これを鍛錬すれば万事に役立つ。これを鍛えるところに上達の味わいがある。諸芸はそれぞれこれに資する道のりを備えており、これが「芸ごと」が愛好される所以であろう。

 格闘技の殴り合い性ばかりを見るのは格闘技知らずである。格闘技には心技体の三拍子が極限的に問われており、選手がそのパフォーマンスを競うところに面白みがある。ムヤミヤタラな打ち合いのみに着目して興奮するのは素人観戦である。両者の間合いの詰め方、駆け引き、攻め方、防御の仕方、技の決め方、兵の引き方等々が実に興味深い。碁も然りである。いずれ戦いが始まるとして、その際に有利になるよう自陣は味良く構え、相手の陣は味悪にさせる駆け引きが肝要である。

 碁に於いても何故に心技体が肝腎であるのか。それは石の形が心の現われだからである。心が萎縮していれば石も萎縮する。心の修行ができていないと囲碁も我慢できない手を打つことになる。心の状態、様子、性格を石が「映し鏡」として反映する。この理屈を知って心技体の鍛錬に励まなければならない。これにつき、「高尾紳路、(4)「人間の幅を広く」の教訓」(読売新聞 2009/09/29掲載)が次のように記している。
 「『碁は人間が打つのだから人間の幅を広くしなければいけない』と、藤沢秀行先生からいつも言われました」。

 幕末の剣豪にして幕末の三舟(勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟)の剣の師匠であった島田虎之助が次のように述べている。「剣」を「囲碁」に読み替えれば良かろう。
 「それ剣は心なり。心正しからざれば剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」

 2014.09.22日 囲碁吉拝
 1852(嘉永5)年、初春、井上幻庵が「囲碁妙伝」4巻(大阪、竹雨亭)を刊行している。幻庵面目躍如談論風発のユニークな囲碁本になっている。「余いまだ何心なき6歳の秋より、不幸にしてこの芸を覚えたるが」の書き出しから始まり、「勝敗を決めるのは妙手ではなく失着である」、「碁は運の芸」と喝破している。次のように述べている。
 「昔、道策の碁、近来の丈和の碁、皆な相手の過ちにて10局に7局勝てり。万人これを知らず。憐れむべき芸なり」。

【着手法その№、むさぼれば勝ちを得ずの理、腹7分目の思想】
 囲碁十訣(じっけつ)第一要諦の「不得貪勝」(むさぼれば勝ちを得ず)の真意は「腹7分目の思想」を根底に据えているのではなかろうか。この思想を会得することにより、自軍の石の弱点に手を入れて戻さず、相手の石の弱点を突きまくることを非とすることになる。良過ぎて却って打ち過ぎて負けることがある。良過ぎれば脇を締め、優勢も腹七分目辺りにしておくのが良い。

 「貪(むさぼ)り」が何ゆえ良くないのか。それは囲碁に限らず何でもに云えることだが「ええとこ取りはダメ」と云うことでもある。「ええとこ取り」の囲碁版が「貪(むさぼ)り」になる。「ええとこ取りはダメ」なように「囲碁の貪りもダメ」と覚えた方が良い。致命の傷を守ることで貪りでない証を立て、然る後に「力を溜め狙い決行」するなり、真綿の首絞め的に追うなり、要所に打つなり自在に打てば良い。これを仮に「貪れば勝ちを得ずのコツ」と命名しておく。 

 考えてみれば、「貪れば勝ちを得ず」は修身そのものではなかろうか。囲碁十訣の最初にかような修身論が掲げられているのは大変興味深い。残りの九訣も修身の見地から耳を傾ければ耳目が洗われよう。「攻めと守りのバランス良く」、「萎縮した手、下へ向かって打って負ける愚を避けよ」云々も技術論のみならず修身論の見地からも捉える必要があると思う。「本因坊は形勢がどうあっても動じることなく強かった」の弁がなされている。これも修身論として聞き学ぶべきだと思う。

 このことが呉清源の随筆「呉清談」に次のように記されているとのことである。
 「よく人から棋道の上達法、研究方針を質問されますが、著者の私は碁の修導には二つの途があり、それを併用してこそ、初めて優曇華(うどんげ)の花が咲くと信じている。その二途とは、第一が手段の研究、第二が精神(こころ)の修養であります。これを鏡に例えると、前者が表面の埃を拭い取る工作であるのに比して、精神(こころ)の修養、これは鏡を奥から、真底から光らせる作業なのです。なお、著者の私が手段の研究と共に精神の修養を特に考えるのは、その方が人間として得だからなのであります。なぜなら手段の研究は碁以外には何の役にも立ちません。しかし精神の修養は真底から光る鏡で碁以外にも通じるのです」。

