囲碁発祥譚考その1、発祥諭、伝来論 |
更新日/2021(平成31、5.1栄和改元/栄和3).1.18日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、囲碁の発祥史、及び発祥元の中国囲碁史を確認しておく。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
【囲碁の別名考】 | |
囲碁には昔から沢山の別名がある。それぞれ納得のいく別名であることに感心させられる。「黒白(こくびゃく)、烏鷺(うろ)、方円(ほうえん)、手談(しゅだん)、座隠(坐隠、ざいん)、忘憂(ぼうゆう)、欄柯(らんか)、腐斧(ふふ)、橘中(きっちゅう)、河洛、敲玉、清遊(楽)、聖(仏)技、小宇宙、棊・奕・棋」等々である。これを確認しておく。 | |
「烏鷺」(うろ)/これは、囲碁の黒石白石を黒い鴉(からす)と白い鷺(さぎ)に例えてのことであろう。「烏鷺の戦い」、「烏城、鷺城」との表現がある。 | |
「方円」/「方」が盤(碁盤)の方なること地の如し。「円」が石(碁石)の円きこと天の如しの寓意である。これにちなんで、明治初年に村瀬秀甫準名人は囲碁結社を創始して「方円社」と称した。 | |
「爛柯」(らんか)/「腐斧」(ふふ)。柯(か)は「斧の柄」、爛は「ただれる、腐る」の意で、「斧の柄が腐り果てる」ほどの長い時間を表現している。斧の柄(柯)が腐(欄)っても気がつかないほど夢中になることを暗喩している。次のような伝説がある。
という故事(「述異記上」)から生まれた雅称である。この話は少しづつ変わっていろいろ伝えられている。いったん里に帰った王質が再び山に入り、道を得た。つまり仙人になった。その後時折見かけたが、やがて行方が分からなくなった、と云う。また、太平寰宇記(たいへいかんうき)にある爛柯の説話では、王質が石室山で碁を囲んでいるのに出合ったのは、童子でなく仙人だった等々。 江戸末期に碁界四家元の一つ林派を主宰した舟橋元美は爛柯堂と号し、有名な囲碁エピソード集「爛柯堂棋話」を遺している。 |
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「橘中(きっちゅう)の楽(たのしみ)」/「橘中の仙」とも言って、中国の故事(幽怪録)に出てくる。巴(は)きょうの某(なにがし)と云う人が庭の巨大な橘(たちばな)の実を割ると、中で二人の仙人が碁を興じていたとの話である。橘の中は俗界と違う時間の流れる別天地で、囲碁はその小宇宙に遊ぶ神仙の遊戯と例えている。 | |
「忘優」(ぼうゆう)/晋書の中に「我亦忘優耳」(われまた憂いを忘るるのみ) とあり、これが史上初の登場といわれる。 | |
「手談」(しゅだん)/晋(AD 3~ 5世紀)の支公がこう呼んだ。英語で「Hand Talk」と訳されている。 | |
「坐隠」(ざいん)。居ながらにして隠遁するの意で囲碁三昧の境地を表現している。王担之は、「囲碁は遊戯中の王である。全ての遊戯は自分を忘れて喧噪になるが、碁は沈思を重んじる」として「坐隠」と言った。「世説新語」(巧芸編・劉義慶)の中で、「王中郎((担之)は囲棊を以て是れ坐隠なりとし、支遁(支道林)は囲棊を以て手談と為す」とある。「顔氏家訓」(雑芸)にも、 「囲棋は手談・坐隠の目にあり、頗る雅戯となす」とある。この言葉は日本にも比較的早く移入されており、 「日本紀」(875年)や菅原道真(845~903)の囲碁をうたった漢詩の中に出てくる。 | |
「河洛」/「河洛の図・九宮之位置」という別名に注目したい。この名の由来は古棋書「河図洛書」で、戦争の陣形を型取ったと思われる「魔法陣の数字」が書き込まれ、数を図像化、配列している。図示するのに黒丸白丸を用いており、これが碁に通じていると考えられている。囲碁はこのように戦争の机上作戦の道具として使われていたことになる。ちなみに安井仙知は打碁集「河洛余数」を上梓した。 | |
「敲玉」/「敲」は推敲の敲。「玉」は玉石の玉。つまり玉石を推敲するの意。1897(明治30)年に石谷広策が本因坊秀策の碁譜500局を編し、「敲玉余韻」と題して上梓している。又、1907(明治40)年に雁金準一が「敲玉会」を創立している。 | |
