“囲碁はどうしたら強くなるか”囲碁を覚えた人は誰しもその方法を得ようと人に聞いたり、自分で試行錯誤するもので、私も初段の頃出張の帰りに電車の中で会ったアマの県代表クラスの人に「どうしたら強くなるんですか」と聞いたことがある。そのときはほほえみを浮かべてだまって回答をもらうことができなかった。また、5段のころ、あるこれも県代表クラスの人に同じ質問をしたことがある。このときは「NHKの対局をビデオに撮って2回見ること」と言われた。プロの多くは詰碁を勧める。さて、ここに「一般的アマの上達の軌跡」として私のたどってきた囲碁の関わりを記したのは、上達しようと思われるみなさんに一つの参考としてもらえればと思ったからである。
18才のときである。同じ部屋の野口が「碁、知っとる?」と聞いてきた。囲碁は中学のとき中学校の宿直の先生からルールを教えてもらった程度であったが、知ってることには違いがないので、「うん、知っとる」と言ったら「では、やろう」とどこからか碁盤と石を持ってきた。いざ始めてみると、敵はピョンピョントんでくる。今の一間トビである。こちらは石をくっつけてノビることしか知らない。当然のことながら大負けである。
そのことがあって悔しいので次の日に本屋に行って碁の本を探した。坂田栄男本因坊の新しい定石と中盤の攻めとシノギだったと思う。授業中も隠れて見るくらい一所懸命だったので、すぐその野口には勝てるようになった。 学生寮から歩いて30分のところに日宇という小さな町があって、そこに碁会所があった。古い民家の二階で、そこに顔を出すようになって2年後には1級になっていた。大会でもらった優勝賞品の小瓶のビール半ダースをズボンのポケットやら上着のポケットに入れて寮に持ち帰ったことがある。寮は酒、たばこは禁止されていた。一番南の棟の四階の自室に持ち帰り悪友たちとこっそり飲んだ。空き瓶は捨てるところがないので窓から隣の工場跡地の空き地に投げ込んだことを覚えている。よくそんな悪いことをしたものだ。今思うと冷や汗が出る。そこの席主に君は三段にはなれる、と言われた。その頃の三段は今の五段くらいだろうか。あまりうれしくなかった。
学生時代は高専なので卒業は20才だが、卒業するまで「囲碁クラブ」の入段試験というのに毎月応募した。あれは当選すると初段の免状がただでもらえることになっていて、なんとか当たらないものかとずっと続けたが結局当たらなかった。社会人になって本州の静岡県磐田市の工場に配属になってそこに住み着くことになるのだが、会社に入ってからは「磐田囲碁クラブ」に数回行った程度でやめてしまった。辛気くさい、暗いというイメージがあるし、女の子にも縁がないし若者の遊びでない雰囲気があった。
結婚してしばらくして、また始めた。1年ほどたったころ日本棋院の月刊誌「囲碁クラブ」の入段試験に当選して免状が送られてきた。かっこいい!黒縁の額を買ってきて飾った。そうこうして4年ほど続けた。二段くらいになった。32才になって岡山に転勤になった時点で中断した。新しい工場の立ち上げで仕事が忙しく、また囲碁の環境もなかった。
囲碁を再開するようになったのは6年間いた岡山から一旦磐田に帰ってきて、再度単身赴任で1年間岡山に出向したときからである。一人で岡山にいてもやることがない。岡山で終わりの半年は結構熱心に勉強した。備前市には碁会所がなかったので、休みの日には岡山まで車で40分「囲碁の学舎」という新しい碁会所に通った。磐田に帰る頃には三段で打っていた。
本格的にやってみようと考えたのが、45才である。あと2ヶ月で45才の誕生日を迎えようとした新年、一番下の息子の少年野球が終わって土、日曜日が自由になった。「どれくらい行くものかやれるだけやってみよう」と考えた。会社の昇進も先が見えてきて、一生を終えて死ぬときに、何かやったというものがほしいと考えた。今から世間並みに自分にやれるものは何だろう、と言えば思いつくのは囲碁しかなかった。
