日本囲碁史考、1971年以降

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.15日

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 2005.4.28日 囲碁吉拝


【日本囲碁史考、昭和戦後の爛熟経済期(1971年以降-平成まで)の囲碁史】

 1971(昭和46)年
 中国が国連加盟。
 22歳の石田が驚異的な足跡を残した年となった。19歳の武宮を挑戦者に迎えた日本棋院選手権5番勝負で3-0のストレート防衛。本因坊戦リーグとプロ十傑戦トーナメントを勝ち抜き、本因坊戦は挑戦者に、プロ十傑戦は決勝5番勝負に挑む快進撃を見せた。
 囲碁1月号「呉-菊池康郎(先)」、呉白番中押勝。
 2.11日、第9期十段戦「橋本宇太郎(63歳)-大竹英雄」が始まる。
 2.18日、「呉-大竹英雄(先)」、大竹先番中押勝。
 3月、第18期NHK杯「大竹英雄-石田芳夫7段」、大竹白番勝、優勝。
 3.18日、「呉-宮下秀洋(先)」、呉白番半目勝。
 4月、第9回十段戦「橋本宇太郎-大竹英雄」。
 橋本(宇)勝、3-2で優勝。
 囲碁4月号掲載「呉-西村修(先)」、呉白番中押勝。
 5.26日、「藤沢朋斎-呉(先)」、藤沢(朋)白番半目勝。
 6.2日、「呉-藤沢秀行(先)」、藤沢(秀)先番4目半勝。
 6月、第26期本因坊戦で、木谷門下の石田芳夫が初の本因坊リーグ入りで6勝1敗で挑戦者となった。「本因坊・林海峰-石田芳夫」。

 6.22日、石田芳夫7段(22歳10ヶ月)が林海峰を2-4で破り、史上最年少で本因坊になった。これは本因坊獲得の最年少記録であるとともに、井山裕太が20歳4か月で名人位を獲得するまで三大タイトル(棋聖・名人・本因坊)獲得の最年少記録ともなった。当時、石田は内弟子の身だったので、「部屋住みの本因坊」と呼ばれた。以後5連覇する。
 6.29日、第8期プロ十傑戦決勝5番勝負第3局で2連勝の石田芳夫7段が、梶原武雄9段のコウ取りにコウダテを打たずにコウを取り返して反則負けとなった。反則負けはタイトル戦史上初めて。
 囲碁7月号「呉-原田実(先)」、呉白番4目勝。
 8月、囲碁8月号「呉-鳴海直(先)」、呉白番中押勝。
 第10期名人戦「名人・藤沢秀行-林海峰」。
 林が4-2で藤沢から奪取した。
 9.6日、囲碁普及研修会(島村俊宏主宰)が名古屋で誕生した。
 9.12日、NHK杯「呉-本因坊秀芳(先)」、呉白番3目半勝。
 10月、第19期王座戦「王座・坂田栄男-橋本昌二」。
 坂田白番勝、2-0で優勝した。
 11.9日、「呉-小山靖男(先)」、呉白番7目半勝。
 囲碁12月号「呉-今村文明(先)」、呉白番中押勝。
 12.3日、「山部俊郎-呉(先)」、呉先番中押勝。
 12.23日、「藤沢秀行-呉(先)」藤沢(秀)白番中押勝。
 この年、第15期首相杯争奪戦決勝「武宮正樹 - 黒沢忠尚」、武宮白番勝で優勝、初タイトルを獲得する。
 プロ棋士では、坂田栄男、藤沢秀行が活躍、また林海峰をはじめ、木谷門下の大竹英雄、石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹らがタイトル者として名をあげていった。
 11.7日、呉清源が囲碁普及のために3週間渡米した。
 第9回秀哉賞に石田芳夫(本因坊)が選ばれた。
 この年11.22日、日本棋院新館の市ヶ谷本館(千代田区5番町7の2)が竣工し港区高輪(たかなわ)の日本棋院東京本院から移転した。入場式のテープカットにハサミを入れたのは石坂泰三。ノーベル賞作家・川端康成氏が「深奥幽玄」と書いた掛け軸を揮毫(きごう)し、「幽玄の間」に掛けられている。

 秋山賢司氏の「日本棋院創立100周年連載59」の「日本棋院新会館完成」(2023.6.19日号週間碁9P)が次のように記している。
 「土地代や建築費はどうしたのか。日本棋院に経済的余裕はない。しかし当時は高度成長期。日本棋院総裁の足立正(日本生産性本部会長、日本商工会議所会頭などを歴任)、顧問の石坂泰三(東芝社長、経団連会長など)、理事長の有光次郎(文部次官、日本芸術院院長など)らの呼びかけで日本船舶振興会や各種経済団体、大企業からの寄附が相次いだ。また日本棋院は棋院支部、各囲碁団体、碁を愛する個人に、支援を呼びかけた。今の言葉でいうクラウドファンディングである。(中略)足立総裁、有光理事長らの連名による挨拶状を紹介する。『新しい会館の建設は私たちの宿願でありましたが、今回めでたく落成式をあげる運びになりこんなにうれしいことはありません。ひとえに全国囲碁ファンの暖かいご支援によるものと深く感謝申し上げます。こういう立派な会館をお与えいただきましたからには、日本棋院に連なりがある全員が、大方のご期待に応えて一層の精進をし、全国囲碁ファンのお役に立ちたいと思います。今後とも一層のご鞭撻ご声援をお願いする次第です』」。

 1972(昭和47)年
 沖縄返還。日中国交回復。

 1.2日、NHK杯「橋本昌二-呉(先)」、呉先番5目半勝。 
 2.27日、NHK杯「
呉-大竹英雄(先)」、大竹先番中押勝。 
 3月、第19期NHK杯「坂田栄男-大竹英雄」、坂田白番勝、優勝。
 2.17日、「梶原武雄-呉(先)、呉先番中押勝。
 4月、第10回十段戦「坂田栄男-橋本宇太郎」。
 坂田白番勝、3-2で優勝した。
 5.25日、「呉-半田道玄(先)」、半田先番4目半勝。
 6月、第27期本因坊戦「本因坊・石田芳夫-林海峰」。
 第1局、石田の先番中押勝。第2局、林の先番中押勝。第3局、林の白番6目半勝。第4局、石田の白番1目半勝。第5局、林の中押勝。第6局、石田の勝。第7局、石田の白番2目半勝。結局、4-3で石田本因坊が防衛した。「一時は駄目かと思いましたが、しかし首は洗いませんでした」。石田は、初防衛後、部屋住みからの独立を許された。
 6.22日、「曲励起-呉(先)」、呉先番中押勝。
 7.20日、「梶原武雄-呉(先)」、呉先番中押勝。
 8月、第11期名人戦「名人・林海峰-藤沢秀行」。
 林白番勝、4-2で防衛。
 9.11日、日経連載「藤沢秀行-呉(先)」、呉先番中押勝。
 10月、第20期王座戦「王座・坂田栄男-橋本宇太郎」。
 関西の重鎮、65歳になった橋本宇太郎を挑戦者に迎えたが、坂田が2勝1敗で防衛し、通算7期目の王座獲得となった。坂田はのちに「初タイトルまで時間がかかりましたが、その後はゲンのよい棋戦になりました」と述べている。
 11.1日、NHK杯「呉-島村俊宏 (先)」、呉白番中押勝。
 11月、「本因坊秀哉名人の会」開催。
 12.1日、NHK杯「橋本昌二-呉(先)」、橋本(昌)白番8目半勝。
 第10回秀哉賞に坂田栄男(十段)が選ばれた。
 この年7.27日、瀬越憲作名誉9段が体の衰えを苦に自殺する(享年84歳)。老醜を厭っての自決だった。
 当時、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れており、囲碁のナショナルチームは解散されたままであった。陳祖徳、呉**、王汝南、華以剛ら7名の棋士は北京第三汎用機械工場の労働者になっていた。

 1973(昭和48)年
 第4次中東戦争。石油危機。

 2月頃、日本テレビ主催のタイトル保持者によるリーグ戦として「日本シリーズ」が行われた。5名によるリーグ戦で行われ、石田芳夫が優勝した。
 3月、第20期NHK杯「大竹英雄-橋本昌二」、大竹白番勝、優勝。
 4.7日、日本テレビ系列で「楽しい囲碁道場」が放送開始した。同時に女流名人戦が始まった。
 4月、第11回十段戦「坂田栄男(52歳)-高木祥一7段(29歳)」。
 坂田白番勝、3-0で優勝した。

