日本囲碁史考、道知以降から丈和まで |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).4.28日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで「日本囲碁史考、道知以降から丈和まで」の囲碁史を確認しておく。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
本因坊10世烈元時代 |
【寛政-文化期】 |
1800(寛政12)年 |
この年、坊)元丈が6段に進む。 安井7世仙知が中野知得(5段、25歳)を安井家の跡目とすることを願い出て許される。 |
1800(寛政12)年11.17日(翌1.1日)、御城碁。 | ||||||||||||
安井知得が御城碁に初出仕する。爾後、天保6年まで26局を勤める。 | ||||||||||||
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この年、加藤隆二郎(後の隆和)が尾州に生まれる。 |
【十一代将軍家斎の文化業績】 | |
2009.3.10、「◆国技・4 ◆カムイ 」参照。
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1801(寛政13)年 |
2.5日、享和に改元。 |
元丈、知得共に六段に昇段する。 | |
4.14日、「安井知得 - 服部因徹(先)」、105手完、因徹先番中押勝。安井家跡目となって26歳6段の知得を剛腕で崩した。(「安井知得 - 服部因徹(先)」、服部因徹の先番中押勝) | |
山本源吉(道佐)と鬼因徹(服部因淑)との互先21番碁が打たれ、源吉(道佐)が勝負勝ちして天下に名を挙げている。本因坊跡目と見られていた奥貫智策と文化6年、互先11局を打ち分けする実力を見せている。丈和とは文化10年の打ち掛け1局と文化13年8.27日の丈和先番中押し勝ちの1局がある。 | |
5.16日、「元丈-山本源吉(定先)」、元丈白番10目勝。 源吉(道佐)は1763(宝暦13)年、浜松生まれ。9歳の時、本因坊察元に才能を見込まれたが、上京したのは17歳。直ちに2段を許されている。3段を得て浜松に戻り、上京するたびに1794(寛政6)年4段、1803(享和3)年5段へと進んだ。元丈には先で6勝3敗1打ち掛けの勝ち越し。「坐隠談叢」は次のように評している。
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1801(享和元)年11.17日(12.22日)、御城碁。 | ||||||||||||
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11月、烈元から扶持下付願いが呈出されている。
烈元が、本因坊家の長格たるを意識し、先代察元以来の権威を継続保持するべく、他家ことに井上家から見れば不快に思われる熱意をもって、元丈の扶持を願っていることが分かる。結果的に奏功し、井上家の跡目春策の場合より1ケ月早まり、跡目となって足掛け5年目の正月、扶持を与えられることになった。 |
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この年、服部因淑「温故知新碁盤」2巻(青黎閣)出版。 | ||
この年、伊藤松次郎(後の松和、尾張名古屋)、阪口仙得(江戸)生まれる。 |
1802(享和2)年 |
1.12日、「坊)元丈-中野知得(先)」、知得先番中押勝。 | |||||||||||||||
2月、本因坊10世烈元、安井7世仙知が共に準名人(8段)に昇段する。烈元が三家を説いて、本因坊家の格式を強調し、元丈を部屋住み十人扶持、本因坊家元の跡目筆頭とす。井上因碩春策(59歳)が7段に昇段する。 | |||||||||||||||
4月―10月、「中野知得-坊)元丈(先)」対局が組まれている。
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7.19日、「中野知得-奥貫智策(先)」、知得白番3目勝。 |
1802(享和2)年11.17(12.11日)、御城碁。 | ||||||||||||
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「坊)元丈-奥貫智策(先)」、元丈白番10目勝。元丈と門下生奥貫智策との一局。 | ||||
この年、黒川立卓(後の服部雄節)が生まれる。 |
1803(享和3)年 |
「坊)元丈-中野知得」戦が組まれている。
