囲碁発祥譚考その2、自生論 |
更新日/2020(平成31、5.1栄和改元/栄和2).3.19日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「囲碁発祥譚考その2、自生論」を確認しておく。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
【「中国よりの囲碁伝来論」考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「囲碁発祥譚考その1、伝来論」で論拠を確認したが、囲碁の発祥につき、それを中国、朝鮮、日本の何処(いずこ)に求めるべきか、定かでない。こう解するべきではなかろうか。即ち「囲碁の起源は神話的不可思議さを内包している」。こう解するべきではなかろうか。 従って、「日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は原則として『中国』となっています。逆に『日本起源説』を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげてを紹介すべきです」なる論は変調である。かくなる論調をもってすれば悶着は起こらないであろうが、腰を引き過ぎていよう。この回答者は、日本起源説を否定して中国起源説を断定することが正義のように吹聴しているが、こういう耳目に入りやすい態度をとるのも一法ではあるが、歴史的真実は尋ね続けて行かねばならない。必要なことは、囲碁の起源国を主張する者があれば、それを証明させることであり、それを互いに検証することである。必要なのはこの作業ではないだろうか。この検証抜きの日本起源説論も中国起源説論も採るべき態度ではないと思う。「今となっては未解」、これが我が輩の執る態度である。従って、「囲碁の発祥・歴史は、少なくとも2000年以上前までに遡ることができます。そして、古代インドから発祥し、東アジアを中心に発展してきました」との解説も我が輩の執る態度ではない。 囲碁の専門棋士にして囲碁ライターとして稀有な値打ちを持つ中山典之氏の「囲碁の世界」(岩波新書、1986.6.20日初版)は次のように記している。
この言は中々の見識である。と云うのも、通説は「中国から渡来した」とされているところを、前段に於いてであるが、「今となっては誰にも分からない。その起源については誰も明らかにしてくれない」と記し「不詳」(「はっきりしない」と云う意味)としているところに値打ちが認められる。この説を仮に「囲碁発生不詳論」と命名しておく。 実際には、「ただ、碁は大昔に中国の聖天子、尭、舜が作ったとされてきただけである」と続けている。かの「坐隠談叢」でさえ、渡来説に基づき次のように記している。
同書は安藤豊次著の明治37年1月初版、原本は和装5冊の名著である。日本棋院の林裕氏は次のように評している。
この説を仮に「囲碁中国伝来論」と命名しておく。「万事伝来論の一種としての」と形容した方がなお主意が鮮明になる。これが通説であるが、私は「囲碁発生不詳論」を採る。即ち日本発とも考えられる余地が大いにある故にである。 「囲碁中国伝来論」に従った場合、それでは日本に渡ってきたのは何時(いつ)頃かとなると、信の置ける話しはない。通説は、「奈良時代に吉備真備(695-775年)が遣唐使として唐から持ち帰った」、「囲碁は中国で生まれ、七世紀に日本に伝わり日本文化として根付いた」としているが、軽薄なる俗説に過ぎない。その修正として、「記録は残っていないが5世紀の欽明天皇(539−571年)の頃、朝鮮を通してほかの色々なものと一緒に渡ってきた」という説が有力とされている。しかしこれも、「囲碁朝鮮経由伝来論」を唱えているだけで、論証力を持っていない。紀元600年頃の中国史書「随書」の「倭国伝」に「(倭国では)囲碁、双六、博打が好まれる」と書かれてある。これは史実であるが、この記述をどう窺うべきか。通説は、「吉備真備以前に伝わったのではないかと思われます」と解説している。これも、「万事伝来論」の型の中で理解しようとしている俗説にぎない。なぜそれほどまでに伝来論に拘るのだろうか。囲碁の歴史的発生につき、通説は悉く伝来論にシフトし過ぎている。 囲碁に限らず、往古に於いて有益なものにつき中国経由、朝鮮経由、東南アジア経由等の伝来ルートの詮索に忙しい。