日本囲碁史考、ぺりー浦賀来航から幕末まで |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和4).1.20日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで日本囲碁史考「ぺりー浦賀来航から幕末までから幕末まで」を確認しておく。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
1853(嘉永6)年 |
この年、ぺりーが浦賀に来航する。 |
【「太田雄蔵-秀策の30番碁」始まる】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正月27日、碁好きの旗本赤井五郎作が発起人となり、「太田雄蔵7段(46歳)-秀策6段(24歳)の30番碁」が始まった。これは、去る日、碁好きの旗本・赤井五郎作の家に雄蔵、算知、仙得、松和の四傑と服部一が集まり、秀策の話題となって現在適う者はいないであろうと口々に言うのを、それまで秀策に互先で2勝2敗2打ち掛けだった雄蔵が同調できないと発言し、そこで五郎作が発起人となり30番碁が行われることになったものである。17局までで雄蔵の6勝10敗1ジゴとなり先相先に打ち込まれ、さらにここから1勝3敗1ジゴと追い込まれるが、最終局となった23局で、雄蔵は絶妙の打ち回しで白番ジゴの会心譜を遺している。30番碁はこの23局で終了となった。秀策はこの年に7段に昇段する。秀策は後に、「この碁は太田氏畢生の傑作ならん」と評している。
一進一退の白熱戦となった。 |
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6.21日、第17局に至り、秀策が17局目に雄蔵を先相先に打込む。雄蔵は4番負け越しで、その後も押され気味となった。
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【幻庵が江戸を離れて清国渡航を目指す旅に出る】 |
6月、「囲碁妙伝」刊行後、幻庵は 江戸を離れて清国渡航を目指した。当時の中国は“眠れる獅子”とは言いながら、1842年のアヘン戦争により欧米列強の侵出にさらされ、洪秀全の太平天国の乱、小刀会の乱など、動乱のさなかにあった。幻庵がそのような情勢を知っていたかどうかは定かではない。井上家の古くからの門人の三上豪山(播州の人)が同行し(棋力3段との記述があるが、嘉永5年1/16 日付の「三上豪山 vs 幻庵」を見る限り相当に強い)、北陸から中国地方を旅して回り、秋頃、長崎に着いた。二人は長崎に滞在し、清国に渡る機会を窺った。この時、幻庵は、長崎で江戸の御家人・本因坊門下の勝田栄輔(4段にして6段格)と先の手合いで4局打っている。結果は幻庵の4勝。そのうちの最後の4局目は、栄輔が幻庵の11子を丸取りする妙手を放ち、これを幻庵が寄せで猛追し、最終的に白番1目勝ちしている。この時の妙手で、勝田栄輔の名前が囲碁史に残っている。 |
6月、幻庵が、舟遊びと称して一艘の船を雇い、渡清を企て弟子の三神蒙山を伴って舟に乗りこむ。頃を見計らって豪山が抜刀し船頭を脅して進路を西に取らせた。ところが、玄界洋に出るも暴風雨に遭い、波間に漂うこと二昼夜、三日目に佐賀に漂着した。幻庵の乾坤一擲勝負は挫折を余儀なくされた。九州一の打ち手蓮香雄助に語ったところによれば、船中で用を足そうとした時に資金百八十両を海中に落としたために戻らなければならなくなったとも云われ、「高い糞をひりました」とオチがついている。一文無しになった幻庵と豪山は鹿島地方をまわり、免状を乱発して路銀を賄った。為に同地方に〃因碩初段〃の言葉が残されている。6.3日のペリー艦艇の浦賀来航を博多で聞きつけ、8月、江戸に帰る。 |
「(坊)秀和-岸本左一郎」戦が組まれている。
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30番碁の第23局は「5日、田村重右衛門宅で40手まで打ち掛け、28日、同所で巳の刻(午前10時)より打ち継ぎ翌朝卯の刻(午前6時)に終る」。雄蔵先相先で1勝3敗で望んだ23局目、秀策の先番、必勝ならんと云う碁を覆し、雄蔵がジゴに持ち込む(「雄蔵、名誉と意地のジゴ」)。この碁は「雄蔵畢生の傑作」として知られる。 雄蔵は、この碁を今生の思い出として秀策との対局を断念、秀策-雄蔵三十番碁終わる。これを最後に雄蔵は女と越後遊歴に出て、1856(安政3)年、高田の旅宿梶屋敷で客死、天保四傑では最も早く没した。旅に出た。 これを最後にふらりと旅に出る。 (より詳しくは「太田雄蔵-秀策(先相先の先番)」(「恐らくは太田氏畢生の傑局」)参照) |
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3.8日、「(坊)秀和-鶴岡三郎助(先)」、ジゴ。 |
【秀策7段と秀甫3段の2子局十番碁】 | ||||||||||||||||||||||||
秀策7段(25歳)と村瀬弥吉3段(16歳、後の秀甫)の2子局十番碁が遺されている。この年9.15日から12月にかけて打たれ、一日に2局打ちもあり多分に稽古碁の雰囲気があるが5勝5敗の打ち分け。
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1853(嘉永6)年11.17日、御城碁。 | ||||||||||||||||||||||||