 高木は予選で石田芳夫を破ると勢いに乗りトントン拍子に勝ち進み、挑戦者決定戦でも林海峰に完勝、坂田栄男十段への挑戦者に踊り出た。勢いを評価して高木有利との声もあった。ところが、5番勝負をストレート負けするという一方的な結果に終わった。高木はNHK杯に準優勝2回、若手棋戦の首相杯優勝2回、名人戦リーグ、本因坊戦リーグ入りし挑戦者争いに絡んだ年もあるが、遂に大勝負の舞台に立つことはなかった。
 5.10日、岩本薫が勲三等瑞宝章受章。
 5.15日、「呉-陳祖徳 (先)」、陳先番中押勝。
 6月、第28期本因坊戦「本因坊・石田芳夫-林海峰」。
 石田白番勝、○○○○の4-0で石田本因坊が防衛。
 6.25日、第5期新鋭トーナメント戦で、趙治勲5段が棋戦史上最年少(17歳0ヶ月)で優勝した。この記録は2005.10月、井山裕太4段(16歳4カ月)が阿含桐山杯で優勝するまで続いた。
 7.1日連載「大平修三-呉(先)」、大平白番9目半勝。
 7.16日連載「藤沢朋斎-呉(先)」、呉先番中押勝。
 7月、木谷礼子が、第1期NTV女流名人戦優勝。
 8.11日連載「加藤正夫-呉(先)」、白番中押勝。
 8月、第12期名人戦「名人・林海峰-石田芳夫」始まる。
 10.20日、第12期名人戦で林海峰が石田芳夫7段に3連敗後4連勝して4-3で名人位を防衛した。
 9月、趙治勲が大手合33連勝を達成。
 9.27日、訪中囲碁代表団が、陳毅中国副総理に日本棋院名誉7段位、関西棋院7段位を贈呈する。
 10.1日、国際トーナメント戦を開催。日本棋院はアメリカ、オーストリア、台湾、イギリス、西ドイツ、韓国、オランダ、ユーゴスラビアから各2人の選手を招き、日本のアマ代表を加えて国際トーナメント戦を開催した。
 10月、第21期王座戦「王座・坂田栄男-林海峯」。30代になった林が7期ぶり2回目の挑戦。「二枚腰」の粘りを発揮して2-1でタイトルを奪取し坂田の4連覇を阻んだ。坂田は「高川さんが私を苦手をしたように、私にとっては林さんが、まさに天敵で、名人、本因坊、そして王座を次々と奪われました」とのちに語った。
 11.3日、長谷川章名誉8段が勲四等旭日賞受賞。
 11.3日連載「半田道玄-呉(先)」、白番2目半勝。
 11.18日、NHK杯「藤沢秀行-呉(半)」、白番1目半勝。
 12.22日、日本棋院中部総本部会館(名古屋市東区橦木町(シュモクチョウ))の開館式が行なわれる。
 月刊「碁」創刊(現、囲碁未来)。
 第11回秀哉賞に林海峯(名人)が選ばれた。
 足立正総裁没、後任に佐藤喜一郎。
 春、中国で、周恩来総理の提議、鄧小平副総理賛同により、30数人からなる囲碁ナショナルチームの集中訓練が再開された。
 4.16日、中日友好協会訪日代表団団員として陳祖徳氏が来日し、中国の文化大革命以後、1967年から72年まで途絶えていた日中囲碁交流が再開された。7.20日、日中囲碁交流再開。訪中囲碁代表団(団長・有光次郎)が出発。

 第8(再1)回1973日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。中国代表(陳祖徳)3-6 。日本代表団団長・有光次郎。坂田栄男十段(6-1)、
本田邦久九段(6-1)、石井邦生八段(6-1)、加藤正夫七段(6-1)、太田耕造六段(5-2)、小川誠子二段(3-3-1)、菊池康郎(5-1-1)、西村修(3-4)、総戦績は全56局中、日本が40勝14敗2ジゴの圧勝。この時、20歳前後の轟衛平が登場している。
 7.1日、訪韓囲碁代表団(団長・榊原龍次)が出発。結果は日本の12勝5敗。

 1974(昭和49)年
 小野田元小尉帰国。戦後初のマイナス成長。

 1月、第1期NTV日本シリーズで、石田芳夫が優勝。(4期で終了)
 3月、第21期NHK杯「林海峯-加藤正夫8段」、林白番勝、優勝。
 4月、第12回十段戦「橋本昌二-坂田栄男」。
 橋本(昌)白番勝、3-1で優勝した。
 6月、第29期本因坊戦「本因坊・石田芳夫-武宮正樹」。
 石田白番勝、4-3で防衛。
 7.17日、日本棋院創立50周年式典開催。
 8月、第13期名人戦「名人・林海峰-石田芳夫 」。
 10.24日、第13期名人戦で石田芳夫8段が林海峰を3-4で破り、坂田栄男、林海峰に続く3人目の名人本因坊ダブルクラウンになった。
 10.11日、NHK杯「呉-橋本昌二(先)」、呉白番半目勝。
 10月、第22期王座戦「王座・林海峯-石田芳夫」。
 石田先番勝、2-1で優勝。
 この年、4目半のコミではまだ黒が有利なため、コミを5目半に改めた。
 第12回秀哉賞に石田芳夫(名人、本因坊)が選ばれた。
 3月、木谷が、日本棋院のある市ケ谷から電車で一駅の四ツ谷の木谷道場を閉鎖し、平塚へ戻る。ついて行った門下生は趙治勲ほか3、4名。
 4.13日、半田道玄棋士が逝去(享年*)。
 この年、佐藤喜一郎総裁没、後任は田實渉。
 この年、11.18日、高川秀格が紫綬褒章受章。 
 第9(再2)回1974日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。中国代表団団長・陳淇、陳祖徳(2-5)、呉淞笙(6-1)、王汝南(3-4)、黄徳勲(2-5)、邱鑫(4-3)、華以剛(5-2)、孔祥明(2-3-2)、陳慧芳(1-6)、総戦績25-29-2 。聶衛平が初出場。

 【「名人戦事件」が勃発】
 昭和49年暮れから、碁界は名人戦問題で大揺れになった。

 12.3日、日本棋院理事会が、2750万円に留まっていた契約金の問題で読売新聞社に対して「第14期をもって名人戦契約を打ち切る」と通告し、12.12日、朝日新聞と従来の3倍以上の1億円の契約金で第15期以降の仮契約を交わす。これにより、読売新聞が主催していた名人戦が朝日新聞に移籍するという「名人戦事件」が勃発した。この事件が、物価の上昇にも関わらず長年据え置かれていた各棋戦の契約金が見直されるきっかけとなった。これにより1975年に天元戦、1976年に棋聖戦、碁聖戦が設立され、現在の七大タイトルが出揃うこととなった。

 これに対し読売新聞は、朝日以上の契約金を提示し日本棋院に再交渉し始め、一年以上ゴタゴタが続くことになった。当初の朝日移管に対して棋士180人中反対者2人のみだったが、読売支持も増え始めて混乱し理事会が総辞職する。選挙による新理事選出では朝日派8人、読売派3人となった。この後の動きは複雑怪奇で、日本棋院理事会は一切の解決を田実渉総裁に一任した。田実調停案が出ると、棋士総会は全会一致でそれを否決した。

 1975(昭和50)年
 南ベトナム解放、30年戦争終わる。天皇訪米。サミット開催。

 1.17日、NHK杯「加藤正夫-呉(先)」、呉先番13目半勝。
 2.5-6日、第22期日本棋院選手権戦5番勝負第5局「趙治勲-坂田栄男(先番)」。
 坂田先番4目半勝。

 日本棋院選手権戦は第22期で幕を閉じ、天元戦に移行した。坂田は、20期で大平修三を降し、21期で加藤正夫、22期で趙治勲を退けて3連覇し且つ最後を飾った。坂田は全22期の日本棋院選手権で12回タイトルを獲得している。この功績で、名誉日本棋院選手権者の称号を与えられた。
 3.9日、NHK杯「武宮正樹7段-呉(先)」、武宮白番中押勝。
 3月、第22期NHK杯「大竹英雄-武宮正樹7段」、大竹白番勝、優勝。
 4月、第13回十段戦「林海峯-橋本昌二」。
 林白番勝、3-0で優勝。
 5.1日、第12期プロ十傑戦で趙治勲6段(18歳10カ月)が史上最年少で優勝した。プロ十傑戦はこの期で終了した。
 6月、第30期本因坊戦「本因坊・石田芳夫-坂田栄男(55歳)」。
 第6局は湯河原温泉の清光園。結局、4-3で石田本因坊が防衛。石田は22世本因坊/高川9連覇、23世本因坊坂田7連覇に続く24世石田本因坊5連覇の称号を獲得した。この期からコミが4目半から5目半に変わった。
 第1期新人王戦。趙治勲が18歳でプロ十傑戦に優勝し、初の公式タイトル獲得とともに、タイトル獲得の当時最年少記録となる。7段に昇段。
 8月、第14期名人戦「名人・石田芳夫-大竹英雄」始まる。大竹が木谷門の弟弟子であった石田に挑戦する。
 11.12-13日、「名人・石田芳夫-大竹英雄(先番)」、大竹先番4目勝。大竹が4-3で名人位を奪取する。
 9.12日、NHK杯「呉-加藤正夫(先)」、呉白番6目半勝。
 10月、第23期王座戦「王座・石田芳夫-大竹英雄」。王座戦では初めて木谷実一門の対決となった。「大竹美学」とよばれた碁で大竹が弟弟子の石田に2連勝し王座に就いた。ライバル林海峰と「竹林時代」を築き、のちに名誉碁聖になった大竹だが、王座はこの1期だけに終わった。
 12月-翌1月、新聞三社連合(北海道新聞、中部日本新聞、東京新聞、西日本新聞、神戸新聞)による第1回天元戦(優勝賞金(名人戦が300万円の時の)500万円)「藤沢秀行-大平修三」。
 3-1で藤沢が優勝、第1期天元位獲得。
 12.19日、NHK杯「呉-橋本昌二(先)」、呉白番中押勝。
 第13回秀哉賞に大竹英雄(名人)が選ばれた。
 この年、岩本薫がロンドンに囲碁会館を建設する(3年ほどで経営不振で閉館する)。
 この年7.26日、読売新聞社が、名人戦の契約を求める仮処分を申請、8.21日、本訴訟を起こす。裁判は日本棋院有利に進み、12.10日、日本棋院顧問の岡田儀一による斡旋案「名人戦は朝日と契約」、「読売は序列第一位の新棋戦、最高棋士決定戦・棋聖戦を新たに契約」(岡田私案)により、読売と日本棋院は和解することとなった。この一連の経緯は「名人戦騒動」と呼ばれている。この騒動は、当時朝日と契約していた将棋の名人戦の契約金問題(囲碁同様長く契約金が据え置かれていた)にも波及している。
 8.11日、読売新聞社が名人戦契約問題(名人戦騒動)で名人戦棋譜掲載権確認などを求め東京地裁に日本棋院を提訴した。騒動は泥沼に。
 12.10日、和解。
 12.23日、名人戦問題で日本棋院と読売新聞社が和解した。読売新聞社は日本棋院との名人戦契約を第14期をもって打ち切り、朝日新聞が新・名人戦、読売新聞が棋戦序列第1位の最高棋士決定棋聖戦を創設し主催することとなった。
 秋、日本囲碁団が中国訪問。団長・高川9段、窪内9段、石*8段、戸沢7段、白鳥3段、芦田初段。アマから村岡利彦、今村文明。中国に轟衛平現れる。第10(再3)回1975日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。日本代表団団長・高川格九段(4-1-2)、窪内秀知九段(5-2)、石榑郁郎八段(3-4)、戸沢昭宣七段(5-2)、白鳥澄子三段(3-4)、芦田磯子初段(3-4)、村岡利彦(2-4-1)、今村文明(5-2)、総戦績30勝23敗3ジゴ。 聶衛平が高川格名誉本因坊を破っている。
 聶衛平が、黒竜江省代表として中国の第3回囲碁大会へ出場し、14連勝で全国優勝する。