本格的にやってみようという意味は、とにかく時間があれば囲碁の勉強に費やしてみようということである。それまでは勉強はしたがそこまでのめりこんだことはなかった。会社から家に帰って寝るまでの時間、通勤している車での信号待ちの時間、トイレでの時間を囲碁の勉強に利用した。というよりあえてそうさせてみたというのが正しい。通勤での信号待ちのときに詰碁など見ていると、つい運転も片手運転になり、さすがにやばいと思い最近はやめている。トイレの時間は今でも継続していて、趙治勲の基本詰碁辞典は2回目だし、前田の詰碁の本(上、中、下)も、藤沢秀行の手筋辞典(上下)その他1日1ページくらいしか読めないが毎日のことでもありいつの間にか進んでいる。詰碁はきらいだった。囲碁クラブについてくる次の一手の問題は詰碁となると中級の問題までくらいで上級、有段者となるととても分からなかった。本当に1,2級の人がこんな問題を解けているのだろうかと不思議だった。
45歳の年末、年賀状に目標を書いた。「1年で1子強くなる」。みんなに公言することでプレッシャーを自分に与えようとしたのだが、それについてどうのこうの言った人はおらず何か拍子抜けした。1年後、1子強くなって4段、2年後2子強くなって5段。この辺までは順調だった。アマチュアの場合、何をもって段位をいうかというとむずかしい。日本棋院の免状をもっていうかというと、現在はもっている人が少なくあてにはならない。この会では優勝したから次はxx段で打ってもらいます、というパターンが多い。そうすると、こちらでは5段、あちらでは7段というのも出てくる。
浜松囲碁センターで毎月第1日曜日に月例会があった。優勝か準優勝を2回すれば昇段という規定になっていて、それが励みになって毎月挑戦した。Aクラス40名くらいの中から上位2名に入ろうとするのだから結構きびしかった。そこで5段になったころ、ルール改正があった。点数制になって、勝つと1点上がり、負けると1点下がり、規定の点数になると昇段するということになった。昇段すると点数が下がっても降段することはない。
この時期からインフレになったのだろう。優勝、準優勝して6段、それから1年少しで、準優勝して7段になった。自分が強くなったわけではないのに昇段してしまうというのはあじけない感じがしてそれからは行っていない。それなりに自信ができたら再挑戦してみようとは思っているが。
囲碁の上達に欠かせないのは実戦である。従来は碁会所に行くか、あちこちで開催される大会に参加するしかなかった。いい碁会所があればいいがなかなか適当なところがない。そういう中、コンピュータを使って対局ができるサークルができてきた。NTTのパケット通信というつないでいる時間に課金されるのではなく、1パケット、つまり1手1円くらいで対局ができるようになっている。その中で費用の安いサンサンネットを選んだ。ちょうど5段程度になった48才の1月(正確には3月が誕生日なので47才と10ヶ月だが)に入会した。月に30局くらいのペースで打った。300局も打つ人がいる中多い方ではない。入った当時は会員が300人くらいで「談話室」では毎晩囲碁談義が花盛りだった。その当時だからこそだろう、常連の人と友達になることができた。あと1年もすれば1000人は超えるよと言っていたのがなつかしい。もう2000人くらいいるのだろう。しかし、「談話室」はたまに覗いてみても閑古鳥が鳴いている。談話室の席主がいなくなって、覗いても誰もいないと出てしまう。今更ながら、席主が待ちかまえていてくれたのが貴重だったと思い知らされる。
サンサンは点数制になっていて、1回勝てば1点上がる。負ければ1点下がる。点数を上げようとみんながんばるわけである。サンサンはタイムラグがない。打ってすぐ反応があるため実際の対局と同じように落ち着いて対局ができるし、秒読みになると女性の声でカウントしてくれるので対局に集中できる。今はADSLで常時接続なのでインターネットから対局しているが、まだ会員の大半(?)はゲーム機で対局されているので、システムの改革が進まない。このままでは逆に会員の数は減っていくのではないかと心配している。
サンサンには通常の対局のほかにリーグ戦があって毎週決まった曜日に対局する。2ヶ月間で8局打つのだが、あらかじめ事務局の方で相手を決めてくれているので、都合が悪いときは相手に事前に連絡をとって変更してもらう。電話で連絡することが多いのだが、電話口に出た奥様とかお子さんの会話の様子でどんな人か分かるような気がして楽しい。そうこうしているうちにお互いに親しみを感じてくるようである。リーグ戦は真剣勝負である。成績優秀な人には賞品が出る。互先なので、強い人に当たった場合はきびしい。しかし、それが大いに勉強になった。
