囲碁名言、上達法、プロ篇2、近代以降

 更新日/2018(平成30).1.28日

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで「囲碁名言、上達法、プロ編2、近代以降」を記しておく。姉妹版は「別章【アマの石好み綴り】」。

 2015.1.9日 囲碁吉拝


【歴代囲碁&将棋名人の名言集】
升田幸三  「着眼大局、着手小局」。
 「錯覚良くない、よく見るよろし」。
高川秀格  「プロでも序盤が下手な人・中盤が苦手な人がいる。しかし、終盤が下手なプロはいない。終盤が下手ではプロになれない」。
藤沢秀行  「碁とは、勝負である前に創造であり芸術である」。
 「勝つから強いのではない、強いから勝つのだ」。
 「我々は碁において、どれくらいを知っているのか。神様が百としたら六か七だろう。本当は六か七もおこがましく、もっと下かもしれない。人間の頭脳が何万年かして進んで、百に近づいたときには、神様は千だったと分かるかもしれない。最近はますますそう感じる。碁打ちを五十年もやっていながら、何も分かっていない。ボウ然とするばかりだ」(秋山賢司「一碁一語№12」)。
 「起きているときの碁の勉強は誰でもできる。人より抜きん出るためには、寝ているときも碁を考えなければだめだ」。
 「強烈な努力が必要だ。ただの努力じゃダメだ。強烈な、強烈な努力だ」。
橋本宇太郎  「(どうやって詰碁をつくるのですかと訊かれて)碁盤に碁石を転がせば2つ、3つの詰碁はわけなくできます」。
趙治勲  「私はゴルフをするために日本に来たのではない。名人になるために来たのだ」。
張栩  「囲碁のように白黒はっきりつく世界に限らず、事業家でも芸術家でも、どこかで人生を賭けた大一番の勝負をしているはずです。一度は寝食を忘れすべてを注ぎ込む時期を経ない限り、道はひらけていかない」。
 「相手を尊敬することが、結果的には自分を強くする」。
 「プロとは全人生を賭けた負けず嫌いのこと」。
井山裕太  「負けて涙を流しているだけでは何万回打っても強くなれない」。

【瀬越憲作名言集】(「瀬越先生の著作より(1)」参照)
 瀬越憲作名誉九段の手談の最終章「碁の妙味」の一節。
 「最善を求むる態度には、みじんも欲があってはならない。なおその上自他の念を去って、局前人なく局上石なしの境地に入って、はじめて最善の手段が得られるのである。この境地に遊ばれる人は巧拙に拘わらず精進を楽しむといえる。碁が強くなるのはもとより結構であるが、むしろ碁道の幽玄を味っていただきたいことを私は希望する」。
芸に当たりては師に譲らざる意、碁において最も存すべし。
勝ちも以て貶すべき碁あり、負けるも以て賞すべき碁あり。
勘は経験の蓄積なり。
敵の心になって考えよ。
急功を求むる時は危うし。
形勢の上に勝つことを心掛けよ。
既に役を畢えば石を惜しむべからず。
敵を攻めて己れの地を作るは大得なり。
中押しの負といえども、その謂れあるは咎むべからず。一目の負といえども、その謂れなきは許すべからず。
10 既に之を好む、宜しくこれを学ぶべし。既に之を学ぶ、よろしく之を究むべし。之を究めんとする、宜しく深く慮るべし。
11 理の極、妙の致は師もこれを授くること能わず、弟子も受くること能わず。常習の際、自然に自得するを要す。
12 碁局は死物なれども之を打つは人に在り、人これを打ちて動静進止の間変化百出す、碁の活機活方茲においてか存す。
13 碁は肉眼を以て見ることなく、能く心眼を開きて洞察すべし。
14 碁道は一著の優を貴びて、貪婪(どんらん、たいへん欲が深いという意味)飽くなきを許さず。
上手は頭で打ち、下手は目で打つ。
上手はじゅうぶん考えて後石を下す。ゆえに、いかなる場合にも待ったをしない。
下手は打ってから後に考える。自然待ったをするようになる。
上手は孫子の兵法の如く、戦わずして勝たんと欲し、下手は戦って勝とうと思う。
上手は負けないことを信条として打ち、下手は取ることを目的として打つ。
上手は常に攻守兼備の手を選び、下手の着手は兎角その一方に偏す。
上手は先手を争い、下手は後手に甘んず。
上手は形と筋を貴び、下手はダメを詰める。
上手は捨て石を惜しまず、下手は一目も捨てぬ。
10 上手は累いの他に及ばんことを恐れ、下手は唯活きんことを欲す。
 善く敗るものは乱れず。昔中国の孫子の書いた言葉に、善く敵に勝つものは争わず、善く陣するものは戦わず、善く戦うものは破れず、善く敗るものは乱れず、という言葉が記述されているが、味わうほど意味のある字句だと思う。布石で争いをせずに堂々と勝つことが一番良いし、布石を有利に打ってあれば戦いをする必要が無く、中盤の戦いで<善戦して負けないのがその次ぎ、負けてもメチャメチャにならずに、終局に導くのは技量が無くてはできない。と私なりに解釈したが、私は終わりの句がいちばん良い字句だと思う。これは大家といえども、なかなかできないことである。