【前田陳爾(まえだのぶあき)逝去考】
 この年7.3日、前田陳爾(まえだのぶあき)が逝去する。

 明治40年、兵庫県揖保郡新宮町に生まれる。13才で碁を覚え、14才の時、神戸の鳥居5段、久保松8段に師事する。16才で上京し、本因坊秀哉名人の家塾に入る。18才で初段、以後累進して9段。その間昭和20年より27年まで東北(一ノ関市、仙台市)へ疎開し、東北各地で棋界の隆盛に貢献した。昭和22年、坂田、梶原氏等7名と日本棋院を脱退し「囲碁新社」を興したが24年、復帰。同院理事、審査役等に就任する。詰碁創作の大家として知られ、「詰碁の神様」と称される。棋風は接近戦を得意とする力戦型で「攻めの前田」とも言われる。第1期王座戦準優勝、第1期最高位戦リーグ3位など。随筆での毒舌でも知られた。

【木谷実逝去考】
 12.19日、木谷実が心不全のため平塚の自宅で逝去する(享年66歳)。木谷道場は木谷の死とともに幕を閉じた。12.28日、日本棋院葬。従四位勲二等瑞宝章に叙せられる。

 2006年(平成18年)12月19日、朝日新聞(朝刊)に、「昭和の伯楽」木谷九段、没後31年、との木谷道場を主催して数多くの俊秀を育てた木谷九段の偉業を讃える特集記事が出ている。概要は次の通り。

 1909(明治42)年、神戸市生まれ。1921(大正10)年、12才、上京し鈴木為次郎に入門。1924年(大正13年)、15才、設立された日本棋院に初段で参加。1933年(昭和8年)、24才、呉清源と新布石研究。1938年(昭和13年)、29才、本因坊秀哉名人引退碁。1957年(昭和32年)、48才、第2期最高位。1958年(昭和33年)、49才、第3期最高位(防衛)。1975年(昭和50年)12月19日、66才、自宅(平塚市、神奈川)で逝去。

 木谷実の歩みは年譜の通り。新布石を打ち出して現代囲碁に革新をもたらし、時の第一人者、本因坊秀哉名人の相手を務め、この対局はのち、川端康成の名作「名人」に結実した。勝負では、最高位決定戦(1955年、昭和30年~1961年、昭和36年)で2連覇したが、3度挑戦した本因坊位の獲得は成らなかった。

 木谷実の弟子は、戦前の1933(昭和8)年からとり始め、1970(昭和45)年入門の日高敏之8段(日本棋院離脱)まで計54人で、孫弟子まで含めた一門の合計段位は500段に達し、2000(平成12)年に記念の会が開かれた。木谷一門のすごさは、弟子の多さだけではなく、囲碁界を代表する棋士が多く輩出したことにある。20年ほど前には一門で七タイトルを独占していた。三大タイトル(棋聖、名人、本因坊)を獲得した7人(大竹英夫、石田芳夫、加藤正夫(故人)、趙治勲、小林光一、武宮正樹、小林覚)はじめ、多くの木谷門下の棋士が現在も活躍中。


 1976(昭和51)年
 ロッキード疑獄事件起こる。毛沢東没。

 1.8日、第1期天元戦「藤沢秀行(50歳)-大平修三」。
 藤沢(秀)白番勝、3-1で初の天元位になる。
 2.5日、八強争奪戦で趙治勲7段が優勝した。
 2.8日、「趙治勲七段-坂田栄男九段(先番)」。白番趙が右下で白△とえぐりにきて、白10までと突き抜いたが、黒12のノゾキが厳しい反撃で、これに白17にツグと、黒16から右辺と下辺のどちらかの白石を切断する手が生じる。このため黒22までと下辺を取り込む分かれとなり、黒優勢となった。このあと黒は上辺の黒石、左辺の黒石も巧妙にしのぐなど、巧妙な打ち回しで大差の勝利とし坂田の会心作となった。趙は、1975年から78年にかけて坂田に12連敗中となり「坂田コンプレックス」とも言われた。
 第2期「日本シリーズ」が5名によるリーグ戦で行われ、坂田栄男が優勝した。成績は次の通り。
出場者/相手 坂田
石田
林  趙  大竹 勝負
順位
坂田栄男 - × 3-1
石田芳夫 - × × 2-2
林海峰 × - × 2-2
趙治勲 × × - 2-2
大竹英雄 × × × - 1-3

 1970年代以降も坂田は多くのタイトルを獲得し、特に早碁棋戦では、NHK杯早碁選手権戦や、新たに創設された日本アジア航空杯、日本シリーズ、NEC杯などでも優勝を重ねた。第2期日本シリーズでは3勝1敗で優勝。
 2.29日、NHK杯「呉-窪内秀知(先)」、呉白番中押勝。
 3.28日、第23期NHK杯「坂田栄男-呉(先)」、坂田白番中押勝、優勝。
 5.1日、徐奉洙韓国名人が初来日した。
 5月、全日本第1位決定戦が発展解消して碁聖戦(新聞囲碁連盟)が始まる。第1期碁聖戦は全日本第1位の大竹とリーグ戦を勝ち抜いた加藤による5番勝負となった。結果は、2勝2敗で最終局を迎え、加藤が兄弟子大竹を3-2で降して優勝。初タイトルを獲得。次のように評されている。
 加藤は、1969(昭和44)年、22歳で本因坊戦の挑戦者となって以降、毎年のようにタイトル戦線を賑わせたもののタイトル獲得はならず万年2位などという有り難くない異名を頂戴していたが、29歳で無冠に別れを告げ、タイトル大量獲得時代に入る。その記念碑的な棋戦が第1期碁聖戦である。
 5月、第14回十段戦「加藤正夫8段-林海峯」。
 加藤白番勝、3-2で優勝。

 加藤が、碁聖獲得から1か月もしないうちに、3勝2敗で林海峰から十段位を奪取、あっという間に2冠になった(以後4連覇する)。次のように評されている。
 昭和51年以降の加藤正夫はそれまでの無冠時代のうっぷんを晴らすかのようにタイトル戦線の主役に躍り出る。51年、碁聖と十段を獲得、52年は武宮正樹を破って本因坊を併呑し三冠。そして53年、棋聖戦の挑戦者になる。(秋山賢司「碁界の礎百人」の「日本棋院創立100周年連載68、加藤正夫」参照)
 6月、第31期本因坊戦「本因坊・石田芳夫-武宮正樹」。
 第3局は、鳥取県米子市の皆生温泉*旅館。7.16日、第31期本因坊戦で武宮が石田を4勝1敗で倒し本因坊位獲得、秀樹と号す。
 7月、第1期新人王戦(赤旗)で小林光一が優勝。
 7月、第1回碁聖戦「加藤正夫8段-大竹英雄」。
 加藤白番勝、3-2で優勝。
 8月、名人戦の主催が読売新聞から朝日新聞に転じる。名人戦の朝日移管後、読売は棋聖戦を主催する。第1回名人戦「名人・石田芳夫-大竹英雄」。
 4-1で大竹英雄が名人になる。
 9.17日、NHK杯「呉-大平修三(先)」、大平先番中押勝。
 10月、第24期王座戦「王座・大竹英雄-趙治勲7段」。
 新鋭の趙が兄弟子の大竹を2勝1敗で破り当時20歳5カ月で七大タイトル獲得の史上最年少記録を作った。この記録は2009年名人戦で井山(20歳4カ月)に塗り替えられるまで30年以上にわたって破られなかった。
 12月、第2回天元戦「天元・杉内雅男-小林光一7段」。
 小林先番勝、3-1で天元戦優勝。初のタイトル獲得。
 第14回秀哉賞に武宮正樹(本因坊)が選ばれた。
 この年8.8日、宮下秀洋棋士が逝去した(享年*歳)。
 第11(再4)回1976日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。中国代表団団長・高文治、陳祖徳(2-5)、聶衛平(6-1)、呉淞笙(2-3-2)、王汝南(2-4-1)、華以剛(0-5-2)、曹志林(4-3)、王群(4-3)、孔祥明(7-0)、総戦績全56局中、中国が27勝24敗5ジゴで中国が初めて日本に勝った。中でも、聶衛平が藤沢秀行天元、4.19日、石田芳夫本因坊に勝つなど好成績を収め、日中の実力接近をうかがわせた。

