囲碁発祥譚考その1、発祥諭、伝来論

 更新日/2021(平成31、5.1栄和改元/栄和3).1.18日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、囲碁の発祥史、及び発祥元の中国囲碁史を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【囲碁の別名考】
 囲碁には昔から沢山の別名がある。それぞれ納得のいく別名であることに感心させられる。「黒白(こくびゃく)、烏鷺(うろ)、方円(ほうえん)、手談(しゅだん)、座隠(坐隠、ざいん)、忘憂(ぼうゆう)、欄柯(らんか)、腐斧(ふふ)、橘中(きっちゅう)、河洛、敲玉、清遊(楽)、聖(仏)技、小宇宙、棊・奕・棋」等々である。これを確認しておく。
 「烏鷺」(うろ)/これは、囲碁の黒石白石を黒い鴉(からす)と白い鷺(さぎ)に例えてのことであろう。「烏鷺の戦い」、「烏城、鷺城」との表現がある。
 「方円」/「方」が盤(碁盤)の方なること地の如し。「円」が石(碁石)の円きこと天の如しの寓意である。これにちなんで、明治初年に村瀬秀甫準名人は囲碁結社を創始して「方円社」と称した。
 「爛柯」(らんか)/「腐斧」(ふふ)。柯(か)は「斧の柄」、爛は「ただれる、腐る」の意で、「斧の柄が腐り果てる」ほどの長い時間を表現している。斧の柄(柯)が腐(欄)っても気がつかないほど夢中になることを暗喩している。次のような伝説がある。
 「西暦紀元前凡そ7百年の中国の春秋時代の晋の国の伝説で、河南省信安の石室山の麓に王質という木樵(きこり)が住んでいた。ある日、近くの石室山(石橋山とも云う)の奥深く二入って行ったところ、山中の洞窟で四人の童子たちが楽しそうに碁を打っていた。碁好きの王質は立ち去りがたくなり見ていると、童子が王質にナツメの種のようなものを差し出して、「美味しいよ。これを食べれば、いつまでたっても腹が減らないよ」と云う。王質は斧を肩からおろし、腰をすえて碁の観戦をし始めた。不思議にもお腹が空かず、見ているうち時のたつのをすっかり忘れた。しばらくすると童子が言った。『ほらほら、あなたの斧の柄が腐っているよ』。見れば持っていた斧の柄が腐りはてていた。驚いて家に帰ってみれば村の様子がおかしい。道を行き交う人は誰も知らない人ばかりだった。ようやく我が家とおぼしきところまで辿り着いたが、王質から七代目の末裔が住んでいた」。

 という故事(「述異記上」)から生まれた雅称である。この話は少しづつ変わっていろいろ伝えられている。いったん里に帰った王質が再び山に入り、道を得た。つまり仙人になった。その後時折見かけたが、やがて行方が分からなくなった、と云う。また、太平寰宇記(たいへいかんうき)にある爛柯の説話では、王質が石室山で碁を囲んでいるのに出合ったのは、童子でなく仙人だった等々。

 江戸末期に碁界四家元の一つ林派を主宰した舟橋元美は爛柯堂と号し、有名な囲碁エピソード集「爛柯堂棋話」を遺している。
 「橘中(きっちゅう)の楽(たのしみ)」/「橘中の仙」とも言って、中国の故事(幽怪録)に出てくる。巴(は)きょうの某(なにがし)と云う人が庭の巨大な橘(たちばな)の実を割ると、中で二人の仙人が碁を興じていたとの話である。橘の中は俗界と違う時間の流れる別天地で、囲碁はその小宇宙に遊ぶ神仙の遊戯と例えている。
 「忘優」(ぼうゆう)/晋書の中に「我亦忘優耳」(われまた憂いを忘るるのみ) とあり、これが史上初の登場といわれる。
 「手談」(しゅだん)/晋(AD 3~ 5世紀)の支公がこう呼んだ。英語で「Hand Talk」と訳されている。
 「坐隠」(ざいん)。居ながらにして隠遁するの意で囲碁三昧の境地を表現している。王担之は、「囲碁は遊戯中の王である。全ての遊戯は自分を忘れて喧噪になるが、碁は沈思を重んじる」として「坐隠」と言った。「世説新語」(巧芸編・劉義慶)の中で、「王中郎((担之)は囲棊を以て是れ坐隠なりとし、支遁(支道林)は囲棊を以て手談と為す」とある。「顔氏家訓」(雑芸)にも、 「囲棋は手談・坐隠の目にあり、頗る雅戯となす」とある。この言葉は日本にも比較的早く移入されており、 「日本紀」(875年)や菅原道真(845~903)の囲碁をうたった漢詩の中に出てくる。
 「河洛」/「河洛の図・九宮之位置」という別名に注目したい。この名の由来は古棋書「河図洛書」で、戦争の陣形を型取ったと思われる「魔法陣の数字」が書き込まれ、数を図像化、配列している。図示するのに黒丸白丸を用いており、これが碁に通じていると考えられている。囲碁はこのように戦争の机上作戦の道具として使われていたことになる。ちなみに安井仙知は打碁集「河洛余数」を上梓した。
 「敲玉」/「敲」は推敲の敲。「玉」は玉石の玉。つまり玉石を推敲するの意。1897(明治30)年に石谷広策が本因坊秀策の碁譜500局を編し、「敲玉余韻」と題して上梓している。又、1907(明治40)年に雁金準一が「敲玉会」を創立している。
 「棊・奕・棋」/記録に表れたもっとも古い文字は、甲骨文の「棊」。中国呉の時代(222~280)に書かれた「博奕論」(韋曜)に「枯棊三百」 と記されている。「枯棊」とは、木でできた碁石のことを指し、同時に三百個が1セットだったことも示されている。古代中国では元来、日本とは異なって碁石に適した自然石が少なく、身近な潅木などから手作りしたものと思われる。日本の寛永年間(1624-1644)に編さんされた「玄玄棊經俚諺鈔」という版本に、「碁石は元(もと)、木を似て造る、故に枯棊と云う」と注記している。「棊」は「棋」と同様、古代は「碁石」を意味していたことになる。
 「奕」/「春秋左氏伝」(左丘明)という書物の襄公25年(紀元前548年)の条に、 「君を視ること奕棋に如かず」と書かれているのが初見である。「奕棋」の 二文字が連結して使われている。時として「奕」も使われるが、これは俗字で「重なる」、「大きい」、「美しい」という意味で、「博奕」と書いて「ばくち」と読ませる。紀元1世紀末にできた最古の辞書「説文解字」には、「奕は圍棊也」とあり、 「圍棊」は文字どおり「棊(碁石)を圍む」ことを意味している。 「碁」の文字は、古今を通じて書聖と謳われている王義之(307-365?))によって書かれている。 なお、「圍碁」については唐代の顔眞卿(709-785)が「圍碁百事忘」と書いている(「竹山連句」)。