【岩本薫の囲碁訓話「5持つの勧め」】
 岩本薫の囲碁訓話「5持つの勧め」。
 「1、健康を保つ、2、目的をもつ、3、趣味を持つ、4、友達を持つ、5、お金を少々持つ」。

【坂田九段の「上達アドバイス」】
 まずは意欲を持つこと。基本的にいって、碁は教えたり教えられたりするモノでないと思います。自分で学び自分の力で強くなるというのが本筋です。無論ある一定のレベルの者にだけ通用する考え方ですが、意欲のない者に碁を学べといってもヌカに釘です。次に重要なことは置き石は多めに置くことです。ともかく自分が勝てるまで多めに置いて打たないと、上手は真剣に打って来ません。上手は勝ための、あらゆる手段を繰り出して来ます。これを凌いで勝つことが上達への基本です。最後は、苦労も楽しみのうちと心得て、努力なくして上達する方法がないことを肝に銘じておくべきです。アマ高段を目指そうというほどの人なら実戦にも棋書にも偏ることなく苦労しながら研究を続けることです。

【藤沢秀行・米長邦雄対談集「勝負の極北」より】
 「体調のいいときに戦うのは当たり前の話で、戦えないような状態でも戦える男にならないといけない」(藤沢秀行・米長邦雄対談集「勝負の極北」P53より)」。
 「対局するときだけが勝負じゃない。碁だけが勝負じゃない」(藤沢秀行・米長邦雄対談集「勝負の極北」P87より)。
 「戦って戦って戦い抜けと言っている。戦いを避ける技は、後になってからでも身につく」(藤沢秀行・米長邦雄対談集「勝負の極北」P93より)」。
 「楽しい思いだけで強くなれるはずがないんだ。自分自身が苦しんで、工夫しなくてはいけない」(藤沢秀行・米長邦雄対談集「勝負の極北」P108より)」。
 「いいと思ったことは、どんどん教えてしまう。その結果、若い人が強くなり、私が負かされても仕方ないではないか」(藤沢秀行・米長邦雄対談集「勝負の極北」P183より)」。
 「碁の神様がわかっているのが100だとしたら、私にわかっているのは、せいぜい5か6か、あるいはもっと下です」(藤沢秀行・米長邦雄対談集「勝負の極北」P186より)。
 「1000勝しても屁の足しにもならん」(藤沢秀行・米長邦雄対談集「勝負の極北」P198より)」。
 「プロというものは、ひたすら最善手を求めて命を削る、それだけなんです」(藤沢秀行・米長邦雄対談集「勝負の極北」P200より)」。

【宮本直毅の「相撲観戦論」】
 「闘争力を養うのに相撲を観る」。

【細川千仭の囲碁論】
 主筆・細川千仭九段は、囲碁雑誌「ざる碁」にこう述べている。
 「碁は戦いである。戦う者はまず頑強でなければならない。やせ細った身体で相撲はとれますまい。赤ちゃんおんぶして戦争は出来ますまい。一つ一つの石がすべて健康であるべきこと・・・碁は地も大切であるが、石を強くすること、厚く打つことであります。そしてその厚みを戦争に充分働かせることであります」。

【林海峰九段の「上達アドバイス」】
 「アマが強くなるためには、いい相手と楽しく打つこと。楽しいのが一番です。技術的には詰碁を沢山解くこ とでしょう」。
 「碁は相手が負けてくれるもの」。

【大竹英雄九段の「囲碁上達法」】
 「美しく打てば碁は勝てる」。

【石田芳夫九段の「必勝法」】
 「それは・・・絶対に勝ちに行かないこと、そして負けないように打つこと」。

【工藤九段の「チャレンジ・ザ・五段」】
 「工藤九段の囲碁講座 高段者特訓コース」。
 熱心に囲碁雑誌などを読んでも、なかなか三段から先に進めない人が多い。 四、五段の域に達するには、単なる「知識」の量ではなく、思考に大きな飛躍がなくてはならない。定石、手筋・・といった断片の集積を超えて、一本筋の通った碁の思想をもつことが棋力の飛躍的向上には欠かせないのです。

