囲碁発祥譚考その2、伝来諭&自生論

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.12日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「囲碁発祥譚考その2、伝来諭、自生論」を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【囲碁中国伝来論考】
 囲碁の発祥につき、それをの起源を中国に求めるのが通説である。、正しくは不詳としておきたい。不詳とは、はっきりしないと云う意味である。即ち日本発とも考えられる余地がある故にである。あるいは朝鮮発の説もあるのだろう。こうなると、現在においては、中国、朝鮮、日本の何処(いずこ)に求めるべきか定かでない、こう解するべきではなかろうか。即ち「囲碁の起源は神話的不可思議さを内包している」。こう解するべきではなかろうか。

 従って、「日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は原則として『中国』となっています。逆に『日本起源説』を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげてを紹介すべきです」なる論があるが、それは変調である。かくなる論調をもってすれば悶着は起こらないであろうが、腰を引き過ぎていよう。この回答者は、日本起源説を否定して中国起源説を断定することが正義のように吹聴しているが、こういう耳目に入りやすい態度をとるのも一法ではあるが、歴史的真実は尋ね続けて行かねばならない。必要なことは、囲碁の起源国を主張する者があれば、それを証明させることであり、それを互いに検証することである。必要なのはこの作業ではないだろうか。この検証抜きの日本起源説論も中国起源説論も採るべき態度ではないと思う。「今となっては未解」、これが我が輩の執る態度である。

 従って、「囲碁の発祥・歴史は、少なくとも2000年以上前までに遡ることができます。そして、古代インドから発祥し、東アジアを中心に発展してきました」との解説も我が輩の執る態度ではない。


 囲碁の専門棋士にして囲碁ライターとして稀有な値打ちを持つ中山典之氏の「囲碁の世界」(岩波新書、1986.6.20日初版)は次のように記している。
 概要「碁は、いつごろ、誰によって打ち始められたものか、今となっては誰にも分からない。それは、我々の祖先によって、遠い遠い昔から打ち継がれてきた。大昔から大勢の人によって打ち継がれてきた碁だが、その起源については誰も明らかにしてくれない。ただ、碁は大昔に中国の聖天子、尭、舜が作ったとされてきただけである」。

 
この言は中々の見識である。と云うのも、通説は「中国から渡来した」とされているところを、前段に於いてであるが、「今となっては誰にも分からない。その起源については誰も明らかにしてくれない」と記し「不詳」(「はっきりしない」と云う意味)としているところに値打ちが認められる。この説を仮に「囲碁発生不詳論」と命名しておく。

 実際には、「ただ、碁は大昔に中国の聖天子、尭、舜が作ったとされてきただけである」と続けている。かの「坐隠談叢」でさえ、渡来説に基づき次のように記している。 
 「奈良朝時代はインドを無上の開化国とし、唐を唯一の文明国とし、只管之を欽募せり。故に政事、文学、美術凡て皆なこれに倣いたり」。

 同書は安藤豊次著の明治37年1月初版、原本は和装5冊の名著である。日本棋院の林裕氏は次のように評している。
 「この談叢に厳密な史眼をあてると、疑問の声や、明らかな誤りもあるが、碁界では未だそれを書き改めるだけの資料が揃っていない」。

 この説を仮に「囲碁中国伝来論」と命名しておく。「万事伝来論の一種としての」と形容した方がなお主意が鮮明になる。その上で、「中国は囲碁の生母、日本は囲碁の養母」と認識してきた。これが通説であるが、私は「囲碁発生不詳論」を採る。即ち日本発とも考えられる余地が大いにある故にである。しかし、これを争うには大昔のことになり過ぎており、今となっては意味がないとしたい。
 インタ-ネットの夏剛・夏*「囲碁・棋史の情理と妙趣」は次のように記している。
 囲碁の発生地・誕生時期と発明者は、芸道の神秘性と歴史の悠久に相応しいように、時間・空間・次元の途轍もなく甚大な懸隔によって、到底突き止めえない遥かな彼方にあり、永遠の謎となっている。

