日本囲碁史考、古代から奈良朝の囲碁

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.12日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで「日本囲碁史考、古代から奈良朝の囲碁」を記しておく。まずは基礎中の基礎知識として知っておきたい事柄を書きつけ、次第に奥行きを深くしていくつもりである。サイトでは、「囲碁の歴史」なるサイトがある。どうやら日本棋院の作成らしい。これを参照しつつ次第に囲碁吉風に書き改める予定である(日本棋院様、もしも著作権フェチなら堪忍やで)。基礎中の基礎知識として知っておきたい。他に「棋譜う」、「囲碁の棋譜でーたべーす」、「囲碁の歴史」、「囲碁という日本の文化」、「囲碁史物語」、「碁打ち探訪今昔四方山話」、「囲碁通史No9~」、「増田忠彦、資料にみえる碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」、「囲碁史年表」、「本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する─囲碁将棋界の基礎を築いた年前の伝説の棋士─古作登」その他を参照する。

 書物としては、榊山潤「武将と囲碁」(人物往来社、1964年初版)、榊山潤「日中囲碁盛衰史」(勁草書房、1967年初版)、江崎誠致(まさのり)「昭和の碁」(筑摩書房、1967年初版)、安永一「囲碁名勝負物語」(時事通信社、1972.3.1日初版)、田村竜騎兵「物語り囲碁史」(日本棋院 、1972年初版)、江崎誠致「囲碁放浪記 懸賞打ち」(双葉社、1972初版)、三好徹「五人の棋士」(1975.4.28日初版)、真継伸彦「囲碁のある人生」(筑摩書房、1980年初版)、中山典之「囲碁の魅力」(三一書房、1992年初版)等々を参照する。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


 これより以前は、「囲碁発祥譚考その2、自生論」。


【魏志倭人伝の日本囲碁記述】
 「魏志倭人伝の中には卑弥呼が朝鮮から囲碁と双六の道具の寄贈を受けたというくだりがあります」とする記述がある、という。同書のどの件にどう書かれているのか不明だが、虚説にしても興味深い。というのも「あり得る話し」だからである。これについては今後も関心を持っていきたい。

【隋書・倭国伝の日本囲碁記述】
 607年、推古天皇の時代に遣隋使の派遣で、聖徳太子は「日の出るところの天子から日が沈むところの天子へ」と書いた手紙を持たせた。その手紙を見た隋の皇帝は怒って「無礼な手紙だ。日本(倭)がまた何を言ってきても二度と私の耳に入れるな」と怒ったが、翌608年、文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を隋の使いとして日本に送ってきた。隋の裴世清は、日本に来ていろいろなことを調べ、体験したことを記録し、636年、隋書・倭国伝ずいしょわこくでんを著わす。その中で次のように記している。
 (倭人は仏法を敬い)
 (倭人は正月には必ず射的競技をし、酒を飲む。季節行事はほぼ中国と同じ)
 「好棋博、握槊、樗蒲之戲」(囲碁、すごろく、サイコロ賭博と、遊びが好き)。
 (解説)棊博(きはく)は囲碁のこと、握槊(あっさく)は双六(すごろく)のこと、樗蒲(ちょぼ)はさいころ博打(ばくち)のこと)。
(私論.私見)
 「倭人は仏法を敬い、囲碁、双六(すごろく)、さいころ博打(ばくち)の戯芸を好む」と記しており、日本では相当に古くより囲碁が打たれていたことになる。別段に中国から移入されたとも注釈されていない。これらを思えば安易に伝来論に染まるのは控えたいと思う。後の時代に吉備真備の囲碁伝説が遺されているが、彼の留学よりも前に編まれた律令や風土記の遺文からすれば、「日本の囲碁の伝統は相当古い」ことが明らかとなっている。この辺りを踏まえれば、「日本への伝来は真備よりも古い」とする修正ではなお足りず、そもそもが「囲碁の日本伝来説一辺倒」からして早計と云うべきではなかろうか。「日本で自生した可能性が大いにある」。但し、愛国排外主義的に称揚する意義がないので、「伝来説は不詳。少なくとも中国、朝鮮、日本のアジア圏で創造され歴史的に愛好されて来た技芸である」と構図すべきではなかろうか。かく史観を構えたい。

