日本囲碁史考3、織田信長時代

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.29日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで「日本囲碁史考3、織田信長時代」として織田信長時代の囲碁史を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝 


【安土時代前半】
 安土桃山時代から江戸時代はじめは、大名、大商人が中心として活躍した時代である。この時代に囲碁が隆盛している。

【互先自由布石制始まる】
 16世紀後半、囲碁史上の革命が起る。それまでの囲碁は、碁盤の四隅の星にあらかじめ碁石を襷(たすき)に配置してから始めるいわゆる「事前約定置き碁」であったが、この16世紀後半に、現代と同じ「互先自由布石制」が日本で始まった。この、置き石のない盤面に黒白交互に打ち進める「互先」というルールは誰の考案かは定かではないが、囲碁4000年の歴史のなかでの大革命をもたらした。それもそのはず、新ルールによって、序盤戦の布石に大きな変化が生じたからである、とある。(「烏鷺の争い、関ヶ原決戦」参照)。

【後に初代名人となる算砂誕生】
 1559(永禄2)年、後に初代名人となる算砂が京都長者町で誕生している。本名は加納輿三郎。

【秀吉履歴/桶狭間の戦いで足軽大将に出世】
 1560(永禄3)年、藤吉郎23歳のとき、桶狭間の戦いに参戦。駿河の大名/今川義元が大軍を率いて尾張に侵攻してきたが、信長は奇襲によってこれを見事に撃退し、義元の首級を奪うことに成功する。籐吉郎は足軽大将に出世した。以降次第に織田家中で頭角を現していった。
 三河(愛知県東部あたり)で自立した松平元康と同盟を結び、東からの脅威をなくした。

【秀吉履歴/信長の家臣・浅野長勝の養女ねね(15歳)と結婚】
 1561(永禄4).8月、藤吉郎24歳のとき、身分を得た藤吉郎は信長の家臣・浅野長勝の養女で杉原定利の娘/ねね(15歳)と結婚。ねねの実母・朝日はこの結婚に反対したが、ねねは反対を押し切って嫁いだ。当時としては珍しい「恋愛結婚」といわれる。結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。
 爛柯堂棋話(らんかどうきわ)に次のように記されている。
 「秀吉とおねが結婚したとき、秀吉24歳、おね15歳。おねはすぐに妊娠したが、足軽になりたてで家も貧しく、子が産まれても育てられるか分からないし、出世の妨げになるというので、お灸を使って妊娠中絶をした。こうしたことを何回か繰り返しているうちに、妊娠することができなくなった」云々。
(私論.私見)
 この逸話は、囲碁本の爛柯堂棋話になぜこういう話が出ているのか詮索させるところに意味がある。私は、碁打ちとしての秀吉がかなり注目されており、その秀吉の逸話として記載されていると窺う。これによっても、秀吉の棋力がかなりのものだったことを知る。

【秀吉履歴/足軽百人組の頭に出世】
 1562年、藤吉郎25歳のとき、足軽百人組の頭に出世する。

【棋譜「真田昌幸-真田信幸(幸村の兄)/先)」】
 1561(永禄4)年、「真田昌幸-真田信幸(幸村の兄)/先)」が信州上田城で打ったとされる棋譜が遺されている。序盤早々、中央にセキができる激闘譜。196手まで白勝ち。
京都でつづる囲碁&Webマーケティング~YouTube、SNS、アメブロ、RSS
 「戦国の武将も大いに碁に親しんだ。しかし、徳川幕府以前の現存する打碁譜はわずか二十数局に過ぎない。そのうち、武士のものとしては武田信玄と高阪弾正の棋譜と真田昌幸・信幸父子の真偽不明の対局譜の二局のみである」。

【秀吉履歴/調略(寝返り工作)で美濃攻略】
 1564年頃、藤吉郎27歳のとき、東からの脅威をなくした信長は北の美濃(岐阜県)の領主の斎藤龍興との戦いに向かう。美濃の兵は強勢を持って知られていた為、力押しをやめ調略(寝返り工作)をもって美濃の攻略を進めていくことになった。
(私論.私見)
 「秀吉の調略交渉術」の背後に、囲碁の知恵と碁縁があったのではなかろうか。それは一部かもしれないが、この線を洗う必要があるように思われる。
 1565年、藤吉郎28歳のとき、秀吉が、信長と対立していた斉藤龍興の配下の武将、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎左衛門らを信長方に寝返らせることに成功する武勲を挙げる。

 秀吉の名が現れた最初の史料は、1565(永禄8).11.2日付けの坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)。このことは、秀吉が信長の有力部将の一人として認められていたことを示している。
 1566年、藤吉郎29歳のとき、美濃や尾張で野伏(独立した武装集団)として活動していた川並衆の棟梁・蜂須賀小六を配下にする。蜂須賀小六には放浪時代に世話になっていたことがあり、これを配下にしたことが更なる出世に繋がった。

【秀吉履歴/墨俣城を「一夜」で築く】
 この頃、「一夜城」としての逸話が残る墨俣城を築く武勲を挙げる。次のように説話化されている。
  今川義元を桶狭間で破り、尾張を平定した織田信長は、斉藤家が支配する美濃(岐阜県)への進出の足場とするため、国境近くの長良川の要所の地「美濃路の墨俣(すのまた)」に砦を築こうとした。重臣の佐久間信盛に城作りを命じたが斉藤側の攻撃を受けて失敗した。次に重臣の柴田勝家に城作りを命じたが、これも斉藤側の攻撃を受けて失敗した。信盛と勝家に出来ないのであれば誰にもできないと思われたが、永禄九年五月の老臣会議で、末席にいた木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)が名乗り出た。「殿、城作りをこの藤吉郎にお任せ下さい。七日の間に城を作って見せましょう」。信盛と勝家が、「サルがつけあがるな! 我らにもできなかった事がお前にできるか!」と怒ったが、信長は藤吉郎に命じた。「サル、お前に任せよう。但し期限はお前が言った七日だ」。「はい、必ずや成功させて見せます」。

 藤吉郎は、以前から面識のある土豪(地元の権力者)の蜂須賀小六、前野将右衛門らの協力を得て、人夫千人を使って築城に着手した。別な場所で、設計図に従った墨入れ、鋸引きなどをして一個一個部品をつくる、現在のプレハブ工法を採用した。まず木材を切りそろえて壁を作った。その壁を組み合わせて建物にすると云う発想だった。大小の長屋十棟、櫓十棟、塀二千間、木柵五万本分を用意し、5万点に及ぶ材料を筏に組んだ。夜を日に次いで普請を急がせた結果、七日程度にて大方できた。

 丁度梅雨時で大雨が降った。そのため織田家と斉藤家の両陣とも戦を中断した。「よし、天は我らに味方したぞ。城作り開始だ!」。藤吉郎の合図で、木材を切りそろえて作った壁のいかだが長良川に流された。下流で蜂須賀小六の部下が受け取り次々と建物の形に組んでいった。夜が明けた。両陣の見張りが長良川に行ってみると、何と一夜にして城ができていた。木材を組んだだけの粗末な建物ではあったが、この城を見た井之口の斉藤龍興の兵八千余騎は驚いて敗走した。信長はこの城を拠点にして、翌10年に斉藤龍興が守る稲葉山城を攻略し、念願の美濃国を手中にした。
 童門 冬二 「湿地帯に城をつくる ・木下藤吉郎」。
 豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていたころの話だ。織田信長が美濃(岐阜県)の斉藤氏を攻 めるために、木曽川の下流の墨俣(すのまた。洲股とも)に城を造ることを命じた。みんなビビッたが、木下藤吉郎が引き受けた。かれは、かねてからこの一帯を歩きまわって、特別に仲良くなった土豪がいた。蜂須賀小六である。小六は輪中(わじゅう)、をつくる技術に長けていた。おなじような仲間がたくさんいた。輪中というのは、土を円形に盛ってその中に集落をつくり、洪水を防ぎながら地域の人びとが生き抜くチエである。集落の中には、農耕具や最低 限の食糧などを保存する倉庫もあった。これを水屋といった。藤吉郎は農民の出身だけに、こう いう下々のくらしを暇さえあればよく見聞して歩いた。したがって木曽川流域では、尾張(愛知県)側でも、美濃(岐阜県)側でも、この輪中がたくさんつくられていることを知っていた。だか ら、大湿地帯である墨俣でも輪中なら十分水を支えることができるだろうと判断したのである。信長は、 (サルのやつ、簡単に引き受けたがほんとうにできるのだろうか?) と疑った。藤吉郎は、 「墨俣という湿地帯に城を造るのには、織田家の技術者ではダメです。特別に木曽川流域に住む土豪を使いたいと思います」といった。信長は能力主義者だから、自分の目的を達成してくれる技術者ならだれでもいい。承知した。しかし、蜂須賀小六が木下藤吉郎に条件をつけた。それは、 「まず、われわれを織田家の正式な家来にして欲しい」ということである。戦国時代なので、土豪たちはみんな地位が不安定だった。ときめく織田信長の家来になれば、その不安感も消える。そこで、「輪中をつくる方式で、あの湿地帯に城を造ることは承知した。しかし、その前に身分保証をして欲しい」というのである。藤吉郎はやむをえず承知した。そして、(もし信長様がゆるしてくれないときは、腹を切ろう) と心を決めた。捨て身の覚悟であった。 蜂須賀小六は木下藤吉郎の快諾の返事をきいて疑ったが、しかし、「おぬしを信じよう」 湿地帯に城をつくる と藤吉郎の手を握った。藤吉郎は蜂須賀小六が動員した土豪集団を引き連れて墨俣にいった。 ここでかれはこう告げた。「おまえたちを三つの隊に分ける。一隊は城を造れ。一隊は斉藤側の反撃に備えて防備に当たれ。そしてもう一隊はすぐ寝てしまえ」 。これにはドッと笑いが起った。とくに最後の、「残りの一隊は寝てしまえ」といういい方がとてもおかしかったからである。しかしこれは藤吉郎独特の用兵の法だ。藤吉郎はかなり前から、「大きな仕事は個人でやるものではない。集団でやるものだ。したがって、その組織に属する 人間にはすべて協力精神(チームワーク)が必要だ」と思っている。だから信長から命ぜられる大仕事は、すべてこの、「個人でなく、組織としてチームワークを生みながらすすめる」 ということをモットーにしていた。蜂須賀小六がひきいてきた土豪集団を三つの隊に分けたの もそのためだ。計画をきいた信長は、面白い、それはみごとに城ができるかもしれぬな、と満足した。そこで 信長はみずから軍をひきい、犬山城に拠点をおいてここで切り出した材木をどんどん下流に流した。情報としては、「伊勢神宮の修築をするのだ」 というガセネタを流した。材木を流したのは長良川だったが、長良川もいまと違って墨俣近辺で木曽川と合流する。この二大河川の合流だけでなく、付近の中小河川も流れこむから大湿地帯になったのだ。材木はどんどん藤吉郎の手元に届いた。これを使って一隊が交替で城を造る。一隊は防備に当たる。そしてもう一隊は休憩のために寝る。この振り分けが非常にうまくいった。小六集団はひとつも疲れなかった。むしろ、「城ができたときは、おれたちは織田家の家来になっている」という希望とよろこびが湧き上がっていた。墨俣城はみごとにできた。俗に"一夜城"といわれ る。一晩でできた城という意味だ。まさか一晩ではできなかったが、かなり短い期間ででき上が ったことは確かである。城ができ上がると信長は藤吉郎を褒めた。褒美をやるといった。ところが藤吉郎は、「わたくしに褒美はいりません。そのかわり、蜂須賀小六以下の土豪をすべて正規の家臣にしてください」 と頼んだ。信長ははじめ、そんなバカなことはできぬと反対したが、しかし真剣な藤吉郎の表情をみているうちに折れた。こうして、小六集団は正式に信長の家臣団に組みこまれた。

