石好み(4)、囲碁上達法2

 (最新見直し2015.1.9日)

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで「石好み(4)、囲碁上達法2」を記しておく。

 2015.1.9日 囲碁吉拝



【「安藤邦男氏の囲碁論」考】

 「人生を囲碁にたとえれば ー囲碁人生論ー       安藤 邦男」(「囲碁と人生」)という小エッセイがサイトアップされている。これを転載しておく。

 一年ほど前のこと、所属するある囲碁会の懇親会の席上で、議論が持ちあがったことがある。ある人が「人生は囲碁に似ている」といい、出席者の多くがそれに同調した。ところが酒席には、むやみとからむ人間がいるものである。その男、「いや、そうではない。囲碁のほうが人生に似ている」と主張してゆずらない。両派に分かれて侃々諤々、議論は果てしなく続いた。結局、「どちらにせよ、同じことではないか。囲碁と人生の間には大きな類似関係があることは確かだ」ということで決着がついた。そのとき話されたいくつかの論点に、日ごろ自分なりに考えていることをつけ加えて、まとめてみることにした。題して「囲碁人生論」である。

 テレビの小中学生全国囲碁選手権戦を見ていつも感じることだが、盤面から見る彼らの緒戦の戦いぶりは専門家のそれと見分けがつかないほど立派である。解説する棋士も、非の打ちようがないと褒めていた。しかし、それにはわけがある。というのは、一局の囲碁の打ち始めは専門用語で「序盤」と呼ぶが、ここでは定石の力が大いに物をいう。「定石」をしっかり習得しておけば、序盤に関するかぎりある程度までは立派な碁が打てる。だから、定石とは人生における「読み、書き、そろばん」のようなものだといえる。「少年期」にこの基礎的能力を十分身につけておけば、その後の教育の場で大きな成果を収めことができるし、社会に出てからもそれなりに役立つ。

 ところが、「中盤」になると、事情は違ってくる。ここでは、定石はもはや無力である。地を取るか、勢力を張るか、戦いを挑むか、妥協するか、すべては緻密な読みの力と、全局的バランス感覚と、それを実行する決断力とにかかっている。ここで、棋力の差が歴然と現れてくる。人生でいうならば、自立する「青年期」から働きざかりの「壮年期」にかけての時期にあたる。この時期、就職、結婚など、いくつかの関門をくぐりぬけると、人は会社や家族のために身を粉にして働く企業戦士になる。そこで物をいうのは、専門的知識・技能、先を読む力、仲間との協調性、そしてそれらを可能にする体力と決断力である。

 さて、中盤が過ぎると、いよいよ「終盤」になり、「ヨセ」の段階に入る。戦いは終わり、すでに大勢は決している。ここでは相手の地を少しでも減らし、自分の地をわずかでも広げるという、地味な陣取り合戦がつづく。いうまでもなく、ここは人生でいう「高年期」である。そろそろ引退を考える時期か、すでに引退して余生を楽しんでいるころである。いまはただ、これまで築いてきた己が城を現状のまま維持し、それを子孫や後輩に伝える仕事が残されているだけである。

 こうして眺めてくると、囲碁においても、人生においても、いちばん重きをなすのは中盤であり、青・壮年期であることがわかる。人生の青・壮年期は、時間的にも一生のうちの大半を占めるし、ここでの生き方如何がその後の人生の幸不幸の決め手となる。同じように囲碁でも、中盤戦は勝敗の天王山をなすところであり、それだけに碁を打つ楽しみ、醍醐味はここを措いてはほかにない。

 中盤はまた、人の性格がもっとも現れるところである。人は戦いのとき、本心を露わにするもの。性格だけでなく、好き嫌い、価値観、主義主張など、いうなればその人の個性が如実に顕れる。多彩な個性が限られた盤面に凝縮して表現されるという意味で、一局の囲碁はまさにひとつの芸術作品と呼ぶにふさわしい。

 芸術作品といえば、文芸の歴史に発展史観なるものがある。古典主義から浪漫主義が生まれ、やがてそれは現実主義に移行するという図式である。ここで自分の囲碁の経歴をふり返ってみると、あまりにもこの図式どおりであることに気づく。文芸の発展段階説は、人間の成長段階説にも当てはまることを知って驚いている。

 すなわち、20代のころ、わたしは「囲碁は調和」であると説く呉清源九段や「囲碁は美学」だと主張する大竹英雄九段などに惹かれ、彼らの棋譜を並べて勉強したものである。その形式美を愛する棋風は、文芸でいう古典派に通じるものがある。一方、形式や実利にとらわれず、ひろく中原を目指す武宮正樹九段や苑田勇一九段の「宇宙流」、それにひと頃の藤沢秀行九段の豪放な棋風などは、夢を求めるロマン派の名に値する。働き盛り、打ち盛りの壮年期、わたしはこのタイプの碁に熱中した。

 この流儀に対照的なのが、地に辛く、実利を追うタイプの石田芳夫九段や趙治勲九段である。その堅実性を考えれば、現実派と呼ぶのが相応しい。この人たちが本領を発揮するのは、中盤よりむしろ終盤の「ヨセ」である。「ヨセ」では、人は多少ともレアリストになるものである。人生の終盤で、わたしはいま自分がこの派に近いことを痛感している。

 一局の碁と人の一生はかくも似ている。しかし、そこには大きな相違もある。囲碁は、一目の違いで勝敗を決する厳しい戦いであり、ときには試合半ばの「中押し」で勝敗を決することもある。しかし、人生はもっと大らかで、ゆったりしている。それは1目や2目の違いにはこだわらないし、10目や20目の差があっても勝ち負けを云々することはない。目の数の価値は人によってそれぞれ違う。たとえ1目の地しかないときでも、相手の10目の地に匹敵することもある。「長者の万灯より貧者の一灯」である。

 わたしはいま、高年期に入って、これまで打ってきた人生の囲碁を目算している。勝ち負けはもはやどうでもよい。途中で投げるほどの大敗を喫することもなく、これまで打ってこられた仕合わせを味わっている。そして、終局の前に何とか自分の棋譜を残したいと思っている。