 強くなればなるほど碁の面白さは深みを増してきます。しかし、同時に上達することが難しくなるのも事実です。アマチュアも四段以上になりますと、数年かかっても半目程度しか強くならないのが普通です。では一体、何を勉強すればさらに強くなるのか。アマはプロの目から見た場合、味とか含み、利きといったものに鈍感です。自分では全局を見ているつもりでも、味消しの悪手が頻繁に出てきます。換言すれば、全体に目がいっていない、ということになります。実は、五段前後の囲碁ファン共通の壁、共通の欠点がそこにあるのです。あなたが今後、大幅に棋力を伸ばすためには、味、含み…といった思想に代表されるプロの高次元な考え方を勉強することが欠かせません。本コースはいわば「プロから何を学ぶか」を学ぶ画期的な講座といえるでしょう。

 ●テキスト(1):序盤構想と定石選択

 「中盤の力さえあれば何とかなる」といっていられるのは三〜四段クラスまで。強い人にかかれば、布石の段階で一本も二本も取られ、形勢不利にされてしまいます。石数の少ない布石の段階で、雄大にして柔軟な構想力により、局面をリードするよう心がけてください。定石選択では全局のバランスが肝要。碁は生き物ですから、部分の常識が局面によっては通用しないこともあります。その辺の判断の仕方、考え方をじっくりと学んでいただきます。

 ●テキスト(2):中盤・攻めの要諦

 布石は無難に打てた。むしろ優勢なくらい…でも中盤の戦いでおかしくなってしまう。そんな経験は誰もがあるはず。碁を地の取り合いと考えるか、生存権の争いと考えるかで、中盤の戦い方は違ってきます。当然、後者の考えの方が「心構え」の差だけ強くなります。 とはいっても、「最も効果的な攻め」は難しいもの。弱い石をカラミにして攻めるのが攻めの常識ですが、「どの石が弱く」「どの石が強いのか?」「攻めの時期は?」「攻めによってどんな効果があるか?」…あるいは、攻撃は最大の防御という場合もあり、プロでも悩みます。ここでは、攻めの様々なパターンを、形勢判断や構想力との関連から13テーマに分けて解説しています。プロの鋭く多彩な攻めのテクニックが学べます。

 ●テキスト(3):プロに迫る思考法

 プロとアマの最大の技術的な差は、「利き」「味」「含み」といったものを残すか、残さないかという点にあります。もちろん、ヨミそのものの力も雲泥の差があるわけですが、ヨミの出発点となる「思考法」が根本から違います。 この辺の違いを、アマ高段者のレベルに合わせて詳解しているのが本テキスト。プロの思考法を、「手順と含み」「狙いを見抜く」「相手の出方を見る」「プロの序盤構想」…など、全11のテーマに分けて解説しています。プロから何を学ぶか。上達のエキスがたっぷりと詰まっている全テキストの要といえるでしょう。

 ●テキスト(4):アマ実戦・悪手さがし

 「悪手」といっても、あなたに学んでいただくのは、「読み違い」や「ポカ」、「悪形」「筋悪」といった類のものでなく、もっと高度な悪手・疑問手です。このテキストでは、アマ強豪といわれる人たちの碁18局を例にあげています。アマトップクラスの碁を並べながら、良いところを吸収し、さらに悪手について考える。まさに一石二鳥の学習法です。 解説では悪手を3つ取り上げて、なぜ悪手か、どう打てばよかったかを教えていますが、指摘されているのは「石の方向」「働き」といった質的に高いもの、「流れを大きく左右する問題」で、中には悪手というには可哀想なものも含まれます。プロとアマの差がよくわかるはずです。

 ●テキスト(5):プロ実戦・徹底研究

 アマも高段者になると、総合的な力をつけるためには、プロの打碁を並べることが欠かせません。でも、漫然と並べるだけでは効果は期待できません。古今の名局を、その手順はもちろん、妙手や疑問手、様々な変化図にいたるまで正確に再現できるほどに何度も並べ直せば、1局の中にある奥深いエッセンスが知らず知らずのうちに、あなたの肌 に染み込んでくるでしょう。本テキストでは合計4局を詳解してあります。