【囲碁の起源考】
 金トミエ(上級班)の「囲碁の起源(바둑의 기원)」を転載する。
 ★囲碁を打つ人、囲碁を話す人は、全世界で数千万名もいるが、囲碁がいつ頃、誰によって始められたか、断定して話すことが出来る人はいない。中国からすでに3千余年の歴史をもった囲碁が、今は欧米各国にまで広がり普及して、今や囲碁文化の全盛期を迎えるように発展している。囲碁の長久な歴史に比べて、その史実を書いた文献は、極めて少ない。ただ、中国の場合、断片的な古碁書はたくさんあるが、歴代の史実を体系的に集大成した書誌は、極めてめったにない。

囲碁に関する中国歴代の史実を抜粋、収録した≪歴朝奕事輯略≫や、日本の史実を集めて書いた≪座隠談叢≫位があるだけで、早くから善碁国として知れわたって来た我が国の囲碁史実は、やっと何行ずつ記録された断片的なもので、あちらこちら散らばっているだけで、韓・中・日三国の囲碁の歴史を体系的かつ正確に集大成することができる時期が、いつ頃になるのかは、遼遠である。

 堯舜創始説

 囲碁は中国から発生したことが確実としても、いつ、誰が、どこで創案したのかに対しては、探求の糸口さえ知ることが難しい。従来の囲碁史は、大部分その起源を古来の伝説に依存している。その伝説さえも、広く知れわたることはあっても、発生の根拠が不確実である。起源の伝説は、どんな正史でも見つかることが出来ないが、中国の古碁書には多く記載されている。囲碁の発生に関して興味ある点は、中国の古代王朝の創世期神話と深い関連がある点である。中国の晋代の張華が著述した≪博物誌≫に‘堯造囲碁丹朱善之’と記されている。また≪中興書≫には、‘堯舜以教愚子也’という原文がある。

愚子というのは、堯帝の息子である丹朱と舜帝の息子である商均を指すことである。堯舜といえば、誰でもよく知っている古代中国の伝説上の聖帝である。ところが、その息子達は、不肖であったので、帝位を継承するには不適当であると考えられた。こうして堯帝は、臣下中で、東西南北の四諸侯の長である四嶽が推挙した、善良で徳が高い舜に会うことになった。堯帝は自分の2人の王女を舜と結婚させて、2人の婦人をどのように感化させながら暮らすのかを観察するなど、三年間、舜の行跡と品格を注視した。舜こそ聖人君子であり、帝王位を譲ることに十分な人物であると、心を決めて、譲位の意志を固めた。最初、丁寧に遠慮していた舜は、堯帝が死んだ後、王子の丹朱を固く押し立てたが、諸侯達の希望を退くことができなく、天命として受け入れて、61才となる年に、天子に即位するようになったのである。

 以上は、≪史記≫に記述されている内容である。紀元前91年漢武帝代に司馬遷が≪史記≫を完成したが、その内容中、何カ所かに囲碁に関する話が記述されているが、堯舜が囲碁を創製したという伝説は、記載されていなかった。一般的に、中国では事物の起源に関して、堯舜聖帝と関連つける場合が多くあるが、漢代の文献には囲碁の起源の伝説を見つかることができない。堯舜による囲碁の創始伝説は、更にその後も脚色された。呉清源棋聖の随筆に記述された内容が面白いので、その一部を紹介する。

堯帝は、今の山西省の太原に都を定めていた。長年の治世を極めたが、晩年に悟りがあり、聖賢を探して帝位を譲ろうと決心した。それで、平素仲良くしていた仙人の蒲伊に会って相談した後に方針を決める考えで、高い山中に住んでいた蒲伊を訪ねて言った。最初には蒲伊に帝王の席を譲位したいことを言ったが、蒲伊はこれを固く拒絶し、深く入り込んでいる田舎で農業を営んでいた舜を暗示的に指目しながら、2人の娘を一緒に舜と結婚させて、帝位を譲るように勧めた。合わせて、堯帝の息子である丹朱の身上に対しても心配しながら、彼の品性に適している奕枰、すなわち囲碁を教えるように、答えたのであ。堯帝がその理由をきくと、仙人蒲伊は、次のように語った。

“万物の数は、一から始まる。盤面には361路の目があり、一という数の根源は、天元から始発して四方を制御する。360という数は、天が一回転する日数を表現し、四隅に分かれている事は、春夏秋冬の四季を意味する。外周の合計が72路であることは、1年を72節候で区分する事と同じであり、360個の碁石が黒白半々であることは、隠か陽を表示しているのである。棋盤の線を枰といい、線と線の間を罫と言う。碁盤は四角く静的であるが、碁石は円形で、動的である。昔から現在に至るまで、無数の囲碁が打たれてきたが、同一な局面の囲碁は、一局も再現できなかった。このことこそ、日日新の意味を含蓄んでいるのである。”

