日本囲碁史考、道策時代 日本囲碁史考、道策の碁所就任時代

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.26日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで「日本囲碁史考、道策の碁所就任時代」を記しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝 


本因坊4世道策時代

 1677(延宝5)年

 8.21日、「(坊)道策-林門入(2子)」、不詳。

【道悦引退、道策が碁所に就任】
 9.18日、3世本因坊道悦も「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」とし、公儀で決めた碁所に異議を申し立てた責任をとって自分の跡目を道策に譲り、名人碁所に推薦した上で引退した。道策の技量はこのとき既に道悦を上回っていたとされ、争碁後半で道悦が大きく勝ち越したのには道策との共同研究によるところが大きかったと云われる。推薦状には他家の主だったものとの対戦成績を記し、寺社奉行は他家に道策碁所の異議あるものを問うたが、誰一人として反対できるものがなかった。かくて3世本因坊道悦隠居願いが聞き届けられ、道策に党首の座を譲ることになった。

 道策は既に2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、安井知哲、安井春知に向先二、林門入に向二子の手合であった。当時の実力者たちを軒並みなぎ倒し、全て向先(ハンデの種類)以下にまで打ち込んでいた。この隔絶した実力により、四世本因坊・道策が碁所に任ぜられても異議を申し立てる者は誰もいなかった。道策の実力は13段と云われ、最強という評判通りの強さを見せていた。
 12.20日、33歳のとき、先に道悦の隠居願いを受け付けた月番寺社奉行太田摂津守資次が碁所会議のため碁方を招集した(算知は病気を理由に欠席)。摂津守はまず道悦、道策を呼び道策の家督相続を聞き届ける旨、申し渡した。次いで碁方一同と将棋所の大橋宗桂を列席させ、道策の碁技秀逸につき碁所に補せられる旨を申し渡した。かくて道策が4世本因坊となる。同時に名人の手合に進んだ。これを機に、江戸幕府は碁所を創設した。 

  道策の碁所拝命につき、「坐隠談叢」は次のように評している。
 「延宝5年12月20日、月番寺社奉行太田摂津守は、先に届出たる道悦の隠居及び碁所詮議の為、一同の棋士を招集し、(算知は病気欠席)先ず道悦、道策二人を呼び出し、道策の家督相続聞届けの旨を云い渡し、次いで一同の棋士及び例により証人として呼び出したる将棋所大橋宗桂を列席せしめ、道策碁技秀逸を以って碁所に補せらるる旨を云い渡し、同時に道悦隠居するも道策未だ若年につき、相変らず御城碁に出勤すべき旨を命じたり。然るに同日病気欠席したる算知方より来る24日の御城碁手合いを伺出しに摂津守は今回本因坊碁所仰せつけせれたる上は、その方の(口出し)入らざる儀なりと叱責し、別に本因坊に向かい手合組は23日までに山城守役宅まで推参すべしと命じたり」。
 道悦には道策の補佐として今まで通り出仕するよう命じた。追って京都に隠居し、道策は58歳で逝去したが道悦は92歳まで天寿を全うした。

【「道策の天下睥睨」】
 道策は、1677(延宝5)年から1702(元禄15)年までの26年間、碁所を勤める身となり、家元四家(本因坊、井上、安井、林)の上に君臨した。
 12.23日、御城碁の手合割り及び手合組を呈出する。名人を9段、名人・上手間の準名人を8段、上手(じょうず)を7段とし、以下2段差を1子とする段位制を確立した。これにより、6段以下初段までは、「上手に対して*子」という格付けされることになった。この段位制は1924年に日本棋院が設立されるまで使われた。段位制は剣道や柔道でも行われるが道策が始めた碁がはじまりと云われる。

 1677(延宝5)年12.24日、御城碁。
35局 (坊4世)道策-(安井3世)知哲(先)
 道策白番5目勝
(道策11局)
(知哲5局)
36局 (因碩3世)道砂-(林2世)門入(先)
 道砂白番13目勝
(道砂3局)
(門入3局)

 1678(延宝6)年 

 「(坊)道策-井上因碩(山崎道砂)」戦が組まれている。
1.12日 *局 (坊)道策-因碩(道砂)(2子) ジゴ
1.14日 *局 (坊)道策-因碩(道砂)(先) 道策白番14目勝
1.14日 *局 (坊)道策-因碩(道砂)(先) 打ち掛け(白番中押勝?)
1.17日 *局 (坊)道策-安井知哲(先) 道策白番5目勝
 1.20日、「(坊)道策-吉和道玄(2子)」、不詳。
 4.17日(家康命日)、(坊)道策に名人碁所の証文が下付される(道策が碁所証文頂戴する)。 。用紙は大奉書横紙で次のように記されている。
 囲碁秀逸の間、今般碁所仰せ付け下され候。向後手合い等、遂吟味指計ふべき者也。但し師匠道悦とは互先たるべき者也

 延宝六年四月十七日 
 大加賀守(書判)(大久保加賀守忠朝)
 土但馬守(同)(土屋但馬守数直)
 稲美濃守(同)(稲葉美濃守正則)
 酒雅楽頭(同)(大老酒井雅楽頭忠清)

 日付は徳川家康の忌日にちなみ4.17日付けとす。これが最初の碁所の証書となった。道策の碁所就任時に知哲が上手(七段)並との手合とされた。名人碁所についた道策は家元制の確立に力を注いだ。井上、林家は敵対する安井家とは違い本因坊家の系列であり、井上家には道策の実弟の道砂を三世井上因碩としてあてがい、跡目に桑原道節をつけた。また林家の二世門入から息子を託され三世としたが、これが碁に向かない性格で、結局道策の高弟の片岡因竹が四世を継ぐことになった。
 9.2日、「(坊)道策-福尾玄故 (2子)」、不詳。
 10.14日、「(坊)道策-因碩(道砂)(先)」、道策白番14目勝。実弟の3世因碩との碁。
 10.19日、「(坊)道策-东山朝寻坊(先)」、不詳。
 10.24日、「坊)道策-安井知哲(先)道策白番9目勝
        (「盤上の能力者/玄妙道策」)
 12.24日、「(坊)道策-安井知哲(先)」、不詳。

 この年、御城碁対局なし。


【2世林門入の長子、幼名/長大郎(後に林門人3世、玄悦(げんえつ))誕生】
 この年、2世林門入の長子、幼名/長大郎(後に林門人3世、玄悦(げんえつ))が生まれる。父は安井算知の門下であったが、病に倒れたときに、8歳の息子、長太郎を本因坊道策の人物を見込んで預け、林家相続を託した。貞享2年、二世門入の没後、三世門入を継ぎ、道策及び、道策の没後は四世井上因碩(道節)の教育を受けたが、弱気な「性格が災いして初めて御城碁に出場したときは18歳、このときは初段であった。その後、宝永元年まで御城碁7局を勤めたが、自ら才能の限界を感じて、家禄を本因坊道策の門下・片岡因的に譲り、隠居して玄悦を名乗った。

 1679(延宝7)年

 「(坊)道策-福尾玄故 (2子)」戦が組まれている。
1.14日 (坊)道策-福尾玄故 (2子) 不詳
4.3日 (坊)道策-福尾玄故 (2子) 不詳
11.22日 (坊)道策-福尾玄故(2子)

 1679(延宝7)年10.24日(11.27日)、御城碁。
37局 坊4世)道策-算哲2代(渋川春海)(先)
 道策白番3目勝
(道策12局)
(春海14局)

 途中、観戦者から「保井が勝つか」との囁きも出る好局で、終局後に将軍家綱から「双方、見事なり」の言葉を賜ったというエピソードが残されている。(詳細は「二世安井算哲(先)の対道策相手の御城碁、道策の3目勝ち」)
38局 (安井3世)春知-(因碩3世)道砂(先)
 道砂先番3目勝
(春知2局)
(道砂4局)

【(坊)道策名人-安井算哲2代(渋川春海)の生涯の対局考】
 安井算哲2代(渋川春海)は、御城碁を17局打っており、成績は2勝13敗1ジゴ、勝敗不明1局。そのうち11局が道策との対局で全敗している。これは不名誉ではなく、全盛期の道策の好敵手として屹立していたことを証する。

【2代目安井算哲(後に保井、更に渋川春海)考】
 2代目安井算哲(後に保井、更に渋川春海)履歴は次の通り。
 
 第1世安井算哲8段の長男で、その弟が3世安井を継いだ知哲。この算哲は道策より6歳年上。延宝2年に御城碁に初登場し、その頃25歳ぐらいと推量すれば、この対局時は34歳ほどであったことになる。

 天文学に識見あり。将軍綱吉に認められ、登用された。渋川助左衛門春海と名を改め、貞享暦の制定に功があった。天和3年の井上道砂因碩との御城碁を最後に碁界から去り天文方になり、翌貞享元年12月、新規250石を賜っている。天文学に一流の識見あり、将軍綱吉に認められて登用され、渋川助左衛門春海と名を改め貞享暦の制定に功を挙げている。

