囲碁発祥譚考その2、自生論

 更新日/2020(平成31、5.1栄和改元/栄和2).3.19日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「囲碁発祥譚考その2、自生論」を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【「中国よりの囲碁伝来論」考】
 「囲碁発祥譚考その1、伝来論」で論拠を確認したが、囲碁の発祥につき、それを中国、朝鮮、日本の何処(いずこ)に求めるべきか、定かでない。こう解するべきではなかろうか。即ち「囲碁の起源は神話的不可思議さを内包している」。こう解するべきではなかろうか。

 従って、「日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は原則として『中国』となっています。逆に『日本起源説』を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげてを紹介すべきです」なる論は変調である。かくなる論調をもってすれば悶着は起こらないであろうが、腰を引き過ぎていよう。この回答者は、日本起源説を否定して中国起源説を断定することが正義のように吹聴しているが、こういう耳目に入りやすい態度をとるのも一法ではあるが、歴史的真実は尋ね続けて行かねばならない。必要なことは、囲碁の起源国を主張する者があれば、それを証明させることであり、それを互いに検証することである。必要なのはこの作業ではないだろうか。この検証抜きの日本起源説論も中国起源説論も採るべき態度ではないと思う。「今となっては未解」、これが我が輩の執る態度である。従って、「囲碁の発祥・歴史は、少なくとも2000年以上前までに遡ることができます。そして、古代インドから発祥し、東アジアを中心に発展してきました」との解説も我が輩の執る態度ではない。

 囲碁の専門棋士にして囲碁ライターとして稀有な値打ちを持つ中山典之氏の「囲碁の世界」(岩波新書、1986.6.20日初版)は次のように記している。
 概要「碁は、いつごろ、誰によって打ち始められたものか、今となっては誰にも分からない。それは、我々の祖先によって、遠い遠い昔から打ち継がれてきた。大昔から大勢の人によって打ち継がれてきた碁だが、その起源については誰も明らかにしてくれない。ただ、碁は大昔に中国の聖天子、尭、舜が作ったとされてきただけである」。

 この言は中々の見識である。と云うのも、通説は「中国から渡来した」とされているところを、前段に於いてであるが、「今となっては誰にも分からない。その起源については誰も明らかにしてくれない」と記し「不詳」(「はっきりしない」と云う意味)としているところに値打ちが認められる。この説を仮に「囲碁発生不詳論」と命名しておく。

 実際には、「ただ、碁は大昔に中国の聖天子、尭、舜が作ったとされてきただけである」と続けている。かの「坐隠談叢」でさえ、渡来説に基づき次のように記している。
 
 「奈良朝時代はインドを無上の開化国とし、唐を唯一の文明国とし、只管之を欽募せり。故に政事、文学、美術凡て皆なこれに倣いたり」。

 同書は安藤豊次著の明治37年1月初版、原本は和装5冊の名著である。日本棋院の林裕氏は次のように評している。
 「この談叢に厳密な史眼をあてると、疑問の声や、明らかな誤りもあるが、碁界では未だそれを書き改めるだけの資料が揃っていない」。

 この説を仮に「囲碁中国伝来論」と命名しておく。「万事伝来論の一種としての」と形容した方がなお主意が鮮明になる。これが通説であるが、私は「囲碁発生不詳論」を採る。即ち日本発とも考えられる余地が大いにある故にである。

 「囲碁中国伝来論」に従った場合、それでは日本に渡ってきたのは何時(いつ)頃かとなると、信の置ける話しはない。通説は、「奈良時代に吉備真備(695-775年)が遣唐使として唐から持ち帰った」、「囲碁は中国で生まれ、七世紀に日本に伝わり日本文化として根付いた」としているが、軽薄なる俗説に過ぎない。その修正として、「記録は残っていないが5世紀の欽明天皇(539−571年)の頃、朝鮮を通してほかの色々なものと一緒に渡ってきた」という説が有力とされている。しかしこれも、「囲碁朝鮮経由伝来論」を唱えているだけで、論証力を持っていない。紀元600年頃の中国史書「随書」の「倭国伝」に「(倭国では)囲碁、双六、博打が好まれる」と書かれてある。これは史実であるが、この記述をどう窺うべきか。通説は、「吉備真備以前に伝わったのではないかと思われます」と解説している。これも、「万事伝来論」の型の中で理解しようとしている俗説にぎない。なぜそれほどまでに伝来論に拘るのだろうか。囲碁の歴史的発生につき、通説は悉く伝来論にシフトし過ぎている。

 囲碁に限らず、往古に於いて有益なものにつき中国経由、朝鮮経由、東南アジア経由等の伝来ルートの詮索に忙しい。この学説は、近代史上の有益なものは万事米英欧の西欧に由来するとする伝来論とハーモニーしている。あたかもそういう型が作られているかのようであり、この型にプレスされた様々な通説学説が作られている。中には当て嵌まるものもあろうが、何でも彼でも外来論で理解しようとし過ぎではなかろうか。証拠だてるものがなく、要するに憶測でしかないものについては、いきなり外来論(伝来論)に向かうべきではなく、ひとまずは判断留保の勇気を持つべきではなかろうか。万事伝来論は有害で、個別ごとに伝来、自生の別をしながら検証して行くべきではなかろうか。
 「日本古代の囲碁史に関わる文献資料リスト」の「囲碁伝来」は次のように記している。
本朝事始 伝/藤原道憲著 百済伝来説  「囲碁は、百済から渡来した博士・阿和直がはじめて仁徳天皇に教えた」と記している。
続日本紀  吉備真備のもたらした文献、器物を挙げ、「種々の書籍や要物は書き尽くせない」と記すが、碁器や棋書の名は見えない。
扶桑略記
公卿補任
慶長見聞録 1614年/三浦浄心著 吉備真備伝承説  
拮抗集 1688年刊/ 吉備真備伝承説
人倫訓蒙図彙 1690年刊/ 吉備真備伝承説
中華事始 1714年没/貝原益軒著 双六伝来吉備真備説
和漢三才図会 1713年頃/寺島良安著 吉備真備伝承説
本朝世事談綺 1734年/菊岡*涼著 吉備真備伝承説
囲碁雑編 1786年/河村秀根著 百済渡来説
古今要覧稿 1842年/屋代弘賢ら編 百済渡来説
皇国名医伝 1852年/浅田宗伯著 百済渡来説
囲碁事蹟考 江戸末期/加納諸平著 百済渡来説
爛*堂棋話 江戸末期/林元美著 百済渡来説

【万事伝来論ちょっと待った考】
 ちなみに、1952年(昭和27)年、中国の河北省(望都県)の漢代の劉氏(りゅうし)の墓(182年埋葬)から、陪葬品として17路5星の石棋盤と石榻(せきとう、石の対局椅子)が発見された。これにより、邯鄲淳(かんたんじゅん)著「芸経」の中の「棊局縦横各17道、合わせて289道」という文章が立証された。この碁盤の星(中国では花点)の形はハートの5花点だった。

 1959年(昭和34年)、中国の河南省(安陽市)の随(ずい)代の張盛(ちょうせい)の墓から、陪葬品として19路5星の小型青磁碁盤が出土した。2002年、中国陝西省の考古学者が、前漢の景帝陽陵で、前漢時代(206BC - 24AD)のものと思われる17路式陶製碁盤を発見した。最長の部分で縦およそ28.5cm、横19.7cm、高さ3.6cm。皇帝の陵墓から出土したとはいえ碁盤の造作が粗雑であり、この碁盤は皇帝の陵墓から出土したとはいえ、皇族が使用したものではなく、陵墓の墓守達の遊戯のために使用されていた、当時の使い捨て的なものだったと推定されている。2007(平成19).5.15日、中国の龍坑(寧夏自治区)の漢墓群で古代の碁盤と陶片の碁石が発見された。これらの発掘を見れば、囲碁の中国に於ける普及が確認できる。但し、発祥まで窺がうべきだろうか。

 「万事伝来論の一種としての中国よりの囲碁伝来論」を補強する中国での碁器出土に対して次のような立論が成り立つ。即ち、これらはいずれも、日本の正倉院所蔵の「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)に見劣りするものばかりである。中国が囲碁の本家であれば、正倉院所蔵の碁器を上回るものがあちこちから出土しないのは不自然な気がする。