【利玄(林家元祖)誕生】
 1565(永禄8)年、利玄(林家元祖)が堺で生まる。

【永禄の変】
 1565(永禄8).5.19日、室町幕府13代将軍/足利義輝三好三人衆に討ち取られるという事件(永禄の変)が起こった。

 義輝の弟である足利義昭は、興福寺一乗院で門跡となっていたが(一乗院覚慶と名乗っていた)、甲賀武士・和田惟政らの手引きで奈良を脱出した。以後、約3年間にわたる義昭の漂流生活が始まった。 義昭はまず近江甲賀郡和田城へ赴いたが、その後より京都に近い野洲郡矢島に仮御所を構えた。一時は近江の六角義治を頼ろうとしたようだが、三人衆と通じていることを擦知すると、若狭の武田義統および越前の朝倉義景を頼った。越前で名を義昭と改め、義景が動かないと分かると尾張の織田信長を頼った。この時仲介をしたのは明智光秀と云われている。

【輿三郎(後の本因坊算砂)が本行院日海(にっかい)と称す】
 1566(永禄9)年、輿三郎、8歳の時、日海は長じて京都東山の日淵(後に寂光寺開祖)の門に出家する。

 1567(永禄10)年、4月、輿三郎、落飾して法名を本行院日海(にっかい)と称す。後に寂光寺(京都市左京区、仁王門北門前町)の塔頭(たっちゅう)の一坊の「本因坊」で暮らしていたことより後に本因坊算砂(さんさ)と名乗ることになる。

【棋譜「武田信玄-高坂弾正(先)」】
 1566年、106代正親町帝の永禄9年春、「 武田信玄-高坂弾正(先)」が長遠寺で打たれたという。166手まで、白の勝ちとなっている。真田昌幸・信幸父子の譜が遺されている。

 1819(文政2)年、三神松太郎(井上家2段)が「古棋」を発刊し、「 武田信玄-高坂弾正(先)」、真田昌幸・信幸父子の譜を掲載する。その転載として「爛柯堂棋話」にも記載されている。

 一手一手を並べてみると、この棋譜の打ち手は、相当な実力の持ち主と判断される。黒の高坂は攻めっ気の強い打ち手で、信玄はかわしかわし我慢強く打ち進めている。最後に大局観の差が出て、左上の黒数子が立ち枯れとなり白の中押し勝ちとなっている。この棋譜が本物か後世に誰かの手によって創作されたものかは定かではない。


【棋譜「真田昌幸・信幸父子の譜」】 
 1566年(永禄9)年、上田城中に於て、真田昌幸・信幸父子の譜あり(文政12年刊「古棋」)。

【秀吉履歴/稲葉山城攻略】
 織田方の美濃攻略作戦が続き、当主の斎藤龍興が暗愚だったこともあり、斎藤方の家臣が次々と寝返った。この寝返り工作を一番になって行っていたのが秀吉だった。そしてついに「美濃三人衆」と呼ばれる有力な武将たちが臣従したのを機に攻め掛ける。
 1567(永禄10).8.15日、信長が大軍を率いて斉藤氏の本拠である稲葉山城を包囲し、城主の斎藤龍興を追放し稲葉山城の乗っ取りに成功する。信長は美濃一国をその手中に収める。

【秀吉履歴/竹中半兵衛を軍師として迎える】
 この後で、秀吉は名軍師として知られる美濃の菩提山城主の竹中半兵衛を自分の与力として登用する。その後も信長に従い各地を転戦する。

【信長上洛要請】
 同年11月、正親町天皇から信長に綸旨が届いた。内容は尾張・美濃の不地行になっている皇室領の回復を命じるものであった。正親町天皇からの綸旨をうけた信長が上洛に向けて動き出す。
 同年、尾張(愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、越前にいる義昭を美濃の立政寺に迎え入れた。

【信長の妹のお市の方が北近江を治める浅井長政に嫁ぐ】
 1567(永禄10).9月、または1568(永禄11).1-3月頃、美濃福束城主・市橋長利を介して、北近江を治める浅井長政に、妹である戦国一の美女の名声のあるお市の方を娶らせて縁戚関係を結び同盟関係を築いた。なお、長政は主家である六角家臣・平井定武の娘との婚約がなされていたが、市との婚姻により破談となっている。その後、長政との間に3人の娘を儲ける。この時期長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られているが、いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられている。

【秀吉履歴/近江箕作城攻略戦で活躍】
 1568(永禄11).8.5日、32歳の時、上洛を目的として馬廻り衆250騎を引き連れて岐阜城を出発。8.7日、佐和山城に着陣した。上洛途上に観音寺城があった。信長は、義昭の近臣であった和田惟政に家臣3名をつけて、観音寺城にいる六角義治に義昭の入洛を助けるように使者を送った。しかし、信長が着陣する少し前に三人衆と篠原長房が観音寺城に出向き、織田軍の侵攻に対する評議を行っており、義治と父の六角義賢はこの申し出を拒絶した。拒絶された信長は、再度使者を送って入洛を助けるよう要請した。これに対して、義治は病気を理由に使者に会いもせずに追い返した。7日間佐和山城にいた信長は開戦やむなしと考え一旦帰国した。

  同年9.7日、軍勢を整えた信長は1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出立し、これに三河の徳川家康が派遣した松平信一勢1千、北近江の浅井長政勢3千が加わり、翌9.8日、高宮に、9.11日、愛知川北岸に進出した。この時の織田軍の総数は5-6万ともいわれている。これに対して六角側は、本陣の観音寺城に当主・義治、父・義賢、弟・義定と精鋭の馬廻り衆1千騎を、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6千を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3千をそれぞれ配置し、その他被官衆を観音寺城の支城18城に置いて態勢を整えた。9.12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長、滝川一益丹羽長秀木下秀吉らの第3隊が箕作城に向かった。戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後5時前後には逆に追い崩されてしまった。木下隊は評議を行い夜襲を決行することにした。秀吉は、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず夜明け前に落城した。200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は戦わずに逃亡した。秀吉が近江箕作城攻略戦で活躍したことが「信長記」に記されている。

 長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に甲賀へ落ち延びた。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだとフロイス日本史に記載されている。こうして信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破った。これを「観音寺城の戦い」と云う。


【秀吉履歴/明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任される】
 同年、信長は足利義昭を奉じて上洛した。この時、秀吉は、明智光秀丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。

【秀吉履歴/但馬国出兵】
 1569(永禄12).5月、毛利元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲国奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して元就は信長に山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼し、これに応じた信長は同年8.1日、秀吉を大将とした軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8.13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。

【信長と比叡山の対立】
 1569(永禄12)年、信長と比叡山の対立を廻って、天台座主/応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下している。但し、信長はこれに従わなかった。

【秀吉履歴/金ヶ崎の戦い】
 1570(永禄13).4.20日(5.24日)、藤吉郎33歳のとき、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前(福井県)の朝倉義景に対し織田・徳川連合軍3万による討伐戦が始まる。織田軍の武将のほか池田勝正松永久秀といった近畿の武将、公家である日野輝資飛鳥井雅敦も従軍している。織田・徳川連合軍が朝倉氏の領地に攻め込んだ直後、後背に位置する浅井長政が信長を裏切り、背後から襲撃してくる挟み撃ち事態となった。これは長政の決断というよりか、隠居した身ではあるが父久政の意向によるところが大きかった。信長の軍勢は撤退せざるを得なくなり、信長は少数の護衛とともに戦場から逃走した。