このように話した仙人蒲伊から堯帝が囲碁を習うようになり、これを丹朱に伝授した事が、この世に囲碁が普及するようになった始初だったというのに、仙人がもっと詳しく説くことに、囲碁は発興存亡の技芸である故に、丹朱の品性気質でみて、囲碁に没頭したなら、次々囲碁をうつのに興味を持ち、世の中から蛮勇を使わないようになるだろうと言った。

これに関して、否定論がないこともない。中国の古典の中で≪玄々棊経≫という棋書がある。≪玄々棊経≫は中国の元代の舜帝9年(1349年)に、晏天章と厳徳甫の2人が共同編著した棋書であるが、その序文に次のような文章がある。

“昔に、中国の古代の皇帝堯舜は、囲碁を創案して、彼らの息子にこれを教えたと言う。ある人が疑問を抱き、堯帝の息子丹朱と舜帝の息子商均が、2人とも愚かな者だったと聞いているが、当然、聖君と崇め敬われた堯舜が、息子に仁義礼智の道理を教えつべきであって、どうして暇つぶしの道具を作って教えることによって、その愚かさをもっと助長したのだろうか。そんなはずがない。”と、否定の論理を記述した。そうしながら、≪玄々棊経≫の編者は、囲碁に対して次のように説明した。

“囲碁という物は、その現状で見て、天は天圓、地は四角い模様と似ているように作られていて、黒白の争いには、天地陰陽動静の道理が働くのである。囲碁を打っていく盤面上には、天の星のように秩序整然としていて、局面の推移は風雲の変化のような気運を含蓄している。生きていた碁石が死ぬこともあり、全局面を通して変化して行く流れの様相が、まるで山河の表裡の勢いを現わす調和と同じなので、人間世界の道理や浮沈が、全て囲碁の理致と同じではないものはないのである。”

本来、囲碁の起源が神話的不可思議さを内包しているので、神秘的に思われる事もあるが、≪玄々棊経≫の記録内容と同じ棋理棋法の奥深さが、至極な故に、もっと幽玄の境地を満喫するようになるかも知れない。

 日本人として、最初のノーベル文学賞を受賞した川端康成が、1953年呉清源棋聖と三日間寝食を共にしながら、囲碁に関する対談を通して、呉清源棋聖の囲碁哲学と見解を探索した後、「呉清源棋談」を著述した。当代の屈指の文学家と棋聖との出会いだったので、囲棋文化の真髓を探求した内容が、一句一句意味深長であるばかりである。「呉清源見解」が次のように解説されている。
 「呉清源棋聖の想像であるが、彼の見解では、囲碁の構成が当初には、天文学を研究する道具だったという考えである。堯帝が息子である丹朱に一種の遊びの道具ではなく、天文を研究する道具として囲碁を教えてあげたということである。囲碁を勉強して、易や祭礼に関する教養を分かるようにするという意味で、教えてあげたという話である。呉清源棋聖の想像では、囲碁を堯帝が創製する前に、既に天文や易の道具に使用していたということである。

 囲碁を漢字で棊、又は奕と書くが、奕・易・医は中国の発音で、‘イ’と読み、暦は‘リ’と発音するので、殆ど似ていたということである。遠い昔、中国の統治概念は、祭政一致が基本であったために、易や天文や天命、すなわち神の命令や暗示と深い関係があると考えるということである。

従って、囲碁板をもって、天文を伺い、易を調べたと見て、堯帝が丹朱に囲碁を教えたことも、祭政の中から、祭の方を任せるようにしたのだという見解が、呉清源棋聖の想像である。伝説は幻想的であり、美しいものである」。

 呉清源の「呉清源棋談」は次の通り。
 「よく人から棋道の上達法、研究方針を質問されますが、私は碁の修行には二つの途があり、それを併用してこそ、初めて優曇華(うどんげ)の花が咲くと信じております。昔から志は大きく持てと云います。棒ほど願って針ほど叶うのが又世の常ですから、私も無論大名人を目指して361路の精進を続けておるのですが、大名人たる為には、これから述べる修行の二途を措いては他に術がないような気がします。

 その二途とは、第一が手段の研究、第二が精神(こころ)の修行であります。第一の手段の研究は今更申すまでもなく、全ての専門家が夜を日に次いで没頭しつつあるところのもので、定石の解剖、新手の発見等々、詰碁の究理から対局の実戦熟練まで、これ皆な一つとして尊い踏み石ならざるはないのであります。これを鏡に例えれば、手段の研究はこの鏡の面に溜まった埃を一つ一つ払い去って行く工作でありませう。一歩一歩撓(たわ)みなき努力が払われねばならぬのは云うまでもないのであります。

 しかし、この手段の研究だけでは、大名人になれないのであります。何故なら盤上は変化無窮なのでありますから、経験の蓄積たる第一の研究法のみでは、臨機の慧(恵)光が閃かぬのです。『玄玄碁経』によりますと、8段を坐照としてあります。坐照の註に曰く、不労心思、神遊カツ内と。カツとは方寸の意です。又、名人を入神としてあります。神とは孟子にいわゆる、『聖而不可知之謂神』とある通り、その手段に至っても無にして而して有なるものでなければならないのです。

 ですから、この境地は、実に第二の精神の修養によって、やっと到達すべきところのものなのでありませう。精神の修養、これを鏡に例えてみますと、前者が表面の埃を拭い取る工作だったのに比して、これは鏡を奥底から、真底から光らせる作業なのであります。

 私は次のように考えております。即ち天地は春から夏にかけて力を出し、秋から冬にかけて力を養っているのだと。人間の腕でもそうです。グ-ッと伸び切る時が力を出す時、屈する時が力を養う時なのでありませう。従って棋士も力を出すばかりではなく力を養って行かねばならないのではないでせうか。そしてその養力は、前述の鏡を真底から光らせる作業だと信じます。