 この書き方、理解で良いのではなかろうか。

【囲碁中国伝来論による伝来時期確認考】
 「囲碁中国伝来論」に従った場合、それでは日本に渡ってきたのは何時(いつ)頃かとなると、信の置ける話しはない。通説は、「奈良時代に吉備真備(695-775年)が遣唐使として唐から持ち帰った」、「囲碁は中国で生まれ、七世紀に日本に伝わり日本文化として根付いた」としているが、軽薄なる俗説に過ぎない。その修正として、「記録は残っていないが5世紀の欽明天皇(539−571年)の頃、朝鮮を通してほかの色々なものと一緒に渡ってきた」という説が有力とされている。しかしこれも、「囲碁朝鮮経由伝来論」を唱えているだけで、論証力を持っていない。紀元600年頃の中国史書「随書」の「倭国伝」に「(倭国では)囲碁、双六、博打が好まれる」と書かれてある。これは史実であるが、この記述をどう窺うべきか。通説は、「吉備真備以前に伝わったのではないかと思われます」と解説している。これも、「万事伝来論」の型の中で理解しようとしている俗説にぎない。なぜそれほどまでに伝来論に拘るのだろうか。囲碁の歴史的発生につき、通説は悉く伝来論にシフトし過ぎているのではないのか。

 囲碁に限らず、往古に於いて有益なものにつき中国経由、朝鮮経由、東南アジア経由等の伝来ルートの詮索に忙しい。この学説は、近代史上の有益なものは万事米英欧の西欧に由来するとする伝来論とハーモニーしている。あたかもそういう型が作られているかのようであり、この型にプレスされた様々な通説学説が作られている。中には当て嵌まるものもあろうが、何でも彼でも外来論で理解しようとし過ぎではなかろうか。証拠だてるものがなく、要するに憶測でしかないものについては、いきなり外来論(伝来論)に向かうべきではなく、ひとまずは判断留保の勇気を持つべきではなかろうか。万事伝来論は有害で、個別ごとに伝来、自生の別をしながら検証して行くべきではなかろうか。

【文献資料の「囲碁伝来記述」考】
 「日本古代の囲碁史に関わる文献資料リスト」の「囲碁伝来」は次のように記している。
本朝事始 伝/藤原道憲著 百済伝来説
 「囲碁は、百済から渡来した博士・阿和直がはじめて仁
徳天皇に教えた」と記している。
続日本紀
扶桑略記
公卿補任
吉備真備のもたらした文献、器物を挙げ、「種々の書籍や
要物は書き尽くせない」と記すが、碁器や棋書の名は見
えない。
慶長見聞録 1614年/三浦浄心著 吉備真備伝承説
拮抗集 1688年刊/ 吉備真備伝承説
人倫訓蒙図彙 1690年刊/ 吉備真備伝承説
中華事始 1714年没/貝原益軒著 双六伝来吉備真備説
和漢三才図会 1713年頃/寺島良安著 吉備真備伝承説
本朝世事談綺 1734年/菊岡*涼著 吉備真備伝承説
囲碁雑編 1786年/河村秀根著 百済渡来説
古今要覧稿 1842年/屋代弘賢ら編 百済渡来説
皇国名医伝 1852年/浅田宗伯著 百済渡来説
囲碁事蹟考 江戸末期/加納諸平著 百済渡来説
爛*堂棋話 江戸末期/林元美著 百済渡来説

【万事伝来論ちょっと待った考】
 ちなみに、1952年(昭和27)年、中国の河北省(望都県)の漢代の劉氏(りゅうし)の墓(182年埋葬)から、陪葬品として17路5星の石棋盤と石榻(せきとう、石の対局椅子)が発見された。これにより、邯鄲淳(かんたんじゅん)著「芸経」の中の「棊局縦横各17道、合わせて289道」という文章が立証された。この碁盤の星(中国では花点)の形はハートの5花点だった。
 1959年(昭和34年)、中国の河南省(安陽市)の随(ずい)代の張盛(ちょうせい)の墓から、陪葬品として19路5星の小型青磁碁盤が出土した。2002年、中国陝西省の考古学者が、前漢の景帝陽陵で、前漢時代(206BC - 24AD)のものと思われる17路式陶製碁盤を発見した。最長の部分で縦およそ28.5cm、横19.7cm、高さ3.6cm。皇帝の陵墓から出土したとはいえ碁盤の造作が粗雑であり、この碁盤は皇帝の陵墓から出土したとはいえ、皇族が使用したものではなく、陵墓の墓守達の遊戯のために使用されていた、当時の使い捨て的なものだったと推定されている。2007(平成19).5.15日、中国の龍坑(寧夏自治区)の漢墓群で古代の碁盤と陶片の碁石が発見された。これらの発掘を見れば、囲碁の中国に於ける普及が確認できる。但し、発祥まで窺がうべきだろうか。
 「万事伝来論の一種としての中国よりの囲碁伝来論」を補強する中国での碁器出土に対して次のような立論が成り立つ。即ち、これらはいずれも、日本の正倉院所蔵の「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)に見劣りするものばかりである。中国が囲碁の本家であれば、正倉院所蔵の碁器を上回るものがあちこちから出土しないのは不自然な気がする。

