本能寺の三コウ事変考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.26日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「本能寺の三コウ事変考」をものしておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【本能寺の三コウ事変考】
1582(天正10).6.1日、京都四条の本能寺の変の前夜、日海(初代本因坊算砂)は、信長の御前で日蓮宗僧侶の鹿塩利玄(林家元祖)と対局したと伝えられている。「因云棋話」(鈴木知昌、1762年)が次のように記している。
 「信長本能寺逗留の節、本因坊も本能寺に参り夜詰す。夜九ツ過夜詰を引き本能寺を出で三四町程過てと覚しき時分、物騒しき声聞ゆ。明智光秀本能寺を囲む、信長生害なり」。

 この時の碁に、「まことに面妖(めんよう)なる」三劫(コウ)という珍しい囲碁の形ができ無勝負となったと伝えられている(三劫無勝負)。 「珍しいこともあるものよ」と言いながら算砂と利玄は本能寺を後にした直後、明智光秀が本能寺に奇襲をかけ信長を自害へと追い詰めることとなる。碁打衆は難を免がれる。三コウ(さんこう)を不吉の前兆とするのはこの時からである。「坐隠談叢」は次のように記している。
 「日海、利賢の対局に碁勢乱離して互いに奇しき石立てとなり、遂に三コウを生じたり。元来、三コウは常時出来得べきものにあらず。されば両者協議の上、これをジゴ、無勝負とし、その奇なるを怪しみながら夜半九つ過ぎ本能寺を退出したりしに何ぞ期せんや、これ永訣の兆ならんとは。出でて幾ばくもなく金鼓轟(とどろ)きて剣*閃き、旗幟模糊として小嵐に翻り、その徽章の朦朦たる中に光秀の反逆したるを知り、直ちに引き返さんと欲したるも、既に路通じ難く、低徊躊躇(ちゅうちょ)する中、火焔は忽焉として本能寺より起り、殺声交じりて耳に到ると共に、仄に信長父子の生害を聞き、寺に帰りて懇ろに父子の冥福を祈り居たり」云々。

 この「三劫譚」は後世に講談風に作られた逸話とする説もある。この時の打ち掛け棋譜が遺されており、白128手までが記録されている。これを並べて見るのに、白(算砂)の圧勝形勢になっている。仮にその後打ち続けていたとしても三劫ができるような場所はないと評されており、史実ではなく物語を面白くするために創られた説話と見る向きが現在の大勢である。ところが、2020.5.25日付け週間碁の11p桑本晋平7段の「本能寺の3コウ事件」によれば、本当だったかもしれないとして3コウ想定図を作り、次のように述べている。
 「これで3コウのできあがり。変化の余地はあるが、この形となり両対局者は『無勝負』で手を打った、というのが私の推測である。(中略)本局は3コウの可能性あり、というのが私の見解。この伝記が真実であったほうが面白い、との個人的な思いもある。囲碁史研究家の方々、また囲碁史に興味のある棋士に意見を伺いたい」。

 利玄は利賢とも書かれ、1世林門入斎の師に当たる。日海(算砂)の日記に次のように記されている。
 「利玄と19年以前、備前岡山において、互い先に直り、その後方々にて都合19局打ち、このうち13番勝ち、利玄5番、1番はジゴ」。
 「利玄と9年の間、定先にて都合三百七十四局仕候うち、三十九番拙僧勝ち越し申し候也」と記されている。

 なお、本能寺の変の当日、家康は泉州堺の妙国寺で和尚を相手に碁を打っていたと伝えられている。急報が茶屋四郎次郎の手の者によって家康側近の本多忠勝まで伝えられた。忠勝は直ちに対局中の家康を次の間へ招いて、事の次第を告げ、聞き終って家康は静かに元の座へ還り、されげなく碁を打ち続けたとのことである(史実か伝説かは定かではない)。

 日海、信長の法要を盛大に営み、以後幽居して服喪する。

【桑本晋平七段の本能寺三コウ事変棋譜検証考】
 2023.7.23日、内藤由起子「“本能寺の変”前夜に盤面に現れた不吉な兆候…織田信長も観戦した囲碁の対局で数万局に一度の棋譜が出現。この伝説は“後世の後づけ” なのか“真実”なのか」。
 NHK大河ドラマ『どうする家康』は、23日放送回でいよいよ「本能寺の変」を迎える。実はこの日本史を揺るがす大事件の裏で、囲碁界にとある伝説が残っているのをご存じだろうか。
 囲碁ファンなら誰もが知る“本能寺の変前夜”の逸話
 本能寺の変の前日、つまり1582年6月20日の夜、当代随一の囲碁棋士、本因坊算砂(ほんいんぼう・さんさ)と、それに勝るとも劣らない本能寺の僧侶である利玄(りげん)が本能寺で対局していた。織田信長がこの対局をかぶりついて観戦していたところ、「三コウ」という珍しい形が出現した。すると、翌未明に本能寺の変が起こったため、「三コウ」は不吉の前兆といわれるようになった――。これは囲碁ファンなら、一度は耳にしたことのある話だ。
 平安時代には紫式部や清少納言が興じていたという記録が残るほど、貴族の嗜みとして囲碁は大流行し、戦国武将にも愛好家が多かった。本因坊算砂は、信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、家元制度の基礎となった棋士だ。信長が算砂を「名人」と称したことが、現在でも一般的に使われる「名人」という言葉の始まりだといわれている。

