囲碁吉の天下六段の道、正気メンタル編 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6).3.1日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「囲碁吉の天下六段の道、正気メンタル(心理)編」を書きつけておく。 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝 |
【技術と精神(メンタル)の両輪考】 |
何事もそうだと思われるが、技術と精神(メンタル)の両輪で運ばれている。そのことを踏まえたうえで、ここでは精神(メンタル)について思料する。 |
【「心技体」の「心」】 | ||||||||||||||||||
「心」。相撲のみならず囲碁将棋も含めて格闘技の要諦は心技体の充実が鉄則である。この格言で「心」が先にあることを心得るべきである。そこで、「心技体」の「心」を取り上げ解釈してみる。「心」とは「精神、意思」を指すが、「心構え」、「気」と同義であろう。「精神力」のことでもあり、「胆力」と言い換えることもできる。これを鍛えるのが「心鍛」(メンタルトレーニング)で、これを論ずるのを修身論と云うのではあるまいか。これを分かり易く確認しておく。
大会の雰囲気に呑まれるのも修身に関係している。後で、何であの肝心な時にあんな手を打ったのかと後悔することがある。あるいはコウ争いで弱気になり、あるいは読みの次の手を先に打って台なしにするなどの失敗がある。これらは心構え、気合い、精神のいわゆるメンタルに絡んでいる。このメンタルが修身に関係していると思う。 故に次のように格言しておく。「学べば上手くはなるが強くはなれない。強くなるには心を鍛えねばならない」。この棋理が分からないままに「勝ち碁を落とした」と頻りにぼやく者がいるが、「勝ち方を知らない」未熟者であることを問わず語りしているだけのことである。補足しておくと、修身は日頃の日常生活から汲み出され且つ涵養されるものだからして、日常生活の中で鍛えるのが良い。そういう意味で、囲碁将棋等の芸事(ごと)の「心」は日常生活と直結している。ここに囲碁将棋の値打ちがある。 ごく最近のことだが、初歩的に動揺させられたことがあった。それはつまり、攻め合いの形で、当方が有利になっていたところ、当りが掛けられている相手の方から逆に当り返された。無茶苦茶な「ヤケクソ手」であることが普段ならひと目で分かるのだが、その時はどういう加減か「ない手」にびっくりさせられ大いに動揺した。催眠術に掛けられていたことになる。これを受けると、当りのところに手を戻させられ、当方の攻め合い負けになる仕掛けになっている。敵のありえない逆襲ウソ手に幻惑され、一瞬情況が読めず、何で急に形勢不利になったのか分からなくなった。ここにメンタルが登場する。「あわてず騒がず」、「落ち着いて」、「冷静沈着」に目を落すと、敵は当方の当りに構わず当り返しているだけではないか。そのことに気づいて当りの石を取り、それで相手の投了となった。何のことはない、非勢の相手の最後のお願い的な投了の形作りのヤケ手に過ぎなかった。メンタル的な心構えの涵養が必要な所以である。 2019.2.3日、錯覚ミスをして負けた。尻が抜けている石を追い回した挙句、頃合に尻抜けの石を抜かれて相手が生き、当方は何をしたことやらと云うミス経験は過去にあるが、尻が抜けている当方の石を相手が追い回し、こちらがそれに気づかず逃げ回った挙句に大損して逆転させられると云う憂き目に遭わされた。滅多にないことだがこういう「判断ミス」もある。自戒しよう。 卓球とかテニスなどを見ればよく分かるが、相手の失着の後の絶好のチャンスで早打ちし、打ち損じすることが多い。囲碁も然りで、相手の失着を咎める絶好のチャンスで手拍子で凡手を打ったり、悪乗りの空振り手を指すことが多い。これに関連して一言しておけば、「碁はうまいことをして勝つより、難しいところではなく平明なところでのミス(「判断ミス」、「うっかりミス」)をした方が負けるケースが多い。