将棋は審判の必要ないゲームと言われることもあります。しかし、まれにトラブルは起こります。そこでアマ大会などでは、審判が置かれる場合もあります。もちろん審判や大会主催者、関係者が、ずっとすべての対局を見ていられるわけではありません。それでも何か起こった場合には、とりあえず審判を呼んで事情を説明し、判断をあおぐのが最善ということは多そうです。
将棋は「待った」ができません。これは鉄則です。現在ではプロアマを問わず、競技の場で待ったが見られることは、ほとんどありません。しかし、人間は必ずミスをおかします。ミスをした際には気が動転して、日頃では考えられないような言動を取ってしまう場合も、なくはありません。
将棋の場合は、駒が手から離れた時点で、着手が完了したとみなされます。将棋とは不思議なもので、駒が手から離れるか離れないかという瞬間に、悪手だとわかる場合があります。そこで無意識のうちに、とっさに駒を元に戻してしまう。これもまた、しばしば見かける光景です。そして、手が離れたか離れないかでもめるケースもまた、少なくはありません。
競技ルールの厳則化
1世名人の追尊を受けた初代大橋宗桂(1555-1634)の時代から現代に至るまで、将棋界には対局の指し手を記録した厖大な量の棋譜が残されてきました。しかし、その棋譜を見返しているうち、ある事実に気がつくかもしれません。それは昭和の前半頃までの棋譜には、見事なまでに、反則が一つも見られないということです。それはいったい、なぜでしょうか。 棋譜に残された記録は、先人たちが反則をしなかった、ということを示すものではありません。ただ反則が即負けとはならず、やり直しとなって、棋譜に残らなかったに過ぎない、ということでしょう。
二上達也九段(1932-2016)は昭和生まれの旗手として、大正生まれの大山康晴15世名人の天下に挑みました。その二上九段の若手時代にはまだ、反則は必ずしも即負けとはならなかったようです。二上九段は著書にこう記しています。「二歩とか行き場のないところに桂馬を打つとかの反則は昔からあったが「おいおい、それは反則だぜ」と注意して指しなおさせた。いまでは即反則負けである」(出典:二上達也『棋士』2004年刊)。
競技としての公平性、公正性を保つため、昭和の半ばから、反則は即負けというルールが次第に徹底されていきます。以後は棋士が反則をした場合には、公式の記録として残るようになりました。 どれほど偉大な人間であっても、人間として生きている限りは、いつかは、どこかで、必ずミスをおかします。それは古今東西、変わらない法則です。 その証拠として一例を示せと言われれば、史上最強とうたわれ、圧倒的にミスが少ないことでも知られた大山康晴15世名人(1923-1992)が、名人在位中に二歩を打って負けとなった、という記録を挙げれば足りるのではないでしょうか。2018年10月。将棋の公式戦で立て続けに反則負けが起こり、珍しいこととして話題になりました。
トップ棋士が「角のワープ」で反則負け 109手目の痛恨ミス
https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20181018-00100991/
なぜ次々と起こる? 若手女流棋士、ベテラン男性棋士が「二歩」で反則負け
https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20181023-00101521/
「言うまでもなく、プロの公式戦での反則は極めてレアケースである。驚くべきことが続く将棋界。この先もまた、何か事件が起こるのだろうか」 。筆者は記事にそう書きました。補足をすると、期せずして同月(2018年10月)に収録され、2019年1月に放映されたテレビ棋戦の銀河戦でも、事件が起こっていたようです。長沼洋七段と木村孝太郎アマの対局の最終盤、118手目に長沼七段が、二歩を打ってしまったのです。ただし形勢としては、その時点で木村アマの勝勢でした。プロがアマに負けるという結果については、これはしばしばあることです。