【渋川春海の「天球儀」考】
 2017.10.24日付朝日新聞デジタル「V6岡田さん主演映画で脚光 囲碁棋士がつくった天球儀」。
 本屋大賞に輝き、V6の岡田准一さん主演で映画化もされた冲方丁(うぶかたとう)さんの歴史小説「天地明察」。江戸時代の囲碁棋士で天文暦学者の渋川春海(はるみ)が、平安時代から使われてきた暦の誤りを指摘し、天体の運行に基づく日本独自の暦を作り出す物語だ。その春海が自作した「天球儀」が陰陽師ゆかりの大将軍八(だいしょうぐんはち)神社(京都市上京区)に保管されている。 © 朝日新聞 天の川や星座が描かれた天球儀=京都市上京区、佐藤慈子撮影

 宝物館(方徳殿)の2階に展示された地球儀のような球体がそれだ。春海が1673年につくった我が国最古の天球儀と同じ頃の作と見られ、和紙を張り子にした球面を天空に見立て、色分けした鋲(びょう)で星や星座などの位置が表されている。その数星座が377、星は1739個におよび、銀河は金砂子がまかれている。

 天球儀は、春海とともに改暦に尽力した土御門(つちみかど)家に仕えてきた皆川家に伝わり、他の天文関係の資料とともに1985年に神社へ寄進され、京都府の指定文化財となっている。この神社では、陰陽道の宇宙観を、星をつかさどる神像80体を並べて表現した「立体星曼荼羅(まんだら)」(国重要文化財)も公開され、天文ファンならずとも奥深い世界に誘われる。生嶌(いくしま)宏盛宮司(41)は「専門的な世界だが、その価値を知ってもらうきっかけになれば」と話す。(久保智祥)

 道策に太刀打ちできなかった春海は、その後を天文一途に向かい、1673(延宝元)年から1686(貞享3)年の14年間を二至二分の時刻の観測に向かい、貞享暦を結実させた。次のように評されている。
 「わが国において初めて独立した暦を製作したのは安井(渋川)春海をもって嚆矢とする。されば日本近代暦学の鼻祖は春海なりと言うも決して過言ではない」(荒木俊馬「日本暦学史概説」)。

 1680(延宝8)年

 5.5日、「坊)道悦-(坊)道策(先)」、不詳。
延宝年間 (坊)道策安井知哲(先) 不詳
(坊)道策安井知哲(先) 不詳
(坊)道策-安井知哲(先) 不詳
(坊)道策-安井知哲(先) 不詳
 この年、お城碁の記録なし。

【五代将軍綱吉考】
 1680(延宝8)年、五代将軍綱吉就任。その履歴概要は次の通り。

 1646(正保3).1.8日、3代将軍・徳川家光の四男として誕生。幼名は「徳松」。生母は本庄(ほんじょう)氏桂昌院(けいしょういん)。1680(延宝8).5月、兄の4代将軍家綱の死後、5代将軍に就任。綱吉は将軍になるや譜代の門閥として幕政の実権を握っていた大老・酒井忠清を罷免し、綱吉の将軍就任を支持した老中・堀田正俊を大老とし、さらに老中同格の側用人(そばようにん)を創置した。この間、前代未解決であった越後(新潟県)高田藩の御家騒動を親裁して親藩の筆頭越後松平家を取り潰(つぶ)し、これを手始めに幕臣に対し賞罰厳明の方策を励行した。また直轄領統治の刷新に努め、財政専任の老中を設けて堀田正俊をこれに任じ、勘定吟味役を創置し、勤務不良の代官を大量に処分した。このような綱吉の初期の施政は「天和(てんな)の治」と称せられる。1684(貞享1)年、堀田正俊が城中で刺殺されてのちは、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)ら側近の寵臣の権勢が増大した。
 綱吉は幼少から儒学を愛好し幕臣に講義したり、全国に忠孝奨励の高札を立て孝子表彰の制度を設けた。生き物殺生、肉食禁止を旨とする「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を発布したところ、これが虐政と評され、世人は犬公方(いぬくぼう)とあだ名した。この頃、勘定奉行・荻原重秀(おぎわらしげひで)の建議で実施された貨幣悪鋳により経済界の混乱、物価騰貴を招いた。宝永(ほうえい)6年1.10日、天然痘によって死去した。法号を常憲院といい、墓は上野寛永寺(東京都台東区)。

 1681(延宝9)年9.29日、天和に改元。

 1681(天和元)年9.29日、「(坊)道策-坊)道悦(先)」、ジゴ。
 9.30日、「(坊)道策-坊)道悦(先)」、道策白番中押勝。師・道悦との師弟戦で師の大石を葬る(出藍秘譜)。
 11.9日、「(坊)道策名人-坊)道悦(先)」、ジゴ。

 1681(天和元)年12.22日(1.30日)、御城碁。
39局 (坊4世)道策-(安井3世)知哲(先)
 道策白番19目勝
(道策13局)
(知哲6局)
40局 (因碩3世)道砂-(林門入2世)門入(先)
 道砂白番13目勝
(道砂5局)
(門入4局)

 1682(天和2)年

 1.14日、「(坊)道策-小川道的(2子)」、道的2子局中押勝。
 対局日不明 「(坊)道策-小川道的(先)」、道的先番中押勝。

【俳聖・松尾芭蕉の囲碁の腕前】
 俳聖として知られる松尾芭蕉(ばしょう)は、1644(寛永21)年-1694(元禄7)年10.12日(陽暦11.28)の人。実は囲碁囲碁好きで、その実力も相当のものだった。芭蕉の千近い俳句(発句)には「碁」の字が入った句はない。付け句(連句)に二句ある。その一句は、俳諧七部集の一つである尾張の俳人たちと巻いた歌仙「冬の日」の中の連句(歌仙)の「道すがら 美濃で打ちける 碁を忘る」である。「野ざらし紀行」の一部の写本にある。「碁の工夫二日閉ぢたる目をあけて」。「碁譜を脳裏に焼きつけたり、棋譜を思い出すには相当の棋力がなければできない。紀行文「笈(おい)の小文」には、伊良湖崎を訪れる途中「碁石(白石になる貝)を拾ふ」と書いてある。また、芭蕉の俳諧(はいかい)観を伝えた「三冊子」(さんぞうし)に、芭蕉がある人の俳句を「碁ならば二、三目跡へ戻してすべし」と言ったことが載っている。藤沢秀行は棋士の勘で、"芭蕉の棋力は現在の県代表クラス〟と認定している。(「松尾芭蕉は、現在の県代表クラスの棋力があったという」その他参照)

【道策と琉球国の親雪上浜比嘉(べいちん・はまひか)との4子局譚】
 親雲上濱比嘉(ぺいちんはまひか)
 江戸初期、琉球王国は薩摩藩の支配下にあり、島津光久の手配により当時琉球第一の打ち手であった親雲上濱比嘉は名人碁所であった本因坊道策と対局する。四子置いたが、道策のあざやかな捨石作戦に大敗を喫した。その後、もう1局打ちこれは濱比嘉の3目勝ちとなったが、こちらは道策が勝ちを譲ったようでもある。この2局によって濱比嘉は三段格の免状を授与された。
 1682(天和2)年、道策が、琉球人の親雲上浜比賀(ぺいちん・はまひか。親雲上は士族の称号)と4子で対局、打ち負かす。上手二子の免状を与える。

 琉球王/尚貞(しょうてい)(1669年~1709年在位)は相当な囲碁好きであったと見え、日本国内外に威名の高い本因坊四世道策(どうさく)のことを耳にして、琉球国中第一の名手、親雲上浜比賀(ぺいちん・はまひか。親雲上は士族の称号)と手合わせさせてみたいと思いたった。
当時、既に琉球は島津の藩属国になっていた。故に、島津家の島津光久を通じて「教えを乞いたい」と道策との対局を懇望し願い出た。囲碁の国際試合として、1559年(永禄2年)~1623年(元和9年)の頃、本因坊初代算砂(さんさ、法名日海)が朝鮮(韓国)随一の打ち手と言われた李礿史(りやくし)と3子置き対局し見事に負かしている事績が残されている。この算砂と李礿史との3子碁以来、時の最高位者は、3子を置かせて外人と対局するのが恒例となっていた。奉行が道策を呼び出し次のように意見を問うた。
 「薩摩77万石の申し出とあれば、むげに退けることもできぬ。だが道策、汝は官賜碁所である。万が一にも不覚をとれば申し開きが立つまい。ここは一番、適当な代人を立てるが無事ではないか」。