「棊・奕・棋」/記録に表れたもっとも古い文字は、甲骨文の「棊」。中国呉の時代(222~280)に書かれた「博奕論」(韋曜)に「枯棊三百」 と記されている。「枯棊」とは、木でできた碁石のことを指し、同時に三百個が1セットだったことも示されている。古代中国では元来、日本とは異なって碁石に適した自然石が少なく、身近な潅木などから手作りしたものと思われる。日本の寛永年間(1624-1644)に編さんされた「玄玄棊經俚諺鈔」という版本に、「碁石は元(もと)、木を似て造る、故に枯棊と云う」と注記している。「棊」は「棋」と同様、古代は「碁石」を意味していたことになる。 | |
「奕」/「春秋左氏伝」(左丘明)という書物の襄公25年(紀元前548年)の条に、 「君を視ること奕棋に如かず」と書かれているのが初見である。「奕棋」の 二文字が連結して使われている。時として「奕」も使われるが、これは俗字で「重なる」、「大きい」、「美しい」という意味で、「博奕」と書いて「ばくち」と読ませる。紀元1世紀末にできた最古の辞書「説文解字」には、「奕は圍棊也」とあり、 「圍棊」は文字どおり「棊(碁石)を圍む」ことを意味している。 「碁」の文字は、古今を通じて書聖と謳われている王義之(307-365?))によって書かれている。 なお、「圍碁」については唐代の顔眞卿(709-785)が「圍碁百事忘」と書いている(「竹山連句」)。 |
【囲碁の起源考】 | ||||||
金トミエ(上級班)の「囲碁の起源(바둑의 기원)」を転載する。
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日本人として、最初のノーベル文学賞を受賞した川端康成が、1953年呉清源棋聖と三日間寝食を共にしながら、囲碁に関する対談を通して、呉清源棋聖の囲碁哲学と見解を探索した後、「呉清源棋談」を著述した。当代の屈指の文学家と棋聖との出会いだったので、囲棋文化の真髓を探求した内容が、一句一句意味深長であるばかりである。「呉清源見解」が次のように解説されている。
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呉清源の「呉清源棋談」は次の通り。
呉清源が次のように述べている。
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幸田露伴「囲碁雑考」を転載する。
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【「孔子と孟子の囲碁観」】 | ||||||||
「オープニング宇宙(うちゅう)」を転載、参照する。 | ||||||||
古代中国の易や天文の摂理をつかさどる王侯貴族の"聖技"(ないし閑技?)といってもよい囲碁は、次第に戦争における用兵や兵法の研究
用具である"戦技"として尊ばれ、さらに僧侶や知識階級へと波及して いった。この頃には、いわゆる勝負を争う"遊技"へと変貌を遂げていたと思われる。 春秋時代の代表的な思想家で、儒家の祖といわれる孔子(前551 ~前479)は、「論語」(陽貨第十七)の中で次のように述べている。孔子の囲碁効用論である。
孔子は、論語のなかで「藝に遊ぶ」と表現している。この一節は、 水戸が誇る藩校の弘道館の軒先に額縁としてかがげられている。
次の句も、碁友を招いた時の句として読めば大いに首肯できるものがある。
孔子より179年あとに生まれた孟子(前272~前289)は、「孟子」 (告子章句上)の中でこう述べている。
別の章では、博奕=囲碁そのものを悪とみなしているほどでもないが、「酒を飲みながら碁を打ち、父母の孝養を顧みないのは不幸である」といっている。当時、すでに囲碁の熱中弊害が問題になっていたことが分かる。 |
【囲碁のはじまり】 | ||
「1、囲碁のはじまり」、「囲碁の起源」その他を参照する。 | ||
囲碁の始まりにつき、「坐隠談叢」は次のように記している。
