日本囲碁史考、明治期の囲碁史

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「日本囲碁史考、明治期の囲碁史」を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝



【日本囲碁史考8、明治時代の囲碁史】

【本因坊14世秀和時代】

 1867(明治元)年
 この年、大政奉還。

 1867年9.8日、明治に改元。
 この年10.14日(11.9日)、徳川慶喜が大政奉還を奏上。

 「伊藤松和7段-高橋周徳5段」対局。
 10.29日、林秀栄(1852-1907)が16歳で3段となり、家督を許されて林家13世となる。林家を襲名した林秀栄は後に林家を廃絶し、本因坊を襲名して本因坊17世となる。その後、村瀬秀甫(しゅうほ)(後の本因坊秀甫。1838-1886)に本因坊を譲ることになる。
 石谷広策の提唱により備後国御調郡糸崎町松浜の神社境内に秀策の顕彰碑建立。
 林秀栄が、17歳の時、手合成績優秀により本因坊、安井の賛同を得て4段昇段を求めた。その際、井上因碩13世(松本錦四郎)が不同意を唱え、争碁の相手として門人の小林鉄次郎を指名した。林秀栄は当主の松本因碩との対局を求めたが応じなかったため、三家にて秀栄の4段を認め、またかねてから同種の問題を起こしていた因碩には昇段の同意を求めないこととなった。小林とは1876年(明治9)年に20番碁を開始し先相先に打ち込んでいる。
 この年、「寺社奉行一件書類全45冊」編纂。林秀栄が林家13世を襲名するにあたって秀栄から提出された書類や、それを受理した寺社奉行土屋采女正(うねめのしょう)(寅直)(1820-1895)が作成した書類等を綴じ込んだ冊子。安井家・本因坊家での襲名の前例や林家の歴代について説明する書類、12世林門入死去時の服喪期間についてなど、襲名の時期について細かいことまで記録されている。また、襲名を認める際の呼出状の回付ルートなど、幕府内での書類のやりとりの様子もうかがえる。

【王政復古の大号令、江戸幕府が滅亡】
 1867(慶応3).11.9日(10.14日)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許。12.9日、京都御所内において、王政復古の大号令(小御所会議)が発せられ江戸幕府が滅亡した。

 江戸幕府に家元制で庇護されてきた囲碁界は、明治維新後は新政府に保護されず、為にパトロン基盤を失うことになった。徳川時代には囲碁は「治に居て乱を忘れざるの具」として重用されていたが、明治維新政府により「無用の閑技」視されて行くことになった。明治維新政府は、西洋文化を多く取り入れる文明開化に向かう他方で国産文化やその伝統に背を向けた。家元はそれぞれ拝領屋敷を返上させられた。碁界は急速に困窮に陥り、やがて日本棋院を創出し碁界が自力で扶持持ちするまでの間を離合集散を重ねつつ生き延びていくことになった。してみれば、かっての家元制然り日本棋院創出もまた碁智の為せる技だったと拝することができよう。
(私論.私見)
 江戸幕府に家元制で庇護されてきた囲碁界が明治維新後は新政府に保護されなかった件につき、その経緯は明らかにされていない。「良からぬ知恵者による良からぬ入れ知恵」の影を見てとりたい。しかし、こう問う者は他には居ないみたいだ。

 2016.11.6日 囲碁吉

 1869(明治2)年

 8.3日、秀和門下で本因坊丈和三男の中川亀三郎が、秀甫、林秀栄(後の本因坊秀栄)、本因坊跡目・土屋秀悦、安井算英、小林鉄次郎、吉田半十郎らを自宅に招いて研究会「六人会」を発足させ、中川亀三郎宅で毎月3日を例会日として催される。この資金は豪商の田口重次郎が賄い、後に海老沢健造、白石喜三郎なども参加した。
 8.23日、「秀悦-秀栄」、秀悦白番中押勝。
 9.13日、「小林鉄次郎-秀栄(先)」、秀栄先番4目勝。
 9.26日、海老沢(巌埼)健造の歳賀碁会が柳橋「万八楼」で開かる。
 11.21日、「秀栄-小林鉄次郎(先)」、小林先番5目勝。
 本因坊宗家の秀和は「三の日会」という研究会を設け囲碁の灯を繋いでいた。当時の棋士は競うてここに参集し研鑽を怠らなかったが、資金難により3、4年で中断することになる。
 この年、本因坊家を筆頭とする四家元は、明治政府東京府庁から碌を打ち切る旨の通知を受けた。本因坊家が幕府から拝領していた本所相生町の屋敷の引き渡し、武士地との引き換え、家禄の半減が言い渡されていた。秀和が嘆願書を出し、「相当の地税上納仕り、これまで通り受領仕りたく云々」と哀訴している。最終的に、本因坊家は拝領屋敷を返上、幕府から貰っていた50石5人扶持、他10人扶持を13石に減らされ、免状料も入らなくなった。

 6月、(坊)秀和が受領の星敷引揚げ通達に対し引継願を出し聞き届けられる。そこで、351坪の土地に何軒かの貸家を建て賃料で賄った。

 1870(明治3)年

 1.17日、「伊藤松和-林秀栄(先)」、松和白番中押勝。
1月 吉田半十郎-秀栄(先) 秀栄先番勝
2.21日 吉田半十郎-秀栄(先) 不詳(吉田優勢?)
 「伊藤松和7段林秀栄4段(先二)」戦が組まれている。
 林秀栄4段のち5段。(20歳)が天保の四傑の一人の伊藤松和7段と十番碁を開始する(秀栄先二)。結果は秀栄の7勝2敗1ジゴ。
 
3.21日 第1局「伊藤松和-林秀栄 (先) 松和白番中押勝
4. 1日 第2局「伊藤松和-林秀栄(先) 秀栄先番勝
4. 6日 第3局「伊藤松和-秀栄(先)
(「
伊藤松和-林秀栄(先)」)
ジゴ
4.21日 第4局「伊藤松和-林秀栄(先) 松和白番勝
5.9日 第5局「伊藤松和-林秀栄(先) 秀栄先番7目勝
5.16日 第6局「伊藤松和-林秀栄(先) 松和白番2目勝
5.16日 第7局「伊藤松和-林秀栄 (先) 秀栄先番勝
5.25日 第8局「伊藤松和-秀栄」 秀栄先番中押勝
秀栄の先二で第8局に5勝2敗1ジゴとなり、それ以前の一勝
を加えて先に手合直り、続いて秀栄の2勝に終わる。
5.26日 第9局「伊藤松和-林秀栄 (先) 秀栄先番9目勝
5.30日 第10局「伊藤松和-林秀栄(先) 秀栄先番2目勝
6.7日 第11局「伊藤松和-林秀栄(先) 松和先番7目勝
6.14日 第12局「伊藤松和-林秀栄(先) 秀栄先番3目勝
6.23日 第13局「伊藤松和-林秀栄(先) 秀栄先番勝

 この年に本因坊家は全焼した為に倉庫の仮住居で対局する。盤上では二つの高目から中原の碁を志向する。黒39と四隅を占める。白44から76となって大地完成。宇宙流を見せている。
 6.18日、青田半十郎の歳賀碁会が東京銀座「藤岡」で開催される。
7. 7日 第14局「(坊)秀和-伊藤松和7段(先) 秀和白番10目勝
(本因坊宅)時に秀和50歳、松和70歳。
 この年、本因坊邸(江戸・本所相生町)が貸家の1軒から出火して全焼する。
(私論.私見)
 この時の火事の原因にも関心があるが、これを記したものをしらない。
 この年、長野敬次郎(鹿児島県)生まれる。

 1871(明治4)年

 「坊)秀栄-小林鉄次郎」戦が組まれている。
3.11日 小林鉄次郎-本因坊秀栄(先)」  不詳
3.26日 坊)秀栄-小林鉄次郎(先) 秀栄白番勝
3月 坊)秀栄-小林鉄次郎(先) 秀栄白番勝
5.6日 小林鉄次郎-秀栄(先) 秀栄先2目勝
5.23日 秀栄-小林鉄次郎(先) 秀栄白番2目勝
5月 小林鉄次郎-秀栄(先) 秀栄先番勝
 3.24日、村瀬秀甫が帰京して(坊)秀和と慶応3年以来4年ぶりに対局を試む。時に秀和52歳、秀甫34歳。秀甫の先相先で6.6日までに7局打ち秀甫4勝3敗。(「秀和―秀甫8連戦」ともあり、秀甫の5勝3敗(秀甫先番5勝1敗、白番2敗)先番で負けた碁は見損じによるもの)
3.24日 (坊)秀和-秀甫7段(先相先の先) 秀甫先番4目勝
5.5日 秀甫-(坊)秀和(先) 秀和先番中押勝
(秀甫初の白番)
5.6日 「(坊)秀和-秀甫(先相先の先)」 秀和3目勝
秀甫が終盤のヨセでポカ手を打つ。
「(坊)秀和-秀甫(先相先の先)」 秀甫先番6目勝
コミ無し碁必勝法の黒33
5.18日 「秀甫-(坊)秀和(先)」 秀和先番中押勝
6.1日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番6目勝
6.6日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝
6.22日 秀甫-(坊)秀和(先) 秀和先番中押勝
6.29日 (坊)秀和-秀甫(先) 秀甫先番中押勝

 8局を打ち終えた秀和は、当時林家を継いでいた秀栄に次のように語ったとの弁が遺されている。
 「秀甫の碁は名人の域に達している。故秀策と対戦させられないのが実に残念だ。いま秀策が存命しているとして秀甫と打ったなら、秀策もうまくいかないのではないか(恐らく秀策も勝てぬばかりか敗れたであろう)」。

 現代碁界でも石田章など、秀甫をこれら大名人の列に連なる実力者と見る者は少なくない。
8.22日、「中川亀三郎-秀栄(先)」、中川白番中押勝。
8.23日、「中川亀三郎-秀栄(先)」、中川白番中押勝。
 10月(~12月)、秀和が、秀甫を伴い名古屋に赴く。美濃、尾張、伊勢を経て大阪に遊ぶ。この旅で二人は歓迎されたが、宵越しの金は持たず式に浪費してしまい、宿料に窮し人質になったという逸話が遺されている。秀和の漫遊は3年の長きに及ぶ。秀甫の帰京は明らかでない。

【東京府庁が碁家四家元に家禄奉還を命じる】
 11.29日、東京府庁が、碁家四家元(本因坊家、安井家、井上家、林家)に対し家禄奉還を命ず。これにより家元家禄は打ち切りとなり、碁界は厳しい現実に直面する。碁界では、棋士の研鑽と育成を継続するための方策と、そのための資金の支援者が必要となった。

 12.28日、村瀬秀甫の上京祝賀会催され、席上、中川亀三郎、安井算英、林秀栄組対秀悦、青田半十郎、小林鉄次郎組の連碁行われる。黒番2目勝ち。田淵米蔵(後の15世井上因碩)が西宮に生まれる。

 1872(明治5)年

 1.21日、「伊藤松和-秀栄(先)」、松和白番1目勝。
3.29日 秀栄-高崎泰策(先) 高崎先番1目勝
4月 本因坊秀栄-高崎泰策(先) 高崎先番1目勝 
5.25日 高崎泰策-秀栄(先) 秀栄先番1目勝
 5.6日、「(坊)秀和-秀甫(先)」、秀和白番勝。
 「本因坊秀和-日置自翁5段(源二郎、80歳)(向先)」戦が組まれている。
8.26日 「本因坊秀和-日置源二郎(向先)」
9.28日 (坊)秀和-日置源二郎(先) 日置先番10目勝
 この年、林秀栄が、本因坊家とは疎遠になっていた村瀬秀甫と伴に美濃、尾張、伊勢を経て大阪を遊歴。

 1873(明治6)年

 1.6日、伊藤松和7段の古稀(70歳)祝賀会行われる。
 2.20日、「秀栄-泉秀節(先)」、秀栄白番4目勝。
2.20日 秀栄-杉村三郎左衛門(先) 秀栄白番4目勝
2.21日 秀栄-杉村三郎左衛門(先) 不詳
 4.6日、「(坊)秀和-高橋Shutoku(2子)」、高橋先番勝。

【本因坊15世秀悦時代】

【本因坊秀和が生没】
 この年7.2日、本因坊秀和が生没(享年54歳)。碁界は明治維新によって幕府の保護を失い、秀和は落魄(らくはく)の中で没し、囲碁は全く沈滞してしまう。

 秀和の棋譜は総数が把握されていない。少なくとも600局以上700局近くに及ぶと推定されている。太田雄蔵、安井算知(俊哲)などとは100局以上の対局をこなしている。秀和碁の特徴は常に新手を求める探究心、新趣向の試み、新しい変化の中で自在に振舞える才能の豊かさにある。初めて見る形でも筋や急所を的確に見つけ出し華麗に打ちまわししている。秀策はその手が最善と信じれば同じ局面で何度も同じ手を打っているが、秀和は常に新しい手を目指す。秀和が弟子の秀策、秀甫に向かって、「君たちは強いが、毎回工夫をこらす点では私に及ばない」と述べと伝えられている。碁の創造性という点で道策、呉清源と遜色ないと評価されている。秀和は、名人の実力がありながら名人になれなかった元丈、知得、幻庵とともに囲碁四哲と称される。また秀和とその弟子の秀策、秀甫を江戸末期の最高峰として三秀とも呼ぶ。早打ちで、性格は極めて穏やかであったとされている。秀和は、史上最強の棋士として言われるほどの棋力であったが、時代が悪かった。悲運の碁打ちである。その布石感覚は現代に通ずるものがあり「近代碁の鼻祖」とも言われる。
 「秀和の碁に関する杉内雅男九段のコメント」は次の通り。
 算砂を近世日本囲碁史の開祖とするならば、14世本因坊秀和はその完成者であり、近代碁の鼻祖であると言えます。二百数十年にわたる江戸時代の碁は算砂に始まり、秀和によって幕を閉じたわけで、この2人の棋士は囲碁史の結節点をかたちづくっているのです。

 秀和の碁は一口に、しのぎを基調とするあましの碁と言われています。秀和といえば、すぐしぶいという形容が浮かぶほど、その棋風は特徴的です。これは主に白番の特色であり、秀策にも継承される黒番の堅実さをこれに付け加える人もいます。しかし、しのぎ、あまし、堅実さ、これらの奥には天性の聡明があります。秀和の碁は明るく、読みの上でも、形勢判断の上でも夾雑物がありません。
 この様な基本的な特性に加えて、秀和の碁はさらに多彩です。あらゆる局面に応じて自在に変化する柔らかさは、秀和の碁を魅力的なものにしています。丈和、秀策等と並んで後世高く評価され、愛好されるゆえんもそこにあります。秀和こそはまさに巨匠の名にふさわしい豊饒の棋士であったといえましょう。

 秀和の生家は伊豆土肥町小下田の、駿河湾を見下ろす丘の中央にある。気候は温暖で陽光が溢れ、寒冷を知らない。この様な風土のなかで生を享けた秀和に碁を教えたのは、近くの寺の住職だった。その寺はしばしば近郊の数寄者を集めて碁会を催した。恒太郎少年はその度に住職に招かれ、対局中の大人たちに混じってちょこまかと動き回っていた。小柄で、目から鼻に抜けるような利発なこの少年は、盤上の手段に関して、時に感想を述べ、その鋭さに大人たちは大いに驚いたという。

 生まれ育った風土が、創作家であれ、勝負師であれ、その作品にどの程度の影響をもたらすものであろうか。秀和の碁は明るい。伊豆の陽光が明るく温暖なように、彼の碁もまた抜ける様に明るく、柔らかい。その明るさは、形勢判断の明るさ、ヨミの明るさ、それらを包括する「碁」そのものの明るさでもある。そういえば秀策の生地は因の島外の浦。われわれは秀和と秀策の碁の類似から、その生長した環境の海洋的な類似を感じないわけにはいかない。名人因碩、丈和などの「内陸的」な棋風と、秀和、秀策の海洋的性格の比較に、つい思いが及ぶ。

 秀和は常套になずまない「創意の人」である。従って、秀和の手による新工夫はおびただしい。秀和の新工夫は、序盤の星打ち、白を持っての両ジマリ、大斜定石などがある。 のち、村瀬秀甫は「方円新法」にこう記している。「秀和師曾て門生に語りしことあり 曰 吾局に対しては敢えて汝曹より強きと謂うにあらず 。唯毎局の石立を咸く変化して其布勢を定むる事一として同形の碁なし。是れ即汝曹に異なるのみと」。後世の人はしばしば碁の強弱と勝敗にのみとらわれる。そのため巨匠の真の姿が十分に評価されないのである。
 庚午一生の「不運の秀和の生涯」は次の通り。
 秀和の日本棋院囲碁殿堂入りは弟子の本因坊跡目秀策の次の年でした。強さ、功績、どれをとっても歴代の名人上手に引けをとらない―と評価されています。一世代前の十二代本因坊丈和や井上家の幻庵因碩らの陰にかくれて目立たなく自己主張が少なかった性格だったようです。口数が少なく「碁打ちはいい棋譜を残せばよい」と考えていたように伝えられます。闘争心を表面に出さない性格が一門をかけた争碁に不覚をとったり、幕末の動乱期から明治維新へかけての江戸幕府の崩壊という荒波に遭遇します。

 幻庵因碩を争碁で破って名人碁所就位を阻止してから十数年間が秀和の生涯で絶頂期で門弟に秀策、秀甫を擁し、実子に秀栄がいました。あとは名人碁所につくだけ。それも手の届くところにいました。しかし、人には運気というものがあるようで時代が悪かった。安政6年に名人碁所願いを提出。どこからも文句を言われず承認されるはずだったが公儀の返事は「国事多忙多難ゆえ、延期して時節を待つよう」とお達し。

 安政4年(1857)といえば内憂外患の年。諸外国は無理難題を押し付け、尊王攘夷論が沸騰するなど大混乱。このあと吉田松陰らが処刑された安政の大獄があり、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変に続き江戸幕府の崩壊へと続きます。

 碁界も例外なく荒波に呑み込まれ、多くの碁打ちが不幸な晩年を迎えます。なかでも思惑外だったのは秀和だったでしょう。公儀の「名人碁所就位は時節を待つよう」とお達し。だが、やってくるはずはありません。世が世なら大名人ともてはやされたに違いない秀和の夢も苦難の道へと転がり始めます。

 いったん悪い方に向うと不幸は重なるものです。跡目秀策の死も打撃でした。本因坊秀和が因島の秀策の父に送った手紙の内容から落胆の様子が読みとれます。さらに御城碁の中止が追い打ちをかけ、徳川幕府崩壊へと時代は移り変わります。

 幕府の庇護を失った碁界はみじめなものでした。本因坊家の土地家屋は明治政府に返還を命ぜられたあげく火災にあってしまいます。どこまでも秀和の運気はついていません。わずかに残った土地にバラックを建ててしのいだものの明治6年(1873)困窮のうちに亡くなります。享年54歳でした。