 もうひとつ述べれば、日本では女流平安文学の中に囲碁記述がしばしば登場している。それを窺うに、「中国よりの囲碁伝来論」の観点に立てば、僅か数世紀前に大陸から輸入されたものを、平安女流囲碁が早くも吸収し興じていると云うことになる。しかしながら、同時代の中国に於いてそういう女流囲碁の形跡が見当たらない。これはかなり不自然な現象ではなかろうか。囲碁の本家が中国であれば、本家の方こそ盛んであるのが自然ではなかろうか。と云う観点に立てば、この時期に於ける女流の囲碁の嗜みが日本だけの現象であることにつき、「中国よりの囲碁伝来論」の奇異を感じるべきではなかろうか。平安女流囲碁が、はるか昔からの日本国の伝統に支えられており、故にしっとりと興じている様子を見て取るべきで、ここに相当の歴史が経緯していると看做すべきではなかろうか。

 こういう囲碁吉史観によれば、「囲碁起源特定不詳説」を推したい。もっと云えば、通説の伝来論よりも日本自生論の方に分があるように思われ、その可能性をも探るべきだと思っているが、日本自生論の過度の強調も徒な国粋主義に向かう恐れがあるので、「囲碁起源特定不詳説」に留めておく。

【「囲碁の日本発祥説」考】
 ネット検索で「囲碁の起源主張して世界中から軽蔑される日本人」が出てくる。これにコメントしておく。多くのコメントは次のようなものである。「囲碁の日本発祥説を主張をすることはとても恥ずかしいです」。このコメントは、「囲碁の日本発祥説を虚説」と判断して、そのような論を説くことを「恥」としている。「日本で販売されているどの棋書を見ても、囲碁の起源は原則として中国となっています。逆に日本起源説を吹聴する日本の棋書があるなら、中韓の方は、具体名をあげてを紹介すべきです」。このコメントは、「囲碁の日本発祥説不存在説」を唱え、仮に「囲碁の日本発祥説」が存在すれば火消ししようとしているように見える。これらを仮に「囲碁の日本発祥否定説」と命名しておく。次のコメントは、「逆にまったく確証がないのにインド、中国、韓国が起源と言うのもどうかと思いますがね。日本起源説も言い過ぎで、一体どこが起源なのか未だにわからない状況です。別にどこが起源だろうと特に何か変わるわけではありませんのでさほど意味のない詮議だと思います」。これを仮に「囲碁の発祥国不詳説」と命名しておく。こんな感じのコメントがまぁまぁかなと思う。

 れんだいこ的には、もう少しみ踏み込んで、こう云いたい。「囲碁は四千年の歴史を持つ神秘で哲学的な盤上競技である。碁はどうやら文明発祥と同時に起源するらしく、四千年の歳月云々は当らずといえども遠からずかもしれない。囲碁の発祥につき日本発祥説は有力で、ありえる話しではあるが、この説に固執する必要はない。重要なことは、中国、朝鮮(北朝鮮、韓国)、台湾、沖縄、日本の東アジア圏六ケ国が数千年来に亘って囲碁の法灯を守り抜いて来たことであり、近年においては日本が積極的に庇護してきたことで囲碁文化が育成されて来た。それが今や世界の囲碁に孵化していることであり、これを共に称え合い、力を合わせて更なる精進を重ねていくことであろう」。これを仮に「囲碁の日本発祥ありえる説」と命名しておく。
 補足として「囲碁発祥譚考」をものしておく。

【熊野古道の囲碁伝説考】
 2019(平成31).1.1日のNHK番組「熊野古道」に、昼嶋(ひるしま)伝説が登場していた。それによると、昼嶋(ひるしま)は熊野川の中にある島で、川の水量が少ないときは和歌山県側から歩いていくことができる。南紀徳川史に収められている「熊野道中記」には次のように記されている。
「碁盤嶋/川の中にある。水際より上で碁盤のようになっている石である。碁石もある」。
「昼嶋/浅見領、川の中にある。碁盤島と飛石の事か」

 (この記述によると、昼嶋と碁盤嶋は同じ島になる)。

 NHK番組「熊野古道」は次のようなコメントつきで島の映像が放映していた。
 「この島で熊野権現が昼食したとも、天照大神と熊野権現が碁を打った(打って興じた)とも云われる。島の上部は碁盤の目のような縦、横の筋がある」。

 「天照大神と熊野権現が碁を打って興じた、「島の上部は碁盤の目のような縦、横の筋がある」はよほど意味深で、「天照大神と熊野権現が碁を打た」となると、相当古い時代の伝説になる。

【万葉集に於ける碁師の歌二首考】
 古事記、風土記、懐風藻にも碁に関する記事が幾つも記されている。万葉集には碁師の歌が二首収められている。碁の歌ではなく、碁を教えに碁師が旅した地方の風景を詠んでいる。万葉集の碁檀越と碁師(8世紀はじめ頃)の記述は次の通り。
 碁檀越
 万葉集巻四500番相聞歌 題詞碁檀越徃伊勢國時留妻作歌一首(碁檀越が伊勢国に往く時、留まる妻がよめる歌一首)
 神風之 伊勢乃浜荻 折伏     客宿也将為  荒浜辺尓
 (神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に)
 
 碁師
 万葉集巻九の1732~1733番雑歌 題詞[碁師歌二首]
 祖母山    霞棚引   左夜深而  吾舟将泊    等万里不知母
 (おほはやま 霞たなびき さ夜更けて 我が舟泊てむ 泊り知らずも)
 思乍    雖来来不勝而  水尾埼  真長及浦乎  又顧津
 (思ひつつ 来れど来かねて 三尾が崎 真長の浦を  またかへり見つ)

 この歌の直前の1729~1731番の「宇合卿歌三首」の次に載せられおり、前後を含めて一連の歌が虫麻呂歌集に含まれていると考える説もある。
 ここでは囲碁を詠みこんではいないが巻の歌題に碁の痕跡が記されている。ここでの碁檀越の碁は碁氏というより氏名かもしれない。この場合、檀越は寺の施主のことだから碁檀越は施主の碁という人物となる。次に、巻 、 ・ 番の題詞には 碁師歌二首 とあり、つづいて船中の歌がある。この碁師は多くの万葉集研究書では意味不明の語だとされている。 碁師は基師とする伝本があり、それ故の意味不明かと思われる。近世以降の囲碁関係の書では、この万葉の語を囲碁に結んで語るものが多い。(関節蔵は 日本囲碁史綱 で 碁師歌の意味は船中遠行の客吟であ る、或は本土を離れて外国に渡海したのではなかろうか とし、江戸末期の国学者・加納諸平は 囲碁事蹟考で碁の上手とはおぼしけれど未祥 としている)。

 万葉歌の中には「吾恋流碁騰(あがこふるごと) 己知碁知乃枝之(こ ちごちのえの)」といった真仮名の碁の字が散見する。

【古事記のイザナギ、イザナミの国生み神話の下りに於ける「碁」文字記述考】
 712(和銅5)年、古事記が編纂され、日本で最初に「碁」の文字が用いられている。その箇所はイザナギ、イザナミの国生み神話の下りであり、両神が降り立ち柱廻りをしたところが次のように書かれている。
「故、二柱神立天浮橋而、指下其沼矛以畫者、鹽許々袁々呂々邇畫鳴而、引上時、自其矛末垂落鹽之累積、成嶋。是淤能碁呂嶋。
(故、二柱神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろして畫きたまへば、鹽こをろこをろに畫き鳴らして、引き上げたまふ時、其の矛の未より垂り落つる鹽の累なり積もりて、嶋と成りき。是、淤能碁呂嶋なり)

 これによると、イザナギ、イザナミの国生みの柱廻りをしたところが「於能碁呂嶋」(おのごろしま)」という表記になっている。「碁」が、日本の国土誕生の際にもは関わっていたことになる。ちなみに日本書記では「磤馭慮島」という表記になっている。(「古代日本における「碁」(1)」参照) 「碁」が単なる当て字なのか裏意味があるのか興味が湧く。
 「日本の囲碁は、古事記や万葉集にその記載があるほど長い歴史をもっている」。

【古事記のスサノオの日本最古の和歌に於ける「碁」文字記述考】
  日本最古の和歌といわれているスサノオがクシナダヒメと新居を構えるときに詠んだといわれている「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」にも「碁」が記述されている。古事記では、「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」という表記になっており、「妻籠みに」の箇所が「都麻碁微爾」と「籠み」を「碁微」と記述している。同じ歌を、日本書紀では、「夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語味爾夜覇餓枳菟倶盧贈迺夜覇餓岐廻」と記述しており、「碁」は用いられていない。(「古代日本における「碁」(1)」参照)

【古事記のヤマトタケルの和歌に於ける「碁」文字記述考】
 次にヤマトタケルが大和を思い出して詠んだことで有名な「大和は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる大和しうるはし」という歌にも「碁」が出て来る。古事記では、「夜麻登波久爾能麻本呂婆多多那豆久阿袁加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯」と表記されている。「山隠れる」の箇所が「夜麻碁母禮流」と記述されており、「碁」が記述されている。こちらの歌でも、日本書紀では、「夜摩苔波区珥能摩保邏摩多多儺豆久阿烏伽枳夜摩許莽例屢夜摩苔之于屢破試」となっており、「碁」は用いられていない。 (「古代日本における「碁」(1)」参照)