 道策は次のように返答している。
 「そのご懸念には及びませぬ。必ず打ち負かしてお目にかけます。手合い割のほどは4子と、さよう返答を願いあげます」。

 島津家では、「古来、外人は3子が恒例となっているが、今回の対局が4子というのは如何なる訳なのか。親雲上といえども相当の打ち手であり、万一本因坊において負けるとなると国恥ともなりかねないが」と言ったところ、道策は次のように返答している。
 「なるほど、初代は3子で対局されたが、本朝の囲碁は当時より少なくとも1子以上は進歩しています。異朝においてそれだけ進歩したとも思えないので、初代が3子ならば、私は4子で対局すべきと考えます」。

 これには次の事情があるようである。薩摩藩には道策の弟子である齋藤道暦と西俣因悦の二人がお抱え碁打ちとなっているため琉球の囲碁事情に明るかった。その情報により4子が妥当と判断したのではないかと云う。結局、奉行の老婆心的申し出を断り手合い4子で対局することにした。道策の侠気をも見るべきだろう。万一負けたら命が飛ぶ事態までありえたことを思えば。かくて、奉行は、道策は4子で対局する旨(むね)を島津家に伝えた。
 4.17日、「(坊)道策名人-ペイチン・ハマヒカ(4子)」(「本因坊道策-亲云上滨比贺 (4子)」)、道策4子局白番14目勝ち。
 薩摩藩の島津邸(松平大隅守殿?)で島津光久公臨席の上で打たれた。琉球第一の名手の親雲上は四子を置いては負けられない。一方、道策も官許碁所の名にかけても負ける訳にはいかない。という訳で力のこもった勝負が始まった。結果は、道策が随所に妙手を下し黒を翻弄(ほんろう)、14目の大差をもって浜比賀を破った。


 「坐隠談叢」(ざいんだんそう)の「四子 親雲浜比賀ー本因坊道策」の爛柯堂(らんかどう)評は次のように記している。
 「下手に対すといえども無理なく、敵器量を知りて、趣向妙なり」。
 
 次のような評もある。
 「この碁では、道策は少しも無理な手を打たず、巧みに黒の虚を突いて優勢に導いている。また一面、道策のハメ手と伝えられるような手を繰り返し試みている。例えば、白5、7及び白27、29のツケ、また、白11、13の手は黒の形を重複させ、いわゆる凝り形にさせる手筋を使っている。『唐人(とうじん)の泣き手』と語り伝えられている手は白61のサガリである。黒60とオサエ込み、これで渡れるつもりが、白61と下(さ)がられて泣くに泣けないことになった。道策は、浜比賀を下手と見て侮らず、打ち方を緩めず十分に打ち回している」。

 濱比賀はもう一局を求め、今度は濱比賀が2(4?)目勝の1勝1敗となった。その後、浜比嘉の願いにょり、4.26日付けで「上手(7段)に2子(3段相当4段格)」の免状を与えた。棋所が外国人に免状を与えた初事例となった。浜比賀は帰国後、道策流の石立(いしだて)を取り入れ、琉球囲碁の発展に大きく貢献している。島津公よりこれへの謝礼として、白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壷を、濱比賀からは白銀10枚を贈られたという。

 5.24日、「
本因坊道策-亲云上滨比贺 (4子)」、不詳(道策4子局白番中押勝?)。

 (参考資料) 本因坊道策(木石庵)

 1682(天和2)年

 6.14日、「本因坊道策-自性坊(2子)」、不詳(道策2子局白番中押勝?)。

 1682(天和2)年12.20日(翌1.17日)(翌1.30日)、御城碁。
 道策門の星合八碩6段(17歳)が御城碁に初出仕。以後、元禄2年までに7局を勤める。
41局 (坊4世)道策-(算哲2代)渋川春海(先)
 道策白番15目勝
(道策14局)
(春海15局)
42局 (因碩3世)道砂-(安井3世)春知(先)
 春知先番7目勝
(道砂6局)
(春知3局)
43局 (林2世)門入-星合八碩(先)
 八碩先番4目勝
(門入5局)
(星合八碩初1局)
44局 (算哲2代)渋川春海-(因碩3世)道砂(先)
 道砂先番16目勝
(春海16局)
(道砂7局)
45局 (因碩3世)道砂-(林2世)門入(先
 道砂白番13目勝
(道砂8局)
(門入6局)

 12.22日、「(坊)道策名人-安井知哲(先) 」、不詳(道策白番中押勝?)。
 12月某日、道策は小川道的と互先2局を試み、打ち分けとなる。道的は16歳で本因坊跡目となり、19歳の時すでに師の道策と互角であったとされ、囲碁史上最大の神童といわれる。
「(坊)道策名人-道的(先) 道的先番1目勝
「碁聖対神童の局/玄妙道策」。
道的-(坊)道策名人(先) 道策先番1目勝
道策の道的相手の先番碁。
 他にも対局日不明ながら次の棋譜が残されている。

 「青木愚碩-(坊)道策名人(先)」、道策先番15目勝。
 「(坊)道策名人-正木主計(先)」、道策白番中押勝。
 「道砂因碩-春知(先)」、春知先番勝。

 1683(天和3)年

 1.28日、「坊)道策名人-井上因碩(道砂)(先)」、道策白番13目勝ち。(「奇想天外の局/玄妙道策」)。

 1683(天和3)年11.19日(翌1.17日)、御城碁。
46局 (坊4世)道策-(安井3世)春知(先二2子)
 春知2子局1目勝(277手まで)
(道策15局)
(春知4局)
47局 (算哲2代)渋川春海-(因碩3世)道砂(先)
 道砂先番16目勝
(春海17局)
(道砂9局)
48局 星合八碩-(林門入2世)門入(先)
 八碩白番3目勝
(星合八碩2局)
(門入7局)
49局 坊4世)道策(算哲2代)渋川春海(先)
 道策白番18目勝
(道策16局)
(春海18局)

門入2世-星合八碩(先) 八碩先番4目勝
因碩(道砂)-算哲春知(先) 春知先番7目勝

【道策と春知の闘譜】
 「(坊)道策-安井春知(2子)」につき、天和3年の道策が名人碁所になった延宝6年から5年後に当り、道策打ち盛りの頃となった。  
 (詳細は名棋譜「(坊)道策名人-安井春知(2子)」参照のこと) 

 春知は名人算知の弟と云われ他に実子、門弟とする説もあり不詳。延宝2年に御城碁に初登場し、その頃25歳ぐらいと推量すれば、この対局時は34歳ほどであったことになる。いったんは安井家の養子となったが37歳で病没している。
 道策は、この碁(「安井春知との2子局1目負の碁」)につき、自ら「道策一生の傑作」と述べ次のように評している。
 概要「(或る人、『先生が終身の勝利は、いずれの碁にて候ぞ』と問いしに、)されば、我が勝負の最高傑作は御城碁の春知(俊知)に一目負けし碁にて候。これをこそ、二度あるまじき様に思い候え。(『これは先生負け碁に候よ』、)さあれば、勝負は碁の主意には候えども、勝負も勝負、対手も対手によるものにて候。春知は当代の逸物にして古人に恥じず。また後来も稀なるべし。しかしてこの対局において、春知が手段、毎着妙ならざるはなかりしを、余もまた思いを究め、巧みを尽くし、一手の遅れを取らず対抗し、いささかの遺憾もなく打ち終わらせて遂に一目の負けにせしは、生涯の得意にこそ候え。自ら大いに誇りとするところにして、一生中また得られざる対局なり」。

 本局は棋界で次のように評されている。察元「一生中の出来」、元丈「一生のできばえ」。林家11世・林元美は本局をこう論評している。
 「黒70はぬるいと云う者もあるが、そうではない。後の120の強手を狙っていたのである。この手があっては白に勝ち目はないと道策も認めている。道策が真の碁聖であることに異議はない。しかしその道策でさえ、時に不十分な手が出るのはやむを得ないし、いわんや春知においてをや、だ。ところがこの碁には、双方ともに非難すべき手が一つもない。心から感服するばかりである」。