正しく打ったら相手が負ける流れになっているのに、ゴール前で勝手にずっこける場合が多い。互いに悪手を打つが最後に悪手を打った方が負けと云う流れもある。この辺りを味わわねばならない」と思う。 思えば、プロとアマの差がここでもはっきり表れているのではなかろうか。指摘されることが少ないが、プロは、技術のみならず、この辺りの修身がしっかりしているように思える。プロが修身につき、教わって会得したのか自然に身についたのかは分からない。アマチュア棋士最高峰師の菊池康郎氏が主宰する緑星囲碁学園が、囲碁の棋力向上と並んで人格形成を重視し、礼儀や自主性などを重んじるのは、この辺りに関係していると窺う。 2002.2.4日、2015.4.10日再編集 囲碁吉拝 |
【坂田の「1 心理編」】 | ||||||||||||||||||||||||
「坂田栄男『囲碁名言集』(有紀書房、1988年)」の「1 心理編」は次の通り。
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【強気と弱気考】 |
正気メンタル考の第二公理が「強気と弱気考」になる。これは戦う前の心構えとしての場合と、戦い始めてからの姿勢の二種からなる。どちらに於いても強気は吉相であり、弱気は凶相である。そもそも端から弱気なら出場する必要もない。勝ち負け以前のメンタルのあり方の問題として了解しておくべきである。 座って目合わせした瞬間に勝負の帰趨が宿っており、目合わせを避けるようではいけない。目合わせを避けるのは怯(ひる)んでいるからであり、その時点で半ば既に負けている。ボクシングその他の格闘技で言えば目が怯(おび)え腰が引けている状態である。これでは勝てない。この理を知らねばならない。 補足しておけば、強気、弱気は攻めと守りの双方に関係している。強気が攻め一辺倒、弱気が守り一辺倒を意味していない。攻めにも守りにも、それぞれ強気と弱気がある。上手なそれが強気であり、下手なそれが弱気であると心得たい。これが正気メンタル考の第二公理である。 2002.2.4日、2015.4.10日再編集 囲碁吉拝 |
【明鏡止水の理を心得よう】 |
「明鏡止水の理を心得よう」。その通りである。「明鏡止水」であれば、石の流れがそのままに受け止められて、手番での打つ手が鏡に映るがごとく見えてくる。変に曲がらず棋理に沿った素直な手が見えてくる。あるいはここは反発するところの要所が見えてくる。あるいは局面新展開の開拓の手が見えてくる。優勢では優勢の劣勢では劣勢の際の打ち方が見えて来る。これらはすべて明鏡止水の境地になれるかどうかに掛かっている。 |
【イライラ焦(あせ)らず、丁寧に、じっくり。用心深く、油断禁物、慎重に打つ】 |
「イライラ焦(あせ)らず、丁寧に、じっくり、用心深く、慎重に打つ」。その通りである。これをいろんな角度から考察しておく。 「イライラ焦(あせ)らず」は字義通りである。なぜそうすべきなのか。それは、盤面全体をゆっくり見回して見れば、いろいろ手があるからである。「イライラしたり焦(あせ)って」打つと、そういう有益な手が見えず、優勢ならともかく不利な場合の局面打開の手を見失うからである。 「丁寧に、じっくり」は「イライラ焦(あせ)らず」を逆から見た言い回しで、ほぼ同様の意味である。 「用心深く、油断禁物、慎重に」とはどういう意味か。それは、例えて云えば、雪の積もっている足元の悪い石畳道を、滑らないように穴やツボに嵌らないように見極めながら油断禁物で一歩一歩進むサマを云う。「石橋を叩いて渡る」の心境も然り。この気持ちで着手して行く心掛けを云う。この心構えを涵養することが大事である。なぜか。それは、形勢が良くなった勝勢の際に、勝ちを意識することにより「震え」始め、安全勝ちを目指して守りに転じることにより着手が萎縮し始め、遂には逆転の憂き目に遭うことが多いからである。メンタルがしっかりしておけば、ステップバイステップで確実に勝利を手繰り寄せることができる。そういう意味で、この戒めが肝要になる。 凡そ稽古事(ごと)には、技術面と精神面の両面錬磨が要求される。囲碁道も然りで、手を究める(技術)ことと平行して精神(心)を磨かねばならない。