【万葉集の柿本人麻呂の和歌に於ける「碁」文字記述考】
 万葉集の柿本人麻呂周辺の和歌題詞に「碁」が表記されている。まず人麻呂の方をみてゆくと、「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌」という題詞の歌の中に、「(略)槻木之己知碁智乃枝之春葉之茂之如久(略)」(巻二、210番)と記述されており、「碁」文字が登場している。「続萬葉仮名の研究」では、「碁智」という表記に対して「或る程度の義字的要素を認めるべきかもしれない」と注している。江口洌氏(元千葉商科大学教授)は、「囲碁には智慧を働かせるのだから、知字ではなくて智字を用いた」と説明した上で、「人麻呂は囲碁を知っていたのでしょうか」と記している。さらに江口氏は次のように述べて、人麻呂の歌での「碁」の使用が最古の用例であることを次のように指摘している。
 「この古典の史料では、常識と違って、万葉集の方が早い使用でしょう。(中略)万葉集の『碁』字使用の例は、『人麻呂作歌』のものであり、その歌の表記が、人麻呂自身によるものと指摘されています。人麻呂は8世紀はじめ(702年ごろ)に亡くなっています。古事記の完成時点より早いのです」。


補足をしておくと、万葉集中の人麻呂の歌は「人麻呂作歌」、「人麻呂歌集」とに大別される。「人麻呂作歌」は人麻呂が作者であることが確定している。「人麻呂歌集」の方は研究者によって見解が異なる(人麻呂の若い頃の作品群であるという研究者や、人麻呂本人の作品の他にも周辺の人々の作品なども含んでいるという研究者もあれば、後世作り上げられた人麻呂とは全く無関係な作品群とする研究者もいる)。先に挙げた歌は「人麻呂作歌」であることから、江口氏は人麻呂の「碁」の使用が古事記の用例よりも古いと指摘していることになる。


 巻四の500番の歌が、相聞歌「碁檀越往伊勢国時留妻作歌一首」(碁檀越が伊勢国に往く時、留まる妻がよめる歌一首)という題詞で、「神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也将為荒濱邊尓」(神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に)となっており、「碁」字が使用されている。江口氏は、この歌の前後の496番~499番、501番-503番が人麻呂の歌であることも指摘するとともに、人麻呂の歌である「潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島みを」(巻一、42番)との類似性も指摘している。(「古代日本における「碁」(2)囲碁史会会報第8号」参照)
 題詞[碁師歌二首]「祖母山霞棚引左夜深而吾舟将泊等万里不知母」(おほはやま 霞たなびき さ夜更けて 我が舟泊てむ 泊り知らずも)、「思乍雖来来不勝而水尾埼真長及浦乎又顧津」(思ひつつ 来れど来かねて 三尾が崎 真長の浦を またかへり見つ)。

 この他、万葉歌の中には「吾恋流碁騰」(あがこふるごと)、 「己知碁知乃枝之」(こちごちのえの) といった真仮名の碁の字が散見する。古来輩出する万葉研究家の定説では、ここに登場する「碁」を囲碁と結びつけるものはみえないようであるが、何らかの関わりを窺う方が自然だろう。

【日本に於ける碁石の浜伝説考】

古代日本における「碁」(3)」その他参照。 

 日本に於ける碁石伝説考その1、出雲国風土記(733年成立)に於ける「碁」文字記述考。「嶋根郡」の中に、玉江浜の笹子浦(佐々子浦、ささごうら)(現在の松江市美保関町片江1618)の玉結神社に「玉結浜」の伝説がも次のように記述されている。

 「玉結濱廣百八十歩。有碁石。東邊有唐砥。又有百姓之家」。
 (玉結びの濱に廣百八十歩の碁石あり。東の辺に麁砥あり。又、百姓の家あり)


 かく「碁石の浜」(ごいしのはま)伝説が記されており、玉結びの浜海岸から碁に適した黒石が採れたことを伝えている。白の碁石は貝を加工して作ったと云う。

 岸崎時照/著「出雲風土記ショウ」(1683年成文)は次のように記している。

 「玉結浜、今玉江浜、黒色碁子石今猶在牟。唐砥玉江と片江之間笹子浦猶亦在牟」。

 日本に於ける碁石伝説考その2、常陸風土記(717~724年選進)、万葉集の藤原宇合絡みに於ける「碁」文字記述考。常陸風土記の「多珂郡」の中に次の記述がある。

 「郡南廿里藻島駅家東南浜 碁子色如珠玉所謂常陸国所有麗碁子唯是濱耳」。
 (「郡の南廿里に藻島駅家(現・茨城県多可郡十王町伊師の小貝浜)あり。その東南の浜にある碁の色が珠玉の如し。いわゆる常陸国に有る麗わしき碁子は、唯この浜にのみあり」、「今の伊師町伊師本郷伊師浜は、皆な古の藻島なり。伊師を名とするは、けだし碁子を出すゆへなり。小貝の浜とも称す。種々の小貝五色の小石あり。砂も常の砂よりは、甚大粒にして金銀の光あり」、「昔、倭武天皇は、舟に乗り海に浮かび、島の磯を御覧ずるに、種々の海草が多く生い茂栄す。因って名づく、今亦然り」とある)


 かく「鹿島のハマグリの碁石」が名産として記述されている。この記述は、碁石の取れる浜が多珂郡に存在していることを示している。「囲碁は、奈良時代には中国から入ってきており、貴族たちに愛好されていた。その囲碁に用いられる美しい石がこの浜でとれるというのである。現在、伊師浜の国民宿舎鵜の岬の東の入江で白や黒の丸くひらたい石をひろうことができる」と解説されているが、前段の「囲碁は、奈良時代には中国から入ってきており、貴族たちに愛好されていた」は余計な記述だろう。ここは、常陸風土記の「多珂郡」の中に「碁石の浜」(ごいしのはま)の記述があることを確認し、囲碁が日本史の相当古い時代に存在したことを窺うべきだろう。

 この当時、常陸国司だったのが藤原宇合で、この宇合の常陸赴任の随行者に高橋虫麻呂がおり、虫麻呂が宇合の周辺の歌を高橋虫麻呂歌集の形でまとめたものが常陸風土記や万葉集にも用いられたと考えられている。


 北条時隣/著「鹿島志」(1823年成文)は次のように記している。

 「碁石浜、『例伝記』に『鹿島崎といふは東の荒海にて、碁石多く寄せ来る磯浜なり。碁石浜といふ』」云々、「また大神このところにて、外国の鬼と碁を打ちたまふなど云ふ俗説あり」、「常陸碁石は世に名高し。今もなほいと美麗き小石この辺りにおほかり。碁石の出づる浜はこの外、風土記の多可郡、出雲風土記の島根郡などに見え、伊勢国島崎は西行法師の歌に詠めり」。
 日本に於ける碁石伝説考その3、岩手県大船渡市の三陸海岸沿いに“碁石”のような黒い玉砂利が敷きつめられている碁石浜(ごいしはま)、末崎半島の先端にあたる碁石岬(ごいしみさき)を持つ碁石海岸がある。大船渡湾の南に突き出た末崎半島の先端約6kmの海岸線が碁石海岸で、国の名勝・天然記念物に指定されている。碁石海岸は全国渚・白砂青松100選に指定されている。さらに、その中にある雷岩から発せられる音は、国の「残したい日本の音風景百選」に指定されている。囲碁神社もある。 

 保田光則/著「新撰陸奥風土記」(1860年成文)は次のように記している。
 「一、碁石浜の黒碁石、気仙沼末崎村にあり。白石ハこの辺り鴎居と号する嶋在り。その嶋の上池中に碁子の白石をだす」。
 日本に於ける碁石伝説考その4、現在、白石は日向(ひゅうが、宮崎)の4km程の「お倉ヶ浜」が日本最後の産地となっており、ここから採れる蛤(はまぐり)の殻(から)で碁石を製造している。「お倉ヶ浜」は日本の渚百撰に選ばれている。但し、その日向産の蛤は絶滅寸前で、為に日向特産蛤碁石は僅かしか製造できず「幻の碁石」となっている。現在の原料の主力はメキシコ産蛤になっている。

 日本に於ける碁石伝説考その5、 黒石は三重県熊野市神川町でのみ算出する炭素を含む粘板岩の珪質頁岩(けいしつけつがん)の那智黒(なちぐろ)でつくるのを上等としている。那智黒石は金の純度を見分ける試金石にも使用されている。
 日本に於ける碁石伝説考その6、