 人生の棋譜とは、いうまでもなく自分史である。  (平成16年10月21日)

【「武宮棋士の名言」考】
 「勝負も人生も「直感を大事に」囲碁棋士・武宮正樹が勝利のコツ語る」(2012年5月27日)を転載する。
 [映画.com ニュース] 「アンダーグラウンド」のミキ・マノイロビッチ主演「さあ帰ろう、ペダルをこいで」のトークイベントが5月27日、東京・シネマート新宿であり、囲碁のプロ棋士・武宮正樹氏が登壇。同作で重要な役割を担うボードゲーム“バックギャモン”と囲碁の共通点やゲームの醍醐味を語った。

 幼少期に両親とともに共産党政権下のブルガリアからドイツへ亡命した青年が、事故で両親と記憶を失い、再会した祖父とともに自転車で祖国へ戻る姿を描いたロードムービー。青年はかつて祖父に習ったバックギャモンを再び教わりながら旅をすることで、記憶から失われた自身の人生を見つめなおし、家族の絆を取り戻していく。「病気や事故で脳に損傷を受けた人が碁をやると回復が早いと言われています。囲碁と同様に1対1でやるバックギャモンにも不思議な力があるのでは」と、劇中のバックギャモンの使われ方を分析する。武宮氏は趣味でバックギャモンをたしなんでおり、こちらもプロ級の腕前。昨年の大会で国内最高位を獲得している。

 勝負に勝つコツを問われると、「自分が感じたままにプレーしなさいと言うんです。変化は無限で、答えが出ない場面がいくらでもある。だから人間は直感を大事にしなければ。考えすぎると不安が増して、失敗することが多い」という。そして、「バックギャモンも無限の広がりということでは囲碁と共通します。たかがゲームですが、相手がいて深いものがある。遊びの中には生きた知恵が詰まっているので、遊びから学ぶことが大事」と、プロならではの含蓄ある言葉で観客を感心させた。


【囲碁上達法】
 詰碁と棋譜並べは大して上達の役に立たない(11)」 を転載しておく。
 ※囲碁上達法のウソ

 そんな話から入ったのは、非常に眉唾な囲碁の上達法をプロ棋士が勧めていると思うからである。「詰碁とプロの棋譜並べ」をプロが勧めるのは、おそらく多くのプロがそう言っているから無難であること、それより基本的で大事なことが自分たちにとってあまりに当然すぎて盲点になっていること、プロの棋譜を買ってもらわないと商売にならないから、の3つの理由からだろう。私は以前からこの上達法に疑いを持っていた。実際、詰碁や棋譜並べをかなりやっていても全然強くならない人をたくさん見た。私のことで言うと、田舎の県代表になる直前まで、日本棋院の基本死活辞典以外の詰碁はほとんどやった事もなかったし、プロの棋譜などあまり手に入らなかったから棋譜並べもほとんどしていない。詰碁と棋譜並べを一生懸命やり始めたのは県代表になってからである。これが確信に変わったのは、将棋の真剣師である大田学さんの言葉を知ったからである。大田先生は将棋で強くなる方法を聞かれると「上手と熟考して指し、それを自分で研究すること」と答えたとのこと。30歳を過ぎて将棋を覚え、日本一の真剣師になった師の言葉はプロ棋士とは全然違うが、間違いないと思う。 

 ※囲碁3大上達法

 私が考える囲碁の一番重要な上達法は以下の3つ。1、真剣に熟考して打つこと。2、打った碁をしっかり検討すること。上手と打ったら手直ししてもらうこと。3、上手の打つ碁を生で見て学ぶこと

 まず1。詰碁や手筋の問題はできても実戦は別。実戦の読みの力は実戦でしか身につかない。ただ、初段くらいになったら日本棋院の基本死活辞典の丸暗記は必要と思う。次に2。敗因を自分なりに分析する。どんなに研究しても答えは出ないかも知れない。しかし研究しておけば、上手に教えてもらったり人の碁を見て開眼する機会が必ず来る。3。生の碁を見るのが大事。どの手をノータイムで打ったか、どこで長考して手をひねり出したか、それが貴重な情報になる。それが出来ないのに、雲の上の棋士のしかも数字しかない棋譜から学ぶなんて出来っこない。1~3をしていれば、自分の弱点が見えてくるはず。そうしたらその勉強をすれば効果が高いだろう。受験勉強も同じ。「どんな本を読んだら強くなる?」かは自然に見つかるものだと思う。


【囲碁上達法】
 小幡照雄の正法眼蔵第三十七、春秋ノート」の囲碁に関する下りを転載しておく。
 「慶元府(きんげんふ)天童山(てんどうざん)宏智(わんし)禅師、丹霞(たんか)和尚に嗣す。諱(いみな)は正覚(しようがく)和尚、云く、『若論此事、如両家相似。汝不応我著、我即瞞汝去。若恁麼体得、始会洞山意。天童不免下箇柱脚。裏頭看勿寒暑、直下滄溟瀝得乾、我道巨鼇能俯拾。笑君沙際弄釣竿』(もしこの事を論ぜば、両家の著碁(じやご)するが如くに相似なり。汝、我が著(ちやく)に応ぜずば、我、即ち汝を瞞じ去らん。もし恁麼(いんも)に体得せば、始めて洞山(とうざん)の意を会(うい)すべし。天童免れず箇の柱脚(ちゆうきやく)を下すことを。裏頭を看(み)るに寒暑なし、直下に滄溟瀝(そうろうした)み得て乾きぬ。我が道は巨鼇(きよごう)能く俯して拾ふ。笑ふべし、君が沙際(しやさい)に釣竿(ちようかん)を弄することを)。