 朝倉・浅井軍の追撃に対して殿(しんがり)を務めて防戦をしたのが秀吉、池田勝正、明智光秀で、金ヶ崎の戦いで友軍が撤退するまでの時間を稼いだ。戦国史上、有名な撤退戦の一つとなった。苦戦を強いられながらも朝倉軍の攻撃をしのぎきり、被害を最小限に抑える軍功を挙げ、無事に京都に戻っていた信長の元に帰還した。信長は秀吉の働きを褒めたたえ黄金数十枚という褒美を与えている。「命拾い」した信長は秀吉への信頼を更に厚くした。

【姉川の戦い】
 織田軍の撤退後、朝倉義景は自身は敦賀に滞陣した。5.11日、一族の朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に進発させる。朝倉軍は浅井軍とともに南近江まで進出し、六角義賢と連携し信長の挟撃を図った。5.21日、信長は千草越えにより岐阜への帰国に成功。6.4日、六角軍は野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗れてしまう。このため、浅井・朝倉軍は美濃の垂井・赤坂周辺を放火するとともに、国境に位置する長比・苅安尾といった城砦に修築を施し兵を入れて織田軍の来襲に備えた。6.15日、朝倉軍が越前へ帰陣する。前後して長比城に配置された堀秀村樋口直房が調略により信長に降り長比・苅安尾両城は陥落する。6.19日、信長は岐阜を出立しその日のうちに長比城に入った。

 6.21日、信長が虎御前山に布陣。森可成坂井政尚斎藤利治柴田勝家佐久間信盛蜂屋頼隆木下秀吉丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。6.22日、信長は殿軍として簗田広正中条家忠佐々成政らに鉄砲隊500、弓兵30を率いさせ、いったん後退した。6.24日、信長は小谷城と姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。 ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8千の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5千が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計1万3千となった。6.27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引く。6.28(7.30)日未明、姉川を前にして軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆稲葉良通氏家卜全安藤守就)が向かった。午前6時頃戦闘開始。激戦になったが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が1100余を討ち取って勝利した。これを「姉川の戦い」と云う。

 信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番守将として横山城に入れた。木下秀吉が浅井氏の監視役になった。
 同年8.26日、野田城・福島城の戦いで、浅井長政朝倉義景連合軍が比叡山に立てこもり比叡山の攻防戦(志賀の陣)となった。正親町天皇の調停により和睦した。

 1570(永禄13、元亀元)年、4.23日、元亀改元。

【木下藤吉郎の囲碁の腕前考】
 1570(元亀元)年、言継卿記(大納言山科言継の日記)。
 「十二月一日、甲午、天晴る。武衛家へ参る。御留守に聖護院御門主・大覚寺殿など也。その外、細川右馬頭・摂津守・木下藤吉郎など祗候す。御酒これあり。次いで徳雲と藤吉郎の碁これあり」。

 日記類の囲碁関連の記事に木下藤吉郎(後の秀吉)が初出する記録である。場所の武衛家は斯波氏の屋敷である。秀吉の囲碁の相手をした徳雲が碁師のようである。翌年の言継卿記に、細川藤孝の招きの囲碁の上手を集めた碁会の記録がある。
(私論.私見)
 これによると秀吉は木下藤吉郎時代より囲碁を愛好していたことが分かる。武衛家とは足利一門の斯波氏の屋敷であり、細川藤孝や木下藤吉郎(秀吉)らが招かれた際、「徳雲と藤吉郎の碁これあり」からすれば相当の腕前だったのではなかろうか。木下藤吉郎の織田信長臣下入りは囲碁の機縁だったのではなかろうかとの仮説を生むように思える。解説に「秀吉は実際にはそれ程強くなく、算砂がうまく調整していたのではないかと云われている」とあるが、そういう評は愚見だろう。私説は、木下藤吉郎の囲碁の腕前は戦国大名として知られる中で随一の、織田信長、徳川家康に比して相当高い棋力だったと推理する。

【「祇園祭礼信仰記」(ぎおんさいれい しんこうき)考】
 「歌舞伎見物のお供」の2016.7.11日付けブログ「金閣寺」(きんかくじ )。

 「祇園祭礼信仰記」(ぎおんさいれいしんこうき)芝居の四段目。もともとは文楽の作品。この四段目以外の部分は上演されることはない。この四段目と「祇園祭礼信仰記」という正式タイトルとの関連性が薄いため「金閣寺」という副題で親しまれている。京都の金閣寺のリアルなセットが印象ぶかい豪華な芝居になっている。舞台は一幕。庭に大きな滝と桜の木がある。悪役の「松永大膳」(まつながだいぜん)が、将軍「足利義輝」を暗殺したのが事件の発端。全部出すと、このクーデターを含めたいろいろな事件が起こる長い芝居になっている。

 クーデターの首謀者の松永大膳は、暗殺した足利義輝の母親の慶寿院(けいじゅいん)さまを人質にして金閣寺に立てこもっている。その事情を腰元たちが噂話に語り合う場面からはじまる。悪人の松永大膳と弟の喜藤太(きとうだ)が金閣寺のお座敷でゆったりと碁を打っている。大膳にはいい軍師(ぐんすい)がいない。誰か有能そうなのを召し抱えたいと思っている。松永大膳は、さばき髪に綿入りの派手な衣装、顔は白塗り。「国崩し」(くにくずし)と呼ばれる悪役の典型である。大役なので一座で一番えらくてうまい座頭(ざがしら)の役者がやる。「国崩し」というのは、国を傾けるようなスケールの大きい悪人という意味。大膳の弟の喜藤太は赤い顔の乱暴者である。

 二人は碁を打ちながら次のような話をする。慶寿院さまは人質ではあるが、一応、大事なお客様でもある。慶寿院さまが、この金閣寺の天井に龍の絵を描いてほしいと言うので、慶寿院の要望をかなえたい大膳は絵師を連れて来た。龍を描けるほどの腕前の絵師は今の都にはふたりしかいない。狩野直信(かのうなおのぶ)と雪姫(ゆきひめ)である。雪姫は有名な狩野派(かのうは)の絵師であった狩野将鑑(かのうしょうかんの娘。直信は弟子。狩野将監は死んでしまったので、今龍が描けるのはこのふたりしかいない。狩野直信と雪姫は夫婦。大膳はまず狩野直信に命令したが、言うことを聞かなかった。なので直信は今は牢屋に入れられている。大膳がその気になればいつでも殺せる。雪姫も断ったが、大膳は美しい雪姫を気に入り、この金閣寺に雪姫を閉じ込めて口説きはじめた。「絵を描け」と「俺のものになれ」両方を同時進行で口説いている。

 そんな話をしたあと、大膳が部屋の奥の障子を開けると、美しい雪姫が座っている。雪姫の「姫」は名前だけで身分は高くない。 もともと小雪(こゆき)という。いまは出ないはじめのほうの部分で腰元としてお城で仕えていた小雪が、すごく賢いので褒められて「雪姫」と名乗るのを許される場面がある。悪人の大膳が、雪姫を部屋のふとんの上に座らせて、「ワシのものになれ」とか「龍の絵を描け」とか要求する。「言うことを聞くまでは布団の上の極楽責め」というわけで、かなりセリフはきわどい。言うことをきかないと夫の直信を殺されてしまうかもしれない。雪姫は、大膳の愛人になるのは嫌だが、龍の絵については描けるものならべつに描いてもいいと思っている。ただ、花や鳥と違い、龍は実在しないものなのでお手本がないと描けない。お手本になる龍の絵は、狩野家に先祖代々伝わっていたが、数年前父親の狩野将監が殺され、そのときにその絵も盗まれてしまった。なので龍の絵は描けない。とほうにくれる雪姫。

 慶寿院さまを取り戻してクーデターを阻止すべく、「小田春永」(おだはるなが)(織田信長)が動いている。家来の「此下東吉」(このしたとうきち)(木下藤吉郎)がスパイとして入り込む。「十河軍平」(そごう ぐんぺい)という大膳の家来に連れられてやって来る。軍平は、東吉を怪しんで東吉に刀を突きつけながらやって来るが、大膳にそこまでしなくていいと制止される。「石原信吾」(いしはらしんご)、「乾丹蔵」(いぬいたんぞう)、「川島忠次」(かわしまちゅうじ)の3人はふつうの家来。身内である喜藤太は別格として、大膳は軍平のことを特に信頼している。

 最初のほうで大膳が「此下藤吉という男が春永の家来をやめてウチに来たがっているらしい。いま軍平を迎えにやっている」とセリフで言う。東吉が今「小田春長」に仕えていることは大膳も知っている。東吉は「春永(信長)よりも今は大膳のほうが景気がいいし成功しそうなので乗り換えたい」と言う。大膳はあっさり信じる。「計略かもしれないが、計略に乗ってみるのも手だと軍平が言ったのでそうしてみる」と言っているので、これは信じるふりをしていることになる。

 あいさつ代わりにふたりは碁を打ちはじめる。この軍平も「小田春永(織田信長)」側のスパイ。正確には東吉の家来です。かなり前から入り込んでいる。この碁を打っている場面の浄瑠璃(じょうるり、舞台横で太夫さんが語っているあれ)の文句で、「軍平は碁のアドバイスをしているふりをして、チャンスがあったら大膳を討てと東吉に言っているが大膳は気付かない」と言っている部分がある。