 宗教にも色々あります。例えば儒教は第一の方法たる鏡の表面の埃を一つ一つ拭って行くもののようであります。忠孝はその重要なる定石でありませう。これなれば間違いなく、又一歩は一歩と確実に前進改良されて行くのであります。これに対して仏教は神の如く悠然として悟りに入るもので、良知良能はかくてこそ達し得られるのではないでせうか。鏡を真底から光らせるのはこれだと思います。(以下略)」。
 「大昔には、ご承知のように、文字はありませんでした。しかし、文字ができる前から、天文の研究はおこっていたと思います。堯帝の時代になると、その研究がかなり進んでいたらしく、天文学は帝王の学問とでも言いますか、要するにそれによって、人々に時を授けるのですね。いつ種をまいたらいいかというようなことです。堯舜に天下を譲った時にも、天の暦数は汝の身にあり、と言っています。これには運命という意味もあるでせう。昔の中国では、天は神意や人間の運命を示すと考えられていましたが、もう一つは暦のことで、天の運行によって暦を教えられたのです。大昔の人間の生活、殊に農業は、季節や天候に左右されたものです。帝王は暦を知って、暦を知らない人々に、時を授ける、つまり、種をまく時とか刈り入れる時とかを示すのが、大切なことだったでせう」。
 「ところが、文字のできたのは殷の時代ですか。殷の前からあったとしても、非常に少なかったでせう。例えばいろいろの形に結んで、その形を文字の代わりの符号にしていた時代もあるようです。また文字ができた始めは、誰でも読めるという訳にはまいりません。とにかく、まだ文字がないか、少しはあっても不自由な時代は、天文を研究するにも、今日のように書物や記録によることはできません。そうすると、何によって研究したかというと、今の碁盤ですね。今の碁盤のように線を引いて、白墨で陰陽の動きを知る。天体は360ですから----。おそらく碁盤の目と白黒の石とは、勝負を争うものではなく、天文を研究した道具だったろうと、私は思っています」。

 呉清源が次のように述べている。
 「碁は中国神代の時からあったらしい。神技とは、まことにこのことをいうのであろう。邃遠幽玄、覗けば覗くほど天地下は広く深い。私ら、凡庸の頭からすれば碁は神が創造したとしか考えられないのである」。
 「碁というものは中国の哲学であるところの三百六十の陰陽-つまり天文学に関係しておこったものではないかと思います。碁盤の目は三百六十一、そして天体は三百六十から成っていますね。碁は最初は勝負事ではなかったのではないでしょうか。天文を研究する道具じゃなかったのでしょうか」。
 「碁盤の中央、天元(太極)の一点は数の始めであり万物の根源とみなす。三百六十は太陽が天をまわる日数を象(かたど)っている。また、盤を四分して一隅の九十路は四季それぞれの日数を表し、外周の七十二路は七十二候、そして白黒の石三百六十は陰陽にのっとっている」。
 幸田露伴「囲碁雑考」を転載する。
 棊は支那に起る。博物志に、尭囲棊を造り、丹朱これを善くすと云ひ、晋中興書に、陶侃荊州の任に在る時、佐史の博奕の戯具を見て之を江に投じて曰く、囲棊は尭舜以て愚子に教へ、博は殷紂の造るところなり。諸君は並に国器なり、何ぞ以て為さん、といへるを以て、夙に棊は尭舜時代に起るとの説ありしを知る。然れども棊の果して尭の手に創造せられしや否やは明らかならず。猶博物志の老子の胡に入つて樗蒲を造り、説文の古は島曹博を作れりといふが如し。これを古伝説と云ふべきのみ。

 但し棊の甚だ早く支那に起りしは疑ふべからず。論語に博奕といふ者あらずやの語あり。孟子に奕秋の事あり。左伝に太叔文子の君を視る奕棊に如かず、それ何を以て免れん乎の語あり。特に既に奕秋の如き、技を以て時に鳴る者ありしによれば、奕の道の当時に発達したるを察知するに足る。仮令尭の手に成らずとするも、奕は少くも周もしくはその前に世に出でたるものなること知るべし。

 棊の由つて来ること是の如く久しきを以て、もし棊に関するの文献を索めんには、厖然たる大冊を為すべし。史上に有名なる人物の棊に関する談は、費と来敏との羽檄交馳する間に於て対局したるが如き、王粲が一局の棊を記して誤らざりし如き、王中郎が棊を座隠といひ、支公が手談と為せる如き。袁が棊を囲みながら、殷仲堪の易の義を問ふに答へて、応答流るゝが如くなりし如き。班固に奕旨の論あり。馬融に囲棊の賦あるが如き。晋の曹、蔡洪、梁の武帝、宣帝に賦あるが如き。魏の応に奕勢の言あり。梁の沈約に棊品の序あるが如き。唐より以下に至つては、詩賦の類、数ふるに暇あらざらんとす。然れども梁に棊品あるのみ、猶多く専書有る無し。宋の南渡の時に当つて、晏天章元棋経を撰し、劉仲甫棋訣を撰す。これより専書漸く出づ。明の王穉登奕史一巻を著はして、奕の史始めて成る。明の嘉靖年間、林応竜適情録二十巻を編す。中に日本僧虚中の伝ふる所の奕譜三百八十四図を載すといふ。その棋品の高下を知らずと雖も、吾が邦人の棋技の彼に伝はりて確徴を遺すもの、まさにこれを以て嚆矢とすべし。予の奕に於ける、局外の人たり。故に聞知する少しと雖も、秋仙遺譜以下、奕譜の世に出づる者蓋し甚だ多からん。吾が邦随唐に往来するより、奕を伝へて此を善くする者また少からず。伝ふるところの談、雑書に散見するもの亦多し。本因坊あつて偃武の世に出づるに及び、蔚然一家を為し、太平三百年間、雋異の才、相継で起り、今則ち禹域を圧すといふ。奕譜も亦甚だ多し。然れどもその図譜以外の撰述に於ては甚だ寥、彼と我とを併せて、棋経十三篇に及ぶものなし。十三篇は蓋し孫子に擬する也。中に名言多きは、前人既にこれを言ふ。棊有つてより以来、言を立て道を論ずる。これに過ぐる者有る無し、目して棋家の孫子と為すも、誰か敢て当らずとせんや。棋は十三篇に尽くといふも可ならん。杜夫子、王積薪の輩、技一時に秀づと雖も、今にしてその観るべきなきを憾む。棊の大概、是の如きなり。