 1977(昭和52)年

 棋聖戦の方式が大掛かりなものになった。初段から9段までの優勝者を決める各段戦。各段戦の優勝者に7、8段戦の準優勝者、9段戦のベスト4による全段争覇戦。前段争覇戦の優勝者、4大タイトル保持者、棋聖審議会推薦棋士による最高棋士決定戦へと進む。第1期棋聖戦の決勝に勝ち進んだのは59歳の橋本宇太郎と51歳の藤沢秀行だった。
 2.8日、読売新聞主催の第1期棋聖戦「藤沢秀行-橋本宇太郎」。
 ○●○○○の4-1で藤沢秀行が優勝、第1期棋聖になる。以後6連覇する(対加藤正夫、石田芳夫、林海峰、大竹英雄)。名誉棋聖の称号を得る。「天元だったので9段戦や全段争奪戦を打たずに最高棋士決定戦にシードされた。スタミナのない私は助かった」。
 3月、第24期NHK杯「坂田栄男-武宮正樹8段」、坂田白番勝、優勝。
 4月、第15回十段戦「加藤正夫8段-坂田栄男」。
 加藤白番勝、3-0で優勝した。
 6.30日、第32期本因坊戦「本因坊・武宮正樹-挑戦者・加藤正夫」。
 加藤が1-4で新本因坊になり、加藤劔正を名乗る。以後3連覇する。
 7月、第2回碁聖戦「加藤正夫8段-武宮正樹8段」。
 加藤白番勝、3-0で優勝。
 7月、第1回日本棋院アマ選手権開催。
 8月、第2回名人戦が「名人・大竹英雄-林海峰」。
 4-0 (コミ5目半に移行)で林が大竹英雄を破り名人に復位。
 8月、全国高校選手権大会開催。
 9.1日、Mレドモンドが米人院生第1号になる。
 10月、第25回王座戦「王座・趙治勲7段-工藤紀夫」。 
 11.16日、第25期王座戦で「王座・趙治勲7段-工藤紀夫」。
 工藤先番勝、2-0で7大棋戦で初タイトルを獲得した。
 11月、第1回東西アマ対抗戦開催。
 12月、第3回天元戦「島村俊広-苑田勇一」。
 島村白番勝、3-1で優勝。
 第15回秀哉賞に加藤正夫(本因坊、十段、碁聖)が選ばれた。
 1.15日、日本棋院より囲碁新聞「週刊碁」が創刊される。
 11.3日、橋本宇太郎が勲三等旭日中緩章受賞。
 6.29日、小川誠子4段が俳優・山本圭さんと結婚。媒酌人は仲代達矢夫妻。
 この年、小林光一に長女泉美誕生。
 第12(再5)回1977日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。日本代表団団長・橋本宇太郎九段(4-2-1)、東野弘昭九段(5-1-1)、石田章七段(5-1-1)、家田隆二七段(3-4)、佐藤昌晴六段(5-2)、井上真知子初段、菊地康郎、三浦浩(3-4)、総戦績30-23-3。
 外国人普及指導員養成ゼミナール開催。

 1978(昭和53)年
 1978年、成田空港開港。

 3月、第25期NHK杯「林海峯-大平修三」、。**が優勝した。
 2-4月、第2期棋聖戦「棋聖・藤沢秀行-加藤正夫」。
 藤沢棋聖が●●○●○○○の4-3で防衛、加藤劔正が3-4で惜敗。

 秀行の名棋譜「第2期棋聖戦第4局/藤沢秀行-加藤正夫
 4月、第16回十段戦「加藤正夫-林海峯」。
 白番勝、加藤が3-1で優勝。
 4.17日、「呉-苑田勇一(先)」、呉白番中押勝。
 6月、第33期本因坊戦「本因坊・加藤正夫-石田芳夫」。
 加藤白番勝、4-3で防衛。
 7月、第3回碁聖戦「大竹英雄-加藤正夫」、大竹白番勝。
 大竹が3-1で優勝。
 8月、第3回名人戦「名人・林海峰-大竹英雄」。
 *番勝、大竹が4-2で名人位奪取。
 10月、第26期王座戦「王座・工藤紀夫-石田芳夫」。
 *番勝、石田が2-1で優勝。
 10.7日、日本航空杯争奪「鶴聖戦」リーグ戦始まる。鶴聖戦は当初は5人制のリーグ戦だった。1986年(第8期)からトーナメント方式になる。
 12月、第4回天元戦「加藤正夫-藤沢秀行」。
 *番勝、加藤が3-1で優勝。以後4連覇する。
 武宮正樹が早碁選手権戦優勝。 
 12月、第1回全日本学生名人戦開催。
 この年、2.14日、米国人のジェームス・カーウィン(米国ミネソタ州)が欧米人として初めての入段。日本棋院で初の欧米人プロ棋士となった。
 第16回秀哉賞に藤沢秀行(棋聖)が選ばれた。
 この年、6.27日、日本棋院の役員改選で坂田栄男が理事長に就任した。1978年から1986年まで務める。1988.7月より日本棋院顧問。
 この年9.22日、囲碁親善使節団が訪ソ連邦。
 第13(再6)回1978日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。中国代表団団長・孫楽宣、陳祖徳(3-4)、聶衛平(3-4)、呉淞笙(4-3)、華以剛(5-2)、陳志剛(1-6)、孔祥明(5-2)、楊以倫(4-3)、江鳴久(3-4)、総戦績28-28(三番勝負 2-6)。 日本代表団団長・杉内雅男九段(2-1-1)、淡路修三七段(2-1-1)、山城宏六段(1-2-1)、上村陽生六段(3-1)、石倉昇(3-1)、総戦績11-6-3。

 1979(昭和54)年
 イラン革命。中越紛争。

 2.17日、坂田栄男9段が第1回アジア航空杯トーナメント戦優勝。通算60個目のタイトル獲得。
 3.10日、林海峰9段が第1期鶴聖戦優勝。
 3.13日、第1回世界アマチュア囲碁選手権戦始まる。3.17日まで行われ、中国の聶衛平が陳祖徳を破り優勝した。中国囲碁界は、この頃から陳祖徳と呉*生に代表される陳呉時代から聶衛平時代へと移って行く。
 3.18日、第26期NHK杯「東野弘昭-高木祥一8段」、東野*番勝、優勝。
 2-4月、第3期棋聖戦「棋聖・藤沢秀行-石田芳夫」。
 藤沢棋聖が○○●○○の4-1で防衛。石田王座は勝負の前に、「秀行先生と番碁を打つのは初めて。建前としては、一生懸命勉強させていただきます、ということなのでしょうが、本音の方は4.5対5.5で棋聖は私のものでしょう」と語っていた。結果は、"コンピューター"が正しく作動せず1勝4敗で敗れた。
 秀行の名棋譜「第3期棋聖戦第4局/石田芳夫-藤沢秀行)」。
 4月、第17回十段戦「加藤正夫-橋本昌二」。
 *番勝、加藤が3-1で優勝。
 6月、第34期本因坊戦「本因坊・加藤正夫-林海峰」。
 *番勝、加藤が4-1で防衛。
 7月、第4回碁聖戦「趙治勲8段-大竹英雄」。
 *番勝、趙が3-0で優勝。
 7月、第1期女流鶴聖戦で、伊藤友恵優勝。
 8月、第4回名人戦「名人・大竹英雄-坂田栄男」。
 大竹*番勝、4-1で防衛。
 10月、第27回王座戦「王座・石田芳夫-加藤正夫」。
 加藤先番勝、2-0で優勝した。
 10.26日、第19期王冠戦で羽根泰正8段が優勝した。
 12月、第5回天元戦「加藤正夫-片岡聡5段」。
 加藤が3-0で優勝。加藤正夫が本因坊、十段、天元、王座、鶴聖の五冠王に輝く。
 第1期女流鶴聖戦。
 第17回秀哉賞に加藤正夫(本因坊、十段、天元、王座)が選ばれた。
 この年、5.6日、菊池康郎氏が主宰する緑星学園が発足した。
 この年、高校生代表訪中。
 第14(再7)回1979日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。日本代表団団長・大窪一玄九段(4-2)、白石裕九段(2-3-1)、羽根泰正八段(4-2)、中村秀仁七段(2-3-1)、時本壱六段(2-3-1)、星川信明六段、小林千寿五段、小林覚五段(3-3)、総戦績22-21-5。

 1980(昭和55)年
 イラン・イラク戦争。

 1-4月、第4期棋聖戦「棋聖・藤沢秀行-林海峰」。
 藤沢棋聖が○○●○○の4-1で防衛した。藤沢と林が七番勝負を戦うのはこれが4度目で、それまでは林が2勝1敗と勝ち越していた。林の「二枚腰」に対する藤沢の芸が見どころとなっていた。読売新聞社が募集した予想投票では林が55%の支持を得ていた。