【秀悦6段(24歳)が15世本因坊となる(坊家初の実子相伝)】
 秀和長男の秀悦6段(24歳)が15世本因坊となる(坊家初の実子相伝)。秀和の実子として秀悦(長男、15世本因坊)、秀栄(次男、17・19世本因坊)、秀元(三男、16・20世本因坊)がいる。

 1873(明治6)年
 徴兵令公布、地租改正。

10月 秀栄-杉村三郎左衛門(先) 杉村先番勝
10月 秀栄-杉村三郎左衛門(先) 秀栄白番中押勝
 12.5日、「中川亀三郎-小林鉄次郎十番碁」開始。
 この年、田中政喜が越後三島郡に生まれる。

 1874(明治7)年

 4.11日、大沢銀次郎の4段昇級披露会行われる。 
 この年、6.24日、田村保寿(後の本因坊秀哉)が東京芝桜田町に生まれる。

 1875(明治8)年

 伊藤松和(72歳)が8段に推薦される。
 4.10日、赤松元、囲碁論説「碁説」を刊行(善仮堂)。
 4.11日、小林鉄次郎の5段昇級披露会行われる。
 4月、「岩田右一郎-石谷広策(先)」、石谷先番中押勝。

 両者とも坊門。右一郎は島根、広策は広島。共に5段まで進んでいる。
 この年、嶋原義太郎(正広)が淡路に生まれる。

 1876(明治9)年

 「中川亀三郎-林秀栄十番碁」開始。
4.30日 中川亀三郎-秀栄 (先) 先番11目勝
8.22日 中川亀三郎-秀栄(先) 中川の白番2目勝
9月 中川亀三郎-秀栄(先) 秀栄先番勝
9.29日 中川亀三郎-秀栄(先) 中川白番4目勝
11.29日 中川亀三郎-秀栄(先) 秀栄先番勝
 4.8日、「秀栄-小林鉄次郎二十番碁」開始。
「小林鉄次郎-秀栄(先)」 秀栄先番3目勝
9.13日 秀栄-小林鉄次郎(先) 秀栄白番勝
11.23日 秀栄-小林鉄次郎(先) ジゴ
12.23日 秀栄-小林鉄次郎(先) 小林先番2目勝
12.28日 中川亀三郎-秀栄(先) 秀栄先番1目勝

 小林を定先に打ち込む。
 6.9日、「黒田Shunsetsu 5段―本因坊秀栄 5段」、本因坊秀栄 (5p)8目勝。
 9.10日、「秀栄-藤田方策十番碁」開始。
9.10日 秀栄・藤田方策
10.22日 秀栄-藤田方策(先) 秀栄白番12目勝
11.4日 藤田方策-秀栄(先) 秀栄先番勝
11.25日 秀栄-藤田方策(先) 秀栄白番1目勝
12.16日 秀栄-藤田方策(先) 秀栄白番勝
12月 藤田方策-秀栄 (先) 秀栄先番9目勝
 この頃、林秀栄は養母と折り合いが悪く別居を強いられていた。

 1877(明治10)年

 「中川亀三郎-林秀栄十番碁」続。
1.27日 中川亀三郎-秀栄 (先) 中川白番勝
1.30日 中川亀三郎-秀栄 (先) 秀栄先番中押勝
12.30日 中川亀三郎-秀栄(先) 秀栄先番中押勝
 4.8日、「秀栄-小林鉄次郎二十番碁」続。
1.23日 小林鉄次郎-秀栄(先) 秀栄先番中押勝
2.8日 秀栄-小林鉄次郎(先) 小林先番勝
1.6日 秀栄-藤田方策(先) 秀栄の白番9目勝
 6.9日、「秀栄-黒田俊節十番碁」開始。
黒田俊節-秀栄 (先) 秀栄先番8目勝
6.16日 秀栄-黒田俊節(先) 黒田先番3目勝
6.29日 黒田俊節-秀栄(先) 黒田白番7目勝
7.14日、 秀栄-黒田俊節(先) 秀栄白番7目勝
7.17日 黒田俊節-秀栄(先) 秀栄先番4目勝
7.22日 秀栄-黒田俊節(先) 黒田先番勝
7.30日 黒田俊節-秀栄 (先) 秀栄先番勝
8月 黒田俊節-秀栄 (先) 黒田白番3目勝
9月 秀栄-黒田俊節(先) 黒田先番勝
 この年、日置白翁(源二郎)没(享年85歳)。
 12.10日、林秀栄の養母に当る林門入(12世、柏栄)の未亡人喜美子が亡くなる。親戚の者が家名を継ぐこととなり、秀栄は碁家としての林家存続を担うことになった。
 この年、井上孝平が埼玉県に生まれる。

 【西郷隆盛の洞窟碁】
 この年、征韓論に敗れて政府を去った西郷隆盛が不平士族におされて兵をあげた(西南戦争)が政府軍によって鎮圧された。田原坂(たはるざか)での激しい戦いの後、西郷らは一時洞穴に逃れ、囲碁を打ちながら時を過ごしたと伝えられている。その後、西郷は移動中、銃弾に当たり倒れた。

 大久保利通も囲碁の愛好家として知られている。第13代将軍・徳川家定の御台所となった天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)然り、2008年NHK大河ドラマ「篤姫」(宮尾登美子原作)で篤姫が囲碁を嗜む情景が放映されている。この薩摩藩に於ける囲碁伝統は学術的にもっと注目されても良いように思われる。

 【五代友厚、大久保利通の囲碁仲間】
 「烏鷺光一の『囲碁と歴史』」の「大久保利通の囲碁仲間 五代友厚」。
 五代友厚は幕末の薩摩藩士で、早くから頭角を現し、欧州視察に派遣されるなどして海外事情に精通していました。明治維新後は、大阪で官職に就き、大阪造幣寮(現・造幣局)設立に尽力します。その後、民間に転じて紡績業、鉱業、鉄道業などを幅広く手がけます。起業家として活躍する一方、野に下った木戸孝允を政府に呼び戻すために行われた「大阪会議」に参加するなど明治政府にも大きな影響力を持っていたそうです。また、堂島米会所(米の先物取引市場)の復興や、株式取引所条例の成立を受けて、大阪株式取引所(大阪証券取引所の前身)の発起人となるなど、大阪の経済的基盤の構築に尽力しています。他にも大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立し、その初代会頭に就任するなど、商都大阪の発展に多大な貢献をしました。

 五代友厚の趣味は囲碁であったと言われています。同郷の大久保利通は島津久光に接近するため久光の好きな囲碁を習い始めたといいますが五代は大久保の囲碁仲間でした。誕生間もない明治政府は政権が不安定で、征韓論を巡る対立から西郷隆盛、板垣退助らが下野したのに続き、台湾出兵を巡る対立により長州閥のトップ、木戸孝允まで山口へ帰ってしまいます。当時、新政府に対する士族たちの不満が高まっていて大久保だけでは政権運営は困難であり、事態を憂いた井上馨らの仲介により木戸の政界復帰に向けての話し合いが大阪でもたれることになります。この時、大久保は五代の屋敷に滞在し関係者と囲碁をしながら過ごしています。いわゆる「大阪会議」と呼ばれる話し合いには大久保、木戸、板垣らが参加し数回開かれますが話し合いは難航し、特に酒癖の悪い黒田清隆(後の第二代内閣総理大臣)が泥酔して暴れ会談は決裂かと思われました。しかし、木戸が囲碁会を開催して関係修復を図り再開。木戸の政界復帰が決まります。当然、この囲碁会にも五代は参加しています。大阪発展に寄与した五代友厚の銅像が「大阪証券取引所」と「大阪商工会議所」に建立されています。
 「烏鷺光一の『囲碁と歴史』」の2016.04.01 「あさが来た 五代友厚」。
 高視聴率をキープした、NHK連続テレビ小説「あさが来た」が、いよいよ明日最終回を迎えます。ドラマに登場したディーン・フジオカ氏が演じる白岡あさ(広岡浅子)の精神的支柱、五代友厚はあまりの人気で亡くなる予定日が延期されたほどでした。五代友厚については、以前ブログで紹介しています。

 薩摩藩士であった五代友厚は、明治維新後に官職に就き、日本のためには東京だけでなく大阪の発展が必要と考え、大阪造幣寮(現・造幣局)設立に尽力しています。その後、民間に転じた五代は紡績業、鉱業、鉄道業などを幅広く事業を手がけ、大阪株式取引所(大阪証券取引所の前身)の発起人や、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の初代会頭に就任となるなど、大阪の経済的基盤の構築に尽力しています。

 そんな、五代友厚の趣味は囲碁であったと言われ、同郷の大久保利通は囲碁仲間であったと言われています。征韓論を巡る対立から西郷隆盛が下野し、長州閥トップの木戸孝允までが政権内の対立により山口へ帰ると、残された大久保利通は政権運営に大変苦慮します。事態を憂いた五代や井上馨らは、大久保、木戸らが会談する「大阪会議」をセッティングし、木戸の政権復帰に向けた話し合いが行われます。五代も、そのメンバーの一人として参加していますが、大久保は、その間、五代の屋敷に滞在し関係者と囲碁をしながら過ごしたと言われています。話し合いは難航し、さらに酒癖の悪い黒田清隆(後の第二代内閣総理大臣)が泥酔して暴れたため決裂寸前となりますが、木戸が囲碁会を開催し関係修復を図ったためようやく木戸の政権復帰が決まります。五代は、その碁会にも参加しています。

 1878(明治11)年
 1.15日、「中川亀三郎-秀栄(先)」、秀栄先番勝。
 4.1日、3.29日対局の中川亀三郎-高橋杵三郎戦の棋譜が郵便報知新聞に掲載された。これが新聞碁譜が掲載された初めてのことになる。
 7.19日、「中村正平-秀栄 (先)」、秀栄先番勝。
 9.5日、横尾鎌七著「活碁新編」2巻(大阪・積玉圃の刊行)。「郵便報知」(新聞)の書評欄に碁書の書評が初めて載った。「凡そ囲碁に関係したる曲故を集めて、以って棋道の人事世故に渉る事を述べたる書」と紹介した。
 この年、伊藤松和8段没(享年78歳)。伊藤松和は49歳で本因坊秀策とともに御城碁に初出仕、幕府より十人扶持を受けた。神田お玉ヶ池の千葉周作道場の隣に教場を開きおおいに賑わったという。天保四傑の一人として数えられた幕末の強手だとされる。
 この年、岩佐ケイ(金偏に圭)(東京)生まれる。

【方円社設立事情】
 方円社設立事情につき、安永一「囲碁名勝負物語」が次のように記している。
 「明治8、9年頃、本因坊丈和の実子中川亀三郎(初代)と井上家の小林鉄次郎等相謀り、旧家元の枠から離れて新しい時代の組織を企画した。たまたま幕末の本因坊秀和、跡目秀策に次ぐ名手村瀬秀甫が維新の混乱を避けて北陸路に遊んでいたのを呼び戻し、この秀甫を総帥として組織したのが方圓社である。かくて方圓社社長7段村瀬秀甫、副社長に中川亀三郎6段、理事小林鉄次郎5段のトップ陣容で新発足することになった」。
 方円社設立事情につき、「坐隠談叢」が次のように記している。
 「これより前、秀策死して、秀和の跡目未だ定まらざるに当り、秀甫は吾こそ坊門の相続人なるべしと密かに許し、又その遊歴中にも一紳*の書を寄せて、跡目たるべきこと、秀和も同意の旨を云い越せしに、思いきや、突如、秀悦の15世本因坊たらんとは。秀甫ここに於て遊歴を名として越後に去り、居ること数年既に一家をなすも、鬱勃たる満腔の不平は禁ずる能はず。時に斗酒を仮りて方言高論僅かに遣る。この時に方(あた)り、中川喜三郎、高橋周徳、小林鉄次郎等の一団相謀りて、東京に研究会を組織せんと欲し、書を以て秀甫に謀り来る。秀甫機を見るに敏、大いに喜んで謂(いへ)らく『当今碁士甚だ少かならずと雖も、支離分散、碁園為に荒涼を極む。而して今日に於ける文明的泰平は、碁運をして再び発展せしむる時勢なれば、己れこの時に乗じて檄を四方に飛ばし、同志を糾合し、一大研究会を開設せば、一は以て斯道の隆盛を計るべく、一は年来の不快を拭うに足るべし』と。乃(すなほ)ち一大決心を以て躍起東上して、中川、小林、高橋等と結び、江湖の貴紳を説き、明治12年4月、初めて古今未曽有の結社を神田花田町相生亭に於いて発表せり。これを方円社とす。後、神田神保町に移りて、秀甫社長となり、小川町に卜居せり」。

 1879(明治12)年
 2.1日、大隈重信、自宅で「村瀬秀甫と中川亀三郎(先)」の手合を催し、打掛けとなる。
 2.4日、前項の碁を中川義忠宅で打ち継ぎ、中川先番12目勝。「郵便報知新聞」がこの碁を採り上げ、「黙許8段(秀甫)対黙許7段(亀三郎)対局」として発表し話題になった。 

 【村瀬秀甫7段、中川亀三郎6段らが囲碁結社「方円社」を設立する】
 4.20日、秀和門下で当時の棋界の第一人者だった18世本因坊の村瀬秀甫7段(42歳)、中川亀三郎6段(43歳)が中心になり、小林鉄次郎(32歳)ら各家元、他に吉田半十郎らが東京神田・花田町「相生亭」に集まり本因坊家とは別に日本初の囲碁結社「方円社」(初代社長・村瀬秀甫)を研究会として発会させた( 「方円社」結成)。社長に秀甫、副社長に中川、理事小林。発足当初は神田区表神保町に居を置いた。

 「方円」の「方」は四角の碁盤を、「円」は碁石を意味している。「方円社」は、既に家元制による俸禄保護が叶わないことを見据えて、且つ一部の大口大名や商家タニマチに寄りかかるのではなく、庶民に碁を普及し、彼らよりの広く薄い謝金を集めることにより成り立つ碁界を目指した。「方円社」が囲碁普及に果たした役割は大きく、また新時代に於ける棋士の生き方を確立した意味で功績大なるものがあると云えよう。  

 これを記念した方円社発会記念対局に、家元側でも安井算英5段、林秀栄5段、本因坊家からは秀悦の代理に土屋百三郎(秀元)、井上家からは13世井上因碩の代理として小林鉄次郎ら家元四家も参加した。
村瀬秀甫7段-林秀栄5段(先) 秀栄先番5目勝
「中川亀三郎6段-酒井安二郎(先) 酒井先番中押勝
「安井算英5段-木谷四谷5段」 水谷先番中押勝
「小林鉄次郎5段-高橋周徳5段」 小林白番2目勝
「吉田半十郎5段-土屋百三郎3段」 土屋先番2目勝

 方圓社は明治、大正時代の囲碁界の中核組織となった。これは大正13年の碁界大合同による日本棋院設立まで曲折を経ながら続いていくことになる。囲碁史研究家の故林裕氏が書いた「明治囲碁史」に「幻の三の日会」と題して「幕末から明治の過渡時代、『三の日会』があったが、実態は明らかではない」とある。「秀和、秀甫の手紙」があり、秀甫の手紙に「三の日会」の全記録が記している。それによると、毎月三の日に会が開催され、一人を除いて村瀬秀甫を中心に24歳までの若者たちだった。しかも各家を横断しての研究会であった。騒然とした世情の中で囲碁に打ち込んでいたことになる。このグループが初めての民間の囲碁結社「方円社」のメンバーとなった。

 4.28日、方円社が、日本初の囲碁雑誌となる月報棋譜集「囲碁新報」第1号を発行した(大正13年の520号まで続刊)。毎月第3日曜に月例会を催し、手合日に打たれた碁を5局を厳選して村瀬秀甫の解説付きで棋譜を公開した。このスタイルが現在まで新聞囲碁欄に受け継がれている。次のように評されている。
 「お城碁廃止で崩壊しかけた囲碁界の近代化に貢献した。月に一度の手合を開催、手合日に打たれた碁を厳選して秀甫の解説付きで機関紙を配布。後進の育成のために高額な資金を募金で確保し、若者に勉強の場を与え、田村保寿(後の本因坊秀哉)を生んだ。一般愛好者への指導碁にも力を入れ、段位制に変わる級位制を導入して免状料収入を確立した。革命的経営で事業は飛躍的に発展した」。
 
 これに賛助する「貴顕紳士」は、方円社に対して、井上馨(かおる)、山田顕義、山縣有朋、大隈重信、後藤象二郎(しょうじろう)、芳川顕正、岩崎弥太郎(やたろう)、渋沢栄一、日下部鳴鶴、成島柳北らその数百名を超えていた。本因坊秀栄側には大久保利、犬養毅(いぬがいつよし)、頭山満(とうやまみつる)らが有形無形の援助をした。
 歴代社長
社長 任期
初代 村瀬秀甫(本因坊秀甫 1879 - 1886
2 中川亀三郎 1886 - 1899
3 巌崎健造 1899 - 1912
4 二代目中川亀三郎 1912 - 1920
5 広瀬平治郎 1920 - 1924
6 岩佐銈 1924
 方円社の棋士
梅主長江
( -1886頃)
五段 安井家門下で、元の名は白石喜三郎。家元と方円社が不和になって免状剥奪となった際に、自ら五段を返上して方円社に入社した。
水谷四谷
( -1887頃)
五段 水谷琢廉の子。方円社設立に参加。
杉山千和
(1821-1899)
六段 美濃国生まれ、旧姓山本、旧名千代三郎。伊藤松和に学び、本因坊秀和より五段、方円社より六段を受ける。
高橋周徳
(1822-1886)
五段 旗本で元の名は鍋三郎、安井息軒から周徳の号を受ける。方円社設立に尽力した。
今井金江茂
(-1895)
五段 本因坊門下で旧名金蔵。方円社設立直後に入社、横浜在住し、五段まで進む。
林佐野
(1825-1901)
三段 林元美実子で林家の分家林藤三郎の養女となり、16歳で入段。方円社創設に協力、三段に進み、喜多文子らを育てた。
山崎外三郎
(1829-1894)
六段 尾州徳川藩士で、加藤隆和門下で五段となる。上京して方円社員と多く対局を重ね、六段を追贈された。
梶川昇
(1831-1890)
五段 伊勢国生まれ、元の名は守禮、旧姓橘。医者の家柄だが、本因坊秀和門下で学び五段となり、方円社設立に参加して東上。郷里で県会議員、徴兵参事官などを務めた。
吉田半十郎
(1831-1897)
本因坊秀悦らとの六人会を経て方円社設立を進めた。
高橋杵三郎
(1836-1902)
方円社四天王の一人。本因坊秀和門下。水谷縫治と十番碁。
三好紀徳
(1837-1885)
三段 佐賀藩の儒士。三段。「囲棋新報」で評論を執筆。
黒田俊節
(1839-1884)
服部正徹門下で、大阪に居し、初期の方円社棋士と交流した。
高崎泰策
(1839-1907)
関西、中京で大塚亀太郎、泉秀節らと囲碁普及に努めた。
泉秀節
(1844-1904)
中川順節門下で、大阪方円分社を設立。子の泉喜一郎が分社長を継いだ。
大沢銀二郎
(1844-1906)
五段 安井算知門下、9歳の時に聾となる。28歳で四段。方円社設立時に入社し、方円社、安井家より五段。1901年に方円社勤続功労の褒状を贈られた。
水谷縫次
(1846-1884)
方円社四天王の一人。少年時代に秀策との対局で名が知られていたが、1880(明治13)年、秀甫の招聘で愛媛から上京して方円社定式会に参加、四段(6級)を認定。その後秀甫にただ一人先相先の手合い進むが、1884(明治17)年、38歳で夭逝する。
内垣末吉
(1847-1918)
六段 因幡国生れ。本因坊秀和門下で三段となり、明治になって官職に転じ、井上馨に従って1903年まで精勤。方円社設立に参加し、1912年六段に進む。没後方円社より追悼七段。
小林鉄次郎
(1848-1893)
方円社四天王の一人。井上門下だったが方円社設立時から参加。実務的手腕に優れ、幹事、副社長も務めるなど運営面で大きく貢献した。
酒井安次郎
(1851-1883)
五段 方円社四天王の一人。江戸の生まれ、吉田半十郎門下で、雀小僧と呼ばれる。小林鉄次郎と信州遊歴の後、方円社設立に参加し、五段に昇る。
稲垣兼太郎
(1854-1940)
方円社設立とともに入社。中京碁界の組織化に尽力した。
中根鳳次郎
(1855-1921)
井上松本因碩門下から方円社に参加。岡山、神戸で方円社分社設立。
関源吉
(1856-1925)
本因坊秀和、秀甫に学び、石井千治と青年囲碁研究会を設立、本因坊秀栄らと碁界合同を探った。
石井千治
(1869-1928)
1983年に入塾、85年初段。中川亀三郎没後に養子となり、一時期方円社脱退し二代目中川亀三郎を襲名、その後4代目社長を務める。
長野敬次郎
(1870-1921)
五段 鹿児島生まれ。長崎で重久元和に学び、1903年に東京に出て方円社に参加、1904年三段、1909年五段。その後は九州碁界発展に尽くした。
林徳蔵
(1872-1931)
五段 1908年に本因坊門と方円社から二段を認められ、1919年四段、追贈五段。林有太郎の父。
都築米子
(1872-1937)
五段 本因坊秀栄、梅主長江に教えを受け、方円社定式手合に参加、囲碁同志会にも参加した。追贈五段。
田村保寿
(1874-1940)
1885年に方円社に入塾し、住み込みの塾生となる。石井千治、杉岡栄次郎とともに方円社の三小僧と呼ばれるが、1891年に除名。その後本因坊秀栄門下となり、秀栄死後に21世本因坊秀哉となる。
林文子
(喜多文子)