 しばらく著碁(じやご)はなきにあらず。作麼生是両家。もし両家著碁といはば、八目なるべし。もし八目ならん、著碁にあらず、いかん。いふべくは、かくのごとくいふべし。著碁一家(じやごいつか)、敵手相逢(てきしゆそうふ)なり。しかありといふとも、いま宏智道の你不応我著《你、我が著に応ぜず》、こころをおきて功夫すべし。身をめぐらして参究すべし。你不応我著といふは、なんぢ、われなるべからずといふなり。我即瞞汝去(我即ち汝を瞞し去らん)なり。すごすことなかれ。泥裏有泥(でいりゆうでい)なり。踏者(とうしや)あしをあらひ、また纓(えい)をあらふ。珠裏有珠(しゆりゆうしゆ)なり、光明するに、かれをてらし、自をてらすなり」。

【囲碁上達法】
 「一般的アマの上達の軌跡」を転載しておく。
 “囲碁はどうしたら強くなるか”囲碁を覚えた人は誰しもその方法を得ようと人に聞いたり、自分で試行錯誤するもので、私も初段の頃出張の帰りに電車の中で会ったアマの県代表クラスの人に「どうしたら強くなるんですか」と聞いたことがある。そのときはほほえみを浮かべてだまって回答をもらうことができなかった。また、5段のころ、あるこれも県代表クラスの人に同じ質問をしたことがある。このときは「NHKの対局をビデオに撮って2回見ること」と言われた。プロの多くは詰碁を勧める。さて、ここに「一般的アマの上達の軌跡」として私のたどってきた囲碁の関わりを記したのは、上達しようと思われるみなさんに一つの参考としてもらえればと思ったからである。

18才のときである。同じ部屋の野口が「碁、知っとる?」と聞いてきた。囲碁は中学のとき中学校の宿直の先生からルールを教えてもらった程度であったが、知ってることには違いがないので、「うん、知っとる」と言ったら「では、やろう」とどこからか碁盤と石を持ってきた。いざ始めてみると、敵はピョンピョントんでくる。今の一間トビである。こちらは石をくっつけてノビることしか知らない。当然のことながら大負けである。

 そのことがあって悔しいので次の日に本屋に行って碁の本を探した。坂田栄男本因坊の新しい定石と中盤の攻めとシノギだったと思う。授業中も隠れて見るくらい一所懸命だったので、すぐその野口には勝てるようになった。 学生寮から歩いて30分のところに日宇という小さな町があって、そこに碁会所があった。古い民家の二階で、そこに顔を出すようになって2年後には1級になっていた。大会でもらった優勝賞品の小瓶のビール半ダースをズボンのポケットやら上着のポケットに入れて寮に持ち帰ったことがある。寮は酒、たばこは禁止されていた。一番南の棟の四階の自室に持ち帰り悪友たちとこっそり飲んだ。空き瓶は捨てるところがないので窓から隣の工場跡地の空き地に投げ込んだことを覚えている。よくそんな悪いことをしたものだ。今思うと冷や汗が出る。そこの席主に君は三段にはなれる、と言われた。その頃の三段は今の五段くらいだろうか。あまりうれしくなかった。

 学生時代は高専なので卒業は20才だが、卒業するまで「囲碁クラブ」の入段試験というのに毎月応募した。あれは当選すると初段の免状がただでもらえることになっていて、なんとか当たらないものかとずっと続けたが結局当たらなかった。社会人になって本州の静岡県磐田市の工場に配属になってそこに住み着くことになるのだが、会社に入ってからは「磐田囲碁クラブ」に数回行った程度でやめてしまった。辛気くさい、暗いというイメージがあるし、女の子にも縁がないし若者の遊びでない雰囲気があった。

 結婚してしばらくして、また始めた。1年ほどたったころ日本棋院の月刊誌「囲碁クラブ」の入段試験に当選して免状が送られてきた。かっこいい!黒縁の額を買ってきて飾った。そうこうして4年ほど続けた。二段くらいになった。32才になって岡山に転勤になった時点で中断した。新しい工場の立ち上げで仕事が忙しく、また囲碁の環境もなかった。

 囲碁を再開するようになったのは6年間いた岡山から一旦磐田に帰ってきて、再度単身赴任で1年間岡山に出向したときからである。一人で岡山にいてもやることがない。岡山で終わりの半年は結構熱心に勉強した。備前市には碁会所がなかったので、休みの日には岡山まで車で40分「囲碁の学舎」という新しい碁会所に通った。磐田に帰る頃には三段で打っていた。

 本格的にやってみようと考えたのが、45才である。あと2ヶ月で45才の誕生日を迎えようとした新年、一番下の息子の少年野球が終わって土、日曜日が自由になった。「どれくらい行くものかやれるだけやってみよう」と考えた。会社の昇進も先が見えてきて、一生を終えて死ぬときに、何かやったというものがほしいと考えた。今から世間並みに自分にやれるものは何だろう、と言えば思いつくのは囲碁しかなかった。

 本格的にやってみようという意味は、とにかく時間があれば囲碁の勉強に費やしてみようということである。それまでは勉強はしたがそこまでのめりこんだことはなかった。会社から家に帰って寝るまでの時間、通勤している車での信号待ちの時間、トイレでの時間を囲碁の勉強に利用した。というよりあえてそうさせてみたというのが正しい。通勤での信号待ちのときに詰碁など見ていると、つい運転も片手運転になり、さすがにやばいと思い最近はやめている。トイレの時間は今でも継続していて、趙治勲の基本詰碁辞典は2回目だし、前田の詰碁の本(上、中、下)も、藤沢秀行の手筋辞典(上下)その他1日1ページくらいしか読めないが毎日のことでもありいつの間にか進んでいる。詰碁はきらいだった。囲碁クラブについてくる次の一手の問題は詰碁となると中級の問題までくらいで上級、有段者となるととても分からなかった。本当に1,2級の人がこんな問題を解けているのだろうかと不思議だった。

45歳の年末、年賀状に目標を書いた。「1年で1子強くなる」。みんなに公言することでプレッシャーを自分に与えようとしたのだが、それについてどうのこうの言った人はおらず何か拍子抜けした。1年後、1子強くなって4段、2年後2子強くなって5段。この辺までは順調だった。アマチュアの場合、何をもって段位をいうかというとむずかしい。日本棋院の免状をもっていうかというと、現在はもっている人が少なくあてにはならない。この会では優勝したから次はxx段で打ってもらいます、というパターンが多い。そうすると、こちらでは5段、あちらでは7段というのも出てくる。