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1854(嘉永7)年 |
「(坊)秀和-秀甫(2子)」戦が組まれている。
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5.12日、「太田雄蔵-秀甫(先)」、打ち掛け。 | ||||||||||||
7.6、14、15日、「秀策―岸本佐一郎(先)」、秀策白番2目勝。 岸本は石見の人で秀策より7歳年長にして秀和道場の塾頭だった。秀策に先で連勝、本局は3局目。これも優勢だったが、見損じで秀策の2目勝ち、逆転負けを喫した。この碁の写本に丸山久右衛門が左一郎から聞いた話として次のように記されている。
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9.12日、「太田雄蔵-秀甫(先)」、雄蔵白番中押勝。 | ||||||||||||
9月、秀甫が、帰郷した岸本左一郎に代わって坊門の塾頭を命ぜられる。 | ||||||||||||
10.2日、江戸を巨大な地震が襲った。これを「安政の大地震」と云う。倒壊家屋1万数全戸、市中の火事30数箇所、死者7千人にも上る被害となった。 | ||||||||||||
10.3日、「伊藤松和-太田雄蔵(先)」、打ち掛け。 | ||||||||||||
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秀策の7段昇段披露会が開催され、雄蔵はその席上で松和と対局している(打ち掛け)。この後、越後に遊歴に出て、1856(安政3)年に高田の旅宿梶屋敷で客死した。天保四傑では最も早く没した。 | ||||||||||||
11.4日、諸国大地震のため御好碁が中止された。秀策が「日本国中大変で当年はお好み碁(御城碁のあとの模範対局)」もなく残念です。来年よりはこれが例になってお好み碁が開催されなくなるのではないか、と心配です。かようなことで囲碁研鑚にかける熱意が欠けるのでは…」と江戸の不穏な世情を書き送っている。 | ||||||||||||
「秀策-秀甫(先)」戦が組まれている。
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1854(嘉永7)年11.17日、御城碁。 | |||||||||||
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1854(嘉永7)年、11.27日、安政に改元する。 |
当代の漢籍「群書治要」の「庶人安政、然後君子安位牟」から取られた。 |
「秀策-秀甫(先)」戦が組まれている。
この頃、秀策と秀甫が坊門の竜虎と評されていた。 |
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この年、林佐野が「皇国棋局人名録」を出版。 | |||||||||
秋、本因坊秀和著、加藤隆和校訂「棋醇」2巻刊行。 | |||||||||
伊藤幸次郎「傍註嘉永囲棋人名録」。 | |||||||||
1854(嘉永7)年に林家・林佐野が出版した囲碁人名録「皇国棋局人名録」。 | |||||||||
この年、土屋百三郎(秀和の三男、後の本因坊秀元)、稲垣兼太郎(日省)が江戸に生まれる。 |
1855(安政2)年 |
大地震。 |
「(坊)秀和-秀甫4段」戦が組まれている。
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1.20日、「秀策-秀甫(2子)」、秀甫2子局中押勝。 | |||||||||||||||
3.6日-4.19日、光の碁採録名局「因碩(幻庵)-秀策(先)」、秀策先番中押勝。 | |||||||||||||||
この頃、秀甫が秀和に随伴して美濃に行き、大垣の常隆寺(京都・寂光寺の末寺)に於ける高崎泰之助(後の泰策7段)の入段披露会に出席。その機会に師と共に京都、大阪まで足を伸ばし、地方の打ち手と技を競う機会を得ている。この旅はかなり長期にわたっており、8月頃は大阪と美濃の間を往復し、9.12日、京都三本木の大和屋での秀和との対局譜(師弟対決譜)が遺されている。 | |||||||||||||||
5.20日、「中川順節5段-秀甫5段」。 | |||||||||||||||
「(坊)秀和-秀甫4段」戦が組まれている。
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10.2日、江戸が大地震に見舞われる。 | |||||||||||||||
11.11日、江戸の大地震(安政大地震)のため御城碁が中止される。 | |||||||||||||||
「因碩(幻庵)-秀策(先)」、秀策先番中押勝。 | |||||||||||||||
この年、本因坊秀和著「棋醇」(きじゅん)2巻1冊(心静堂)が刊行される。 | |||||||||||||||
この年、坂口仙得編「囲碁段付(だんずけ)人名録」1冊(収文堂)が刊行される。 | |||||||||||||||
この年、岸本左一郎「常用妙手」(写本)を発表。 | |||||||||||||||
この年、中根鳳次郎、生まれる。生国、伊勢。 |
1856(安政3)年 |