【「孔子と孟子の囲碁観」】
 オープニング宇宙(うちゅう)」を転載、参照する。
 古代中国の易や天文の摂理をつかさどる王侯貴族の"聖技"(ないし閑技?)といってもよい囲碁は、次第に戦争における用兵や兵法の研究 用具である"戦技"として尊ばれ、さらに僧侶や知識階級へと波及して いった。この頃には、いわゆる勝負を争う"遊技"へと変貌を遂げていたと思われる。

 春秋時代の代表的な思想家で、儒家の祖といわれる孔子(前551 ~前479)は、「論語」(陽貨第十七)の中で次のように述べている。孔子の囲碁効用論である。
 「飽食終日、無所用心、難矣哉、不有博奕者乎、為之猶賢乎巳」
 (腹いっぱい食べて頭をはたらかせることなく無為に日を過ごすことよりは双六や囲碁でもしているほうがまだましだ)。

 孔子は、論語のなかで「藝に遊ぶ」と表現している。この一節は、 水戸が誇る藩校の弘道館の軒先に額縁としてかがげられている。

 「志於道 拠於徳 依於仁 遊於芸
 (正しい道を志し、徳を根拠とし、仁に依って芸(教養)のなかに遊べ)
 (解説)孔子の言う芸とは教養であり、学問と礼儀作法、武芸も含まれていたと思われる。人としての最高の生き方として、正しい道を志し、徳に寄り添い、人への愛情、仁を大切にしつつ、教養(芸)のなかに遊んで人格を陶冶しなさい、と説諭している。

 次の句も、碁友を招いた時の句として読めば大いに首肯できるものがある。
 「朋あり遠方より来る。また楽しからずや」(「論語」の「学而編」の中の句)
 子曰、「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎」。
 (子曰はく、「学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや」と)

 孔子より179年あとに生まれた孟子(前272~前289)は、「孟子」 (告子章句上)の中でこう述べている。
 「今夫奕之為数小数也、不専心志則不得也。奕秋通国之善奕者也」
 (その囲碁の遊びはつまらない技であるが、心を一つにして学ばなければ上達しない。奕秋は天下の囲碁の名人である)

 別の章では、博奕=囲碁そのものを悪とみなしているほどでもないが、「酒を飲みながら碁を打ち、父母の孝養を顧みないのは不幸である」といっている。当時、すでに囲碁の熱中弊害が問題になっていたことが分かる。

【囲碁のはじまり】
 「1、囲碁のはじまり」、「囲碁の起源」その他を参照する。
 囲碁の始まりにつき、「坐隠談叢」は次のように記している。
 「碁技の原始に対しては、世間何人と雖も之を断定すること能(あた)わざるも、その錯然として発生したる諸説の年所と、孔子のいわゆる『以奕為為之猶賢乎己』の如き、はたまた孟子の『奕之為数小敷也不専心致志則不得也』との如きを知照して、殷周以前に発明せられたるものたるは、争うべからざるなり」。

 囲碁の目的起源ははっきりしている。元々、囲碁は天文学、暦学(こよみ、カレンダー)、占星術(占い)の道具として生まれたものと思われる。即ち、碁盤は宇宙、碁石は星の代わりのものである。この起源をも中国に求めるのが通説で、「中国で占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないかと云われている」が、正しくは不詳としておきたい。不詳とは、はっきりしないと云う意味である。即ち日本発とも考えられる余地がある故にである。

 囲碁の歴史起源もはっきりとは判っていない。通説として四千年ぐらい前の中国で始まったと云われている。インドに始まりインドから中国に入ったとの説もある。書経によれば、「昔、中国の王様(尭・舜帝)が、囲碁を創って子どものしつけのため教えた」と記している。春秋左氏伝(左丘明)の襄公25年(紀元前548年)の条に、「君を視ること奕棋に如かず」とある。紀元前91年、漢武帝代に司馬遷が完成させた「史記」に「堯舜の囲碁創始説」が記されている。その内容中、何カ所かに囲碁に関する話が記述されている云々。但し、堯舜が囲碁を創製したという伝説は記載されていないとの評もあり定かではない。中国の晋代の張華が著述した「博物誌」に「堯造囲碁丹朱善之」、「中興書」に「堯舜以教愚子也」と記されていると云う。

 堯舜神話の一節に「堯舜の囲碁創始説」がある。その伝説は次の通り。呉清源棋聖の随筆「囲碁の起源」等々を参照する。
 概要「古代中国の伝説上の聖帝である堯帝が今の山西省の太原に都を定めていた。長年、治世に当ったが、晩年に悟りがあり、息子達を帝位を継承するには不適当な愚子であるとして、聖賢を探して帝位を譲ろうと決心した。そこで、平素仲良くしていた仙人の蒲伊に会って相談した後に方針を決めようとした。高い山中に住んでいた蒲伊を訪ねて言った。最初は蒲伊に帝王の席を譲位したいと云った。蒲伊はこれを固く拒絶し、深く入り込んでいる田舎で農業を営んでいた舜を暗示的に指差しながら、2人の娘を一緒に舜と結婚させて、その成り行き具合によって帝位を譲るのが良かろうと勧めた。合わせて、堯帝の息子である丹朱の身上に対しても心配しながら、彼の品性に適している奕枰、即ち囲碁を教えるように答えた。堯帝がその理由をきくと、仙人蒲伊は次のように語った。