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4.7日、「中野知得 -奥貫智策(先)」、知得の白番中押勝。 |
1803(享和3)年11.17日(12.30日)、御城碁。 | |||||||||
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この年、春、7世安井仙知(仙角)「烏鷺争飛集」2巻(名古屋、菱屋)出版。 |
3月、「観奔記」1巻刊行。「当流続選碁経」4巻(青黎閣)刊行。 |
この年、宮重丈策(元丈の実子、後の13世本因坊)が江戸に生まれる。 |
1804(文化元)年 |
文化文政時代には11世本因坊元丈(げんじょう)、8世安井仙知(せんち)、12世本因坊丈和(じょうわ)、11世井上因碩(いんせき)幻庵、11世林元美(げんび)等が活躍する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本因坊元丈(10世跡目)、安井知得(7世跡目)、共に上手(7段)に進む。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2.9日、「中野知得-山崎因砂(2子)」、因砂2子局11目勝。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1804(享和4)年、2.11日、文化に改元。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中野知得が諸氏と精力的に対局している。
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9.20日、「元丈-水谷琢順(先)」、元丈白番勝。 |
1804(文化元)年11.17日(12.18日)、御城碁。 | ||||||||||||
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この年、中川順節が生まれる。 | ||
この年9月、江戸囲碁史に名を残す井上幻庵(いのうえげんなん)を記す百田尚樹(ひゃくたなおき)/長編歴史時代小説「幻庵 上」(文藝春秋文春文庫、2020.8.10日初版)のP.25の入門譚を参照する。次のような逸話が伝わっている。
「幻庵 上」カバー裏の紹介文は次の通り。
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1805(文化2)年 |
年初より、「坊)元丈-安井知得(先)」戦が組まれている。
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閏8.17日、井上因碩7世(世系書換え後は8世)(因達)が生没する(享年59歳)。 | |||||||||
11.3日、佐藤春策(備後、32歳)が家督相続を許され、井上因碩8世因碩(世系書換え後は9世)となる。公儀から五十石百人扶持、肥後熊本細川様から五十人扶持、美濃大垣戸田様から十人扶持、越前福井松平様から二十人扶持を貰う。備後福山四代藩主、阿部伊勢守正倫が囲碁衆支配の寺社奉行・御老中で、春策をしばしば阿部家御屋敷に招く。 |
1805(文化2)年11.17日(翌1.6日)、御城碁。 | ||||||||||||||||
林鉄元2段(門悦の実子)が9世跡目となり御城碁に初出仕する。爾後文政元年まで12局を勤める。 | ||||||||||||||||
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林門入(門悦)の実子鉄元が林家跡目となる。 |
この年、太田南畝著「囲碁人名録」(「一話一言」に掲載)あり。有段者は本因坊門に烈元以下36名、安井門に仙知以下12名、井上門に因碩以下14名、林門に門悦以下2名の計64名が記載されている。 |
この年、林柏悦(後に柏栄・12世門入)が江戸に生まれる。 |
1806(文化3)年 |
4.10日、「中野知得-鈴木知清(2子)」、鈴木先番17目勝。 |
1806(文化3)年11.17日(12.26日)、御城碁。 | ||||||||||||
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12.10日、「坊)元丈-奥貫智策(先)」、元丈白番勝。 |
林元美(げんび)5段(水戸藩士の子として生まれる。9歳で碁を学び、11歳で本因坊烈元の目にとまる。12歳で入段。「水戸小僧」の異名をとる天才少年。本名は、舟橋源治)が京都へ遊びに行き、漢学者・畠中哲斎の娘を娶った。二人とも美男美女でお互いに惹かれあった。師の烈元は、元丈の跡を継ぐ可能性がある者が勝手に婚姻しては困ると云う理由で立腹している。 |