(1875-1950)
方円社で女流棋士のパイオニアとして活躍し、日本棋院設立時の調整に奔走した。
小林鍵太郎
(1875-1935)
五段 父は小林鉄次郎。18歳初段。父は棋士となることを禁じたが、父の死後に囲碁の道へ進む。実子の小林誠一も棋士。
竹田逸子
(以津子)
(1875-1935)
四段 旧名高橋閑子。明治20年頃に方円社女子部に在籍したが、公式手合は打たず、指導に徹し、また薙刀など多芸の持ち主だった。門下に竹中幸太郎、星野紀など。
井上孝平
(1877-1941)
巌崎健造に学び、本因坊秀栄、秀哉などとも繋がりを持ち、石井千治の囲碁同志会にも参加。
田村嘉平
(1878-1937)
1891年、方円社塾生の後、京都、大阪で活動。方円社京都分社長、日本棋院関西支部長を務める。
吉田操子
(1881-1944)
泉秀節、本因坊秀哉らに学んだ後、京都で囲碁界組織化。日本棋院設立では関西碁会をまとめた。
都谷森逸郎
(1882-)
五段 青森県生まれ。広瀬平治郎門下で、1923年五段。関西で手合の他、著作を多く残した。
伊藤幸次郎
(1883-1956)
六段 東京生まれ。1899年に巌崎建造に入門、入段の後に方円社塾生となり、日本棋院にも所属。琵琶の名手としても知られた。
鈴木為次郎
(1883-1960)
1907年(明治40年)、中学時代から方円社に通い、巌崎健造の弟子となって棋士となるが、脱退して裨聖会を設立。日本棋院時代にかけて一貫して本因坊秀哉打倒に執念を燃やした。
瀬越憲作
(1889-1972)
1909年(明治42年)、20歳で上京して入社。裨聖会に参加し三派鼎立の後、大倉喜七郎の後援を得て日本棋院設立を為した。
久保松勝喜代
(1894-1941)
泉秀節に学び、関西囲碁研究会などを組織。少年時代の橋本宇太郎木谷實らの他、多くの関西棋士を育てた。
小野田千代太郎
(1896-1944)
方円社塾生から新進棋士として活躍。中央棋院で坊社合同に尽力した。
向井一男
(1900-1969)
愛媛県出身、田坂信太郎門下。1918年入段。本因坊門下と共同の若手棋士研究会六華会設立の中心となった。
岩本薫
(1902-1999)
1913年に広瀬平治郎に入門し、1917年入段。第3-4期本因坊。戦後の日本棋院復興、海外への囲碁普及に尽力した。
橋本宇太郎
(1907-1994)
久保松勝喜代門下を経て、1920年に瀬越憲作に入門、1922年入段。第2、5-6期本因坊。1950年に関西棋院設立。
 方円社創立と同時に村瀬社長は、本因坊、安井、林の三家に協同の呼びかけをしたが、家元はこれに応じなかった。本因坊秀元は、村瀬秀甫と中川亀三郎の免状を取り上げている。林秀栄は門下の林佐野女の免状を取り上げている。これに関連して、秀和の弟子高橋杵三郎5段は本因坊家のこの措置に憤慨して自ら段位を返上した。
 方円社は塾生制度により年少棋士を育成し、後に石井千治田村保寿(本因坊秀哉)、林文子(喜多文子)、杉岡栄次郎、田村嘉平広瀬平治郎(1891)、雁金準一(1891)、岩佐銈(1895)、高部道平(1899)などを輩出する。塾生時代の石井、田村、杉岡は方円社三小僧と呼ばれた。1889年(明治22年)には「青年研究会」を発会、「青年囲碁研究会新誌」も創刊される。1907(明治40)年には鈴木為次郎が飛び付き三段、1909(明治42)年には瀬越憲作が飛び付き三段で参加する。

 4.27日、井上因碩、両国「中村楼」で囲碁大会を開く。
 5.11日、「吉田半十郎-秀栄(先)」、秀栄先番6目勝。
 5.15日、「秀甫7段-黒田俊節5段十番碁」開始(9.15日の第4局で打止め)。
5.25日 黒田俊節-秀栄(先) 秀甫先番中押勝
5.29日 「黒田俊節-秀甫(先)」 秀甫先番中押勝
7.24日 「秀甫-黒田俊節」 秀甫白番9目勝
 6.8日、「酒井安次郎-秀栄(先)」、秀栄先番3目勝。
 7.20日、「中川亀三郎-秀栄(先)」、秀栄先番中押勝。

【本因坊16世秀元時代】

【本因坊15世・秀悦「発狂」による隠居事件】
 1879(明治12).8.14日、秀和の長男であった本因坊15世・秀悦が明治維新後の凋落の心労により病み(「発狂」とある)、隠居を余儀なくされた。秀和門下で当時第一の実力者であった村瀬秀甫を当主として迎えようとするが、仲介した中川亀三郎の反意により成らず、秀和の三男末弟の土屋百三郎3段(26歳)が本因坊16世を襲名し秀元と号す。この時、秀元は3段であり、本因坊家の歴史上でも低段の当主として鼎の軽重を問われるとも云われた。

 喜多文子(6段)の「女流棋家の今昔」が次のように記している。
 「第14世本因坊秀和先生に、5人のお子がおられまして、その長男を秀悦、次男を秀栄、三男を秀元、四男を伝吉、長女を琴子と云われましたが、伝吉と云われる方だけが実業の方面で身を立て、秀悦さんが3段で跡目となり、やがて明治6年、5段で第15世本因坊になられたのでございます。本因坊家はご承知の通り僧籍にある関係上、代々御養子を以って相続されたのでございます。秀悦さんも寺社奉行の届け書、親類書には、葛野忠左衛門の子、秀悦として、養子相続の形式になっているそうでございます。が、歴代本因坊中、実子で宗家を継ぎましたのは秀悦さんが初めてだということでございました。秀悦さんが6段になった時分、枢密顧問官の尾崎忠治さんとおっしゃる、その頃2段で官界第一の打ち手と云われる方がございました。その駿河台のお邸へは秀悦さんを始め、小林鉄次郎さんや手前の養母・林佐野(女流棋士)などが、しげしげお相手に出ておりまして、徹夜になることも珍しくございませんでしたので、ご家族の方々は夜の11時を限りにお休みになることになっておりました。夜が更けますと、一杯あがるのに、お酒の肴はないかと、お勝手を探し回って、お芋を見つけ、それをお肴にお酒を上がることもあったそうです。

 ある日の夕暮れ、秀悦さんが、短刀だかナイフだか、ともかく明晃々たる刃物を携えて、慌しく尾崎さんの玄関を訪れ、取次ぎに出た西村執事に向かって、『大変です。今大勢の悪漢が私を追いかけて来て、殺そうとしているから、助けてください』と大声にわめき立てるのですが、誰も追いかけて来た者などいませんから、西村執事なども、ハテ変なことを言うと思いながら、つくづく様子を見ますと、いつもの秀悦さんと違って、スッカリ血相が変わって、突っ立っていますので、急ぎご主人にも邸中の者にも知らせて、やっと刃物は奪い取りましたが、それでも尚身を震わせて怯え、尾崎さんがお好きで、そこらに沢山瓢箪を吊るしてあるのを見て、『あんなに大勢で私を睨んでいる』などと申して、もう手のつけられない狂人となりましたのでお邸に居合わせた小林さんや私の養母や、あのお耳の悪かった大沢銀次郎さんなど皆な驚いて、とりあえず人力車に乗せて西村執事が本郷のお宅に送り届けたのですが、秀悦さんのこのご病気は遂に治りませんので、明治12年(1879)宗家を弟秀元さんに譲って、23年(1890年)41でなくなりました」。

 8.17日、「秀甫7段-安井算英5段(先)」、秀甫白番4目勝。
 8.17日、「秀栄-高橋杵三郎(先)」、高橋先番11目勝。
 9.21日、「秀栄-安井算英(先)」、算英先番1目勝。

 9月、秀和の三男・秀元(百三郎、4段)が16世本因坊に就任した。
 9.21日、分裂前の方円社、最後の月例会となった。碁打ちの序列は昔から喧(やかま)しいところ、秀栄、秀悦、土屋百三郎(秀元)の本因坊家筋、その他家元らが秀甫より上座に座ろうとして悶着となっている。免状発行権を持つ家元の秀栄側が、家元の権威を認めず「封建的諸制度の撤廃、旧来の陋習の打破」を唱える方円社のやり方に強く反発するようになった。
 9月下旬、秀栄ら家元側が、実力第一主義を謳い家元の権威を認めない囲碁研究会「方円社」のやり方に対し、席次と入社時の条件不実行を理由に9月の手合を最後に脱会した。秀栄は、本因坊家(16世本因坊秀元)、井上家(井上因碩)、林家(林秀栄)らと謀って、方円社の社員となっていた門下の棋士の段位を剥奪し、方円社と秀甫に対抗するようになった。
 10.12日、秀和の7回忌法要行われる。
 10月、方円社が神田神保町に移転した。同時に、村瀬秀甫を社長、中川亀三郎を副社長、小林鉄次郎を幹事とする組織に改めた。方円社が方円社としての結社活動を開始するのはこれ以降である。
 10月、本因坊、林、井上の三家の秀元、秀栄、算英が席次と入社条件不実行をもって一斉に方円社を脱会した。黒田俊節、安井一門の梅生長江らは憤慨して家元に免状を返上する。(安井算英はその合議を外した) 
 方円社は、三家の家元と所属する門下棋士の段位を剥奪した。
 11.16日、 村瀬秀甫が、家元側の退会した方円社を再組織し、初めての民間の囲碁結社「方円社」を神田花田町の相生亭で発会させ、維新の動乱ですっかり沈滞した碁界をよみがえらせた。方円社は本拠を置き日増しに盛大になった。それまで毎月三の日に碁会を開いていた「三の日会」に参集した若手グループがメンバーとなった。「方円社」はその後曲折を経て現在の日本棋院へとつながっていく。
 この年、秀甫は、明治政府の内務省に招かれて来日したドイツ人オスカー・コルセルト博士氏に碁を教え弟子としている。これには伏線があり、コルセルト氏は当初、井上家13代目当主・井上因碩(錦四郎)/当時6段に碁を習おうと自宅訪問したところ、「毛唐に碁を教えてもしようがない」と断られ、次に訪ねたのが秀甫で、秀甫は、コルセルト氏の希望を聞くとすぐに迎い入れ、熱心に指導したと云う。コルセルト博士が離日するときは秀甫に六子で打てるまでに上達していたと云う。コルセルト博士はドイツに帰国してから碁の入門書を発行し、西欧での碁の普及に大いに貢献している。
 この年、秀和の次子秀栄は林家の養子になっていたが、本因坊一家の惨状をみるに忍びず、養家を去って本因坊家に復帰する。これより秀栄の臥薪嘗胆が始まる。
 4月、演劇娯楽雑誌「喜楽の友」が創刊され、雑誌として始めて囲碁を掲載する。
 7.30日、雁金準一(かりがねじゅんいち)が東京・芝桜川町で生まれる。東京都本郷森川町の元は三河国豊橋藩の藩邸に仕える武家であった家に生まれる。4歳頃に碁好きの父より碁を学び、来客との対局などで大いに腕を上げ、学業のために父からは碁を禁じられるが秘かに「国技観光」などで研鑽して遂に父から許しを得、12、3歳頃には近隣では敵無しとなる。父の喘息のために困窮していたが、河北耕之助の知人の小野述信の援助を受け、箱根の旅館で湯治客の碁の相手をしていたところ伊藤博文の知遇を得るて書生となる。
 この年、田村嘉平(島根県)が生まれる。

 1880(明治13)年

 3月、水谷縫次上京、方円社の定式会に参加。
 5月、方円社が独自の免状を発行し始めた。社員の従来の段位を確認し、「囲棋新報」(第十集)の対局譜に段位を付して発表した。
 この頃、名手養成のための3万円資金募集をおこなっている。文面は次の通り。
 「前略、有志諸君の庇護によりて方円社を設けしより、再び斯道の隆盛に赴くの喜びを得たり。これもとより諸君の厚庇によると雖も、また先師の余沢と云うべし。しからば、即ちこの道を維持し、この業を保護し、将来の名手を養成するは、今日わが輩の義務なり。あに力を尽くさざるべけんや。ここにおいて家常を節し、もって子弟教育の資を補い、その成器に従って秘訣を伝授せんとす」。

 こういう趣意書を全国に配送している。これら名を列ねたのは、山県有朋、大隈重信、後藤象次郎、芳川顕正、岩崎弥太郎、渋沢栄一、成島柳北、栗本鋤雲、井上馨等々、知名の士109人に達している。方円社には、前英国公使パークス、ドイツ公使エルヤールなどが習いに来ている。
 7月、方円社が、東京府へ段位免状発行権を届け出る。
 この年、水谷縫次が4段に進む。  

【オスカー・コルシェルトがドイツ東洋文化協会の会報に囲碁記事を執筆する】
 1880年、来日外国人のドイツ人化学者のオスカー・コルシェルト(Oskar Korschelt, 1853-1940)が、本因坊秀甫の元で囲碁に親しみ、この年、ドイツ東洋文化協会の会報である「Mitteilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur und Völkerkunde Ostasiens」(公益社団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会)に、囲碁のルールについての記事を執筆した(当時の記事が、「Das "Go"-Spiel」にまとめられている)。この記事が欧米諸国で参照される。コルシェルトの記事は、1965年、ドイツ語からの英訳として「The theory and practice of Go」 が英国で刊行されている。これよりヨーロッパでの囲碁史が始まる。重野安*が次のように記している。

 コルシェルトは1862(文久2)年に来日し、1882(明治15)年まで20年間滞在した。技師として日本に招かれ、土壌の分析などを行い、「」(東京の水の研究)や「」(酒について)などの著書がある。技術者、工芸学者として東京大学(明治10年、東京開成学校と東京医学校が合併して創設され、同19年に東京帝国大学となる)で数学と農芸化学の講義をした。
 「ドイツ人某、秀甫に就きて業を受け、図譜を作りて帰り、之をその国に布く。西洋の碁あるは、これを始まりと為すという」。
 「方円社創、俊耄勃(おこ)る。欧米の徒に法を授け、譜遠く伝わる。心を専にし志を致し、白を握り、玄を釣(と)り、道、技進み、功績永く存す。没して社に祭るべきは、それこの人に在るか」。
 秀甫が英国公使パークス、ドイツ公使エルヤールらにも碁を教えていたことが、吉田俊夫の「奇美談碁」(大正4年刊)の秀甫小伝に記されている。

 1881(明治14)年

 5.15日、村瀬秀甫が、中川亀三郎を先二に打込み、8段に推薦される。そのあとも二子番は打たず。
 10.13日、「秀甫-水谷縫治(先)」、水谷先番5目勝。

 水谷は独学で坊門3段まで進み、入社に当たって4段に勧められ、明治14年に5段、翌年6段と高段には珍しい一年一段の昇段をしている。後に、秀甫にただ一人先相先まで肉薄している。
 11.24日、「秀甫8段-安井算英5段(先)」、白番2目勝。
 この年、方円社が常置指南を置く。村瀬秀甫、中川亀三郎、小林鉄次郎、水谷縫次、高橋周徳、高橋杵三郎、梅主長江、酒井安次郎(安二郎)、大沢銀次郎、林佐野、今井金江茂、関源吉らが交代でこれに当る。方円社の所属棋士には、方円社四天王と称された小林鉄次郎、水谷縫次、酒井安次郎、高橋杵三郎らがいた。方円社は塾生制度により年少棋士を育成し、後に石井千治(1883入塾、後の二代目中川亀三郎)、田村保寿(本因坊秀哉、1885)、林文子(喜多文子)、杉岡栄次郎、田村嘉平(1891)、広瀬平治郎(1891)、雁金準一(1891)、岩佐銈(1895)、高部道平(1899)などを輩出する。塾生時代の石井、田村、杉岡は方円社三小僧と呼ばれた。1889(明治22)年には「青年研究会」を発会、「青年囲碁研究会新誌」も創刊される。1907(明治40)年には鈴木為次郎が飛び付き3段、1909(明治42)年には瀬越憲作が飛び付き3段で参加する。
 この年、野沢竹朝が元出雲藩士野沢助之進の三男として島根県松江市に生まれる。
 この年、井上操(後の吉田操子、京都)生まれる。  