 
西行法師/著「山家集」(1180年頃成文)巻3の条は次のように記している。
 「雑、伊勢のたふしと申す島には、小石の白のかぎり侍る浜にて、黒は一つも混じらず、むかひてすが島と申すは、黒のかぎり侍るとなり」。
 すが島や 答志の小石 わけかへて 黒白まぜよ 浦の浜かぜ
 鷺島の小石の白をたか波の たふしの浜に 打ち寄せてける
 島崎浜の 小石と思ふかな 白もまじらぬすが 島の黒
 あはせばや さぎとからすと 碁をうたば たふしすが島 黒白の浜

 「和漢三才図会」(1712年成文)は次のように記している。
 「日本国より玉の碁子を貢す。言ふ、本国南に集賢島あり。上には手段の池あり。池の中より碁子を出す」。(集賢島は詳らかならず。紀州那智の浜か)
 日本に於ける碁石伝説考その7、

 「広益俗説弁」(1715年頃成文)は次のように記している。
 「俗説云う、もろこしの書に出たる手譚池は、豊後国佐賀関の白浜、黒浜のことをいふ。今按るに、手譚池は豊後国佐賀関にあらず。肥後天草にありと云う」。
(私論.私見)
 常陸(ひたち)国風土記と出雲(いずも)風土記その他に日本に於けるこのような碁石伝説が記されている。これは相当に重要な記述であり、大和王朝前の出雲王朝の御代に碁石が存在したということになる。当然、囲碁が打たれていたことになる。出雲王朝は紀元3世紀頃の邪馬台国の前の王朝と考えられる。ひの頃既に囲碁が日本に存在していたことになる。但し、これを直接に論証するに足りる史料は今のところない。奈良の藤原京で碁石が発掘されている。丸い自然石で、材質は黒石が黒色頁岩、白石が砂岩となっている。その作製年代を知りたいが分からない。

【日本に於ける碁盤考】
 碁盤は、木製では鹿児島、宮崎、大分、岐阜、茨城、栃木、神奈川などの各県産の榧(かや)の柾目(まさめ、天柾)を上等とする。ほかにも桂(かつら)などもよく用いられている。碁笥(ごけ、碁石を入れる器とふた)には木製では栗(くり)、欅(けやき)、桑などが用いられている。

【囲碁神社考】
 九州に「囲碁神社」(大分県由布市庄内町阿蘇野097-582-1111)というお宮がある。囲碁の神様を祀っている珍しい神社で、黒岳の北東山麓の阿蘇野の麓に建立されている。JR庄内駅から南西に10キロメートルほど入った山深い場所で,近くに白水鉱泉がある。我が国で唯一の囲碁に関わる神社だという。祭神として、八意思兼神(ヤゴゴロオモヒカネ、智の神)、経津主命(フツヌシ、戦の神)、吉備真備(キビノマキビ、勝負の神)を祀っている。ある夏には囲碁大会が行われるほか、祭日には拝殿で「囲碁占い」が行われる。

 黒岳に入って道に迷った樵夫が山の中をさまよい歩くうちに、碁を楽しんでいる二人の仙人に出会ったという伝説の由来が次のように書かれている(庄内町観光協会大意)。
 「昔、木こりが道に迷って山中をさまよったが、二人の仙人が碁を打っているのに出会った。道を尋ねたところ、仙人が言うには『米のとぎ汁を流すので、それを辿れ』と。その言葉に従って木こりは無事に村に帰ることができた。村人が囲碁の神を崇めて三神を祭った。米の汁は今の白水鉱泉(天然の炭酸水)である」。

 松村緑/「ある時、大分から熊本、そして福岡と山中を車で走っていた。時が止まるような鬱蒼とした森を抜け、山里にさしかかろうとしたその時、忽然と現れたのが『囲碁神社』である。そこには仙人が三人で碁を囲んでいた絵図があった。そしてその謂れが石碑に刻んであった」云々。
(高野圭介「第二章 日本の碁伝来と敷衍」参照)

【「囲碁に関連した地名」考】
 「歴史散歩とサイエンス」、「囲碁に関連した地名」その他によれば、日本の囲碁に関係する地名が次のように挙げられている。これらよると全国に広がっていることが分かる。
「碁盤坂」 北海道函館、京都府船井市。
「碁盤田」 愛知県西加茂郡。
「碁盤石」 德島県徳島市名東町。
「碁盤石山」 愛知県設楽(したら)町
「碁盤島」 石川県志賀町。
「碁盤ヶ岳」 大分県臼杵市。
「碁盤ヶ嶽」 山口県萩市。
「碁盤ノ辻」 長崎県諫早市。
「碁石」 岩手県久慈市、宮城県川崎町(近くに碁石川も流れている)、宮城県柴田町、秋田県本荘市、新潟県村上市(近くに碁石川も流れている)、愛知県南設楽(みなみしたら)郡、京都府船井郡、岡山県玉野市。
「碁石浜」 北海道弟子屈町、東京都大島町。
「碁石海岸」 岩手県大船渡市(碁石岬もある)。
「碁石沢」 茨城県石岡市。  
「碁石鼻」 福岡県福岡市西区。
「碁石山」 香川県小豆島市、愛媛県今治市。
「碁石ヶ森」 愛媛県西予市野村町。
「碁石ヶ峰」 石川県中能登町。
「碁石坂」 京都府京都市右京区。
「碁石婆」(ごいしばえ) 愛媛県西予市三瓶町。
「碁石町」 新潟県村山市。
「碁石村」 富山県氷見市、石川県羽咋(はくい)市。 
「碁点」 山形県村山市。碁点橋と碁点温泉の名称地もある。
「碁要」(ごよう) 德島県の三野町。
「天元台」 山形県米沢市。
「高目」 福島県西会津町。
「小目町」 茨城県常陸太田市。
「白黒小道」 神奈川県鎌倉市。
「八目」 滋賀県豊郷町。傍目八目にちなんで。
「団子石」 茨城県石岡市。そばに団子石峠がある。
「地合町」 島根県出雲市。

 他にも囲碁ゆかりの寺社、石碑、扁額、石盤等が確認できよう。これらにつき、もし囲碁が日本に輸入されたものなら、輸入元には囲碁地名、囲碁ゆかりのものが日本よりより多くあって然るべきだろう、と思うのだが。

【「燕山夜話」の囲碁記述】
 榊山潤・氏の「日中囲碁盛衰史」によれば、「『燕山夜話』に古代の日中囲碁戦のことがちょっと出ていますね。故志言の---日本の王子との---」とある。もう少し知りたいが分からない。

 「燕山夜話」は、北京市副市長で歴史学者の拓(とうたく、1912‐1966)の随筆。1961年刊。伝統的知識人の気風を受ける高踏的な作品。「海瑞罷官」(かいずいひかん、呉(ごがん)著)、「三家村札記(さつき)」(呉・拓・廖沫沙(りょうまつさ)共著)と共に毛沢東に批判され、文化大革命の突破口に使われた。

【魏志倭人伝の日本囲碁記述】
 「魏志倭人伝の中には卑弥呼が朝鮮から囲碁と双六の道具の寄贈を受けたというくだりがあります」とする記述がある。同書のどの件にどう書かれているのか不明だが、虚説にしても興味深い。というのも「あり得る話し」だからである。これについては今後も関心を持っていきたい。

【隋書・倭国伝の日本囲碁記述】
 600年、遣隋使始まる。
 607年、推古天皇の時代に遣隋使の派遣で、聖徳太子は「日の出るところの天子から日が沈むところの天子へ」と書いた手紙を持たせた。その手紙を見た隋の皇帝は怒って「無礼な手紙だ。日本(倭)がまた何を言ってきても二度と私の耳に入れるな」と怒ったが、翌608年、文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を隋の使いとして日本に送ってきた。隋の裴世清は、日本に来ていろいろなことを調べ、体験したことを記録し、636年、隋書・倭国伝ずいしょわこくでんを著わす。その中で次のように記している。
 (倭人は仏法を敬い)
 (倭人は正月には必ず射的競技をし、酒を飲む。季節行事はほぼ中国と同じ)
 「倭の國人、好棋博、握槊、樗蒲之戲」。
 (解説)棊博(きはく)は囲碁のこと、握槊(あっさく)は双六(すごろく)のこと、樗蒲(ちょぼ)はさいころ博打(ばくち)のこと)。