これを精神修養と云う。精神修養公理の基本は「落ち着く」にある。囲碁の場合には「落ち着いて打つ」になるが、これを要素分析すると、「あわてず騒がず、夢中にならず、いついかなる時も冷静沈着を維持する平常心」を云う。漢字表記すれば、「無念無想、明鏡止水、泰然自若」と云うことになる。この境地に至ることにより「石の息、盤の声」を聞くことができる。この逆を「邪心の境地」と云う。凡そ稽古ごとはなべて「邪心の境地」から「明鏡止水の境地」へと練磨して行く流れにあると心得たい。 「泰然自若」を最高の境地とする。これは「木鶏(もっけい)考」にて別途考察する。 「心が乱れると手が狂う」。言葉通りである。これも囲碁に限らず万事に共通する真理である。大コウのときにわざわざコウ材を一つ少なくするコウの立て方をする例、損コウを重ねるなどがこれに当る。逆に、心が「明鏡」になると次から次へと好手が見えて来る。いわゆる好循環に入る。「明鏡」が重要な所以である。似た言葉に「動揺大敵」がある。「動揺は大敵で、熟考の末、得心する着手を見い出し応戦するべし」である。西村修語録には「自分が怖いときは相手はもっと怖い」の言葉がある。 特に手どころで、「ピンチのときこそ冷静沈着」の心構えを涵養することが大事である。将棋の羽生永世七冠は「玲瓏(れいろう)の心」と表現している。2018.10.18日、関西棋院第1位を防衛した余正麒(よせいき)第1位は、「勝敗は気にせず、常に平常心を心掛けている」とコメントしている。俗に「余裕のよっちゃん」と云う。この心境で読みを入れて得心する手を打たなければならない。これの逆の着手を「石が踊る」と云う。「石が踊らない」のが良い。要するに、「落ち着き」がなければならない。 この心境がなぜ大事なのか。それは、この心構えが好手を探す前提になるからである。非勢に陥っても、この心境を維持し続けることができたなら局面打開の手を見つけることができる。次に肝要なことは、この心構えを終始維持することである。最初は誰でも「あわてず騒がず、冷静沈着の平常心」で打ち始める。ところが続かない。凡庸な者は、非勢に陥った時、催眠術に嵌ったかのように早打ちになりドタバタ、ジタバタし始める。「手どころでジタバタしない」ことが肝心なのに逆に立ち回りし始める。これではいけない。非勢であればなおさらひとまず立ち止まって、盤面全体を見回し、懸命且つ賢明に「手」を探す所作が必要になる。冷静に見渡せば案外と「手がある」ものである。これができる者が強い。これが「あわてず騒がず、冷静沈着の平常心」の実戦的意味である。 互いの生き死にが絡んでの応酬になっている場合、この教訓が重要となる。形の急所に手を戻し、相手の攻めを見るのが良い。一目散に生きに向かった場合、生きるには生きたが相手に十分過ぎる余得を与えている場合が多い。この辺りの石の呼吸を嗅がねばならない。 その裏の意味もある。これがなぜ大事なのか。それは、この心構えが不注意による見落とし、勘違いを防ぐ前提になるからである。性格にもよるが、「不注意による見落とし、おっちょこちょいな勘違い」の多い者と少ない者がいる。実例的には、相手の着手点を見落としたり、相手が受けたものと早トチりして不要の手を打ち先手を失うとかする場合がある。こうして「急所の一手の凡ミス」でせっかくの好局を失うことになる。大いに反省すべしだろう。 序盤に、さほど難しくない中央の石群のシチョウを見落とし、他所へ着手した途端にシチョウ当りを打たれ取られてしまった。投げても良かったが気を取り直して懸命に打ち続けた結果、1目半の負けとなった。隅ならともかく中央の要石数子の取られはやはり如何ともし難い。そもそも「さほど難しくない中央の石群のシチョウを見落とし」はどういう精神状態に表れるのか、これを検証せねばならない。技術以前の精神状態の問題だろうから、これを何とかせねばならない。 2018.12.15日 囲碁吉拝 |
【正気メンタル維持考】 |