 1882(明治15)年
 井上因碩13世(松本錦四郎)が慣例を破り三家に謀らず7段に昇進。
 7月、水谷縫次が6段に進む。
 「秀甫-秀栄」の第1局は方円社定例会の一局として打たれた。秀甫のポカがあったとはいえ秀栄は堂々と寄り切り、その存在を誇示したが、第2局から三連敗を喫し崖っぷちに立たされる。その後一進一退の攻防の後第七局を終わって秀栄の3勝5敗となり、毎月かかさず行われた対局が第8局で途絶える。この間秀栄は進退に思い悩んだ。残り二局を連勝しても打ち分けに留まり、連敗すれば先二に打ち込まれてしまう。十番碁の結果は5勝5敗の打ち分けに終わったが、秀栄の先が打ちこなされているのは明らかだった。
 11.19日、「
秀甫-秀栄(先)」、秀甫白番2目勝。
 この年6月、ドイツ人オスカー・コルシェルトが帰国し、ドイツ・東アジア研究協会の機関雑誌に碁を紹介。6.1日、「明治日報」にドイツ人の碁についての記事掲載。
 9.25日、村瀬秀甫著「方円新法」2巻刊行。三好紀徳が錦上花を添えている。
 この年、先代柏栄の未亡人喜美子が逝去する。
 この年、高部道平(東京)、泉喜一郎(大阪)生まれる。
 この年、村瀬秀甫著打碁定石 方円新法2巻1冊

 1883(明治16)年
 

 1.12日、方円社が従来の段位制を廃し、級位制を採用し始めた。欧米に碁を普及するには「ナンバーワン」を最高にしなくては分かりにくいという趣旨であった。これにより、村瀬秀甫編「囲棋等級録」(珪月堂)が作成されている。それによると、第一級(9段即名人)は空席、第二級は村瀬(邑瀬)秀甫8段を筆頭に第9級が初段、以下第12級まで作られ全国の碁打ち合計91名がランキング掲載されている。女性の名前も見られるなど、全国的な囲碁の普及を読み取ることができる。翌年にはこの等級録の改正版である「囲棋等級録 改正」が出版され、これには188名が記載されている。方円社の勢力が拡大していく様子を見ることができる。「囲棋新報」の合冊本に序文を寄せた歴史学者の重野安繹しげのやすつぐが第8級に名前を連ねている。方円社の級位制は秀甫没後も明治26年3月まで続き、その年の4月、段位制に戻している。
 1.27日、「巌崎健造・高橋杵三郎十番碁」開始。
 3.18日、「水谷縫治-巌崎健造(先相先の先番)」、水谷中押勝。
 6月、秀甫が、方円社活動の一環として三戸与彰(南部藩士、9級=初段)と郵便碁を開始した。今の県代表クラスのアマ三戸与彰(岩手県南岩手郡在住)が4子局で村瀬秀甫に挑んだもの。これが郵便囲碁の始まりといわれており、双方8ヶ月かけ117手の棋譜を今に残した。
 8.24日、秀甫が清国棋家との電報碁を計画(「東京・横浜毎日」の記事)。
 8.9日、酒井安次郎5級(=5段)生没(享年33歳)。
 この年、秀栄が林家を絶家して本因坊家に復籍する。
 この年.24日、鈴木為次郎が愛知県に生まれる。

 1884(明治17)年

 3.6日、水谷縫次-高橋杵三郎十番碁開始。
4.22日 「高橋杵三郎-水谷縫次(先)」 水谷先番14目勝
第5局 高橋勝
第6局 高橋勝
 4.12日、吉田たか(8級2段)昇級披露会主催(東京両国の中村楼)。
 4.27日、高崎泰策(5級5段)昇級披露会主催(大垣の吉岡楼)。
 11月、林秀栄(秀和の次男にして10歳の時に林家に養子に入り、13歳で林家の当主となっていた。先代未亡人と折り合いが悪く、当主となった後も家に入れない状態だった)が、32歳の時、林家を出て本因坊家に戻った。秀栄が林家を出たことで、200年以上続いた林家が廃絶した。秀栄は、本因坊秀元を土屋姓に還らせ隠居させて自ら本因坊17世に就いた。秀栄は、井上馨、金玉均らの勧めで後藤象二郎に方円社との仲介を依頼する。これにより方円社手合に出席するようになった。
 11.16、「秀甫-小林鉄次郎(先)」、秀甫白番2目勝。
 2.7日、黒田俊節6段、生没(享年46歳)。
 11.27日、水谷縫次(4級6段)生没(享年39歳)。翌年、追贈3級(7段)。次のように評されている。
 「明治碁会前半のナンバーワンたる村瀬秀甫(1838-1886)は、ほとんどの相手を定先あるいは先二以下に打ち込んだが、縫次だけが先相先を維持した。秀甫は縫次を評して次のように述べている。『縫次は品性卑しからず。碁技に至りては秀逸余人に超越す。然れども対局に於ける縫次ほど憎悪の念を起こし、癪に障る人物は類なし。対手が熟考中、ギロギロと顔を覗き込み、あるいは石を下すごとにフフンと人を馬鹿にしたるが如き冷笑を漏らすを例とせり』。しかし、秀甫はそんな縫次を愛した。方円社が創立された明治12(1878)年、すぐ縫次を招聘し、縫次は5段、6段と順調に昇段した。7段昇段の際、高橋杵三郎から待ったがかかり争碁に発展した。縫次は4連勝し打ち込んだが、高橋が争碁の前の1勝があると難癖をつけ、気分を損じた縫次が2連敗した。その後、肺疾患で突然急逝した。秀甫が7段を追贈している」。

【本因坊17世秀栄時代】

 【村瀬秀甫-本因坊秀栄5段の十番碁を開始】
 12.21日、村瀬秀甫-本因坊秀栄5段の十番碁を開始する(方円社)。十番碁は後に「秀甫-秀栄の争碁」あるいは「和解の十番碁」と呼ばれる。秀栄33歳、5段。秀甫47歳、8段。秀栄の先は秀甫が恩師の倅ということで甘んじて7段格で打ったことによる。対局結果は次の通り。
第1局 「秀栄(先)」 秀栄黒番中押勝
第2局 「秀栄(先)」 秀甫白番8目勝
第3局 「秀栄(先)」 秀甫白番2目勝
 明治18年2.26日 第4局 「秀栄(先)」 秀甫白番4目勝
 明治18年3.15日 第5局 「秀栄(先)」 秀栄黒番3目勝
 明治18年4.18日 第6局 「秀栄(先)」 秀甫白番中押勝
第7局 「秀栄(先)」 秀栄黒番7目勝
 明治18年6.21日 第8局 「秀栄(先)」 秀甫白番2目勝
 明治18年12月 第9局 「秀栄(先)」 秀栄黒番12目勝
 明治18年8.6日 第10局 「秀栄(先)」 秀栄黒番4目勝

 五勝五敗の打ち分けに終わった。明治17、8年頃、秀甫を名人(9段)に押す声が起ったが、秀甫はこれをきっぱりと拒絶している。
 この年、川村知足編「囲棋見聞誌」()1冊が刊行される。
 この年、「囲碁等級録」が刊行される。
 山田権平著「新撰囲碁錦嚢」()3巻3冊が刊行される。
 この年、水谷縫次が夭折した(享年*歳)。1880(明治13)年、秀甫の招きで上京して4段(6級)に認められた後、ただ一人秀甫に先相先の手合に進んでいた。

 1885(明治18)年

 「秀甫-(坊)秀栄(先)十番碁」戦が組まれている。
1.18日 秀甫-(坊)秀栄(先) 秀甫白番8目勝
2.15日 秀甫-(坊)秀栄(先) 秀甫白番2目勝
2.26日 第4局「秀甫-(坊)秀栄(先) 秀甫白番4目勝
3.15日 秀甫-(坊)秀栄 (先) 秀栄先番3目勝
4.18日 第6局「秀甫-(坊)秀栄(先) 白番中押勝
4.19日 秀甫-(坊)秀栄(先) 秀甫白番中押勝
5月 秀甫-(坊)秀栄 (先) 秀栄先番7目勝
6.21日 「秀甫-(坊)秀栄(先)」 秀甫白番2目勝
6.21日 第8局「秀甫-(坊)秀栄(先) 秀甫白番2目勝
11.15日 秀甫-(坊)秀栄(先) 秀栄先番12目勝
11.15日 「秀甫-秀栄(先)」 秀栄先番12目勝
 2.1日、水谷縫次追悼全開催(方円社)。3級(7段)を追贈。
 2.8日、「高橋杵三郎-(坊)秀栄(先)」、秀栄先番中押勝。
 4.12日、「秀栄-梅主長江」。秀栄の白番3目勝。
 5.10日、横浜市南仲通4丁目に横浜方円分社設立される。
 6.11日、秀甫-伊藤源三郎の郵便碁開始(「読売新聞」)。
 9.13日、「(坊)秀栄-小林鉄次郎(先)」、秀栄の白番中押勝。
 11.8日、「(坊)秀栄-石井千治(先)」、石井の先番勝。
 田村保寿(後の本因坊秀哉)、11歳の時、方円社に入塾する。中川亀三郎に師事。当時の住み込みの塾生は、塾頭の石井千治(後の中川亀三郎)、道家富太、杉岡榮治郎、田村保寿の4人。田村は、石井千治、杉岡榮治郎とともに方円社の三小僧と呼ばれた。この頃の或る時、犬養毅が方円社を訪れ、塾頭・石井の碁を見て、方円社社長・村瀬秀甫に向かって「この児(石井千治、後の中川亀三郎8段)はたいしたものだな、将来の大物だろう」と語る。村瀬秀圃は、概要「石井は今塾頭を務めているが、この石井は大したもんじゃない。それより、犬養さん、あそこの隅で打っているあの小僧(田村保寿、後の本因坊秀哉)こそ大いに見込みがある。まあ長い目で見て居なさい。大物ですよ」と述べている。「名人、名人を知る」理で、秀甫は入門したばかりの田村少年の将来を見抜いていた。「双葉にして香しき何物かが村瀬の眼には既に映じていたものであろう」。
 4.20日、岩田右一郎(5段)生没(享年50歳)。
 8.9日、酒井安次郎(5級5段)生没(享年33歳)。
 12.24日、本邦最初の囲碁評論家・三好紀穂(7級3段)生没(享年49歳)。

 1886(明治19)年
 

 2.11日、「秀栄-金玉均(6子)」、金玉均6子局中押勝。
 梅主長江が方円社を離れる。

【本因坊18世秀甫時代】

【秀甫が本因坊18世に就任する】
 秀甫の実力を認めた秀甫は、この頃既に同時代のトップ棋士を定先以下に打ち込むと云う桁外れの強さを発揮し名人に推されていた。この年、秀栄が、秀甫に本因坊を譲れという四面楚歌の中で苦悩を重ね、遂に条件をつけて決意した。 一、方円社が採用していた級位制を段位制にもどす。 一、方円社の発行する免状には本因坊の奥書を入れる。一、本因坊秀甫の跡目は実力第一人者を当てる。 一、今後は本因坊が方円社長を兼ねる。 要は本因坊が碁界の頂点に立って棋士を束ね、その本因坊は実力によって決めるということで、本因坊を手放した秀栄に私利私欲は微塵もなかった。

 7.30日、「秀栄、秀甫が和解する」。家元側の17世本因坊秀栄が、後藤象二郎らの勧告を受け入れて、悩み抜いた末に次のように措置した。秀甫は師家である本因坊家の門下となり、本因坊秀栄が宗家として村瀬秀甫の8段を正式に認め、秀甫が改めて本因坊秀栄から8段の免状を受け、同時に本因坊を秀甫に譲った。即日、秀甫は本因坊秀甫の名に於いて秀栄を7段に勧めた。この時の和解条件として、1・方円社の級を段に戻すこと。2・方円社から出す免状には必ず本因坊の奥書を要すること。3・秀甫の跡目は斯界優等者が充つること等であった。

 こうして坊社対立時代に幕を引いた。自らは土屋秀栄を名乗る。村瀬秀甫が18世本因坊となり、即日秀栄5段に7段を贈る。47歳で念願叶って本因坊を譲られたその夜、秀甫は酒に酔い、本因坊家伝来の「浮木の盤」を頭上にかざして部屋中を踊り歩いたという。頂点に立った喜びだった。これを囲碁史研究家の林裕氏は「恬淡たる秀甫の人柄を知るに凄絶である」と評している。
 8.6日、「(18世本因坊)秀甫8段-土屋秀栄7段(先)」、秀栄先番4目勝。秀甫対秀栄の十番碁は5勝5敗と打ち分けに終わった。この日の対局が秀甫の絶局となり秀甫・秀栄十番碁が終了した。秀甫が本因坊として打った唯一の局でもある。秀甫が次の句を詠んで遺している。「ひと戦して 暇もなし 竹の月」。
 9.16日、郵便報知新聞で、矢野文雄(龍渓)が編集主幹となり、囲碁欄を中止する。
 10月、石井仙次(後の二代目中川亀三郎)が林佐野の養子となり、林千次と名乗る。秀甫没後、秀甫の遺命により林仙次が7級(3段)に進む。

【本因坊秀甫が急逝する】
 10.14日、本因坊秀甫8段が熱海で療養中に生没(享年49歳)。「一説には発狂したといわれる」(囲碁百科事典)が、当時の読売新聞には病名「陰火喉頭症」と書いている。本因坊在位わずか2ヶ月半、「本因坊秀甫」の名で打ったのは対秀栄十番碁最終局のただ一局のみとなった。明治12年の「方円社」の結成で維新の動乱ですっかり沈滞した碁界をよみがえらせた。明治16年に岩手県の旧南部藩士と郵便碁を始め、囲碁をヨーロッパへ伝えた最初の人という意味で囲碁普及の先覚者だった。

 中江兆民の名著「一年有半」が、近代日本の非凡な人物として31名を精選し、秀甫が藤田東湖、西郷隆盛らと共に名を列ねている。
 「余、近代に於いて、非凡人を精選して、三十一人を得たり。曰く、藤田東湖、猫八、紅勘、坂本龍馬、柳橋(後に柳桜)、竹本春太夫、橋本佐内、豊沢団平、大久保利通、杵屋六扇、北里柴三郎、桃川如燕、陣幕久五郎、梅ケ谷藤太郎、勝安房、円朝、伯円、西郷隆盛、和楓、林中、岩崎弥太郎、福沢、越路太夫、大隈太夫、市川団州、村瀬秀甫、九安八、星亨、大村益次郎、雨宮敬次郎、古川市兵衛、然り而して伊藤、山形、板垣、大隈は与(あず)からず。而してその他擾々たる者、曰く彼ら哉、彼ら哉、人名辞書の四半頁をも汚すに足らず」。
 秀栄は、 方円社社長・本因坊秀甫の死後、後継を決めるために中川亀三郎に本因坊位継承のための争碁を申し入れた。但し、先約の立会人であった後藤象次郎ら後援者は秀栄に禅譲を迫った。

 11.1日、方円社社長・村瀬秀甫が亡くなったのを受け、秀栄が、本因坊は方円社社長を兼ねるという秀甫との合意に基づき中川との勝負碁を迫るが、中川亀三郎が本因坊継承の意志がないことを表明して二代目方円社長の地位に就いた。これ以降再度、本因坊家と方円社は分離した状態となる。

 秀栄は再び本因坊家を継いで19世本因坊となる。これ以後、本因坊門と方円社が分離する。秀栄はこの頃、元久留米藩家臣で安井門下三段の生田昌集(旧名金吾、-1891年)による支援を受け、後にその娘・満基子を妻としている。

 この頃、新聞に囲碁欄が登場するようになり囲碁界育成に貢献することになる。田村保寿が9級(初段)を認められる。

【「浮木の盤の行方」考】
 「浮木の盤の行方」について、喜多文子が次のように語っている。
 「吉田妙子と云う初段格の人はなかなか美しい方で、秀甫先生が執心されたくらいでしたが、トウトウ先生とはご縁がなくて、相当年増になってからさる人と結婚されました。その人と死別されてから、鎌倉の名月院という寺のほとりに、静かに余生を送っていられましたが、先年、私が本因坊家伝来の『浮木の盤』のことにつきまして、その所在をご存知かと思い、わざわざ鎌倉へお訪ねしたことがございます。折悪しく眼病に罹られて、日本橋のある眼科に入院中と承り、その病院まで伺ってお尋ねしたのでしたが、吉田さんは全くご存知ないということでした。

 秀甫先生がお亡くなりになったのは明治19年10月ですが、私はお通夜の晩、12歳の子供でありながら、初代の中川亀三郎、石井千治、小林鉄次郎などと云うお仲間に入りまして、霊前で手向けの連碁を打ちました時の盤が、『浮木の盤』だったと思いますが、何さま50年前のことですから、それもハッキリ致しません。けれども本因坊家には、『浮木の盤』と『トコロの盤』と云う二つの碁盤が宝物として伝えられ、めったに他見を許されなかったのですから、これを実見した人々がもう大抵故人になってしまいました今日では、たとえうろ覚えにもせよ、それを語る資格のあるのは、まぁ私ぐらいのものでございませう。

 ところで、そのお通夜の晩に打ったのが、果たして『浮木の盤』であったか、あるいは『トコロの盤』であったか、ともかくそのどちらかには相違ないと思うのですが、どうしても思い出せませんのです。もっとも『トコロの盤』と云うのは、石を一つ打つとジャラジャランという、あたかも月琴の胴からでも出るような、まことに床しい音を立てる盤でしたから、その音の有無によりましても、直ちに区別がつくわけなのですが、今はその音があったかなかったかすら、記憶に残らないのでございます。しかし、『浮木の盤』というものは、第16世秀元先生の所持の時、神田松枝だ町から出て本所、深川から品川まで延焼した、明治16年の大火で、本因坊家が類焼した折、秀元先生がこの盤を持ち出して、浅草橋の辺まで立ち退きました。それから先へはとても持って行けませんので、やむを得ず橋下の水の中に盤を沈めて、身軽になってその場を立ち去られました。翌日、浅草橋へ参ってその盤を探しましたが、もう何者かに持ち去られて、影も形も見当たらなかったと申しますのが、秀元先生のご子息・万吉さんが、親父から日頃聞かされていたというお話でございます。

 こうなると、『浮木の盤』についての謎は、いよいよ解けなくなるばかりです。と言いますのは、明治16年の大火で紛失した盤が、明治19年の秀甫先生のお通夜に用いられようはずもございませんし、そうかといって私の打ったお通夜の盤が、よしうろ覚えにもせよ全然それと無関係のようには思われないのです。もっとも、『浮木の盤』が一時、朝鮮事変の為に日本に亡命して、岩田周策という世を忍ぶ仮の名で潜んでいた、金玉均の許へ預けられてあったという方がございまして、その説を時々耳に致します。私も日比谷の金さんのお宅には、たびたび伺ってずいぶん碁のお相手も致しました。お恥かしいお話ですが、私が初めて洋食の味を知ったのも金さんのところでした。その時、お皿の肉を切ろうとして、ナイフでごりごりやりましたけれど、どうしても切れない。金さんが吹き出して、それではナイフが裏返しです。ムネの方ではいくら力を入れても切れませんよ言われて、赤面したことがございます。それほどお親しくしていながら、『浮木の盤』については何もお話がございませんでしたから、一時にせよ金さんのところへ預けられていたというのは、私にはどうも信じられません。