 秀行の名棋譜「第4期棋聖戦第1局/藤沢秀行-林海峰
 2月、加藤正夫が、第2期鶴聖戦に優勝。本因坊、十段、天元、王座、鶴聖の五冠達成。
 3月、第27期NHK杯「橋本昌二-趙治勲8段」、橋本*番勝、優勝。
 4月、第18回十段戦「大竹英雄-加藤正夫」。
 大竹*番勝、3-2で優勝。
 6月、第35期本因坊戦「本因坊・加藤正夫-武宮正樹」。
 7.4日、武宮が1-4で新本因坊に復位した。正樹と改号(旧号は秀樹)。
 7月、第5回碁聖戦「大竹英雄-趙治勲8段」。
 大竹が3-1で優勝。
 8月、第5回名人戦「名人・大竹英雄-趙治勲(24歳)」。
 8月、第1回少年少女囲碁大会開催。
 9.17-18日、光の碁採録名局・「大竹英雄名人-趙治勲8段(先)」、趙先番中押勝。
 10.9日、「趙治勲の二手打ち事件」発生。第5期名人戦「名人・大竹英雄-趙治勲8段」の第4局で、趙治勲8段の劫立て番で読みに耽り、秒読みに追われながら「取る番?」と質問したところ、記録係が「はい」と答え、趙が213手目に劫立てをせずに抜き返してしまった。形勢は趙の有利な局面である上に取り番か否か記録係に確認してからの二度打ちだったことから厄介な裁定となった。協議の上で無勝負とされたが無勝負の裁定が最善だったのか疑問が残っている。

 趙治勲が4-1、1無勝負で名人位を獲得。以後5連覇して名人戦史上初の名誉名人の資格を得る。趙治勲が韓国に帰国し文化勲章 (銀冠)を受章。韓国で囲碁ブームが巻き起こるきっかけを作った。
 10月、第28期王座戦「王座・加藤正夫-石田芳夫」。
 加藤が2-0で優勝した。
 10月、第1回日本棋院全国団体選手権戦開催。
 第13回支部対抗戦(最終)。
 12月、第6回天元戦「加藤正夫-山部俊郎」。
 加藤が3-0で優勝。
 この年、第1回全国少年少女大会開催。
 8.4日、藤沢秀行率いる第1回藤沢秀行囲碁訪中団が中国へ出発した。当初の日本側メンバーは安倍吉輝、入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就ら。中国側は聶衛平、馬暁春などが中心だった。中国棋士の熱心さを目の当たりに見た藤沢は「中国軍団の馬蹄の響きが聞こえる」と述べ、棋力の日中逆転の危機事態にあることを指摘、予言していた。
 第18回秀哉賞に趙治勲(名人)が選ばれた。
 この年5.20日、坂田栄男が紫綬褒章受章。
 11.3日、増淵辰子6段が勲五等宝冠章受章。
 1月、会員誌「碁」が「レッツ・ゴ」に改題される。
 第15(再8)回1980日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。中国代表団団長・胡昌栄、聶衛平(3-4)、呉淞笙(4-3)、華以剛(2-4)、黄徳勲(3-4)、曹大元(6-1)、江鋳久(6-1)、孔祥明(3-4)、楊暉(5-2)、総戦績32-14。

 1981(昭和56)年

 3月、第28期NHK杯「藤沢秀行-高木祥8段」、藤沢(秀)*番勝、優勝。
 2-4月、第5期棋聖戦「棋聖・藤沢秀行-大竹英雄」。
 藤沢棋聖が○○○○の4-0で防衛した。この七番勝負まで、藤沢と大竹は2度、三番勝負を戦い、1勝1敗だった。この対決につけられたキャッチフレーズが、「華麗」の秀行か「美学」の大竹か――。読売新聞社がファンから募集した予想投票では大竹支持が約55%だった。プロの間では大竹乗りがもっと多かった云々。対局前、大竹は「秀行先生に番碁を打っていただきたい、というのが夢でした。その夢がかなえられてうれしい」、また、「秀行先生のあらゆる芸を盗み、それをあとに続く者に伝えるのが私の義務」とも語っていたが、無念のストレート負けを喫した。藤沢は大竹を下して5連覇を果たし、名誉棋聖の称号を得た。

 秀行の名棋譜「第5期棋聖戦第3局/藤沢秀行-大竹英雄
 4月、第19回十段戦「大竹英雄-橋本昌二」。
 大竹が3-0で優勝した。
 4.24日、趙治勲8段(24歳)が9段に昇段した。
 5.26日、第2期女流鶴聖戦「鈴木津奈3段-杉内寿子7段」、鈴木*番勝、優勝。
 第36期本因坊戦「本因坊・武宮正樹-趙治勲」。
 6.16日、趙治勲(24歳)が2-4で新本因坊になった。趙は坂田栄男、林海峰、石田芳夫に続く史上4人目の名人本因坊となった。
 7月、第6回碁聖戦「大竹英雄-加藤正夫」。
 大竹が3-1で優勝する。
 8月、第6回名人戦「名人・趙治勲-加藤正夫」。
 趙名人が4-0で防衛。
 第6期碁聖戦「大竹英雄-加藤正夫」。
 大竹が3-1で優勝する。
 10月、第29期王座戦「王座・加藤正夫-橋本昌二」。
 橋本が2-1で優勝した。
 11.19日、第24期関西棋院第1位決定戦「橋本宇太郎-石井新蔵」。
 橋本(宇)が2勝1敗で優勝する。
 12月、第7回天元戦「加藤正夫-小林光一」。
 加藤が3-2で優勝。
 第19回秀哉賞に趙治勲(名人、本因坊)が選ばれた。
 この年、M・レドモンド(1963(昭和38)年5月25日生、米国カリフォルニア州)が日本棋院の専門棋士として入段し囲碁界に異色を放った。大枝雄介九段門下。レドモンドの囲碁歴は52年院生、昭和56年入段、同年二段、同58年三段、同59年四段、同60年五段、同63年六段、平成2年七段、同8年八段、同12年九段。門下に牛栄子四段。
 この年11.3日、藤田梧郎6段が勲五等双光旭日章受賞。
 第16(再9)回1981日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。日本代表団団長・橋本昌二九段(7-0)、小島高穂九段(3-4)、福井正明七段(4-3)、宮沢吾朗七段(5-2)、片岡聡六段(5-2)、清成哲也六段(3-4)、小林健二四段(2-5)、新海洋子二段(1-6)、総戦績30-26。

 【昭和戦後の爛熟衰退経済期】

 1982(昭和57)年

 3.17日、中国で初めてプロ棋士の認定式(左から聶衛平、陳祖徳、呉淞笙)が行われプロ棋士が誕生した。
 3月、第29期NHK杯「坂田栄男-杉内雅男」。坂田が優勝した。
 2-4月、第6期棋聖戦が「棋聖・藤沢秀行-林海峰」。
 藤沢棋聖が●○○●●○○の4-3で防衛。
 4月、第20回十段戦「趙治勲-大竹英雄」。
 趙が3-1で優勝した。 
 5.14日、藤沢秀行が若手棋士を率いる第2回藤沢秀行囲碁訪中団が中国へ出発した。
 6月、第37期本因坊戦「本因坊・趙治勲-小林光一」。
 趙本因坊が●○●○○○の4-2で防衛。
 7月、第7回碁聖戦「大竹英雄-趙治勲」。大竹が3-2で優勝する。
 8月、第7回(期)名人戦「名人・趙治勲-大竹英雄」。
 趙名人が4-1で防衛。趙治勲が 鶴聖、十段、本因坊、名人の四冠を制す。


 この期の名人戦リーグで、坂田栄男(62歳)と島村俊廣(69歳)9段が対局中、島村9段が倒れ、そのまま病院に運ばれて棄権負けを余儀なくされた。病名は脳出血。島村9段の入院生活が長引き引退へ至った。有名な言葉は「一局の中で吐き気を催すことのないような棋士は一人前じゃない」。
 9.15日、日中戦争をはさんで数十年にわたる日本と中国の二人の棋士の人生を描いた日中合作の囲碁映画「未完の対局」が全国公開された。囲碁を題材とした日中合作映画は初めて。
 9.24日、レーザーディスクによる囲碁レコード「秀哉戦」が発売される。
 10月、第30回王座戦「王座・橋本昌二-加藤正夫」。
 前年にタイトルを橋本に奪われた「殺し屋」加藤がリターンマッチを制し、2-0で橋本昌二から王座を奪取した。以後8連覇し、加藤は「王座戦男」とよばれるようになった。
 10.20日、女流本因坊戦雄が昭和56年第27期で終了し女流本因坊戦(共同通信)に受け継がれる。第1期女流本因坊戦「本田幸子6段-小林礼子6段」。
 本田が2勝1敗で下し第1期女流本因坊になる。
 10.28日、第25期関西棋院第1位決定戦「佐藤直男-関山利夫」。
 佐藤が2勝1敗で優勝。
 12.27日、第8回天元戦「天元・加藤正夫-片岡聡7段(24歳)」。
 片岡7段が3-2で初タイトルを獲得した。 
 日本電気㈱主催のNECカップ囲碁トーナメント戦(「NECカップ」)が開設され、第1回「武宮正樹-大竹英雄」。武宮が優勝した。
 11.3日、島村俊廣が勲四等旭日小綬章受賞。
 第20回秀哉賞に趙治勲(名人、本因坊、十段)が選ばれた。
 この年、3.18日、国際囲碁連盟が発足し、初代会長代行に有光次郎氏が就任した。
 この年、4.28日、伊藤友恵5段が勲五等宝冠章受章。
 第17(再10)回1982日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。中国代表団団長・胡昌栄、聶衛平(6-1)、馬暁春(4-3)、曹大元(5-2)、楊普華(3-4)、江鳴久(6-1)、江鋳久(7-0)、銭宇平(5-2)、芮廼偉(7-0)、総戦績43-13。