高塩慶治(桂司と書いた記録もある)が12世林門入(柏栄)の養子となり林有美と改名、跡目を許される。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「秀策-伊藤松和(先)」戦が組まれている。
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3月、幻庵が、自宅で秀甫(村瀬弥吉、18歳)と2子手合いで対局し、弥吉が圧倒している。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「(坊)秀和-秀甫(先)」戦が組まれている。
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1856(安政3)年11.17日、御城碁。 | |||||||||
林有美が御城碁に初出仕・爾後、文久元年まで6局を勤める。 | |||||||||
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この年、仙太夫73歳の時、村瀬弥吉5段(19歳、後の秀甫)を迎えて十番碁を対局している。互先で1勝8敗1ジゴ。安政六年、没。 | ||||||
この年、関源吉が江戸に生まれる。 | ||||||
この年4月、太田雄蔵、越後の旅宿「梶屋敷」(かじやしき)で客死する(享年50歳)。 | ||||||
引退、隠居していた井上秀徹(節山、12世因碩)が生没する(享年37歳)。1820(文政3)-1856(安政3)年。名人12世本因坊丈和の息子。幼名は戸谷梅太郎。幼少より同年にして後の本因坊秀和と共に切磋琢磨し囲碁を学ぶ。四段まで同時昇段。13歳の時、剃髪して道和に改名。その後眼病により21歳まで碁から遠ざかるが、その間に秀和が本因坊丈策の跡目となり、丈和の計らいで還俗して葛野忠左衛門を名乗り、諸国行脚して各地で対局する。1836(天保7)年、本因坊家外家の水谷家跡目の琢廉が早逝したため、水谷琢順の養子となる。1844(天保15)年、丈和と確執のあった幻庵因碩との和解の意味で、井上幻庵因碩から丈和に依頼して、一旦葛野忠左衛門に戻した後に井上家養子となり、翌年跡目となって井上秀徹を名乗る。この年以降、幻庵因碩と秀徹(先)で多くの師弟対局を行い、1845(弘化2)年9月、秀徹6段中押勝ちの出来を見て幻庵は退隠を決意したといわれる。1846(弘化3)年、御城碁に初出仕、安井算知 (俊哲)に先番3目勝ち。またこの時期、本因坊門人との対局も多く、安田秀策(本因坊秀策)には秀策先相先の手合で、白で三連勝の快挙を遺している。この年、赤星因徹の著書「棋譜・玄党」と「手談五十図」の合本「玄覧」を出版している。 | ||||||
12世井上因碩節山は御城碁に計3局出仕した。この頃より精神に変調が見られ、1849(嘉永2)年、門人・嶋崎鎌三郎を自身の内儀と姦通したとの疑いをかけて斬殺。鎌三郎の父が井上家に縁のある細川家家臣であったことにより内々に済ませたものの隠退させられることとなり、節山を名乗って相州相原で療養する。井上家は林家門人の松本錦四郎が継いで13世となる。節山はその後復帰することはなく1856(安政3)年、没する(享年36歳)。 | ||||||
1848(嘉永元)年、幻庵因碩が隠居し、秀徹が12世井上因碩となる。 |
1857(安政4)年、。 |
【秀策4度目(最後)の帰省、四国高松での碁会譚】 |
1月、本因坊秀策、葛野亀三郎3段(丈和の三男、秀策の妻花子の弟、後の方円社々長・中川亀三郎8段)を伴って4度目(最後)の帰省に江戸を立つ。この帰郷が最後のものとなる。郷里で半年余を過したあと九月終りには江戸に帰り、御城碁出仕に備え村瀬弥吉(秀甫)らを相手に研究を開始している。この度の帰郷では虫の知らせでもあったかのように、この時、数々の遺品を遺している。 この時の逸話の一つがこうである。秀策と尾道済法寺住職竹田物外不遷和尚が讃岐(香川県)丸亀の「金毘羅宮(こんぴらぐう)」を詣で、その後に松平氏12万石の城下町であった高松を訪れている。町の人たちは本因坊家跡目秀策を迎えて碁会と指導碁を設営した。ところが、碁会場の中で一人の老人が何故か碁も打たずポツンとしていた。不審に思った秀策が、その老人に「なぜ打たないのですか」と尋ねたところ、老人は「つい先日のこと、碁仇と対局をするにあたり、もしもこの一局に負けた場合は終生碁を打たぬと約束して打ち始め、負けるはずがないミスで敗着。折角の機会にめぐり会いながら先生の御指導を受けることができないのが残念です」と涙ながらに語った。秀策は失意の老人に同情してその相手を招き、辞を低うして、「このようなことは碁道の発展のためにも大変害をおよぼすことにもなるので是非許してあげてほしい」と諭し戒めた。息子ほど年齢差がある青年棋士といえども本因坊跡目に頭を下げられては相手方も恐縮のいたり。文句なしで和解へこぎつけた云々。 |
「(坊)秀和-秀甫(先)」戦が組まれている。
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4月、秀策、因島外之浦の浜満家(父桑原輪三の家)で水谷縫次(13歳)と4子及び3子で対局、縫次の才を見出す。 | |||||||||||||||||
閏5.25日、「井上因碩6段-秀甫(先)」。秀甫の先番中押勝。 | |||||||||||||||||
「伊藤松和-秀甫5段(先)」戦が組まれている。