 また一説によりますと、秀栄先生が秀甫先生に本因坊を譲られますと同時に、『浮木の盤』も秀甫先生の手に渡り、まみなく秀甫先生が亡くなられて、秀栄先生がまた本因坊を継がれました時、秀甫未亡人に盤の引渡しを迫りました。すると、未亡人は家計に窮して、それを三十円で入質したので、手許にはないという答えに、秀栄先生も当惑しましたが、何しろ本因坊家にとってはなくてはならぬ品ですから、親交ある金さんにその金を償ってもらってやっと取り戻した。そんな関係で、金さんのところに盤を貸しておいたところ、金さんが同志と上海に渡って事をあげんとするに当り、その旅費を作る為に一切の家財調度を抵当にした際、誤って盤もその中に入れられたのが、金さんの横死によって人手に渡り、転々として某氏の秘蔵に帰した。このように云う方もございますが、金さんが借りていたのは事実としても、それを抵当にするなどとは、常識から考えても受け取れません。秀甫未亡人が金融の道具に使うために、いいかげんの古碁盤に、『浮木の盤』と銘打って世間に流布したのが、三面もあるという説もございますが、それはあるかもしれません。こうなると、いずれにしましても、『浮木の盤』は行方不明という他ないと存じます。

 金さんの秘蔵で天下の三銘盤とうたわれた有名な盤がございました。三銘盤の筆頭に据わりますのは、『名月』と申す宗家井上家の盤でありまして、それし上州高崎の藩主・大河内子爵家に伝来するものと、姉妹にあるのがこの盤でございました。ただ『名月』は名人丈和在銘の故に、三個の筆頭に推されていたのだと承ります。この盤はもと駒井相模守から秀悦先生に渡り、それから高橋杵三郎7段の紹介で、当時の横浜灯台局長・原某の所有に帰し、その後碁盤師福井勘兵衛の手を経て読売新聞の人の手に渡り、それが秀栄先生のお口添えで金さんのご所持となったのでございます。(中略)金さんは盤を珍重されておりました。『浮木の盤』と申しますのも、この盤が誤り伝えられたのではございますまいか」。

相場一宏秀甫の碁」】
 昭和43年・平凡社『囲碁百年』の相場一宏「秀甫の碁」の転載(「すばる ◆03年02月16日」)。
 <秀策の棋風>
 秀甫の碁について語るには、まず兄弟子の秀策から始めなければならない。秀策九歳の年長、追い掛ける相手として恰好の目標であり、それだけに大きく影響を受けているはずである。秀策の棋風は、一言にしていえば謹直な碁である。黒を持った場合の、いわゆる一・三・五の布石にしても、最も原理的に先番の利を守る気分であったことが想像される。要するに、白の動きををすべて封じ、チャンスのかけらすら与えずに勝つことを黒の理想とした。それとは逆に、白番のときは、秀策がときおり実生活でも羽目をはずしたように、黒の歩調を妨げることに全力をそそいだ。多くは実利を得てシノギに勝負を賭け、示威によって圧する黒番とは対蹠的に、実力行使によって勝機を把えようとしている。秀策ほど、黒番白番によって手法を変えた棋家は少ない。
 <反秀策風としての秀甫>
 秀甫が十四歳で坊家の内弟子(初段)となったとき、秀策はすでに秀和の跡目として属目の的になっていた。秀甫も、そのころは秀策を目標としてはいまい。しかし、秀策が早く頂点に達したのに対して、嘉永六年(1853年)三段、安政二年(1855年)五段、文久元年(1861年)六段と急上昇するに従って、しだいに秀策への対抗意識が育っていったのではないか。そうしたとき、完成された芸である秀策の型を破るためには、異質の碁で対抗するよりない。このことは、ひたすら力戦を宗とする太田雄蔵が秀策に善戦したことでも証明されるが、もともとの棋風もあったにせよ、秀甫の碁が雄蔵の道に傾く必然性があった。

 後年の秀甫の碁を見るとき、その変幻自在な手法に驚かされるが、その遠因は秀策の端麗な棋風への反発とみてよいだろう。方円社時代は大部分が白番であったが、それでも、秀策あるいは師の秀和の得意とするアマシ作戦ではなく、最初から仕掛け、戦い抜いている碁がほとんどである。また、黒番のおりに、秀策流布石を打っていないことも、偶然ばかりとは思えない。
 <秀甫の荒らさ>
 碁には、石の死活と地の損得という二つの面がある。そして、秀甫のように、石の死活、いわば碁の質的な面を基盤として発想するタイプには、必然的にキメの荒らさがあった。これは、秀策あるいは秀和のように、地の損得、いわば碁の量的な面を基盤として発想するタイプに失着が少ないことでも裏付けられよう。後代でいえば、前者に秀哉、藤沢秀行、大竹英雄などが属し、後者には秀栄、雁金凖一、林海峰などが属する。

 しかも、秀甫はずいぶんと気が短かったらしい。たとえば、小林鉄次郎と対局中、秀甫のノゾキに小林が少考したところ、「天下の名人村瀬秀甫のノゾキに考えるなら、意地でも他に打て」とどなりつけた話や、それに類した話はいくらでもある。この碁の荒らさと気の短さが重なって、秀甫の敗局の大部分は見損じによるものだった。
 <変幻自在のサバキの碁>
 キメの荒らさは、逆にいえば石の躍動感につながる。秀甫の打碁のどの一局を採っても、ただちにそれと分るほどの力強さがある。秀甫の身上は、中盤における戦いの方向感覚にあったといえよう。方円社では、一時、「布石は秀甫にきけ、手どころは中川にきけ、ヨセは巌崎にきけ」といわれたことがあったというが、手どころのヨミは、むしろ亀三郎や縫治が正確であった。また、どんな古碁でもひとめ見れば対局者を当てるほどの蓄積があったというが、これも杵三郎に一疇を輸している。戦いの方向感覚とは、いわば将来への予知能力である。その方向感覚を軸として、秀甫の碁はサバキの碁となる。したがって、見た目には変幻自在。着手の意味がわかりにくい。そして、大いに戦うわりに、見損じでの頓死を別にすれば、大石を取ることも取られることも少ない。一局を一点に絞る大作戦を展開するには、あまりに先の見通しがつき過ぎる意味もあったにちがいない。しかし、見損じの危険率も高い。

 サバキの碁といっても、秀甫のサバキは受動的なそれではなく、局面の拡大を図る積極策である。これは打ち盛りの秀甫がほとんど白番であり、先着者の歩調を乱れさせるためには、何かをやって行かなければならなかった事情もあろう。しかし、それ以前に碁界の頂点に立った中野知得や秀和などが、受動的なサバキであるシノギを得意とする碁であったことを考えれば、白番の作戦も、必ずしも一通りでないことがはっきりするはずである。
 <秀甫の布石>
 したがって、秀甫の布石には、秀策のような体系がない。『方円新法』は確かに新しい布石を含んでいたが、それは体系の新しさではなく、感覚の新しさであった。そして、秀甫の本領は、布石から中盤にかけての戦機の把え方、作戦遂行の力強さと変り身の早さにある。むしろ布石では、他と技倆が隔絶しているためもあって、どう打っても一局という感じで新趣向を続々と試みている。結局、秀甫の布石は変化の布石であった。この点は師の秀和に似ている。『方円新法』には、ある日、秀和が秀甫に向かい、「わたしの碁はみなと大差ない。ただ、毎局、何か新味を出そうと努力しているだけだ」と語ったことが記録されているが、あるいは、その言葉からの影響も少なからずあったものだろうか。いずれにしても、秀甫の布石はヨセを意識した布石ではなく、戦うための布石であったようだ。
 <攻めの棋風>
 秀甫の打碁を二、三並べてみれば気付くはずだが、地を囲う着手が非常に少ない。また、黒番で隅をシマるときには、ほとんど一間ジマリに限られている。これは、さきにも述べたが、量のレースではなく、質のレースで勝とうとする歴然たる証明にもなる。しかも、早見えのする短距離走者である。とすれば、最も得意とするのは、大サバキを含んだ攻めの碁だったに違いない。事実、攻めに回ったときの秀甫は一段と冴え、ほとんど主導権を手離すことがない。秀甫に細碁が少ないのも、キメの荒らさを内蔵する攻めの碁だったからであろう。そして、その変幻自在の力を振るって、秀甫は明治初頭の碁界を制した。 

 1886(明治19)年
 2月、高橋周徳(5級5段)生没(享年65歳)。
 6.3日、野村季友(5級5段)生没(享年60歳)。

 1887(明治20)年
 5.8日、本因坊秀甫追善会開催(東京・芝「紅葉館」)。
 5.29日、梶川升(昇)送別会(東京湯島妻恋町の「新いそべ亭」)

【秀栄逸話】
 「秀栄性謹厳剛直、虚飾を斥け、率直を敬す。しかも居常黙々として談笑少なければ、この枯木寒厳の風貌は他にかえって傲岸と視られ、不遜と認められること往々にしてあり」。
 「韓国亡命の金玉均は秀栄門下で初段に先二ぐらいの力があった。その秀栄と金とは初めて相合うや百年の旧知の如く、。時の政府が清朝の強い抗議に屈して明治19年、金を小笠原島に流したとき、秀栄は絶海の孤島に独居する金を想い、翌20年、自ら便船に乗じてその配所を訪れ、居りて慰めること3か月。時な秀栄35、6歳の頃と言えば、この侠骨は彼の青年客気とは言えず、一家をなしてなお欝勃として湧きあがる彼秀栄の本来の姿、その一片の*々の赤心の発露と解すべきであろう。のち、金が北海道に遷された時、船は途中横浜に帰航したが、秀栄また訪れ、慰籍至らざるなく、遂に同乗して北海に赴く。両人の交情の深き推して知るべしだが、『坐隠談叢』子は『衆庶見てその情の篤きに驚く』とある」(安永一「囲碁名勝負物語」32P)。

【本因坊19世秀栄時代】

 8.4日、土屋秀栄が再び本因坊17世を名のる(後に19世と改称)。この頃の秀栄語録が遺されている。
 「私の名人になることに対して、何人といえども不服の人があれば、いつでも挑戦に応じる」。
 「米びつが一杯でも碁は打てないが、さりとて、底が見えても良い碁は打てない」。

 この年、前年に朝鮮の亡命志士・金玉均が清朝の圧力により小笠原島に流刑されており、「初めて相逢うや百年の旧知の如き友情を覚えた」秀栄がその配所を訪れ、3ヶ月滞在して慰問している。後に、金が北海道に遷され、途中横浜に寄航したところ、秀栄が同乗して北海道に赴いている。この頃、秀栄が「一万局の布石」を作って厳しい修行に明け暮れたと伝えられている。
 10.17日、大阪府「方円分社」創立発会(堺「卯楼」)。

 1888(明治21)年

 1.20日、和紙木版の「囲棋新報」、第88号より洋紙活版となる。
 宮坂しん二(富山県永見)、木村広造(和歌山県)生れる。

 1889(明治22)年
 大日本帝国憲法成立。

 5.23日、瀬越憲作が広島県佐伯郡能美村(現広島県江田島市の能美島)で生まれる。 
 9.24日、方円社「青年研究会」の第1回例会開始。
 10.17日、元老院議官碁会開かる。
 12.16日、中川亀三郎・今井金江茂十番碁開始(「横浜倶楽部」)。
 10.23日、方円社が小林鉄次郎編纂「青年囲碁研究会新誌」創刊(明治24年に囲棋新報に合併)。
 2.29日、樋口建良(6級4段)没。
 10.20日、吉原文之助(5段)没(享年57歳)。
 この年5.23日、瀬越健作が広島県能見島に生まれる。

 1890(明治23)年
 第1回帝国議会。

 林千治、石井姓に還り、石井千治と改める。
 1.23日、「郵便報知新聞」が「次の一手」の懸賞を出題、好評を博す。
 1.30日、「秀栄-都筑仙子(2子)」、秀栄の白番中押勝。
 6.3日、「秀栄-石井千治(先)」、秀栄の白番中押勝。
 8.24日、「安井算英5段-田村保寿2段(先)」、算英白番勝ち。
 10.8日、「林千治(石井千治)4段、高橋杵三郎5段、安井算英-田村保寿、小林铁次郎6段、关源吉3段(先)」、ジゴ。
 2.11日、梶川升(昇、幼名は守札、5級5段)没(享年62歳)。
 11.19日、梶川升追福会(四日市の江戸七楼)。
 8.23日、隠居15世本因坊・秀悦が生没(享年41歳)。
 この年、小林鉄次郎編「囲碁等級録」。

 1891(明治24)年

 1.5日、「(坊)秀栄-中川亀三郎(先)」、打掛け。
 2.2日、「(坊)秀栄 (7p)-高橋杵三郎(先)」、秀栄白番9目勝。
 2.25日、「秀栄-大澤銀次郎(先)」、秀栄白番4目勝。
 4.12日、吉田たか(7級3段)昇級披露会(東京両国の中村楼)。
 4.12日、「中川亀三郎-(坊)秀栄 (先)」、ジゴ。
 5.2ー6.6日、日本方圓社青年囲棋研究会「安井算英-田村保寿(先)」、算英白番7目勝。
 11.22日、「(坊)秀栄-小林鉄次郎(先)」、ジゴ。
 11.23日、方円社が田村保寿(後の本因坊秀哉)の退社を社告する。田村は方円社を脱退して友人と「尋人会合所」という地方から上京する若者向けの事業を開こうとしたが許可が下りずに頓挫、方円社を除名される。千葉の東福寺で碁の相手や農業の手伝いをしたが囲碁に戻ることを決心して翌年東京に帰る。金玉均の紹介により19世本因坊秀栄門下に入門、4段を許される。
 12.2日、「(坊)秀栄-林文子(2子)」、秀栄2子局白番1目勝。
 1月、生田昌集(金吾、7級3段)没(享年)。
 7.29日、二宮秀快(5段)没(享年60歳)。翌年6.11日、二宮秀快追悼碁会を静岡県島田町で催す。
 この年、因碩13世(松本錦四郎)が神戸で客死する。跡目が決まっておらず、幻庵の弟子だった大塚亀太郎が井上因碩14世を継ぐ。1904(明治37)年に大塚がなくなり、弟子の田淵米蔵が15世を継ぐ。1917(大正6)年、田淵がなくなり、弟子の恵下田(えげた)仙次郎(栄方)が16世を継ぐ。1961(昭和36)年、恵下田がなくなり、弟子の津田義孝が継ごうとするが、恵下田の未亡人がこれを認めず、裁判の末に津田の17世襲名が認められる。1983(昭和83)年、津田がなくなり、ここに囲碁家元としての井上家が絶える。
 この年、加藤信(東京・芝)生まれる。

 1892(明治25)年

 2.21日、関源吉6級(4段)昇級披露会(方円社)。
 3.7日、「(坊)秀栄-林文子(2子)」、林文子2子局勝。
 5.14日、「秀栄-林文子(2子)」、秀栄2子局白番中押勝。
 5.23日、「(坊)秀栄-石井千治(先)」、秀栄白番1目勝。
 8.11日、「(坊)秀栄-田村保寿(2子)」、田村2子局3目勝。
 8.13日、秀和の息子である土屋秀栄(後の本因坊秀栄)が方円社に対抗して「囲碁奨励会」(日本橋倶楽部奨励会)を発足させた(後の「四象会」)。当時の資産家であった高田慎蔵、及びその夫人民子の支援を受け、月々の手当として70円と、自宅近くの湯島に家屋を提供された。

 囲碁奨励会第1回手合を神田区錦町3丁目15番地で催す(「日本橋倶楽部」)。日本奨励会1回戦「秀元4段-田村保寿(先)」、田村先番2目勝。

 秀栄は、毎月1回「四象会」を開催し、輪番で対局、その講評を記した。天下の棋士がこの傘下に集まった。旧方円社系の石井千治、広瀬平次郎、方円社を除名されていた田村保寿(後の21世本因坊秀哉)が9月に4段で入門するなどし1894年まで続いた。
 明治中頃になると、政財界の中枢もようやく碁に目を向けはじめ、積極的に援助するようになる。政財界重鎮の福沢諭吉、大隈重信、渋沢栄一、岩崎弥太郎らが囲碁を好んだことが伝えられている。方円社側では井上馨、後藤象二郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一らが、秀栄側には大久保利通、犬養毅、頭山満らが有形無形の援助した。新聞に囲碁欄が設けられるようになり、これ以後の碁界は新聞囲碁を中心に展開していくようになる。
 9.10日、「安井算英-田村保寿(先)」、算英白番5目勝。
 10.5日、「(坊)秀栄-石井千治(先)」、石井先番8目勝。
 12.5日、「(坊)秀栄-小林鉄次郎(先)」、秀栄白番1目勝。

【黒岩涙香(くろいわるいこう)】
 この年、黒岩涙香(くろいわるいこう)が「万朝報」を創刊する。

 黒岩涙香の人となりは次の通り。
 (1862(文久2)9.29(11.20)-1920(大正9).10.6)

 明治大正期の新聞記者、探偵小説作家。涙香という号は主に探偵小説で用い、新聞では民鉄、黒岩大などと称した。

 1862(文久2)9.29(11.20)日、土佐(高知県)の郷士/黒岩市郎と信子の
次男に生まれる。本名は周六。幼少時に漢学を学び、17歳の時、上京。慶応義塾などいくつかの学校に入学したが中途退学している。同郷の板垣退助、馬場辰猪らの影響を受けて自由民権運動に身を投じた。改進新聞に明治15(1882)年に北海道開拓使官有物払い下げ問題に関する論文発表するや官吏侮辱罪に問われ有罪の判決を受けた。
 1883(明治16)年、同盟
改進新聞の主筆となる。
 1886(明治19)年、山田藤吉
郎の経営していた絵入自由新聞((1882年9月創刊の小新聞)の主筆となり、論文や探偵小説を掲載。次第に筆名を高める。
 1889(明治22)年、都新聞に移り多数の小説を連載し評判を得る。
 1892(明治25)年、都新聞社長と対立して退社した。

 同年、『万朝報』(よろずちょうほう)を創刊し、発刊の辞で「この頃の新聞は)売色遊女のごとく,みな内々に間夫(まぶ)を有し、その機関となれり」と記すように、社会の不正悪徳を糾弾し挑発する論調で名を馳せた。正岡芸陽は「娯楽的毒舌新聞」と命名している。