この学説は、近代史上の有益なものは万事米英欧の西欧に由来するとする伝来論とハーモニーしている。あたかもそういう型が作られているかのようであり、この型にプレスされた様々な通説学説が作られている。中には当て嵌まるものもあろうが、何でも彼でも外来論で理解しようとし過ぎではなかろうか。証拠だてるものがなく、要するに憶測でしかないものについては、いきなり外来論(伝来論)に向かうべきではなく、ひとまずは判断留保の勇気を持つべきではなかろうか。万事伝来論は有害で、個別ごとに伝来、自生の別をしながら検証して行くべきではなかろうか。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「日本古代の囲碁史に関わる文献資料リスト」の「囲碁伝来」は次のように記している。
|
【万事伝来論ちょっと待った考】 |
ちなみに、1952年(昭和27)年、中国の河北省(望都県)の漢代の劉氏(りゅうし)の墓(182年埋葬)から、陪葬品として17路5星の石棋盤と石榻(せきとう、石の対局椅子)が発見された。これにより、邯鄲淳(かんたんじゅん)著「芸経」の中の「棊局縦横各17道、合わせて289道」という文章が立証された。この碁盤の星(中国では花点)の形はハートの5花点だった。 1959年(昭和34年)、中国の河南省(安陽市)の随(ずい)代の張盛(ちょうせい)の墓から、陪葬品として19路5星の小型青磁碁盤が出土した。2002年、中国陝西省の考古学者が、前漢の景帝陽陵で、前漢時代(206BC - 24AD)のものと思われる17路式陶製碁盤を発見した。最長の部分で縦およそ28.5cm、横19.7cm、高さ3.6cm。皇帝の陵墓から出土したとはいえ碁盤の造作が粗雑であり、この碁盤は皇帝の陵墓から出土したとはいえ、皇族が使用したものではなく、陵墓の墓守達の遊戯のために使用されていた、当時の使い捨て的なものだったと推定されている。2007(平成19).5.15日、中国の龍坑(寧夏自治区)の漢墓群で古代の碁盤と陶片の碁石が発見された。これらの発掘を見れば、囲碁の中国に於ける普及が確認できる。但し、発祥まで窺がうべきだろうか。 「万事伝来論の一種としての中国よりの囲碁伝来論」を補強する中国での碁器出土に対して次のような立論が成り立つ。即ち、これらはいずれも、日本の正倉院所蔵の「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)に見劣りするものばかりである。中国が囲碁の本家であれば、正倉院所蔵の碁器を上回るものがあちこちから出土しないのは不自然な気がする。 もうひとつ述べれば、日本では女流平安文学の中に囲碁記述がしばしば登場している。それを窺うに、「中国よりの囲碁伝来論」の観点に立てば、僅か数世紀前に大陸から輸入されたものを、平安女流囲碁が早くも吸収し興じていると云うことになる。しかしながら、同時代の中国に於いてそういう女流囲碁の形跡が見当たらない。これはかなり不自然な現象ではなかろうか。囲碁の本家が中国であれば、本家の方こそ盛んであるのが自然ではなかろうか。と云う観点に立てば、この時期に於ける女流の囲碁の嗜みが日本だけの現象であることにつき、「中国よりの囲碁伝来論」の奇異を感じるべきではなかろうか。平安女流囲碁が、はるか昔からの日本国の伝統に支えられており、故にしっとりと興じている様子を見て取るべきで、ここに相当の歴史が経緯していると看做すべきではなかろうか。 こういう囲碁吉史観によれば、「囲碁起源特定不詳説」を推したい。もっと云えば、通説の伝来論よりも日本自生論の方に分があるように思われ、その可能性をも探るべきだと思っているが、日本自生論の過度の強調も徒な国粋主義に向かう恐れがあるので、「囲碁起源特定不詳説」に留めておく。 |
【「囲碁の日本発祥説」考】 |