 これによると、「倭人は仏法を敬い、囲碁、双六(すごろく)、さいころ博打(ばくち)の戯芸を好む」)と記していることになる。

 これによると、日本では相当に古くより囲碁が打たれていたことになる。別段に中国から移入されたとも注釈されていない。これらを思えば安易に伝来論に染まるのは控えたいと思う。後の時代に吉備真備の囲碁伝説が遺されているが、彼の留学よりも前に編まれた律令や風土記の遺文からすれば、「日本の囲碁の伝統は相当古い」ことが明らかとなっている。この辺りを踏まえれば、「日本への伝来は真備よりも古い」とする修正ではなお足りず、そもそもが「囲碁の日本伝来説一辺倒」からして早計と云うべきではなかろうか。「日本で自生した可能性が大いにある」。但し、愛国排外主義的に称揚する意義がないので、「伝来説は不詳。少なくとも中国、朝鮮、日本圏で創造され歴史的に愛好されて来た技芸である」と構図すべきではなかろうか。かく史観を構えたい。

【遣唐使船に碁師が加わっていたことの記述】
 618年、唐が中国統一。
 遣唐使には大概碁師が1名加わって行ったと云う。三代実録は遣唐使員としての碁師の記録が次のように記されている。
 「伴宿禰少勝雄、 碁を善くするを以て、延暦聘唐の日、使員に備う。碁師たるを以てなり」。

 「囲碁事蹟部類鈔」(江戸後期成立囲碁史書)が次のように記している。
 「碁師は能書を手師といふが如く碁の高手なるべし、…三代実録の文に拠れる遣唐使の諸司の中に必ず碁師ある事、古例なりしなるべし。推古天皇の御代より以降延暦の頃までは、いとしばしば漢国に御使ありしかば、碁師等彼国の人と打ちたるが、中にはいとさかしき手なども有したるべし。帰朝の後その事を朋友などにも語りし事を、ほぼゆがめてもいひ伝へしより、かの江談にみえたる怪説もありしなるべし。杜陽雑編に見たる日本王子のことも碁師などにもやありけむ。猶考ふべし。万葉集の碁師も作主履歴に字にはあらで、棊を善くする人の仮名なるべしといへるが如く少勝雄を碁師といへると併せ見るべし。されどその姓名ともに伝わらざるはくちおし。又同集巻四に碁檀越往伊勢国時留書作歌、といふも見ゆ。此はた作主履歴に檀越可為字、冠之碁、其芸依善而已といへりける。碁といふ氏も他に見あたらねば此説の如くならんか。もし然らば碁師の字檀越にて上に見えたると同人なるべし」。

【奈良時代前半の囲碁】

 645年、大化の改新。


【持統天皇の「双六禁止令」発布】
 685(天武天皇14)年、「大安殿に御し、王卿をして博戯せしむ」(「天武天皇の双六天覧試合」)。翌686年、天武天皇逝去す。後継したのが鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、持統天皇)。 688(持統天皇3年).12.8日、「双六禁止」発布(「双六禁止令」)。

【大宝律令の囲碁記述】
 701(大宝元)年、文武天皇の御代、聖武天皇の祖父で光明皇后の父である藤原不比等(ふひと、659-720)が編纂した大宝律令が定められた。これは隋や唐のような強大な国づくりをめざし、政治、学校、土地、身分などを取り決めた法律であるが、その中の僧尼令(そうにりょう)に次のように記されている。碁が格別の地位で待遇されていることが分かる。
 「凡そ僧尼は、音楽及び博戯を作(な)さば、百日の苦使。碁琴は制限あらず」(博戯=チョボ、双六(すごろく)の類を云う)。
 (凡そ僧尼が音楽と博戯をすれば百日の苦役。碁と琴に制限はない)。
 (スゴロクやバクチは禁止するが、碁琴(ごきん)は禁止しない)
(私論.私見)
 原文は「僧尼」とあるのでその字義通りに読むべきではなかろうか。大抵「僧侶」と解しているが、「僧尼」の「尼」に注目すると、男性の「僧」と女性の「尼」の両方に掛かっているところの意味が注目されるべきではなかろうかと思う。この当時、日本における女流碁が存在しており、それが解禁されており、むしろ推奨されていたことを窺うべきではなかろうか。同時代の外国に於ける女流碁の様子との比較が興味深いが、この種の研究はされていないように思われる。
 
 これに関係すると思われる田村竜騎兵著「物語り囲碁史」の次のくだりを転載しておく。
 「今、博奕と書くと、バクチと読むことになっている。だいたい奕の字だけでバクチの意味にとられるのが普通だ。だがこれは、碁にとってたいへん迷惑な話である。博奕と書いて二つを一緒にするのが間違いの元なのである。元来、博は、チョボ、スゴクロなどの雑技を云い、奕は碁そのものを指す。ぜんぜん違うものをひとつにし、しかもバクチ呼ばわりするとは、何事であるか。第一、博と奕では品格が違う。博は極端に言えば丁半バクチも同じで、賭け金さえ持っていれば誰にでもやれる。碁は、技術を知らなくてはやれない。知ってからあとの奥行きの広さ、深さも抜群である。誰でも、すぐにでもと云う訳にはいかないのだ。昔、博も奕も大流行し、みんなウツツを抜かして社会問題になったことがある。困った役人は、厳重なお触れを出した。『博する者は罰す。奕する者は罰せず』。たぶん役人も奕が好きだったのだろう。当然である」。

 大宝律令の大部分が散逸し、断片が残るのみとなっている。但し、半世紀後の757(天平宝字元年)の養老律令(ようろうりつりょう)は、大宝律令の改訂版とされ、完全な形で現在に伝わっている。律は今日の刑法、令は民法や行政法を云う。養老律令の令の編目の一に「僧尼令」(そうにりょう)があり、僧尼を統制する法令となっている。唐令の道僧格(どうそうきゃく)を元とし、大宝律令から令に加えられた。養老律令第7編にあたり27条から成る。内容は私度(しど)の禁止、呪術を用いた民衆布教の禁止、僧尼の破戒行為の禁止などで、行政面だけでなく令でありながら刑罰の規定をも含んでいる。

【我が国最初の漢詩集懐風藻の囲碁記述/弁正法師】
 701(大宝元)年頃、我が国最初の漢詩集「懐風藻」(かいふうそう、751年成立)が入唐僧の釈弁正の二首を記載している。序詞に記される釈弁正とは次の通り。
 「弁正法師は俗姓秦氏。性は滑稽、談論に善し。少年にして出家し、頗る玄学にひろし。大宝律令の編まれた年中に唐国に遣学す。時に後の玄宗皇帝がまだ龍潜の日即ちまだ玄宗が帝位につ かない時の李隆基りりゅうきに会い、日に遇う。囲棊を善くするを以て、しばしば賞遇せらる」、「弁正法師が唐在中の折、混血児をもうけた。その人は日本に帰り官吏になっており、帰朝してからの事跡は古記録でも確かめられている」。
(私論.私見) 弁正法師の囲碁の腕前考
 これによれば、囲碁の達者であった弁正(べんせい)法師が吉備真備に先行して大宝年間(701~703年)に唐に留学しており、囲碁が上手な故に後に玄宗皇帝になる李隆基太子に愛でられ厚くもてなされたと記されていることになる。してみれば、当時の日本に既に弁正法師が囲碁に強くなる囲碁環境があったと云うことになる。弁正は純粋の日本人ではないとする説もあるが、日本からの留学生であることを思えば日本での囲碁熟達を認めるのが筋だろう。
 日本詩史 (*年成立 漢詩史書、江村北海編)は次のように記している。
 「僧弁正、姓は秦氏。亦た西して唐国に遊び、玄宗眷遇甚だ篤し。しばしば召して談論 し、時に囲棋に対すと云ふ。然るときは則ち、或いは盛唐の諸子と諦交し、その潤色 を被るものなり。しかして今その詩を閲するに、絶えて佳なるもの無し。謂ふべし、 空手玉山より還ると 」。

  皇国名医伝 (*年成立 名医伝記)前編巻上[秦忌寸朝元]は次のように記している。
 「秦忌寸(いみき)朝元。父弁正。大宝中唐に赴き。囲棋 を以て唐主の幸を得る。朝慶朝元の二子を生む。弁正と朝慶は彼に死す。朝元独り返 る。医方に通ず。養老五年、従六位下に叙し。絹絲布鍬を賜る。図書頭主計頭に累遷 す。其の唐語を善くするを以て。命じて訳官を兼ねる」。