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「坊)秀策-秀甫(先)」戦が組まれている。
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1857(安政4)年11.17日、御城碁。 | |||||||||||
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この年、「幻庵―吉田半十郎(2子)」。本局が幻庵の最後の棋譜として遺されている。 |
3月、中川順節「囲碁枢機」発刊。 |
1858(安政5)年 |
この年、安政の大獄始まる。 |
「(坊)秀和-秀甫(先)」戦が組まれている。
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6.7日、「伊藤松和-秀策(先)」、秀策先番4目勝。 | |||||||||||||||||
7.7日、「(坊)秀和-林有美(先)」、不詳。 | |||||||||||||||||
7.16ー25日、駿府・柴田家碁会(先代・柴田権左荷門=鬼因徹〈服部田淑〉と源吉〈山本道佐〉の21番碁の第4局以降の主催者=の追善興行)行われる。 | |||||||||||||||||
「伊藤松和-秀策」戦が組まれている。
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7.8日、安井算知9世(俊哲)が、駿府・柴田家の碁会に出席の途中、沼津で客死(49歳)。7月、実子の算英(12歳)が安井家十世として家督を許される。 |
1858(安政5)年11.17日、御城碁。 | |||||||||
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12.15日、「秀策-小澤三五郎(先)」、小澤先番9目勝。 (より詳しくは「「秀策-小澤三五郎(先)」(「小澤の傑作譜」)」参照) |
【岸本左一郎が故郷で病没(享年37歳)】 |
この年、岸本左一郎(さいちろう)が故郷で病没(享年37歳)。 1822(文政5)年生まれ。石見(いわみ、島根県)の人。山本閑休に漢学と囲碁をまなぶ。江戸の本因坊秀和の門人となり、塾頭をつとめる。安政元年6段。号は橘堂。著作に「常用妙手」「活碁新評」。秀和は7段を追贈する為に村瀬弥吉(21歳)を代理として派遣している。左一郎の門人/岩田右一郎がこれに従っている。この頃、大阪の中川順節と再度の対局をしたと伝えられている。他にも山陰地方の棋客を相手にかなりの数を打っている(鳥取市の旧家で9局の遺譜が発見され、関山利一9段に寄せている)。 |
1859(安政6)年 |
服部一(正徹)が7段に昇級。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2.17日、「秀策-秀甫(先)」、秀甫先番4目勝。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「秀策-海老沢健造3段(2子)」戦が組まれている。
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「秀策-因碩(松本)(先)」戦が組まれている。
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「服部正徹7段-秀策7段」戦が組まれている。
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10.15、11.1日、「秀策-二宮快蔵3段(2子)」、二宮先番1目勝。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
11.9日、「秀策-伊藤松和(先)」、秀策白番勝。 |
1859(安政6)年11.17日、御城碁。 | ||||||||||||||||
服部正徹が御城碁に初出仕し、秀和、秀策(御好碁)と対局する。 | ||||||||||||||||
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【本因坊14世秀和の碁所任命却下事件】 |
1859(安政6)年12月、本因坊14世秀和(39歳)が碁所任命を出願する。同月付の秀策の因島の父親宛手紙に「本因坊も手元宜しからず」と借金の申し込みをしている。これによると、碁界の最高峰といっても、幕府から受けていた50石15人扶持の家禄だけでは一門が食べていけなかった状況が推察できる。本所相生町にあった本因坊家には丈和未亡人勢子、秀和夫妻、秀策夫妻、住み込みの門人十数名、それに丈和や秀和の子供たちが同居していた。秀和が名人碁所に就位したかったのは苦しい台所の事情があったためとも考えられる。 本因坊14世秀和の碁所任命出願は「幕府多忙のためとの理由で」却下された。これは井上家の妨害によるとされている。秀和は40歳で油が乗り切った時で、その技量は実力日本一であることは碁界で誰もが認めていた。しかし、井上因碩13代を継いだ松本錦四郎が、「因碩11世幻庵が逝って年も改まらないのに碁所出願とは如何なものか」と異議を唱えた。本因坊丈和の長男、戸谷道和を井上家に養子縁組に出して和解していたが道和は事情があって早く引退、当主は松本錦四郎に引き継がれていた。錦四郎は武士の出身で、天保の争碁で敗れた幻庵の遺恨をはらしたい一念に燃えていた。時の幕府老中久世(くぜ)大和守広周(ひろただ)は錦四郎の旧主であったことから秀和の碁所就位阻止を働きかけた。その願いが効を奏し、秀和の名人碁所就位許可は遅延を重ね却下された。秀和の逆襲がはじまり錦四郎との争碁願いを出したが、奉行の沙汰は、翌年まで引き延ばした挙句「内外多忙、しばらく時機を待つべし」(「国事多忙多難ゆえ、延期して時節を待つよう」)。「国事多忙多難」多忙とは「安政の大獄」と呼ばれる政治的弾圧事件を指しているように思われる。こうして不許可になった。 |