 さて雪姫。大膳が夫の狩野直信を殺すというので、大膳に身を許す決心をする。雪姫は勇気を出して大膳のそばに行ってそう言うが、大膳は碁に夢中。雪姫の言葉を碁の用語を取り違えてなかなか理解しない。既に通じない古典文法と、さらに通じない碁用語のせいで非常にに意味不明な場面になっている。家来の軍平が大膳の言った碁用語を「斬れ」という意味に取り違え、直信を斬りに行こうとするのを雪姫があわてて止めるシーンがあって、やっと大膳は我に返る。但し碁は続き、今度はふたりは戦に見立てて延々と碁を打つ。遊んでいるように見せて東吉の軍事センスを見ている。やっと東吉が勝つ。

 大膳は今度は碁笥(ごけ)を庭の井戸に放り込む。「碁笥(ごけ)」というのは碁石を入れるまるい器。「手を濡らさずに碁笥を井戸から取り出せ」と大膳は東吉に要求する。東吉は滝の水を樋(とい)を使って井戸に流し込み、見事に碁笥を取り出す。ただ取り出すだけでなく、碁盤に碁笥を載せて大膳に差し出す。これは台に人間の首を載せた状態を暗示している。このようにして見事に小田春永の首を切って献上してみせましょうという感じ。すっかり東吉が気に入った大膳。採用が決定する。東吉と軍平は一度退場する。

 さて、やっと雪姫が言うことを聞く。大膳はいそいそと雪姫の手を取る。大膳は「言うことを聞くならついでに龍の絵も描いて」と言うが、雪姫は描けないという。「狩野派の龍のお手本の絵」がないと描けないのです。お手本は、その昔おとうさんの狩野将鑑が殺されたときに紛失したのです。じゃあお手本を見せてやる、と言う大膳が、持っている刀を抜いて滝にかざす。あらふしぎ。滝に龍の絵が浮かび上がる。魔鏡のこの刀こそ雪姫が探している家宝の「倶利伽藍丸」(くりからまる)である。これを持っている大膳は、父を殺してこの刀を奪ったことになる。父の敵は大膳だった。ずっと「龍が描かれた家宝の書を探している」と言っていたのは、「刀を探している]と言うと持ち主が警戒すると思って、わざと情報にフェイクを入れていた。本当に探していたのは、「龍の絵を映し出す刀を持っている男」だった。ちなみに「倶利伽羅」というのは、「倶利伽羅竜王」(くりからりゅうおう)のこと。えらい仏さまのひとり、大日如来の命令で仏法を守る不動明王(ふどうみうおう)の化身で龍の姿をしている。この剣は、朝日が当たると不動明王の姿を映し、夕日が当たると龍の姿を映すという不思議な仕掛けになっている。なので「倶利伽羅丸」という名がついている。中国渡来の神秘の品である。

 イキナリ急展開で雪姫が大膳に斬りかかる。しかししょせん女の細腕。雪姫は出てきた喜藤太に取り押さえられて庭の桜の木に縛られてしまう。様子を見ていた東吉が怒り狂い、雪姫を殺してしまおうとする。その様子を見た大膳は、あらためて東吉を信用する気になる。

 さて、大膳は捕まえて閉じこめてある狩野直信を殺すことにして、軍平に処刑を命令する。家来たちは、雪姫も殺さないのかと聞くが、桜の木に縛られた雪姫はじつに美しい。殺すのはもったいないと思う大膳。あとでもう一度口説くことにする。大膳たちは退場する。縛られた直信が軍平に引かれて出て来る。どちらも動けない雪姫と直信とのお別れの場面。絶望する雪姫。そういえば直信に言い忘れたことがあります。父の敵は大膳なのです。直信はもう死んでしまうのですが、しかし伝えなくてはなりません。あせる雪姫。ここからとても有名な場面になる。

 満開の桜の木に美女が素足でしょんぼりと縛られているというエロティックな場景があざとい。素足の雪姫はつま先で桜の花びらを並べてネズミを描く。雪姫はとても実力のある絵師である。このネズミが命を持って抜け出て雪姫の縄を食いきる。そういう展開です。逃げようとする雪姫を大膳の弟の喜藤太(きとうだ)が急に出てきて止めるが、これまた急に出てきた東吉に殺される。ここは歌舞伎の定番の場面で、離れた場所から東吉が刀を投げ、それに刺されて喜藤太が死ぬ。東吉は、「真柴久吉」(ましばひさよし)と名乗る。羽柴秀吉である。ストーリー上は、ここではじめて東吉が味方だとわかることになる。

 倶利伽羅丸は大膳が喜藤太にあずけていた。東吉が死んだ喜藤太から刀を奪い取って雪姫に渡す。直信を処刑するために連れて行った軍平も、東吉の家来なので気遣いはない。軍平の本当の名は「加藤正清」(かとうまさきよ)(加藤清正)です。雪姫は、大膳が父の敵だと知らせるべく直信のところに向かう。雪姫退場。

 あと、東吉が桜の木を登って、お寺の三階に閉じ込められている慶寿院さまを逃がそうとする場面がある。もう完全にあきらめていた慶寿院さまが、死んだ義輝の弟で、出家していた「慶覚」(けいがく)さまが、春永の説得で還俗した。「足利義照」(あしかがのよしてる)と名前も変えて、軍を起こす決意をした。その話を聞いて勇気を出して逃げることにする。慶寿院さまを助けだした東吉(真柴久吉)と軍平(加藤正清)は、仲間の軍勢も呼んで大膳を討ち取ろうとするが、大膳も予測はしており、戦闘態勢を整えている。久吉と正清が出てきた大膳とにらみあう。ここでは決着は付けず、戦場であらためて会うことにして「さらばさらば」で幕になる。

【秀吉履歴/浅井攻めプロデュース】
 信長は、浅井・朝倉連合軍征討後、小谷城に籠城し信長への抵抗を続ける浅井長政を攻めることになった。秀吉、この時の小谷城攻めの責任者として抜擢され、奪取した横山城の城代に任じられ、浅井攻めをプロデュースしていくことになる。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげた。

 秀吉の参謀となっていた竹中半兵衛が近江の浅井長政の武将たちに寝返り工作を仕掛けて行く。秀吉は、比叡山の坊さんから武士に転身した宮部継潤が手強い相手だといいうことで寝返り工作を進めるために、自分の甥(秀次)を養子にして送り込んだ上で寝返り工作もしている。浅井方の武将も一人寝返り、二人寝返りで、とうとう天正元年に山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)も寝返り、信長はこれを機会に小谷城を攻めることになる。

【浅井攻め一進一退】
 1570(永禄13).9月、浅井氏は、信長が三好三人衆を討伐せんと摂津に出兵(野田城・福島城の戦い)した隙を突いて再び朝倉と蜂起し(志賀の陣)一矢報いた。この時期から室町幕府15代将軍足利義昭の呼びかけに応じた石山本願寺らも織田氏を攻撃し始めた(信長包囲網)。しかし近江では、孤立した佐和山城主の磯野員昌宮部継潤が織田家に降伏。小谷城近辺の町が毎年放火、刈田狼藉を受けるなど、浅井氏は苦境に陥っていった。

【信長包囲網】
 浅井・朝倉連合軍に加え、近江南部・甲賀では六角義賢がゲリラ的に活動し、三好三人衆も摂津・河内を抑えて再び京奪還を狙っていた。更に石山本願寺を率いる顕如は、摂津・河内・近江・伊勢、そして信長のお膝元でもある尾張の門徒衆にも号令を発していた。

【安土時代その後】

【囲碁の上手を集めた碁会の記録】
 1571(元亀2)年、言継卿記。
  「二月卅日、壬戌、天晴る。午の時より中御門・雲松軒などを同道せしめ吉田へ罷り向ふ。路次の土筆これを取る。吉田は父子ながら細川兵部大輔に上手衆の囲碁これありて、罷り向くと云々」。

【算砂、宗心】
 1571(元亀2)年、宗及自会記(津田宗及の茶会記録)。
 「三月十九日朝、三好咲岩、池田紀伊守、河原宗久、一、長板、フトン・しがらき、二ツ置、亀のふた。一、床、定家色紙、かけ、カウライ茶碗。右会過ぎテ、大座敷にて碁あり。宗心、京之しんぼち、但し十三に成候、客人五十人ばかり、碁三番アリ、三ツ之碁、宗心勝也」。

 堺の豪商・天王寺屋の津田宗及の茶会の記録。宗及は千利休・今井宗久とともに茶湯の三師匠と称される茶人。茶会で招客の接待に碁会を催し、上手同士の対局が披露されたようである。宗心と京のしんぼち(新発)が子の碁を番披露して宗心が勝ったとする。