【遣唐使船に碁師が加わっていたことの記述】
 遣唐使には大概碁師が1名加わって行ったと云う。三代実録は遣唐使員としての碁師の記録が次のように記されている。
 「伴宿禰少勝雄、 碁を善くするを以て、延暦聘唐の日、使員に備う。碁師たるを以てなり」。

 「囲碁事蹟部類鈔」(江戸後期成立囲碁史書)が次のように記している。
 「碁師は能書を手師といふが如く碁の高手なるべし、…三代実録の文に拠れる遣唐使の諸司の中に必ず碁師ある事、古例なりしなるべし。推古天皇の御代より以降延暦の頃までは、いとしばしば漢国に御使ありしかば、碁師等彼国の人と打ちたるが、中にはいとさかしき手なども有したるべし。帰朝の後その事を朋友などにも語りし事を、ほぼゆがめてもいひ伝へしより、かの江談にみえたる怪説もありしなるべし。杜陽雑編に見たる日本王子のことも碁師などにもやありけむ。猶考ふべし。万葉集の碁師も作主履歴に字にはあらで、棊を善くする人の仮名なるべしといへるが如く少勝雄を碁師といへると併せ見るべし。されどその姓名ともに伝わらざるはくちおし。又同集巻四に碁檀越往伊勢国時留書作歌、といふも見ゆ。此はた作主履歴に檀越可為字、冠之碁、其芸依善而已といへりける。碁といふ氏も他に見あたらねば此説の如くならんか。もし然らば碁師の字檀越にて上に見えたると同人なるべし」。

【奈良時代前半の囲碁】

【持統天皇の「双六禁止令」発布】
 685(天武天皇14)年、「大安殿に御し、王卿をして博戯せしむ」(「天武天皇の双六天覧試合」)。翌686年、天武天皇逝去す。後継したのが鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、持統天皇)。 688(持統天皇3年).12.8日、「双六禁止」発布(「双六禁止令」)。

【大宝律令の囲碁記述】
 701(大宝元)年、文武天皇の御代、聖武天皇の祖父で光明皇后の父である藤原不比等(ふひと、659-720)が編纂した大宝律令が定められた。これは隋や唐のような強大な国づくりをめざし、政治、学校、土地、身分などを取り決めた法律であるが、その中の僧尼令(そうにりょう)に次のように記されている。碁が格別の地位で待遇されていることが分かる。
 「凡そ僧尼は、音楽及び博戯を作(な)さば、百日の苦使。碁琴は制限あらず」(博戯=チョボ、双六(すごろく)の類を云う)。
 (凡そ僧尼が音楽と博戯をすれば百日の苦役。碁と琴に制限はない)。
 (スゴロクやバクチは禁止するが、碁琴(ごきん)は禁止しない)
(私論.私見)
 原文は「僧尼」とあるのでその字義通りに読むべきではなかろうか。大抵「僧侶」と解しているが、「僧尼」の「尼」に注目すると、男性の「僧」と女性の「尼」の両方に掛かっているところの意味が注目されるべきではなかろうかと思う。この当時、日本における女流碁が存在しており、それが解禁されており、むしろ推奨されていたことを窺うべきではなかろうか。同時代の外国に於ける女流碁の様子との比較が興味深いが、この種の研究はされていないように思われる。
 