【古事記選上。書中に「於能碁呂島」の記述】
 712(和銅5)年、古事記選上。書中に「於能碁呂島」の記述あり。
 720年、日本書紀選上。

【大伴小虫の囲碁を廻る中臣東人斬殺事件】
 737(天平10)年7月、続日本紀の巻13の738(天平10)年7月10日条に次の記述がある。
「左兵庫少属従八位下大伴宿禰子虫、刀を以て右兵庫頭外従五位下中臣宮処連東人を斬殺す。初め子虫は長屋王に事へて頗る恩遇を蒙れり。是に至りてたまたま東人と比寮に任ず。政事の隙に相共に碁を囲む。語、長屋王に及べば憤発して罵り、遂に剣を引き斬殺す。東人は長屋王の事を誣告せし人なり」。
 
 「左兵庫少属だった大伴小虫と右兵庫頭の中臣東人が政務の暇に碁を打っている最中、東人が小虫の恩人・長屋王の悪口を言ったのに怒り、小虫が東人を斬り殺した」と記されている。

少属(四等官)が上官に当たる頭(長官)を殺したことになる。一局の碁から思わぬ事件が突発した話しの最も古い記録である。このことからも当時既に宮廷で碁が日常的に打たれていたことが判明する。

 この事件の背景が次のように解説されている。大伴小虫(宿弥)の殺人事件には長屋王の変が絡んでいる。長屋王は高市皇子(天武天皇の長子)の長男で、720年の藤原不比等亡き後、元明天皇、元正天皇といった女帝からの信頼が篤く、右大臣、左大臣を歴任し、良田百万町開墾計画(722年)、三世一身の法(723年)などを実施した。太政官の主位を占め勢力を誇っていた。しかし724年に聖武天皇即位後は藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の勢力が強まり、時に聖武天皇の親王が皇太子に即位後まもなくの729年、皇太子の死が長屋王の呪詛によるとの噂が流れ、729(天平元)年2月10日条、中臣東人が添部造君足と二人が「長屋王が左道を学び、ひそかに国家を傾けようとしている」と朝廷に密告した。その密告を信じた聖武天皇は直ちに六衛府の兵を長屋王邸に差し向け、邸を囲ませて逃亡を防ぎ、翌日密使をやって糾問させた。「その夜、使を遣はして固く三関を守らしむ。因りて式部卿従三位藤原朝臣宇合・衛門佐従五位下佐味朝臣虫麻呂・左衛士佐外従五位下津嶋朝臣家道・右衛士佐外従五位下紀朝臣佐比物らを遣はして、六衛の兵を将て長屋王の家を囲む」。これにより、王、妃、王子たちが自害を余儀なくされた。奈良朝前期の大政変であり藤原氏の陰謀が垣間見えている。7年後の「大伴小虫の囲碁を廻る中臣東人斬殺事件」には、中臣東人を憎む大伴小虫の心情があったと云うべきだろう。(古代日本における「碁」(4)その他参照)


【藤原武智麻呂(藤原左大臣、諱は武智麻呂)に関する囲碁愛好記述】
 藤家の家僧の延慶編「武智麻呂伝」(760年頃成立伝記)が藤原武智麻呂(737年没)につき次のように記している。
 「藤原左大臣、諱は武智麻呂、左京の人なり。(武智麻呂は不比等の長子、母は曽我氏の女で、藤原南家の祖とされる人物。聖武天皇が皇子の時に教育係を勤め、長屋王の変では天皇を糾問した気骨のある人物ともされる。変の後は実権を握って正一位左大臣に上る)…その性温良にして、その心は貞しく固く、礼に非ざれば履まず、義に非ざれば領(おさ)めず、毎(つね)に恬淡を好み、遠く閙(かいどう・乱れ騒がしい)を謝る。或る時は手談して日を移し、或る時は疲覧して夜を徹しぬ。財色を愛せず、喜怒を形さず、忠信を主となし、仁義を行となせり」。

 「武智麻呂伝」は、武智麻呂の子の(藤原恵美)押勝が太師(太政大臣)と権勢にあるときに編んだ家伝。余技として、詩文や歌ではなく手談(囲碁のこと)に熱中したとしている。武智麻呂は天平年( )に歳で没した。武智麻呂と弁正は同時代の碁打だったことになる。(増田忠彦「資料にみえる碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」参照)

【藤原広嗣の囲碁愛好記述】
 藤原広嗣(740年年没)につき、鏡神社松浦廟宮(佐賀県唐津市)の先祖次第并本縁起が次のように記している。
 「彼(藤原広嗣)存生時に於て五異七能有りと云々。五異と謂は。一、御髻中。一寸余の角が生ず。[諺曰。人者雖賢専角不生云々。今按謂之世間希有] 二、宇佐玉殿に候頃年囲碁を奉仕す。[此れ亦希有。専人間之事に非ず]…(以下、異三項と七能のこと、後略)」。

 資料は藤原広嗣の霊を祀る松浦宮(鏡神社)の縁起で、広嗣の人間離れの異能ぶりを記す条。藤原広嗣は大宰府の少弐に左遷され、玄や吉備真備の排除を要求して叛乱、追討軍によって年に任地で斬殺された人物である。常人と異なるものを五つ、勝れた才能を七つあげ、その異の第二に宇佐八幡の祀神を囲碁で慰めたとある。神様を慰める腕は、まさしく異能の碁打ちといえよう。(増田忠彦「資料にみえる碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」参照)
 神功皇后のお子にして第15代天皇の応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12.14日- 応神天皇41年2.15)(在位:応神天皇元年1.1 - 同41.2.15日)は、囲碁の伝来伝説にも名をみる天皇である。すなわち、日本書紀 応神天皇年に「百済の王、阿直伎を遣して、良馬二匹を貢る」とあり、この時代に囲碁も百済から伝来したという説がある。日本書紀での名は譽田天皇。

【口歪む僧説話】
 仏教説話集「日本霊異記」(822年成立)の2話の第一話。748年頃、「僧が囲碁対局の最中に法華経を唱えて喜捨を乞う者が来た。この者を嘲り笑った僧は、打つたびに碁を負け、口が歪んでしまったきる」。第2話。「勤勉に法華経を誦する僧の名をひやかしながら碁を打っていると、口が歪んでしまった」の逸話を載せている。僧と一般人が碁で戦い、一般人が僧を嘲ると帰路に頓死する話も登場している。

【吉備真備の囲碁元祖説話】
 奈良・天平時代の官人、吉備真備が遣唐使として入唐し帰国した際に中国から囲碁を持ち帰ったという吉備真備囲碁伝説がある。慶長見聞集(1614年成立)がこの伝来伝説を伝えている。以降、江戸期に編まれた棋書の序文にはお定まりの枕ことばのように吉備真備囲碁元祖説話が記されている。この逸話を平安後期の説話集「江談抄」(ごうだんしょう)の第三雑事中の「吉備入唐間事」その他を参照して確認しておく。
 概要「吉備真備は695(朱鳥9)年、吉備の備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市真備町矢掛東三成で、下道圀勝の長男として誕生した。