 浜松囲碁センターで毎月第1日曜日に月例会があった。優勝か準優勝を2回すれば昇段という規定になっていて、それが励みになって毎月挑戦した。Aクラス40名くらいの中から上位2名に入ろうとするのだから結構きびしかった。そこで5段になったころ、ルール改正があった。点数制になって、勝つと1点上がり、負けると1点下がり、規定の点数になると昇段するということになった。昇段すると点数が下がっても降段することはない。

 この時期からインフレになったのだろう。優勝、準優勝して6段、それから1年少しで、準優勝して7段になった。自分が強くなったわけではないのに昇段してしまうというのはあじけない感じがしてそれからは行っていない。それなりに自信ができたら再挑戦してみようとは思っているが。

囲碁の上達に欠かせないのは実戦である。従来は碁会所に行くか、あちこちで開催される大会に参加するしかなかった。いい碁会所があればいいがなかなか適当なところがない。そういう中、コンピュータを使って対局ができるサークルができてきた。NTTのパケット通信というつないでいる時間に課金されるのではなく、1パケット、つまり1手1円くらいで対局ができるようになっている。その中で費用の安いサンサンネットを選んだ。ちょうど5段程度になった48才の1月(正確には3月が誕生日なので47才と10ヶ月だが)に入会した。月に30局くらいのペースで打った。300局も打つ人がいる中多い方ではない。入った当時は会員が300人くらいで「談話室」では毎晩囲碁談義が花盛りだった。その当時だからこそだろう、常連の人と友達になることができた。あと1年もすれば1000人は超えるよと言っていたのがなつかしい。もう2000人くらいいるのだろう。しかし、「談話室」はたまに覗いてみても閑古鳥が鳴いている。談話室の席主がいなくなって、覗いても誰もいないと出てしまう。今更ながら、席主が待ちかまえていてくれたのが貴重だったと思い知らされる。

 サンサンは点数制になっていて、1回勝てば1点上がる。負ければ1点下がる。点数を上げようとみんながんばるわけである。サンサンはタイムラグがない。打ってすぐ反応があるため実際の対局と同じように落ち着いて対局ができるし、秒読みになると女性の声でカウントしてくれるので対局に集中できる。今はADSLで常時接続なのでインターネットから対局しているが、まだ会員の大半(?)はゲーム機で対局されているので、システムの改革が進まない。このままでは逆に会員の数は減っていくのではないかと心配している。

サンサンには通常の対局のほかにリーグ戦があって毎週決まった曜日に対局する。2ヶ月間で8局打つのだが、あらかじめ事務局の方で相手を決めてくれているので、都合が悪いときは相手に事前に連絡をとって変更してもらう。電話で連絡することが多いのだが、電話口に出た奥様とかお子さんの会話の様子でどんな人か分かるような気がして楽しい。そうこうしているうちにお互いに親しみを感じてくるようである。リーグ戦は真剣勝負である。成績優秀な人には賞品が出る。互先なので、強い人に当たった場合はきびしい。しかし、それが大いに勉強になった。

 囲碁の本は初めからよく買った。月刊誌以外に200冊くらいあるだろうか。買うときは時間をかけて、気に入ったものを普通1冊買うが、たまにどちらともつかずに2冊買うこともある。買ってすぐ読んでしまえればいいが、通常はつんどくことが多い。それでもおよそ目を通しただろうか。月刊誌は日本棋院の中遠支部に入会している関係もあって「囲碁ワールド」は毎月送られてくるが、あまり活用していない。他に「囲碁研究」を購読している。こちらの方は大体全体を読む。読者のことをよく配慮した編集がされていて、その点で気に入っている。懸賞問題は翌々月に全国応募者の得点が掲載されるので、それが楽しみである。100点をいつも狙っているのだが、取れそうで取れない。この5年間で1回あったきりである。月刊「囲碁」は好きだった。しかし、「囲碁ワールド」、「囲碁研究」、それに「週間碁」があればとても読み切れず、1年くらいでやめた。あの対局細解は解説が詳しいので良いと思う。最近のものは編集者が替わられて少し物足りない。も少し強い人が担当して欲しいという気がする。(と書いたが、最近また強い人に替わられた)

 最近はコンピュータの前に座っていることが多い。対局もそうだが、碁盤に向かって棋譜を並べるのをソフトを使って入力している。その方が2回目以降は探さなくて良いからよけいな時間がかからない。その点でいい。(といいながら、再度見ることは少ないのだが)大会の決勝戦とか、プロの指導碁とか家に帰って記録のために入力しておく。棋譜を入力するだけではなく、そのときに検討された変化図、コメントも同時に入力できるから良い。呉清源の昭和の十番碁を磐田市の図書館から借りて二十数局解説もすべて入力した。非常に残念なことにコンピュータのHDのトラブルで消滅してしまって残っていない。しかし、少しは頭の端っこに残っているのかもしれない。

 強い人に指導碁を打ってもらうのも囲碁上達の上で有効だろう。45才の頃は中遠地区で一番の日比野さんによく打ってもらった。日比野さんは昼間働いて、夜碁会所を開いていた。そこで4子局の指導碁から3子局まで打ってもらった。今はすでに碁会所もやめられているので、それっきりになっている。50才になった年に、中国プロ棋士の梅艶さんが「囲碁サロンめいえん」を開設されたのを期にそちらに通うようになった。3子で打ってもらっているが、なかなか入らない。対局が終わって検討をやってくれるのを家で反省しながらコンピュータに打ち込む。 

下のグラフ(割愛/囲碁吉)は棋力の推移をサンサンの点数を基に段位に替えてグラフにしたものだが(サンサンの前は当時の大会での段位)、45才から3年くらいは毎年1子上昇しているがそのあとは鈍化している。今アマの7,8段くらいで打っている先輩がいるが、「同じ勉強しても先輩の実力だと伸びる量はわずかでしょうが、我々程度だと先輩の数倍は出るはずですよ」と4段のころ言っていたのを思い出す。