【山部俊郎九段の「必ず強くなる勉強法」】
 プロに六子以上置く人: 先ず基本定石をマスターすること。互先の難しい定石はまったく必要がありません。プロに五子以下ぐらいになった人: 「見合い」の考え方を導入するのが上達のステップとなります。それから「生き死に」の基本知識を身につけること。プロに三子という実力者: 大型定石例えば大斜定石を間違わずに打てるようにすること。またこのくらい実力になれば、ある程度積極的に打つ心構えが上達のための要素となります。

【苑田流(関西棋院九段)の実戦必勝公式/考】
 「囲碁上達のためのアドバイス集」を参照する。 「囲碁上達のアドバイス」は、日本棋院発行の雑誌「棋道」の平成六年度の年間特集記事「高段への道」を要約したものです。
 自分の石が強くなり、相手の石が強くならない手を打つ。
 目のある石から地を作るのは能率が悪い。
 目のない石で地を作るのは能率がよい。  
 攻めるということは相手の石を逃すこと。  
 魅力のある石は攻めない。
 魅力のない石を攻める。  
 生きた石のまわりは小さい。
 相手の石がある程度強くなったら固める。  
 競り合いの場は厳しく打つ。  
 上を利かしてから下を利かす。  
 攻める石どうしをヒキツケて切る。
10  味方の多いところでは、相手の石を重くして攻める。
11  味方の模様が大きくなるように攻める。
12  味方の強いところに誘い込むように攻める。
13  模様が発展するように組み立てる。
14  スキは二つ以上つくる。相手のスキは一つになるまで待つ。
15  ツケれば自分の石も相手の石も強くなる。
16  相手の石にツケてサバく。サバキは石を斜めに使う。
17  味方の石が多いところで戦う。
18  アタリはなるべく打たないでおく。
19  二つ以上味があるところは形を決めない。
20  先手の手はなるべく打たない。

【小林千寿五段の「上達アドバイス」】
 
 やっぱり基礎が大切です。何でも、最初はその道のプロに最低三ケ月はつくと良い。よく習った通りに打つと個性がなくなるように思う人がいますが、基礎ができていない個性は単にわがままな手になってしまいます。強くなりたければ、なりたいほど基礎は大切なものです。豊富な基礎知識を得た後は先入観にとらわれることなく、それを自由な発想で使いこなすのです。

【淡路九段の「上達アドバイス」】
 碁を打って強くなる実戦派と本やテレビなどの媒体利用の書斎派。どちらに偏っても「高段への道」を意識するなら、上達は望めません。実戦ではどうしても得る知識の限界がある。そこで書斎派としての絶対時間の使い方が上達を左右するポイトとなります。書斎派としての学習は好きな棋士の碁を並べることです。結局最後にモノを行ってくるのは「筋力」です。何だかんだ言っても力のあるものが勝つのです。そのためには詰碁は欠かせません。

【羽根九段の「上達アドバイス」】
 強い人のそばにいて、いいモノを吸収すること。碁が強くなりたければ局後の研究が一番です。沢山打つだけでなく一局を振り返ることの大切さを知ることです。感想戦では「必勝手筋」は強い人のそばにいることです。いくら熱心に研究しても、棋力が同じレベルでは得るものが少ない。だだ、強いけれども筋の悪い人に教わるのは危険が一杯です。大切なのは細かい攻め合いのハウツウではなく、基本的な碁の考え方が重要です。まず自分より二子位上の人をぴったりマークして、やがて追い抜いたら、つぎの二子上の人について、これを繰り返して何人も踏み越えて行けば「高段への道」が意外と近いものですよ。

【小川誠子六段の「上達アドバイス」】
 「対局者の気持ちになって、プロの打碁を並べること」。

【三村智保八段の「ここを伸ばせばつよくなる」】
 「読む力を強くすること。そのためには、地なんて気にせず「戦う」ことです。元気よく、数手先を読むこと。素直に考えて、まず自然な手が大体は良いとしたも のです。失敗を恐れずに戦って戦って戦い抜くことです」。

【黄孟正八段の「上達アドバイス」】
 碁の上達法はいろいろ言われているが、私は一局の流れを大切にすることをお勧めしています。極端に言えば布石はどこに打ってもいい。ただし相手の石を攻めたい、模様を張りたい、地で先行したい、何でも構いません。一貫性を持って打ち進めてほしい。

【時本壱八段の「アマ棋士への助言」】
 アマチュアの皆さんに「いい失敗を沢山して下さい」と言っています。 囲碁では安全勝ちは殆どありません。むしろ安全に打つと「安全に」負かされるのが囲碁なのです。それならば負けを恐れずに、しかも負けた時に悔いのないように積極的に打つことをおすすめしたい。