 716(霊亀2)年、遣唐留学生となる。
 717(養老元)年、23歳の時、留学生として阿倍仲麻呂、玄昉らと共に入唐した。唐では経書と史書のほか天文学、音楽、兵学などを幅広く学んだ。帰路、種子島に漂着する。
 735(天平7)年、多くの典籍を携えて帰朝した。経書(唐礼130巻)、天文暦書(大衍暦経1巻、大衍暦立成12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(楽書要録10巻)、弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し『東観漢記』をもたらした。帰朝後、聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、735(天平7)年、従八位下から一挙に10階昇進して正六位下に、736(天平8)年、外従五位下、737(天平9)年、従五位上に順風満帆に昇叙した。
 738年(天平10)年、橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した僧・玄昉とともに重用され、真備は右衛士督を兼ねた。
 739(天平11)年.8月、母を葬る。
 740(天平12)年、真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こす。 741(天平13)年、東宮学士として皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。743(天平15)年、従四位下・春宮大夫兼皇太子学士に叙任される。
 746(天平18)年、吉備朝臣の姓を賜与される。
 747(天平19)年、右京大夫に転じる。
 749(天平勝宝元)年、従四位上に昇った。孝謙天皇即位。
 750(天平勝宝2)年、藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に左遷される。 751(天平勝宝3)年、年遣唐副使となる。
 752(天平勝宝4)年、再度入唐する。阿倍仲麻呂と再会する。二度にわたり通算20年間、唐にあった。754(天平勝宝6)年、鑑真を伴って帰朝す。帰路、屋久島、さらに紀州太地に漂着する。帰朝してからは聖武天皇の殊寵を得、東宮であった後の女帝孝謙に学を通じ、唐の新知識を注入した。 同年、正四位下・大宰少弐に叙任されて九州に下向する。
 756(天平勝宝8)年、新羅に対する防衛のため筑前に怡土城を築く。
 758(天平宝字2)年、大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受ける。
 759(天平宝字3)年、大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。その後、暦学が認められて、儀鳳暦に替えて大衍暦が採用された。
 764(天平宝字8)年、70歳の時、造東大寺長官に任ぜられ帰京した。藤原仲麻呂の乱が発生する。従三位に昇叙されて中衛大将として追討軍を指揮し、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げた。
 765(天平神護元)年、勲二等を授けられた。
 766(天平神護2)年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となる。同年、藤原真楯の薨逝に伴い大納言に、次いで従二位・右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執った。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも近世以前では吉備真備と菅原道真のみである。正二位右大臣、正二位勲二等右大臣中衛大将兼備中国下道郡大領に累進。軍制を改め、新暦を定め、農産を奨め、民訴を聴き、律令を定め、内乱を除き、人倫を諭し、片仮名を創始する等、善政を布いた。国政に大きな功績を遺し吉備朝臣の姓を勅許された。
 770(神護景雲4)年、称徳天皇が崩じる。その際、妹の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。『水鏡』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この皇嗣をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い。光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。
 771(宝亀2)年、再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっていない。
 775(宝亀6)年10.2日、薨去(こうきょ)した(享年83歳)。最終官位は前右大臣正二位。奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。
 吉備真備が唐にあった時の次のような話しが伝えられている。717(養老元)年頃、真備が入唐し、以降18年間、唐の都・長安で諸芸諸道(儒学、天文学、音楽、兵学、医学など)を幅広く学んだ。忽ちその才知が評判となり名声を高めた。時の皇帝・玄宗と能吏が、真備の才知を試すために官邸に呼び、「大臣と囲碁の勝負をせよ」と命じるところとなった。この時、真備は囲碁を全く知らなかったと説話されている。真備は、「私が負ければ命を差し出します。代わりに飼ったときには暦道の奥義をお授けください」と願い出、聞き入れられた。唐土(もろこし)の人は負けることを恥に思い、真備を楼に登らせた上で階段を取り外した。餓死させようとの企みであった。真備が思案苦吟しているさ中、その夜、風雨が次第に強くなり、どこからともなく鬼が現われた。恐れおののいている真備に、鬼は自分は先年この地で果てた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)だと云う。やはり唐の人に妬まれて、高楼に閉じ込められ餓死したのだと云う。真備が、仲麻呂の子孫がみんな官途について栄えていることを述べと鬼は大いに喜び、それから毎日食物を届けてくれるようになった。唐人は、いつまでも餓死しないでいる真備を見て驚き、今度は難解な古書として知られる文選三十巻読ませて皆なの笑いものにしようと図った。すると鬼はその古書をひそかに盗んで真備に届けたので、たちまちこれを覚え、諮問の際に簡単に明解した。帝王を始め唐人たちは驚嘆させられた。こうして真備は阿倍仲麻呂の亡霊に助けられた。玄宗の能吏が「才はあっても芸は如何ほどなるや」と訝り、今度は囲碁で彼を試すことにした。例によって阿倍仲麻呂の亡霊が現れて囲碁の特訓をし、定石を覚えさせジゴにする方法を教えた。いよいよ玄宗皇帝の御前で唐の名人と命をかけた勝負碁を打つ。四つ目殺しも知らぬ真備を、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の亡霊が教え導く。終盤形勢不明のとき、真備は盤面の黒石を一つ盗んで飲み込んだ。これにより真備が一目勝ち、唐の名人の負けになった。終局後、盤面の石を数えてみると黒石が一つ足りない。易で占ってみると、真備の腹中にあるとの卦が出た。唐土の人は怪しく思い、真備に下し薬を飲ませたが、真備は下痢を止める呪術で対抗したため石を出さなかった。こうしてとうとう一目勝ちで決着させた。(別話。1目勝ちを目前にしたとき、対局を見守っていた大臣の妻が、夫に恥をかかせたくないばかりに石を一つこっそり飲み込んだ。玄宗は不思議な力を持つ鏡で石を探したところ、女が飲み込んでいたことが分かった。玄宗は激怒し女に死刑を宣告する。この時、真備が女の命乞いをし、玄宗が聞き入れ、女は許された云々。これは浮世絵や歌舞伎の舞台に登場する名場面の一つとなっているとのことである。(蕎科満治「囲碁文化の歴史を辿る」、NHK囲碁講座2015.5月号参照)」。
(私論.私見)
 この説話の興味深いことがもう一つある。それは、「真備が黒石を一ケ飲み込み、真備の一目勝ちとなった」ことである。この時代の対局では上手が黒石、下手が白石を持っていたと考えられる。となると、唐の名人が黒、真備が白で、真備の先番で打ったことになる。故に、「真備の黒石一ケ飲み込み」は、よしんば「真備の白石1ケ飲み込み」になろうとも、それにより地に変化が生まれるのは、中国式ルールでは地と石数の和を争うので、地の中の石を取り上げても和には変化がないので日本式ルールで打っていたことになる。即ち、この説話に従う限り、遣唐使の頃の中国囲碁は日本ルールで打たれていたことになる。囲碁の発祥地推理に照らすとき、なかなか意味深なことになるのではなかろうか。

 「読む・聴く 昔話」の「吉備真備と阿倍仲麻呂」。
 捕えられた吉備真備

 吉備真備は遣唐使として中国に渡ってきました。しかし唐王朝の役人たちは、真備のあまりの頭の良さに危機感を覚え真備を罠にしかけました。「さあさあ真備殿、この楼台に上ってください」。「景色がいいんですよ」。「そうですか。では…」。ギシギシ…。階段を登っていく真備。楼の上に設けられた部屋を覗きこむと、「えいっ!!」。「わあ!!」。後ろから尻を蹴られ、部屋の中に押し込められてしまいました。バシッと戸が閉まり、カタリと錠が下されます。「ひひひ、真備、これでお前もおしまいだ。その楼には恐ろしい人食い鬼がいるのだ」。役人たちは大笑いしながら、引き揚げていきました。

 鬼の正体

 (鬼だと?面倒なことになったなあ…)真備はムニャムニャと呪文を唱え、自らの姿を消します。そして、暗闇の中にいると思われる鬼に向けて、話しかけます。「これ、鬼よ。私は日本国の使いだ。それを取って食おうとは、とんでもない了見だぞ。何とか言ってみろ」。すると、暗闇の中から声が響きました。「日本国の使い?おお…嬉しや!我も日本国からの遣唐使よ」。「なんと!そちも遣唐使か。早く姿をあらわすがよい」。暗闇の中から、すーーと悪鬼の姿が浮かび上がります。悪鬼といっても、冠をつけてキチッとした正装姿です。「私は阿倍仲麻呂」。「おお!あなたが仲麻呂殿ですか。お話はうかがっております」。仲麻呂の霊は、この楼に閉じ込められ食物を絶たれ、死に至ったまでを涙ながらに語ります。吉備真備も同情し、涙を流しました。そして吉備真備は、夜通し阿倍仲麻呂の霊に語ります。日本のこと、仲麻呂の子孫が官位をたまわって立派に出世していることなどを。「おぉおぉ、嬉しや。嬉しや」。朝になると、仲麻呂の霊は引き返していきました。

 「文選」の試練

 次の朝。「死んだかな真備の奴」。「ズダズダに引き裂かれているかもなあ。いひひ」。役人たちが楼台の上の部屋をのぞきこんでみると、真備は何食わぬ顔で眠りこけていました。「こ…こいつ!ただ者ではない!」。夜。ふたたび仲麻呂の霊があらわれます。「真備、油断するな。奴ら、ロクでも無いことを考えているぞ。お前に書物を読ませて、ぜんぜん解釈できないのを見て、なんだ日本の使いもたいしたことないないかと、バカにするつもりだ」。「ううむ。ただバカにされるなら我慢するが… 事は外交問題だ。それで、何の書物だ」。「文選だ。難しい本だ」。「仲麻呂、お前暗記しているなら俺に講釈してくれ」。「俺はしらん。自分で勉強してこい」。「勉強してこいって仲麻呂、そんな…」。言ってるそばから仲麻呂の霊はすーと吉備真備を引っ張り上げて、空に飛んでいきます。「わあああーーーっ」。吉備真備の体はどんどん上がっていき、はるか真下に長安の街並みが小さくなっていきます。「すごいなあ。仲麻呂。お前こんなこともできるのか」。「ふはは。これぞ飛行自在の術。それ、着いたぞ」。すーっと降りていくと、そこは、皇帝の学問所でした。ここでは夜通し『文選』の授業を行っているのです。吉備真備は何食わぬ顔で教室に入って行って、生徒たちにまじって『文選』の講義を受けます。「ふんふん、なるほど」。「覚えたか?」。「覚えた」。「よし」。ふたたび阿倍仲麻呂は吉備真備を引き上げてすーっと空を飛び、長安の上空を飛び、楼台まで戻ってきました。「仲麻呂、チラシの裏かなんかあったら、差し入れてくれ」。「何をするんだ?」。「まあ見てろ」。吉備真備はチラシの裏かなんかに文選の文句をズラズラズラッと書きまくりました。翌朝。儒学者の一人が吉備真備を試みようと楼へやってきます。すると、なにかチラシの裏にいっぱい書いてある。なんだろうと見ると、「これは…!!」文選の文句でした。「どうして知っているのだ!わが国の『文選』をッ」。「ん?日本では『文選』なんて、そのへんの子供でも暗記しているぞ。ふつうだ」。「なっ!!」。儒学者は打ちのめされて、すごすごと引き返していきました。この顛末を皇帝に知らせると、皇帝は大変口惜しがった。