ネット検索で「囲碁の起源主張して世界中から軽蔑される日本人」が出てくる。これにコメントしておく。多くのコメントは次のようなものである。「囲碁の日本発祥説を主張をすることはとても恥ずかしいです」。このコメントは、「囲碁の日本発祥説を虚説」と判断して、そのような論を説くことを「恥」としている。「日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は原則として中国となっています。逆に日本起源説を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげてを紹介すべきです」。このコメントは、「囲碁の日本発祥説不存在説」を唱え、仮に「囲碁の日本発祥説」が存在すれば火消ししようとしているように見える。これらを仮に「囲碁の日本発祥否定説」と命名しておく。次のコメントは、「逆にまったく確証がないのにインド、中国、韓国が起源と言うのもどうかと思いますがね。日本起源説も言い過ぎで、一体どこが起源なのか未だにわからない状況です。別にどこが起源だろうと特に何か変わるわけではありませんのでさほど意味のない詮議だと思います」。これを仮に「囲碁の発祥国不詳説」と命名しておく。こんな感じのコメントがまぁまぁかなと思う。
れんだいこ的には、もう少しみ踏み込んで、こう云いたい。「囲碁は四千年の歴史を持つ神秘で哲学的な盤上競技である。碁はどうやら文明発祥と同時に起源するらしく、四千年の歳月云々は当らずといえども遠からずかもしれない。囲碁の発祥につき日本発祥説は有力で、ありえる話しではあるが、この説に固執する必要はない。重要なことは、中国、朝鮮(北朝鮮、韓国)、台湾、沖縄、日本の東アジア圏六ケ国が数千年来に亘って囲碁の法灯を守り抜いて来たことであり、近年においては日本が積極的に庇護してきたことで囲碁文化が育成されて来た。それが今や世界の囲碁に孵化していることであり、これを共に称え合い、力を合わせて更なる精進を重ねていくことであろう」。これを仮に「囲碁の日本発祥ありえる説」と命名しておく。 |
補足として「囲碁発祥譚考」をものしておく。 |
【熊野古道の囲碁伝説考】 | |||
2019(平成31).1.1日のNHK番組「熊野古道」に、昼嶋(ひるしま)伝説が登場していた。それによると、昼嶋(ひるしま)は熊野川の中にある島で、川の水量が少ないときは和歌山県側から歩いていくことができる。南紀徳川史に収められている「熊野道中記」には次のように記されている。
(この記述によると、昼嶋と碁盤嶋は同じ島になる)。 NHK番組「熊野古道」は次のようなコメントつきで島の映像が放映していた。
「天照大神と熊野権現が碁を打って興じた」、「島の上部は碁盤の目のような縦、横の筋がある」はよほど意味深で、「天照大神と熊野権現が碁を打た」となると、相当古い時代の伝説になる。 |
【万葉集に於ける碁師の歌二首考】 | ||||||||||
古事記、風土記、懐風藻にも碁に関する記事が幾つも記されている。万葉集には碁師の歌が二首収められている。碁の歌ではなく、碁を教えに碁師が旅した地方の風景を詠んでいる。万葉集の碁檀越と碁師(8世紀はじめ頃)の記述は次の通り。
この歌の直前の1729~1731番の「宇合卿歌三首」の次に載せられおり、前後を含めて一連の歌が虫麻呂歌集に含まれていると考える説もある。 |
||||||||||
ここでは囲碁を詠みこんではいないが巻の歌題に碁の痕跡が記されている。ここでの碁檀越の碁は碁氏というより氏名かもしれない。この場合、檀越は寺の施主のことだから碁檀越は施主の碁という人物となる。次に、巻
、 ・ 番の題詞には 碁師歌二首 とあり、つづいて船中の歌がある。この碁師は多くの万葉集研究書では意味不明の語だとされている。 碁師は基師とする伝本があり、それ故の意味不明かと思われる。近世以降の囲碁関係の書では、この万葉の語を囲碁に結んで語るものが多い。(関節蔵は
日本囲碁史綱 で 碁師歌の意味は船中遠行の客吟であ る、或は本土を離れて外国に渡海したのではなかろうか とし、江戸末期の国学者・加納諸平は 囲碁事蹟考で碁の上手とはおぼしけれど未祥
としている)。 万葉歌の中には「吾恋流碁騰(あがこふるごと) 己知碁知乃枝之(こ ちごちのえの)」といった真仮名の碁の字が散見する。 |
【古事記のイザナギ、イザナミの国生み神話の下りに於ける「碁」文字記述考】 | ||
712(和銅5)年、古事記が編纂され、日本で最初に「碁」の文字が用いられている。その箇所はイザナギ、イザナミの国生み神話の下りであり、両神が降り立ち柱廻りをしたところが次のように書かれている。
これによると、イザナギ、イザナミの国生みの柱廻りをしたところが「於能碁呂嶋」(おのごろしま)」という表記になっている。「碁」が、日本の国土誕生の際にもは関わっていたことになる。ちなみに日本書記では「磤馭慮島」という表記になっている。(「古代日本における「碁」(1)」参照) 「碁」が単なる当て字なのか裏意味があるのか興味が湧く。 |