 もうひとつ述べれば、日本では女流平安文学の中に囲碁記述がしばしば登場している。それを窺うに、「中国よりの囲碁伝来論」の観点に立てば、僅か数世紀前に大陸から輸入されたものを、平安女流囲碁が早くも吸収し興じていると云うことになる。しかしながら、同時代の中国に於いてそういう女流囲碁の形跡が見当たらない。これはかなり不自然な現象ではなかろうか。囲碁の本家が中国であれば、本家の方こそ盛んであるのが自然ではなかろうか。と云う観点に立てば、この時期に於ける女流の囲碁の嗜みが日本だけの現象であることにつき、「中国よりの囲碁伝来論」の奇異を感じるべきではなかろうか。平安女流囲碁が、はるか昔からの日本国の伝統に支えられており、故にしっとりと興じている様子を見て取るべきで、ここに相当の歴史が経緯していると看做すべきではなかろうか。

 こういう囲碁吉史観によれば、「囲碁起源特定不詳説」を推したい。もっと云えば、通説の伝来論よりも日本自生論の方に分があるように思われ、その可能性をも探るべきだと思っているが、日本自生論の過度の強調も徒な国粋主義に向かう恐れがあるので、「囲碁起源特定不詳説」に留めておく。

【「囲碁の日本発祥説」考】
 ネット検索で「囲碁の起源主張して世界中から軽蔑される日本人」が出てくる。これにコメントしておく。多くのコメントは次のようなものである。「囲碁の日本発祥説を主張をすることはとても恥ずかしいです」。このコメントは、「囲碁の日本発祥説を虚説」と判断して、そのような論を説くことを「恥」としている。「日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は原則として中国となっています。逆に日本起源説を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげてを紹介すべきです」。このコメントは、「囲碁の日本発祥説不存在説」を唱え、仮に「囲碁の日本発祥説」が存在すれば火消ししようとしているように見える。これらを仮に「囲碁の日本発祥否定説」と命名しておく。次のコメントは、「逆にまったく確証がないのにインド、中国、韓国が起源と言うのもどうかと思いますがね。日本起源説も言い過ぎで、一体どこが起源なのか未だにわからない状況です。別にどこが起源だろうと特に何か変わるわけではありませんのでさほど意味のない詮議だと思います」。これを仮に「囲碁の発祥国不詳説」と命名しておく。こんな感じのコメントがまぁまぁかなと思う。

 れんだいこ的には、もう少しみ踏み込んで、こう云いたい。「囲碁は四千年の歴史を持つ神秘で哲学的な盤上競技である。碁はどうやら文明発祥と同時に起源するらしく、四千年の歳月云々は当らずといえども遠からずかもしれない。囲碁の発祥につき日本発祥説は有力で、ありえる話しではあるが、この説に固執する必要はない。重要なことは、中国、朝鮮(北朝鮮、韓国)、台湾、沖縄、日本の東アジア圏六ケ国が数千年来に亘って囲碁の法灯を守り抜いて来たことであり、近年においては日本が積極的に庇護してきたことで囲碁文化が育成されて来た。それが今や世界の囲碁に孵化していることであり、これを共に称え合い、力を合わせて更なる精進を重ねていくことであろう」。付言すれば、21世紀初頭時の囲碁実力の国別では、中国と韓国が日本を追い越しており、その差がむしろ開きつつある。当然、日本の巻き返しが始まっている。その他世界諸国の実力も次第に上がってきている云々。これを仮に「囲碁の日本発祥ありえる説」と命名しておく。
 補足として「囲碁発祥譚考」をものしておく。