 2015.3.10日、2016.1.11日再編集 囲碁吉拝

【着手法その№、打ち過ぎ、稼ぎ過ぎは良くない。その後は弱石の補強に向かい手を戻すのが良い】
 「打ち過ぎ、稼ぎ過ぎは良くない。その後は弱石の補強に向かい手を戻すのが良い」。解説不要であろう。こうなると、囲碁論は人生論そのものである。ならば、囲碁だけそうではなく人生も囲碁の如くに打って生きたい。逆に云えば、人生だけそうではなく囲碁も人生の如くに打ちたい。これにつき、戦国名武将の一人、甲斐の武田信玄語録にツギの一節がある。味わうべきだろう。
 「勝負の事、十分を六分、七分の勝にするは十分の勝なり。子細を云えば、八分の勝はあやふし。九分、十分の勝は味方大負の下地なり」
 (訳:勝負というものは、十のうち六分、七分の勝ちで十分である。八分の勝ちは危険であり、九分、十分の勝ちは、味方の大負けの下地となる)(「甲陽軍艦」より)。

 武田信玄語録には他にも次の名句がある。
 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」。
 「風林火山。疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」。
 「渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である」。

 「腹七分目がよろし」は「打ち過ぎ、稼ぎ過ぎ」を咎める言葉である。「打ち過ぎ、稼ぎ過ぎ」は必ず反動が生まれるので良くない。どこかに薄いところが生じており、その傷を防ぐ為に頃合に手を戻すのが厚い打ち方である。これが囲碁のバランスであり、相手の石に名調子を与えない為に石を折衝させぬ形で手を戻す。これを「手戻しの芸」と云う。「手戻しの芸」は「相手に手を渡す芸」でもある。この時、相手の棋力が出る。仮に相手が手を戻せば、引き続き先手を保持し好点に回ることができる。これが高段者の芸である。これを単純に考えれば、相手が手を戻したとき、こちらも守って十分なときには手を戻すのが良い、と云うことではなかろうか。実際、手を戻したところでは強く戦える。否、そういうところでは強く戦わねばならない。この功があるので、手戻しは立派な一手になっている。

 2016.11.12日 囲碁吉拝

【棋道論その№、勝負修身論と人格修身論の二種類の修身論考】
 それほど重要な修身論であるが、これを能く見れば、勝負修身論と人格修身論の二種から成りたっていると思う。勝負修身論は、勝つ為の、勝負強さを磨く為の精神鍛錬論で、人格修身論は勝負とは又別の品格鍛錬論である。この二種は車の両輪のようなもので関連しあっているが、一応は別物で、故に別種としてそれぞれ鍛えていく必要があるように思う。これも囲碁に限らず諸事全般に云える。この両者の総合を目指すのが理想で、恐らく日本式の「何々道」はこの観点から磨かれているものではなかろうか。 

 これも書いておこう。2002.2.4日mikimamiさんとインターネット碁で初手合わせした。いろいろ囲碁談義が為されていたが、私が県下のトップアマに三子四子の手合い、プロには六子まであるかもと掲示板に書いたのに対し、プロに三子で負けたことがないとのメッセージが入り、外野席からけしかけられ途端に手合わせとなったという経過である。結果は、二局打って二局とも投了させられた。確かにつおいというのが実感である。いつか追いつけるか無理か目下そこを自問自答しているが、それよりこれも世界の友達作りと考え素直に仲良しにならせてもらおうとか思う。

 それにしても、局後の感想として、不甲斐ない負け方したのがつらい。相手がそれだけつおかったというのもあろうが、闘うときに萎縮した手を打っているのが思い出すのに業腹だ。悪い方の足が出たような気がしてならない。この辺り人間修養の問題かも知れない。(以下、後日記すことにする) 

 負けて業腹なことは、必ず決まって石が下とか隅へ向かっていることである。中央ラインなら繋がりを重視し、まずは正々堂々と後手でも厚くしておけば良いのに、その手をはしょって他の手どころを打ち続け、仕舞いには元へ戻って手抜きしたところを苛められ苦戦させられる場合が多い。この流れは病気であるので治さねばならない。