||
「日本の囲碁は、古事記や万葉集にその記載があるほど長い歴史をもっている」。 |
【古事記のスサノオの日本最古の和歌に於ける「碁」文字記述考】 |
日本最古の和歌といわれているスサノオがクシナダヒメと新居を構えるときに詠んだといわれている「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」にも「碁」が記述されている。古事記では、「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」という表記になっており、「妻籠みに」の箇所が「都麻碁微爾」と「籠み」を「碁微」と記述している。同じ歌を、日本書紀では、「夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語味爾夜覇餓枳菟倶盧贈迺夜覇餓岐廻」と記述しており、「碁」は用いられていない。(「古代日本における「碁」(1)」参照) |
【古事記のヤマトタケルの和歌に於ける「碁」文字記述考】 |
次にヤマトタケルが大和を思い出して詠んだことで有名な「大和は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる大和しうるはし」という歌にも「碁」が出て来る。古事記では、「夜麻登波久爾能麻本呂婆多多那豆久阿袁加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯」と表記されている。「山隠れる」の箇所が「夜麻碁母禮流」と記述されており、「碁」が記述されている。こちらの歌でも、日本書紀では、「夜摩苔波区珥能摩保邏摩多多儺豆久阿烏伽枳夜摩許莽例屢夜摩苔之于屢破試」となっており、「碁」は用いられていない。 (「古代日本における「碁」(1)」参照) |
【万葉集の柿本人麻呂の和歌に於ける「碁」文字記述考】 | |
万葉集の柿本人麻呂周辺の和歌題詞に「碁」が表記されている。まず人麻呂の方をみてゆくと、「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌」という題詞の歌の中に、「(略)槻木之己知碁智乃枝之春葉之茂之如久(略)」(巻二、210番)と記述されており、「碁」文字が登場している。「続萬葉仮名の研究」では、「碁智」という表記に対して「或る程度の義字的要素を認めるべきかもしれない」と注している。江口洌氏(元千葉商科大学教授)は、「囲碁には智慧を働かせるのだから、知字ではなくて智字を用いた」と説明した上で、「人麻呂は囲碁を知っていたのでしょうか」と記している。さらに江口氏は次のように述べて、人麻呂の歌での「碁」の使用が最古の用例であることを次のように指摘している。
補足をしておくと、万葉集中の人麻呂の歌は「人麻呂作歌」、「人麻呂歌集」とに大別される。「人麻呂作歌」は人麻呂が作者であることが確定している。「人麻呂歌集」の方は研究者によって見解が異なる(人麻呂の若い頃の作品群であるという研究者や、人麻呂本人の作品の他にも周辺の人々の作品なども含んでいるという研究者もあれば、後世作り上げられた人麻呂とは全く無関係な作品群とする研究者もいる)。先に挙げた歌は「人麻呂作歌」であることから、江口氏は人麻呂の「碁」の使用が古事記の用例よりも古いと指摘していることになる。
|
|
巻四の500番の歌が、相聞歌「碁檀越往伊勢国時留妻作歌一首」(碁檀越が伊勢国に往く時、留まる妻がよめる歌一首)という題詞で、「神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也将為荒濱邊尓」(神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に)となっており、「碁」字が使用されている。江口氏は、この歌の前後の496番~499番、501番-503番が人麻呂の歌であることも指摘するとともに、人麻呂の歌である「潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島みを」(巻一、42番)との類似性も指摘している。(「古代日本における「碁」(2)囲碁史会会報第8号」参照) | |