この年、中川順節没。 |
中川順節 |
中川順節は御家人で、幻庵因碩門下となり後に5段に進む。天保17局、弘化4局、嘉永37局、安政18局の計76局が写譜されている。内訳は、秀策25局(その内の18局が関山仙太夫)、中川順節12局、秀和6局、伊藤徳兵衛6局、葛野亀三郎5局、太田雄藏5局、伊藤松和5局、松平家碁会5局等々である。他に丈策、伯栄、順策、仙得、栄助、算知、服部一、奈良林倉吉、幻庵、中村正平、加藤隆和、葛野策七、吉原又之助、佐藤運次などの棋譜が所収されている。1852(嘉永5).5.7、12日、「秀策-鶴岡三郎助(先)」で黒中押し勝ちは新譜。鶴岡は1822(文政5)年、江戸目白の生まれ。梅司とも云った。丈策の門人で、1846(弘化3)年、5段。後に6段に進み、1857(安政5)年、「囲碁枢機」発刊。 |
1860(安政7)年 |
3.3日(3.24日)、「安政の大獄」の指揮者・大老井伊直弼が、江戸城桜田門外(現在の東京都 千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名により暗殺された。これを「桜田門外の変」と云う。 |
1.1日、「(坊)秀和-秀策(先)」、打ち掛け。 |
「(坊)秀和-秀甫(先)」、秀和白番2目勝。 |
1860(安政7)年、3.18日、万延に改元。 |
「秀策-秀甫(先)」戦が組まれている。
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3月、「(坊)秀和-葛野亀三郎(2子)」、亀三郎2子局2目勝ち。丈和の息子との2子局。 | ||||||||||||||||||||||||||||
5.3日、「秀策-小澤三五郎(先)」、打ち掛け。 | ||||||||||||||||||||||||||||
6.12日、「伊藤松和-秀甫(先)」、打ち掛け。 | ||||||||||||||||||||||||||||
9.23日、「秀策-伊藤松和(先)」、打ち掛け。 | ||||||||||||||||||||||||||||
「(坊)秀和-秀甫(先)」十番碁が組まれている。
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1860(万延元)年12.8日、御城碁。 | |||||||||
安井算英が御城碁に初出仕。
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12.12日、「(坊)秀和-秀甫(先)」、不詳。 | |
12月、村瀬弥吉が秀甫と改名。12.21日、秀策書簡の郷里の父に宛てた文の一節が次のように記している。
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この年、林有実が6段に進む。 | |
この年夏、服部正徹没(享年42歳)。服部家は、一世因淑、二世雄節、三世正徹と三代にわたり、御城碁に出仕して、禄を受け、外家としては唯一であり、家元四家に次ぐ格式の碁家であった。当時「酒は鬼 朝寝秀和に 拳は林 踊は太田で 服っと一{はじめ}ます」という狂歌があり、安井門下の鬼塚源次、本因坊秀和の朝寝、林伯栄門入の薩摩拳、太田雄蔵の踊りと、正徹を読み込んでおり、当時の人気を映している。正徹には、面白い話が残っている。それは、幻庵門下の加藤某が師の妾と逐電した。旅から帰った幻庵は、門下の者たちに居場所を聞くと、長屋に住み、しじみ・あさりなどの商いをしている二人を訪ねた。そして、持参した一組の碁盤と石を与えた。「女は惜しくない。お前にくれてやる。が、お前の芸は惜しい。どんなことがあっても碁は捨てるな。」泣かせるね~。芝居にしたいような幻庵の一世一代の人情劇である。この加藤某が、服部正徹だと言われる。「惜しいかな、素行おさまらず、さりとて捨つるも忍びず、服部雄節の家を襲わしめたり」と、座隠談叢にある。 | |
7月、加藤隆和没(享年61歳)。 | |
幕末の弘化から万延年間(1845-1861)は碁界の空前の隆盛期であった。多くの打ち手が現れ、上級旗本や豪商が競ってスポンサーになり碁会を催した。この時代の狂歌「酒は鬼、朝寝秀和に、拳は林、踊りは大田で、服(はっ)と一(はじ)めます」が遺されている。「鬼」とは、安井門六段の鬼塚源治。鯨飲飽くことなしと伝えられている。「朝寝」は、当時の実力ナンバーワンの本因坊秀和。「拳」は、薩摩拳。象牙製の数取りや箸などを手で隠し、その総数を当て合うお座敷芸の拳の一種で、それが得意だったのが林家の当主で上手(七段)の林門入(柏栄)。「踊り」は、安井門で天保四傑の一人、太田雄蔵。最後の「服」は駄洒落で、上手(七段)の服部正徹(幻庵因碩門)のこと。一時、一(はじめ)と名乗っていた。 |
1861(万延2)年 |
1861(万延2)年、2.19日、文久に改元。 |
2.22日、「小澤三五郎-秀甫」。126手完で、小澤白番中押勝。 |