 現在もどうしたら強くなるか模索しながら勉強しているわけだが、振り返ってみてまとめてみると、

1.強くなりたいと常に思っていろいろ工夫しようとする気持ちをもつ。結局これがすべてではないか

2.詰碁を解く。やさしいものから始める。2,3手先になるとあれ、どこに打ったっけとぼやけていたのが薄れなくなる・・・ヨミが正確になってくる。これは確かに効果がある。詰碁はきらいだったがそうでもなくなってくる。

3.実戦。

4.本での勉強・・・なかなか記憶に残らないが、感じることが大事なのではないか、感動できればもっといい。

5.定石。囲碁の定石はご存じのように絶対的なものではない。一昔前は定石とされていたものが現在では考え方が進歩し、片方が不利という認識に変わり打たれなくなっているものも多い。定石は勉強しなくてもよいと極端に走るのではなく、手筋を駆使しているので手筋の勉強と思ってやればいい。

 「碁雲ルイ囲碁上達の秘訣」を転載しておく。
 一般的アマの上達の軌跡では碁を始めてから今までやってきたことを書いたが、結論は熱心に集中することであると一言で終わらせてしまったので、もう少し具体的にポイントになることを書いていきたいと思う。子供たちの進歩は目を見張るように速いが、それと同じプログラムを大人にした場合どうなんだろうと思っているが、覚えが悪い分時間はかかるだろうが前進することができれば儲けものである。その実験はまだなので、そのときが来たら報告しようと思う。ここでは自分が中年になってからやってきて、これは効果があったというものを書き出してみる。

 1.詰碁

 プロの多くが詰碁をやれば強くなると言う。ありふれた上達の秘訣の定番となっているようで、最近はもっと変わった言い方をしているプロもいるほどだ。それはアマの指導碁をしていると一目分かるような変化を見過ごして、指導しているプロにいい思いをさせているからだと思う。私も置き碁を白の立場でやるとき、「こう来られたら白ツブレだな」という局面を見逃してもらい勝負を先に延ばさせてもらうことが多々ある。ま置き碁だからそうなんだろうことはそう言えるが、この点詰碁をやればヨミの力がついてくる、ということで上達の秘訣の一番に上げた。確かにそうだと思う。私も詰碁は嫌いだった。中級の問題といっても解けない。どう考えていいか分からないのだ。一手一手しらみつぶしに当たっていっても正解が解らない。
 
 今振り返ると、詰碁はやはり易しい問題をたくさんやって少しずつ難しい問題にチャレンジしていくという形だなと思う。一手の詰碁とか、三手の詰碁とか、そうすると同じ手筋のものが何度か出てくる。そうすると一目見て、ああこの筋だな、と解ってくる。

 筋をいろいろ覚えてきて実際の死活でその筋を応用できることも一つの効用だが、もう一つの効用はヨミの力がついてくることである。最初は、読んでいても数手先から頭の中の石の配置が消えてしまい、全然先に行けない状態だった。それが少しずつ、白黒の石が頭に思い浮かぶようになってきた。これが読めるということかなと思う。今年発行された依田名人の「依田ノート」では、基本死活を一目でパッとわかるよう覚えるといい、と言われている。私もまだそこまでいっていないのでそれをやればまた強くなるかとトイレの棚にさっそく武宮の実戦の死活と趙 治勲の基本死活事典を置いて、見ている。「覚える」んだそうだ。いろいろ考えずに基本は覚えてしまうということだろう。

 2.手筋

 ヨミの力は囲碁の強さにはっきり表れてくる。アマチュアの碁は(プロに近いアマチュアは別。一般的アマ)このヨミの力が勝敗を決することが格段に多いだろう。そのヨミの力をつける上で詰碁の次に手筋だ。詰碁に比べ手筋は取っつきやすかった。案外みなさんもそうだろうと思う。変化が少ないからか。また種類もそんなに多くないように思える。
 
 呉清源と瀬越憲作の手筋辞典は泥臭くてヨミの練習にもなる。プロのほとんどは手筋に当たるものは一目で分かるようだ。それくらい慣れないといけないのだろう。

 手筋と形は同じ類のものである。形が悪いとそこにはいろいろ手段が発生してくる。相手の形を崩す。自分の形を整える。形に反する手はどうしたら回避できるか必死に打ってみたら、一皮むけるかもしれない。
 
 3.定石

 定石と手筋と分けたが、定石は手筋の宝庫といわれる。その点で、定石を一通り並べてみるのも効果があると思う。忘れてしまうけれども、実戦では自分で考えて打つ。ときには手痛い別れになることもあるかもしれないが、序盤で相手に石をあげると不思議にその勝負は勝つことが多い。 というくらいの気持ちで打ちましょう。梅艶プロも定石は一通り並べたと言っておられるし、今でも新しい定石に気を張っておられる。(つづく)

【囲碁上達法】
 「囲碁上達法」を転載する。
 「どうすれば、強くなれますか?」。これは、囲碁を嗜む人が、プロ棋士に問いかけるもっとも多い質問であり、囲碁ファンにとって永遠のテーマではないかと思います。私は一アマチュアであり、一囲碁ファンに過ぎませんが、今までに、こども囲碁教室、部活動などでのべ400人以上の方に囲碁の手ほどきをさせて頂きました。その経験や諸先輩方のアドバイスを元に、月並みな方法ばかりではありますが、囲碁上達法・・・ということで、強くなるためのアドバイス、オススメの勉強法をまとめてみたいと思います。もう既にされている方も多いと思いますが、上達に欠かせない3大勉強法は、「実戦」・「詰碁」・「棋譜並べ」です。この3つをバランス良くこなすことができれば、間違いなく強くなれると思います。