囲碁の本は初めからよく買った。月刊誌以外に200冊くらいあるだろうか。買うときは時間をかけて、気に入ったものを普通1冊買うが、たまにどちらともつかずに2冊買うこともある。買ってすぐ読んでしまえればいいが、通常はつんどくことが多い。それでもおよそ目を通しただろうか。月刊誌は日本棋院の中遠支部に入会している関係もあって「囲碁ワールド」は毎月送られてくるが、あまり活用していない。他に「囲碁研究」を購読している。こちらの方は大体全体を読む。読者のことをよく配慮した編集がされていて、その点で気に入っている。懸賞問題は翌々月に全国応募者の得点が掲載されるので、それが楽しみである。100点をいつも狙っているのだが、取れそうで取れない。この5年間で1回あったきりである。月刊「囲碁」は好きだった。しかし、「囲碁ワールド」、「囲碁研究」、それに「週間碁」があればとても読み切れず、1年くらいでやめた。あの対局細解は解説が詳しいので良いと思う。最近のものは編集者が替わられて少し物足りない。も少し強い人が担当して欲しいという気がする。(と書いたが、最近また強い人に替わられた)
最近はコンピュータの前に座っていることが多い。対局もそうだが、碁盤に向かって棋譜を並べるのをソフトを使って入力している。その方が2回目以降は探さなくて良いからよけいな時間がかからない。その点でいい。(といいながら、再度見ることは少ないのだが)大会の決勝戦とか、プロの指導碁とか家に帰って記録のために入力しておく。棋譜を入力するだけではなく、そのときに検討された変化図、コメントも同時に入力できるから良い。呉清源の昭和の十番碁を磐田市の図書館から借りて二十数局解説もすべて入力した。非常に残念なことにコンピュータのHDのトラブルで消滅してしまって残っていない。しかし、少しは頭の端っこに残っているのかもしれない。
強い人に指導碁を打ってもらうのも囲碁上達の上で有効だろう。45才の頃は中遠地区で一番の日比野さんによく打ってもらった。日比野さんは昼間働いて、夜碁会所を開いていた。そこで4子局の指導碁から3子局まで打ってもらった。今はすでに碁会所もやめられているので、それっきりになっている。50才になった年に、中国プロ棋士の梅艶さんが「囲碁サロンめいえん」を開設されたのを期にそちらに通うようになった。3子で打ってもらっているが、なかなか入らない。対局が終わって検討をやってくれるのを家で反省しながらコンピュータに打ち込む。
下のグラフ(割愛/囲碁吉)は棋力の推移をサンサンの点数を基に段位に替えてグラフにしたものだが(サンサンの前は当時の大会での段位)、45才から3年くらいは毎年1子上昇しているがそのあとは鈍化している。今アマの7,8段くらいで打っている先輩がいるが、「同じ勉強しても先輩の実力だと伸びる量はわずかでしょうが、我々程度だと先輩の数倍は出るはずですよ」と4段のころ言っていたのを思い出す。
現在もどうしたら強くなるか模索しながら勉強しているわけだが、振り返ってみてまとめてみると、
1.強くなりたいと常に思っていろいろ工夫しようとする気持ちをもつ。結局これがすべてではないか
2.詰碁を解く。やさしいものから始める。2,3手先になるとあれ、どこに打ったっけとぼやけていたのが薄れなくなる・・・ヨミが正確になってくる。これは確かに効果がある。詰碁はきらいだったがそうでもなくなってくる。
3.実戦。
4.本での勉強・・・なかなか記憶に残らないが、感じることが大事なのではないか、感動できればもっといい。
5.定石。囲碁の定石はご存じのように絶対的なものではない。一昔前は定石とされていたものが現在では考え方が進歩し、片方が不利という認識に変わり打たれなくなっているものも多い。定石は勉強しなくてもよいと極端に走るのではなく、手筋を駆使しているので手筋の勉強と思ってやればいい。
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