【仙也】
 仙也(せんや)
 生没年不詳。経歴その他、ほとんど伝承されていないが堺の商人であり、算砂の囲碁の師匠であったという。天正16年、秀吉が算砂に出した朱印状の中に、「各碁打は、算砂に先の手合。但し、仙也は師匠たる故、互先」と記されたらしい。(写しのみで朱印状現存せず)
 1571(元亀2)年、棚守房顕手記(厳島明神神官棚守房顕の記録)。
 「一社頭事立替らるゝ、しかれば遷宮の儀、往古は当社々家老者中調へ来ると見える。…元就公と申談じ、従前の神道伝授なれば、京都吉田神主兼右をよびくださんと申す。しかれば未の歳、六月十四日、元就公御死去なれば、万事相違なれども、兼右をよび下し申す。十二月廿一日下向あり。長楽寺を宿坊に申付る。…今度兼右下向に付て、(同行数人の名、略)碁打専哉同道下向あり。山口の長岡と吉田に於て、はれなる碁あり。専哉に二ツにて三番、長岡まくるなり。さる程に兼右に宝蔵の太刀刀を明神よりの御引出物に参られるべき由、元就公と御意得候間、菊作の太刀はせべの国重の刀を取出し、参らせ候処、隆景の御奉納候、来大郎作の太刀を所望なるの由にて、両種を御返し候条、何も不進候、御鬮共給ひ見候処に、おりざる間、宝蔵の太刀刀一種も参せず候。棚守より銘作の太刀二ツ、刀四ツ、丸貫のだんの脇刀一ツ進上申候ひき。上よりは太刀、刀、銀子百枚、其外巻物多くこれあり、今度の御入目、彼是二三万貫も入べく候哉」。

 この年の遷宮の神事に京の吉田神社を頼んだ。吉田社の吉田兼右は前年に子の兼見に家督を譲っていたが、以前から大内氏や毛利氏など中国の勢力家との縁があり、自ら遷宮の神事に出向いたようである。その吉田兼右が同道した中に碁打専哉とある、これは仙也のことであろう。吉田神社で碁会を開いた。専哉に二ツの相手・長岡は細川藤孝(幽斎)であろう。吉田社の吉田兼見と細川藤孝は従兄弟の間柄であった。武将の囲碁好きは多くいるが、腕前は幽斎が頭抜けていたのではないか。吉田兼見の日記・兼見卿記には多くの碁会の記録が記されている。

【信長の石山本願寺攻略戦始まる】
 1571(元亀2).1.2、 元亀2年1月2日、信長が、横山城の城主であった木下秀吉に命じて大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させた。石山本願寺と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断するのが目的であった。この時の命令書が残っている。 「北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻のでの間、海陸共に堅く以って相留めるべき候。もし下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し」(尋憲記)。かく、信長は「尋問して不審な者は殺害せよ」と厳しく命じている。この時の通行封鎖はかなり厳重だったらしく、尋憲記には奈良の尋憲の使者も止められたので引き返したと記されている。

 同年2月、孤立していた佐和山城が降伏し、城主の磯野員昌が立ち退いたため、信長は丹羽長秀を城主に据え、岐阜城から湖岸平野への通路を確保した。5月、浅井軍が一向一揆と組んで、再び姉川に出軍し堀秀村を攻め立てたが、木下秀吉が堀を助けて奮戦し、一向一揆・浅井連合軍は敗退した。同月、信長は伊勢で長島一向一揆に参加した村々を焼き払った。8.18日、長政の居城となっていた小谷城を攻めた。9.1日、柴田勝家佐久間信盛に命じ、六角義賢と近江の一向一揆衆の拠点となっていた志村城、小川城を攻城した。志村城では670もの首級をあげ、ほぼ全滅に近かったと思われている。それを見て小川城の城兵は投降してきた。また金ヶ森城も攻城したがこちらは大きな戦闘も無く落城した。


【信長と比叡山の対立事情】
 同年9.11日、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いた。その夜の軍事会議で、信長は、比叡山の無力化を戦線打破の重要課題と位置づけ徹底的破壊を打ち出した。当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。比叡山は京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていた。比叡山側は信長包囲網に与し浅井・朝倉連合軍を援けていた事情があった。しかし織田軍の武将の中に、この考え方に賛同しない者もいた。佐久間信盛と武井夕庵らが、「この山と申す事は、人王五十代桓武天皇、延暦年中に伝教大師と御心を合せ、御建立ありしよう以来、王城の鎮守として既に八百年に及ぶまで、遂に山門の嗷訴をだに不用と云う事なし、然るに今の世澆季とは申しながら、斯る不思議を承り候事、前代未聞の戦にて御座候」(甫庵信長記)と「前代未聞の戦」という言葉を使い諌めた。この時池田恒興が進言し、夜になってしまえば逃散する者も出るであろうから、早朝を待って取り巻いて攻めれば全員討ち取る事ができるとした。信長はこの言を聞き入れ、11日夜中より比叡山の東麓を3万の兵が隙間なく取り巻いて、早朝の合図を待った。この動きを察知した延暦寺は、黄金の判金300を、また堅田からは200を贈って攻撃中止を嘆願したが、信長はこれを受け入れず追い返した。ここに至り戦闘止むをえないとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。

【秀吉履歴/比叡山焼き討ち】
 1571(元亀2).9.12日(9.30日)、織田信長が滋賀県大津市の比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)を命令した。まず坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に攻撃が始まった。信長公記にはこの時の様子が次のように記されている。
 「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」。

 坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭もったようだが、ここも焼かれた。この戦いで僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねた。その様子がルイス・フロイスの書簡にも記載されている。この戦いでの死者は、信長公記には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、言継卿記には3千-4千名と記されている。
 信長は戦後処理を明智光秀に任せ、翌13日午前9時頃に精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。その後三宅・金森の戦いでは近江の寺院を放火していく。延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は没収され明智光秀、佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀に配分した。この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々与力らをこの地域に派遣して治めることになる。特に光秀と信盛はこの地域を中心に支配することになり、光秀は坂本城を築城することになる。一方、延暦寺側では正覚院豪盛らが逃げ切ることができ、甲斐の武田信玄に庇護を求めた。1579(天正7).6月の日吉大社の記録には、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、信長によって綸旨が押さえられ、再興の動きは停止されてしまったとある。

 その後本能寺の変で信長は倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。羽柴秀吉は、帰山は見逃したものの、山門の復興を願い出に対しては簡単には許さなかった。但し、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許し、軍政や政務について相談する関係になった。徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われている。

 比叡山焼き討ちに関し、山科言継は言継卿日記において「仏法破滅」、「王法いかがあるべきことか」と批判している。宮中の御湯殿上日記において、 「ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」と批判している。信長公記は「(焼き討ちの理由は)比叡山が浅井、朝倉方についたのでその憤りを散ぜんがため」、「年来の御胸朦(わだかまり)を散ぜられおわんぬ」、「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」としている。多聞院日記にも「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記している。 小瀬甫庵も太閤記で「山門を亡ぼす者は山門なり」と批判している。儒学者である新井白石読史余論で「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」と記している。


【秀吉履歴/朝倉、浅井攻め】
 1572(元亀3).7月、5万の大軍を率いた信長は小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から横山城まで長大な要害を作り始めた。これを見た浅井氏は、朝倉氏に「河内・長島で一向一揆が起き、尾張と美濃の間の道をふさいだので、朝倉殿が出馬なされば尾張・美濃勢をことごとく討ち果たせるでしょう」と虚報を伝えて援軍を求め、越前からも朝倉軍(義景の1万5000、朝倉景鏡の5000)が救援に駆けつけた。これと同時期に西上作戦を発動させた甲斐の武田信玄が信長・家康の領国へ侵攻した。

 しかし義景はほとんど攻勢に出ず、むしろ朝倉勢から前波吉継父子、富田長繁戸田与次毛屋猪介が織田方に寝返る始末で、織田方の要害が完成してしまった。信長は志賀の陣に引き続き、「日を決めて決戦に及ぼう」と義景に申し入れたが、やはり義景は動かなかった。9.16日、信長は木下秀吉を虎御前山砦に残して横山城に兵を引いた。

 11.3日、浅井・朝倉勢はやっと動き、要害に攻撃を仕掛けてきたが木下秀吉に撃退され、12.3日、朝倉勢は越前へ撤兵してしまう。朝倉軍引き上げから翌年2月までの信長の動向は良く判っていないが、おそらく美濃で武田氏を迎撃する準備をしていたと思われる。なお、「自分の死を3年間は隠せ」との信玄の遺命に従った武田家では、同年内の織田・徳川への本格的な再攻をすることはなかった。


【秀吉履歴/一乗谷城の戦い】
 1573(元亀4).3月、信長包囲網の盟主・足利義昭が槇島城で挙兵。信長は和睦を申し出るが義昭は拒絶、4月に一度は和睦したが、7月に義昭が再挙兵すると戦闘に及び義昭を降伏させ、7.20日に義昭を放逐し(槇島城の戦い)、7.28日には元亀から天正に改元させた。更に8.8日、浅井家重臣の山本山城主阿閉貞征が織田方へ寝返ると、信長はこれを好機と見、3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始、虎御前山の砦に本陣を布いた。

 織田軍は背後に朝倉氏が控えていたこともあり無理に力攻めはしなかった。一方、浅井長政は居城の小谷城に5千の軍勢と共に籠城したが離反が相次ぎ、小谷城の孤立は益々強まっていく。浅井氏は朝倉氏への援軍要請しか手段がなく、その朝倉氏は朝倉家家中の一部から上がった反対の意見を押し切り、義景自ら2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出する。

 ところが朝倉軍は前哨戦で敗北した上、構築した城砦(大嶽砦など)を容易く失陥。このため撤退し始めるが、そこを織田軍に猛追され、壊滅的な敗北をこうむった(刀根坂の戦い)。義景は8.15日に一乗谷城に辿り着いたが、8.17日に織田軍は朝倉氏の居城一乗谷城を攻め焼き払ったため、最深部の大野郡の山田庄まで逃れ、ついに20日、朝倉景鏡の裏切りもあり、義景は自刃して朝倉氏は滅びた(一乗谷城の戦い)。


