囲碁将棋の棋譜著作権大手振り闊歩批判論 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).6.29日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「囲碁将棋の棋譜著作権考」をしておく。「Re囲碁・将棋棋院の著作権川下非適用精神の真っ当さについて」との併せ読みが良い。 2005.6.4日 囲碁吉拝 |
【著作権狂と闘う】 | ||||||
2005年頃、本サイトの冒頭で、「これは便利、プロの棋譜がネットで見られます。その心がうれしいやね」として推奨サイトを紹介していたところ、2014年1.22日現在、紹介サイトの殆どで「サイト消滅」、「ブロック措置」されており手習いできなくなっている。残ったサイトでも、辛うじて棋譜を見るには見られるがコピーをできなくしているものが多い。いつからかように措置されたのか分からない。何故にかようなことをするのか解せないが、こういうことをする馬鹿は死ぬまで治らん、死んでも治らんだろうなと思う。著作権登場の歴史的背景と意味の正確な理解を知らぬまま、単なる風潮に合わせて文明権利だの先進国権利だのと唱えながら著作権を振り回す芸当が流行っているが、愚頓愚昧である。そういう野郎野女は、事の本質に対する分別が曇っているから、学も仕事も経営も囲碁も決して上達できない。これを囲碁吉が請合っておく。 新聞社の棋戦の棋譜も見られなくなっている。これも例の著作権狂の為せる技であろう。その点、中国の棋譜は見られる。どちらがアホウかそのうちはっきりするだろう。著作権狂の無知蒙昧に汚染されている限り文化と云う文化が廃れることがはっきりしよう。本質的な意味でのアホウが人の世の上に立たないことを祈る。 知人が「囲碁 梁山泊」(2015玄冬号)をプレゼントしてくれた。何気なく読んでいると、森正夫氏の「囲碁データベースの構築(下)」に出くわした。気に入った箇所を引用(転載)しておく。
2014.1.22日 囲碁吉拝 |
【著作権狂の論理構造考】 | ||||||||||||||||||||||||
棋譜著作権は次のような問題を内包している。
「棋譜の著作権」については、大きく分けて次の5通りの態度が考えられる。
上記を念頭に棋譜著作権問題は囲碁の日本棋院と将棋の日本将棋連盟の対応振りを確認しておくと、日本棋院と日本将棋連盟では捉え方が少し違う。日本将棋連盟は、「1」の立場で「棋譜に著作権はない」としていた時期もあったが、次第に「3」の立場で「棋譜に著作権あり。但し権利行使を控えめにする」とし始め、最近では「4」の「棋譜に著作権あり。よって権利行使を積極的にする」と云う風に次第に強権著作権論に傾斜しつつある。但しスタンスが一定していない。 2012.2.22日頃、ニコニコ動画に投稿された将棋動画が日本将棋連盟による著作権侵害の申立により著作権侵害として削除される事例が発生している。 これに対し、日本棋院は、かっては日本将棋連盟同様に「1」の立場で「棋譜に著作権はない」としていた時期もあったが、一橋大学広報誌「HQvol.24」(2009年10月発行)の平本弥星六段記事によると、同氏は1998年に棋士会副会長になり、「棋譜著作権の問題を解決する為に棋譜の著作権は日本棋院に属せしめる。対局者は対局料を対価として対局棋譜の著作権を日本棋院に譲渡する。但し、原著作権は対局者にあり、自分の著書に使うという場合などは自由とする」ことを確認させることに尽力した云々。この頃より日本将棋連盟同様に「3」ないし「4」の立場に移行したものと思われる。 2016年4月時点の日本棋院HPの「棋譜データ・画像について」は次のように記している。
凡そ上記の如く変遷しているようである。世界的に見てチェスの棋譜に著作権はないとのことである。次のように解説されている。
なお、新聞社がスポンサーになることにより「掲載権」を主張し始め罷り通っている。「月刊棋譜」は勝手にプロの棋譜を売っているが連盟はこれを訴えてはいない。その他様々な問題が介在している。例えば、棋譜に著作権はないにしてもコメントがついたら著作権ありで、著作者の意向、了承抜きに利用ではない云々とする主張がある。これは、文章著作権の問題であるが、これも著作権法の指示する通りの著作者及び出典、出所の明示があれば足りる、仮に訴えられても親告罪であるとすべきだろう。 |