囲碁も当然ながら「正気」で打ち続けねばならない。対局中、魔性(ましょう)に取り憑かれたかのように「まさかの発狂手」、「あり得ない損手」を打ってしまうことがある。勝負には魔性が棲みついていることを心得て、この魔性に取りつかれないようにせねばならない。これを防ぐ為に平素よりの精神(メンタル)、技術の鍛錬をしておかねばならない。これが正気メンタル考の第一公理である。 |
【がまん汁で臨み、辛抱足納(しんぼうたんのう)を堪能せよ】 |
「がまん汁で臨み、辛抱足納(しんぼうたんのう)を堪能せよ」。その通りである。「冷静沈着、平常心、泰然自若」は「辛抱」とワンセットである。 「がまん汁で臨み」を仮に「がまん汁論」と名づける。「がまん汁論」とは、「落ち着いて我慢した先に展望が開ける」ことを信じて「手を戻す」、「相手に手を渡す」芸を云う。この芸を身に着けねばならない。この「明日を信じるがまん(我慢)の手」が打てるようになって初めて天下六段の芸域に入っていることになるのではなかろうか。「がまん汁」が飲めないようではつまらん。「がまん汁」を飲める人が勝利に近づく。云うは易くではあるけれども実際にそうではなかろうか。 「辛抱足納(しんぼうたんのう)を堪能せよ」を仮に「辛抱論」と名づける。「辛抱論」とは、「辛抱の木に花が咲く」芸を云う。相手の挑発に軽挙妄動せず、辛抱に粘り強く応じられれば名人芸である。結局は棋力通りになる訳であるが、これに大いにメンタルが関係している。その両面において優った時、勝利を呼び込むのだと思う。囲碁の勝ち方の極意は、当初より棋理に合わせて淡々且つ平明に打ち、相手の失着を呼び込み、どの失着を咎めるかは別にして相手の失着を上手にあやしながら次第に形勢を有利にして行くことで足納を堪能するのが良い。 2018.10.7日 囲碁吉拝 |
【口に抜けず、慢心、奢(おご)りを戒めよ】 |
「口に抜けず、慢心、奢(おご)りを戒めよ」。その通りである。これが「あわてず騒がず、冷静沈着の平常心、無念無想、明鏡止水、泰然自若を銘とせよ」の逆境地である。 |
【勝負事は肩の力を抜いて臨むのが良い】 |
「勝負事は肩の力を抜いて臨むのが良い」。その通りである。強気と「力の入り過ぎ」とは似て非なるものである。「力の入り過ぎ」は良くない。脳、心、身が共に柔軟にパフォーマンスできる強気でなければならない。 何が何でも勝とうとするのは無理無駄で、一生懸命打って負けるのは弱いからであって弱い方が負けると心得て臨むのが良い。その上で、自分なりの棋理を求め、盤上に集中し、守るところでは守り、攻めるところでは押し、ここ一番の決戦時には熟考し、全体として冷静且つ淡々と打ち進めるのが良い。結果、負けた場合は敗因を検討し、次に対戦するまでの精進を誓う。勝った場合は勝因を検討し、次の対戦へ向かうのが良い。この繰り返しで精進するのが良い。この態度を身につければ下手に緊張することはないはずだ。これを正気メンタル考の第三公理とする。 2020.2.25日 囲碁吉拝 |
【碁敵(仇)に感謝の念を持つようになったとき越えている】 |
「碁敵(仇)に感謝の念を持つようになったとき越えている」。その通りである。碁敵(仇)に対しては勝ち負けに熱くなり、口惜しさも人一倍になるのが普通である。もう越えたかなと思った次の手合いから負け始め、それを何度も繰り返すのが碁敵(仇)である。そこにあるのは憎悪にも似た感情である。故に時に喧嘩腰になるのも致し方ない。ところが、ある時、ふと碁敵(仇)に感謝の念を持ち始める。彼いればこそ鍛えられ、何かと不備なところを教えられ、結果的にここまで闘える打ち手になった。感謝すべき大事な好敵手である。こう受け止めるようになったときから恐らく彼を越え始めている。「勝って高笑い、負けて涙目」のときにはこういう感情は起こらない。それは両者が伯仲していることを示している。と、気づいた。 2020.3.20日 囲碁吉拝 |
【先番後手番の態度考】 |
「先番の打ち方と後手番の打ち方の識別をしたいが、ないと心得たい。共に先を急がず落ち着いて打つことが肝要、コミ碁でも然りと心得たい。終始落ち着いて打つことができるか、その能力が問われている」。その通りである。 2020.3.20日 囲碁吉拝 |
【早打ち対策を講ぜよ】 |