【土井誠八段の「有段者への助言」】
 様々な囲碁の上達法が言われていますが、私はとくに有段者は「碁盤を広く見ること」がポイントだと思っております。部分にこだわると、形や筋にとらわれて全局を見る目を失ってしまうものです。打つ手に迷ったら、一呼吸おいて全体を見渡して下さい。どう打つかではなく、 どこに打つかを考えて下さい。

【王銘宛九段の話「どうすれば強くなれますか?」】
 アマチュアの方の質問に、いつもこう答えています。「強くなりたいのなら辛抱強く詰碁を勉強するのが一番ですが、囲碁を楽しみたいのならプロの実戦をならべることです」。

【安永一氏の「碁の上達法」】
 「安永一著 布石から中盤へ 囲碁・感覚で打つ より(元本は「囲碁初学読本」1948年発行)」の「第一章 碁の上達法についてよりの抜粋」。
 T氏の上達法

 私は、以上の事実から一般的に上達法を結論する前に、これも囲碁会館時代の一挿話ですが、T氏の上達法についてお話します。Tという人が一日私のところへやってきての話。「私はなんとかして碁が強くなリたいと思っています。実は私の田舎は碁が盛んな所で、私は月の半分を田舎、半分を東京の店で暮していますが、その田舎の私のうちの番頭が田舎初段で、私が四子でどうしても勝てません。なんとかしてこれに先か二子で打てるように、東京にいる間に、先生に就いて習いたいと思っているわけです。東京にいる間は多少時間の余裕もありますし、先生の所へお伺いしますから教えていただきたいと思います」という話でした。私は、以前から金にマカして先生を呼んで、いわゆるお相手をさせて得々たる少数の人々を、快く思っていなかったし、囲碁の真実に取り組む者の態度はそんな安易なものではないと考えていたものですから、T氏が私と打ちたいという希望を無下に退けたわけです。

 「T君、君は”僕と打ちたい"というのが希望ではなく"碁が強くなりたい”というのが希望ですから、一度ダマされた積りで、僕の言うとおりやってみてくれませんか」。私は次の六ヵ条をT君に話しました。
(1) 僕と打つことを断念すること(もちろん他の先生とも打たない)。
(2) なるべく下手と打って、上手と打ちたがらないこと。
(3) 碁を早く打つこと(約三十分で)。
(4) 番数も余計打つこと。
(5) 相手をヨリゴノミしないこと。
(6) いかなる局面でも、まず自分はどこに打ちたいかと考え、いろんな知識や記憶は第二義的に考えること。少なくとも、自分の最初の感じを反省する材料くらいにして決して知識や記憶に頼らないこと。

 これにはT君も参っだようでした。六カ条のどの一つをとっても、T君が日ごろ上達の方法として考えていたこととは反対であったからです。しかし、私は、「決して一年も二年もとは言わない。まず第一期三ヵ月、長くて半年でよいから辛抱してもらいたい。あなたが、いま私の言うところに反対して高段の先生を招いて一週一回時問をきめて打っても、三月や半年でそう急に強くなるわけではあリません。それなら、私の言うことを聞いて、かりにダマされたとしても三月の損ですからぜひ実行してほしい」と説得しました。

 不承不承、いささかならずフに落ちぬ顔つきで私の提案を受諾したT君は、その後毎日、暇のあるごとに私の囲碁会館へやってきました。そして、最初は半信半疑で打っていたものが、わずか一ヵ月もたたぬうちに、今度は自分が面白くなったものか、ほとんど毎日やってくるようになりました。以前は上手でなければ打たないとか、あの男は無闇に取りにきて品性下劣だから打たないとか、相手のヨリゴノミをしていたのがそれもなくなりました。だれとでも打つ、そして、以前には、初めての人に何子か置かせたら全然碁にならなかったのが、今度は、どうやらコナしていくようになりました。ことにT君は、カン所で考えるというのではなくノベツに長いので相手はイヤ気がさして打ちたがらなかったのが、今度は喜んで打つようになりました。また、以前は、碁を打っている態度でも、碁に強くなるために仕方なく打つというようなのが、どの一局も面白く楽しく打つようになってきました。こうやって最初の三ヵ月がすむころには五級くらいの碁が強い三級程度になってきました。「どうも先生不思議ですね。先生の上達法は、実行してみると、第一碁を打つのが愉快になります。しかも、確かに幾分上がってきたようです。しかし、碁が強くなるには、よい先生に就いて本筋を勉強することが悪いとはどうしても思われませんが」。T氏はしみじみ三ヵ月間の述懐とともに質問したものです。