 これに関係すると思われる田村竜騎兵著「物語り囲碁史」の次のくだりを転載しておく。
 「今、博奕と書くと、バクチと読むことになっている。だいたい奕の字だけでバクチの意味にとられるのが普通だ。だがこれは、碁にとってたいへん迷惑な話である。博奕と書いて二つを一緒にするのが間違いの元なのである。元来、博は、チョボ、スゴクロなどの雑技を云い、奕は碁そのものを指す。ぜんぜん違うものをひとつにし、しかもバクチ呼ばわりするとは、何事であるか。第一、博と奕では品格が違う。博は極端に言えば丁半バクチも同じで、賭け金さえ持っていれば誰にでもやれる。碁は、技術を知らなくてはやれない。知ってからあとの奥行きの広さ、深さも抜群である。誰でも、すぐにでもと云う訳にはいかないのだ。昔、博も奕も大流行し、みんなウツツを抜かして社会問題になったことがある。困った役人は、厳重なお触れを出した。『博する者は罰す。奕する者は罰せず』。たぶん役人も奕が好きだったのだろう。当然である」。

 大宝律令の大部分が散逸し、断片が残るのみとなっている。但し、半世紀後の757(天平宝字元年)の養老律令(ようろうりつりょう)は、大宝律令の改訂版とされ、完全な形で現在に伝わっている。律は今日の刑法、令は民法や行政法を云う。養老律令の令の編目の一に「僧尼令」(そうにりょう)があり、僧尼を統制する法令となっている。唐令の道僧格(どうそうきゃく)を元とし、大宝律令から令に加えられた。養老律令第7編にあたり27条から成る。内容は私度(しど)の禁止、呪術を用いた民衆布教の禁止、僧尼の破戒行為の禁止などで、行政面だけでなく令でありながら刑罰の規定をも含んでいる。

【我が国最初の漢詩集懐風藻の囲碁記述/弁正法師】
 701(大宝元)年頃、我が国最初の漢詩集「懐風藻」(かいふうそう、751年成立)が入唐僧の釈弁正の二首を記載している。序詞に記される釈弁正とは次の通り。
 「弁正法師は俗姓秦氏。性は滑稽、談論に善し。少年にして出家し、頗る玄学にひろし。大宝律令の編まれた年中に唐国に遣学す。時に後の玄宗皇帝がまだ龍潜の日即ちまだ玄宗が帝位につ かない時の李隆基りりゅうきに会い、日に遇う。囲棊を善くするを以て、しばしば賞遇せらる」、「弁正法師が唐在中の折、混血児をもうけた。その人は日本に帰り官吏になっており、帰朝してからの事跡は古記録でも確かめられている」。
(私論.私見) 弁正法師の囲碁の腕前考
 これによれば、囲碁の達者であった弁正(べんせい)法師が吉備真備に先行して大宝年間(701~703年)に唐に留学しており、囲碁が上手な故に後に玄宗皇帝になる李隆基太子に愛でられ厚くもてなされたと記されていることになる。してみれば、当時の日本に既に弁正法師が囲碁に強くなる囲碁環境があったと云うことになる。弁正は純粋の日本人ではないとする説もあるが、日本からの留学生であることを思えば日本での囲碁熟達を認めるのが筋だろう。
 日本詩史 (*年成立 漢詩史書、江村北海編)は次のように記している。
 「僧弁正、姓は秦氏。亦た西して唐国に遊び、玄宗眷遇甚だ篤し。しばしば召して談論 し、時に囲棋に対すと云ふ。然るときは則ち、或いは盛唐の諸子と諦交し、その潤色 を被るものなり。しかして今その詩を閲するに、絶えて佳なるもの無し。謂ふべし、 空手玉山より還ると 」。

  皇国名医伝 (*年成立 名医伝記)前編巻上[秦忌寸朝元]は次のように記している。
 「秦忌寸(いみき)朝元。父弁正。大宝中唐に赴き。囲棋 を以て唐主の幸を得る。朝慶朝元の二子を生む。弁正と朝慶は彼に死す。朝元独り返 る。医方に通ず。養老五年、従六位下に叙し。絹絲布鍬を賜る。図書頭主計頭に累遷 す。其の唐語を善くするを以て。命じて訳官を兼ねる」。