 『万物の数は1から始まる。盤面には361路の目があり、1という数の根源は、天元から始発して四方を制御する。残りの360という数は、天が1回転する日数を表現する。1月は30、1年は12月。これにより1年の日数は360であり、碁盤の360はこれを表象している。碁盤は四隅に分かれている。これは1年の季節である春夏秋冬の四季を意味している。外周の合計は72路であるが、これは1年を72節候で区分することに通じている。360個の碁石の黒白半々は陰、陽を表示している。棋盤の線を枰といい、線と線の間を罫と言う。碁盤は四角で静的であるが、碁石は円形で動的である。昔から現在に至るまで、無数の囲碁が打たれてきたが同一な局面の囲碁は一局も再現できなかった。このことこそ日日新の意味を含蓄んでいるのである』。『囲碁は発興存亡の技芸である故に、丹朱の品性気質でみて、囲碁に没頭したなら、次々囲碁をうつのに興味を持ち、世の中から蛮勇を使わないようになるだろう』。

 堯帝が仙人蒲伊から囲碁を習うようになり、これを丹朱に伝授したことが、この世に囲碁が普及するようになった始初となった。堯帝は、舜が、王女をどのように感化させながら御していくのか三年間観察し、その行跡と品格を見定めた上で、舜こそ聖人君子であり帝王位を譲ることに十分な人物であると心を決めて譲位の意志を固めた。舜は丁寧に遠慮し、堯帝が死んだ後は王子の丹朱を押し立てた。その後、諸侯達の懇望を天命として受け入れ、61才となる年に天子に即位した」。
 中国の元代の舜帝9年(1349年)に、晏天章と厳徳甫の2人が共同編著した中国古典棋書「玄々棊経」の序文に次のような文章があるとのことである。これを確認しておく。
 意訳概要「昔、中国の古代の皇帝堯舜は、囲碁を創案して、彼らの息子にこれを教えたと言う。ある人が疑問を抱き、次のように記した。“堯帝の息子丹朱と舜帝の息子商均が、2人とも愚かな者だったと聞いているが、当然、聖君と崇め敬われた堯舜が、息子に仁義礼智の道理を教えつべきであって、どうして暇つぶしの道具を作って教えることによって、その愚かさをもっと助長したのだろうか。そんなはずがない”。そういう囲碁観は間違いである。正しくは次のように了解するべきである。“囲碁という物は、その現状で見て、天は天圓、地は四角い模様と似ているように作られていて、黒白の争いには、天地陰陽動静の道理が働くのである。囲碁を打っていく盤面上には、天の星のように秩序整然としていて、局面の推移は風雲の変化のような気運を含蓄している。生きていた碁石が死ぬこともあり、全局面を通して変化して行く流れの様相が、まるで山河の表裡の勢いを現わす調和と同じなので、人間世界の道理や浮沈が、全て囲碁の理致と同じではないものはないのである”」。

【天文学としての囲碁】
 碁盤は宇宙、碁石は星を表しており、暦(カレンダー)や占いに使われていたという説もある。次のように云われている。
 「盤面には陰陽の動静があり、風雲と四季の変化があり、星辰分布の理(ことわり)があり、碁の始まりは勝負事や遊びではなく、天文と易を占う道具として囲碁が作られた。占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないか」。

 後に日本人として最初のノーベル文学賞を受賞することになる川端康成が、1953年、呉清源棋聖と三日間寝食を共にしながら、囲碁に関する対談を通して、呉清源棋聖の囲碁哲学と見解を探索した後、「呉清源棋談」を著述している。その中で、呉清源棋聖が次のように述べている。

 概要「囲碁は当初には天文学や易を研究する道具だった。堯帝が息子である丹朱に一種の遊びの道具ではなく、天文を研究する道具として囲碁を教えたと考えるべきである。囲碁を勉強して、易や祭礼に関する教養を分かるようにするという意味で教えたのである。囲碁を漢字で棊、又は奕と書くが、奕・易・医は中国の発音で、‘イ’と読み、暦は‘リ’と発音するので、殆ど似ていたということである。遠い昔、中国の統治概念は、祭政一致が基本であったために、易や天文や天命、すなわち神の命令や暗示と深い関係があると考えられる」。

 碁盤の路数の大昔は17道×17道の289路だったとのことである。凡そ中国の唐の時代から19道×19道の361路になったと云われる。361路のうちの1路は天元が占め、後の360路を四分して春夏秋冬の四季に分ける。1季は1隅である。1隅の数は90であり、1季の日数に匹敵する。外周は19道×4の72路であり、これは天文の月齢に於ける72候を象(かたど)る。盤面は大地であり、石の白黒は陰陽を示す。

 碁盤の路数の変遷につき、「呉清源棋談」は次のように記している。
 「中国の人でありながら、日本に来て、日本の碁界に一つの時代をつくった天才呉清源氏は、盤面が17道から19道になったという説に対して、面白い見解を持っている。呉清源氏は、碁の始まりは勝負事や遊びではなく、天文なり、易なりを研究する用具であったから、初めから天体を象った19道であったと思う、と言っている。それが遊びごとになった時、19路では広過ぎて見当がつかない。碁の技術が未だ幼稚であったので、広過ぎて勝負がつかない。それで、19道を17道にし、15道、13道、11道ぐらいまでせばめた。碁の技術が進むにつれて、逆に11道が13道になり、13道が15道になり、やがて元通りの19道に戻ったのではないのか、と言っている」。

【論語、孟子の中の囲碁の記述】
 中国の古書に囲碁が登場するのは、紀元前770~前221年頃の春秋・戦国時代である。山海経、坐隠談叢、博物誌、史記、論語、孟子など古い文献に囲碁のことや故事などが記されている。