 その間に欧米の探偵小説の翻訳を試みている。『法廷の美人』(1888)、『人耶鬼耶』(ひとかおにか)(1887~88)、『鉄仮面』(ボアゴベイ作。1892~93)、『幽霊塔』(ベンジスン夫人作。1899~1900)、『巌窟王』(がんくつおう)(デュマ作。1901~02)、『噫無情(ああむじょう)』(ユゴー作のレ・ミゼラブル。1902~03)を訳出し連載小説している。達意の文章と流麗な自由訳で世に伝えた功績は大きい。さらにSF、未来記にも関心をもち、『暗黒星』(ニューコム作。1904)、『八十万年後の社会』(H・G・ウェルズ作。1913)などの訳がある。評論に『天人論』(1903)などがある。

 同紙は上流階級の腐敗を暴露した「畜妾調」などのスキャンダル記事を赤色の紙に印刷することで人気を博し、一躍東京第一の発行部数(明治32年の発行部数9万5000部)を得るまでになった。「マムシの周六」と呼ばれるようになった。

 1900(明治33)年ころから作家の斎藤緑雨や東洋史家の内藤湖南、宗教家の内村鑑三。田岡嶺雲、堺利彦、幸徳秋水、石川三四郎などの社会主義者を社員に迎えた。
 1902(明治35)年には思想結社「理想団」と称する団体を組
織し社会改良運動を起こそうとした。

 1904(明治36)年に勃発した日露戦
争に際し、涙香が時局の進展にともない開戦論に転じた。このため非戦論の内村、堺、幸徳らは連袂(れんべい)退社した。明治末期、『万朝報』は次第に他紙との営業競争に後れをとるようになったが、大正初期の憲政擁護運動シーメンス事件では最も急進的立場に立ち、民衆運動を組織化するとともに新聞キャンペーンをリードした。しかし、黒岩が第2次大隈内閣に接近したころから『万朝報』の声望は低下し、黒岩も新聞経営への意欲を衰弱させていった。黒岩は新聞記者としても探偵小説作家としても読者の意識を鋭敏にとらえる独特の才覚をもっていた。1920(大正9)年10.6日、東京で生没(享年59歳)。

 子供の遊びであった五目ならべを 「連珠(聯珠)(れんじゅ)」と命名、『聯珠真理』(1906)を刊行したりしている。みずから初代名人高木互楽と称したりした。1対1の競技かるたの研究団体、競技団体がつくられ各地で練習会を開催、選手は自分たちの技量を他流試合に求めはじめたことに着目した黒岩はかるた早取法を考案し、東京かるた会を設立、会長となった。彼は従来の変体仮名の札を総平がなに改めた〈標準かるた〉を考案。この札で1904年2月11日万朝報新聞社の主催で第1回競技かるた大会を開催した。

 《日本人》は高島炭鉱の坑夫の労働条件の過酷さを訴えて,いわゆる
ルポルタージュの先駆となり,《日本》は正岡子規の俳句再興の舞台となって国民的なひろがりをもつ短詩型文芸慣習を定位するなど日本の近代文学に貢献した。また黒岩涙香の《万朝報》や秋山定輔の《二六新報》は、それぞれに政・財界人のめかけ囲いを暴露したり、民営タバコのもうけがしらの私行をあばいたり、吉原の娼妓を解放したりなどしてセンセーショナルな紙面構成をはかり、廉価なこととあいまって大衆的な新聞となった。とくに《万朝報》の用紙がうす桃色だったこともあって赤新聞とさげすまれたが、これは既成体制の選良層が放ったものであった。

 1893(明治26)年

 「秀栄-巌崎健造(先)」、打掛け。
 3.26日、方円社が神田区表神保町の借家から念願の自社ビルを神田区錦町3丁目15番地に建築移転した。場所は現在の学士会館の南側、神田税務署の西側。この場所は東京大学があった場所で、大学が本郷に移転したことにより土地が分譲されたと思われる。新築移転披露会を催す。この頃の方円社が絶頂期となった。移転から数ヶ月後に小林鉄次郎が逝去したことにより次第に陰りを見せ始め、数年後に会館を手放すことになる。
 4.1日、方円社が、1883.1.12日に採用した級位制を撤廃し、元の段位制に戻した。この頃の方円社の経営は実質的に小林鉄次郎が行っていて安定していた。
 4.8日、「秀栄-高橋杵三郎(先)」、秀栄白番3目勝。
 5.14日、大久保利通15年祭・追悼囲碁会が紀尾井町公園の茶亭で催される。
 6.4日、「安井算英-田村保寿(先)」、田村先番勝。
(坊)秀栄-吉田半十郎(先)」、秀栄白番8目勝。
 6.5日、土屋秀元-田村保寿二十番棋第2局「田村保寿-秀元(先)」、田村白番1目勝。
 「」戦が組まれている。
7.2日 (坊)秀栄-田村保寿(2子) 田村2子局7目勝 
10.9日 (坊)秀栄-田村保寿(2子) 田村2子局勝
 9.3日、「(坊)秀栄-小林鉄次郎」、 小林先番1目勝。
 10.15日、木原亀太郎昇段披露会を日本橋倶楽部で催す。
 「(坊)秀栄-石井千治(先)」、石井先番勝。
 11.5日、「(坊)秀栄-大澤銀次郎(先)」、秀栄白番10目勝。

 この年、雁金準一が方円社に通い始めるようになり翌年入段する。
 この年、中川亀三郎、小林鉄次郎、巖崎健造共著「囲碁大鏡」刊行。
 11.7日、小林鉄次郎6段生没(享年46歳)。

 1894(明治27)年
 8.1日、日清戦争始まる。

 2.4日、本因坊秀栄、囲棋奨励金第19回手合を本郷湯島の高田邸に移す(前回まで「日本橋倶楽部」)。終会。
 3月、本因坊秀栄の刎頚の友の金玉均が上海で暗殺される。
 6月、本因坊秀栄、「定石・囲碁新法」2巻(大倉書店)出版(奥付に17世本因坊、土屋秀栄とあり)。
 7月、巌埼健造が7段に昇進。
 11.15日、「安井算英-田村保寿(先)」、田村先番4目勝。

 この年、雁金準一が伊藤により広島大本営、下関と随伴し、「碁打小僧」として知られるようになる。

 1895(明治28)年

 「秀栄-伊藤小太郎(2子)」、秀栄2子局白番中押勝。
 3.31日、日清戦役「祝捷並びに恤兵碁会」開催(「日本橋倶楽部」)。
 10.13日、広瀬平治郎3段昇段祝賀会。
 10.25日、本因坊秀栄、新宅披露会。
 左辺5子のサバキを問われた場面で、白1のハネダシから白3と取られている2子を3子にしたのが語り伝えられる秀栄の妙手。aの受けならbとノゾキを利かしてdとハネ、種石の黒3子(▲)を取り込む。また白3に対してcのツギなら、白e、黒a、白f、黒g、白hとワタってしまう。黒の田村はeとアテて上の3子(▲)を捨てる他なく、ピンチの白5子は大威張りで生還することとなった。囲碁史上に残る妙手として有名だが、ここに至るまでの秀栄の打ち回しにも評価が高い。

【研究会「四象会」を発足】
 11.17日、本因坊秀栄が3段以上を参加資格とした研究会「四象会」を発足させた。毎月1回湯島の秀栄宅で碁会が開かれ、進境著しい秀栄の元には、土屋秀元、方円社を退社した田村保寿、安井算英の他、方円社の若手棋士の伊藤小太郎、高橋杵三郎、大沢銀次郎、石井千治、関源吉、広瀬平治郎、田中政喜、岩佐銈などが参加し、1898年には当時まだ2段だった雁金準一も特に参加を認められ、後に門下となった。この会は1904年まで続いた。

 「四象会」出資者の高田民子は秀栄だけでなく石井千治その他の棋士たちに給金していた。民子が碁界に費やした金が3千円を下らなかったと云われている。当時の3千円は現在の時価相場で幾らになるのか、恐らく膨大な金額になると思われる。
 11.29日、「石井千治-田村保寿十番碁」開始(頭山満主催)。
 12.15日、四象会の第2回対局「(坊)秀栄-田村保寿(先二の先番)」、秀栄白番2目勝。秀栄44歳、田村22歳4段。(明治40年の第5次に至る)

 1896(明治29)年
 いったん接近した方円社と本因坊門が、秀甫の死によって再び対立関係に戻った。この頃の旧家元は、林は絶家、安井は10世算栄が「御城碁の遺物」と尊敬されながらも老境に達して後継者なく、井上は13世の松本錦四郎が跡目を定めぬうちに没して、関西の有志者が大塚亀太郎を14世として井上家を再興したばかり。実力的に方円社に対抗するのは、再興して19世となった本因坊秀栄のみだった。

 2.16日、「秀元-田村保寿(先)」、ジゴ。
 「(坊)秀栄-大澤銀次郎(2子)」、大沢2子局勝ち。
 4.19日、「(坊)秀栄-安井算英(先)」、秀栄白番中押勝。
 5.4日、「本因坊秀栄-石井千治十番碁」開始。
5.4日 第1局「(坊)秀栄-石井千治(先) 秀栄白番6目勝
5.8日 第2局「(坊)秀栄-石井千治(先) 石井先番3目勝
5.13日 第3局「(坊)秀栄-石井千治(先) 秀栄白番4目勝
5.24日 (坊)秀栄-石井千治(先) 白番2目勝ち
6月 第4局「(坊)秀栄-石井千治 (先) 秀栄白番1目勝
6月 第5局「(坊)秀栄-石井千治(先) 秀栄白番1目勝
6月 第6局「(坊)秀栄-石井千治(先) 秀栄白番3目勝
7月 (坊)秀栄-石井千治(先) 秀栄白番10目勝
8月 (坊)秀栄-石井千治(先) 石井先番4目勝
8月 (坊)秀栄-石井千治(先) 秀栄白番勝
 5.17日、「(坊)秀栄-高橋杵三郎(先)」、秀栄白番中押勝。
 5.24日、「本因坊丈和五十年追福会」(江東「中村楼」)。
 「
安井算英-田村保寿(先)」、算英白番6目勝。
 6.21日、「(坊)秀栄-伊藤小太郎(先)」、秀栄白番4目勝。
 7.5日、「臥竜庵囲棋倶楽部」(芝公園)発会。「(坊)秀栄-関源吉(先)」、関先番8目勝。
 7.19日、「安井算英-田村保寿(先)」、田村先番中押勝。
 8.7日、時事新報に囲碁欄が創設された。これが「初めて新聞に囲碁欄創設」となった。「碁の栞」第一局として「安井算英6段-田村保寿4段」、田村先番中押勝ち。対局と田村保寿4段の対局評を掲載した。
 8.16日、「(坊)秀栄-安井算英(先)」、秀栄白番勝。
 9.20日、「秀栄-大沢銀次郎(先)」、秀栄白番13目勝。
 10.18日、「(坊)秀栄-田村保寿(2子)」、田村先番勝。
 11.15日、「(坊)秀栄-伊藤小太郎(先)」、伊藤先番中押勝。
 12.9日、光の碁採録名局「巌埼健造-田村保寿(先)」(高田邸納会)、打ち掛け。
 12.13日、「(坊)秀栄-中村正平(先)」、秀栄白番8目勝。
 12.20日、「安井算英-田村保寿(先)」、田村先番中押勝。
 12.20日、「(坊)秀栄-高橋杵三郎(先)」、高橋先番4目勝。
 この年、雁金準一が伊藤家を辞して方円社に入塾、中川亀三郎退隠とともにその内弟子となり、各地遊歴にも随行する。

 1897(明治30)年
 明治中頃になると、政財界の中枢が囲碁界を積極的に援助するようになる。方円社側に井上馨(いのうえかおる)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)、渋沢栄一(しぶさわえいいち)らが、秀栄側には大久保利通(おおくぼとしみち)、犬養毅(いぬがいつよし)、頭山満(とうやまみつる)らが有形無形の援助をした。新聞もそれぞれ囲碁欄が設けられ、これ以後の碁界は新聞囲碁を中心に展開することになる。

 「(坊)秀栄-石井千治(先)」戦が組まれいる。
1.17日 (坊)秀栄-石井千治(先) 石井先番中押勝
2.7日 (坊)秀栄-石井千治(先) ジゴ
5.23日 (坊)秀栄-石井千治(先) 秀栄白番2目勝
11.21日 (坊)秀栄-石井千治(先) 秀栄白番3目勝
 2.4日、「 秀栄-安井算英(先)」、黒番14目勝。
 「秀栄-安井算英第1次十番碁」が組まれている。
2.9日 第1局「(坊)秀栄-安井算英(先)
(高田邸)
算英先番6目勝
2.18日 第2局「(坊)秀栄-安井算英(先) 算英先番6目勝
2.28日 第3局「(坊)秀栄-安井算英(先)  算英先番5目勝
3.10日 第4局「(坊)秀栄-安井算英(先) 算英先番2目勝
5.12日 第5局「(坊)秀栄-安井算英(先) 秀栄白番5目勝
5.25日 第6局「安井算英-(坊)秀栄(先) 秀栄先番2目勝
6.8日 第7局「秀栄-安井算英(先) 秀栄白番3目勝
6.15日 第8局「(坊)秀栄-安井算英(先)」  算英先番5目勝
7.10日 第9局「安井算英-(坊)秀栄(先)」  秀栄先番11目勝
7.22日 第10局「秀栄-安井算英 秀栄白番中押勝
 3.21日、「安井算英-田村保寿(先)」、田村先番1目勝。
 「田村保寿5段-安井算英6段第1次十番棋」が組まれている。
6.30日 第1局「安井算英-田村保寿(先) 田村先番勝
7.13日 第2局「安井算英-田村保寿(先) 算英白番2目勝
7.22-29日 第3局「田村保寿-安井算英(先) 田村白番2目勝
 4月、田村保寿が5段に進む。
 6.20日、「(坊)秀栄-大沢銀次郎(先)」、大沢先番勝。
 7.18日、「(坊)秀栄-伊藤小太郎(先)」、秀栄白番1目勝
 8.8日、「(坊)秀栄-田中Masaki (3p)」、ジゴ。
 「田村保寿-土屋秀元十番碁」始まる。
8.10日 田村保寿-秀元4段(先) 秀元先番勝
9.26日 第1局「田村保寿-秀元4段(先) 秀元先番2目勝
9.30日 第2局「(坊)秀元-田村保寿(先) 秀元先番勝
10.5日 第3局「田村保寿-秀元(先) 秀元先番勝
10.9日 第4局「田村保寿-秀元(先) 秀元先番2目勝
10.23日 第5局「秀元-田村保寿(先) 田村先番8目勝
第6局「」
10.29日 第7局「田村保寿-秀元(先) 秀元先番勝
11.4日 第8局「秀元-田村保寿(先) 田村先番勝
11.5日 第9局「田村保寿-秀元(先) 田村白番勝
 9.19日、「(坊)秀栄-田村保寿(先)」、田村先番6目勝。
 10.17日、「(坊)秀栄-広瀬平治郎(2目)」、秀栄白番2目勝。
 「(坊)秀栄-高橋杵三郎(先)」、高橋先番4目勝。
 12.19日、日本四象会対局(第26期)「安井算英-田村保寿(先) 」、田村先番勝。
 この年、田村保寿が5段、雁金準一が2段に昇る。
 この年、石谷広策編「敲玉余韻」が刊行されている。本書は秀策の35年忌にあたって編纂・出版されたもので本因坊秀策の打碁100局を集めている。「耳赤の一手」として知られる弘化3(1846)年の秀策と11世井上因碩(1798-1859)との対局の棋譜も収録されている。

 著者の
石谷広策いしがやこうさく、本名は広二。1818-1906)は、古くから囲碁が盛んな安芸(現在の広島県)の能美島で生まれた。江戸に遊学し、13世本因坊丈策(1803-1847)に入門したが、そこには9歳年下の桑原秀策(のちの本因坊秀策)が先に学んでいた。広策は帰郷してからは地域の囲碁振興につとめるが秀策との親交は続いた。石谷広策には、ほかに秀策の棋譜を集めた「秀策口訣棋譜」もあり、そこで「先師碁聖秀策」と書かれたことが秀策を碁聖と呼ぶ発端となった。89歳の長寿を保って明治39年に没。

 1898(明治31)年

 2.20日、「(坊)秀栄-伊藤小太郎(2子)、秀栄白番9目勝。
 3.20日、「(坊)秀栄-大沢銀次郎(2子)」、秀栄2子局白番勝。
 3.22日、「広瀬平治郎-田村保寿(先)」、広瀬白番1目勝。

 この時、田村は5段、広瀬は3段。手合割は1段差の先相先。広瀬は田村より9歳年長で晩学。10代後半まで大阪で新聞編集、20歳を越えて上京し官庁に勤務。26歳で退官、翌明治25年、方円社初段。後に方円社発行誌の執筆編集にあたり、大正9年、5代目社長に就任し、7段に進む。昭和8年、日本棋院から名誉棋士の称号を受け、昭和15年、田村と同年に没。
 3.27日、「岩崎健造7段-田村保寿5段(先)」、打ち掛け。
 3月、本因坊秀栄が実力抜きん出るに至って8段に進む。8段昇段披露会。
 4.17日、四象会対局(第30期)「(坊)秀栄-安井算英(先)」、算英先番4目勝。
 5.15日、「秀栄-田中Masaki (2子)」、秀栄2子局白番勝。
 「(坊)秀栄-石井千治」戦が組まれている。
6.14日 (坊)秀栄-石井千治(先) 秀栄白番勝
6.15日 (坊)秀栄-石井千治(先)」 秀栄白番中押勝
?「秀栄-石井千治」 秀栄白番2目勝
7.17日 (坊)秀栄-石井千治(2子) 千治2子局勝
 「(坊)秀栄-安井算英第二次十番棋」が組まれている。
6.13日 第1局「(坊)秀栄-安井算英 秀栄白番中押勝
6.23日 第2局「秀栄-算英(先) 秀栄白番中押勝
6.30日 第3局「(坊)秀栄-算英(先) 秀栄白番1目勝
7.8日 第4局「(坊)秀栄-算英(先) 秀栄白番中押勝
10.30日 第5局「(坊)秀栄-算英(先) 秀栄白番中押勝
11.25日 第6局「(坊)秀栄-算英(2子) 秀栄2子局白番中押勝
12.2日 第7局「(坊)秀栄-算英(先) 算英先番3目勝
12.8日 第8局「(坊)秀栄-算英(2子) 秀栄2子局白番中押勝
12.13日 第9局「(坊)秀栄-算英(先) 白番中押勝
12.22日、 第10局「(坊)秀栄-算英(2子) 算英2子局勝
6.19日 田村保寿-安井算英(先) 算英先番4目勝
10.24日 安井算英-田村保寿(先) 田村先番勝
 10.16日、「(坊)秀栄-田村保寿(先)」、ジゴ。(於/本因坊秀栄宅)