この年、白木助右衛門が信州塩尻に生まれる。 |
1807(文化4)年 |
【丈和の長坂猪之助との21番碁/13局まで】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
丈和が21歳の時、山形における「長坂猪之助との21番碁」で碁史に姿を現わす。安井門下の猪之助は段位2段だが実力は6段格とされた。この番碁で丈和(当時は葛野松之助)はわざわざ出羽国(山形県)鶴岡まで出向き、先から初め、第12局で先相先に打ち込み手合を直している。猪之助に勝ち越すことが昇段の条件になっていた。
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7.5日、「丈和-Oyama (2子)」、丈和2子局白番勝。 |
1807(文化4)年11.17日(12.10日)(12.15日)、御城碁。 | ||||||||
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川村知足「囲碁見聞誌」。本因坊丈和門下の著者が「因云棋話」に倣いまとめた棋界伝聞・実見録。「緒言」赤松渡は元高松藩士で後の初代高松市長、「緒言」書は方円社・村瀬秀甫、「序」友安盛敏は元高松藩士で国学者。著者は高松藩松平氏に仕える。1834(天保5)年に本因坊丈和門下、本因坊家の下谷車坂下稽古場に通う。明治元年に東京府を離れ帰郷。 |
この年、太田雄蔵が江戸に生まれる。江戸の商家に生まれる。「坐隠談叢」では横山町の商家、「白棋助左衛門手記」では本町の丁字屋という糸屋とされている。幼児から七世安井仙角仙知門下で学び、3歳下の安井算知 (俊哲)と競い合う。また安井知得8世(仙知)の二女を妻とした。 |
1808(文化5)年 |
【「長坂猪之助/丈和の21番碁」の14局から】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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10.27日、10世本因坊烈元が病気のため引退を決意、隠居願ならぴに跡目元丈の相続願を提出する。林門悦を添願人として寺社奉行/松平右京亮輝延に差し出した。
「談叢」は次のように記している。
11.6日、烈元、御城碁の期日切迫のため再度病気届並びに隠居願を出す。 |
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12.6日、(坊)烈元が、病により自身の隠居と元丈の家督相続の願書を申し出していたが許可される前に死去した。井上家、安井家、林家の協議で、烈元の死を秘したままとし、翌年3月に願書を認められた。 烈元は、本因坊家の格式を守るために、察元同様に出費を惜しまず、このため元丈の代では節約を余儀なくされた。門下には、船橋源治{林元美}、関山仙太夫、伊藤子元らがいる。御城碁は、1770-1804年まで」出仕し、46局の歴代最多。他三家の当主の林門悦、井上因達因碩、安井仙哲には好成績を残しているが、14歳年下の安井仙角仙知が台頭すると大きく負け越してしまう。このため8段昇段が仙知と同時となった。 |
1808(文化5)年11.17日(*日)、御城碁。 | ||||||||
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この年冬、舟橋元美が「碁経連珠」4巻(青黎閣)を出版する。 |
この年12.6日、烈元没(享年59歳)。元丈、その死を秘す。 |
1809(文化6)年 |
【本因坊11世元丈時代】 |
3.27日、烈元の隠居と元丈の家督相続許され、元丈が11世本因坊となる。3.29日、本因坊元丈が隠居烈元の病死を公表する。 | ||||||||||||||||||
「(坊)元丈-丈和(先)」戦が組まれている。
丈和が山形から帰り、師元丈と二子局を打つ。手合違いの強さで三連勝した。その後は同門で元丈の跡目と目されていた一歳年上の奥貫智策が最大の目標となり、安井仙知(大仙知)門下の十歳年少の桜井知達が良き稽古相手だった。 |
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8月、「奥貫智策5段-丈和4段(先)」戦が組まれている。
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11.9日、「山崎因砂5段-丈和(先)」、因砂白番8目勝ち。 |
1809(文化6)年11.17日(12.23日)、御城碁。 | ||||||||||||