 「史記」に春秋時代の宋の君主・閔公(びんこう)が部下の南宮万と対局していたときに、閔公が負けそうになったときに悔し紛れで南宮万を侮辱し、怒った南宮万により碁盤で殴られて殺されたと言う。しかし閔公と南宮万がしていた遊戯が囲碁だったかははっきりせず、別の博打・双六のようなものだったとも考えられている。

 囲碁は戦略、政治、人生のシミュレーションゲームとして広まっていた。古くから中国では、知識人の嗜みとして「琴棋書画」(きんきしょが)を習わせた。琴(きん)は音楽、棋(き)は囲碁、書(しょ)は書道、画(が)は絵のことを指す。

 シルクロードの要衝として有名な敦煌は、490余の石窟群の存在やシルクロードの要衝として著名である。1899年頃、第16石窟からおびただしい経典や古文書が発見され一躍世界中の注目を浴びた。一万点を超える文物の中に、ほぼ完全な「碁経」が一巻含まれていた。 巻物は北周時代の写本といわれ、「世界最古の棋書」となる。長い間大英博物館に眠っていたが、1934年に中国の張萌麟(元清華大教授)が「碁経」を見出して「國聞週報」ではじめて紹介した。

 現在最古の棋書(碁書)は、北宋徽宗(在位1100-1125)の時代に 成立した「忘憂清楽(ぼうゆうせいらく)集」と相場が決まっていた。 編者は不明だが、木こりの王質と仙人の対局譜から後漢の呉の武将・孫策と呂範の局、晋の武帝(司馬炎)と王済の局、唐の玄宗と鄭観音の局などが収録されている中国の棋書である。かなり古い時代の碁を取り上げているが、碁譜の信憑性について は大いに疑問の残る本といわれている。例えば、「坐隠談叢」の改補者であり、「中国古棋譜散歩」の編者でもある渡辺英夫プロは、次のように述べている。
 「宋版棊経(『忘憂清楽集』のものは日本の日蓮上人や信玄の棊譜と 同じように真偽不明で多分に拵え物の疑いがあり特に王質の爛柯図は全くの作り物と思われる」 。

 孫策と呂範の棋譜は1700年以前であり、晋の武帝の棋譜も1690年前の話になる。20世紀に入ってから出土した古代の基盤を見る限りでは、この当時には19路盤を使用した形跡が少なく、第 一、これほど古い時代から棋譜を残す習慣があったのか、という疑問が浮かぶ。

  北宋期以降の棋譜は本書の成立時期と同時代で、登場人物も実在とみなされるので本物と見てもよくその他は"作り物"ないし"遊び心"の発露 と見るのが無難である。渡辺説を尊重して従来の「孫策・呂範局」を作り物と判定し、閻景実・顧師言局ないし賈玄・希燦局を便宜的に最古の棋譜とする。

【囲碁の起源考】
 2013/2/3日、囲碁の起源主張して世界中から軽蔑される」を転載し、これにコメントしておく。(読み易くするため、文意を変えない条件下での表記替えをしている)
 「囲碁」の起源主張して世界中から軽蔑される日本人

 世界の反応を紹介する翻訳サイトで見つけました 。「現在も日本人はプレーしてるの? 囲碁 海外の反応」。囲碁の起源主張をする日本人に「これは日本のゲームじゃない。 中国の物。日本人は囲碁の王者じゃないしね。韓国人が30年もの間勝利し続けている」と、厳しい突っ込みの意見がありました。とても恥ずかしいです。日本人は歴史を知らないと世界の人は思っています。このカテの人で囲碁は日本起源だと思っている人はいますか?

 補足サイトのリンク先を添付するの忘れてた
 http://jipangnet.blog.fc2.com/blog-entry-224.html

 ベストアンサーに選ばれた回答、2013/2/4
【1】  まず第一に、日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は、原則として「中国」となっています。逆に「日本起源説」を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげてを紹介すべきです。
【2】  現在のゲーム性の高い「自由布石」という仕組みは、日本人が開発したとするのが通説です。それまでは「事前置碁制」でした。日本には、平安時代に囲碁が紹介されたようです。源氏物語や枕草子にも出てくるので、かなり流行ったのでしょう。(れんだいこ注/囲碁の日本伝来平安時代説を説いていることになるが、首肯し難い)