【武田信玄急逝】
 1573(元亀4).4月、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に急逝した(享年53歳)。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。信玄は彼らを保護し延暦寺を復興しようと企てていたが実現をみるに至らなかった。

 甲陽軍鑑によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景馬場信春内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

 1573年、足利幕府滅亡。


【秀吉履歴/小谷城の戦い】
 1573(天正元).8.8-9.1日、藤吉郎36歳のとき、小谷城の戦い。信長は先の越前朝倉氏討伐に続いて、越前を制圧し、織田軍の一部を越前での戦後処理に留めて虎御前山の本陣へ帰還すると、信長を裏切った小谷城への浅井氏への総攻撃を命じた。木下秀吉率いる3千の兵が夜半に長政の拠る本丸と長政の父・浅井久政が籠る小丸にとの間にある京極丸を占拠した。この時、三田村定頼海北綱親らは討死した。これで、父子を繋ぐ曲輪を分断することに成功した。やがて小丸への攻撃が激しくなり、800の兵を指揮していた久政は追い詰められて小丸にて浅井惟安らと共に自害した。その後、本丸(長政以下兵500)はしばらく持ちこたえ、長政はその間に嫡男万福丸に家臣を付けて城外へ逃がす。さらに正室のお市の方を3人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡した。その最後の仕事を果たしたのち、袖曲輪の赤尾屋敷内で重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に長政は自害して小谷城は落城した。この日をもって、北近江の戦国大名浅井氏は亮政から3代で滅亡したのである。ただ、雨森清貞は、逃亡した。

 金ヶ崎での裏切りもあり、信長の浅井氏への仕置きは苛烈を窮めた。浅井長政・久政親子の首は京で獄門にされ、男系の万福丸は探し出されて関ヶ原で磔にされ、親族の浅井亮親浅井井規、家臣の大野木秀俊も処刑された。他にも、浅見道西など、寝返った将にも、処分された。また、長政・久政の頭蓋骨は義景のそれと共に薄濃にした。これは敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものである。小谷城は廃城にされた。

【菅沼宗心の算砂、仙也との大一番勝負】
 「囲碁史物語story 会津の碁打」を参照する。 名君の評高い初代会津藩主・保科正之の命により家臣向井吉重が編集した地方史料雑録書「会津旧事雑考」に囲碁に関する次のような記述がある。真偽は不明である。
 「天正元年癸酉、菅沼宗心在り、天性囲碁を能くす。郡に敵手なし。その頃宇都宮真野氏世有囲碁誉、宗心行き対奕す、容易勝下視矣、聞勢州に善くする者有り、又彼に到。誉者国を挙て十九人有り、宗心交して対奕す、一人として亦敵手無し、徒膽沢六郎左衛門一人悟心之行勝、不対奕、故心太夸能。洛に到り本因坊と対奕せんことを望む、終に入洛す、挙洛在囲碁之声者対奕、一人として亦敵手無し、則ち本因坊亦不得止、微服潜行誠対奕、打頭輸者二番、時に森蘭丸事を信長公に告ぐ、召して仙也と対奕せしむ。也は本因坊師と雖も、近来因却類青藍、因其不敵、況んや也においておや、然不幸心之輸者、尋二番、無状退憤悶欲帰郷、越前への路経に河に溺れ死すと云ふ、彼新九郎は始め、小字を益十と云ふ、先本因坊と対奕之囲碁一番、世有記於体者、故取載云」。
 「(戦国の末期の)天正元年癸酉、会津の黒川町に菅沼宗信在り、天性囲碁を能くす。近郷近在(郡)に敵なし。1573(天正元)年、洛(京都)に至り本因坊と対奕せんことを望む。こうして囲碁武者修行の西上の旅に出た。旅の途中、どこそこに碁の強者がいると聞けば対局を申し込んだ。まず宇都宮に行き、当地の実力者真野某と対局し圧勝した。次に伊勢に行き、名のある者と対戦し全員を倒した。そして京都に至る。京都で囲碁の何のある者を聞けば出向き、何人と対したのか分からないが一人として亦敵手なし。ある時、本因坊算砂と対局することになった。互先と思われ、結果は二戦して宗心の二勝。本因坊はいなか碁打と気軽に対局できる立場になかったらしく、秘密裏に対局したようである。しかし、この対局を目撃した者がいた。織田信長の小姓・森蘭丸である。蘭丸は信長にこの旨を注進した。信長は本因坊が無名のいなか碁打に負けたことに驚き、本因坊の師の仙也と宗心を対局させた。当時、仙也は現役を退いた身であり、『それに因てすら敵せざるに況んや也においておや』(本因坊だってかなわなかったのだから、引退した仙也が勝てるわけがなかろう)と宗心の圧勝を予想した。ところが予想とは逆に互先の二番勝負に宗心は連敗した。失意の宗心は河に身を投げた投身自殺する。『憤悶して帰郷せんと欲し、越前への路経に河に溺れ死すと云ふ』と記されている」。

 1573(天正元)年、長帳続年日記(会津塔寺八幡宮の年次記録)。

 「癸酉、会津黒川町菅沼宗心と云者、囲碁の能有り、郡中無敵、其頃本因坊と囲て勝つ、仍て信長にも上見す、帰りて越前にて河に溺死と云」。

 1573(天正元)年、常山紀談。

 「三河作手の城主奥平美作守貞能、武田家に心を寄せ、勝頼の士大将甘利を作手の本丸に置き、奥平父子は外郭ににあり。折柄信玄の死を悟りて、家康より帰降の勧めに従ひ密約を為す。勝頼方より二心ある由を尋ねるも愛子千丸を人質に出したれば何の子細のあるべきと、*くいろなく、いざ碁を打たんと貞能心静かに碁を打ち終り、暇乞いして門外に出る。云々」。

【信長が正倉院から碁盤を持ち出す】
 1574(天正2)年、信長が正倉院から碁盤を持ちだしたという記録が天正二年截香記に残されている。

【囲碁風景の描かれている「洛中洛外屏風」】
 安土桃山時代の頃の「洛中洛外屏風」には、町人が離れ座敷みたいなところで碁を打っている姿が描かれている。見物人が一人盤側に座っている。碁盤は今日のものと違わない。名古屋城の襖絵にも碁を打つ姿がある。
 米沢市上杉博物館保管の狩野永徳筆「紙本金地著色洛中洛外図」は、1574(天正2)年、織田信長が上杉謙信に贈った6曲1双の屏風で、右隻には、御所と祇園祭を中心とした下京の洛中を描き、洛外として伏見稲荷山から比叡山に至る東山を背景に据えている。 左隻の中心は、公卿たちの邸宅が集中していた上京で、足利将軍邸(左図)が第4扇に大きく描かれている。洛外は鞍馬山から苔寺につらなる北山、西山を背景として右京を描いている。永禄7年(1564年)以前の作と推定される。(各縦159.4㎝、横363.3㎝) 

【秀吉履歴/小谷城から近江長浜城の城主に出世する】
 1574(天正2)年、藤吉郎37歳のとき、木下藤吉郎は、浅井氏旧領の江北三郡を与えられ、小谷城から近江長浜城の城主に出世した。秀吉は、これにより12-13万石(後の太閤検地の石高)の領地を持つ、いわゆる大名と呼ばれる身分に登った。その後も長篠の戦いに従軍するなどして信長配下の軍団長として活動を続ける。秀吉は長浜城を築いた。
 この長浜城の城主時代に、地元から石田三成などの人材を得ている。石田三成貰い受けのエピソードとして三杯の茶がある。とある寺に休憩で立ち寄った秀吉はそこの寺の茶坊主が一杯目にはぬるいお茶、二杯目には温いお茶、三杯目には熱いお茶を出してきたことに対して大いに感激し、この茶坊主を召し抱えたという話である。この茶坊主がのちの石田光成になる。
 京都の政務を信長から任される。

【秀吉履歴/長篠の戦い】
 1575年、藤吉郎38歳のとき、長篠の戦いに従軍する。織田・徳川連合軍と武田軍との戦い。織田側の鉄砲隊が活躍したことで有名。
 同年、長篠の戦いの後、藤吉郎は、これまで小者の頃から使用していた木下姓では格が足りないようになり大名姓が与えられる運びになり、秀吉は、信長の重臣である丹「羽」長秀と「柴」田勝家の両名から、それぞれ一字ずつを拝借して羽柴と姓を改め 「羽柴筑前守秀吉」に改名した。自分の出世に対し、古くから信長に仕えている武将たちから妬まれぬよう気遣っていることが分かる。20万石の大名となった。

【信長に碁盤を贈る】
 1575(天正3)年、兼見卿記には信長に碁盤を贈った次のような記述が存在する。
 「三月十七日、丙辰、信長に見廻のため罷り出ず。作の碁盤、其の内へ菓子を入れ之を持参す。仕立の珍敷之皆之を感ず。一段懇之礼也」。

 上洛した信長への贈り物として盤に菓子を入れて進呈した。信長が相当に囲碁に興味を持っていたと考えることができるのではないだろうか。

【仙也】
 1576(天正4)年、言継卿記(大納言山科言継の日記)。
  「七月二日、癸巳、天晴る。徳大寺より呼ばるるの間、罷り向ふ。しかれば大将この次必ず可有勅許之由、左大弁宰相を以て勅約也、然者九条殿被転左府、大将可被辞之由風聞也、…小笠原民部少輔・碁打の仙也など、酒これあり」。