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この年、6歳で井上家の外家である服部因淑に入門していた幼名・吉之助12歳が初段となり、師の因淑の元の名である因徹を名乗る。翌年服部家の養子となって橋本因徹から服部立徹(後の幻庵)と改名する。(以下「幻庵」とのみ記す) | ||||
この年秋、服部因淑が「沢貴・奕範(えきはん)」2巻1冊を出版する(名音量・永楽屋)。 | ||||
この年、山本道佐が「方円軌範」(四子から先までの布石)を著わしている。 |
【本因坊元丈と安井仙知の碁所争わずライバル物語】 | ||
18世紀末から19世紀初頭、本因坊11世元丈(宮重元丈)(1775-1832)と安井家8世仙知(知得)(中野知得)(1776-1838)の角逐時代を迎える。両者は1歳違いの良きライバル同士で少年時代からの大親友でもあった。享和、文化年間に活躍し、1788(天明8)年の元丈14歳、知得13歳時の対局(知得先番中押勝)から1815(文化12)年の御城碁まで約80局以上に及ぶ対戦を重ね、当時としては異例の数の棋譜が残されている(長らく77局とされていたが、その後新譜の発見で84局が知られている)。 両者対局の戦績は次の通り。手合は、当初は知得の先だったが、1790(寛政2)年の十番碁で知得5勝4敗1ジゴにより先相先に進み、1792(寛政4)年から互先になるも元丈5勝1敗1ジゴで先相先に戻りるも、知得5勝1敗でまた互先とし、その後はまったく互角の戦績となっている。77局の勝負内訳は、元丈黒番35局27勝6敗2ジゴ、白番6勝32敗2ジゴ打ち掛け2局、知得黒番42局32勝6敗2ジゴ2打ち掛け。知得黒番で5勝の勝ち越しだが知得の黒番が7局多いので優劣つけ難し。両者は終生の好敵手となり、戦績はほぼ互角、江戸期最高のライバルと謳われる。 元丈は位高く厚く打って攻めを得意とするのに対し、知得は対照的に地に辛く、堅実でシノギを得意とする碁で、いぶし銀とも呼ばれ、対照的な碁風だった。ヨセの名手としても知られる。本因坊丈和は、両者の対戦30番を調べ、著書「収枰精思」で、「双方一の不可なる手なく、全く名人の所作というべきもの17局(7?)に及ぶ」と称えている。坐隠談叢は、「この両人の所作ともに秀絶にして、その十二、三頃より両々相対して、豹虎いずれのまさるかを判ずべからず。世人をもって当代の双璧となす」と評している。七段、八段への昇段も同時であり、生涯のライバルにして戦国の信玄-謙信に例えられる江戸期最高のライバルと謳われる。 両者は盤上以外での争いごとを嫌った清廉な人柄で、「共に名人の位にありながら、両雄の技伯仲する故、共に八段に止まる」と評せられた。人品高潔、互いに名人の座を譲り合って二人とも碁所にならなかった話が残っている。名人の技量ありと言われながら名人とならなかった棋士として、後の井上因碩11世幻庵、本因坊14世秀和と合わせ「囲碁四哲」と呼ばれる。その後、丈和(じょうわ)-因碩(いんせき)の代になると一変して、碁所をねらって盤上以外での策略を双方が行いスキャンダルをひきおこすことになる。 丈和が元丈と知得との対局譜の内30局を著書「収秤精思」に収め、次のように評して推奨している。
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坐隠談叢が元丈の品格を次のように記(べた誉め)している。
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1810(文化7)年 |
正月元旦、「(坊)元丈-丈和(2子)」、打ち掛け。 |
1.13日、「丈和-佐藤Genjiro(先)」、不詳。 |
4.29日、「安井知得-丈和(2子)」、丈和先番14目勝。 |
5.31日、「安井知得-丈和(先)」、丈和先番14目勝。 |
6月、「葛野丈和-桜井知達(先)」、丈和の白番5目勝ち。桜井知達は桜井仙知(仙角)の門人。1796(寛政8)年生まれ。丈和より10歳年下。文化6年から9年までの3年間、両者の対局棋譜が残されている。知達は文化11年、19歳で夭折。 |
10.25日、「水谷琢順-丈和(2子)」、丈和先番14目勝ち。 |
11.4日、井上因砂5段が、26歳の時、家督相続を許され9世因碩(世系書換え後は10世)となる。 |
1810(文化7)年11.17日()、御城碁。 | ||||||||
井上因碩9世(因砂)が御城碁に初出仕、爾後文政5年まで11局を勤める。 | ||||||||
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橋本因徹が13歳の時、服部家の養子となり立徹と改名する。 |