 1983(昭和58)年

 3月、第30期NHK杯が「趙治勲-大竹英雄」で争われ、趙が優勝した。
 3.31日、日本棋院は棋士の希望による65歳定年制を施行し、岩本薫9段が定年制適用第1号として引退した。
 2-4月、第7期棋聖戦「棋聖・藤沢秀行-趙治勲」。
 趙治勲が○○○●●●●の3-4で新棋聖になる。3連敗後の4連勝でタイトル獲得。「大三冠」(棋聖、名人、本因坊)を達成する。棋聖位はその後3連覇。千葉市に移住。
 4月、第21回十段戦「十段・趙治勲-加藤正夫」。
 加藤が3-2で優勝し、趙治勲から十段位を奪取。勝った3局全て半目勝ちで、「殺し屋加藤」から「ヨセの加藤」へとモデルチェンジに成功したといわれた。
 6月、第38期本因坊戦「本因坊・趙治勲-林海峰」。
 林が○○○●●●●の3-4で新本因坊に復位した。林が再度の3連敗4連勝で12年振りの本因坊復位を果たし驚異の粘り腰を発揮した。
 7月、第8回碁聖戦「大竹英雄-淡路修三8段」。
 大竹が3-2で優勝する。
 7.21日、杉内寿子7段が大手合で上村陽生7段を破り、史上初の女流現役8段になった。7段昇段から10年ぶりの昇段。
 8月、第8回名人戦「名人・趙治勲-大竹英雄」。
 趙名人が4-1で防衛。
 10月、第31期王座戦「加藤正夫-大竹英雄」。
 加藤が2-0で優勝した。
 11.29日、馬暁春が中国4人目の9段に昇段した。19歳3ヶ月3日での9段昇段は世界最年少記録(2007.6月に陳耀燁5段に破られる) 。
 12月、第9回天元戦「片岡聡7段-淡路修三8段」。
 3-1で片岡が優勝。
 第2回NECカップ「坂田栄男-酒井猛」。坂田が優勝しタイトル獲得数を64とした。
 木谷三羽烏の後に時代を築いたのが、またしても木谷門下の趙治勲と小林光一の二人である。先に趙が活躍をはじめ、 昭和55年、大竹英雄から名人位を奪取し、1983(昭和58)には棋聖・名人・本因坊の三大タイトルを1年に独占する大三冠(だいさんかん)を達成し、1987(昭和62)には公式戦七大タイトル全てを1回以上獲得する(1年に独占ではない)グランドスラムを達成した。少し遅れて活躍を始めた小林は1984(昭和59)年、十段戦で加藤正夫を破り、1986(昭和61)年、趙から棋聖位を奪取し、その後には名人を奪い取り、それぞれ8連覇・7連覇を達成した。小林は本因坊を取れば大三冠というチャンスを幾度となくつかむが、その都度趙に阻まれる。趙は1989年から本因坊十連覇を成し遂げ、これは囲碁界のタイトル最長連覇記録となっている。1990年代まで、木谷の弟子たちが互いにタイトルを奪い合う一門の黄金時代(木谷一門黄金時代)が続いた。この時期この中に割って入ったのが藤沢秀行で、50代になってから棋聖戦で6連覇を記録するなど一人気を吐いている。
 第21回秀哉賞に林海峯(本因坊)が選ばれた。
 この年、田實渉総裁退任、後任は稲山嘉寛。
 第18(再11)回1983日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。日本代表団団長・石田芳夫九段(4-3)、石井邦生九段(4-3)、小林光一九段(7-0)、苑田勇一九段(6-1)、佐藤昌晴八段(2-5)、中村秀仁八段(3-1)、山城宏八段、長谷川直八段(3-4)、総戦績31-25。

 1984(昭和59)年

 3月、第31期NHK杯「本田邦久-武宮正樹」。本田が優勝した。
 3.31日、高川秀格名誉本因坊(68歳)が引退した。
 2-4月、第8期棋聖戦「棋聖・趙治勲-林海峰」。
 趙棋聖が○○○●●○の4-2で防衛。
 4月、第22回十段戦「十段・加藤正夫-小林光一」。
 小林が3-2で優勝し二度目の公式タイトルに就く(以降、3連覇)。
 6月、第39期本因坊戦「本因坊・林海峰-淡路修三」。
 林本因坊が4-1で防衛。
 7月、第9回碁聖戦「大竹英雄-加藤正夫」。
 大竹が3-1で優勝する。
 8月、第9期名人戦「名人・趙治勲-大竹英雄」。
 4-3で趙名人が防衛。3連敗後4連勝で前人未到の名人5連覇を果たし、初めて名誉名人の資格を得る。
 10月、第32期王座戦「加藤正夫-山城宏8段」。
 加藤が3-0で優勝した。
 10.16日、日中のプロ棋士8人による団体勝ち抜き戦の第1回日中スーパー囲碁戦が開幕した(1985.11.20日に終了した) 。
 10.18日、依田紀基5段(18歳8ヶ月)が最年少で第10期名人戦リーグ入りを果した。2005.10.27日に黄翊祖4段が18歳6ヶ月で名人戦リーグ入りするまで最年少記録となる。
 10.22日、光の碁採録名局「小林覚8段-雛海石5段(先)」、白中押勝。
 12月、第10回天元戦「石田芳夫-片岡聡7段」。
 石田が3-1で優勝。
 第3回NECカップ「趙治勲-坂田栄男」、趙*番勝、優勝。 
 この年1.1日、1984.1.1日現在の日本棋院所属現役棋士269人、関西棋院所属現役棋士95人。このうち9段は60人(16%)。1.5日、篠原正美9段、田中三七一7段が引退する。
 2.24日、古希を迎えた呉清源(69歳)が引退を表明した。引退式はホテルオークラで行われ、記念の連碁にも多くの棋士が参加した。引退後も研究会を続け、多くの現役棋士に影響を与えるとともに、「21世紀の碁」を提唱。応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦などの棋戦での審判役も務めている。
 7.25日、第3次藤沢教室が始まる。藤沢秀行9段のよみうりランドの自宅に入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就、小松英樹らが集まって研究会を始めた。(この研究会はその後も弟子の森田、三村、高尾の他にも人数が増え、1984年からは年に2回の合宿=秀行塾を行うようになる) 。
 第22回秀哉賞に趙治勲(棋聖、名人)が選ばれた。
 第19(再12)回1984日中囲碁交流戦の戦績は次の通り。1984年から個人間の三番勝負も組み入れられるようになり、名称も日中囲碁決戦となった。中国代表団団長・杜維忠、聶衛平(0-2 趙治勲、0-2 加藤正夫)、馬暁春(0-2 加藤正夫、2-0 橋本昌二)、曹大元(0-2 酒井猛、1-2 羽根泰正)、劉小光(2-0 大平修三、2-1 本田邦久)、孔祥明(0-2 小林覚、0-2 東野弘昭)、銭宇平(1-2-1 片岡聡、2-1 山城宏)、宋雪林(0-2 宮沢吾朗、1-2 石井邦生)、王元(1-2 上村邦夫、2-0 牛之浜撮雄)、総戦績22-33-1無勝負。 初回には聶衛平は趙治勲棋聖、加藤正夫王座に連敗するが、馬暁春橋本昌二九段に勝利する。また当時中国と国交の無かった韓国籍の趙治勲との聶衛平の対局は歴史的な対局でもあった。

 1985(昭和60)年

 1-4月、第9期棋聖戦「棋聖・趙治勲-武宮正樹」。
 1.16-17日、第1局が初の海外タイトル戦として韓国ソウルの「ホテル・ロッテ」で行われる。趙棋聖が○●●○●○○の4-3で防衛した。
 3月、第32期NHK杯「橋本昌二-石田芳夫」、橋本(昌)*番勝、優勝。
 4月、第23回十段戦「小林光一-大竹英雄」。
 小林が3-0で優勝した。
 6月、第40期本因坊戦「本因坊・林海峰-武宮正樹」。
 武宮が4-1で新本因坊に復位し3度目の本因坊就位となる。以後4連覇する(対山城宏、山城、大竹英雄)。
 7月、第10回碁聖戦「大竹英雄-工藤紀夫」。
 大竹が3-1で優勝する。
 8月、第10期名人戦「名人・趙治勲-小林光一」。
 フルセットの末、小林光一(33歳)が3-4で6連覇を目指す趙治勲名人を破り初の名人位に就く。ここから趙・小林の角逐時代が本格的に幕を開けた。
 10月、第33回王座戦「加藤正夫-小林光一」。
 加藤が3-0で優勝した。