【熊野古道の囲碁伝説考】
 2019(平成31).1.1日のNHK番組「熊野古道」に、昼嶋(ひるしま)伝説が登場していた。それによると、昼嶋(ひるしま)は熊野川の中にある島で、川の水量が少ないときは和歌山県側から歩いていくことができる。南紀徳川史に収められている「熊野道中記」には次のように記されている。
「碁盤嶋/川の中にある。水際より上で碁盤のようになっている石である。碁石もある」。
「昼嶋/浅見領、川の中にある。碁盤島と飛石の事か」。

 (この記述によると、昼嶋と碁盤嶋は同じ島になる)。

 NHK番組「熊野古道」は次のようなコメントつきで島の映像が放映していた。
 「この島で熊野権現が昼食したとも、天照大神と熊野権現が碁を打った(打って興じた)とも云われる。島の上部は碁盤の目のような縦、横の筋がある」。

 「天照大神と熊野権現が碁を打って興じた」、「島の上部は碁盤の目のような縦、横の筋がある」はよほど意味深で、「天照大神と熊野権現が碁を打た」となると、相当古い時代の伝説になる。

【万葉集に於ける碁師の歌二首考】
 古事記、風土記、懐風藻にも碁に関する記事が幾つも記されている。万葉集には碁師の歌が二首収められている。碁の歌ではなく、碁を教えに碁師が旅した地方の風景を詠んでいる。万葉集の碁檀越と碁師(8世紀はじめ頃)の記述は次の通り。
 碁檀越
 万葉集巻四500番相聞歌 題詞碁檀越徃伊勢國時留妻作歌一首(碁檀越が伊勢国に往く時、留まる妻がよめる歌一首)
 神風之 伊勢乃浜荻 折伏 客宿也将為 荒浜辺尓
(神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に)
 
 碁師
 万葉集巻九の1732~1733番雑歌 題詞[碁師歌二首]
 祖母山 霞棚引 左夜深而 吾舟将泊 等万里不知母
(おもやまに 霞たなびき さ夜更けて 我が舟泊(は)てむ 泊り知らずも)
 思乍 雖来来不勝而 水尾埼 真長及浦乎 又顧津
(思ひつつ 来れど来かねて 三尾が崎 真長の浦を  またかへり見つ)

 この歌の直前の1729~1731番の「宇合卿歌三首」の次に載せられおり、前後を含めて一連の歌が虫麻呂歌集に含まれていると考える説もある。
 ここでは囲碁を詠みこんではいないが巻の歌題に碁の痕跡が記されている。ここでの碁檀越の碁は碁氏というより氏名かもしれない。この場合、檀越は寺の施主のことだから碁檀越は施主の碁という人物となる。次に、巻 、 ・ 番の題詞には 碁師歌二首 とあり、つづいて船中の歌がある。この碁師は多くの万葉集研究書では意味不明の語だとされている。 碁師は基師とする伝本があり、それ故の意味不明かと思われる。近世以降の囲碁関係の書では、この万葉の語を囲碁に結んで語るものが多い。(関節蔵は 日本囲碁史綱 で 碁師歌の意味は船中遠行の客吟であ る、或は本土を離れて外国に渡海したのではなかろうか とし、江戸末期の国学者・加納諸平は 囲碁事蹟考で碁の上手とはおぼしけれど未祥 としている)。

 万葉歌の中には「吾恋流碁騰(あがこふるごと) 己知碁知乃枝之(こ ちごちのえの)」といった真仮名の碁の字が散見する。

【古事記のイザナギ、イザナミの国生み神話の下りに於ける「碁」文字記述考】
 712(和銅5)年、古事記が編纂され、日本で最初に「碁」の文字が用いられている。その箇所はイザナギ、イザナミの国生み神話の下りであり、両神が降り立ち柱廻りをしたところが次のように書かれている。
「故、二柱神立天浮橋而、指下其沼矛以畫者、鹽許々袁々呂々邇畫鳴而、引上時、自其矛末垂落鹽之累積、成嶋。是淤能碁呂嶋。
(故、二柱神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろして畫きたまへば、鹽こをろこをろに畫き鳴らして、引き上げたまふ時、其の矛の未より垂り落つる鹽の累なり積もりて、嶋と成りき。是、淤能碁呂嶋なり)