 補足。それはそうと、2002年頃の棋力で「県下のトップアマに三子四子の手合い、プロには六子まであるかも」と公言したのはどういう事情によってであろうか。あれから相当に強くなっているのに未だに「県下のトップアマに三子四子の手合い、プロには六子まであるかも」なんだな。それを思えば、2002年頃の棋力では「県下のトップアマに五子六子の手合い、プロには星目まであるかも」と公言すべきだったかも知れない。当時の気分が分からないが多分に見栄張るしていたのかもしれない。

 2002.2.4日、2015.6.28日 囲碁吉拝

【棋道論その№、辛抱が大事】
 これにつき、「囲碁吉の天下六段の道、メンタル編」の「木鶏(もっけい)考」に記す。

【棋道論その№、愚痴、泣き言、繰り言、言い訳はご法度】
 勝負強くなるためには愚痴がご法度である。愚痴を言っているうちはいつまでたっても精神的に強くなれない。これを逆から云えば、勝負強くなる為には決して泣き言、繰り言、言い訳を云わないと心に言い聞かせねばならない。その上で、勝ち味を覚えなければならない。これが昇段のビタミンミネラルになる。

【棋道論その№、素直と反発の適宜が命である】
 「素直と反発の適宜が命である」。将棋の大山名人が、「素直な性格の大切さ」について次のように述べている。
 「伸びる人というのは分かりますね。素直でないといけないんです。これは一般の社会にも言えることですが、頑固で、人の言うことを聞かない人は、成功しない」。

 まずは素直さが大事である。無用の反発は咎めを受けるだけのことである。但し、相手が棋理に合わない高圧的な手を繰り出すときには反発が気合である。このコンビネーション、この呼吸、間合いの取り方が芸であり棋力である。要するに、相手が棋理に合った手を繰り出しているときには素直にハイハイと相手して然るべきである。この素直さが大事である。無用の反発は怪我の元である。

【棋道論その№、「守、破、離の理」】
 日本式稽古道の能狂言、茶道、武道、囲碁将棋の世界では「守、破、離の理」が言われる。「守」とは、定められた基本を守ること。基礎の大事である。「破」とは、定められた枠を破って個性を発揮すること。「離」とは、全てを離れて自由自在に行動しても道に適っていると云う名人の境地を云う。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

 「将棋コラム」の2017年04月28日「『負けました』から得られる心の成長」。
 負けるのは、悔しいことですよね。まして自分の負けをしっかりと認め、自分の口で「負けました」と相手に伝えなければならないとは、悔しさもひとしおです。しかし、「負けました」と伝えるたびに得られるものは、悔しさだけではありません。今回のコラムでは、「負けました」で得られる子どもの心の成長の機会をお伝えします。

 「負けました」と言うのはこんなにも悔しい

 将棋は、相手と同じ条件、同じルールの下で戦います。お互いに自分の考えをぶつけ合い、駒を一手ずつ動かしていきますから、運の要素はありません。お互いが全力を尽くした結果、どちらか一方が勝ち、もう一方が負けるという過酷なゲームです。負けの原因はすべて自分にあり、負けの責任はすべて自分で負わなければなりません。だから、負けると余計に悔しいのです。そんな中で、「負けました」と言わなければならないですから、これは相当につらいものです。しかし、そこにあるのは悔しさだけではありません。見方を少し変えてみましょう。

 能動的に取り組むことで得られるものが何倍にもなる

 よく保護者の方から、「子どもに宿題をやらせるにはどうしたらいいですか?」と質問されることがあります。そのときには、「子どもに『これから宿題をやります!』と宣言させるようにしてください」とアドバイスします。その宣言だけで、子どもにとって宿題は能動的に取り組むべきものに変わるのです。親に「早く宿題をやりなさい」と言われてイヤイヤ取り組む宿題と、自分で能動的に取り組む宿題とでは、意欲が全く違うものになります。意欲が違えば、そこから得るもの、身につくものも変わってくることでしょう。

 この宣言と同じように、「負けました」と能動的に言うことが大切な行為です。敗者が能動的に口に出した瞬間、負けは単なる負けではなくなるのです。確かに将棋には負けたでしょう。しかし、それでも悔しい気持ちを折りたたんで「負けました」と言ったのは、「弱い自分に打ち克った」という証、宣言でもあるのです。「負けました」は、敗者にだけ与えられた特権です。負けを宣言することで、負けたほうが勝った相手よりも精神的に上にいけるものなのです。だからこそ、「負けました」と口に出していう意味があるのです。