 囲碁の試練

 また阿倍仲麻呂の霊が吉備真備に教えます。「今度は囲碁で勝負を挑んでくるぞ」。「囲碁って何だ」。「なに!そこからか。もうダメだ」。「安心しろ仲麻呂。お前知っているなら教えてくれ。俺の記憶力を甘く見るな」。「わかった。…天上を見ろ」。阿倍仲麻呂の霊は、格子状の天井を碁盤に見立て、囲碁のルールを説明します。「ふんふん…こうなって、ああなって。これで勝てるわけか」。二人でイメージ上の白石、黒石を戦わせているうちに、朝がきました。「吉備真備!今度は囲碁で勝負だ!」。「望むところ!!」。ピシッ、ピシッ、「黒三の六」「白八の七」とかどこかのテレビ局の囲碁中継みたいな、陰気な声もあったかもしれません。ところが吉備真備は敵の白玉を前もって一個、飲み込んでいました。ここが引き分け、あと一手で勝負が決まるという時、敵方が碁石をつかもうとすると…「ん?あれ?無い?」。碁石がありません。吉備真備は余裕で言います。「どうやら私の勝のようですなあ」。「いや、しかし、これは、納得できん」。そこで碁石の数を数えてみると、一個足りませんでした。「お前、飲み込みおったな!!」。「さーて、何を証拠に?言いがかりですよ。名誉棄損だ」。「証拠なら、今すぐつきつけてやる!!」。そこで呵梨勒丸(かりろくがん)という下し薬を無理矢理飲ませますが、吉備真備は術をもってぐっと下痢をおさえ、ついに出てきませんでした。こうして囲碁は真備の勝利ということになり、唐の役人たちはいよいよ納得いきませんでした。

 野馬台詩の試練

 食物を与えず餓死させようとしても、夜ごとに仲麻呂の霊が物を与えるので、平気な顔で吉備真備は生きていました。「仲麻呂。いつもお前が助けてくれるんで助かるよ」。「それがな真備、今度ばかりはどうにもならん。あの難解な野馬台詩を解読させようとしている」。野馬台詩はその昔、さる徳の高い僧によって書かれた予言の詩です。しかし文字がバラバラで暗号のようになっていました。誰も読めませんでした。皇帝は吉備真備を召し出し、野馬台詩を前に、さあ読め、お前がそんなにかしこいなら、読めるはずだ野馬台詩を。読めといったら読め。もし読めぬならその時はとすごみます。(はあ…まいったなあ…)。そこで吉備真備は日本の方角を向いて、(住吉大明神よ、長谷寺観音よ、私にご加護を!)すると、ぽとりと蜘蛛が一匹落ちてきて、野馬台詩を記した紙の上を、糸を引きながら歩きまわります。(おお…読める!読める!)こうして吉備真備は野馬台詩を見事解読し、今回の試練も切り抜けました。

 日月を隠す

 皇帝以下、驚きあきれて、もう食物を一切与えるなと再び吉備真備を楼台に押し込めてしまいます。「どうしよう。いかな俺でも、お前を日本まで連れて帰ることはできんぞ」。「うーん。仲麻呂。用意してほしいものがある」。吉備真備が阿倍仲麻呂の霊に用意させたものは、サイと、サイを振るための筒。そして双六の盤台でした。吉備真備はサイを盤台の上に置き、「きええええーーーっ」。筒で、サイを覆ってしまいます。すると、一天にわかにかきくもり、太陽も、月も、その姿を隠してしまいました。唐土全土がまっ暗闇となります。「あわわ、どうなっちゃったんだ」。「これじゃ生活できない」。「祟りか?世の終わりか」。恐れおののく人々。占わせてみたところ、吉備真備の幽閉されている楼の方角が指し示されました。ワアワア文句を言う役人たちに、真備は「日本に帰してくれるなら、日月を戻しましょう」。「わ…わかった」。そこで真備がサイをおおっていた筒をはずすと、たちまち太陽と月がもとに戻りました。こうして吉備真備は無事に日本に戻れたという話です。


 この荒唐無稽(こうとうむけい)の奇談は、後の絵巻物や謡曲、さらに近世の草紙や実録物に翻案されて有名になった。 「江談抄」は院政期の説話集で、帥中納言大江匡房(1041-1111)の談話を、進士蔵人藤原実兼(黒衣の宰相といわれた信西の父)が筆記したもの。匡房は後三条、白河、堀河三帝の侍読を勤め、詩文に秀で、また有職故実にも通じた名高き才子。彼の博学を反映してか、江談抄はあまりに雑多な内容を持つ。そのうち、朝儀公事に関する故事や詩文にまつわる逸話が大半を占めるが、貴族社会の世相を伝える説話も多く、後者は後世の説話文学へ影響を及ぼした。長治から嘉承にかけて(1104-1108年)成立したと考えられる。現存本は、雑纂形態の「古本系」と、類聚形態の「類聚本系」に大別される。談話形式を取り、連関性を欠く古本系に対し、中世に改編・加筆されたと思われる類聚本の方では内容に沿って六部に分けている。「江談」二字の偏を取って「水言抄」ともいう。漢詩文・公事・音楽など多方面にわたる談話の記録である。  

 吉備真備(きびのまきび)(693~775)にまつわる雑俳は次の通り。
「明日の碁を 鬼が教へて 帰りけり」。
「おふちやくな 丸のみにした 碁の妙手」。
「帰朝して にわかに那智の 砂がへり」。

 村松梢風の「本朝烏鷺(うろ)争飛伝古今碁譚抄」が次のように記している。
 「享保12年正月26日、寺社奉行・黒田豊後守を以て本因坊家に対し、囲碁の伝来に関する御尋ねがあった。その時、本因坊、安井、井上、林の家元四家が連名で答えた口上書に、『囲碁の始は尭舜より起り、吉備真備公朝の節より伝来、本朝に流布仕り候由承り及び候。尤もその以前より相渡り候様にも申し伝え候得ども確かの儀は奉ぜず存じ候云々』とある。吉備真備が遣唐使として彼の地に赴いた時、『日本に囲碁ありや』と問われて、例の愛国心的自尊心から大いに心得顔をした結果、玄東と云う支那随一の名手と対局を余儀なくされたが、安倍仲麿の亡霊に教えられ遂に1目の勝ちを得たと云う話しは頗る著名ではあるが信用できない。囲碁はもっと早く伝来したものであろう」。
 「囲碁の吉備真備伝説」は、三嶋大社(三島市大宮町、静岡県)の蛙股(かえるまた)彫刻、南宮大社(垂井、岐阜)の蟇股(かえるまた)彫刻にも見られる。716年、吉備真備(本姓は下道真吉備しもつみちまきび、693-775)が遣唐使として入唐、735年、帰国。孝謙天皇の信任を受け、遣唐副史として再び渡唐、帰唐する。この時、吉備真備が唐の名人と囲碁を打って勝ったときの様子を彫ったものと云われており、この勝負に勝ったことよって、暦学書を日本に持ち帰ることを許されたと伝えられている。

 江戸時代の記録に、吉備真備が遣唐使の一員として唐から囲碁を移入したとする説が記載されているが、「囲碁勝負に勝ったことより暦学書を日本に持ち帰ることを許された」とするのが正しいのではなかろうか。ちなみに、真備が持ち帰った暦は唐代の優れた暦であった大エン暦(たいえんれき)。28年後の763(天平宝宇7)年より用いられ、その後857(天安元)年に五紀暦、861(貞観3)年に宣明暦が用いられ、その後は遣唐使が廃止されたことにより中国の新しい暦は入ってこなくなり、宣明暦が渋川春海の貞享暦 (大和暦) に代わるまでの実に八百年間用いられることになった。(****氏「*****」参照)
 
 三嶋神社(ホームページ): 
 http://www.mishimataisha.or.jp/precinct/carve_h02.html




(私論.私見)