 「(坊)道策-道的(先)」、道的先番1目勝。
 対局日不明、「(坊)道策-桑原道節(2子)」、桑原道節(後の名人因碩)2子局中押勝。

 1684(天和4)年

【道策門下の五虎、六天王】
 元禄時代、囲碁が空前の黄金時代を現出した。道策門下には優秀な弟子だけでも30人を余しひしめき合うことになった。その中で特に優秀だったのは小川道的、桑原道節(後に井上家に入り名人井上因碩)、佐山策元、星合八碩熊谷本碩の「五虎」、それに吉和道玄を加えて「六天王」と云われ、当時の斯道の華と称せられた。他に境道哲、斎藤道暦、西俣因悦も揃い、晩年に神谷道知が現れた。
小川道的
(おがわどうてき)
13歳で6段の実力があったとされ、囲碁史上最高の神童、天才と謳われた。16歳で跡目となり、18歳の時、道策が試みに互先で打ったところ、共に先番1目勝ちになったという。22歳で早世した。
桑原道節
(くわばらどうせつ)
道策より1歳下。井上家の養子となり井上因碩、後に名人碁所となった。
佐山策元
(さやまさくげん)
道的死後の再跡目。家督を継ぐ前に没し、以後道策は死の床まで跡目を立てなかった。
星合八碩
(ほしあいはっせき)
1666(寛文6)~1692(元禄5)年(享年27歳)、伊勢国、津の生まれ。道策の五弟子の1人。八碩は津藩主藤堂家からの預かり弟子であり、碁方として御城碁に出仕する際は、本因坊の跡目ではなく、江戸中期に誕生する外家(家元四家以外で碁方を輩出する家系を指す)でもなかった。当時はまだ、家元制度が完全ではなく、個人的に出仕して扶持を賜るほうが主だった。14歳のときに碁方として認められたが、年齢が若すぎたせいか、御城碁へはその3年後1717歳から8年間7局を勤めた。八碩は、その後、藤堂家のお抱え棋士となり帰藩を許されたが、わずか1年後に27歳で没した。
熊谷本碩
(くまがいほんせき)
生没年不詳。武州(埼玉県)熊谷の生まれ。道策門下の五弟子の一人。7段上手格。御城碁への出仕もなかったため、経歴については伝わっていない。五弟子の中では末弟で、道策とは元禄10年に8局と、弟子の中ではもっとも多く棋譜が遺されており、3勝4敗1ジゴ。堅実で大局観に明るい棋風。1697(元禄10)年8.12日、道策と本碩の間で1日2局打れている。道策の五弟子の中では道策との対局が残されている数が最も多い。7局対戦して、うち6局までは序盤16手まではまったく同一の布石で、道策の研究手合の相手を務めたものと思われる。この対局のあった元禄10年頃までは本碩も元気であったようだが、道策の没する数年前に先立ったようである。
吉和道玄
(よしわどうげん)
生没年不詳。初め三世本因坊道悦の門下となり、道悦の隠居によって道策門下に移る。道策の五弟子に、道玄を加えて六天王とも称する。筑後の生まれで、六段となってから久留米藩に300石で召抱えられる。久留米藩有馬家は、道玄の7段上手への昇格を願い、道策はこれを許した。棋院四家以外のものが七段に昇段した最初の例となった(星合八碩の場合は死後7段を追贈されている)。

 南里与兵衛(みなみさとよへい)
 与兵衛の詳細は不明ながら、算悦・道悦・道策との棋譜が残されており、本因坊門と縁のある人物と思われる。坐隠談叢によれば、「寛文時代、杉村三郎右衛門と称し、明暦の間山崎源左衛門と改名、万治年間になると山家無三坊と号す」とある。杉村三郎右衛門も同じように算悦、道悦、道策と対局しており、同一人物であるかどうか定かではない。杉村は、算悦の本姓でもあり、何かの関係があるかもしれない。晩年、道策に白を持って打った碁もあり、坊門の長老であったのではないかと思われる。

 1684(天和4、貞享元)年2.21日、貞享に改元。

 4.23日、「(坊)道策名人-星合八碩(2子)」、不詳。
 10.15日、小川道的6段が道策の跡目となり、10.18日、御目見得した。この時、道策の筆頭弟子に位置していた桑原道節が「道的と争碁を打たせ、跡目を決めてほしい」と要求し、道策が拒否している。但し、弟の井上因碩3世道砂を引退させ、道節を井上因碩4世に仕立てる裁きで決着させている。跡目になってからの道的の棋技は、道策の力でも先の手合いを抑えることはできなくなった。19歳の時、既に師の道策と互角の力量であったとされ、囲碁史最大の神童といわれる。

 1684(貞享元)年12.16日(翌1.5日)、御城碁。
 天文方へ転出した算哲の代わりに(坊5世跡目)道的(16歳、7段)が御城碁に初出仕(16歳、7段)。
50局 (因碩3世)道砂-(林門入2世)門入(先)
 門入先番3目勝
(道砂10局)
(門入8局)
51局 (安井3世)春知-(坊跡目)道的(先)
 道的先番7目勝
(春知5局)
(道的初1局)
52局 (安井跡目)知哲-星合八碩(先
 八碩先番8目勝
(知哲7局)
(星合八碩3局)
53局 (算哲2代)渋川春海-因碩(道砂)(先)
 道砂先番16目勝
(春海〆19局)
(道砂11局)
54局 星合八碩-(林2世)門入(先
 八碩白番3目勝
(星合八碩4局)
(門入8局)

 坊)道的(先)に完敗させられた春知は、一般に他家の棋士の昇段には目くじら立てて反対するのが普通のところ、「道的6段は手合いが違う。7段に上げてもらいたい」と申し入れている。道策は、「道的の碁、まだまだ7段の芸ではない」と拒絶したが、春知は直接に奉行に談判して道的を昇段させている。以後、元禄2年まで5局を勤める。

 この年11.28日、2代目安井算哲(渋川春海)が将軍綱吉に新暦を献上。これが採用され「貞享暦」と名づけられた。12.1日(朔日)、算哲が碁役を免じられ、江戸幕府で初めての天文方(禄百俵)を命ぜられる。碁家としての算哲の家は絶える。

 1685(貞享2)年

 11.18日、「(坊)道策名人-星合八碩(2子)」、不詳(八碩2子局優勢?)。

 1685(貞享2)年11月晦日(12.25日)(翌1.20日)、御城碁。
55局 (坊跡目)道的-(安井3世)春知(先)
 道的白番3目勝
(道的2局)
(春知5局)
56局 (林2世)門入-星合八碩(先)
 八碩先番中押勝
(門入8局)
(星合八碩5局)
57局 (因碩3世)道砂-(林2世)門入(先)
 門入先番3目勝
(道砂12局)
(門入〆9局)
 門入がこの年の御城碁を最終局として死去する。

 1686(貞享3)年

 3.11日、2世林門入没。実子の長太郎(8歳)が跡式仰せつけられ3世門入となる。

 1686(貞享3)年12.19日、御城碁。
58局 (坊跡目)道的-(安井3世)春知(先)
 春知先番5目勝
(道的3局)
(春知6局)

 この年、本因坊道悦が退隠して京都に移り住んだ。
 春知はこの年の御城碁を最終局として死去する、とある。

 1687(貞享4)年

 1687(貞享4)年12.12日(12.14日)、御城碁。
59局 (因碩3世)道砂-星合八碩(先)
 八碩先番3目勝
(道砂13局)
(星合八碩6局)

小川道的-坊)道策名人(先)  道策先番1目勝、「師弟対局」
安井算知-牧野成貞(2子)  牧野2子局2目勝

 1688(貞享5)年

 9.23日、「(坊)道策名人-道的(先)」、道的先番中押勝。
 本因坊算悦/安井算知争碁六番碁は、1645(正保2)年から1653(承応2)年にかけて行われ、3勝3敗で勝負がつかず、算悦の死後に算知が碁所に就くが、その許可が下りたのが1668(寛文8)年の御城碁の二日前の日だった。この御城碁での算知の相手は算悦を継いだ本因坊道悦で手合割定先、この対局は持碁とするが、道悦は算知との争碁を願い出て、この対局を第1局として60番の争碁を打つことになった(実際は20番で終了)。これ以降の争碁では1局目だけが御城碁として打たれるのが慣習となる

 1688(貞享5)年、9.30日、元禄に改元。

 1688(元禄元)年12.12日(翌1.3)(翌1.14日)、御城碁。
60局 星合八碩-(因碩3世)道砂(先)
 道砂先番3目勝
(星合八碩7局)
(道砂14局)
61局 (安井3世)知哲-(坊跡目)道的(先)
 道的先番12目勝
(知哲8局)
(道的4局)
62局 安井算知-坊)道悦(定先)
 ジゴ 
(算知13局)
(道悦12局)
 この年、道策が京都寂光寺にて本因坊一世算砂の追善碁会を開く。名代は小川道的と道節因碩。道的は跡目として大きな期待をかけられていた天才だった。ところが21歳で夭折する。

 1689(元禄2)年

 1689(元禄2)年12.19日、御城碁。
63局 (因碩3世)道砂-星合八碩(先)
 八碩先番5目勝
(道砂15局)
(星合八碩8局)

64局 (坊跡目)道的-(安井3世)知哲(先)
 道的白番17目勝
(道的〆5局)
(知哲9局)

 (坊5世跡目)道的は、1684(貞享元)年から1689(元禄2)までの6年間、5局を勤める。御城碁歴は「(坊5世跡目)道的」に記す。
 八碩はこの年の御城碁を最終局として死去する。