題詞[碁師歌二首]「祖母山霞棚引左夜深而吾舟将泊等万里不知母」(おほはやま 霞たなびき さ夜更けて 我が舟泊てむ 泊り知らずも)、「思乍雖来来不勝而水尾埼真長及浦乎又顧津」(思ひつつ 来れど来かねて 三尾が崎 真長の浦を またかへり見つ)。 この他、万葉歌の中には「吾恋流碁騰」(あがこふるごと)、 「己知碁知乃枝之」(こちごちのえの) といった真仮名の碁の字が散見する。古来輩出する万葉研究家の定説では、ここに登場する「碁」を囲碁と結びつけるものはみえないようであるが、何らかの関わりを窺う方が自然だろう。 |
【日本に於ける碁石の浜伝説考】 | |||
「古代日本における「碁」(3)」その他参照。
|
|||
日本に於ける碁石伝説考その2、常陸風土記(717~724年選進)、万葉集の藤原宇合絡みに於ける「碁」文字記述考。常陸風土記の「多珂郡」の中に次の記述がある。
|
|||
日本に於ける碁石伝説考その3、岩手県大船渡市の三陸海岸沿いに“碁石”のような黒い玉砂利が敷きつめられている碁石浜(ごいしはま)、末崎半島の先端にあたる碁石岬(ごいしみさき)を持つ碁石海岸がある。大船渡湾の南に突き出た末崎半島の先端約6kmの海岸線が碁石海岸で、国の名勝・天然記念物に指定されている。碁石海岸は全国渚・白砂青松100選に指定されている。さらに、その中にある雷岩から発せられる音は、国の「残したい日本の音風景百選」に指定されている。囲碁神社もある。 保田光則/著「新撰陸奥風土記」(1860年成文)は次のように記している。
|
|||
日本に於ける碁石伝説考その4、現在、白石は日向(ひゅうが、宮崎)の4km程の「お倉ヶ浜」が日本最後の産地となっており、ここから採れる蛤(はまぐり)の殻(から)で碁石を製造している。「お倉ヶ浜」は日本の渚百撰に選ばれている。但し、その日向産の蛤は絶滅寸前で、為に日向特産蛤碁石は僅かしか製造できず「幻の碁石」となっている。現在の原料の主力はメキシコ産蛤になっている。 |
|||
日本に於ける碁石伝説考その5、 黒石は三重県熊野市神川町でのみ算出する炭素を含む粘板岩の珪質頁岩(けいしつけつがん)の那智黒(なちぐろ)でつくるのを上等としている。那智黒石は金の純度を見分ける試金石にも使用されている。 | |||
日本に於ける碁石伝説考その6、 西行法師/著「山家集」(1180年頃成文)巻3の条は次のように記している。
「和漢三才図会」(1712年成文)は次のように記している。
|
|||
日本に於ける碁石伝説考その7、 「広益俗説弁」(1715年頃成文)は次のように記している。
|
|||
![]() |
|||
常陸(ひたち)国風土記と出雲(いずも)風土記その他に日本に於けるこのような碁石伝説が記されている。これは相当に重要な記述であり、大和王朝前の出雲王朝の御代に碁石が存在したということになる。当然、囲碁が打たれていたことになる。出雲王朝は紀元3世紀頃の邪馬台国の前の王朝と考えられる。ひの頃既に囲碁が日本に存在していたことになる。但し、これを直接に論証するに足りる史料は今のところない。奈良の藤原京で碁石が発掘されている。丸い自然石で、材質は黒石が黒色頁岩、白石が砂岩となっている。その作製年代を知りたいが分からない。 |
【日本に於ける碁盤考】 |
碁盤は、木製では鹿児島、宮崎、大分、岐阜、茨城、栃木、神奈川などの各県産の榧(かや)の柾目(まさめ、天柾)を上等とする。ほかにも桂(かつら)などもよく用いられている。碁笥(ごけ、碁石を入れる器とふた)には木製では栗(くり)、欅(けやき)、桑などが用いられている。 |
【囲碁神社考】 | |
九州に「囲碁神社」(大分県由布市庄内町阿蘇野、097-582-1111)というお宮がある。囲碁の神様を祀っている珍しい神社で、黒岳の北東山麓の阿蘇野の麓に建立されている。JR庄内駅から南西に10キロメートルほど入った山深い場所で,近くに白水鉱泉がある。我が国で唯一の囲碁に関わる神社だという。祭神として、八意思兼神(ヤゴゴロオモヒカネ、智の神)、経津主命(フツヌシ、戦の神)、吉備真備(キビノマキビ、勝負の神)を祀っている。ある夏には囲碁大会が行われるほか、祭日には拝殿で「囲碁占い」が行われる。 黒岳に入って道に迷った樵夫が山の中をさまよい歩くうちに、碁を楽しんでいる二人の仙人に出会ったという伝説の由来が次のように書かれている(庄内町観光協会大意)。