 上達法決算

 以上において、一般に言われている上達法が実は非常に形式的であって、実行不可能であり、かりに実行しても効果のあまりないことを知りました。しかし、諸君の中には、このような断定を私の独断と考える人もあろうかと考え、以下に碁の強さということを多少分析的に展開しました。T氏の上達法(つまり、私が氏に教えたところですが)の六ヵ条もあらかた解答が与えられたはずだと思います。T氏はその後一年くらいの間に一級くらいまで上達しました。今はおそらく初段くらい取っているかもしれません。T氏上達法で述べました布石、定石の.記憶から離れるいう点は、元来が自分の感覚を主とすべき囲碁で、たとえ、定石、布石が名人の打った手であったとしてもこれを記憶してマネルだけでは意味がないことを意昧しています。次に、なるべく早く打つということも感覚養成の点から重大な意味があると思います。まだよく先のヨメない人が無闇に考えているのは、おかしなものだと思います。その人にはまだそれだけ考えるだけの素材がないはずだからです。そういう人に限って、急所で考えずに、どうでもよい所を考える。やることに感覚がないからねらいというものがない。ここは少し損をしても先手をとってあそこへ打ち込んでやろうとかいうようなたくましい意志がありません。

 さて、本を読み、研究する人の態度もまったく良師について勉強するのと同様であります。本の知識を自分が打つ場合の判断にするのはまちがっています。くだいて言えば、一本にはこう書いてあった、木谷はこう打ったということは、自分の感じではこう思うが、ほかの考え方もあるものだ、くらいに軽い気持でなければなリません。ただ、一手一手の手段ではなく、こういう弱い石はこんなふうに攻めるべきであるというような一般的なことは、なんとか早く自分のものにして、これを応用する心がけが必要です。このへん多少混乱される方もあるかもしれませんが、私の言うところの真意を汲んで、あやまりのないようにして下さい。本章"碁の上達法”は、読者が見られたごとく、非常に型破りなものになりました。しかし、これは、あえて詭弁を弄したのではありません。真からそう思っている次第です。T氏ならずとも、ひとつだまされたつもりで、私の言うところに従って研究してみてくれませんか。碁の感覚、碁のヨミは決して数学の順列・組合わせではなく、ひとつの感覚の鍛錬に外なりません。機会があれば変った人と打つことは、現実的な鍛錬の方法として最善の手段です。相手をより好みしないというのもT氏の上達法にありましたが、自分の嫌いな碁などというものがあってはなりません。だれとでもドシドシ打つことが、真理に取り組む者の大切なことです。囲暮の上達にとって、最も恵まれた条件は相手が多いということであり、そして打つ機会があるということです。いかに理屈をおぼえても、打たなければ強ならないということは不易の真理でしょう。
 「アマ・プロの社会学」。
 近頃各方面においてアマの抬頭著しく、それにつれてアマとプロの問題に関する論議が大分やかましくなって来たようだ。ことに碁の世界では昭和36年度は一方に名人戦がプロ碁界各種企画の決定版として登場し、今漸く後半戦に入ってきたが、かっての坂田、呉清源、高川、木谷等の独走体制はもはや昔語りとなり、現在の時点では坂田、藤沢秀行、橋本昌二等をトップに形勢は全く混沌たるものがある。アマ・プロと並称する時、それが専門職業か否かの区別だけなら、今日ほど大きな問題にはならなかったはずだ。即ち、各部門においてプロの力が圧倒的に強く、それが権威まで昇華されているのに対し、それと対比しては問題にならなかった、いや問題にならないと思われていたアマ界がそのプロの牙城に迫ってきたところに問題がある。

 大衆の英雄主義というか、悪くいえば事大主義ともいえるが、常に一人の超人を求める心理は、大衆自身の無力であるような社会の逆表現とも見られるが、日本のように真実の意味で政治がなく、ただ上からの統治によるような社会ではこの大衆の傾向は強くなるのである。これがファシズムの一つの温床になったことは前の世界戦争勃発の契機となったことでも既に語られたところ、ファン大衆は一人の英雄を求め、その超人的な魔力の空想に酔って自己の無力への憤懣をいやしているのだ。