【「碁好きの殿様」】
 「囲碁史物語」の「碁好きの殿様」を参照する。
 「囲碁を打つ大名は多かった。藩によっては御抱えの碁打ちがいる。道策の時代、碁が好きで強かったのが牧野成貞である。成貞は徳川五代将軍綱吉の側用人だった。綱吉の若いころ仕え、老中などとは比べものにならない権勢を誇った幕閣の中心人物である。後に柳沢吉保と対立し側用人の座を退くことになった。この成貞は道策や師の道悦と二子で打っている。ふつうのアマチュアが名人に二子というのはすごいことである。まあ、多少の手心は加えているだろうが。あるとき成貞は思った。自分が大名であるために手心を加えているのではないかと。そこで安井算知と打つことにした。成貞は本因坊門下となっている。争碁で道悦に負かされた算知が手心を加えるわけがないと思ったのである。二子で対局し成貞の二目勝ちとなった。この結果に成貞は満足したが、いくら争碁に負けた相手とはいっても、そこは恥をかかせるわけにはいかない。算知もそこはわかっています。これはこれで解決しましたが、この牧野成貞が活躍したことがあります。

 時は元禄年間の前半(1690年代)です。細川綱利(熊本藩主)が道策に相談をもちかけたところからはじまった。事情ははっきりしないが、綱利が家督相続に際して不手際があり、問題がおこった。細川家伝来の刀剣など家宝を公儀に没収されそうになった。へたをするとお家断絶になりかねなかった。そこで道策に相談をもちかけた。なぜ道策なのか。道策の生家山崎家は細川家との関係が深く、道策の母は綱利の乳母である。つまり道策と綱利は乳兄弟なのです。そういうわけで道策は動いた。とにかく金が必要。二世井上因碩(道策の弟)の家を抵当に三千二百両の金を借りた。これを細川家に貸した。三千二百両は現在のいくらぐらいになるかは詳しくはわからないが、少なく見積もっても三億ぐらいではないかと思われる。これは家の額だけではなく信用も含めての額であろう。なぜ本因坊家ではなく井上家の家だったのか。本因坊家は細川家との繋がりが深いため井上家の方も繋がりを強めておこうという道策の判断だった。これが後に井上家を救うことになるのだがそれは後述する。そしてここで牧野成貞が登場する。道策は成貞に事情を話した。成貞はその金を幕閣にばらまき、細川家のことを穏便にとりはかるよう根回しをした。この運動が功を奏して細川家はお咎めなしとなった。牧野家はこの後も碁界と深い関係を持ちます。明治維新の大立者で碁好きで知られる大久保利通の次男が牧野家の養子なる牧野伸顕である。この人物は現在の囲碁の総本山日本棋院の初代総裁である」。

 1690(元禄3)年

 8.3日、道策は道策の実弟である2世井上因碩(道砂、系図書き変え後は3世)と相談し、桑原道節(45歳)を道砂の養子とさせ井上因碩3世(道節)として跡目を継がせることにした。同月15日、御目見得。

 桑原道節は道策の1歳下で正保3年美濃大垣の生まれ。

 1690(元禄3)年12.8日(翌1.29日)、御城碁。
 この年より道節が道砂因碩の後継の井上家跡目として御城碁に初出仕する(45歳)。元禄14年まで10局を勤める。
65局 (安井3世)知哲-(道碩跡目)道節(先)
 道節先番6目勝
(知哲10局)
(道節1局)
66局 (因碩3世)道砂-星合八碩(先)
 八碩先番5目勝
(道砂16局)
(星合八碩7局)

 この年、「官子譜」が著わされる。これは、中国明の国手の(その時代の第一人者に与えられた称号)過百齢が集めた囲碁手筋を陶式玉によって編集・完成されたものである。石の死活、攻め合い、侵分(よせ)等の手筋を集大成している。
 この年5.7日、本因坊・道的、没(享年22歳)。
 この年、神谷道知(後に5世本因坊)生まれる。父は江戸本郷元町に住み御小人目付小頭役を勤めた十郎衛門。8歳で囲碁を始め、10歳で道策の門下となる。
 この年、林因長(5世門入)生まれる。

 1691(元禄4)年

 2.13日、「(坊)道策名人-大河内仪右卫门(4子)」、不詳。

 1691(元禄4)年12.23日(翌1.6日)、御城碁。
67局 安井3世知哲-(因碩跡目)道節(先)
 道節先番中押勝
(知哲11局)
(道節2局)

 1692(元禄5)年

 10月、佐山策元(18歳)が本因坊道策の再跡目となる。11.28日、御目見得。
 安井仙角(20歳)が算知家(知哲)の跡目を許され、11.28日、御目見得。

 1692(元禄5)年12.7日(翌1.12日)(翌2.9日)、御城碁。
 本因坊策元(安井跡目)古仙角が御城碁に初出仕する。以後、策元は元禄11年まで9局、仙角は享保18年まで35局を勤める。
68局 (安井3世)知哲-(坊跡目)策元(先
 策元先番13目勝
(知哲12局)
(策元初1局)
69局 (因碩3世)道砂-(安井跡目)古仙角(先)
 古仙角先番2目勝
(道砂17局)
(古仙角初1局)
70局 (安井)知哲3世-(因碩跡目)道節(先)
 道節先番中押勝
(知哲13局)
(道節3局)

 1月正月、星合八碩没(享年24歳)。

 1693(元禄6)年

 1693(元禄6)年11.26日(12.22日)(翌1.12日)、御城碁。
71局 (因碩跡目)道節-(安井3世)知哲(先)
 知哲先番1目勝
(道節4局)
(知哲14局)
72局 (安井跡目)古仙角-(坊跡目)策元(先)
 策元先番3目勝
(古仙角2局)
(策元2局)
73局 (因碩3世)道砂-(安井跡目)古仙角(先)
 古仙角先番2目勝
(道砂18局)
(古仙角3局)
74局 (安井3世)知哲-(坊跡目) 策元(先
 策元先番13目勝
(知哲15局)
(策元3局)

 1694(元禄7)年

 1694(元禄7)年11.26日(翌1.11日)、御城碁。
75局 (安井3世)知哲-(因碩跡目)道節(先
 道節先番5目勝
(知哲16局)
(道節5局)
76局 (坊跡目)策元-(安井跡目)古仙角(先)
 古仙角先番2目勝
(策元4局)
(古仙角4局)

 1月、「碁立手引鑑」(2冊)出版。版元は江戸日本橋南1丁日、須原屋茂兵徳。

 1695(元禄8)年

 1695(元禄8)年11.23日(12.28日)、御城碁。
 林門入3世(玄悦)初段(18歳)が初出仕している。以後、宝永元年まで7局を勤める。
77局 (因碩3世)道砂-(安井3世)知哲(先
 知哲先番9目勝
(道砂〆19局)
(知哲17局)
78局 (安井跡目)古仙角-(坊跡目)策元(先
 策元先番1目勝
(古仙角5局)
(策元5局)
79局 (因碩跡目)道節-(林3世)玄悦(3子)
 玄悦3子局5目勝
(道節6局)
(玄悦初1局)

 1696(元禄9)年

 6.6日、安井算知が正式に隠居し、安井仙角が知哲の跡目となり)算知家の家督を相続し安井家当主4世となる。

 仙角は延宝元年の生まれ、会津の人。算知、知哲の教えを受けた。元禄5年に知哲の跡目となり、お城後に出仕。元禄13年に安井家の家督を相続した。65歳、8段で没した。5世春哲と7世仙知が同じく仙角を名乗ったので、混同を避けこの5世春哲仙角を古仙角、旧仙角又は親仙角と呼んでいる。
 6月、道策の実弟で、2世井上因碩(道砂)没(享年推定45歳)。井上道節が3世因碩となる。
 7.11日、道節が井上家4世因碩を名乗る。

 1696(元禄9)年11.29日(12.23日)、御城碁。
80局 坊4世)道策-(安井跡目)古仙角(2子)
 古仙角2子局1目勝
(道策〆17局)
(古仙角6局)
 道知少年との争碁で有名な安井家4世仙角との対局。
 道策の御城碁はこの年の1696(元禄9)年までであり、相手が片寄っているとはいえ14勝2敗で、2敗はいずれも二子局で1目負けという圧倒的な成績を残した。
81局 (因碩跡目)道節-(坊跡目)策元(先)
 策元先番5目勝
(道節7局)
(策元6局)

82局 (安井3世)知哲-(林3世)玄悦(3子)
 玄悦3子局6(5?)目勝
(知哲18局)
(玄悦2局)