 これによると、イザナギ、イザナミの国生みの柱廻りをしたところが「於能碁呂嶋」(おのごろしま)」という表記になっている。「碁」が、日本の国土誕生の際にもは関わっていたことになる。ちなみに日本書記では「磤馭慮島」という表記になっている。(「古代日本における「碁」(1)」参照) 「碁」が単なる当て字なのか裏意味があるのか興味が湧く。
 「日本の囲碁は、古事記や万葉集にその記載があるほど長い歴史をもっている」。

【古事記のスサノオの日本最古の和歌に於ける「碁」文字記述考】
  日本最古の和歌といわれているスサノオがクシナダヒメと新居を構えるときに詠んだといわれている「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」にも「碁」が記述されている。古事記では、「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」という表記になっており、「妻籠みに」の箇所が「都麻碁微爾」と「籠み」を「碁微」と記述している。同じ歌を、日本書紀では、「夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語味爾夜覇餓枳菟倶盧贈迺夜覇餓岐廻」と記述しており、「碁」は用いられていない。(「古代日本における「碁」(1)」参照)

【古事記のヤマトタケルの和歌に於ける「碁」文字記述考】
 次にヤマトタケルが大和を思い出して詠んだことで有名な「大和は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる大和しうるはし」という歌にも「碁」が出て来る。古事記では、「夜麻登波久爾能麻本呂婆多多那豆久阿袁加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯」と表記されている。「山隠れる」の箇所が「夜麻碁母禮流」と記述されており、「碁」が記述されている。こちらの歌でも、日本書紀では、「夜摩苔波区珥能摩保邏摩多多儺豆久阿烏伽枳夜摩許莽例屢夜摩苔之于屢破試」となっており、「碁」は用いられていない。 (「古代日本における「碁」(1)」参照)

【万葉集の柿本人麻呂の和歌に於ける「碁」文字記述考】
 万葉集の柿本人麻呂周辺の和歌題詞に「碁」が表記されている。まず人麻呂の方をみてゆくと、「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌」という題詞の歌の中に、「(略)槻木之己知碁智乃枝之春葉之茂之如久(略)」(巻二、210番)と記述されており、「碁」文字が登場している。「続萬葉仮名の研究」では、「碁智」という表記に対して「或る程度の義字的要素を認めるべきかもしれない」と注している。江口洌氏(元千葉商科大学教授)は、「囲碁には智慧を働かせるのだから、知字ではなくて智字を用いた」と説明した上で、「人麻呂は囲碁を知っていたのでしょうか」と記している。さらに江口氏は次のように述べて、人麻呂の歌での「碁」の使用が最古の用例であることを次のように指摘している。
 「この古典の史料では、常識と違って、万葉集の方が早い使用でしょう。(中略)万葉集の『碁』字使用の例は、『人麻呂作歌』のものであり、その歌の表記が、人麻呂自身によるものと指摘されています。人麻呂は8世紀はじめ(702年ごろ)に亡くなっています。古事記の完成時点より早いのです」。

補足をしておくと、万葉集中の人麻呂の歌は「人麻呂作歌」、「人麻呂歌集」とに大別される。「人麻呂作歌」は人麻呂が作者であることが確定している。「人麻呂歌集」の方は研究者によって見解が異なる(人麻呂の若い頃の作品群であるという研究者や、人麻呂本人の作品の他にも周辺の人々の作品なども含んでいるという研究者もあれば、後世作り上げられた人麻呂とは全く無関係な作品群とする研究者もいる)。先に挙げた歌は「人麻呂作歌」であることから、江口氏は人麻呂の「碁」の使用が古事記の用例よりも古いと指摘していることになる。

 巻四の500番の歌が、相聞歌「碁檀越往伊勢国時留妻作歌一首」(碁檀越が伊勢国に往く時、留まる妻がよめる歌一首)という題詞で、「神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也将為荒濱邊尓」(神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に)となっており、「碁」字が使用されている。江口氏は、この歌の前後の496番~499番、501番-503番が人麻呂の歌であることも指摘するとともに、人麻呂の歌である「潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島みを」(巻一、42番)との類似性も指摘している。(「古代日本における「碁」(2)囲碁史会会報第8号」参照)
 題詞[碁師歌二首]「祖母山霞棚引左夜深而吾舟将泊等万里不知母」(おほはやま 霞たなびき さ夜更けて 我が舟泊てむ 泊り知らずも)、「思乍雖来来不勝而水尾埼真長及浦乎又顧津」(思ひつつ 来れど来かねて 三尾が崎 真長の浦を またかへり見つ)。