反則を認めるいさぎよさ
2018年10月23日におこなわれたC級1組6回戦▲都成竜馬五段-△青野照市九段戦。青野九段は△7二歩(飛車の王手を防ぐ合駒)▲7三桂成の後、△7七歩と二歩を打ってしまいました。長い棋士生活の中で、反則負けもあれば反則勝ちもある青野九段。実は40年前の1978年度C級1組順位戦1回戦、25歳で五段だった当時に、高田丈資六段(1937-1979、没後追贈七段)戦でも、二歩で苦い負けを経験しています。青野五段は若手の俊英で、当時のC級1組でも昇級の有力候補でした。対して高田六段はC級1組に長く在籍している、四十代の中堅です。『将棋マガジン』誌の連載「忘れ得ぬ局面
忘れたい局面」で、青野現九段は、往時の一局を振り返っています。ここで当然△2七桂と打てば、後手の勝ち筋だが、私の指した手は、△7六歩。一発は効かし、と思ったに違いないが、7一にさっき打った歩がいる。
(出典:青野照市『将棋マガジン』1989年1月号)
偶然のことでしょうが、1978年と2018年。時を隔てて生じた二歩の形は、よく似ています。自陣の底の方に歩があり、遠く離れた敵陣に、もう1枚の歩を打ってしまう。それは典型的な二歩のパターンであると言えるかもしれません。
「打った瞬間に気がついた。そして、指が離れたか離れないかのうちに、指し直そうとした。血の気が引くという言葉があるが、まさに顔から血が下がっていくのが、自分でもわかった。その時、「離れたんじゃないの?」 と相手がそう言った。何秒かの後、何を言ったのかは忘れたが、私は負けを認めた。「いや、いいんだよ」 という言葉もあったと思うが、とても続行する訳にはいかなかった。自分でも離れたかも知れないという気もしたし、その少し前に、離れた離れないで、理事会裁定となった将棋があっただけに、そういうことだけはするまい、という気持ちもあった。帰り道は暗かった。また今期はダメかと思うと、絶望感が襲ってきた。将棋の盤面は、△7一歩と△7六歩と、そして▲7七角の、たった三枚しか覚えていなかったが、その時の暗い気持ちは、ついこの間のことのように覚えている」。 (出典:青野照市『将棋マガジン』1989年1月号) |
高田六段は「いい」と言って、決して無理に投げさせようとしたわけではないようです。しかし青野五段は自らの判断で、いさぎよく投了しました。青野五段にとっては手痛い負けでした。しかし、そこから青野五段は好調へと転じました。順位戦も2回戦以降は9連勝でB級2組昇級を果たしています。 「そうなると、気持ち良く投げたことが、素晴らしいことだったような気がしたのも、事実である」。(出典:青野照市『将棋マガジン』1989年1月号)
中原誠16世名人も、奨励会時代に二歩を打ったことがありました。そして相手の先輩(この時はたまたま兄弟子だった)が元へ戻してもいいと言っているのに、負けを認めて投了したそうです。 現在では現役最年長となった桐山清澄九段は、どうだったか。 「昔、北村秀治郎先生との将棋で二歩を打とうとしたら、「二歩だよ」と言われた。まだ指してなかったけど、打つ意志はあったから「負けました」と言いました」。(出典:桐山清澄『将棋世界』1998年10月「棋士 それぞれの地平」)
相手は桐山現九段の反則を未然に押し止めようとしたのかもしれません。その上で、まだ駒から手も離していないのに、桐山九段は負けを認めた。なかなかできることではないでしょう。まとめれば、反則をしてしまった時、あるいは自分に何か非があって負けを受け入れる際には、いさぎよい姿勢であるべきという、当然の結論となるでしょう。 しかし、重要な一局で、いざ自分がその立場に立たされてみると、ここまで紹介した例のように、とっさに美しい敗者としてふるまえるでしょうか。 日頃の技術の鍛錬は、盤上の一手一手に表れる。 一方で日頃の心がけは、対局開始から終了までのしぐさにも表れる。 そう思いながら対局を見ていると、現代の棋士の対局姿勢はほぼ一様に、終始謹厳です。それは青野九段、中原16世名人、桐山九段ら、先輩棋士の姿を見てのことなのかもしれません。