松村緑/「ある時、大分から熊本、そして福岡と山中を車で走っていた。時が止まるような鬱蒼とした森を抜け、山里にさしかかろうとしたその時、忽然と現れたのが『囲碁神社』である。そこには仙人が三人で碁を囲んでいた絵図があった。そしてその謂れが石碑に刻んであった」云々。(高野圭介「第二章 日本の碁伝来と敷衍」参照) |
【「囲碁に関連した地名」考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「歴史散歩とサイエンス」、「囲碁に関連した地名」その他によれば、日本の囲碁に関係する地名が次のように挙げられている。これらよると全国に広がっていることが分かる。
他にも囲碁ゆかりの寺社、石碑、扁額、石盤等が確認できよう。これらにつき、もし囲碁が日本に輸入されたものなら、輸入元には囲碁地名、囲碁ゆかりのものが日本よりより多くあって然るべきだろう、と思うのだが。 |
【「燕山夜話」の囲碁記述】 |
榊山潤・氏の「日中囲碁盛衰史」によれば、「『燕山夜話』に古代の日中囲碁戦のことがちょっと出ていますね。故志言の---日本の王子との---」とある。もう少し知りたいが分からない。 「燕山夜話」は、北京市副市長で歴史学者の拓(とうたく、1912‐1966)の随筆。1961年刊。伝統的知識人の気風を受ける高踏的な作品。「海瑞罷官」(かいずいひかん、呉(ごがん)著)、「三家村札記(さつき)」(呉・拓・廖沫沙(りょうまつさ)共著)と共に毛沢東に批判され、文化大革命の突破口に使われた。 |
【魏志倭人伝の日本囲碁記述】 |
「魏志倭人伝の中には卑弥呼が朝鮮から囲碁と双六の道具の寄贈を受けたというくだりがあります」とする記述がある。同書のどの件にどう書かれているのか不明だが、虚説にしても興味深い。というのも「あり得る話し」だからである。これについては今後も関心を持っていきたい。 |
【隋書・倭国伝の日本囲碁記述】 | ||||
600年、遣隋使始まる。 | ||||
607年、推古天皇の時代に遣隋使の派遣で、聖徳太子は「日の出るところの天子から日が沈むところの天子へ」と書いた手紙を持たせた。その手紙を見た隋の皇帝は怒って「無礼な手紙だ。日本(倭)がまた何を言ってきても二度と私の耳に入れるな」と怒ったが、翌608年、文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を隋の使いとして日本に送ってきた。隋の裴世清は、日本に来ていろいろなことを調べ、体験したことを記録し、636年、隋書・倭国伝を著わす。その中で次のように記している。
これによると、「倭人は仏法を敬い、囲碁、双六(すごろく)、さいころ博打(ばくち)の戯芸を好む」)と記していることになる。 これによると、日本では相当に古くより囲碁が打たれていたことになる。別段に中国から移入されたとも注釈されていない。これらを思えば安易に伝来論に染まるのは控えたいと思う。後の時代に吉備真備の囲碁伝説が遺されているが、彼の留学よりも前に編まれた律令や風土記の遺文からすれば、「日本の囲碁の伝統は相当古い」ことが明らかとなっている。この辺りを踏まえれば、「日本への伝来は真備よりも古い」とする修正ではなお足りず、そもそもが「囲碁の日本伝来説一辺倒」からして早計と云うべきではなかろうか。「日本で自生した可能性が大いにある」。但し、愛国排外主義的に称揚する意義がないので、「伝来説は不詳。少なくとも中国、朝鮮、日本圏で創造され歴史的に愛好されて来た技芸である」と構図すべきではなかろうか。かく史観を構えたい。 |
【遣唐使船に碁師が加わっていたことの記述】 | ||
618年、唐が中国統一。 | ||
遣唐使には大概碁師が1名加わって行ったと云う。三代実録は遣唐使員としての碁師の記録が次のように記されている。
「囲碁事蹟部類鈔」(江戸後期成立囲碁史書)が次のように記している。
|
【奈良時代前半の囲碁】 |
645年、大化の改新。
【持統天皇の「双六禁止令」発布】 |
685(天武天皇14)年、「大安殿に御し、王卿をして博戯せしむ」(「天武天皇の双六天覧試合」)。翌686年、天武天皇逝去す。後継したのが鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、持統天皇)。 688(持統天皇3年).12.8日、「双六禁止」発布(「双六禁止令」)。 |