 将棋は、「負けました」と言って勝負が終わるというのが「型」として組み込まれていますから、負けてなお成長する機会が用意されています。「負けました」というその行為を実体感し続けることができるゲームなのです。

 負けを乗り越えることで人は成長する

 この「負けました」を言う意義に気づくと、負けがプラスの意味を持ちます。将棋に限らず、スポーツでも運動でも同じで、「負けた。悔しいからもうやめた」では進歩はありません。負けて悔しい気持ちを折りたたみ、負けを乗り越えてまた前に歩きだすことで、人は成長していきます。

 「テーブルマークこども大会」という将棋大会は、2016年は全国11都市で開催されていて、全国で9,000人を超える子どもたちが参加しています。東京会場では、2,500人を超える子どもたちが一堂に会して将棋を指すという壮大なスケールで開催されています。

 よく考えれば、決勝戦で勝つ子以外はすべて、「負けました」と言うことになるのだと、私は感慨深い思いにかられました。うがった言い方をすれば、わざわざ「負けました」というために会場に集まったことにもなります。巷には、もっと気軽に楽しめるゲーム・娯楽があるにもかかわらず、多くの子どもたちがせっかくの休日に、「負けました」と言いに参加しているのです。しかも、毎年の参加人数が増えていますので、前回参加した子どもが友達にもすすめて、仲間を増やして、翌年の大会に参加しているということでしょう。

 将棋を指した子どもが、実際に対局することで何か感じるものがあったおかげと言えるのではないでしょうか。将棋はルールに合っていれば指し手は全て自由に選べます。この自由さも現代の子には魅力なのではないかと感じています。保護者の方々も、子どもが「何か」を感じ取ったことにより、確実に変わってきていることを実感しているからこそ、将棋を楽しませて、続けさせているという証拠なのではないでしょうか。

 負けてしまった子どもへの接し方

 あるとき、こんなことがありました。野球が大好きで、将棋はまだ始めたばかりの2年生の児童が初めて将棋道場に行くと言っていた日に、道場でしょんぼりとした様子を見かけました。「どうしたの?」と声をかけると、「全部負けちゃいました。3連敗・・・」といかにも残念そうな様子で言うのです。私は、「えらいぞ!よく3回も『負けました』を言えたね!」と励まし、「午後もしっかりと負けてきなさい。将棋は負ければ負けるほど強くなるんだからね」と伝えました。すると、その子は笑顔を取り戻し、また午後の道場へと入っていきました。

 その翌日、その子の保護者からお手紙をいただきました。「昨日は、息子は夕方まで将棋を指していました。必死に考えている横顔を見ていたら、何かいつもの息子とは違う面を垣間見た気がしました。最終局を終えた息子と対面したときの、あの顔は忘れられません。20局対局して2回しか勝てなかったけれど、その充実した表情は、それまで待っていた私の疲れを一瞬で吹き飛ばしてくれました」。きっと、この子に限らず、ほかの多くの子どもやそのご家族も、同じような体験をしていることでしょう。

 「負けました」を言いながらの成長を応援する

 子どもが将棋を始めたばかりのうちは、なかなか勝てず、負けることが多いものです。3連敗、4連敗と続いてしまうと、悔しさが前面に出て、泣いてしまうかもしれません。しかしそんなときには、悔しい気持ちを折りたたんで、「負けました」と言えたことを褒めてあげてください。負けましたを言いながら子どもが成長していく様子を応援しつつ、子どもが負けても次に挑戦できるように声をかけてあげられる、そんな会話が家庭に広がってほしいと思います。

 子どもの将棋に口出しをすることはできません。しかし、負けを乗り越えて、また次の対局へと向かえるように子どもを応援することならできます。黙って子どもを見守ることが教育の原点です。見守られている子は伸びしろがあります。そういう姿勢で子どもの成長を見守っていくことが、絆を強め、自立の心を育てることにつながるのです。

 子供たちは将棋から何を学ぶのか

 ライター安次嶺隆幸

 私立暁星小学校教諭。公益社団法人日本将棋連盟学校教育アドバイザー。 2015年からJT将棋日本シリーズでの特別講演を全国で行う。中学1年生のとき、第1回中学生名人戦出場。その後、剣持松二九段の門下生として弟子入り。高校、大学と奨励会を3度受験。アマ五段位。 主な著書に「子どもが激変する 将棋メソッド」(明治図書)「将棋をやってる子供はなぜ「伸びしろ」が大きいのか? 」(講談社)「将棋に学ぶ」(東洋館出版)など。




(私論.私見)