 まず「実戦」ですが、3級くらいまでは、とにかく、数多く対局することが有効です。「習うより慣れよ」の姿勢が大事です。そして自分より2~3子以上強い人に打ってもらった場合は、局後に検討をし、悪手を指摘してもらうといいと思います。その際、棋譜を採ることが可能であれば、局後の検討はより有意義になると思います。棋譜がなくても、せめて序盤の30手くらいの攻防は覚えておきたいものです。また、碁会所・部活・インターネットなどの練習対局を数多くこなすことも大切ですが、何よりも積極的に大会などに参加して、真剣勝負の経験を積むことも非常に大事です。別に全国大会に繋がっているような大きな大会でなくても、段級位認定大会や地域の親睦大会であっても勉強になります。上位大会への出場や、昇段・昇級、あるいは賞金・賞品がかかっていたりする場合などもあり、練習では味わえない緊張感、真剣さが自然と生まれます。また、対局時計を使用したりする場合もあり、より実践的な訓練を積むことができます。そして、大会に参加することで、次の目標ができたり、よき碁敵(ライバル)を見つけることもでき、モチベーションが高まれば、上達に繋がるのは間違いないでしょう。ですから、大会、研究会、親睦会、などの囲碁のイベントや他流試合には、積極的に参加しましょう。

 次に「詰碁」ですが、難しい詰碁には手を出さず、簡単な問題、実戦で良く出てきそうな形を、繰り返し解くのが、かなり有効です。囲碁の基本は戦い、戦闘です。そしてその根本にあるのは死活です。相手の地中に手が残っているのか、或いは逆に自分の石は、手を抜いて生きているのか・・・こういうところで1手違うと大きな違いです。また、はっきり生きている石は厚みとして活用できますが、生きていない石には常に気を配らなければなりません。石の強弱のよりどころとなるのが詰碁です。ヨセもある意味詰碁です。もっとも大きなヨセは、死活が絡み、相手が手を抜けない先手ヨセです。だから、詰碁の勉強が、上達の特効薬といえるかもしれません。詰碁で、徹底的にヨミの力を鍛え、中盤~終盤戦に強くなりましょう。

 最後に「棋譜並べ」ですが、並べる棋譜はプロ棋士やアマチュア強豪の対局であれば、古今東西を問わず、誰の棋譜を並べても効果はあるでしょう。韓国・中国の棋士の流行最先端の棋譜を並べてもよいし、また逆に江戸時代の古碁には味わい深い対局が多いので、好きな人は古碁ばかり並べてもよいでしょう。あるいは時間的余裕がない人なら、タイトル戦の棋譜だけ並べてみる・・・これも一法でしょう。最初のうちは、好きな棋士の棋譜や、自分の棋風(地を取る碁が好きなのか戦いの碁が好きなのか・・・etc)に近い棋士の棋譜を集中的に並べるというのもよいでしょう。1局の手順を暗記するぐらい並べ込んでもいいでしょうし、どんどん並べて、数をこなしていってもよいでしょう。ただ、棋譜並べは大変有効な勉強方法なのですが、いまいちこれが上達にどう役にたっているのか実感しにくい・・・と思う人がいるかもしれません。しかし最初のうちは意味がわからなくとも、棋譜を並べているうちに自然と正しい形・筋・打ち方が身に付いてくるという効果もあります。簡単な詰碁を解くことが「即効性のある上達法」であれば、棋譜並べは、「じわじわと力が付いてくる」・・・という感覚でしょうか。私も高校時代、部活の時と毎晩寝る前に、だいたい1局~5局並べていました。私の場合は年鑑に載っている棋譜を片っ端から並べました。(今は時間的余裕がなくて3大棋戦の番碁ぐらいしか並べられていませんが・・・)今思い返してみると、それがいい基礎体力作りになっていたのでは・・・と思います。

 私は三段になるまで、一度もプロの先生と打ったことがなく、アマチュア独特のゴリゴリした自己流の打ち筋の人としか打ったことがありませんでしたが、高校卒業の頃(四段)には、強い人からも「筋がいいですね。形がきれいですね。プロに教わったのですか?」と言われることが多くなりました。棋譜並べの効果だと思います。スポーツの世界に例えるならば、詰碁は基礎体力を身につける「筋トレ」、棋譜並べは一流アスリートのビデオを観てフォームを「模倣する」ってカンジだと思います。皆さん、何かの参考にしてくださいませ。