夏、玄々斉主人編「碁経玉だすき」4巻(青黎閣)刊行。石原長山「碁経亀鑑」4巻(青黎閣)刊行。 |
この年5.8日、井上家当主の井上因碩8(9)世(春策)が生没(享年37歳)。井上家では跡目が決まっていなかった為、春策の死は公儀に伏せられた。井上因碩一門には鬼因淑と呼ばれた分家の服部因淑6段(49歳)が居たが本因坊、林、安井の三家から同意が得られなかった。そこで、1806(文化3)年に寺社奉行になっていた福山藩主阿部対馬守正精(34歳)の内々のご指示により、井上家高弟で水野和泉守様に従って肥前の唐津藩入りしていた山崎因済5段(26歳)を井上家跡目とし急ぎ江戸に下向させた。書類上は春策は8.8日没として、山崎因済を因碩(因砂)として7月に養子とし後式相続の願書を提出し、井上因碩9(10)世(因砂)が誕生した。但し因砂は5段であったために服部因淑が後見となった。丈和とは三局の棋譜を遺している。 |
この年、安井俊哲(9世算知)が江戸に生まれる。 |
赤星 因徹(あかぼし いんてつ) |
この年、赤星因徹が肥後国菊池郡に赤星四郎兵衛の十男として生まれる。幼名は千太郎。12歳の時、江戸へ出て井上因砂因碩に入門し、因誠と改名。15歳頃からは幻庵因碩の教えを受け、18歳で3段に昇り、幻庵の入門時の名前因徹を名乗る。1826(文政9)年、17歳の時に中川順節との順節先相先での12局があり打ち分けとなっている。1833(天保4)年、6段。天保5年、7段。関山仙太夫は著書で、因徹は7段なるも実力8段に近き井門の珍物、と評している。 同年の6月、7月に丈和と先で2局打ち、ともに打ち掛けながら黒優勢であった。また、この時期に幻庵と先で一日に4局打って因徹が全勝したため、幻庵は因徹に丈和との勝負碁を打たせることにしたとのエピソードが「坐隠談叢」にある。(なお、棋譜に残された限りでは、因徹の先による幻庵との戦績は天保3年から死の年まで5勝5敗である。井上幻庵因碩の跡目と目され、天保6年の松平家碁会において本因坊丈和と対戦して敗れた「吐血の局」は有名。26歳の時、夭逝する。 |
1811(文化8)年 |
2.6日、「奥貫智策-丈和(先)」、丈和先番8目勝。 | ||||||
3.14日、「(坊)元丈-奥貫智策(先)」、不詳。 | ||||||
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1811(文化8)年11.17日、御城碁。 | ||||||||
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この年、3月、山本源吉(道佐)が「方円軌範」を出版する。 |
林家11世元美が「碁経衆妙」を著わす。内容は全部詰碁で実戦に現れやすい基本的な死活の基本を集めている。易しいのが特徴で玄々碁経、官子譜、発揚論の問題も易しく作り直して入っている。「玄々碁経、官子譜、発揚論、碁経衆妙」の四書をもって囲碁必須史書とする。 |
1812(文化9)年 |
伊藤松次郎(12歳)が本因坊元丈の門に入り、丈和に随身する。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4.2-9日、「(坊)元丈8段-安井知得8段(先)」は155手完、安井知得の先番中押勝。知得の「ダメの妙手」の一局として知られる (「「知得のダメの妙手」(元丈-安井知得(先)、知得の先番中押勝)」) |
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この頃、丈和と碁界の頂点を競うこととなる11歳年少の恐るべき後輩服部立徹(後の幻庵)が迫ってきていた。服部立徹の養父は服部因淑。因淑はこの当時、碁界の宿老とも云うべき存在であった。家元ではないものの、若かりし頃「鬼因徹」と呼ばれた実力が認められ、長年にわたり御城碁に出仕している。立徹がかって「因徹」と名乗っていたのは、服部家の養子となる際、この父の前名を与えられたことによる。両者は初手合いの年に22局を重ね、文化12年まで年間十数局の対局を続ける。古今無双の丈和の豪力と盤上狭しと荒れ狂う立徹の怪力がぶつかり磨きをかけて行った。この頃の丈和はこれまでの遅れを取り戻そうとするかのように才能が開花し急上昇する。生涯対局は先二の手合から始まり先相先まで70局、幻庵の35勝28敗3持碁44打ち掛けとなった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4.15日、「丈和-幻庵(2子)」、幻庵2子局6目勝。両者初手合わせ。この時、丈和26歳、幻庵15歳。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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7月-8月、「奥貫智策-丈和」戦が組まれている。