 囲碁には、音楽における楽譜の役割を果たす「棋譜」があり、世界最古では中国の三国時代(220〜280)のものが残っている。日本最古では1253年、日蓮が打った碁の記録がある。このように語り継がれる古い棋譜のなかでもっとも有名なもののひとつが、本能寺の変前夜の碁、「三コウ」が現れたとされる棋譜なのだ。
 三コウ無勝負の記述は江戸時代の書物が初出
 「三コウ」とは“コウ”という反復形が3つ、盤上に現れること。コウとはお互いが打った直後の石を取り合える状態を指し、これによって局面が進行しなくなってしまう。そのため、同形反復禁止としてすぐに取り返してはいけないルールがある。ちなみに、コウとは漢字で「劫」と書き、非常に長い時間を表す仏教用語が当てられている。
 単純なコウの形。この場合、白が黒石を取ったあと、黒が同じ位置(取られた黒石の場所)に置いて白石を取り返すことはできない。しかし、別のところに一手打てば、再びコウに打つことができる。つまり、コウが3つある「三コウ」の形だと、お互いがそれぞれのコウに順に打てるため、同一局面が反復されてしまうのだ。
現在のルールでは「三コウ」になったら永久に対局が終わらないので、「無勝負」となる。
 「三コウ」の出現は極めて希で、数万局に1局ほどといわれている。筆者は四半世紀以上、囲碁観戦記者をしているが、記録に残るプロの碁で“三コウ無勝負”となったのはこれまでで2、3局のみ。めったにお目にかかれない現象なのだ。そんな珍しい「三コウ」ができただけでも驚きなのに、翌未明に日本史上屈指の大事件である本能寺の変が起こったのだから「三コウは不吉」と言い伝えられることになったのも無理はない。―――と、多くの囲碁ファンは認識しているが、この伝説を懐疑的に見る研究もある。

 囲碁史研究家の徳弘晴彦氏によると「本能寺の変の前日にあった茶会の参加名簿が残されていますが、本因坊算砂、利玄ら碁打ちの名前はありません。『三コウ』となったいきさつは、江戸時代に入ってからの書物にあります」と、残っている棋譜は別の機会のものを引用した可能性があることを指摘している。
 伝説を証明する手順が発見されるも…
 1582年6月20日(旧暦天正10年6月1日)、本能寺の変前日の対局とされる棋譜は以下である。

白:本因坊算砂 黒:利玄

 棋譜は白128手までで止まっていて、以下不明となっている。昔の棋譜は100手前後で止めて、最後まで記録されていないケースが多い。この棋譜にはコウはどこにもなく、「このあとも三コウになる可能性がない。右下の白は生きており、事実上128手完、白中押し勝ち。三コウ無勝負は俗説である」という解釈が少なくともここ100年の定説となっていた。これでは、本能寺の変前夜の逸話も棋譜も状況もまったくの作り物。「三コウ=不吉」という言い伝えもウソということになってしまう。ところが、これを覆すような説が近年、発見された。桑本晋平七段が久しぶりに上記の棋譜を並べたところ、右下は生きている(もう手段がない)と言われていたが、両コウ(コウをふたつ)にする手段を見つけたのだ。こうなると、あと1ヶ所コウができれば逸話を再現できる……と思い、研究を進めていたところ、ある日突然、ひらめいた。
桑本晋平七段が再現した本能寺の変前夜の棋譜。赤丸で囲ったところがコウ

 この図は、桑本七段が見つけた三コウにする手順だ。黒1から白8までで、右下にコウがふたつでき、さらに右上で黒17、白28のところにもうひとつコウができて、「三コウ」の完成である。

 
「このまま死んだら後悔する。せっかく発見したのだから世に出さないと」(桑本七段)複数の棋士に自分の説を確認し、「必然性があり、三コウになる」、「間違いはない」とお墨付きを得て発表するも、大きな話題にはならなかった。「何百年に一度の発見なのに、プロですらあまり興味を示さなくて……」と、がっかりの桑本七段だが、「何もなければ伝説に残っていないはず。また何年かして、新しい資料が出てくれば、この説の裏づけができるかも」と期待する。後づけの逸話、と片づけることは簡単だが、それでも「そうであってほしい」と願い、それを証明するために研究を重ねる人がいる。なんともロマンのある話ではないか。

 取材・文/内藤由起子
 集英社オンライン編集部ニュース班





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