 1697(元禄10)年

 6.2日、「(坊)道策-高桥友碩(2子)」、不詳(道策2子局白番中押勝?)。
 6.6日、算知が隠居し、知哲が安井家3世となり継ぐ。
 「道策―道知門下の道喜」戦が組まれている。
6.6日 (坊)道策-小倉道喜(2子)
 道策2子局白番中押勝
6.6日 (坊)道策-小倉道喜(2子)
 不詳(道策の2子局白番中押勝?)
6.10日 (坊)道策-小倉道喜(2子)
 小倉2子局5目勝
道喜の雪辱戦。黒20から手を変えた。
6.28日 (坊)道策-小倉道喜(先)
 不詳
(坊)道策-小倉道喜 (先)
 「(坊)道策-熊谷本碩(先)」戦が組まれている。
6.21日 (坊)道策-熊谷本碩(先) 不詳(道策の白番優勢)
6.24日 (坊)道策-熊谷本碩(先) 不詳
6.26日 (坊)道策-熊谷本碩(先) 道策白番中押勝
(道策門下五虎の1人本碩との対局 )
8.10日 (坊)道策-熊谷本碩(先) 不詳
8.12日 (坊)道策-熊谷本碩(先) 不詳
8.12日 (坊)道策-熊谷本碩(先) 道策白番1目勝
(滋味あふれる名局/玄妙道策)
 「(坊)道策-镜道哲」」戦が組まれている。
7.20日 (坊)道策-镜道哲(先) 不詳
7.22日 (坊)道策-镜道哲(先) 不詳
7.25日 (坊)道策-镜道哲(先) 不詳 
7.26日 (坊)道策-镜道哲(2子) 不詳
 8.12日、御城碁「(坊)道策-因碩4世(策雲因節)(先)」、ジゴ。

 1697(元禄10)年11.20日(翌1.1日)、御城碁。
83局 (因碩4世)道節-(安井3世)知哲(先)
 道節白番中押勝
(道節8局)
(知哲19局)
84局 (坊跡目)策元-(安井跡目)古仙角(先)
 策元白番11目勝
(策元7局)
(古仙角7局)

 道策の碁として他にも次の棋譜が遺されている。 
 「(坊)道策名人-雛屋立甫(5子)」、道策白番中押勝。類見ない大技の決まった碁。
 雛屋 立圃(ひなや りゅうほ)
 (1595(文禄4)年 - 1669(寛文9)年)
 江戸時代初期の日本の京都で活動した絵師であり俳人でもある。姓は野々口(ののぐち)、名は親重(ちかしげ)。野々口立圃としても知られる。俗称として紅屋庄衛門、市兵衛、次郎左衛門、宗左衛門など諸説がある。絵師としては狩野派に属する。京都一条に生まれ、父の代に丹波国桑田郡木目村から京へ上り、雛人形を製造・販売していたため雛屋を称す。松永貞徳に俳諧、猪苗代兼与に連歌、烏丸光広に和歌を学び、尊朝流の書を能くしていた。絵画は狩野探幽あるいは俵屋宗達に学んだとも、また土佐派を学んだともいわれるが未詳である。土佐派を基調にし、宗達流の墨法を交えて立圃独自の俳諧趣味を加味した古典画題の作品、墨画、風俗画、俳画、奈良絵本などと多方面に画作を残した。1631(寛永8年)7月、『誹諧口五十句魚鳥奥五十句草木』を纏めて貞徳に認められ、1633(寛永10)年、『誹諧発句集』を上梓した。この作品は『犬子集』と並んで貞門の句集として名高い。以降、多くの句集を出している。1636(寛永13)年、俳諧論書『
はなひ草』(「花火草」「嚔草」とも記す)を刊行している。これは、江戸時代初期の史上初めて印刷公刊された俳諧の式目・作法の書として、俳諧および俳句の世界では極めて重要な位置付けにある。1661(万治4)年、源氏物語のあらすじを書いた『十帖源氏』を著し作画している。なお、この頃の仮名草子の多くを立圃が書いたともいわれるが詳細は未詳である。他に奈良絵本『文正草子』、『俳諧絵巻』3巻(天理図書館所蔵)の作画もしている。俳文や紀行文なども多く手がけたようで、後に江戸に下ったりする間に弟子を増やした。晩年は俳諧をして備後福山藩の水野家に仕えた。寛文の頃に執筆、刊行した版本に『休息歌仙』、1665(寛文5)年のものに『小町躍』があり、ほかにも多くの版本を手がけている。1669(寛文9)年、京都で没す(享年75歳)。法名は松翁庵立圃日英。画の門人に実子の生白(号は鏡山)がいる。

 囲碁もたしなみ「雛屋立甫」名での棋聖
本因坊道策との五子局戦が棋譜として残されている。(「ウィキペディア(Wikipedia)雛屋立圃」その他参照)
 対局日不明「(坊)道策名人-境道哲(2子)」、道策白番中押勝。門下の上手格道哲との2子局。

 1698(元禄11)年

 1698(元禄11)年11.20日(12.21日)(翌1.1日)、御城碁。
85局 (安井3世)知哲-(坊跡目)策元(先)
 策元先番8目勝
(知哲20局)
(策元8局)
86局 (因碩4世)道節-(安井跡目)古仙角(先
 ジゴ
(道節9局)
(古仙角8局)
87局 (坊跡目)策元-(安井跡目)古仙角(先)
 策元白番11目勝
(策元9局)
(古仙角9局)

 この年、神谷道知(9歳)が本因坊家へ入門している。

 1699(元禄12)年

 9.12日、算知2世と道悦争碁第4局「安井算知2世名人-(坊)道悦(先)」、和棋(ジゴ)。

 1699(元禄12)年11.20日(翌1.9日)、御城碁。
88局 安井3世知哲-(因碩4世)道節(先)
 道節先番中押勝
(知哲21局)
(道節10局)
89局 (安井跡目)古仙角-(林3世)玄悦(2子)
 2子局ジゴ
(古仙角10局)
(玄悦3局)

 この年、知哲がこの年の御城碁を最終局として死去する。
 この年、本因坊跡目の策元没(享年25歳)。
 本因坊4世道策の門下には道的、道節、策元、本碩、八碩の五人の秀才が控えていたが、後に井上家を継いだ道節を除いて全て夭折した。後事を託すにたる弟子はまだ育たず、50歳を過ぎた道策は読経にふけることが多くなった。その悲運の道策の最後の弟子として登場するのが道知である。

 1700(元禄13)年

 5.11日、安井知哲が没(享年57歳)。京都寂光寺に葬られ、法名は理心院知哲居士。7.11日、1692(元禄5)年に跡目としていた安井仙角が安井家四世を継いだ。

 1700(元禄13)年11.20日(12.29日)(翌1.9日)、御城碁。
90局 (安井4世)古仙角-(林3世)玄悦(2子)
 古仙角2子局白番1目勝
(古仙角11局)
(玄悦4局)
91局 安井仙角(4世古仙角)-林門入(3世玄悦)
 古仙角白番中押勝
(古仙角12局)
(玄悦5局)
92局 (安井3世)知哲-(因碩3世)道節(先
 道節先番中押勝
(知哲〆22局)
(道節11局)

 元禄年間「(坊)道策-桑原道節(2子)」、道策白番中押勝。
 この年、 本郷元町に住み、御小人目付小頭役を勤めた十郎衛門の息子の神谷正之助が10歳の時、道策の下へ入門してきた。門弟と打たせてみると、天賦の才がうかがわれた。道策はただちに大才なりと見抜いた。この子以外に本因坊家を背負う者はいない。名も自分の一字を与え、道知と名乗らせた。道知は期待に応え、2年余で道策に2子で打てるまでになる。

 1701(元禄14)年

 道策は死の直前、井上因碩3世(道節、系図書き変え後は4世)を準名人(8段)に進め、「碁所を望まぬ」との誓書を書かせた上で道知の育成と後見を依頼する。

 6.23日、神谷道知(13歳)が後式御目見得。
 熊谷 本碩(くまがい ほんせき)(生没年不詳、推測1678年-1701年前後去世、23歳夭逝)。

本因坊5世道知時代

 7.1日、神谷道知(4段格、13歳)が許されて本因坊5世となる。
 10.1日、三崎策雲が3世因碩の養子となり、井上因節と改名。同15日、御目見得。

 1701(元禄14)年11.24日(12.23日)、御城碁。
93局 (因碩4世)道節-(安井4世)古仙角(先)
 道節白番11目勝
(道節〆12局)
(古仙角13局)

 1702(元禄15)年

【道策死去、その後の棋界の動き】
 3.26(4.22)日、4世本因坊道策没(享年57歳)。

 その直前、井上因碩(桑原道節)を呼び後事を託した。その際、枕辺に安井家、林家の当主と、将棋所の大橋宗桂までも立会人として招き、数十人の門弟がずらりと並ぶ中、道知に手伝わせて半身を起し、「我、死したる後も、生前通り少しも稽古怠りなく勉励すべし」と遺言した。