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10月、「(坊)元丈-丈和(先)」、打ち掛け。 |
1812(文化9)年11.17日()、御城碁。 | ||||||
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この年初春、舟橋元美(後に林家11世)が「碁経衆妙」(ごきょうしゅうみょう)4巻(青黎閣)を出版する。 |
奥貫智策5段生没(享年27歳) | |
9.27日、元丈の跡目に据えられていた奥貫智策5段が生没する(享年27歳)。死因は不明。この頃、晩成型だった丈和はまだその他大勢の弟子の一人でしかなかったが、その後に急成長して12世を継ぐことになる。智策が丈和に与えた影響は大きい。僅か1歳の年長だが才能は早く開花し、丈和は常に後塵を拝していた。丈和が15、6歳の頃、一時碁を中断したことがあるが、智策との才能の差を見せつけられたことがあったかもしれないとの推理がある。 奥貫の棋譜としては、師の元丈と1802(享和2)年から文化8年までに智策先で13局(4勝7敗2打掛)。智策4段-丈和(葛野松之助)2段で享和3年から文化9年8月までの12局ある。文化6年から7年まで、丈和先で3勝3敗1ジゴ、同9年中に丈和先相先で丈和3勝1敗、白番で1敗となっており、智策に一日の長があったと見られている。 享和3年、智策19歳の時、浜松の山本源吉(道佐)に先相先1勝7敗で打ち込まれ定先へと打ち込まれている。その後、定先で5勝しているが、この時の敗局を恥じて大いに研鑽し、5年後に浜松の源吉宅を訪れ、互先11局をジゴ1局の打ち分けとして名誉を回復している。次いで1809(文化6)年3-5月に互先で5勝5敗1ジゴとした。安井門下で江戸詰め尾張藩碁所の鈴木知清と文化8年まで、知清の先ニ、先、先相先の101番があり、知清は後にこれを「對手百談」として刊行した。安井知得仙知とは享和2年から二子、先ニ、先の20番がある。他に井上幻庵因碩と二子局、水谷琢順と互先、片山知的との先ニなどがある。 「坐隠談叢」は次のように記している。
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1813(文化10)年 |
この年、斎藤銑之助(丈貞)、丈和と2子で7局、水谷琢順と2子7局、先番1局の譜あり。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
2月、この頃、服部立徹(幻庵)の養父である服部因淑宅を主として「丈和-立徹」対局が組まれている。恐らく鍛える目的で丈和を招いたものと思われる。
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10.16日、「山本源吉5段-丈和(先)」、。 |
1813(文化10)年11.17日(12.22日)、御城碁。 | ||||||||
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11.24日、門入(門悦)生没。鉄元2段が林門入10世として林家を継ぐ。 | ||||
12.24日、「水谷琢順-坊)丈和(先) 」、丈和先番勝。 | ||||
この年、吉益南涯が死去(享年64歳)。 |
1814(文化11)年 |
正月、7世安井仙知(51歳)隠居願いと、跡目安井知得の相続願を提出。翌文化12年に安井家8世を継ぎ、安井仙知を名乗る。その後元丈と同時に八段準名人に昇った。 | |||||||||||||||||||
「坊)丈和 -幻庵(先)」が組まれている。
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3.9日、「水谷琢順-坊)丈和(先)」、丈和先番勝。 | |||||||||||||||||||
3月晦日(みそか)、仙知隠居して仙角と号す。知得が安井家8世を継いで仙知と改める。 | |||||||||||||||||||
「服部因淑6段-丈和(先)」戦が組まれている。丈和が当時実力者として一目置かれていた服部因淑に先で立ち向かい4勝1持碁とする。
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丈和が元丈の跡目と目されたのか師弟対局が始められた。
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5月、「安井知得―服部立徹(幻庵)(2子)」、幻庵中押勝。 | |||||||||||||||||||