 この他、万葉歌の中には「吾恋流碁騰」(あがこふるごと)、 「己知碁知乃枝之」(こちごちのえの) といった真仮名の碁の字が散見する。古来輩出する万葉研究家の定説では、ここに登場する「碁」を囲碁と結びつけるものはみえないようであるが、何らかの関わりを窺う方が自然だろう。

【日本に於ける碁石の浜伝説考】

古代日本における「碁」(3)」その他参照。 

 日本に於ける碁石伝説考その1、出雲国風土記(733年成立)に於ける「碁」文字記述考。「嶋根郡」の中に、玉江浜の笹子浦(佐々子浦、ささごうら)(現在の松江市美保関町片江1618)の玉結神社に「玉結浜」の伝説がも次のように記述されている。

 「玉結濱廣百八十歩。有碁石。東邊有唐砥。又有百姓之家」。
 (玉結びの濱に廣百八十歩の碁石あり。東の辺に麁砥あり。又、百姓の家あり)


 かく「碁石の浜」(ごいしのはま)伝説が記されており、玉結びの浜海岸から碁に適した黒石が採れたことを伝えている。白の碁石は貝を加工して作ったと云う。

 岸崎時照/著「出雲風土記ショウ」(1683年成文)は次のように記している。

 「玉結浜、今玉江浜、黒色碁子石今猶在牟。唐砥玉江と片江之間笹子浦猶亦在牟」。

 日本に於ける碁石伝説考その2、常陸風土記(717~724年選進)、万葉集の藤原宇合絡みに於ける「碁」文字記述考。常陸風土記の「多珂郡」の中に次の記述がある。

 「郡南廿里藻島駅家東南浜 碁子色如珠玉所謂常陸国所有麗碁子唯是濱耳」。
 (「郡の南廿里に藻島駅家(現・茨城県多可郡十王町伊師の小貝浜)あり。その東南の浜にある碁の色が珠玉の如し。いわゆる常陸国に有る麗わしき碁子は、唯この浜にのみあり」、「今の伊師町伊師本郷伊師浜は、皆な古の藻島なり。伊師を名とするは、けだし碁子を出すゆへなり。小貝の浜とも称す。種々の小貝五色の小石あり。砂も常の砂よりは、甚大粒にして金銀の光あり」、「昔、倭武天皇は、舟に乗り海に浮かび、島の磯を御覧ずるに、種々の海草が多く生い茂栄す。因って名づく、今亦然り」とある)


 かく「鹿島のハマグリの碁石」が名産として記述されている。この記述は、碁石の取れる浜が多珂郡に存在していることを示している。「囲碁は、奈良時代には中国から入ってきており、貴族たちに愛好されていた。その囲碁に用いられる美しい石がこの浜でとれるというのである。現在、伊師浜の国民宿舎鵜の岬の東の入江で白や黒の丸くひらたい石をひろうことができる」と解説されているが、前段の「囲碁は、奈良時代には中国から入ってきており、貴族たちに愛好されていた」は余計な記述だろう。ここは、常陸風土記の「多珂郡」の中に「碁石の浜」(ごいしのはま)の記述があることを確認し、囲碁が日本史の相当古い時代に存在したことを窺うべきだろう。

 この当時、常陸国司だったのが藤原宇合で、この宇合の常陸赴任の随行者に高橋虫麻呂がおり、虫麻呂が宇合の周辺の歌を高橋虫麻呂歌集の形でまとめたものが常陸風土記や万葉集にも用いられたと考えられている。

 北条時隣/著「鹿島志」(1823年成文)は次のように記している。

 「碁石浜、『例伝記』に『鹿島崎といふは東の荒海にて、碁石多く寄せ来る磯浜なり。碁石浜といふ』」云々、「また大神このところにて、外国の鬼と碁を打ちたまふなど云ふ俗説あり」、「常陸碁石は世に名高し。今もなほいと美麗き小石この辺りにおほかり。碁石の出づる浜はこの外、風土記の多可郡、出雲風土記の島根郡などに見え、伊勢国島崎は西行法師の歌に詠めり」。
 日本に於ける碁石伝説考その3、岩手県大船渡市の三陸海岸沿いに“碁石”のような黒い玉砂利が敷きつめられている碁石浜(ごいしはま)、末崎半島の先端にあたる碁石岬(ごいしみさき)を持つ碁石海岸がある。大船渡湾の南に突き出た末崎半島の先端約6kmの海岸線が碁石海岸で、国の名勝・天然記念物に指定されている。碁石海岸は全国渚・白砂青松100選に指定されている。さらに、その中にある雷岩から発せられる音は、国の「残したい日本の音風景百選」に指定されている。囲碁神社もある。 