早打ちは自慢にならない。序盤からの早打ちはどういう意味か。察するに自信がない証拠で、その裏返しで早打ちになっているのではなかろうか。そういう意味で、考えるということは逆に対等に立っている証(あかし)ということになろう。 |
【決め所でのバタバタ早打ち厳禁のこと】 |
一局の道中、どういう訳か、最も慎重を要するべき忙しいところでバタバタ打ちする癖が抜けない。しかしこれは私だけの現象ではない。10人に3人ぐらいの割合でいるように思う。きまってロクなことにならない。後悔頻りである。この癖を直さねばならない。どうすれば矯正できるのだろうか。「常に姿勢を正しく盤面全体を見て得心の手を打て」、「正念場での座禅瞑想、その後の正着手見い出しを心掛けよ」、こう言い聞かせておく。 |
【手拍子対策としての双方向図柄論】 |
手拍子対策を講じねばならない。手拍子を止めるだけで勝率が2割ほどアップするのは間違いない。手拍子で勝ち碁を負け、相手の手拍子で負け碁を拾うと云う具合の悲喜こもごもがある。それだけ手拍子問題は味わい深い。しかし、天下6段を目指すとなると、そういう指運任せではいけない。 2014.4.29日、2015.5.06日 囲碁吉拝 |
「手拍子対策としての双方向図柄論」を確認しておく。手拍子癖に対してどうすれば改まるか。言い聞かせるだけでは癖が直らないので、処方箋として新たに「双方向図柄論」を着想する。「双方向図柄論」とは、感覚的にこう打ちたいと主張して打つ手の場合、着手が分かりきったところは別にして着手前に必ず一呼吸入れ、着手を見出し、その手が相手側にどう通用するのか相手側から見て検証する。このやり取りを脳内で図柄確認して了解させてから打つべしとする理論である。これにより所要の時間が掛かる。この時間掛けによってそそっかしい手や条件反射のような手拍子の手を防止できるのではなかろうか。囲碁格言に「三思して後に行う」があるとのこと。同じ意味の戒めではなかろうか。 「どんな場合も打つ前に考える習慣を身につけねばならない」。これに付言しておけば、局面が良くなった時点での次の一手に気をつけねばならない。案外と落とし穴があるものである。目配りの欠けた迂闊な慢心の手で好局を台なしにすることが多い。精神論に関係するのかも知れないが、一局の最も肝心な時に手拍子で打つ愚を戒めねばならない。最も肝心なところでの手拍子の愚は最悪でせっかくの好局を台なしにしてしまう。何度も言い聞かせているのに直らない。物事には筋道と手順があり、この二つが同時に備わらねばならない。筋道が良くても手順を間違うと台なしにしてしまう。「双方向図柄論」を身につけておけばこういうことは起らないはずだ。よしっ今度からこれでやってみようっと。と思って心掛けているのだが相変わらず早指しの癖が直らない。今日も手拍子をやってしまった。相手の鼻歌をひたすら耐えた。 この方法でもダメな場合は、手番がくれば指し手の方で扇子を持つようにすれば良い。あるいは必ず一手打つごとに仮想指サックして腕組みし、着手点を決めてから仮想指サックを外して打ち、打った後すぐに又仮想指サックして腕組みすると云う指談方法しかない。とにかく何とかせねば碁の視野が広がらない。と思い、実際に薬局で指サックを買ったが柔らか過ぎる。文房具屋の紙めくり指サックが良いと思う。 とこう色々に工夫してきたが何とも身につかない。相変わらずの感覚打ちが直らない。最後の警句は、要するに相手の一手一手の意味を味わいながら打たなければ失礼だろう、と云うことにある。せっかく強い人に打って貰いながら勝ち負けだけしか記憶に残らないような打ち方では勿体ないだろう、学びながら打ち打ちながら学ぶ良い癖を身につけねばならない。 2014.4.29日、2015.5.06日 囲碁吉拝 |
【見れども見れずの滅びの心理】 |