【れんだいこの棋譜著作権なぞ認めるわけにはいかないの心考】 |
「棋譜に著作権なし」の法理として、「棋譜は野球のスコアブックと同じ事実を記録(facts)しただけのもので著作権法で保護する対象にはならない」とするものがあるようであるが、私はこの説を採らない。もっと堂々と「棋譜は著作権に馴染まない。パブリックドメインとして公開されるべきである」とする法理を掲げて棋譜著作権を否定排斥すべきと思っている。通説化しつつある「棋譜著作権を認めた上での緩やかな規制論」は悪しき折衷主義に過ぎないと思っている。 その論拠はこうである。囲碁界将棋界の棋譜著作権導入史は、典型的なユダ邪商法である強権著作権論を業界内に持ち込んだだけの、業界の発展に阻害となる方向での負の歴史であるに過ぎない。よってこれに被れる度合いに従い業界が不活性化させられるようになる。そういう意味で、韓国、中国の棋院が強権著作権論を導入しないのは正しい。強権著作権論に被れて染められた日本は今や韓国、中国のはるか後方で子ども扱いされ始めている。これを改めるには、日本棋院が強権著作権論の汚染から逃れ棋譜の縦での歴史的共有、横での全人民的共有へ向けて鋭意努力し直す以外にない。あるいは裏技として韓国、中国の棋院に日本のそれよりもっとどぎつい著作権論を扶植し、容易なことでは棋譜がみられないよう仕掛けするしかない。 棋譜著作権立論の根本は、囲碁将棋界の隆盛に向けて有益なりしやと問うところから始めるべきで、さすれば棋譜の歴史的共有、人民大衆的共有の必要が導き出され、さすれば著作権なぞ入り込む余地のないことに気づく。棋譜著作権導入は、ジャスラック式音楽著作強権論に影響されたお調子もんが、訳のわからないままにあるいは一知半解のままに横槍入れているだけのことである。囲碁将棋界はこれまでもそうであったように不断に愛好者を量産し、愛好者、専門棋士の質を上げ、この量質のらせん的発展の流れの中で好況的運営を目指すべきで、それで足りる。その理想的運営が日本大相撲協会である。その昔、名横綱貴乃花が引退後に理事長ポストを狙った際、日本大相撲協会を前近代的経営批判していたが、これなぞは全くの逆裁定である。であるからして首尾よくは進展しなかったのも理の当然である。もとへ。「量質のらせん的発展」こそが文化発展の方程式であり、目先の金貨を追わないのが鉄則である。専門棋士の生活、棋院の運営は、この方程式の中で保証される。逆は逆である。� そういう意味では、日本のかっての棋道、華道、茶道等の家元制を見習うべきであり、僅かの会費を幅広く集めることで業界収入の基礎とし、その他様々な事業、イベント、業界用品販売等々で生計を立てるべきである。間違っても棋譜著作権なぞに染まるべきではない。それは丁度、本屋の立ち読みを禁止してハタキを持って立ち読み客を追い出す所為に似ている。立ち読み客は未来の本の購読者であるのに、それを追い出したらやがて尻すぼみするようになるのが道理である。本屋としては立ち読み客をも包容しながら売上増を目指すことこそ本懐とすべきだろう。 2017.2.18日 囲碁吉拝 |
2017.7.9日、「【将棋や囲碁の棋譜に著作権(著作物性)はないという傾向である】」その他参照。
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【棋譜著作権を廻る各界の見解】 | |||||||||||||||||||||||
2011.4.24日、「棋譜と著作権についていくつか(続)」参照。
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週刊囲碁2022.7.4日号12面の「議論!棋譜の著作権」を確認しておく。韓国の棋譜著作権問答史を記事にしている。それによると次の通りである。
4は次の通り。2016-2020年まで国会議員を勤めた曹薫*9段が「歌の場合、作詞・作曲への著作権が明示されている。しかし棋譜の著作権は韓国棋院で管理されているだけで、保護されないままだ」と指摘し、棋譜の著作権に関する法的枠組みを設けるべきだと発議したが、結論が出ず廃案となった。 問題は次のところで議論されている。
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(私論.私見)