 その意味において英雄待望の心理は、大衆行動の無気力の反映ともいえるし、いわゆる阿片に陶砕する弱さともいえるであろう。しかし、このような分析は別にして、やはり英雄待望は人類の稀少価値、それに向っての向上心とも結びついているいい面もあり一概に否定さるべきでないし、また否定できるものでもない。ただ英雄主義の行きすぎは明らかに頽廃への末期的現象と見るべきであろう。英雄主義の一面である個人の価値の蔑視の中に、その個人の生産によって発展する杜会の健全な成長は望まれぬからだ。

 アマ・プロの問題も既にふれだように単なる職業非職業の形式的な差別でなく、既成権威の崩壊として見る時、今日大きな関心を持たれる原因があると思う。その意味において、昨年末柔道の世界選手権戦において、日本のベテラン連中がオランダに敗れ、また昨年の中頃世界の王座を誇っていた卓球で新中国に叩きのめされた時の日本の表情は、既成権威の過信の上にアグラをかき、夜郎自大になり切っていた愚か者の横顔でもあった。このような権威主義が保守的に流れるのは当然のことで、その保守性が当該社会の自由な発展を阻碍する。殊にそれが、勝負の世界となると、そのような権威はモノにもよるが年齢的な限界もあって永続する筈がない。そこでこれ等少数の権威が下からの盛りあがる自由な発展をおさえ、その生活を守るためにも自己の権威の保持を必要とする。そのような社会なるが故に、またその権威を売りものにする安易な-労力を払わずして利益を得る-生活方法を考え出すのである。

 今碁の世界に話を戻して考えると、保守的な権威を守るシクミが現在の段位制度であり、権威を売物にするのがファン大衆に出している免状とその料金だ。つい先達っても面白いことがあった。酒井8段が、三社連合の選手権戦で高林初段に互先で敗れた。中堅の大窪7段が2段の安部(ママ)少年に同じく互先の先番で負ける。このような現象がメッタにないように見えるのは、段位制度のワクが上下の自由な交流手合を阻碍しているからで、もし野放しに上と下とを打たせるなら、このような現象はのべつ起る可能性がある。これは筆者一人の独断でなく、棋士自身がそう思っている。藤沢秀行が「今の若い連中の少し骨っぽいところは、僕等より弱いなどとは思えない」と語っていたが、僕もそう思っている。

 現在各種の選手権戦その他で勝ちさえすれば、下からのノシ上りも可能ではある。しかし、それはあくまでも可能性に止まり、若い連中が話していたが、「そりゃ宝クジに当るようなものですよ」という自嘲の通りあり得べきことではない。というのは、第一に常に打ち合っていて、もはやその一局に何の感激も伴わぬ。更に手合料なるものが上下の差が格段にちがっている。初、二段連中が、一局干円程度として上の方で最高13万円といえば、これだけでも碁に対する情熱は失われ勝ちだし、現実に1局干円で、1週1回・月4局で、これだけに没頭して月収4干円也ではメシが食っていけない。だから、現在の段位のワクによるシード・システムをやめるなら、今の酒井8段、大窪7段の敗戦例なんかドンドン出て来るはずである。ともかく権威社会が崩れつつあるのは確かだ。かりにアマ棋界で権威といえぱ昔は僕だったが、結構菊池にも村上にもやられている。その菊池の王座も村上や青森の鳴海、さらに愛媛の豊田が破っている。呉清源、木谷の権威も既になくなり、今は坂田一人が権威のために気を吐いている感じだが、かっての呉清源程の厚味はない。

 ただ、囲碁界に残る権威主義の残骸とも見られるものが、このアマ・プロにおけるプロ権威だけとなった。しかもそれが今日随所に崩壊の兆しを見せているのだ。昨年末、藤沢朋斎君が平田博則の先番を打った。前に二子番をやられている時の約束で先番を打ったのだが、これはさすがに藤沢が強く平田を破っている。その帰り道の話だが、平田君と同行した読売の山田覆面子に平田君が、「藤沢さんはやっぱり強いですねえ」と話したそうだが、当の山田覆面子が僕に、「平田さんが先で藤沢9段に負かされて相手をホメルのも、昔なら先なんかでアマが向ったって間題にならんという気があるからおかしい気がするが、今平田君が負けて藤沢9段を強いというのがちっとも異様に聞えないだけにアマの実力が充実したともいえる」とシミジミ語っていた。