囲碁の目的起源ははっきりしている。元々、囲碁は天文学、暦学(こよみ、カレンダー)、占星術(占い)の道具として生まれたものと思われる。即ち、碁盤は宇宙、碁石は星の代わりのものである。この起源をも中国に求めるのが通説で、「中国で占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないかと云われている」が、正しくは不詳としておきたい。不詳とは、はっきりしないと云う意味である。即ち日本発とも考えられる余地がある故にである。 囲碁の歴史起源もはっきりとは判っていない。通説として四千年ぐらい前の中国で始まったと云われている。インドに始まりインドから中国に入ったとの説もある。書経によれば、「昔、中国の王様(尭・舜帝)が、囲碁を創って子どものしつけのため教えた」と記している。春秋左氏伝(左丘明)の襄公25年(紀元前548年)の条に、「君を視ること奕棋に如かず」とある。紀元前91年、漢武帝代に司馬遷が完成させた「史記」に「堯舜の囲碁創始説」が記されている。その内容中、何カ所かに囲碁に関する話が記述されている云々。但し、堯舜が囲碁を創製したという伝説は記載されていないとの評もあり定かではない。中国の晋代の張華が著述した「博物誌」に「堯造囲碁丹朱善之」、「中興書」に「堯舜以教愚子也」と記されていると云う。 堯舜神話の一節に「堯舜の囲碁創始説」がある。その伝説は次の通り。呉清源棋聖の随筆「囲碁の起源」等々を参照する。
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中国の元代の舜帝9年(1349年)に、晏天章と厳徳甫の2人が共同編著した中国古典棋書「玄々棊経」の序文に次のような文章があるとのことである。これを確認しておく。
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【天文学としての囲碁】 | |||
碁盤は宇宙、碁石は星を表しており、暦(カレンダー)や占いに使われていたという説もある。次のように云われている。
後に日本人として最初のノーベル文学賞を受賞することになる川端康成が、1953年、呉清源棋聖と三日間寝食を共にしながら、囲碁に関する対談を通して、呉清源棋聖の囲碁哲学と見解を探索した後、「呉清源棋談」を著述している。その中で、呉清源棋聖が次のように述べている。
碁盤の路数の大昔は17道×17道の289路だったとのことである。凡そ中国の唐の時代から19道×19道の361路になったと云われる。361路のうちの1路は天元が占め、後の360路を四分して春夏秋冬の四季に分ける。1季は1隅である。1隅の数は90であり、1季の日数に匹敵する。外周は19道×4の72路であり、これは天文の月齢に於ける72候を象(かたど)る。盤面は大地であり、石の白黒は陰陽を示す。 碁盤の路数の変遷につき、「呉清源棋談」は次のように記している。
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【論語、孟子の中の囲碁の記述】 | |
中国の古書に囲碁が登場するのは、紀元前770~前221年頃の春秋・戦国時代である。山海経、坐隠談叢、博物誌、史記、論語、孟子など古い文献に囲碁のことや故事などが記されている。 「史記」に春秋時代の宋の君主・閔公(びんこう)が部下の南宮万と対局していたときに、閔公が負けそうになったときに悔し紛れで南宮万を侮辱し、怒った南宮万により碁盤で殴られて殺されたと言う。しかし閔公と南宮万がしていた遊戯が囲碁だったかははっきりせず、別の博打・双六のようなものだったとも考えられている。 囲碁は戦略、政治、人生のシミュレーションゲームとして広まっていた。古くから中国では、知識人の嗜みとして「琴棋書画」(きんきしょが)を習わせた。琴(きん)は音楽、棋(き)は囲碁、書(しょ)は書道、画(が)は絵のことを指す。 シルクロードの要衝として有名な敦煌は、490余の石窟群の存在やシルクロードの要衝として著名である。1899年頃、第16石窟からおびただしい経典や古文書が発見され一躍世界中の注目を浴びた。一万点を超える文物の中に、ほぼ完全な「碁経」が一巻含まれていた。 巻物は北周時代の写本といわれ、「世界最古の棋書」となる。長い間大英博物館に眠っていたが、1934年に中国の張萌麟(元清華大教授)が「碁経」を見出して「國聞週報」ではじめて紹介した。 現在最古の棋書(碁書)は、北宋徽宗(在位1100-1125)の時代に 成立した「忘憂清楽(ぼうゆうせいらく)集」と相場が決まっていた。 編者は不明だが、木こりの王質と仙人の対局譜から後漢の呉の武将・孫策と呂範の局、晋の武帝(司馬炎)と王済の局、唐の玄宗と鄭観音の局などが収録されている中国の棋書である。かなり古い時代の碁を取り上げているが、碁譜の信憑性について は大いに疑問の残る本といわれている。例えば、「坐隠談叢」の改補者であり、「中国古棋譜散歩」の編者でもある渡辺英夫プロは、次のように述べている。