村瀬秀甫が6段に昇進。秀甫は、中江兆民の遺書ともいわれている「一年有半」の中で、「余近代に於いて非凡人を精選して、三十一人を得たり」と、坂本龍馬や大久保利通、北里柴三郎らと並んで非凡人として名が挙げられている。 |
【「秀策―秀甫(先)十番碁」】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「秀策(33歳)―秀甫(24歳)(先)十番碁」が遺されている。この年4.8日から11月にかけて打たれ、秀甫の6勝3敗1ジゴ。
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6.13日、林家隠居・元美(11世)生没(享年84歳)。元美は、碁打ちよりも、囲碁史家、評論家としての評価が高い。「爛柯堂棋話」の著者として有名。御城碁は、通算2勝10敗。 |
1861(文久元)年11.17日、御城碁。 | ||||||||||||||||||||||||
秀策は御城碁土つかずの19連勝。現存する秀策最後の打ち碁となった。19連勝の19局中、秀策がもっとも苦戦したのが、嘉永3年の伊藤松和戦である。嘉永6年の安井算知戦も逆転だった。ちなみに19連勝はすべて互先の域のものである。2子でもいいかもしれない相手にも向先で打っている。秀和が置碁をしないように裏から手をまわしたとも云われている。この点で、碁聖といわれた道策も丈和も置碁もこなしており、道策の負けは一流の相手に2子置かせての1目負けである。先で勝てる相手がいなかったということでもある。こう考えると、秀策が道策、丈和よりも芸が上とは判じ難い。 伊藤松和がこの年まで御城碁19局を勤める。この年をもってお城碁が中止され、再び行われなかった。 |
「秀策-林門入(柏栄)(先)」、秀策白番14目勝。 |
12.18日、「秀策-秀甫(先)」、不詳。 |
この年2月、赤星因徹が「手談五十図」を刊行する。9月、丈和が「収秤精思」を刊行する。 |
この年、岩田右一郎が生まれる。 |
【因縁対決「(坊)秀和-井上因碩(松本)(先)」】 | |||
1861(文久元)年、11.17日、御城碁第518局「(坊)秀和-井上因碩(松本)(先)」。両者の対局は安政5年に一局あり、その時は秀和が白番で6目勝っている。(百田尚樹の「幻庵」は次のように記している。
今回は表向きは恒例のお城碁であったが、秀和の碁所願い却下の経緯もあり、本因坊と井上両家を代表する争碁的雰囲気の下で打たれ、且つお互いに最後の御城碁となった。休憩時間に入って、本因坊秀和と親しい伊藤松和が心配したが、「最後にはひっくり返してみせる」と笑っていたと伝えられている。ところが終盤に入っても一手の誤りもなく打ち継ぎ、秀和が寄せの手順に苦心惨憺させられる。結局は因碩の黒番1目勝ちとなった。この局は「錦四郎一生の傑作」と呼ばれる。 因碩はこの一局を最大限に利用して秀和の碁所に異議を唱え、本因坊秀和の不覚の敗北は名人碁所の就位まで遠のくという取り返しのつかない一敗となった。秀和は、格下の錦四郎の先をこなせかったことにより名人碁所就任の夢を断たれた。かって、井上因碩(幻庵)の名人碁所の就位の野望を打ち砕いた秀和が、二十年後、同じ名を持つ井上因碩(錦四郎)によって夢を阻まれたことになる。 本局は、「世に謂ふ此時玄庵の霊の乗り移り居りたるかを疑ひしと」して「玄庵乗り移り」として知られる。秀策が秀和の無念の1目負けに対して、郷里の父に送った手紙に次のように認(したため)めている。
岸本佐一郎は「因碩は大いにぬるく見え候。しかしあの位の芸事に候」と、坊門の因碩評は散々であった。これを逆から評すれば次のような評になる。「錦四郎生涯の一局として推されるゆえんである」。井上因碩錦四郎は後にこう述懐している。
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【秀和】 | ||
「席亭の囲碁日記」の「秀和」が次のように記している。
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【小澤三五郎】 |
「ウィキペディア(Wikipedia)小澤三五郎」。 小澤 三五郎(おざわ さんごろう)(生没年不詳)は江戸時代末の囲碁棋士。江戸生まれ、本因坊秀和門下、六段。初めの名は小澤金太郎。村瀬弥吉(本因坊秀甫)の弟弟子にあたり、2、3歳年下と見られる。安政から万延にかけて秀和に二子、秀策に先、秀甫に先相先、他に高崎泰策との棋譜などが遺されている。秀策の後継者を弥吉と競ったと云われ、当時の「皇國碁家見立番附」では別大関村瀬秀甫、宮重策全に次ぎ、井上因碩(十三世)と共に大関の位置を占めている(五段)。秀甫とは、初二段は金太郎が先んじ、三段からは秀甫が抜いたとされる。1854(嘉永7)年、三段時から、四段秀甫が白番で2連勝、三五郎が先番と白番で連勝の棋譜があり、1861(万延2)年には三五郎五段で、先から先相先に進めている。中国九州を遊歴中に日向国延岡で急死と記録され後の記録はない。棋風は秀甫に似て豪快で攻撃力が強い。 |
1862(文久2)年 |
5.10日、秀策が、父宛ての秀策書簡の一節で、秀甫との稽古碁に触れて次のように記している。
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【秀策悲運の惜死】 | ||