 「力戦に強い田村(後の本因坊秀哉)と、平明で明るい棋風の秀栄。両者の特徴が表れた興味深い一局」。秀栄は明治中期の第一人者で、定先は田村一人、他は先二以下に打ち下げるという囲碁史に空前絶後の記録を遺している。
 「(坊)秀栄-大沢銀次郎(先)」、大沢先番勝。
 11.20日、「(坊)秀栄-伊藤小太郎(先)」(「(坊)秀栄-伊藤小太郎 (先)」)、秀栄白番9目勝。
 11.27日、広瀬平治郎の4段昇段披露会(「日本橋倶楽部」)。
 11.27日、「(坊)秀栄-石井千治(先)」、秀栄白番1目勝。
 12.18日、「(坊)秀栄-雁金準一(先)」、雁金先番3目勝。
 12月、高崎奉策「囲碁寄手録」出版。  
 この年、神戸新聞で最初の新聞碁が開始される。1885(明治18)年3.10日の読売新聞が本因坊秀栄対村瀬秀甫戦を掲載するなど、明治10年代ごろから新聞紙面に棋譜が現れる例があったが、神戸新聞の囲碁欄常設は先駆けとなり、明治末期の頃には朝日、毎日、読売など有力な日刊紙はもとより、地方紙にも定期的に棋譜が掲載されるようになった。
 新聞棋戦対局料が棋士の新たな収入源とった。時事新報の囲碁欄に大いに関わっていた矢野由次郎(生没年不明)の回顧によれば、本因坊秀栄時代の明治37年から40年ごろの対局料(手合料)は「一局25円―内評料7円、経費約3円、残金15円也。これが対局者両人の分け前であった」(矢野由次郎「棋界秘話」【586-208】)とのこと。現在でも新聞社はタイトル戦を持ち資金的に大きな役割を果たしている。秀栄没後、秀哉時代に至って、方円社社長の岩崎健造との共同要求の結果、一局40円以上に値上がりした。この頃の新聞掲載碁は微々たるもので、絶えず掲載していたのは時事新報と万朝報くらいのものであった。大正9年の広瀬社長時代に至って、又も坊社両派協定の上、三たび値上げを要求して一局60-70円に競り上げた。(「第2章 囲碁をめぐる制度」その他参照)

 1899(明治32)年

 1.15日、「秀栄-田中Masaki (2子)」、秀栄白番勝。
 1.20日、中川亀三郎が引退し、小林鉄次郎に代わって副社長となっていた元安井家門人の巌埼健造が3代目方円社長、石井千治が副社長となる。方円社が下谷区(現、台東区)徒町に移転する。 
 2.19日、「秀栄-広瀬平治郎 (2子)」、広瀬2子局4目勝。
 3.19日、「秀栄-伊藤小太郎(2子)」、伊藤2子局9目勝。
 「田村保寿-安井算英」戦が組まれている。
4.16日 田村保寿-安井算英(先) 算英先番2目勝
12.3日 田村保寿-安井算英(先) 算英先番8目勝
12.17日 安井算英-田村保寿(先) 田村先番勝
12.20日 田村保寿-安井算英(先) 算英先番5目勝
 8.20日、「秀栄-安井算英(先)」、秀栄白番勝。
 中川亀三郎8段に昇進。
 8.26日、「読売新聞」紙上で初の囲碁電信手合。「東京の巌埼健造(方円社長)対大阪の泉秀節(大阪方円分社長)」。
 10.15日、「秀荣-田村保寿(先)」、田村先番勝。
 「秀栄-石井千治(2子)」戦が組まれている。
11.12日 秀栄-石井千治(2子) 石井2子局勝 
12.10日 「秀栄-石井千治(2子)」 石井2子局中押勝
 12.17日、「秀栄-広瀬平治郎(2子)」、秀栄2子局白番勝。
 この年、雁金準一2段が日下義雄に従い1ヶ月渡韓。京城の高手で中枢員議官の白南奎という者と対戦、四子(朝鮮ルールの二子)にまで打ち込んで「神童来」と言われる。

 1900(明治33)年
 治安警察法公布。政友会結成。

 1.18日、「安井算英-田村保寿(先)」、田村先番勝。
 2.18日、「秀栄-雁金準一3段(2子)」、雁金2子局2目勝。
 2月、石井千治が6段に昇進。
 3.18日、「田村保寿-(坊)秀元(先)」、秀元先番勝。
 4.1日、「秀栄-安井算英(先)」、打掛け。
 4.15日、「秀栄-石井千治(先) 」、秀栄白番中押勝。
 5月、田村保寿が6段に進む。
 5.15日、「本因坊秀栄-雁金準一3段十番碁」開始(高田邸)。
5.15日 第1局「秀栄-雁金 (2子) 雁金2子局3目勝
5.18日 第2局「秀栄-雁金(2子) 雁金2子局7目勝
5.23日 第3局「秀栄-雁金(先) 秀栄白番中押勝
5.28日 第4局「秀栄-雁金(2子) 秀栄2子局白番勝
6.3日 第5局「秀栄-雁金(先) 秀栄白番勝
6.8日 第6局「秀栄-雁金(2子) 秀栄2子局白番8目勝
6.18日 第7局「秀栄-雁金(2子) 雁金2子局勝
6.23日 第8局「秀栄-雁金(2子) 秀栄2子局白番2目勝
6.28日 第9局「秀栄-雁金(2子) 秀栄2子局白番7目勝
7.3日 第10局「「秀栄-雁金 (2子) 雁金2子局中押勝
 6.17日、「秀栄-伊藤小太郎(2子)」、伊藤2子局8目勝。
 7.7日、「秀栄-岩佐(2子)」、秀栄2子局白番8目勝。
 9.27日、「秀栄-岩佐ケイ(2子)」、岩佐2子局勝。
 7.15日、「安井算英-田村保寿(先)」、田村先番勝。
 10.15日、「秀栄-田村保寿(先)」、田村先番勝。
 10.24日、「秀栄-田村保寿(先)」、打ち掛け。
 8.19日、「秀栄-大澤銀次郎(2子)」、大沢2子局7目勝。
 9.16日、「秀栄-広瀬平治郎(2子)」、秀栄2子局白番4目勝。
 10.24日、安井算英(7段)昇段披露会(江東「中村楼」)。
 11.18日、「秀栄-安井算英(2子)」、秀栄2子局白番勝。
 12.6日、雁金準一が4段に昇進。
 この年、方円社でも、初段以上の名簿は全国で500人に達するなど、普及による興隆を果たした。
 この年5月、本因坊秀策遺譜「敲玉余韻」(石谷広策編)刊行。
 この年7月、方円社が「囲碁初学独習新報」発刊。

 1901(明治34)年

 1.20日、「秀栄-田村保寿(先)」、秀栄白番中押勝。(於/本因坊秀栄宅)
 2.4日、時事新報が「囲碁新手合」を掲載開始。第1回の「石井千治-広瀬平治郎」対戦掲載を開始する。続いて明治末までに朝日、毎日、読売新聞が囲碁の棋譜を掲載するようになる。明治37、8年の日露戦争後、同40年にかけて、名人本因坊秀栄の時代、新聞碁の手合料は1局25円、内訳は講評7円、雑費3円、残り15両を対局者二人で分ける。金額は評者に渡されて、各棋士にはその評者から手渡された。

 2.17日、「秀栄-雁金準一(2子)」、秀栄2子局白番勝。
 9.15日、「
秀栄-雁金準一(2子)」、秀栄2子局白番13目勝。
 3.30日、「石井千治-広瀬平治郎十番碁」開始。
 4.21日、「秀栄-大澤銀次郎(2子)」、秀栄2子局白番5目勝。
 5.12日、「秀栄-石井千治(2子)」、千治2子局10目勝。
 5.19日、「
秀栄-石井千治(2子)」、秀栄2子局白番中押勝。
 5.19日、「田村保寿-安井算英(先)」、算英先番2目勝。
 6.16日、「秀栄-広瀬平治郎(2子)」、秀栄2子局白番中押勝。
 7.21日、「秀栄-伊藤小太郎(2子)」、伊藤2子局7目勝。
 8.18日、「秀栄-安井算英(先)」、算英先番13目勝。
 10.17日、藤沢重五郎(藤沢秀行名誉棋聖の父)入段披露会(横浜「浜港館」)。
 10.17日、「秀栄-降矢沖三郎(2子)」、降矢2子局5目勝。
 12.15日、「秀栄-岩佐ケイ(金偏に圭)(2子)」、岩佐2子局5目勝。
 10月、林さの没。

 1902(明治35)年

 1.19日、「秀栄-田村保寿(先)」、秀栄白番中押勝。
 1月、方円社発行「囲棋新報」、261号より大判となる。
 3.16日、「秀栄-大沢銀次郎(2子)」、大沢2子局3目勝。
 4.20日、「秀栄-広瀬平治郎(2子)」、広瀬2子局勝。
 5.25日、大阪方円分社、設立15周年祝賀会。
 7.20日、「安井算英-田村保寿(先)」、田村先番勝。
 7.20日、「秀栄-石井千治(2子)」、石井2子局5目勝。
 10.19日、「秀栄-伊藤小太郎(2子)」、秀栄2子局白番3目勝。
 11.16日、「秀栄-雁金準一(2子)」、雁金2子局5目勝。
 この年、12.19日、高橋杵三郎6段、没(享年67歳)。

 1903(明治36)年

 1.18日、「秀栄-安井算英(2子)」、秀栄2子局白番勝。
 1.25日、「田村保寿-安井算英(先)」、打ち掛け。
 2.15日、「秀栄-石井千治(先)」、秀栄白番中押勝。
 5.17日、「秀栄-伊藤小太郎」、秀栄白番3目勝。
 8.16日、「秀栄8段-田村保寿(先)」、田村先番勝。
 10.14日、中川亀三郎通夜の席で連碁(広瀬平治郎、小林鍵太郎-岩佐ケイ(金偏に圭)、稲塩兼太郎)。
 11.20日、「岩佐ケイ(金偏に圭)-長野敬次郎十番碁」開始(赤星邸)。
 高部道平(たかべ どうへい)
 (1882年(明治15年)7月 - 1951年(昭和26年)10月19日)
 高部道平が田村保寿の紹介で本因坊秀栄に入門し、飛び付き四段を許される。本因坊門下において野沢竹朝とともに新聞手合などで活躍する。
 1月、さる33年以来刊行の小林鍵太郎編「囲碁全書」12巻(博文館)完結。
 この年、10.13日、初代方円社初代社長・中川亀三郎8段が没(享年67歳)。
 この年、10世安井算英が逝去する。これにより安井家が途絶える。
 この年、豊橋藩士高部栄太郎の三男として東京に生まれる。

 1904(明治37)年
 8月、日露戦争始まる。

 1.17日、「秀栄-広瀬平治郎(2子)」、広瀬2子局勝。
 4.17日、「四象会」最終手合(第102回)。高田民子が弟子の野沢竹朝を嫌ったことが理由で援助を断り、計102回続いた四象会は閉会となった。

 秀栄と高田民子反目の理由に、民子が秀栄の愛弟子の野沢竹朝との仲に横槍意見し始めたことがあった。これに関し、秀栄は次のように峻拒している。
 「いかに恩人とはいえ、芸道のことに嘴(くちばし)を入れるとはもってのほかのことだ。蒙った恩とは別のこと、芸そのものや自分の見識まで売り物にはせん」。(それっきり高田家へは行かず、妻のまき子に月謝を取りにもやらなかった。その後の秀栄の窮状を見かねて犬養毅、福沢捨次郎等が発起して創るのが「にほん囲碁会」になる)

 当時の十五銀行頭取園田幸吉氏が次のように述べている。
 「本因坊秀栄という人は、碁は強いが義理人情を知らぬ人だ。高田民子夫人に一方ならぬ恩顧を受けていながら、今は高田家へ足を踏み入れんといういうことだ。当銀行と高田商会とは関係が深いのだから、私が秀栄を会長とする日本囲碁会に入会しないのも当然のこと」。
 5.23日、「石井千治-雁金準一(先)」、雁金先番勝。
 7-10月、「本因坊秀栄-田村保寿二番碁」。時事新報の矢野由次郎の斡旋で「日本囲棋会」の設立が進められ、その設立準備会記念碁として秀栄と田村(先)の二番碁が行われた。
7.10日 秀栄-田村保寿(先) 秀栄白番1目勝
10.15日 「秀栄-田村保寿(先)」 秀栄白番中押勝

 秀栄が2連勝。これが秀栄最後の勝負碁となった。
 8.23日、「秀栄-雁金準一(2子)」、雁金2子局中押勝。
 10.14日、「秀栄-長野敬次郎(先)」、長野2子局中押勝。
 11.11日、「石井千治-雁金準一(先)」、白番勝。

 雁金準一が時事新報の敗退五人抜戦で、1901、02年に2回4人抜き、1904年に岩佐銈、伊藤小太郎、大沢銀次郎、中川千治、広瀬平治郎に勝って時事新報初の5人抜きを達成する。
 1.13日、安藤豊次(号は如意)制作、山田光(号は玉川)執筆「坐隠談叢」(ざいんだんそう)全5巻(自費出版)が刊行される。 
 5月、石谷広策編「秀策口訣棋譜」2巻(京都、合資商報会社)出版。
 3月、井上因碩14世(大塚亀太郎)没。

 1905(明治38)年

 安井算英、隠居の本因坊秀元らに加え、方円社を退社した田村保寿が本因坊入門、また石井千治、広瀬平治郎らも参加。
 2.13日、方円社が雁金準一を退社させる。雁金は院に入会する。方円社社長・巌埼と広瀬、石井が対立し、雁金が責任を取る形となって退社した。
 5.21日、「田村保寿-雁金準一(先)」、ジゴ。

 本局の講評は秀栄。ヨセの手順に雁金らしからぬ手順があり、呼び寄せ問いただして真相を知る。時事新報の担当記者だった矢野由次郎が後に「棋界秘話」で暴露したところによれば、「本局の対戦の打ち掛け中に田村保寿が7段に昇進」しており、その披露会を予定していたところから、敗局は何としてでも避けねばならなかった田村が雁金に猛烈に働きかけ、雁金が「ジゴならば」と妥協してのジゴである云々。さすがに秀栄はこれを見逃さなかったことになる。
 5.30日、瀬越憲作(十七歳)、阿部亀二郎4段と打つ(吹田、正覚寺)。
 8月、雁金が入会し秀栄門下となるとともに5段に昇段。
 8月、本因坊秀栄が「日本囲棋会」を創設。名誉会員に福沢捨次郎、犬養毅、渋沢栄一、岩崎久弥、武藤山治、三井元之助、有賀長文等を加え、豊川良平、高田民子らがいた(明治49.9月解散)。
 2月、関保翁3段(幼名は源次郎、後に父名を襲ぎ保兵衛)生没(享年77歳)。
 5.14日、泉秀節追善会(大阪市「静観榛」)。
 6.7日、14世井上因碩(大塚亀太郎)追善会(九阪市東区備後町「備一亭」)。
 この年、 萬朝報の黒岩涙香が新聞碁を通じて坊社を結びつけようと考え、「碁戦」という囲碁欄を設けて坊門と方円社の手合を交互に掲載し始めた。

 1906(明治39)年

 3.18日、方円社発起して「東北凶作同情碁会」開催(東京築地「同気倶楽部」)。
 5.20日、方円社移転(下谷区徒町2丁目より芝区愛宕山2丁目に)披露会(浜町「日本橋倶楽部」)。同日、巌埼健造(方円社長)8段に進む。

 6.19日、本因坊秀栄が、田村が定先を保っていた以外、他の棋士を先二以下に打ち込み、推されて9段昇段、名人に推挙された。これに異議を申し立て巌埼健造が争碁を申し込むも、田村保寿を代打ちに立てるとの申し分に苦笑して撤回する。

 6.24日、本因坊秀栄名人披露会(東京両国「伊勢平楼」)。
 「
田村保寿7段-雁金准一5段(先)」、本因坊秀栄名人立会いの下で打たれ打ち掛け。
 9月、伊藤小太郎、方円社を退社。
 6.18日、大沢銀次郎5段生没(享年63歳)。
 本因坊秀栄が、田村、雁金につき次のように評している。
 「現在の碁打ちで、手の見えるのは田村か雁金であろう。田村の碁は序盤に機略あり、中盤の戦闘力も強いから、当代彼に匹敵し得る者はあるまい。それ故に田村と打つ時は最初から用心してかからねばならん」。

 1907(明治40)年

 1月、雁金準一が6段に昇進。この披露会にて伊藤公より、「東西分局勢 黒白闘雌雄 坐看輸贏迹 賢愚老此中」の詩章を贈られた。
 2.10日、本因坊秀和の第二子即ち本因坊秀栄名人が自宅にて生没(享年56歳)。「お粥に湯を足して腹を膨らませた」という貧窮状態に健康を蝕まれていた秀栄は名人に昇った頃から喘息が悪化していた。法名日達、本郷丸山本妙寺に葬られる。秀栄が本因坊家を相続して以来、名人位に就位して並み居る棋士をなぎ倒して囲碁界を統一したが後継者を決めないままに死去した。

 但し、「新編坐隠談叢」は次のように記している。
 「(秀栄は死ぬ前に妻槙に向かって次のように言ったと云う) 田村は、我が亡き後、本因坊家の利益を図る者ではない。従来の行為にも極めて不遜なものがある。これに反して雁金は、気質も温柔、我の死後も能く尽してくれるだろう。今その技は田村に及ばないが、前途に見込みがある。本因坊家は雁金に相続させるが良い」。

 秀栄名人の囲碁史上の名言は次の通り。
 「碁では妙手が出るようでは駄目だ。平凡な手を打って勝てるようでなければいかぬ」。

 岩佐7段が次のように評している。
 「私は秀栄先生には2子で打ってもらったが、負かされてしまった。負けたのは、こっちの未熟の故で、敢えて不思議とするに足りないが、一つどうしても解せないところがある。秀栄先生と打つと、布石時代に現在の盤面で打ちたいところが二つできる。こちらは一生懸命自分の力で判断して、そのうちの一つを選んで打つのだが、そうすると先生は即座に他の一つの点に打たれる。さて先生に打たれて、よく盤面を見ると又打ちたい場所が二つできる。どちらにしようか、長考暫くにして一方を選ぶと、先生はやはり即座に今一つの方へ打って来られる。こっちばかり考えて、先生のほうはちっとも考えないんだが、それでどうも結果は自分の方がうまく行かない。しかもこちらは二目も置いているのである。碁の測り知れない深遠さに驚嘆すると同時に、秀栄の自ずから具わる偉大さに、より以上驚かされたもんだ」。

 秀哉は次のように述懐している。
 「秀栄さんが生きていたら、現在の私は先相先は打たれるだろう」。
 菊池晩香「本因坊秀榮傳 現代語訳」。
 徳川幕府は内戦をやめさせ、文化振興に努めた。文学芸術を奨励することによって、残存していた戦国の殺伐たる雰囲気を一掃しようとしたのである。これによって、多くの学問芸術が花開き、知識や技が競われるようになった。本因坊・安井・井上・林の四家は、囲碁で名を上げた。しかし幕府が崩壊して皇室が中興すると、人人は新しいことばかりを求め、古いものには見向きもしなくなった。そのため、江戸時代に花開いた学問 ・芸術は、もろともに衰退した。そのなかで本因坊だけは衰退せずに存続していた。これは、代代無敵の棋士を輩出した陰徳にもよるが、何よりも第十九世本因坊秀栄師が精妙な腕前をもっていたからに他ならない。