 「事前置碁制」だったと思われます。室町時代になり、碁打ちが公家や武将に招かれるなど「専業化」が進み、よりいっそうゲーム性が向上する「自由布石」が生まれました。と同時に、新定石、布石構想、序盤優位性・・・といった概念も発達しました。1900年代初頭(明治)、高部道平4段が中国、朝鮮、台湾を訪問しました。当時中国は、黒白2子ずつを盤上に置き対局開始する「事前置石制」でしたが、高部4段が、初手から自由に着手する、日本式の「自由布石」を伝えました。この時から、中国でも「自由布石」が取り入れられました。以上、囲碁史における「日本の貢献度」がゼロだとは言わせません。特に自由布石は、現代囲碁においては「絶対必須」の手法だからです。それでもまだ中韓があれこれいうのなら、日本発の「自由布石」は一切やめ、中韓のみ「事前置石制」で打つべきです。
【3】  世界中で「囲碁は日本発祥のゲーム」だと思われていいるのは、日本人棋士が、数多く世界各国に出向き、指導したことによります。当時、囲碁は「日本の伝統文化」として紹介されたかもしれませんが、「日本発祥」だなどと紹介した棋士は、一人もいないはずです。ほかにも、来日した欧米人が日本で囲碁を学び、中韓とは無関係に、それを本国に持ち帰って、広めた例が多数あります。アメリカ人であるマイケル・レドモンド9段が、日本で棋士になったのも、そうした歴史的影響下にあると思われます。これらは、日本人として誇れる囲碁史ですが、いまさら「我が国が!自分たちが!」と声高に主張する必要はないですね。
【4】  「本因坊秀策の再来」と言わた天才少年・呉清源は14歳で来日し、日本で囲碁を極め、囲碁界の世界的功労者になりました。その資質を見出したのは、師匠となった昭和の大棋士・瀬越憲作らでした。ちなみに、中国で呉清源少年の「囲碁力」を育んだのは、高部道平4段から「自由布石」を教わった中国人たちだと言われています。呉清源少年は日本の『敲玉余韵』(本因坊秀策の棋譜集)で勉強していました。台湾の天才少年だった林海峰は1952年10歳の時に来日し、呉清源に師事して大成し、数々の棋戦を制覇して一時代を築きました。近年、タイトルを総なめした張栩9段も台湾出身です。10歳で来日した天才少年は林海峰9段に師事し、トップに上り詰めました。日本が誇る囲碁界のスーパースター・趙治勲9段(韓国)は9歳で来日し、木谷実9段の木谷道場で学びました。金寅は、木谷道場に囲碁留学して学び、のちに韓国国手となり、その後多くの棋士を育てました。大棋士・瀬越憲作先生の門下で、韓国囲碁界の重鎮となった曺薫鉉もいます。曺薫鉉が育てあげたのが韓国囲碁界の至宝、李昌鎬9段です。ちなみに、趙治勲、金寅、曺薫鉉らを日本に囲碁留学させた趙南哲もまた、木谷道場の門下生であり、趙治勲9段の叔父です。趙南哲は、朝鮮戦争ののち、日本棋院を範として、韓国棋院創設に力を尽くしました。藤沢秀行名誉棋聖は、日中友好の証しとしてなんども中国の青少年に囲碁指導に行きました。中国の常昊は藤沢秀行の碁に感銘を受け、来日後は秀行塾で学び、帰国して中国のトッププレーヤーになりました。また、中韓の古い棋書では、日本の古碁や1960~1980年代の日本のプロの碁が多数掲載されています。詰碁本や手筋本なども、かなり日本の棋書をパクッています。中韓の人は、それで囲碁を勉強していたのは事実です。ただ、それも歴史の一コマであり、とやかく言うつもりはありませんが、すくなくとも、そうした歴史的事実は無視しないでほしいと思います。
【5】  「韓国人が30年もの間勝利し続けている」なんて歴史の歪曲です。2003年「三星杯」 =趙治勲9段(日本)が優勝しています。2005年「テレビ囲碁アジア選手権」 =張栩9段が優勝しています。2005年「LG杯」 =張栩9段優勝しています。2005年「農心杯」 =6勝4敗で「日本チーム」が優勝しています。2011年「博賽杯金佛山国際囲碁超覇戦」 =井山裕太9段が優勝しています。しかもこの時は、世界最強とうたわれる、あの李世石(韓国)や古力(中国)を破っての優勝です!
【6】  以上、日本の囲碁が恥ずかしいなんてことは、決してありません。自信を持ってください。
(私論.私見)
 「【1】まず第一に、日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は、原則として『中国』となっています。逆に『日本起源説』を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげて紹介すべきです」なる回答について意見申し上げておく。かくなる回答、ないしは態度をもってすれば悶着は起こらないであろうが、但し、そのことと歴史的真実とは別である。この回答者は、日本起源説を否定して中国起源説を断定することが正義のように吹聴しているが、こういう耳目に入りやすい態度をとるのも一法ではあるが、歴史的真実は尋ね続けて行かねばならない。必要なことは、囲碁の起源国を主張する者があれば、それを証明させることであり、それを互いに検証することである。必要なのはこの作業ではないだろうか。この検証抜きの日本起源説論も中国起源説論も採るべき態度ではないと思う。「今となっては未解」、これが我が輩の執る態度である。

 したがって、次のような「囲碁の発祥・歴史は、少なくとも2000年以上前までに遡ることができます。そして、古代インドから発祥し、東アジアを中心に発展してきました」との仏教伝来説を髣髴とさせられる解説も、耳目には入り易いが我が輩の執る態度ではない。

 2018.5.21日 囲碁吉拝

【将棋の起源考】
 日本将棋のルーツはチェスと同じく、古代インドのチャトランガで、日本には遅くとも平安時代に伝わったとされている。チャトランガは古代インドで5世紀ころ発生したらしいということが最近のチェス史の研究で明らかになっている。日本将棋の資料は、1993年、奈良の興福寺で発見された1058年の年号が入った木簡と共に10点以上の日本将棋の駒を嚆矢とする。日本の将棋がいつどのようにして伝わったのか。最初日本に伝わった将棋はどのようなものだったのか。日本将棋特有の持ち駒使用のルールはいつごろできたのか。日本将棋の根幹に関わるこのようなことは依然として分かっていない。

 日本将棋には世界のほかの将棋類とは違った特徴がいくつかある。持ち駒使用がその代表で、他にも双方が全く同じ駒を使うこと(だから、取った駒の再使用がしやすい)。木片五角形の駒に文字を書いて使うなどの特徴がある。これによれば、日本に伝わった将棋は日本独自の社会や文化の中で、かなりルールや形態が変わっていったと考えられる。

 初代宗桂と本因坊算砂の一戦。算砂と宗桂をつなぐキーワードは徳川家康。16世紀後半、太閤秀吉が天下を取っていた時代、徳川家康は五大老の筆頭としてナンバーツーの座にあった。その家康が大名や公家、上級武士などをもてなすと同時に政治的な情報を集めるため、囲碁と将棋の会を頻繁に催した。その会に算砂と宗桂は講師として常に招かれていた。そうした縁が長く続き、やがて家康が天下を取ったとき、算砂や宗桂には俸禄(ほうろく)が与えられることになり、それが囲碁家元、将棋家元の誕生へとつながっていく。




(私論.私見)