【第1回日中スーパー囲碁戦、「鉄のゴールキーパー」聶衛平の活躍で中国の勝ち】
 11.20日、「藤沢秀行-聶衛平」。1984.10.16日に開幕した第1回日中スーパー囲碁戦は約1年が経過し5勝7敗で登場した中国・聶衛平(33歳)が、第13戦で6連勝であと一人の所まで追い込んでいた小林光一を破り、14戦で副将の加藤正夫を降し、中国5対日本7から7対7としてこの日、中国中央テレビ(CCTV)が中継し、当時の国務院副総裁・方毅が現場に駆け付ける中で、藤沢秀行を下して中国に逆転初優勝をもたらした。この「事件」がその後の中国囲碁界の飛躍へと繋がる。

 12月、第11回天元戦「小林光一-石田芳夫」。
 小林が3-0で優勝。
 第4回NECカップ「趙治勲-小林光一」、趙*番勝、優勝。 
 第23回秀哉賞に小林光一(名人、十段、天元)が選ばれた。
 この年、
 第20(再13)回1985日中囲碁交流戦(日中囲碁決戦)の戦績は次の通り。日本代表団団長・坂田栄男名誉本因坊、本田邦久九段(1-2 聶衛平)、牛之浜撮雄九段(1-2 曹大元)、酒井猛九段(2-0 江鋳久)、石田章九段(0-2 馬暁春)、淡路修三九段(1-1-1 劉小光)、桑田泰明八段(1-2 王群)、上村陽生八段(1-2 銭宇平)、総戦績26-26-1。

 1986(昭和61)年

 1.6日、趙治勲棋聖が、棋聖戦防衛戦が控えているこの日、自宅近くで車に轢かれ全治3か月の重傷を負った。
 第10期棋聖戦「棋聖・趙治勲-小林光一」。
 1.16日の第1局は本人の強い希望で痛み止めを打って車椅子で臨み、挑戦者・小林に敗れた。小林が●○○●●●の4-2で新棋聖になる。小林光一が趙治勲棋聖の四連覇を阻止、一気に五冠王となった。以後、棋聖位八連覇、名誉棋聖の資格を得る。
 3月、第33期NHK杯「小林光一-武宮正樹」、小林*番勝、優勝。
 4月、第24回十段戦「小林光一-武宮正樹」。
 小林が3-0で優勝した。
 6月、第41期本因坊戦「本因坊・武宮正樹-山城宏」。
 武宮本因坊が○●○○○の4-1で防衛。
 7月、第11回碁聖戦「趙治勲-大竹英雄」。
 趙が3-0で優勝する。
 8月、第11期名人戦「名人・小林光一-加藤正夫」。
 加藤が4-0で名人位を奪取。二度目の挑戦にして初の名人になる。
 10月、第34回王座戦「加藤正夫-林海峯」。
 加藤が3-1で優勝した。
 12月、第12回天元戦「小林光一-苑田勇一」。
 小林が3-1で優勝。
 第5回NECカップ「武宮正樹-小林覚」、武宮*番勝、優勝。 
 第24回秀哉賞に加藤正夫(名人、王座五連覇)が選ばれた。
 11.27日、本因坊9連覇の偉業を達成し「秀格」と号した高川秀格9段が逝去した(享年71歳)。

 大正4年生まれ、和歌山県田辺市出身。同14年、光原伊太郎門に入る。昭和11年、4段の時、日本棋院入り。同27年、橋本宇太郎を破り関西から本因坊位を奪回、以来連続9期に渡って本因坊位を守った。秀格と号す。35年9段、39年名誉本因坊位を贈られる。
 第21(再14)回1986日中囲碁交流戦(日中囲碁決戦)の戦績は次の通り。中国代表団団長・陳祖徳、聶衛平(1-2 加藤正夫、2-0 羽根泰正)、馬暁春(2-0 小林覚、1-2 苑田勇一)、曹大元(2-1 工藤紀夫、1-2 橋本昌二)、孔祥明(1-2 時本壱、1-2 坂口隆三)、銭宇平(1-2 宮沢吾朗、1-2 彦坂直人)、邵震中(0-2 酒井猛、2-0 白石裕)、王群(2-0 園田泰隆、2-1 郡寿男)、芮廼偉(2-1 菅野清規、2-0 久保勝昭)、総戦績31-25。

 1987(昭和62)年

 1.9日、第11期棋聖戦挑戦手合第1局がアメリカ・ロサンゼルスで行われる。
 3月、第34期NHK杯「石田芳夫-林海峯」、石田*番勝、優勝。
 3.21日、若手棋士の登竜門としてさる1977年から行われてきた留園杯争奪早碁トーナメントが、留園ビルの改築に伴い10期限りで中止されることになった。呉清源、大竹英雄、林海峰らを囲んで21日午後6時から東京・港区芝公園の留園で「留園杯サヨナラパーティー」が開かれた(会費5千円)。
 2月、第11期棋聖戦「棋聖・小林光一-武宮正樹」。

 2.24-25日、光の碁採録名局・第5局「小林光一-武宮正樹本因坊(先)」、小林白3目半勝。小林棋聖が○○○●○の4-1で防衛する。 

 この年、武宮の「地下鉄発言」が囲碁クラブに掲載されている。
 「小林くんみたいな碁というと悪いけど、ああいう碁が棋聖というんじゃ情けないですからね。囲碁ファンにああいう打ち方がいいと思われると困りますから、僕が勝って決着つけておかなければね。要するに彼は地下鉄みたいな碁でしょ。まわりの景色、何にも見えなくてね。ただ目的地まで着けばいいっていう碁でね」。

 この頃、秋山賢司(朝日新聞観戦記者、ペンネーム春秋子)が小林光一に武宮発言の感想を聞いたところ 次のような語りが紹介されている。
 「僕だって人間ですからね、まったく冷静ではいられない。ファンの方から、黙っていないで言い返してやりなさい、と電話やお手紙をずいぶんいただいました。 しかしそんな気持ちはないんですよ。棋士は盤上がすべてです。盤上で決着をつけなくては。ただ、地下鉄とはうまいことをいうと思いました。勝つ目的のためには最初から最後まで真理を追究しなくてはいけない。だから真理だけを見つめればいいのであって、他のものは見る必要がないんです」 。
 4.10日、長谷川直8段が9段に昇段した。
 4月、第25回十段戦「加藤正夫-小林光一」。
 加藤が3-1で優勝した。
 4.27日、名誉棋聖・藤沢秀行が紫綬褒章受賞。
 5.20日、1986年世界アマ囲碁選手権大会で優勝した香港の陳嘉鋭選手(31歳)が関西棋院のプロ5段としてスタート。5.20日から公式戦を打ち始めた。7月まで本田邦久、牛窪義高らを相手に6連勝した。陳5段は中国・広州の生まれ。日中囲碁にも何度か登場、世界アマも一、二回大会は中国選手として出場していたが、3年前、結婚のため香港に移住した。
 6.2日、中国囲碁協会、プロ棋士を増員。中国囲碁協会が7段9人と6段6人の計15人の専業(プロ)棋士の増員に踏み切った。最近の中国国内の囲碁ブームに対応するためだという。中国のプロ制度は1982年に発足したが、増員は1985年の12人に次いで二度目。これで同国のプロは合計で36人になった。
 6月、第42期本因坊戦「本因坊・武宮正樹-山城宏」。
 武宮本因坊が○○○○の4-0で防衛。
 7月、第12回碁聖戦「加藤正夫-趙治勲」。
 加藤が3-1で優勝する。
 8月、第12期名人戦「名人・加藤正夫-林海峰」。
 加藤が4-0で名人防衛。加藤名人が7大タイトルの4冠(名人、十段、王座、碁聖)を制した。第3局は伊豆長岡の石亭。二日目の夕食休憩後、林が二手打ちして反則負けしている。
 9.27日、中国の段位戦で江鋳久8段(25歳)、銭宇平8段(20歳)の二人が9段になった。これで中国の9段は6人(オーストラリアに移住した呉淞笙9段を除く)になった。なお中国には降格制度があり、王剣坤7段が段位はそのままで6段格に降格した。
 10.8日、「加藤正夫-林海峰の第12期名人戦7番勝負第3局」で「二手打ち」事件発生。これは、10.7日朝から静岡県・伊豆長岡の旅館で始まり、対局2日目に持ち時間残り1分となって秒読みの中、夕食休憩前に白番林が188手目を打って打ち掛けにしていたにも関わらず、10.8日午後6時31分の再開直後に連続して189手目を着手してしまったことによる。林海峰9段の反則負けとなった。囲碁タイトル戦では1971年のプロ十傑戦で石田芳夫7段(当時)が、コウ立てをしないでコウを取って反則負けになって以来のハプニングとなった。
 10.23日、小林覚8段(28歳)が9段に昇段した。
 10月、第35期王座戦「加藤正夫-趙治勲」。
 加藤が3-1で優勝した。
 11.7日、久保勝昭8段(29歳)が9段に昇段した。
 12.28日、第13回天元戦「天元・小林光一-趙治勲」。
 趙が3-2で小林天元を降し優勝。趙治勲が史上初のグランドスラム(棋聖、名人、本因坊、十段、天元、王座、碁聖の挑戦手合制七大公式タイトル制覇)を達成する。
 第6回NECカップ「大竹英雄-林海峰」、大竹*番勝、優勝。
 第25回秀哉賞に加藤正夫(名人、十段、王座、碁聖)が選ばれた。
 4.2日、「岩本囲碁振興基金」創設。元本因坊で日本棋院顧問の岩本薫(85歳)から、東京都渋谷区恵比寿の研修道場「薫和サロン」の土地と建物(土地147平方メートル、鉄筋4階、5億3000万円相当)の寄贈があり、これを売却して日本棋院(色部義明理事長)に「岩本囲碁振興基金」ができた。日本棋院は「囲碁の国際普及、後進育成のための施設建設などに使いたい」と語った。
 4.4日、「ミニ碁一番勝負」放送開始。大阪のよみうりテレビで九路盤での勝ち抜き戦「ミニ碁一番勝負」の放映が始まった。毎週土曜日の午前6時15分から放映される。持ち時間は各2分30秒。解説・宮本直毅、石井邦生、司会・水戸ゆかり初段。(2002.6.25日放送で終了した) 。
 8.13日、長谷川章(はせがわ・あきら。囲碁名誉8段、日本棋院顧問、元日本棋院理事長)が、胆管ガンのため千葉県浦安市の順天堂浦安病院で死去した(享年87歳)。
 12.18日、財団法人・日本棋院の色部義明理事長(協和銀行相談役)が、健康を理由に今年限りで理事長を辞任することを明らかにした。色部理事長は1986.7月、財政再建のために請われて就任、合理化を進めて来た。呉が勲三等旭日中綬章。
 第22(再15)回1987日中囲碁交流戦(日中囲碁決戦)の戦績は次の通り。日本代表団団長・加藤正夫名人(0-2 聶衛平、1-2 馬暁春)、淡路修三九段(2-0 馬暁春、2-1 江鋳久)、苑田勇一九段(1-2 曹大元、2-1 劉小光)、上村陽生八段(2-1 王群、2-1 曹大元)、彦坂直人七段(1-2 銭宇平、2-0 邵震中)、今村俊也七段、依田紀基六段、大矢浩一六段(2-0 張文東、0-2 兪斌)、総戦績32-24。