7.25日、「坊)丈和-幻庵(先)」、幻庵先番2目勝。 | |||||||||||||||||||
「坊)丈和-幻庵(先相先)」戦が組まれている。この年、この時、服部立徹(幻庵)は17歳、4段。葛野丈和は28歳、5段。二人の対戦は2年前に立徹の先二(先番と二子番を交互に打つ手合割)で始まり、1年前に定先、この年に先相先(3局ワンセットで、そのうちの2局が下手が先番の手合割)。
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1814(文化11)年11.17日、御城碁。 | ||||||||
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「(坊)元丈―服部立徹(幻庵)(2子)」、幻庵中押勝。 | ||||
服部立徹が、井上家に入る2ヶ月前、13歳のときの文化6年の奥貫智策との二子局から、19歳のときの同11年の葛野丈和との先番まで自身の打ち碁を98局、自評をつけた前例を見ない「奕図」(4巻)を刊行する。少年期の好敵手は「秀徹にしてその才智かつて及ぶものなし」といわれた1歳年長の桜井知達であったが、知達が18歳で早世した為に、11歳年長の丈和が芸道上、人生上の最大の目標となった。丈和との対局は1812(文化9).4月、丈和26歳4段、立徹15歳初段の立徹先二から始まり、以後二人が8段に昇るまでに68局が遺されている。立徹の二子で6勝3敗1持碁、先および先番で27勝18敗2持碁4打掛、白番は1勝6敗。二子番や先が多いことから丈和に一日の長が認められるが、最後の対局の頃には丈和の芸域に肉薄し、丈和も名人碁所を具体的に視野に入れ始めた頃から因碩との対局を避けるようになった。1814(文化11)年に9局、翌年に16局あったが、文化13年には2局と極端に減り、同14年には一局も遺されていない。14年は丈和の他の遺譜も極端に少ないために散逸したか、江戸を離れていたか、何らかの事情があったと思われるが、名人碁所を目指す丈和は幻庵との対局で支障が出ることを恐れていた。1818年(文政元)には4局、文政2年、立徹が跡目井上安節となり、丈和も元丈の跡目となってからはわずかに3局しかない。文政4年12月に打ち掛けて、1局はさんで翌5年9月に打ち継がれた1局が最後となった。文政7年に安節が10世(後に11世)因碩となり、文政10年に丈和が12世本因坊となってからは文政11年の打掛局のみとなった。 |
1815(文化12)年 |
2月―、「丈和-幻庵(先)」が組まれている。
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「(坊)元丈-丈和(先)」戦が組まれている。
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5.7日、「船?蛟??-丈和(先)」、丈和の先番中押勝。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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9月、丈和(29歳)が5段に進み、ようやく大器晩成の様相を呈してきた。
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1815(文化12)年11.17日、御城碁。 | ||||||||
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元丈と仙知(知得)が、双方家督相続後、初めて御城碁で顔を合わせる。両者(元丈と知得)ここまで2勝2敗1ジゴ。総対局数は80余局。戦績はほぼ互角で、囲碁史上最高のライバルと謳われる。共に名人・碁所の地位を望まず、19世紀の囲碁界発展の礎を創った。 丈和と林元美初手合。文政10年11.17日のお城碁が最終局で、丈和の4勝(うち白番1)1敗1ジゴ。 |
この年、3月晦日、仙知(大仙知)の隠居願と知得の家督願いが聞き届けられる。仙知は隠居(隠居後は仙角)、知得は安井家8世となり安井仙知を名乗る。 |
1816(文化13)年 |
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2.21日、「服部立徹(因淑)-丈和(先)」、ジゴ。 | |||||||||
3.3日、「安井知哲-丈和(先)」、丈和先番勝。 | |||||||||
3.16日、「山本源吉(道左)-丈和(先)」、丈和先番勝。 | |||||||||
4.11日、「丈和-石川新五右?? (2子)」、丈和白番13目勝。 | |||||||||