「見れども見れずの滅びの心理」に陥ると勝ち碁も落すことになる。この心理はどういう風に作られるのだろうか。思うに、石の応酬を手談と云うが、その手談は感情込みでやり取りしている。その様は、あたかもボクシングの打撃戦である。囲碁や将棋は石や駒を盤面に晒して正々堂々競技しているのに、打ち進めるほどに着手の打撃の功によってか、次第に夢中になり、催眠術に罹ったかのように当りが分からなくなったり、自らダメ詰まりに向かって取られに行ったり、全体が見えなくなったりの、「見れども見れずの滅びの心理」に陥ることがある。既に催眠術にかかっているのかもしれない。 これがどういう精神状態によって起るのかは分からないが良くある現象である。形勢が悪いと焦りが生まれ余計にそうなる。攻め合いの際に「無我夢中、見れども見れず」に陥るのが最悪である。攻め合いは特に慎重に読みを入れなければならない。常に盤面全体を見て判断せねばならない。 この経緯でのメンタルの質が問われている。メンタルを練磨することで判断を能くすることができる。その能き判断を得る為の胆力が必要である。これがメンタルの肝である。これが逆に作用するとパンチドランカー症状になり「見れども見れずの滅びの心理」が生まれるのではなかろうか。 これを自戒する格好の方法を見つけた。即ち、両手を座禅の時の手組み、あるいは指組みまでして丹田の前に置いておく。着手が決まるまでこの格好を続け、着手が決まるや手組みを解いて碁笥に手をいれ、石を握って碁盤に打つ、あるいは置く。従来、扇子やハンカチがこの役割をしているのだが併用すれば良い。問題は、この方法によってもなお、いつしか夢中になり訳の分からない着手をする可能性があることである。さらなる工夫をせねばならない。 2015.10.24日 囲碁吉拝 |
【思い込み錯覚考】 |
「滅びの心理/無我夢中、見れども見れず」の兄弟に「思い込み錯覚」がある。これにも気をつけねばならない。「思い込み錯覚」は相手の手のそれと自分の手のそれの場合がある。相手の手の場合は、例えば、相手が受けていないのに受けたと「勝手に思い込み」、他の小さな所を打ち続け、頃合いに手を戻されて気づく場合がある。相手の形勢不利承知による度胸勝負の手抜きであるが、それを咎めねばならないのに咎め損なう場合である。自分の手の場合には、一見したところ相手の守りの手が実は鋭い狙いを秘めた攻めになっていた場合とか、それほど難しい読みがいる場合ではないのに、相手の攻めに大丈夫と思って手抜きしたら、受けができておらず酷い目に遭わされた場合とかがある。これらも棋力と云うよりもメンタルがしっかりしていないから起こる現象と考えられる。これにも警戒せねばならない。 2015.10.24日 囲碁吉拝 |
【或る一手の悔やみが尾を引きズルズルと形勢を悪くしていく理】 |
或る一手のしくじりを気に病み、全体の形勢としてはそう悪くないのにズルズルと尾を引かせ悪くして行くケースがある。これも修身に関係していると思う。この辺りの精神練磨だけで一目違うことになる。このことを自覚して平素より掛かり稽古せねばならない。 この修身の不足なばかりにあたら惜しい優勢局を何度台なしにしたことか。「一手の失着」に泣かされてきたことか。この辺りは癖性分が関係しており、であるとすれば「三つ子の魂百まで」と云われているので一朝一夕にどうなるものでもないが何とかせねばならないと思う。 2015.10.24日 囲碁吉拝 |
【しっかり集中し、集中力を切らさない持続が大事である】 |
「息切れ」は集中力を失わせる。囲碁に限らずであろうが「しっかり集中し、集中力を切らさない持続が大事である」。これは囲碁に限らず万事に言えることだろう。2020.1.13日、遠藤が白鵬を破って金星をあげた会心の一番を振り返って、「しっかり集中して、当たるだけ」、「しっかり集中して相撲を取れました」とコメントしている。囲碁も然りだろう。 上達の自然な姿として集中力の練磨がある。これができない者の上達は難しい。もっともどちらが先かと云う訳ではなく、棋力と集中力は平行して強化される関係になっている。よって打ち姿の背中から発する集中力オーラによっても棋力が知れることになる。ある時の団体戦で、我がチームの3段格のT氏の打ち姿があまりにもひたむきで、背中から集中力オーラを発散させていた。参戦させて良かったと思った次第で忘れられない光景である。 とにかく集中力を切らさないように打ち進めねばならない。これも稽古である。プロとアマの差がここでも如実に現れている。序盤、中盤、終盤を集中力を切らさず打ち進められる者が相当の高段者であり、低段者ほど逆である。このことを銘記しておかねばならない。ちなみに、囲碁の効用が次のように云われている。「考える力を育てる」、「集中力をつける」、「全体を見る力をつける」。なるほどの言であろう。 2014.4.29日 囲碁吉拝 |