【大宝律令の囲碁記述】 | |||||
701(大宝元)年、文武天皇の御代、聖武天皇の祖父で光明皇后の父である藤原不比等(ふひと、659-720)が編纂した大宝律令が定められた。これは隋や唐のような強大な国づくりをめざし、政治、学校、土地、身分などを取り決めた法律であるが、その中の僧尼令(そうにりょう)に次のように記されている。碁が格別の地位で待遇されていることが分かる。
これに関係すると思われる田村竜騎兵著「物語り囲碁史」の次のくだりを転載しておく。
大宝律令の大部分が散逸し、断片が残るのみとなっている。但し、半世紀後の757(天平宝字元年)の養老律令(ようろうりつりょう)は、大宝律令の改訂版とされ、完全な形で現在に伝わっている。律は今日の刑法、令は民法や行政法を云う。養老律令の令の編目の一に「僧尼令」(そうにりょう)があり、僧尼を統制する法令となっている。唐令の道僧格(どうそうきゃく)を元とし、大宝律令から令に加えられた。養老律令第7編にあたり27条から成る。内容は私度(しど)の禁止、呪術を用いた民衆布教の禁止、僧尼の破戒行為の禁止などで、行政面だけでなく令でありながら刑罰の規定をも含んでいる。 |
【我が国最初の漢詩集懐風藻の囲碁記述/弁正法師】 | ||
701(大宝元)年頃、我が国最初の漢詩集「懐風藻」(751年成立)が入唐僧の釈弁正の二首を記載している。序詞に記される釈弁正とは次の通り。
|
||
![]() |
||
これによれば、囲碁の達者であった弁正法師が吉備真備に先行して大宝年間(701~703年)に唐に留学しており、囲碁が上手な故に後に玄宗皇帝になる李隆基太子に愛でられ厚くもてなされたと記されていることになる。してみれば、当時の日本に既に弁正法師が囲碁に強くなる囲碁環境があったと云うことになる。弁正は純粋の日本人ではないとする説もあるが、日本からの留学生であることを思えば日本での囲碁熟達を認めるのが筋だろう。 | ||
日本詩史 (*年成立 漢詩史書、江村北海編)は次のように記している。
皇国名医伝 (*年成立 名医伝記)前編巻上[秦忌寸朝元]は次のように記している。
|
【古事記選上。書中に「於能碁呂島」の記述】 |
712(和銅5)年、古事記選上。書中に「於能碁呂島」の記述あり。 |
720年、日本書紀選上。 |
【大伴小虫の囲碁を廻る中臣東人斬殺事件】 | |
737(天平10)年7月、続日本紀の巻13の738(天平10)年7月10日条に次の記述がある。
「左兵庫少属だった大伴小虫と右兵庫頭の中臣東人が政務の暇に碁を打っている最中、東人が小虫の恩人・長屋王の悪口を言ったのに怒り、小虫が東人を斬り殺した」と記されている。 少属(四等官)が上官に当たる頭(長官)を殺したことになる。一局の碁から思わぬ事件が突発した話しの最も古い記録である。このことからも当時既に宮廷で碁が日常的に打たれていたことが判明する。 |
【藤原武智麻呂(藤原左大臣、諱は武智麻呂)に関する囲碁愛好記述】 | |
藤家の家僧の延慶編「武智麻呂伝」(760年頃成立伝記)が藤原武智麻呂(737年没)につき次のように記している。
「武智麻呂伝」は、武智麻呂の子の(藤原恵美)押勝が太師(太政大臣)と権勢にあるときに編んだ家伝。余技として、詩文や歌ではなく手談(囲碁のこと)に熱中したとしている。武智麻呂は天平年( )に歳で没した。武智麻呂と弁正は同時代の碁打だったことになる。(増田忠彦「資料にみえる碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」参照) |
【藤原広嗣の囲碁愛好記述】 | |
藤原広嗣(740年年没)につき、鏡神社松浦廟宮(佐賀県唐津市)の先祖次第并本縁起が次のように記している。
資料は藤原広嗣の霊を祀る松浦宮(鏡神社)の縁起で、広嗣の人間離れの異能ぶりを記す条。藤原広嗣は大宰府の少弐に左遷され、玄や吉備真備の排除を要求して叛乱、追討軍によって年に任地で斬殺された人物である。常人と異なるものを五つ、勝れた才能を七つあげ、その異の第二に宇佐八幡の祀神を囲碁で慰めたとある。神様を慰める腕は、まさしく異能の碁打ちといえよう。(増田忠彦「資料にみえる碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」参照) |