 第十九世本因坊は、名は秀栄、姓は土屋氏。第十四世本因坊秀和の第二子である。父親から早期教育を受け、もちまえの天才のゆえに、幼いときすでに初段となり、二十歳ころには五段に進んだ。そして、先祖代代の秘伝書を閲読して、血を吐くような努力を重ねていた。明治13年(1880年)、秀栄師は、村瀬秀甫(むらせ・しゅうほ)・安井算英(やすい・さんえい)らとともに方円社を創設し、囲碁の振興に努めたが、秀甫らと意見が合わず、いくばくもなく退社した。数年後、秀甫の死によって方円社は衰退したので、秀栄は第一人者として囲碁界の尊敬を集めるようになった。明治39年(1906年)、門人や友人たちが相談の上、秀栄に名人号を贈った。秀栄は三度辞退したが、四度目にはこれを受けた。名人とは囲碁の聖人という意味である。このとき秀栄は日本囲碁会の主宰の地位に就いている。しかし、明治40年(1907年)の春、病没した。享年は56。

 秀栄は潔癖な性格で、交際範囲はきわめて狭かったが、大久保利通内務卿とだけは親交を結んだ。大久保卿は、権力の中枢にありながらも権勢を誇ることなく、才能ある人人を招き、手を取り合って談笑する様子は、古くからの友人のようであった。それゆえに秀栄も心から大久保卿を信頼していた。あるとき大商人の某氏が、巨額の礼金を積んで秀栄を招こうとした。しかし、秀栄は、「私など、まだまだ未熟ですから」といって、断ってしまった。門人たちは不平をいった。「某氏は日本一の大富豪ではありませんか。某氏とお付き合いなされば、いくらでもお金が入ってきますのに。そうしたら本因坊家の名声も挙がりますし、われわれ弟子も、おこぼれにあずかれますものを」。秀栄は一喝した。「なにをいうか。大ばか者! 芸というものは一心不乱に打ち込めばこそ上達するもので、迷いがあれば廃るのだ。そして、大金があれば必ず迷うのだ。よく肝に銘じておけ!」。

 秀栄は浅草で、玉を使った芸を見たことがある。このとき秀栄は長いこと熱心に見入っていた。芝居がはねて、他の客は帰ってしまったが、秀栄は、じっとうなだれて考え込んでおり、まったく帰る素振りがなかった。「ここは、もう閉まりますよ」と人から言われて、秀栄はハッと我にかえった。「あの玉が、くるくると自由自在に変化する様子を見れば、玉の技も囲碁と同じではないかと思ったんだよ」。秀栄はこのようにいつも囲碁のことが念頭にあるので、食事の時には汁物の中に囲碁が見えるし、寝ているときには夢の中に囲碁が現れた。こうして瞬時も囲碁が頭から去ることがなかったのだから、師の囲碁が精妙無比なのは当然である。

 私はかつて秀栄師に囲碁を習ったことがある。師は、手取り足取り、子供を諭すように丁寧に教えてくださった。石の置きかたが軽率だと、大きな声で叱咤される。「いかんいかん。こんな悪手を打つようでは、万年稽古だぞ」。つまり、よく考えた上で石を置かなければ、万年稽古したところで上達しないということだ。師の高弟・田村保寿(たむら・やすひさ)は、私にこんなことを言ったことがある。「師匠は、三四個石を置いただけで、もう最後まで手を読みきってしまわれます。それで、敵のスキをついて疾風迅雷の攻撃をしかけられるのですから、相手はまったく手も足も出ないのです。私らなどは、たとい三度生まれ変わっても、とうてい師匠に追いつけるものではありません」。無敵の強さを誇る保寿にして、この言あるを見れば、秀栄師の腕前がいかに勝れていたか想像できるだろう。
 1907(明治40)年2月の秀栄死後、秀栄が後継者を指名することなく死去した為に本因坊位をめぐって継承争いが起きた。秀栄門下の最強者は田村であったが、秀栄は金銭に汚いなどの理由で田村を嫌い雁金を後継者に立てる意向があったと云われ、雁金準一6段派と田村保寿7段(後の本因坊秀哉)派が対立、後継の座を争う。実力第一の田村を推す派と、秀栄の遺志を優先して雁金を推す派に分かれ、田村派は秀栄の弟で前16世本因坊秀元、高部道平、野沢竹朝ら。雁金派には秀栄未亡人まき子や関源吉などがいた。
 3.27日、土屋秀元が20世本因坊再襲を新聞に公告した。「自分儀今般家名相続の為、再び起って第20世本因坊を襲名致し候。隠居第16世本因坊 土屋秀元」。
 6.10日、雁金準一を首班とする秀栄未亡人派は「敲玉会」を結成した(翌年5月解散)。会員は雁金準一、伊藤小太郎、関源吉、伊沢巌吉、都谷森逸郎。会友として内垣末吉、中根鳳次郎。
 7.8-8.16、24日、「田村保寿-(坊)秀元(先)」、田村白番勝。万朝報掲載。
 7.22日、「広瀬平治郎・伊沢厳吉十番碁」(催主・頭山満)開始。
 8.18日、本因坊秀元、田村保寿主宰の「囲碁研究会」が発会した。本因坊家(中央棋院)、方円社の旧勢力に加えて新しい会(六華会、裨聖会など)が旗をあげ、互いにしのぎをけずった。
 野沢竹朝が時事新報囲碁新手合で10人抜きする。1909年にも万朝報の勝ち抜き戦「碁戦」で12人抜き、1913年にも時事新報の勝ち抜き戦で5人抜きするなどの活躍で「常勝将軍」、「鬼将軍」の異名を取った。
 12.2日より、「田村保寿-中川千治(先)」、田村白番2目勝。(於/上野「伊香保」)

 中川千治は初め石井千治、丈和の実子中川亀三郎の養子となり、後に亀三郎を襲名し、第4代方円社社長となった。田村より5歳の年長。中川と田村は方円社と坊門の新鋭として何度となく十番碁を打っている。最初は明治28年で田村が定先、9局目に先相先に打ち込み、本局までの間に逆に中川定先まで打ち込まれている。

 本局は「日本及び日本人」誌の主催する第4次十番碁の第1局で、前後9日間を費やして打ち終えている。田村はこの十番碁で中川を先二に打ち込み、二子番も入れている。
 この年、中川家を継いで中川千治となっていた石井千治が方円社を退社する。

【本因坊20世秀元時代】

 結局、秀元が一旦本因坊20世に就いて、1年後に田村に本因坊を継がせることでこの事態を収拾した。「1907年の秀栄没後、秀哉と雁金準一の本因坊継承争いにおいて、秀栄の弟の秀元が一旦襲名し、次に秀哉に譲ったという経緯は、野沢の発案であったとも言われている」。

 9月、中川家を継いで中川千治となっていた石井千治が方円社三代目社長の巖崎と対立し、同社を退社、囲碁同志会を起す。

 9.30日、「日本囲碁会」解散、役員慰労会。「田村保寿7段-中川千治6段十番碁」(中川の先)開始。 坊門と方円社の一大決戦、大長考の末に終局の半劫まで読み切る。「一手八時間」として知られる。雑誌「日本及日本人」に連載、古島一雄、無署名で観戦記を書く。
 本因坊秀哉と中川千治の明治40年の対局

 また本因坊秀哉師は、中川千治師との対局で、大ヨセの段階であるが、白 148手を下すにあたり八時間の長考に及び、ついに終局にまで考案が及んだという。大ヨセの段階であれば、さもありなんと思いもするが、この碁も終局 277手である。

 黒147手H-02まで ハマ 黒0目 白0目
 ABCDEFGHJKLMNOPQRST
.1・------------●----・ 
.2|+○+●++◆+++○+○++●+| 
.3|++○●++○+○+○●+○○●+| 
.4|+○・●+●●○・+●○○○●++● 
.5|+++++●○○++●●+○●●+○ 
.6|○○○○++●○++++●○○●+| 
.7○●●●●●++++++●○●○++| 
.8|○○●+++●++++++●+○○| 
.9|+○●+++++++●++++○●| 
10|●●●○++○+・+++●+・+●| 
11|○●●+○+++++○++●+++| 
12○+○●+++++○++○++●+●| 
13|+○○○++○○++++○○●++| 
14|+○●+++●++●+++●○●●| 
15|+○●○○+●○○●++●+○○○| 
16|○●●●+●++○●++++○++| 
17|○●++++●+○+++●○+++| 
18○●●++●+●○+●+●+●○○+| 
19・-----●○○-----●●○-・ 

 日本囲碁大系18巻 P.96に、後年、本因坊秀哉師自らによる次のような回想談がある。
 「何でも百四十手あたりで自分が幾分よいかなとおぼろげに分かってきた。その時、中川のヒョイと出て来た手が、平凡のようで実は妙手段。その手に私の方では気がついていなかった。さあ打たれてから読み直すと、どうも形勢不明の局面。まず持碁一で、いくらか白の方がよいようにも思えるが、どうもはっきりしない。その手が打たれるまでは、2、3目勝っているつもりだったが、一時にむずかしくなってきた。それでその中川の手に対して、私の方では応手が三通りあるんだが、そのいずれを選ぶかは本局の勝負所。私は若い元気でこの難関を、腰をすえて読み切る決心をした」。

 終局の半コウまで読み切ったという。
 12がつ、頭山満、広岡浅子主催の「田村保寿―中川千治の第5次十番碁」始まる(雑誌「日本人」に連載)。中川が先二に追い込まれる。
 この年8.25日、小林鍵太郎、「囲碁雑誌」を発刊。
 この年 2.27日、橋本宇太郎。大阪市の天満北区北同心町の紙屋に生まれた。
 11.22日、前田陳爾(兵庫県)生まれる。

【本因坊21世秀哉時代】

 1908(明治41)年

 1.25-31日、「(坊)秀哉7段-(坊)秀元4段(先)」、秀元先番勝。
 1.18日、本因坊秀元が隠居し、本因坊を田村保寿に譲る。
 2.5ー19日、時事新報「(坊)秀哉-(坊)秀元(先)」、秀哉白番勝。
 2.10日、本因坊秀栄一周忌。
 2.27日、田村保寿、34歳の時、21世本因坊秀哉(7段)を襲名する。
 3月、「関西囲碁研究会」(略して「関西囲碁会」)結成される。10月、関西囲碁研究会機関誌「*」が創刊される。
 5.3日、雁金準一脱退し「敲玉会」解散。雁金、対局より遠ざかる。
 9月、本因坊秀哉が8段に昇進する。
 瀬越憲作が広島より上京。
 10.11日、本因坊秀哉襲名及び八段昇進披露会(日本橋区浜町「岡田」)が催される。
 1月、胡桃正見「方円新報」(後に碁界新報と改題)を創刊する。
 この年8.1日、斉藤賢徳著「改正囲碁名鑑」刊行。
 8.12日、広月凌(号は絶軒)雑誌「囲碁界」を発刊(「中央囲棋会」発行)。
 10.25日、関西囲碁研究会機関誌「棊」発行。主幹は安藤如意。
 この年10.7日、小林鉄次郎追善碁会(小林鍵太郎宅)。

【アーサー・スミス「The game of go, the national game of Japan」が米国で刊行される】
 1908年、 アーサー・スミス(Arthur Smith, 1870-1929)は米国在住の日本人「ナカムラモキチ」から囲碁を習い、コルシェルトの囲碁テキストを元にしながら新しい情報を加えて英語で書かれた「The game of go, the national game of Japan」を米国で刊行した。日本の囲碁を紹介する本書は、囲碁のルールや具体的な戦略を、そして定石について図を交えながら詳細に説明している。日本の囲碁について紹介した初めての英語本となった。序文には、“Go uchi wa oya no shini me ni mo awanu(碁打ちは親の死に目にもあわぬ)” の格言が記されている。チェスと囲碁を比較しながら囲碁の魅力が語られている。例えば、チェスはキングを中心にゲームが展開し、キングの勝敗がそのままゲームの勝敗につながるが、囲碁は盤上のいろんな場所で戦いが繰り広げられ、全体の動きが勝負を決める。また、囲碁特有の魅力として、勝敗が一気に逆転しうる”Ko(こう)”があり、チェスにない長所として、最初に黒石を置くことで、ハンデを簡単に、そして適切につけられることが挙げられている。

 1909(明治42)年

 1.30日、衆議院議員(有志)碁会。
 2.10日、本因坊秀栄三回忌(本郷菊坂町「本妙寺」)。
 新聞記者有志囲碁会(赤奴山王下「楠本亭」)。
 3.7日、田村嘉平の昇段(5段)及び京都方円分社長就任披露会。
 4月、「万朝報」主催敗退碁「碁戦」で野沢竹朝(4段)が12人抜き。
 5.3日、「中央新聞」が、淅川の「囲碁亡国論」を掲載。
 5月、石井千治が7段に昇段し、2代目中川亀三郎を襲名する。
 5.23日、野沢竹朝、高部道平、石井千治(2代目中川亀三郎)らが「囲碁同志会」(中川千治主宰)発会(上野「伊香保樽」)。石井が方円社に復帰する。1912(明治45).11月の解散まで続く。7月、機関誌「囲碁世界」創刊される。
 9.24日、中川亀三郎(旧名千治)、先代の7回忌及び2代目襲名披露会(浜町「岡田」)。
 10.3日、15世井上因碩(田淵米蔵)囲碁修業のため上京。瀬越 憲作が20歳で東京へ行き、少壮碁客血戦会を経て方円社に入社する。同年兵役の為、帰郷に際し鈴木為次郎3段との試験碁に先相先で4勝2敗とし、飛付3段を許され彗星の如く天才青年現ると当時大きな話題となった。
 12月、田村保寿與石井千治第4次十番棋首局「(坊)秀哉-石井千治(先)」、秀哉白番2目勝。
 この年、2.20日、井上保申「大日本囲碁解釈」出版(大野万歳館発行)。
 7.1日、「囲碁同志会」機関誌「囲棋世界」(関星月編集)創刊。
 この年、稲垣兼太郎著「新撰碁経 囲碁の礎」()1冊が刊行される。
 この年、1月、木谷實が父十作、母菊江の長男として神戸に生まれる。
  明治になって家元制度崩壊後、方円社の活動などによって棋士の活動が安定すると、朝鮮、中国、台湾などとの交流も行われるようになった。この年から翌年にかけて、高部道平4段が、朝鮮、満州を経て清国を訪問し、在留していた棋士中島比多吉初段が交流のあった段祺瑞の紹介で、当時中国最強であった張樂山、汪雲峰と向二子の手合で対局。続いて段祺瑞の友人の楊士琦が南京から呼んだ金明齋、林詒書、王彦青、陳子俊らにも向二子とした。この時まで中国では黒白2子ずつを盤上に置いてから対局開始する事前置き石制による対局が行われていたが、この時より日本で行われている初手から自由に着手する日本式自由布石法を取り入れるようになった。

 1910(明治43)年
 大逆事件起こる。日韓併合条約調印。

 1.1日、東京朝日新聞が「三十六段連碁」を連載開始。
 1.8日、万朝報が坊門と方円社の対抗戦を企画、「連合選手戦」の掲載開始。
 1.26日、大阪方円分社、東区広小路5番地に移転。
 1月、「神戸囲碁研究会」結成される。
 4.29日、方円社が芝桜川町2番地に移転する。
 4.29日、「中京囲碁会」(稲垣兼太郎主宰)発会する。
 7.23日、大町桂月、岩野泡鳴らが「文士囲碁会」開催。
 8月、大阪時事新報社が、箕面で第1回素人囲碁大会を開催する。昭和初年まで続く。
 11.6日、宇都宮に方円社出張所開設。
 11月、大阪方円分社、西区江戸掘下通り2丁目125番地に移転。
 この年、1.25日、「訂増・坐隠談叢」全3巻(「関西囲碁会」)出版。
 1月、本因坊秀哉が、明治時代の「時事新報」に掲載された懸賞詰碁120題を増補訂正して一巻にまとめ「新案詰碁死活妙機」(大野万歳館発行)として刊行。実戦形がそのまま出ているため相当のヨミが必要だ。深刻なヨミで一世を風靡した秀哉先生ならではの問題集。(「死活妙機」)
 1月、W・A・デハビランドが、英文囲碁入門書を出版。
 「二六新聞」連載『素人碁鑑』(秀栄・秀哉評)出版。

 1911(明治44)年

 1.15日、本因坊秀哉が、研究会「月曜会」開設。
 4.15日、「万朝報」の「東西対抗戦」で喜多文子3段が5人抜き。
 5.23日、「囲碁同志会」創立2周年祝賀会(上野「伊香保楼」)。
 7.23日、「少年奨励会」第1回開催を山王下「楠本楼」で開催する。
 10.8日、「秀策50年祭」(広島県因の島)。
 この年、高部道平が朝鮮京城に滞在し、翌1912年、台湾訪問して帰国。当時、中国は、黒白2子ずつを盤上に置き対局開始する「事前置石制」だったが、高部4段が初手から自由に着手する日本式の「自由布石」を伝え、この時から中国でも「自由布石」が取り入れられることになった。高部はその後も段祺瑞の招待で、1912年、15年、17年と訪中した。
 この年、軍神として崇められた乃木希典と東郷平八郎元帥が天皇の名代として二人がイギリス国王の戴冠式に出席している。二人の棋力はほぼ同等の「ザル碁」の域でしかなかったが、船旅中、毎日対局していたとの逸話が残されている。伊豆の「伊東東郷記念館」(静岡県伊東市渚町3番8号)の離れの座敷に東郷元帥愛用の碁盤と碁石が展示されている。別荘滞在中の東郷は趣味の釣りや囲碁を楽しんでいたと伝えられている。
 この年2.10日、「秀栄全集」2巻刊行(故名人秀栄棋譜保存会発行)。同書所収の「本因坊秀栄略伝」には「明治39年6月推されて九段に謄りここに棋聖の班に入れり」と記されている。
 10月、稲垣兼太郎主宰「中京碁会」創刊。

 1912(明治45)年

 3.10日、広瀬平治郎6段昇段披露会(浜町「日本橋倶楽部」)。本因坊秀哉のほか雁金準一も参加、雁金の対局復帰話題となる。
 3.14日、高部道平、台湾より帰国(前年11.26日、久しく滞在した朝鮮京城より渡台)。
 4.25日、「瀬越憲作-(坊)秀元(先)」、瀬越白番勝。
 5.24日、内垣末吉、昇段披露のため本因坊秀哉、中川亀三郎、土屋秀元以下、坊社両派三十余棋士を両国国技館の大相撲瑛五月場所に招待。
 少年棋士・小野田千代太郎が国民新聞の「敗退戦」で5人抜き。
 10.13日、井上因碩(田渕)6段昇段披露会を、神戸港倶楽部で開催する。
 この年、「大阪方円分社」及び「関西囲碁会」が西区京町掘に移転。
 「囲碁同志会」が東京市牛込区田町2丁目18番地に移転。
 この年「本因坊家世系及び免許鋸」初刊。





(私論.私見)