【囲碁上達法】
 「囲碁五・六段からの上達、高段の壁」を参照抜粋しておく。「真剣にやれば五~六段までなら誰でもなれる棋力。トントンと上達して来た人でもこの辺で止まる人が多い。もっと強くなりたい、そんな方のスレッド」に対する解答である。
 六段から伸びるかは如何に膨大な量の基礎を築いたかによる。古典詰碁をほとんど解く。棋譜を一万以上並べる。そういった経験がある人は六段になってもまだ伸びる。プロの指導碁も良い。特に検討が大事。プロの考え方を直接伝授してくれるのが有難い。壁克服法は碁の考え方を変えること。棋譜並べを毎日ひたすらする。5.6段になるとプロの碁を並べて少しでもプロの感覚に近づけるようにしないといけない。棋譜並べは詰碁ほど即効性がないけど毎日コツコツやっていけば地力が着実につく。ある程度強くなったら対局より棋譜並べというプロもいる。実戦、検討、詰碁、棋譜並べの比率を変えてみる。碁に限らないんだけど詰まった時はいっそちょっと距離を置くのも意外とよかったりする。棋譜並べすると石の向かう方向がよくなる。山下名人が子供の頃、定石大事典の図を全部並べて理解したと言っていた。盤上にある石から最善手に近い手を導き出せる感覚とか計算能力を磨く方が大事だと思う。「死活とヨセに強いものが真に強い by 藤沢秀行」は名言。上手の考え方をいつでも側で聞けるような環境が大事。5段が8段になるためには 1.死活と手筋 。2.棋譜並べ。3.定石&序盤研究。知ってる上で手を選ぶのと何も知らないのでは全く違う。高段になるとそこからまた新たな扉がひらき長い冒険の道がまっている。手が急ぎがちは良くない。後半やヨセで弱い者は弱い。なりたて高段のうちはまだ焦りがある。数字であらわすと一局を通して70点くらいの手を打ち続けているのが良い。50~80点くらいの波が大きいのはダメ。中押しで勝とうとせずに最後までいって1目勝てればいいとゆう気持ちで打つのも大事。安定した手を打つ必要がある。手が見えだすと仕掛けたくなるが、回りを見て冷静に仕掛けないと強い人には手痛い反撃をもらう。自分より2~3段強い人と打って教えてもらうのが高段になっても一番の方法だと思う。同じ棋力の人と打ってても割と上達しない。個人でするならひたすら棋譜並べと詰め碁しかない。只かなり強い意志がないと無理。ひたすら詰碁やるべき。発陽論とか玄々碁経とか古典詰碁がスラスラ解けるようになるまで努力あるのみ。読みの力が碁の強さを決めるといっても過言じゃない。東洋は六段ぐらいからヨセのレベルが高くなる。あと着手の緩急をつけるのが上手になる。東洋7段ぐらいでも力一辺倒っていう人も結構いる気がするが9段だと手が洗練されているというイメージがある。どの対局でも、勝負どころはたった一箇所しかない。その理由を知っている者と知らない者がいるだけ。井山5冠とかぎりぎりの手を打つ。積極的でやや打ち過ぎでないと強くなれない。意欲的でないと上達しない。読みの裏付けがあればなにやってもOK。まじめに考えて打つ。基本的にいつも三手先までは考える、一本道の手どころを10手ぐらいは頑張ってヨんでみる。これくらいできないと真剣に碁を打ってるとは言えない。強くなりたいと願い、一日に何時間も集中して碁盤の前に座り、今の自分に何が足りないかを冷静に分析した上で必要な努力を続けていれば着実に棋力は上がる。

 「囲碁お見知り置きを555」の「高段の壁を破る3つの思考法~1、プロの思考法に迫る~」(2013-03-19)、「高段の壁を破る3つの思考法~2、其の壱「手割」(前編)~」、「高段の壁を破る3つの思考法~3、其の壱「手割」(後編)~」  を転載する。
 高段の壁を破る3つの思考法~1、プロの思考法に迫る~

 お陰さまで三段合格シリーズも初段合格シリーズに続き好評を博しまして人気と注目度が暖まっているようですから今のうちに高段合格シリーズに雪崩れ込みたいと思います。おそらくかなり長いシリーズになると思いますし今までと違って図を用いた具体的な話もかなり出てきますが懲りずにお付き合いください。では早速本論に入ります。まず初段合格法のおさらいですが、囲碁の「実力」を構成する要素は3つありましてそれは・知識・読み・形勢判断です。これはたとえプロだろうと変わりません。すべてはこの3つに集約されます。

 アマチュアでも高段ともなるとこの3つはどれもそれなりに高い水準に到達しています。具体的には、知識は私が初段合格法で紹介したいくつかの本の内容をかなりクリアに頭に入れなくてはいけません。また読みについては、15手は頭の中で考えられるようにしてもらいたいものです。このあたりは今までの勉強の延長ですから繰り返し根気よくやるしかありません。特に知識についてはアマチュア中段はかなり知識の分野に偏りがあるので自分の手薄な分野を腹を据えて克服する必要があります。ムラを無くすよう意識してください。一言アドバイスをしますと定石はそこまで真剣に覚えなくても大丈夫です。石の方向や部分的な手筋を吸収すれば定石の勉強としては十分なので、死活やヨセに力を入れてください。

 ではこのようにして知識と読みを強化してそれだけで高段になれるかと言いますと100%不可能です。まあ大体にして可能であればわざわざこんなシリーズを書く必要も無いわけでして当然そこには発想の転換が要求されるからこそ書いているわけですが。

 さてその発想の転換とは何かですが、それらは読みと形成判断に関係するものでありしかも中段までの皆さんが今までやってきた読みと形成判断を質的に変えるものです。「感覚」や「センス」の正体と言っても構わないでしょう。

 ここで唐突ですが少しプロの「読み」について話します。プロに言わせると攻め合いや死活などの一本道は「読み」ではなく、そうしたケースであれば80手先まで考えることくらいはプロには朝飯前だそうです。プロにとっての「読み」とは、複数の想定図を作りその優劣の判断をすることを意味するらしい(以上、(『坂田の碁2、石のシノギ方』参照)。私が初段合格法シリーズから使ってきた「読み」という言葉はもちろんこうした高次元のものではなくまさしく一本道を頭の中でどこまで想定できるかというレベルのものです。つまりプロの口にする「読み」とは、私が、と言うより多くのアマチュアが今まで想定してきた「読み」が形成判断に融合したものだと言えます。

 なぜこんな話をしたのか、もうお気づきの方も多いでしょう。アマチュアでも高段ともなるとプロの言うところの「読み」を身に付けなくてはならないと言いたかったからです。一本道の「読み」で精一杯だったレベルから、形成判断まで含めたハイレベルの「読み」に至れるか否か、これこそが高段の壁であると海原は考えます。

 そして単純に今までの「読み」をやりつつ形成判断をすればいいというわけではありません(もちろん必要ではありますが)。特別な思考法、それも3つの思考法が不可欠なのです。
 次回からはこの3つの思考法を詳解していきます。実はこの「高段の壁とは3つの思考法だ!」という考えに海原が至ったのはかなり最近の話であり正直に言って人にうまく話せるか若干心もとない部分もありますが囲碁ファンの向上のため全力で書きますのでよろしくお願いいたします。また、図を作る必要もあるため更新速度が遅れるとも思いますが、気長にお付き合いくだされば幸いです。
 高段の壁を破る3つの思考法~2、其の壱「手割」(前編)~