 1988(昭和63)年

 1.8日、第12期棋聖戦挑戦手合第1局がハワイ・ホノルルで行われる。 
 2.13日、読売新聞社が4月から「世界囲碁選手権・富士通杯」を実施すると社告。第1回は日本棋院5人、関西棋院2人、中国囲棋協会4人、韓国棋院3人、米国囲碁協会、欧州囲碁連盟各1人の5か国16人が出場する。
 3.1日、日本棋院が免状取得料を初段3万円(現在2万5千円)、2段4万円(3万円)、3段5万円(4万円)、4段6万円(5万円)、5段10万円(8万5千円)、6段20万円(17万円)に値上げした。前回の値上げは1981年から7年ぶりとなる。
 3月、第35期NHK杯「加藤正夫-王立誠8段」、加藤*番勝、優勝した。
 2-4月、第12期棋聖戦「棋聖・小林光一-加藤正夫」。
 小林棋聖が○○○●○の4-1で防衛。
 4月、第26回十段戦「十段・加藤正夫-趙治勲」。
 趙が3-2で優勝した。
 6.2日、日本のプロのほか中国と韓国の棋士を加えた早碁の棋戦「IBM早碁オープン戦」が始まった。第1回は6月に予選開始、9月に決勝戦の予定。本戦への出場者は日本60人、中国、韓国各2人の計64人。持ち時間1時間のトーナメント。日本で対局し優勝者には300万円の賞金が出る。
 6.24日、内廼偉8段(女流)、劉小光8段が9段に昇段。これで中国の9段は7人(聶衛平、馬暁春、曹大元、銭宇平、江鋳久、劉小光、内廼偉)になった。
 6月、第43期本因坊戦「本因坊・武宮正樹-大竹英雄」。
 武宮本因坊が4-3で4連覇(通算6期)する。
 7月、第13回碁聖戦「小林光一-加藤正夫」。
 小林が3-0で優勝する。碁聖奪回。
 8.19日、台湾の実業家・応昌期/氏がスポンサーの「応氏杯・世界プロ選手権囲碁戦」が北京で開かれる。日本、中国、韓国、台湾、オーストラリア、アメリカの五か国一地域から16選手が参加した。中国と国交のない韓国の選手が中国入りするのは初めて、台湾の選手が中国で試合をするのは、あらゆる競技を通じて初めて。優勝者には40万ドル(5200万円)、準優勝者には10万ドルが贈られる。持ち時間各3時間、応昌期ルール、先番7目半コミ出し、目数は日本式に換算、4年ごとの開催。前夜祭の会場には中国の国会議事堂ともいうべき人民大会堂が提供され、中日韓台の棋士が一堂に会した。決勝戦五番勝負は、曹薫ゲン(韓国)が轟衛平(中国)を破り優勝した。
 8月、囲碁の国際化により世界囲碁選手権富士通杯が開始される。第1回世界選手権富士通杯「武宮正樹(日本)-林海峰(日本)」。武宮が優勝。創設された初の世界大会を制す。曹大元、馬暁春、小林光一、林海峰を破っての優勝だった。富士通杯はこの第1回大会から持ち時間3時間制にしている。答辞の日本碁会に於ける対局は5時間ないし6時間を標準にしていたが、中国、韓国碁界の習慣に合わせて3時間制を採用した。
 8月、第13期名人戦が「名人・加藤正夫-小林光一」。
 小林光一が1-4で再び名人奪取。ここから小林の長期政権が始まる。
 9.16日、片岡聡8段が9段に昇格。
 9.21日、王立誠8段が9段に昇格。王立誠は台湾出身では林海峰9段に次いで二人目の9段。
 10月、第36期王座戦「王座・加藤正夫-武宮正樹(本因坊)」。
 
10.27日、第1局で武宮本因坊がコウ立てをしないでコウを取ったため反則敗けした。正しくコウ争いをしていれば武宮の勝ちだった。1987.10.8日の第12期名人戦7番勝負第3局で林海峰がコウ立てをしないでコウを取る反則負けをして以来3度目の出来事。結局、3-0で加藤が防衛した。
 12月、第14回天元戦「天元・趙治勲-苑田勇一」。
 趙が3-2で優勝。
 第7回NECカップ「石田芳夫-趙治勲」、石田*番勝、優勝。
 第26回秀哉賞に小林光一(棋聖、名人、碁聖)が選ばれた。
 この年、稲山嘉寛総裁退任。1.13日、財団法人日本棋院が理事会を開き、空席になっている理事長に日本航空の相談役・朝田静夫氏(76歳)を選んだ。「まず、国の内外を問わず積極的な普及活動の展開を、そして青少年の育成強化や外国人留学生のための囲碁教育普及センターの建設も、ぜひ完成させたい」と抱負を語った。任期は1990.6月末まで。朝田氏は東京大学卒業後運輸省入り、運輸事務次官を経て1971年から1981年まで日本航空社長を務めた。
 5.25日、アマチュアの初、中級者向けの解説で、1976.9月から親しまれてきた囲碁雑誌の「月刊碁学」が7月号を最後に休刊することになった。編集者兼発行人の三木正さん(68歳)は「私自身限界を感じたし、後継者もいないので」と休刊の弁を遺した。
 第23(再16)回1988日中囲碁交流戦(日中囲碁決戦)の戦績は次の通り。中国代表団団長・聶衛平6-1(2-0 橋本宇太郎、2-0 淡路修三、○石井邦生、×坂田栄男、○小松英樹)、馬暁春4-3(2-1 山城宏、1-2 工藤紀夫、○梶原武雄)、曹大元5-3(2-0 石井邦生、2-1 小島高穂、○苑田勇一、×山部俊郎)、劉小光5-2(2-1 本田邦久、2-1 上村邦夫、×加納嘉徳)、芮廼偉5-2(1-2 長谷川直、2-0 新垣武、○大窪一玄、○淡路修三)、方天豊4-3(1-2 小県真樹、2-1 石倉昇、○大平修三)、梁偉棠4-3(2-0 後藤俊午、0-2 小松英樹、×結城聡、○梶和為、○楠光子)、張璇6-1(2-0 結城聡、2-0 楠光子、○後藤俊午、○影山利郎)、総戦績39-17。
 聶衛平が、中国囲棋協会から棋聖の称号を授与される。

 1989(昭和64)年

 1.5日、海外の囲碁会館第1号として、「日本棋院南米会館」(ブラジル・サンパウロ市)が竣工落成し、開業式が同会館で行われた。ブラジル、サンパウロ市に敷地160坪、総建坪280坪で完成した会館はすでに法人会員約40社、個人会員140人が入会している。式典には日本側から岩本薫、長原芳明日本棋院常務理事、藤田梧郎関西総本部棋士会長、高木祥一らプロ棋士11名を含む35人が出席。また現地側は丸山俊二総領事をはじめとして200名が出席した。

 1989(昭和64)年、1.8日、平成に改元。 
 この年、。
 第27回秀哉賞に小林光一(棋聖、名人、碁聖)が選ばれた。
 第24(再17)回1989日中囲碁交流戦(日中囲碁決戦)の戦績は次の通り。1989年からは若手主体の対抗戦となり、日本は25歳7段以下、中国は28歳以下の棋士から選手を選抜した。日本代表団団長は後藤文生読売文化部長。総戦績29-27。
小松英樹六段 (4-3)
結城聡六段 (3-4)
山田和貴雄五段 (0-7)
篠田秀行四段 (4-3)
森田道博四段 (6-1)
三村智保四段 (4-3)
青木喜久代二段 (6-1)
宮崎志摩子二段 (2-5)





(私論.私見)