 保田光則/著「新撰陸奥風土記」(1860年成文)は次のように記している。
 「一、碁石浜の黒碁石、気仙沼末崎村にあり。白石ハこの辺り鴎居と号する嶋在り。その嶋の上池中に碁子の白石をだす」。
 日本に於ける碁石伝説考その4、現在、白石は日向(ひゅうが、宮崎)の4km程の「お倉ヶ浜」が日本最後の産地となっており、ここから採れる蛤(はまぐり)の殻(から)で碁石を製造している。「お倉ヶ浜」は日本の渚百撰に選ばれている。但し、その日向産の蛤は絶滅寸前で、為に日向特産蛤碁石は僅かしか製造できず「幻の碁石」となっている。現在の原料の主力はメキシコ産蛤になっている。
 日本に於ける碁石伝説考その5、 黒石は三重県熊野市神川町でのみ算出する炭素を含む粘板岩の珪質頁岩(けいしつけつがん)の那智黒(なちぐろ)でつくるのを上等としている。那智黒石は金の純度を見分ける試金石にも使用されている。
 日本に於ける碁石伝説考その6、

 西行法師/著「山家集」(1180年頃成文)巻3の条は次のように記している。
 「雑、伊勢のたふしと申す島には、小石の白のかぎり侍る浜にて、黒は一つも混じらず、むかひてすが島と申すは、黒のかぎり侍るとなり」。
 すが島や 答志の小石 わけかへて 黒白まぜよ 浦の浜かぜ
 鷺島の小石の白をたか波の たふしの浜に 打ち寄せてける
 島崎浜の 小石と思ふかな 白もまじらぬすが 島の黒
 あはせばや さぎとからすと 碁をうたば たふしすが島 黒白の浜

 「和漢三才図会」(1712年成文)は次のように記している。
 「日本国より玉の碁子を貢す。言ふ、本国南に集賢島あり。上には手段の池あり。池の中より碁子を出す」。(集賢島は詳らかならず。紀州那智の浜か)
 日本に於ける碁石伝説考その7、

 「広益俗説弁」(1715年頃成文)は次のように記している。
 「俗説云う、もろこしの書に出たる手譚池は、豊後国佐賀関の白浜、黒浜のことをいふ。今按るに、手譚池は豊後国佐賀関にあらず。肥後天草にありと云う」。
(私論.私見)
 常陸(ひたち)国風土記と出雲(いずも)風土記その他に日本に於けるこのような碁石伝説が記されている。これは相当に重要な記述であり、大和王朝前の出雲王朝の御代に碁石が存在したということになる。当然、囲碁が打たれていたことになる。出雲王朝は紀元3世紀頃の邪馬台国の前の王朝と考えられる。ひの頃既に囲碁が日本に存在していたことになる。但し、これを直接に論証するに足りる史料は今のところない。奈良の藤原京で碁石が発掘されている。丸い自然石で、材質は黒石が黒色頁岩、白石が砂岩となっている。その作製年代を知りたいが分からない。

【日本に於ける碁盤考】
 碁盤は、木製では鹿児島、宮崎、大分、岐阜、茨城、栃木、神奈川などの各県産の榧(かや)の柾目(まさめ、天柾)を上等とする。ほかにも桂(かつら)などもよく用いられている。碁笥(ごけ、碁石を入れる器とふた)には木製では栗(くり)、欅(けやき)、桑などが用いられている。

【囲碁神社考】
 九州に「囲碁神社」(大分県由布市庄内町阿蘇野、097-582-1111)というお宮がある。囲碁の神様を祀っている珍しい神社で、黒岳の北東山麓の阿蘇野の麓に建立されている。JR庄内駅から南西に10キロメートルほど入った山深い場所で,近くに白水鉱泉がある。我が国で唯一の囲碁に関わる神社だという。祭神として、八意思兼神(ヤゴゴロオモヒカネ、智の神)、経津主命(フツヌシ、戦の神)、吉備真備(キビノマキビ、勝負の神)を祀っている。ある夏には囲碁大会が行われるほか、祭日には拝殿で「囲碁占い」が行われる。