 続いて、「道的、策元と二人の跡目が夭逝した後に道知の才能を見て跡目に擬し」、ゆっくりと次のように語った。
 「私の命はもうあまり永くはない。これからの一語一句は私の遺言である。そのつもりで聞いてもらいたい。名人碁所として、又本因坊家の当主として、私は十分に使命を果たしたと思う。この囲碁の盛んな時代を目のあたりにし、いつ死のうと悔いはない。ここにただ一つ心残りなのは、道的、策元の後、わが跡目が定まっていないことである。今、死を目前にし、諸氏の立会いの下に、はっきり跡目を定めることにする。道策亡き後の本因坊家の跡目は神谷道知とする。道知はまだ13歳であり、私に二つ(二子)の碁である。意外に思う者も、不満に感ずる者も、ご一同の中にはあるやも知れぬ。しかし、この道策の見るところ、本因坊家を襲うに足る者は道知をおいて他にない。将来、当家を背負って立つ逸材に間違いない。みんな協力して道知を盛り立て、坊門を隆昌ならしめるように。そこで道節、いや4世井上因碩殿にお願いする。今後はどうか跡目道知の後見人として、その大成に力を貸していただきたい。貴殿のお力添えがあれば、必ず道知は名人碁所たり得る器である。今、そなたは上手の格だが、半石進めて名人上手間の手合いにする(名人九段に先相先、上手七段にに向先相先で打つ半名人八段(後の準名人)の資格を与える、という意味になる)」。

 こうして、井上因碩3世(道節、系図書き変え後は4世)を準名人(8段)に進め、道知の育成を依頼、さらに「碁所を望まぬ」との誓紙(誓約書)を書かせる。道節は他家、将棋家を含めた家元衆の前で約束させられた(後に、事情によって遺言は破られることになる)。井上因碩3世(名人因碩)は元は坊門であった。道策は弟子の中で一・二の実力をもつこの人を跡目にする気がなかった。どこか意に添わぬものがあったのであろう。他方で、この人を恐れていたところもみえる。井上家の養子とし家督を継がせたのも不服を恐れてのことであったように思われる。因碩の心中はわからない。師の扱いに感謝していたとは思えない。

 これまで本因坊家の墓は京都寂光寺だったが、彼の代に菩提所替えをし本郷本妙寺とした。法名を日忠本妙寺は明治41年、巣鴨に移った。

【道策の棋譜】
 道策の棋譜は全部で153局が残されており、うち安井知哲との対戦が48局で最も多い。残された棋譜に黒番での負けは一局もない。道策は、歌聖人麻呂、画聖雪舟と並び、石見三聖の一人とされる。大天才の道策は、安井流と呼ばれた当時の古いタイプの手法に変革を加え、合理的な碁を創り上げた。合理的な手割、全局的な布石の観点によるその手法は後に、道策流と称されるほど画期的なもので、日本の碁は道策が創作したともいわれている。

 桑原道節(後の名人因碩)は次のように評している。
 意訳概要「本因坊身まかりて後は、井上因碩また一代の名人、碁博士の上首たり。或る人問う。『たとえば故先生(道策を指す)世に在(いま)して足下に競い給わば如何にあらん』と云う。因碩、このことは予も年来考うることにて候。予が師(道策)に先の手合で打てば、不肖なりといえども道節、盤上の理はほとんど知り尽くしているので恐らくは百戦百勝しよう。恐らくは相違あらじ。先生はこの道の聖(ひじり)にして、前に古人なく、後に来者なく候えども、予、先だにせば必ず負けじと存じ候なり。碁の位はあらまし知れければ、覚り給えというに、その人『実(げ)に世人の評にも、また、足下の申し給うように申し候なり』と誉むれば、因碩、これもまた年来思い考うることにて候。今、先生と真の勝負を試み候わば、某(それがし)三目弱かるべしと云う。その人、不審顔しければ、余の人、いかで予が碁の位を知り給わん。今の局は十九道を縦横にして三百六十一路なり。この局の上の手段は、予皆な悟り居り候えば、不覚は致すまじく候。これは限られた盤上だから云えることであり、だがもし仮にこの碁盤を四面つなぎ38道千四百四十四路の盤で打ったらどうなるだろうか。もしこの局上にて戦わん時、某は望洋することも候わず、どこに打ってよいか見当もつかず難渋するであろうが、師は猶も広かれとこそ思(おぼ)ういさらさらと打ち進め、自分などはたちまち三子ほどに打ち込まれてしまうに違いない。これが師の強さであると私は思っている」。

 道策と並び「棋聖」と称される本因坊丈和(江戸後期の名人)は、人に「道策先生と十番碁を打ったらどうなりますか」と問われ、次のように述べている。
 「この百数十年の間に定石や布石の考え方が進歩したので、最初の十番は打ち分け(5勝5敗)程度には持ち込めるだろう。しかしその十番でこちらの手の内は全て読まれてしまうから、もしもう十番打ったら果たして打ち分けに漕ぎ着けられるものかどうか」。

 小林光一は道策に私淑しており、息子が生まれたら「道策」と名付けるか真剣に考えたことがあるという。また棋譜はほぼ暗譜している。

 時の最強者本因坊道策の下には天下の才能が集まった。道策には五虎と呼ばれる小川道的、佐山策元、桑原道節、熊谷本碩、星合八碩、吉和道玄などの優秀な弟子がいた。世人は、これを道策門下の「六天王」と称えた。道策はまず道的を跡目に指名した。本因坊道的は19歳の時すでに師の道策と互角であったとされ、囲碁史上最大の神童といわれる。これに桑原道節が反発、自分と勝負の上で跡目を決定してもらいたいと申し出た。しかし道策はこれを拒み、実弟の3世井上因碩(道砂)を説得して引退させ、道節を井上4世に据えて納得させた。しかしこれほどの期待をかけた道的はわずか21歳で夭逝し、代わりに再跡目とした佐山策元もまた25歳で世を去った。そして策元の死後は跡目を立てなかった。これは2人の死のショックからというよりは、道策は道的に劣らぬ才能本因坊道知を見出し、道知の成長に期待をかけたためといわれている。道知は道節の後見を得つつ成長し、無事本因坊家五世を継いで後に名人碁所になった。なお道知は道策の実子という説もある。

 道策が亡くなった後も争碁は続き、江戸時代に6回行われた。碁所をめざし御城碁や、家元四家で真剣にお互いの技量を磨いたことが進歩発展につながった。雪の碁盤は、東京市ヶ谷の日本棋院1階に展示されている。同じ一本榧(かや)の木から雪・月・花の三面の名盤が作られ、徳川幕府の碁所で、打ち初(ぞ)めなどに使用された。

 道知以後は本因坊家の家元も三代にわたって6段止まりとなり、囲碁界自体も沈滞の時代を迎える。しかしここで現れた9世本因坊察元は他家を力でねじ伏せて久々の名人となり、本因坊家に中興をもたらした。また安井家7世安井仙知(大仙知)も華麗な棋風で活躍し、後世に大きな影響を与えた。
 この頃の浮世絵絵師の歌川豊国、国芳、葛飾北斎、喜多川歌麿など数多くが囲碁の場面を描いている。その一つは源氏物語の「空蝉(うつせみ)の巻」にでてくるもので、空蝉と軒端荻(のきばのおぎ)親子の対局場面を光源氏がのぞき見る場面を情感豊かに描いている。二つ目は、武者絵で最も多く登場する佐藤忠信が碁盤を武器に戦う雄姿を描いた歌川国芳の作品で、歌舞伎では、市川家の代表的な演目のひとつになっている。三つ目は、同じく国芳画「誠忠義士伝」で忠臣蔵の義士たちを描いている。そのうちの一つが「小野寺幸右衛門秀富」の浮世絵で、抜きはなった刀を碁盤に立てかけ、良邸に討ち入った直後の緊迫した場面で、傍らに散乱して碁笥(ごけ)からこぼれおちた黒石が、切迫した武士の表情と共になにやらただならぬ事態を想像させる。幸右衛門は、真っ先に吉良邸に突入して、奥の床の間に並べてあった半弓の弦をすべて切り払ったと伝えられている。史実によれば、討ち入り後、四家に分けて預けられた義士たちは、切腹までの二か月近くの間、よく碁を打っていたという逸話が残されている。(「藁科満治、3)三つの浮世絵に映える囲碁」参照)