8.10日、秀策生没(享年34歳)。 この頃、江戸でコレラが大流行し本因坊家内でもコレラ患者が続出した。武江年表は「夏の半ばより麻疹世に行われ、7月の半ばに至りていよいよ蔓延し、良賎男女、この病に罹らざる家なし」と記している。死亡率が高く、介護するものもほとんどいなかった。秀策は秀和が止めるのも聞かず患者の看病に当たり感染し、8.10日、コレラのため病死した(享年34歳)。秀策の才が惜しまれる。本因坊家では秀策の看病によりコレラによる犠牲者は秀策以外は1人も出さなかった。「囲碁見聞誌」(川村知足、1884年)が次のように記している。
期待をかけていた跡目秀策の死亡で悲嘆の淵に沈んだ秀和が桑原家へ宛てた手紙の文面は次の通り。
秀策が御城碁下打ちの結果を聞かれた時、「先番でした」とだけ答えたと言う逸話も残っている。秀和、秀策、秀策の弟弟子である村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)の三人を合わせて「三秀」と呼び、江戸時代の囲碁の精華とされる。秀和対秀策、秀和対秀甫、秀策対秀甫の対局は百局近くに及び、数々の名局を残している。秀策没後、御城碁がなくなり、碁界は一挙に衰退に向かい始める。 |
11.15日、「江戸城火災を理由に」200年の歴史ある御城碁は下打ちのみに止め取り止めとなった。外国船の来航、国内政情としての勤皇、佐幕の対立など内外の情勢緊迫化で、文久元年を最後に約230年間続いた御城碁が中止されることになった。 1862(文久2)年11.17日、御城碁。(下打ちのみ) |
8月、秀策逝去の同月、林有実没(享年31歳)。 |
秀和の次男の土屋平次郎が、11歳の時、林柏栄門入(12世)の養子となり林秀栄と改名する。翌年、12歳で初段。 |
1863(文久3)年 |
跡目としていた秀策死去の後、本因坊家のブレーンは秀和(44歳)、中川亀三郎(27歳、丈和の三男)、村瀬秀甫(26歳)、秀悦(14歳、秀和の長男)、秀栄(12歳、秀和の次男、12世林門入柏栄の養子)。一門の最強者は村瀬秀甫、次いで中川亀三郎であった。ところが、「勢子の権柄(けんぺい)」(勢子は丈和の後室未亡人で、何かと秀甫と対立していた)に遭い、秀甫の跡目相続が難航した。 10月、秀和が、丈和未亡人勢子の権柄に阻まれて秀甫を跡目とすることを断念、秀和の長子秀悦の跡目願を出し、承認される。秀甫は越後に去る。 |
1863(文久3)年11月、御城碁。秀悦も参加したが下打ちに止まる。
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この年6.13日、林元美没す(享年83歳)。 |
1864(文久4)年 |
1864(文久4)年、2.20日、元治に改元。 |
秀和、秀甫を上手(7段)に進めんとするも、13世因碩(松本錦四郎6段)が故障を唱う。ために争碁を打ち、秀甫3連勝して因碩を沈黙せしめ7段昇級を果たす。御城碁出仕に先だち剃髪する。但し、この年より御城碁中止のまま明治に至る。 |
この頃、秀甫が遊歴を名として越後に赴く(明治維新の前後、数回の放浪を繰り返す)。 |
この年11.18日、林門入12世(柏栄)没(享年60歳)。 |
【御城碁、御城将棋廃止】 |
この年より御城碁は中止のまま幕末に至り秀甫の御目見得も行われず。1626(寛永3)年に始まり、毎年1回、将棋とともに2、3局が行われた御城碁、御城将棋が1864(元治元)年で238年間続いて幕を閉じた。道中、1855(安政2)年、安政大地震により御城碁中止。1862(文久2)年、下打ちのみ行われ江戸城火災を理由に御城碁は沙汰止みの履歴がある。 |
1865(元治2)年 |
3.2日、中川順節没(享年62歳)。 |
1865(元治2、慶応元)年4.7日、慶応改元。 |
同年、林秀栄が12世林柏栄門入の死を伏せたままで家督願いを出す。 |
4.13日、「(坊)秀和-秀甫(先)」、秀甫先番中押勝。 日時不明、「(坊)秀和-秀甫(先)」、打ち掛け。 |
1866(慶応2)年 |
中川亀三郎(本因坊丈和の三男)が6段に進む。 | ||||||
1.19日、「海老沢健造-秀栄(2子)」、秀栄2子局中押勝。 | ||||||
1.24日、「高橋Daizaburo-秀栄 (先)」、高橋白番1目勝。 | ||||||
2月初め、秀甫が江戸帰りして、林秀栄(15歳、2段)、安井算英(21歳、3段)ら若き家元や後に方円社創設の同志となる中川亀三郎、小林鉄次郎らと一連の対局をしている。 | ||||||
「小林鉄次郎-秀栄(先)」戦が組まれている。
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2.14日、「吉田半十郎-秀栄 (先)」、吉田白番6目勝。 | ||||||
2.24日、「安井算英-秀栄(先)」、秀栄先番5目勝。 | ||||||
3.4日、「秀甫-安井算英3段(先)」、秀甫白番9目勝。 | ||||||
「中川亀三郎-秀栄(先)」、中川白番15目勝。 | ||||||
3.14日、「坊)秀悦-秀栄(2子)」、秀栄2子局中押勝。 | ||||||
4.4日、「坊)秀悦-吉田半十郎(黒)」、秀悦白番中押勝。 | ||||||
4.14日、「高橋Daizaburo(3p)-秀栄(先)」、高橋白番11目勝。 | ||||||
5.19日、「岩崎健造-秀栄(先)」、岩崎白番11目勝。 |
1867(慶応3)年 |
1.9日、明治天皇が、前年の末に父である孝明天皇が急死したため、まだ元服・立太子をする前の14歳で即位した。 |