孫策と呂範の棋譜は1700年以前であり、晋の武帝の棋譜も1690年前の話になる。20世紀に入ってから出土した古代の基盤を見る限りでは、この当時には19路盤を使用した形跡が少なく、第 一、これほど古い時代から棋譜を残す習慣があったのか、という疑問が浮かぶ。 北宋期以降の棋譜は本書の成立時期と同時代で、登場人物も実在とみなされるので本物と見てもよくその他は"作り物"ないし"遊び心"の発露 と見るのが無難である。渡辺説を尊重して従来の「孫策・呂範局」を作り物と判定し、閻景実・顧師言局ないし賈玄・希燦局を便宜的に最古の棋譜とする。 |
【囲碁の起源考】 | ||||||||||||||
2013/2/3日、「囲碁の起源主張して世界中から軽蔑される」を転載し、これにコメントしておく。(読み易くするため、文意を変えない条件下での表記替えをしている)
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「【1】まず第一に、日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は、原則として『中国』となっています。逆に『日本起源説』を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげて紹介すべきです」なる回答について意見申し上げておく。かくなる回答、ないしは態度をもってすれば悶着は起こらないであろうが、但し、そのことと歴史的真実とは別である。この回答者は、日本起源説を否定して中国起源説を断定することが正義のように吹聴しているが、こういう耳目に入りやすい態度をとるのも一法ではあるが、歴史的真実は尋ね続けて行かねばならない。必要なことは、囲碁の起源国を主張する者があれば、それを証明させることであり、それを互いに検証することである。必要なのはこの作業ではないだろうか。この検証抜きの日本起源説論も中国起源説論も採るべき態度ではないと思う。「今となっては未解」、これが我が輩の執る態度である。 したがって、次のような「囲碁の発祥・歴史は、少なくとも2000年以上前までに遡ることができます。そして、古代インドから発祥し、東アジアを中心に発展してきました」との仏教伝来説を髣髴とさせられる解説も、耳目には入り易いが我が輩の執る態度ではない。 2018.5.21日 囲碁吉拝 |
【将棋の起源考】 |
日本将棋のルーツはチェスと同じく、古代インドのチャトランガで、日本には遅くとも平安時代に伝わったとされている。チャトランガは古代インドで5世紀ころ発生したらしいということが最近のチェス史の研究で明らかになっている。日本将棋の資料は、1993年、奈良の興福寺で発見された1058年の年号が入った木簡と共に10点以上の日本将棋の駒を嚆矢とする。日本の将棋がいつどのようにして伝わったのか。最初日本に伝わった将棋はどのようなものだったのか。日本将棋特有の持ち駒使用のルールはいつごろできたのか。日本将棋の根幹に関わるこのようなことは依然として分かっていない。 日本将棋には世界のほかの将棋類とは違った特徴がいくつかある。持ち駒使用がその代表で、他にも双方が全く同じ駒を使うこと(だから、取った駒の再使用がしやすい)。木片五角形の駒に文字を書いて使うなどの特徴がある。これによれば、日本に伝わった将棋は日本独自の社会や文化の中で、かなりルールや形態が変わっていったと考えられる。 初代宗桂と本因坊算砂の一戦。算砂と宗桂をつなぐキーワードは徳川家康。16世紀後半、太閤秀吉が天下を取っていた時代、徳川家康は五大老の筆頭としてナンバーツーの座にあった。その家康が大名や公家、上級武士などをもてなすと同時に政治的な情報を集めるため、囲碁と将棋の会を頻繁に催した。その会に算砂と宗桂は講師として常に招かれていた。そうした縁が長く続き、やがて家康が天下を取ったとき、算砂や宗桂には俸禄(ほうろく)が与えられることになり、それが囲碁家元、将棋家元の誕生へとつながっていく。 |
(私論.私見)