 徳大寺は内大臣の徳大寺公維と思われる。記者・山科言継が徳大寺公維を訪ね、招客に碁打の仙也もいたというもの。日次記録の中に「碁打仙也」として名がみえるのは、これが初出である。仙也は本因坊の師匠とも堺に住したとも伝わるが伝記ははっきりしない。碁打ちとして認識される人物がこの頃に登場し、衆目の一致する囲碁の上手が現れ始めたことがうかがえる。
 言継卿記のほかにも、同時代やその後に書かれた舜旧記(しゅんきゅうき)、史料纂集、兼見卿記などに、「碁打」と認識されている人物の名前が散見されるようになってくる。

【「狩野永徳による囲碁の絵」】
 狩野松栄の嫡男・狩野永徳(1543 - 1590)は州信(くにのぶ)とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。織田信長、豊臣秀吉といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いた。1576(天正4) -1579(天正7)年、織田信長が建立した安土城天守の障壁画制作に携わっている。信長亡き後は豊臣秀吉の大坂城や聚楽第の障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わっている。これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅してしまった。現存する永徳の代表作としては、聚光院方丈障壁画のほか、旧御物の唐獅子図屏風、上杉家伝来の洛中洛外図屏風が名高く、東京国立博物館の檜図屏風も古来永徳筆と伝えるものである。「狩野永徳による囲碁の絵」も遺されている。

【安土時代後半】

【秀吉履歴/霧山城攻撃、落城させる】
 1577(天正5)年、秀吉40歳の時、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。

【秀吉履歴/柴田勝家のと仲違い】
 同年、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。その後、勝家らは謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮した。

【秀吉履歴/信貴山城の戦い】
 同年、信長に対して松永久秀が謀反をおこし、信貴山城で行われた攻城戦で軍功を挙げる。織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍して功績を挙げた(信貴山城の戦い)。

【秀吉履歴/三木合戦】
 1578(天正6).10.23日、秀吉は、信長から中国地方を制覇していた西国の強敵/毛利氏の攻略を命じられ司令官に任じられる。秀吉は2万の軍を率いて播磨国に出陣した。三木合戦開始(3月29日 ~天正8年1月17日) 。
 秀吉は更に播磨国から但馬国(兵庫県北部)に侵攻し、10日で18の城を落とすというすさまじい戦果を上げている。岩洲城を攻略し、太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させた。以前から交流のあった小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。播磨において一部の勢力は秀吉に従わなかったが、上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。
 播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房、別所長治、小寺政職らを従えた。11月中に播磨は平定できると報告して、信長より働きを賞賛される朱印状を送られている。

【秀吉履歴/黒田官兵衛を抱える】
 秀吉は続いて播磨(兵庫県西部)の調略に取りかかった。この時、現地の豪族・小寺氏の家老であった黒田官兵衛と出会い、秀吉の協力者とする。黒田官兵衛から姫路城を譲り受けてそこを拠点とし、山陰・山陽の各地域を攻略していく。但馬、因幡、備前といった国々を手中に収めた。 秀吉自身は播磨・姫路城を本拠にしながら山陽方面を攻め、秀長が但馬、因幡方面を攻めており、秀吉の快進撃を支えている。

【「長水落城哀話」】
 この時、碁の為に合戦となり落城した物語「長水落城哀話」が生まれている。秀吉が西国攻めに際し、姫路に陣取っていた時のこと、秀吉は、長水城(播磨国山崎)城主/宇野下総守政頼に降伏を勧めた。政頼は結局、秀吉に随身すべく姫路に出向き、秀吉に面接を乞うた。次のように逸話されている。
 「翌日登城して、次の間に控えて様子如何にと相侍る。この時秀吉は、某士と碁を囲み、心を碁局にのみ移して敢えて政頼には面会いたさざりしこそ口惜しけれ。目にもの見せて呉んずと言い、将士を引き連れ長水城へと帰りたまひぬ。秀吉は碁面にのみ心を注ぎ、政頼の立腹して返りしも気付かざりしが、後にいたりて云々」。

 かくして、落城哀話に繋がる長水攻めと相成った。

【日淵上人が寂光寺創建】
 雍州府志(1684年成立名所記)。
 「寂光寺、京極大炊御門にあり。空中山と号す。日淵上人、開基にして、日蓮宗二十一箇寺の一員なり。寺産少しばかりあり。織田信長公の時、この寺中、本因坊の僧算沙の弟子宰相、囲碁に精し。召して、その術を見たまふ。その後、東武より、本因坊ならびに将棊の巧手宗桂、共に五十石の年俸を賜ふ。これより後、この坊の住僧、経巻を読むことを知らずといへども、天性囲碁に通ずる者を撰びて、髪を剃りて僧とす。年々東武に赴き、柳営に謁見す。およそ囲碁・将棊の奕徒、家を立て、禄を受く。これ本朝の流風なり」。
 京華要誌(1895(明治28)年刊、京都惨事会編の名所記)。
  「[寂光寺、二王門通新高倉東]空中山と号せり。開基は日淵上人にして、法華勝劣派二十一刹の中なり。初め室町近衛にあり。中頃京極二条に移り、終にこの地に転せり。往昔寺中に本因坊といふあり。住僧算砂の弟子某[宰相といふ]囲碁に巧なるを以て信長公に召さる。その後幕府より五十石の俸禄を寺僧に給せらる。爾来寺住は囲碁将棋の妙手を撰びて剃髪せしめ、年々登営して幕府に謁見するを例となせり」。
 1578(天正6).11月、日蓮大聖人滅後二九六年後、久遠院日淵上人により京都室町出水(近衛町)に創建された。寂光寺は京都十六本山のひとつ。

 1580(天正8)年、豊臣秀吉による聚楽第建築のため、寺町二条(竹屋町)(現在の久遠院前町)に移り、境内に久成坊、実教院、実成坊、詮量院、本成坊、玄立坊、本因坊の七塔頭を建て布教拠点としていた。1708(宝永5)年、京都の三大大火のひとつ「宝永の大火」により寂光寺は焼失。これにより現在の東山仁王門西入に移転した。寂光寺の塔頭の一つの本因坊に住んでいたのが本行院日海であり後の本因坊算砂である。現代ある本因坊戦はこの本因坊から来ている。(囲碁史会会員 光井一矢・「囲碁史散歩(1)」参照)

【信長の「その方はまことの名人」】
 1578(天正6)年、織田信長は当代随一の打ち手として名声を高めていた日蓮宗僧侶の日海(20歳)を招き御前で対局させる(「寂光寺記録」)。信長は日海の対局をみて「その方はまことの名人」と称えた。(「織田信長は日海上人に五子置いて一回も勝てなかったので『ああ名人哉』といった。これが碁に名人という言葉ができた由来と言われている」との記述もある)これを機に算砂は「名人」を名乗るようになる。信長が日海の囲碁の非凡さに驚嘆して名づけたのが「名人」であり、「名人」呼称の始まりと云うことになる。即ち、「名人」名は囲碁が元になっている。以後しばしば召出す。

 日海は、それまでは対局する両者が碁盤上にあらかじめいくつかの石を置いて対局していたものを無石状態から打ち始める現在の形式に変更した功績者とされている。これによれば、布石の概念がこの頃より生まれたことになる。
 信長は大変な囲碁好きで、京都逗留中はどんなに多忙であっても必ず日海を呼び、御前対局させるか、信長自身が対局するのが常であった。

 活動力のある日海は信長、秀吉、家康の碁好きに仕えた。信長、秀吉、家康ともに日海に五子の手合だったと云われている。乱世の中、算砂は林利玄や他の弟子たちと共に秀吉、家康にも仕え、碁打ちとして俸給をもらい弟子の育成、碁の発展に勤しむ事となる。この流れで囲碁史上初のプロ誕生を迎えることとなる。
 本朝世事談綺。
  「態芸門[碁]本朝は吉備大臣にはじまる。…中世後土御門院の朝に、意雲老人妙術たり。そのゝち後陽成院の朝に、寂光寺本因坊日海法印、天下の巧手とす。代々本因坊と称す。頃年の本因坊道策は、古今の妙術たり。碁聖といふべきか」。

【長岡藤孝(細川幽斎)の囲碁興行】
 1578(天正6)年、兼見卿記(吉田社当主吉田兼見の日記)。
  「十月八日、丙戌、長兵(長岡藤孝)来り、後刻京に皈る。来たる十日、勝竜寺に於て囲碁を興行、下向すべき之由。契諾し同心す」。兼見卿記。「十月十日、戊子、兼ての約に依り勝竜寺に下向す。長兵門外に出て面会す。道宅同くす。百疋・鮭一を持参す。夜に入り碁を囲む。宗心と樹斉は、宗心の徳番、宗勝つ[十五目、]。その後乱舞深更に及ふ。一宿す」。兼見卿記。「十月十一日、己丑、沼入に於て朝在り、長兵相伴す。新小院に於て囲碁興行す。宗心と樹斉也。最中に佐久間(信盛)南方へ下向の次音信也」。

 日記の記者は吉田社の当主。長岡藤孝(細川幽斎)から碁会興行の案内が来て出かける。碁会はつづけて開かれ、碁打の宗心と樹斉との対局があったとする。勝竜寺は長岡当時の幽斎の居城。佐久間信盛は信長の武将で、中国地方の戦線に下向したのであろう。記者の吉田兼見と幽斎は従兄弟。

