【道策の履歴】 |
道策は、本性が山崎、幼名三次郎、法名日忠。道策の出た山崎家は、毛利元就配下の松浦但馬守を祖とし、後に石見国大田村の山崎(現・島根県大田市大田町山崎)に居したことから山崎公と呼ばれるようになり山崎姓とした。その長子善右衛門は石見国大久保氏に仕える。道策は善右衛門の子である父山崎七右衛門、母ハマの二男として、石見国馬路(現・島根県大田市仁摩町馬路)に生まれる。兄弟姉妹は三男三女が居り、三男で道策の実弟にあたる道砂は同じく算悦門下の囲碁棋士であり、後に井上家を継いで井上因碩3世(道砂)となった。母は細川綱利の乳母も勤め、その縁で道策の兄七右衛門の子五郎太夫が細川家に仕え、従弟の半十郎は道悦が退隠して京都に在した際にその付添人となった。後に井上因碩10世(因砂)を碁界に送り込んでいる。 |
7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ下り算悦門に入る。1675年(延宝3)年、算知と道悦の二十番碁が終了すると、算知は碁所を返上。2年後の1677年、道悦も退隠。この時、道策を碁所に推挙する。寺社奉行は、道策が安井算哲2世に対して「算哲は定先置き6番半石直し打ち始め4度、24番勝ち越し只今算哲向定先」、井上因碩(道砂)に対して向定先、安井知哲に対して「定先で6番半石直し打ち始め5度、30番勝ち越し。向2子にて26番、道策1番負け」、安井春知に対して「先二で6番勝ち2子。6番負け又先二に直し17番で道策2番勝つ向先二」、林門入に向2子の手合であったことから碁所を命じた。碁所の地位は江戸期を通じて四家元の争いの舞台となってきたが、隔絶した実力を誇った道策には他家からの異議は全くなかった。翌年5月、碁所の証書を下附され、これが最初の碁所の証書となっている。 |
道策は、従来の古風な碁が部分的な力戦中心の中で、全局の調和を重視し、石の働きや効率性で局面の優劣を判断、棋理により碁形を分析する合理的な打ち方としての「手割り」(てわり)理論を生み出し、囲碁史を変革した。その棋風は辺を重視しており、隅を重視する古典的な碁から近代的な碁へのかけ橋となった。相手を凝り形にする手法を好んで用い、またたとえ手割上は損でも大場に先鞭出来る場合は平気で石を捨てて打ち、石を外まわりに導き、石をいっぱいに働かせて打つのを得意としている。近代碁に通じる感覚、打法の開拓、段位制度の整備、優秀な弟子の育成(門下3000人とか)など大きな功績を残している。ここに囲碁史上の不朽の地位を得ており「近代囲碁の祖」と呼ばれる。丈和・秀策の後聖に対して前聖と称される。囲碁史上、碁聖道策の地位は後々までも揺らぐことはない。 |
御城碁は1667(寛文7)年、23歳で初出仕、同じく初出仕で1歳年長の安井知哲に白番5目勝ち。1696(元禄9)年まで勤め、相手が片寄っているとはいえ14勝2敗(この2敗はいずれも2子局で道策の1目負け)。特に1683(天和3)年の安井春知との2子局1目負けの碁は、自ら生涯の傑作と言った。棋譜が残された対局には黒番での負けは1局もない。1668年からの安井算知と道悦の二十番争碁においては、師道悦への意見を述べることもあり、また道悦とは互先で11局の対局が残っており、道策は先番で5勝、白番で2勝3敗1ジゴとしている。
将棋の大橋家に残っていた「大橋家文書」によると、1698(元禄11)年の御城碁について、碁所として対局の組み合わせを作ったが、安井知哲が、自身の対局を組み込んでいなかった道策に向かって自分との対局を望んだが、道策が断ったことが記されている。道策が対局をことわった理由について、「碁所であること」、「盤上の争いを避ける」の二つをあげたとされている。これに対し、晩年とはいえ「史上最強の棋士」のイメージが崩れる言動である、と評されている。増川宏一は「道策が対局を避けたのは、負けた場合に権威にかかわるからであろう」と記している。下種の勘繰りかも知れず真意は不明としたい。 |
道策の御城碁成績は「(坊)道策の御城碁譜」の記す。
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墓所は京都妙泉山寂光寺、東京の本妙寺、生家の山崎家の3箇所にある。生家には三次郎時代に愛用した盤石が残されている。 |