 黒岳に入って道に迷った樵夫が山の中をさまよい歩くうちに、碁を楽しんでいる二人の仙人に出会ったという伝説の由来が次のように書かれている(庄内町観光協会大意)。
 「昔、木こりが道に迷って山中をさまよったが、二人の仙人が碁を打っているのに出会った。道を尋ねたところ、仙人が言うには『米のとぎ汁を流すので、それを辿れ』と。その言葉に従って木こりは無事に村に帰ることができた。村人が囲碁の神を崇めて三神を祭った。米の汁は今の白水鉱泉(天然の炭酸水)である」。

 松村緑/「ある時、大分から熊本、そして福岡と山中を車で走っていた。時が止まるような鬱蒼とした森を抜け、山里にさしかかろうとしたその時、忽然と現れたのが『囲碁神社』である。そこには仙人が三人で碁を囲んでいた絵図があった。そしてその謂れが石碑に刻んであった」云々。(高野圭介「第二章 日本の碁伝来と敷衍」参照)

【「囲碁に関連した地名」考】
 「歴史散歩とサイエンス」、「囲碁に関連した地名」その他によれば、日本の囲碁に関係する地名が次のように挙げられている。これらよると全国に広がっていることが分かる。
「碁盤坂」 北海道函館、京都府船井市。
「碁盤田」 愛知県西加茂郡。
「碁盤石」 德島県徳島市名東町。
「碁盤石山」 愛知県設楽(したら)町
「碁盤島」 石川県志賀町。
「碁盤ヶ岳」 大分県臼杵市。
「碁盤ヶ嶽」 山口県萩市。
「碁盤ノ辻」 長崎県諫早市。
「碁石」 岩手県久慈市、宮城県川崎町(近くに碁石川も流れている)、宮城県柴田町、秋田県本荘市、新潟県村上市(近くに碁石川も流れている)、愛知県南設楽(みなみしたら)郡、京都府船井郡、岡山県玉野市。
「碁石浜」 北海道弟子屈町、東京都大島町。
「碁石海岸」 岩手県大船渡市(碁石岬もある)。
「碁石沢」 茨城県石岡市。  
「碁石鼻」 福岡県福岡市西区。
「碁石山」 香川県小豆島市、愛媛県今治市。
「碁石ヶ森」 愛媛県西予市野村町。
「碁石ヶ峰」 石川県中能登町。
「碁石坂」 京都府京都市右京区。
「碁石婆」(ごいしばえ) 愛媛県西予市三瓶町。
「碁石町」 新潟県村山市。
「碁石村」 富山県氷見市、石川県羽咋(はくい)市。 
「碁点」 山形県村山市。碁点橋と碁点温泉の名称地もある。
「碁要」(ごよう) 德島県の三野町。
「天元台」 山形県米沢市。
「高目」 福島県西会津町。
「小目町」 茨城県常陸太田市。
「白黒小道」 神奈川県鎌倉市。
「八目」 滋賀県豊郷町。傍目八目にちなんで。
「団子石」 茨城県石岡市。そばに団子石峠がある。
「地合町」 島根県出雲市。

 他にも囲碁ゆかりの寺社、石碑、扁額、石盤等が確認できよう。これらにつき、もし囲碁が日本に輸入されたものなら、輸入元には囲碁地名、囲碁ゆかりのものが日本よりより多くあって然るべきだろう、と思うのだが。

【「燕山夜話」の囲碁記述】
 榊山潤・氏の「日中囲碁盛衰史」によれば、「『燕山夜話』に古代の日中囲碁戦のことがちょっと出ていますね。故志言の---日本の王子との---」とある。もう少し知りたいが分からない。

 「燕山夜話」は、北京市副市長で歴史学者の拓(とうたく、1912‐1966)の随筆。1961年刊。伝統的知識人の気風を受ける高踏的な作品。「海瑞罷官」(かいずいひかん、呉(ごがん)著)、「三家村札記(さつき)」(呉・拓・廖沫沙(りょうまつさ)共著)と共に毛沢東に批判され、文化大革命の突破口に使われた。





(私論.私見)