1月、井上因碩宅で、秀甫が伊藤松和と組んで、坂口仙得-小林鉄次郎組と連碁を打っている。但し打ち掛けにしている。 |
幕末の女流歌人・大田垣連月尼(1791年(寛政3年)~1875年(明治8年)、享年85歳)の再婚夫の重二郎は、大変な囲碁好きで、碁ばかり打っており、日々の用務を怠った。婿養子であったため、離縁話まで出た云々の逸話を遺している。 |
10月、林秀栄(1852-1907)が林家13世を襲名する。 これにあたって秀栄から提出された書類や、それを受理した寺社奉行土屋采女正(うねめのしょう)(寅直)(1820-1895)が作成した書類等を綴じ込んだ冊子「寺社奉行一件書類 第45冊」が遺されている。安井家、本因坊家での襲名の前例や林家の歴代について説明する書類で、12世林門入死去時の服喪期間についてなど襲名の時期について細かいことまで記録されている。襲名を認める際の呼出状の回付ルートなど、幕府内での書類のやりとりの様子もうかがえる。なお、ここで林家を襲名した林秀栄は後に林家を廃絶し、本因坊を襲名して本因坊17世となり村瀬秀甫(しゅうほ)(のちの本因坊秀甫。1838-1886)に本因坊を譲る。 |
【幕末維新立役者たちの囲碁好き考】 | ||||||
明治維新の立役者となった政治家の多くは囲碁を愛好していた。これにつき、囲碁の専門棋士にして囲碁ライターとして稀有な値打ちを持つ中山典之氏の「囲碁の世界」(岩波新書、1986.6.20日初版)は次のように記している。
以下、この時代の主な打ち手を確認しておく。 大久保利通(1830〜1878)。「真実はいかに〜大久保利通の「囲碁で出世」の逸話に迫る」その他参照。薩摩藩は藩主の島津氏が率先して囲碁に通じていたので藩士まで囲碁が好きの者が多かった。大久保利通、西郷隆盛も碁打ちであった。嘉永元年正月四日の大久保17歳の時の日記に次のように記されている。よほどの囲碁好きであったことが分かる。
大久保の父・利世は御小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる家格の下級藩士で、藩主に御目見得(おめみえ)どころか藩の執政たちと直接言葉を交わすこともできない下っ端だった。利通は、1846(弘化3)年に記録所書役助として藩に出仕するが、4年後に起こった「お由羅騒動」で上司とともに謹慎させられる。島津斉彬が藩主になると復職し、そして、精忠組の領袖として活動し始める。1858(安政5)年の7月、島津斉彬が逝去。久光の子の島津忠徳(後の茂久、忠義)が藩主になった。それに伴い藩政の実権は忠徳の実父である島津久光が握ることになった。久光は自らを「国父」と呼ばせ、絶大な権力をふるった。ところが、 斉彬の父、島津斉興は忠徳が若年であることを理由に再び藩政を掌握した。御徒目付の大久保は島津久光が藩政を握ると読み、久光が囲碁が好きで吉祥院の住職・乗願(じょうがん)に習っており、吉祥院の住職が大久保の終生の友人にして同志であった税所篤の兄だったことから、大久保は税所篤(さいしょ・あつし)に頼み、吉祥院に囲碁を習い、久光が読みたいといった本に久光への手紙を挟み、国事の難や建白の文章を記載。それが久光の目に留まり、久光は大久保を1861(文久元)年、利通を御小納戸役に抜擢して家格を引き上げ、側に上がって碁の相手をさせるようになった。久光は大久保に度々碁の相手をさせており、「大久保と打つのが一番面白い」、「大久保はお世辞まけをせぬから面白い」の言を遺している。通説の「大久保利通は島津久光に取り入る為に囲碁を習ったという話がある」は、「上手い下手は別として、以前から大久保は碁打ちであった」ことを踏まえていない点で問題がある。 明治維新以降の大久保利通は、明治に入ってからも碁打ちに指導を受け、政治的能力のあったその碁打ちを参議にしているほどであった。伊藤博文、五代友厚、黒田清隆、松方正義等が碁敵で、1968(昭和43)年、日本棋院から名誉7段の免状が与えられている。 大久保は、生涯、碁を趣味とし、次男息子である牧野伸顕(まきの・のぶあき、後の日本棋院初代総裁)も次のように述べている。
岩崎弥太郎。囲碁好きは有名。彼の名言の一つ“自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。故に事業は必成を期し、得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ” 坂本龍馬。少年時代に田中良助{田中家は、坂本家所有の山(坂本山)の管理人}と将棋や囲碁を楽しんでいる。 大隈重信。「趣味に乏しい人だったが、囲碁は特別好きだったらしい」(岡義武「近代日本の政治家」)。囲碁好きで引越先を探す際、囲碁を持ち歩いて空き家が見つかると上がり込み、一日中仲間と烏鷺(囲碁の別称で、黒石と白石から来ている)を争っていたという話が伝わっている。武士、政治家、教育者(早稲田大学を建学)。政治家としては、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣などを歴任している。 市島謙吉「大隈侯一言一行」が次のように記している。
尾崎行雄の回顧録「咢堂回顧録」は次のように記している。
「大隈が見た元勲らの碁」が次のように解説している。
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(私論.私見)