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4月、「坊)元丈-丈和(先)」、丈和先番7目勝。 | |||||||||
5.9日、「丈和-林門入(先)」、林門入先番中押勝。 | |||||||||
5.14日、「丈和-片山知的(先)」、丈和白番中押勝。 | |||||||||
8.27日、「山本道佐-丈和(先)」、丈和先番中押勝。 |
1816(文化13)年11.17日(12.22日)、御城碁。 | ||||||||
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林(鉄元)は9世林門悦門入の実子で10世林門入のこと。この年、家督を継いで門入と名乗った。10世林門入は1805(文化2)年に2段で御城碁に初出仕、爾来1818(文政元)年まで御城碁12局を勤め、その間に6段に昇進している。遺譜は御城碁も含めて44局あり、元丈とは4局ある。本局の他の3局は門入の2子番で、中押勝2局、後は1目勝。 | ||||
この年、閏11.14日、9世林門悦没(享年推定61歳)(門悦は門入を名のったかどうか疑問。また文化10年11.24日没という説もある)。 |
1817(文化14)年 |
元丈-丈和の師弟対局を評した関山仙太夫の言葉は次の通り。
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6.1日、「丈和-林門入(先)」、丈和白番中押勝 |
1817(文化14)年11.17日、御城碁。 | |||
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この年、夏、畠中鉄斎が「当世碁譜」を出版し諸方に贈る。その辞文に「碁のため豊口や多し」と逆説を弄したため安井仙知(知得)の激怒を買い、家元会議を経ての家元連盟で上訴され、これと論争した結果、揚屋入りとなる。但し、舟橋(林)元実が奔走し内済とす。 |
冬、安井仙知が「角定石」(写本)を編纂する。 |
1818(文化15)年 |
3.22日、「(坊)元丈-丈和(先) 」、丈和先番勝。 |
4月、「丈和-幻庵(先)」、ジゴ。 |
【文政-天保期】 | ||
文化文政時代には本因坊11世・元丈、安井仙知8世(8段)、本因坊12世・丈和(8段)、井上因碩11世(幻庵、7段)、林元美11世(7段)、服部因淑(7段、事実上の井上家の柱石)等が活躍した。天保・弘化・嘉永時代には、本因坊秀和、本因坊秀策があり、その他天保四傑と呼ばれる伊藤松和、安井算知、太田雄蔵、坂口仙得らが取り巻き、まさに黄金時代となった。 | ||
文政から天保にかけての時代、囲碁がますます隆盛した。旧「談叢」が次のように記している。
「元禄、文化文政の文化と碁の隆盛」が次のように記している。
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1818(文化15、文政元)年、4.22日、文政改元。 |
6.29日、「丈和-幻庵(先)」、幻庵先番勝。
服部立徹(後の井上因徹、幻庵)は、この文政元年当時、井上外家の服部家を継ぎ服部立徹と名乗っていた。この年、「丈和-幻庵」は凄まじい打ち込み碁を交わしている。11歳年上の葛野丈和(32歳)に対する21歳の新鋭、服部立徹との手合割は先二(3段差)から始まり、先(2段差)と進み、さらに先々先(1段差)にまで迫り、先に戻されている。幻庵は後の著書で、「21歳にて奥歯四本抜け申し候」と記している。
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7.25日、「丈和-船?蛟??(先)」、ジゴ。 | |||||||||||||||||
8.22日、「丈和-佐藤源次郎(2子)」、丈和白番8目勝。 | |||||||||||||||||
10月、「丈和-石原是山(先)」、ジゴ。 |
1818(文化15)年11.17日、御城碁。 | ||||
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この年、石谷秀吉(後に広策)が安芸国佐伯郡能美村に生まれる。 |
【丈和の修業時代】 | |
「坐隠談叢」(**年刊)が、丈和の修業時代について次のように記している。
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川村知足の「囲碁見聞誌」(明治17年刊)が、丈和の修業時代について次のように記している。
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(私論.私見)