 また藤沢秀行君のようにプロの若手連中の抬頭をはっきり認めている者もあるし、梶原7段のごとき、「菊池、村上等がブロに勝ったってちっとも不思議じゃない」と思っている者もある。専門家は自己の権威をまもるために口を開けぱ先のちがいが絶大であり、二子のごときは碁でないようなことをいうが、よく考えるとこれはおかしい。碁では互先というノオ・ハンディの勝負があると思っているが、実際にはどちらかが先で打つことであり、碁の勝負において一番ハンディの少ないのが先であり、その次は先二、先々二などとこまかく刻んで見ても、打つのは結局は二子の碁に相違ない。だから、二子でかなわんということなら次は先で打てぱよいので、何も碁でないの、お稽古だなどとフンゾリかえる必要はない筈だ。

 ただ一言つけ加えておきたいのは、アマ資格の問題だが、これも机の上でいくら考えてもラチのあく問題ではない。要はその時の社会情勢がきめるわけだ。アマとプロの別は、競技そのものの理念としてとりあげねぱならぬという考え方もある。即ち、プロは職業として生活のために競技するが、アマはより高い-自己の直接の利得を伴わぬ-見地からやるその違いである。現在のアマ・プロの別は19世紀末にイギリス、アメリカ等が競技資格をきめたものをそのまま踏襲しているというが、これが今日までつづいて来たのは、泰西の先進国である米、英の繁栄期にあだり、規定の変更を必要とする社会的要因が起らなかったからだ。いつだったかもふれたが、もしこれが日本のように庶民生活の程度の低い国では、民衆は自己のあらゆる能力を生活に利用しなけれぱならぬから、アマ・プロの差別などできる筈がなかった。しかしながら、アマ・プロといっても競技に関するものだから、筆頭随一の英雄を求める心理に変りはないし、これが一堂に会して競技することが悪いというはずはない。野球、相撲、その他碁、将棋の世界でプロとアマが峻別されていたのは、その技倆に格段の差があって対抗の意味が成立しなかったからだが、マスコミのスタアシステムが象徴するように、ブロ・スタアに重心が置かれて、そこにプロのギルドが自己の特権の中に安住していたわけだ。

 碁の世界でも同じことだ。専門棋士、殊に段だけが上りつめて九段のところで犇(ひし)めき合っている特殊な人達だけが囲碁界の利益を独占している現状は、碁の技術の発展のための好適な土壌ではない。先達っても若い棋士連中と座談会で同席したが、彼等の曰く、「今、日本棋院の収入でメシが食えるのは、読売名人戦に参加して1局十数万円を取っている十人程の人達だけで、他の者は8段だって決してラクではない」といっているが、さもありなん。こんな状態だから、時の人気者も二、三局連敗でもすれば、すぐに収入が激減して明日の米塩にも窮することになろ。それ故に、権威が自己を守る立場に立つこともうなずけないではないか、このことが囲碁の技術の向上を阻碍することになれば考えなくてはならぬというわけである。

 とまれ、そのようなブロ界の内部事情によって囲碁界全体が左右されてはならない。かくて、現在のアマ棋界の実力の向上が大きな圧カとなって噴き出して来たのが現状である。アマが盛んになれぱ一プロもこれに比例して盛んになるというのが常識だが、今の闘碁界みたいにプロのギルドが先行して厖大にフクレあがったような碁の世界では、プロがアマの抬頭を力で抑えようとする。それ故に、一般常識とは別に、現象的にはアマの発展がプロと対立する感を呈することが間々存在する筈である。即ち、発展の様相としては若干破行的ではあるが、これが日本囲碁界の現実の姿を露呈しているのではあるまいか。(昭和37年1月号「囲碁春秋」所載)

【その他金言】
 林道義囲碁の心理学的上達法」その他参照。
一ッ  変わった手、勝負手を打たれたとき、揺れ動く心は大敵。棋力パワー全開で対処せよ。
一ッ  打ちたい所へのびのびと打つ。心の声、盤の声に耳を傾けよ。
一ッ  相手の乱暴にひるむな。正義は我にありと信じ勇気を持って対処せよ。
一ッ  怖くとも、踏み込め敵の奥深く。
一ッ  石は縮(ちぢ)まず、力まず、柔らかく、ふっくらと。
一ッ  相手をナメてはいけない。強いと思って慎重に打ち進めよ。
一ッ  布石の下手をあなどるなかれ。
一ッ  鹿児に負けた悔しい気持ちはすっぱり捨てよ。復讐心は禁物。
一ッ  アセリは禁物。失着の尾を引かせてはいけない。
一ッ  トドメは必死に読みきって。キメどころで読みきれ。
一ッ  金持ち無用に稼がず喧嘩せず。味悪直して万全の寄り切り目指せ。
一ッ  勝ったと思うな終わるまで。「勝った!」と思った途端にスキが生じる。





(私論.私見)