【秀吉履歴/西国攻略】
 1578(天正6)年、秀吉41歳のとき、三木合戦。織田軍と別所軍の合戦。羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つ。秀吉が行った「三木の干殺し」とよばれる兵糧攻めが有名。
 同年、上月城の戦い。信長との対決の拠点とするため、毛利氏が上月城の奪還を目論んだ戦い。三木合戦の最中で秀吉が救済に向かったが敗北。今後始まる“毛利 対 織田”の本格的な対決のはしりとなった。
 1579(天正7)年、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国、美作国の大名/宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許される。
 1580(天正8)年、秀吉43歳のとき、織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。

 毛利攻めの最前線である姫路の英賀城を攻撃した。英賀城は西に夢前川、東は水尾川、南に瀬戸内海、北に堀をめぐらした平城で、城内に英賀御坊という本願寺の寺院もあり寺内町でもあった。英賀城主の三木通秋は英賀一向一揆を率いて毛利氏や本願寺の援助を受けて頑強に抵抗した。そこで、秀吉は夢前川を堰止め、防御のための堀に水を流すという水攻めを採用した。1年10ヶ月に及ぶ篭城戦の末、三木通秋は開城した。怒り狂った羽柴秀吉は、住民を皆殺しにしようとしたが、小寺官兵衛(後の黒田如水)の進言を受けて姫山に住民を移し姫路城を築いた。秀吉が、殺されても当然と覚悟している住民の命を救ったことが後に幸いすることになる。
 同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた山名祐豊(嫡男の山名氏政は落城前に羽柴家に帰参)が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。自らは播磨経営に専念するために弟である羽柴秀長を有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより但馬の国人の反乱も起きず、羽柴秀長による但馬経営は円滑におこなわれた。秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。
 1581(天正9)年、秀吉44歳のとき、因幡山名家の家臣団が、山名豊国(但馬守護・山名氏政の一門)を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻した。秀吉は、姫路城から鳥取に出て鳥取城を攻撃する。鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国地方西半を支配する毛利輝元との戦いは続いた。
 同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。

【法華宗と浄土宗間の安土宗論】
 1579年、信長が天下人だったこの時、法華宗と浄土宗の間に安土宗論が起こっている。立正大学名誉教授の宮崎英修氏の本因坊算砂略伝では、日淵が当時のことを口述した安土問答実録を基に安土宗論で日淵上人に随行していた若き学僧が本因坊算砂ではなかったかと次のように推測している。
 「日蓮宗側の常光院日諦、佛心院日、久遠院日淵(当時日諦は相当な老齢、日は四十八才、日淵は五十一歳、なお、日海は二十二才)の三人は信長の面前に引きすえられ、宗旨をかえるか、それとも一筋に命を思い切るか返答せよ、と責められ、速答はむづかしかろうからよく思案せよ、といつて、あとを奉行長谷川御竹、菅谷九右衛門、堀久太郎にまかせて帰ったがこの時、信長は垣谷伝介、普門院日伝が、宗論の首謀者であるというので、三人の面前で頸を刎ねて脅している。それから、さて次にわれら三人の者にあの老僧はとありし時、日申さく、妙覚寺の学頭と、汝は堺の油屋浄祐が弟ならん、疑いもなくよく似たり。又仰せられるゝやうは、新発意か坊主かあるは何れぞとありし時、日淵手をとられながら少し俯向す。その時仰せらる。年また若し、面の血の流れたるを御覧あつてあのやうにはすまじきものを、とあつて、その手をはなせ、いらぬことよ、とありし時、三人共に手を放つて六人の小人共も(の)きぬと記しているが、ここに新発意(弟子)か坊主(住持)かがいる寺の住持とは誰かとたずねていて、その上の傍書に、碁打ち本因坊の事也」。

 宮崎氏は、文中の新発意とある日淵に随行した有望な後継者が若き日の日海(後の算砂)であると解釈し、日海はすでに信長にその名を思い出されるほどの出仕がされていたと推測している。(古作登「本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する」)

【仙也・江州日野の碁打】
 1580(天正8)年、兼見卿記(吉田社当主吉田兼見の日記)。
  「六月廿八日、丙、雨降る。徳大寺殿(公維)・南豊軒(相国寺、周超)・仙也来る。内々兼ての約に依りての来臨也。江州日野(蒲生郡)の碁打、[三目の手合也]来る。元右と囲碁これ有り」。

 記者の吉田社で碁会を張る。徳大寺(公維)、南豊軒(相国寺、周超)、仙也、日野の上手が参会している。

【利玄初出】
 1581(天正9)年、宗及自会記(津田宗及茶会の記録)。
 「九月卅日、朝、宮内卿法印御一人、床に文琳、四方盆に一ツ、従始、炉にフトン、釣テ、長板に桶・合子、二ツ置、…茶過テ、壺、床へ印公御上なされ候、同昼、大通庵へ、始て法印御出候、風呂ヲタキ候て、大勢よび申候、京之碁打之宰相とリゲンナド碁アリ、下田屋宗柳モ被打候、法印樽代ニ銀子弐枚并隼人ニ刀ヲ給候、従上様(信長)印へ押領之刀也、勢州村正、後藤めぬきかうがい、…」。

 堺天王寺屋の津田宗及の茶会の記録。招客の接待役に碁打を呼び、宰相とリゲンの対局があったとする。リゲンは、後に本因坊の好敵手として頻出する利玄と思われ、その名の初出である。宰相の名も初出。

 1581(天正9)年、「秀吉、数万人を以て因幡伯耆に打ち入り、吉川元春これを迎え打つ。(中略)諸営を見せしむるに杉原弥八郎元盛、同又次郎景盛兄弟に博奕、双六し、。三刀屋弾正正佐衛門久祐は囲碁し居たりと告げれば云々」。(「名将言行録」)


【織田信長が、算沙法印を碁所、宗桂を将棋所の家元に据える】
 嘉良喜随筆(江戸寛延期成立考証随筆)。
 「寛文十三年癸丑より延宝二甲寅迄一冊。左に令抜粋。碁所は、信長公の時、寂光寺に宰相と云僧あり。碁に器用ありて、御前へ被召出。算沙法印と御よび、是より代々碁の上手をすゆる也。宗桂は桂馬よく使ふにより、信長公名付らる。碁将棋共に、信長公の時より、今の如くに両家になる。信長公生害の夜も、夜半迄碁将棋を御覧あり。暁に成りて、桂川より鮎を持て台所へ来る者の申は、丹波の方より大勢甲冑にて上る。道すがら京へ来る者は切殺すが、大将は明智殿と申す。不審なる事と申す。近習の衆も聞、不審なる事也。夜明なば知れんとて申上げず。この時申上たらば御用意有べきに、運の尽る所也と也」。

 この嘉良喜随筆は、江戸寛延期に山口幸充という神道家の編んだ随筆で、逸話は遠碧軒随筆からの抜き書きとある。遠碧軒は江戸前期の儒医・黒川道祐をいい、その随筆は遠碧軒記として伝わるが、その中には嘉良喜随筆の引く上の逸話の条はみられない。

【信長の近臣/村井貞勝の囲碁将棋座談】
 1582(天正10)年、兼見卿記(吉田社当主吉田兼見の日記)。
  「四月十一日、己亥、春長軒(村井貞勝)に向ふ。将碁さし、暫し相談す。昨日十日より、村雲に於て大かしら舞をまふ、群集云々。晩に及び帰宅、碁打の壽見来る」。「四月十二日、庚子、碁打の樹斎来る。壽見と囲碁有り、壽見負る也」。「四月十三日、辛丑、樹斎と壽見の碁を二盤みる。壽見負る也」。

 記者の吉田兼見が村井貞勝の邸を訪ねて将棋と碁を楽しむ。村井貞勝は信長の近臣。

【秀吉履歴/備中高松城包囲】
 1582年、秀吉45歳のとき、備中高松城の戦い。秀吉は但馬・因幡・備前といった国々を手中に収め、備中(岡山県西部)にまで兵を進める。毛利方の清水宗治の守備する備中高松城を包囲した。高松城は三方に沼、外堀には足守川、城門に続く道は一筋という構造のため大軍による攻撃には不向きだった。そこで、秀吉は、姫路の英賀城で採用した水攻めを実行した。そこで高さ7m、長さ3000mの堤防を築き水中に孤立させる策を執った。城の周囲に水が流れ込むよう、川の上流で工事を行い、人口の湖に城を沈めてしまうという奇策だった。高松城は落城寸前となったが、毛利軍は当主の輝元の他、小早川隆景や吉川元春といった重臣たちが4万の大軍を率いて援軍にやってきており、3万の軍を率いる秀吉と対峙した。この情勢の報告を受けた信長は自ら大軍を率いて中国地方に出陣することを決意した。この時手が空いていた明智光秀にも動員令を出し、彼もまた中国地方に向かうことになった。

【本能寺の変の前夜の三劫事変】
 「本能寺の三コウ事変考」に記す。

【本能寺の変】
 1582(天正10)年、京都本能寺の変にて信長公が亡くなると安土城天主本丸付近を焼失した〔原因は放火等諸説あり謎〕。現在残っているのは摠見寺の三重塔と仁王門〔共に国重要文化財指定〕だけ。本堂跡が少し開けた展望台になっており西の瑚が眺望できる。安土山から少し離れてJR安土駅前には銅像セミナリヨ跡〔イエスズ会神学校〕、そして文芸の郷内の信長の館には天主上層部が原寸大で忠実に復元され当時の豪華絢爛ぶりがより身近に感じ取れる。
 日海上人は、信長の死後、明智光秀が近畿を制圧していたとき、持仏堂にこもって信長、信忠父子の大法要を営んだ。これを明智光秀は、とがめることはなかった、との記述がある。
 同年、中村道碩生まれる。




(私論.私見)