 高段の壁を破る3つの思考法について今日から具体的に説明していきます。さっそく1つ目の思考法の説明に入りましょう。おそらくかなりの方が聞いたことはあるでしょうが、「手割」という考え方です。手割とは形勢判断のための方法論です。ある局面を見たときにどちらが良いか判断に迷うことが多々あります。そんなときにこの方法を使うわけですが、その要領は1、取られている石と取っている石を相殺する。2、手順を変えるの2つです。1については恐らく誰もが無意識にやっていることでしょう。盤面に石がたくさんあるとそれだけで目がチカチカしますら、頭の中ではなるべく石を少なくしてスッキリした盤面に変換して判断したい。そのときに使います。2は、あまり使わない方が多いでしょうか。ある形を分析するときに、その成立手順を頭の中で組み替えることで自分の知っている形から変化した形に変換して判断する方法です。

 この方法論は棋聖・本因坊道策が考案した非常に古いものでまたプロならばしょっちゅう使っている方法論ですが、なぜかまとまった解説本はほとんど存在しないようです。そこでプロに代わってこの海原が「鳥なき里の蝙蝠」として今回から2回に分けて説明をしようと思います。今回は1についてです。下の図を見てください。

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 黒番。非常によくある左上の定石です。黒がC17に守らないと左上は死ぬ。これは初段以上の人はすぐに分からないといけません。しかしここで黒が

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 左下のカケに回り、白に2と取られたとしましょう。さてこの図をどう考えるか?ここで手割の1つ目の要領が使えます。

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 △の黒はとられています。だから取り除いてしまいましょう。そして同じ数の▲の白を取り除けばチャラ、右上の形をスッキリ考えることができます。すると完成形は下のようになります。

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 一見して左上の白は不自然なコリ形になっていることがわかります。序盤に4手もかけて左上をこんな不自然に囲っても効率が悪いことは誰の目にも明らかでしょう。3手で隅は確保できるわけですからね(例えば星、星からの大ゲイマ、星からの鉄柱)。一方黒には無駄な石は一切ありません。しかも次は黒番です。右辺星でも、右上シマリでも大きなところを打てます。もう比べるまでもない大差です。

 このようにして、一見大きそうな石も実はそれほどの石ではないことがわかります。このような考え方が「常に」頭の中にあれば、反射的に石を助けるのではなく「捨てる図」を考える、つまり「読む」ことができるのです。逆に言えばこのような発想が無ければ、そもそも「読もうとさえしない」でしょう。読みと形勢判断の融合が必要、という前回の話はつまりこういうことです。

 さて1については以上です。これはちょっと意識すればできることなので、さっそくやってみてください。厄介なのは2の方。これは次回じっくりやります。折角ですから先にネタを出しておきますので、次回までに黒白どちらがいいか考えてみてください。

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 高段の壁を破る3つの思考法~3、其の壱「手割」(後編)~

 今回は「手割」の後編、手順の変換について説明ます。前回の最後で今日扱う図をアップしておきましたが、その解説の前にまずは簡単な例で基本を考えてみましょう。

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 このエントリーを読んでいる方の中には黒のこの形を打つ方もあまりいないでしょうけれども初級者の頃には誰だって打った私だって打った愚形の代表「陣笠」です。この形は効率が悪いと一目で感覚的に分かるのは結構なことですが、一つ「手割」を使ってこの陣笠の愚形たる所以を考えてみましょう。

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 まずこんな形があったとします。そして基本図の形はここから

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 白1と黒2が交換された形です。この黒2は全くひどい手で、白1のすぐ左に押さえるか、あるいは左の方へ開くとかした方が働いているのは一目瞭然です。そういえば私は初級者のころ、手割は知らなかったんですがぼんやりと似たようなことを考えていて、この形はなんか気持ち悪いなあと思っていたのを思い出します。

 まあそれはともかく、基本的には手順の変換はすべてこれと同じです。自分が知っている・優劣の判断のつく形からどんな手順をたどっているのか分析するわけです。

 というわけで本題。

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 『王銘琬の囲碁ミステリーツアー』を参考にさせていただきました。白のメイエン9段の新手に、李昌鎬9段が黒で応えた形です。さてこの新型、軍配はどちらにあがるでしょうか? ひとまず、白は目外しに石があるので、そこに黒が三々に入った、という手順はすぐに見えるでしょうか。そこから手順をすべて変換してみましょう。すると、


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 このような手順に変換できます。では肝心の形勢はどうでしょうか? まず白3は若干俗ですが、まあそこまで悪くもない。しかし白5、これは明らかに緩みです。普通なら白3からトビでしょう。黒6もやや俗ですが、そこまででもなく、白3とチャラというところでしょう。黒10。これは本来悪手で、白は右横に押さえてきます。しかしここで白11とノビ。押さえられるところを押さえず、結果黒10の悪手を好手にしました。黒14はかなり微妙です。14の右横に黒が打てばノゾキとしてキクので、はっきり悪手とは断定できないようです。以上で、黒は14で、やや損になる可能性がある手を打っています。しかし白は5、11と明確なユルミを二手打っています。白の不利は明らかでしょう。

 非常に難しい形でしたし、結局この方法を使うためには変換できるための基本形が頭の中にたくさん入っていないといけません。その意味でこの方法はかなり知識・経験に支えられているので、そちらを鍛えることは必須です。しかし、常に「手順を変えたら自分の知っている形の亜流にならないか」という視点を持ち続けるだけでも見える景色は変わるはず。今回の題材はかなり微妙な判断が必要なもので、おそらく5目も差は無いでしょうが、そうした差もそろそろ考え始めないといけないのが高段者の辛いところですから、がんばりましょう。

 最後に一言しますと、実戦では前回扱った「石の相殺」と今回の手法を組み合わせないと意味がないケースがほとんどです。複雑になりすぎることもありますから、手におえなければ無理して手割を使わないようにしてください。適切な形勢判断をするために手割を使うのであって、手割を使うための手割を使っているわけではないですからね。出来る範囲で少しずつ慣れていけばいいと思います。

 さて、これで手割はひとまず終わりです。もう少し具体例が欲しいという声があればシリーズの最後に問題篇を設けようかと思いますが、ひとまず次回は2つ目の思考方法についてお話します。よろしくおつきあいください。




















(私論.私見)