|
神功皇后のお子にして第15代天皇の応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12.14日- 応神天皇41年2.15日)(在位:応神天皇元年1.1日 - 同41.2.15日)は、囲碁の伝来伝説にも名をみる天皇である。すなわち、日本書紀 応神天皇年に「百済の王、阿直伎を遣して、良馬二匹を貢る」とあり、この時代に囲碁も百済から伝来したという説がある。日本書紀での名は譽田天皇。 |
【口歪む僧説話】 |
仏教説話集「日本霊異記」(822年成立)の2話の第一話。748年頃、「僧が囲碁対局の最中に法華経を唱えて喜捨を乞う者が来た。この者を嘲り笑った僧は、打つたびに碁を負け、口が歪んでしまったきる」。第2話。「勤勉に法華経を誦する僧の名をひやかしながら碁を打っていると、口が歪んでしまった」の逸話を載せている。僧と一般人が碁で戦い、一般人が僧を嘲ると帰路に頓死する話も登場している。 |
【吉備真備の囲碁元祖説話】 | ||||||||||||||
奈良・天平時代の官人、吉備真備が遣唐使として入唐し帰国した際に中国から囲碁を持ち帰ったという吉備真備囲碁伝説がある。慶長見聞集(1614年成立)がこの伝来伝説を伝えている。以降、江戸期に編まれた棋書の序文にはお定まりの枕ことばのように吉備真備囲碁元祖説話が記されている。この逸話を平安後期の説話集「江談抄」(ごうだんしょう)の第三雑事中の「吉備入唐間事」その他を参照して確認しておく。
「読む・聴く 昔話」の「吉備真備と阿倍仲麻呂」。
この荒唐無稽(こうとうむけい)の奇談は、後の絵巻物や謡曲、さらに近世の草紙や実録物に翻案されて有名になった。 「江談抄」は院政期の説話集で、帥中納言大江匡房(1041-1111)の談話を、進士蔵人藤原実兼(黒衣の宰相といわれた信西の父)が筆記したもの。匡房は後三条、白河、堀河三帝の侍読を勤め、詩文に秀で、また有職故実にも通じた名高き才子。彼の博学を反映してか、江談抄はあまりに雑多な内容を持つ。そのうち、朝儀公事に関する故事や詩文にまつわる逸話が大半を占めるが、貴族社会の世相を伝える説話も多く、後者は後世の説話文学へ影響を及ぼした。長治から嘉承にかけて(1104-1108年)成立したと考えられる。現存本は、雑纂形態の「古本系」と、類聚形態の「類聚本系」に大別される。談話形式を取り、連関性を欠く古本系に対し、中世に改編・加筆されたと思われる類聚本の方では内容に沿って六部に分けている。「江談」二字の偏を取って「水言抄」ともいう。漢詩文・公事・音楽など多方面にわたる談話の記録である。 吉備真備(きびのまきび)(693~775)にまつわる雑俳は次の通り。
村松梢風の「本朝烏鷺(うろ)争飛伝古今碁譚抄」が次のように記している。
|
||||||||||||||
「囲碁の吉備真備伝説」は、三嶋大社(三島市大宮町、静岡県)の蛙股(かえるまた)彫刻、南宮大社(垂井、岐阜)の蟇股(かえるまた)彫刻にも見られる。716年、吉備真備(本姓は下道真吉備しもつみちまきび、693-775)が遣唐使として入唐、735年、帰国。孝謙天皇の信任を受け、遣唐副史として再び渡唐、帰唐する。この時、吉備真備が唐の名人と囲碁を打って勝ったときの様子を彫ったものと云われており、この勝負に勝ったことよって、暦学書を日本に持ち帰ることを許されたと伝えられている。 江戸時代の記録に、吉備真備が遣唐使の一員として唐から囲碁を移入したとする説が記載されているが、「囲碁勝負に勝ったことより暦学書を日本に持ち帰ることを許された」とするのが正しいのではなかろうか。ちなみに、真備が持ち帰った暦は唐代の優れた暦であった大エン暦(たいえんれき)。28年後の763(天平宝宇7)年より用いられ、その後857(天安元)年に五紀暦、861(貞観3)年に宣明暦が用いられ、その後は遣唐使が廃止されたことにより中国の新しい暦は入ってこなくなり、宣明暦が渋川春海の貞享暦 (大和暦) に代わるまでの実に八百年間用いられることになった。(****氏「*****」参照) 三嶋神社(ホームページ): http://www.mishimataisha.or.jp/precinct/carve_h02.html |
(私論.私見)