【その反対としての放心の手論】 |
「集中力の手の逆が放心の一手、気の緩みの手である。これも気をつけねばならない」。これを逆に云えば、対局中は集中力を切らさず打てるよう、「ローマは一日にして成らず」であるからして日頃から練磨しておかねばならないと云うことになる。この稽古ができていないと、集中力のある手の果てに放心の一手、気の緩みの手を打ち、それまでの成果を台なしにすることになる。こうならないよう自戒せねばならぬ。 2014.4.29日 囲碁吉拝 |
【「勝って兜の緒を締めよ」考】 |
「勝って兜の緒を締めよ」と云う諺がある。思うに、この諺は、次の合戦用の戒めばかりではなく、戦の道中に於ける形勢有利な者に対する警句でもあるのではなかろうか。と云うことは、「勝って兜の緒を締めよ」は対局後のみならず対局中にも通用する戒めと云うことになる。即ち、道中の折衝で優勢ポイントを挙げた時、ここが肝心である。優勢に奢ることなく、優勢に流れることなく、勝ちを意識し過ぎて縮こまることなく、兜の緒を締めて進撃して行かねばならない。 2016.02.14日 囲碁吉拝 |
【「焼き入れ」考】 |
勝ち碁を勝ちきるにはスキルとは別のもう一つの「あとひと押し能力」、「クロージング能力」が要る。俗にこれを焼きが入っているいないの「焼き入れ」と云う。焼きが入っていないと鍛え方が甘く、勝ち碁が勝ち切れない。そういう意味で、勝ち碁を勝ちきり、負け碁を逆転する能力を身につけねばならない。 2016.02.14日 囲碁吉拝 |
【好事魔多し】 |
チャンスの女神を掴み、勝ち碁に乗せれば、後は自動的に勝ちと云う訳には行かない。「世の中も盤上も好事魔多し」で様々な落とし穴、地雷原が待ち受けている。これらを全てクリヤーした後に勝ち碁が勝ちきれる訳である。してみれば、勝ち碁を勝ちきるのが如何に賞賛されるに値するかが分かる。 2015.07.06日 囲碁吉拝 |
【大会実戦で鍛える】 |
メンタルを強くするには「実践で鍛える」必要がある。特に「大会実戦で鍛える」必要がある。それは外部での大きな大会でも良いし碁会所の小さな大会でも良い。要するに生の人間が居る中での勝ち抜き戦で勝つ芸を磨かねばならない。なぜなら、勝敗の多くが、碁の棋力芸だけではなく、手拍子やポカのようなメンタル芸で勝ったり負けたりしているからである。そういう意味で、大会実戦芸を磨かねばならない。ネット碁、プロ指導碁だけの碁習いの陥穽がここにあると思う。無論、両方掛け合わせれば良いのは自明である。 2015.07.06日 囲碁吉拝 |
【温泉気分のぬるま湯手は負けコース一直線】 |
「前半預金で温泉気分のぬるま湯手は負けコース一直線」。解説不要で、その通りである。前半に優勢に立つと、大抵の者は守勢にばかり回り始め、そのうちに相手に勝負手を仕掛けられ、これを手にされて優勢預金を失うことが多い。「ぬるま湯に入る」のは甘くなることを意味し、それはジリジリと後退することを意味し、これを何度も繰り返すと優勢預金をなくしてしまう。気づけば逆転されており負けコース一直線に向かっている。そういうケースが多い。 これを防ぐにはどうすべきか。一つは、無用な争いをする必要がない場合は「金持ち喧嘩せず」で素直に受けるなり、味悪のところを成り行きで上手に補強するのが良い。もう一つは、優勢であれば、優勢預金の余裕で、切り違いの手筋を使うなりして相手陣に騒動起こすのが良い。相手は非勢なだけに無理な頑張りをして自滅することが考えられる。この打ち方も一法であろう。 2016.11.12日 囲碁吉拝 |
【羽根泰正九段 「何かの勝負を見た時、それを囲碁に置き換えて考える」】 | |
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(私論.私見)