【道策の履歴】
 道策は、本性が山崎、幼名三次郎、法名日忠。道策の出た山崎家は、毛利元就配下の松浦但馬守を祖とし、後に石見国大田村の山崎(現・島根県大田市大田町山崎)に居したことから山崎公と呼ばれるようになり山崎姓とした。その長子善右衛門は石見国大久保氏に仕える。道策は善右衛門の子である父山崎七右衛門、母ハマの二男として、石見国馬路(現・島根県大田市仁摩町馬路)に生まれる。兄弟姉妹は三男三女が居り、三男で道策の実弟にあたる道砂は同じく算悦門下の囲碁棋士であり、後に井上家を継いで井上因碩3世(道砂)となった。母は細川綱利の乳母も勤め、その縁で道策の兄七右衛門の子五郎太夫が細川家に仕え、従弟の半十郎は道悦が退隠して京都に在した際にその付添人となった。後に井上因碩10世(因砂)を碁界に送り込んでいる。
 7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ下り算悦門に入る。1675年(延宝3)年、算知と道悦の二十番碁が終了すると、算知は碁所を返上。2年後の1677年、道悦も退隠。この時、道策を碁所に推挙する。寺社奉行は、道策が安井算哲2世に対して「算哲は定先置き6番半石直し打ち始め4度、24番勝ち越し只今算哲向定先」、井上因碩(道砂)に対して向定先、安井知哲に対して「定先で6番半石直し打ち始め5度、30番勝ち越し。向2子にて26番、道策1番負け」、安井春知に対して「先二で6番勝ち2子。6番負け又先二に直し17番で道策2番勝つ向先二」、林門入に向2子の手合であったことから碁所を命じた。碁所の地位は江戸期を通じて四家元の争いの舞台となってきたが、隔絶した実力を誇った道策には他家からの異議は全くなかった。翌年5月、碁所の証書を下附され、これが最初の碁所の証書となっている。
 道策は、従来の古風な碁が部分的な力戦中心の中で、全局の調和を重視し、石の働きや効率性で局面の優劣を判断、棋理により碁形を分析する合理的な打ち方としての「手割り」(てわり)理論を生み出し、囲碁史を変革した。その棋風は辺を重視しており、隅を重視する古典的な碁から近代的な碁へのかけ橋となった。相手を凝り形にする手法を好んで用い、またたとえ手割上は損でも大場に先鞭出来る場合は平気で石を捨てて打ち、石を外まわりに導き、石をいっぱいに働かせて打つのを得意としている。近代碁に通じる感覚、打法の開拓、段位制度の整備、優秀な弟子の育成(門下3000人とか)など大きな功績を残している。ここに囲碁史上の不朽の地位を得ており「近代囲碁の祖」と呼ばれる。丈和・秀策の後聖に対して前聖と称される。囲碁史上、碁聖道策の地位は後々までも揺らぐことはない。
 御城碁は1667(寛文7)年、23歳で初出仕、同じく初出仕で1歳年長の安井知哲に白番5目勝ち。1696(元禄9)年まで勤め、相手が片寄っているとはいえ14勝2敗(この2敗はいずれも2子局で道策の1目負け)。特に1683(天和3)年の安井春知との2子局1目負けの碁は、自ら生涯の傑作と言った。棋譜が残された対局には黒番での負けは1局もない。1668年からの安井算知と道悦の二十番争碁においては、師道悦への意見を述べることもあり、また道悦とは互先で11局の対局が残っており、道策は先番で5勝、白番で2勝3敗1ジゴとしている。

 将棋の大橋家に残っていた「大橋家文書」によると、1698(元禄11)年の御城碁について、碁所として対局の組み合わせを作ったが、安井知哲が、自身の対局を組み込んでいなかった道策に向かって自分との対局を望んだが、道策が断ったことが記されている。道策が対局をことわった理由について、「碁所であること」、「盤上の争いを避ける」の二つをあげたとされている。これに対し、晩年とはいえ「史上最強の棋士」のイメージが崩れる言動である、と評されている。増川宏一は「道策が対局を避けたのは、負けた場合に権威にかかわるからであろう」と記している。下種の勘繰りかも知れず真意は不明としたい。
 道策の御城碁成績は「(坊)道策の御城碁譜」の記す。
 墓所は京都妙泉山寂光寺、東京の本妙寺、生家の山崎家の3箇所にある。生家には三次郎時代に愛用した盤石が残されている。

【史上の道策評】
 本因坊道策は名人の中でも特にすぐれていた。無類の強さゆえ後に「碁聖」と云われるようになった。その後に秀策にも碁聖の称号が与えられたことにより、道策は前聖、秀策は後聖と称えられている。本因坊丈和にも後聖と云われることもある。本因坊家は、始祖算砂、棋聖道策と言う二人の不世出の棋士により名実共に四家の筆頭となった。

 道策は、歌聖(かせい)の柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)、画聖(がせい)の雪舟(せっしゅう)とともに「石見の三聖」(いわみのさんせい)と呼ばれている。
 道策の偉業につき、「旧坐隠談叢」は次のように評している。
 「寛文延宝以前の碁にありては、その技の巧拙はさておき、区々として不規律なる力碁のみなりしが、道策出でて、斯道の波瀾、変化極まりなき中に、その意味を咀嚼し尽し、石立ての場合を見極め、初めて自ずから不磨の真理を発揮し、道策流なる一機軸を案出して、先人の遺漏をひ補せり。この道策流なるものは、今日のいわゆる定石にして、これよ我が国の碁技は飛躍的な進歩をなし、その面目を一新せり」。

 道策の碁技につき、「坐隠談叢」は次のように評している。
 「道悦隠居し、道策家を継で本因坊第4世となる。それ道策は後人の称して碁聖と為す者にして、その技の俊秀なる古今比類を見ず。しかも、千変不測の碁勢に対し、能く一定不動の妙所を発見して一流を案出す。ここに於いて、従来の碁技は、あたかも**に依りて淘汰精錬せられたるが如く、一変して道策流と称せらるるに至れり。今試みに、道悦退隠の願書中、道策を碁所に推挙したる文中の一節を見るに、一、算哲は定先置き6番半石直し打ち始め4度、24番勝ち越し只今算哲定先に御座候。一、知哲は定置き6番半石直し打ち始め5度、30番勝ち越しし候。二つにて碁数26番、道策一番負けに御座候。一、春知には先二置かせ6番勝ち二つにし候。而して6番負け又先二つに直し、先二つにて17番し候、道策2番勝つに御座候。右寛文年中より延宝中迄に御座候。とあり、而して、文中に於ける算哲、知哲、春知は当代の雄なる者にして、道策之に対し前期の如き成績を得たるは、真に聖所に達したる者と謂つべし」。

 18世本因坊村瀬秀甫の著書「方円新法」(明治15年刊)に寄せた重野安*はこう述べている。
 「算砂出でて元和、寛永の碁あり。道策出でて元禄、宝永の碁あり。丈和出でて文政、天保の碁あり。丈和を継ぐもの秀和、秀策。以て秀甫に及ぶ。(中略)われ請う、以て碁を論ぜん。それ技至れば聖を称し、極に詣(いた)れるなり。道策、丈和は棋聖の抜*なる者。策の技は秀逸。和の技は雄深。これを詩に譬うるに然り、策は李(白)に似、和は杜(甫)に似たり。これを文に譬うるに然り、策は長蘇に似、和は昌黎に似たり。その性度、異なるといえども、造詣はすなわち同じ。前聖後聖、その揆は一なり。あにその間に軒*を容(入)れんや。(中略)秀甫は秀和に師事し、秀策に兄事す。三秀みな丈和に淵源す。丈和没後二十余年、世変に遭い、碁院ことごとく廃す。*宿は凋零し、斯技ほとんどまさに漸滅(しめつ)に帰せんとす。秀甫すなわち諸友を糾集し、方円社を創(おこ)し、講習、討論、虚月あるなし。ここに於て四方の才俊、風を聞きて来り集い、碁道また大いに興る。(中略)」。

 酒井猛9段の道策の碁に関するコメントは次の通り。
 「 道策の碁には碁のあらゆるものがある。強烈無比の攻め、鮮やかな凌ぎ、雄大極まりない大作戦、そして時にはものすごい地のからさ、それが次の瞬間には全く別の方向に転換したりもする。必要な時に必要な手がおのずと湧いてくるという観があり、盤上に響き渡る一手一手は何度並べても感動を呼ぶのである。それはまさに天来の妙音でもあった」。

 林裕氏の「囲碁百科辞典」は次のように記している。
 「道策は棋聖と称され、その実力は古今無双と云われる。それまでの力碁から合理的な碁へと転換するために重要な役割を果たし、近代の碁の基礎を築いた。また段の制度も道策によって作られたと云う」。
 2018.2.25日、
 意訳概要「本因坊道策の強さはもちろんの事、かっこよさでも歴代の棋士でトップクラスだと思います。 道策の魅力は大きく分けて二つあり、一、一見自由奔放に見える打ち方。二、誰もが唸る切れ味鋭い手筋。これが道策のかっこよさであり、魅力であり、人気の理由です。道策の鋭い手筋を見て、手筋とは何かを感じてもらいたいと思います。手筋とは、周りの石と連携を取り、石一つ一つの力を最大限に発揮させた手のことです」。




(私論.私見)