【大伴小虫の囲碁を廻る中臣東人斬殺事件】
 737(天平10)年7月、続日本紀の巻13の738(天平10)年7月10日条に次の記述がある。
「左兵庫少属従八位下大伴宿禰子虫、刀を以て右兵庫頭外従五位下中臣宮処連東人を対局中に斬殺す。初め子虫は長屋王に事へて頗る恩遇を蒙れり。是に至りてたまたま東人と比寮に任ず。政事の隙に相共に碁を囲む。語、長屋王に及べば憤発して罵り、遂に剣を引き斬殺す。東人は長屋王の事を誣告せし人なり」。
 
 「左兵庫少属だった大伴小虫と右兵庫頭の中臣東人が政務の暇に碁を打っている最中、東人が小虫の恩人・長屋王の悪口を言ったのに怒り、小虫が東人を斬り殺した」と記されている。

少属(四等官)が上官に当たる頭(長官)を殺したことになる。一局の碁から思わぬ事件が突発した話しの最も古い記録である。このことからも当時既に宮廷で碁が日常的に打たれていたことが判明する。

 この事件の背景が次のように解説されている。大伴小虫(宿弥)の殺人事件には長屋王の変が絡んでいる。長屋王は高市皇子(天武天皇の長子)の長男で、720年の藤原不比等亡き後、元明天皇、元正天皇といった女帝からの信頼が篤く、右大臣、左大臣を歴任し、良田百万町開墾計画(722年)、三世一身の法(723年)などを実施した。太政官の主位を占め勢力を誇っていた。しかし724年に聖武天皇即位後は藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の勢力が強まり、時に聖武天皇の親王が皇太子に即位後まもなくの729年、皇太子の死が長屋王の呪詛によるとの噂が流れ、729(天平元)年2月10日条、中臣東人が添部造君足と二人が「長屋王が左道を学び、ひそかに国家を傾けようとしている」と朝廷に密告した。その密告を信じた聖武天皇は直ちに六衛府の兵を長屋王邸に差し向け、邸を囲ませて逃亡を防ぎ、翌日密使をやって糾問させた。「その夜、使を遣はして固く三関を守らしむ。因りて式部卿従三位藤原朝臣宇合・衛門佐従五位下佐味朝臣虫麻呂・左衛士佐外従五位下津嶋朝臣家道・右衛士佐外従五位下紀朝臣佐比物らを遣はして、六衛の兵を将て長屋王の家を囲む」。これにより、王、妃、王子たちが自害を余儀なくされた。奈良朝前期の大政変であり藤原氏の陰謀が垣間見えている。7年後の「大伴小虫の囲碁を廻る中臣東人斬殺事件」には、中臣東人を憎む大伴小虫の心情があったと云うべきだろう。(古代日本における「碁」(4)その他参照)


【藤原武智麻呂(藤原左大臣、諱は武智麻呂)に関する囲碁愛好記述】
 藤家の家僧の延慶編「武智麻呂伝」(760年頃成立伝記)が藤原武智麻呂(737年没)につき次のように記している。
 「藤原左大臣、諱は武智麻呂、左京の人なり。(武智麻呂は不比等の長子、母は曽我氏の女で、藤原南家の祖とされる人物。聖武天皇が皇子の時に教育係を勤め、長屋王の変では天皇を糾問した気骨のある人物ともされる。変の後は実権を握って正一位左大臣に上る)…その性温良にして、その心は貞しく固く、礼に非ざれば履まず、義に非ざれば領(おさ)めず、毎(つね)に恬淡を好み、遠く閙(かいどう・乱れ騒がしい)を謝る。或る時は手談して日を移し、或る時は疲覧して夜を徹しぬ。財色を愛せず、喜怒を形さず、忠信を主となし、仁義を行となせり」。

 「武智麻呂伝」は、武智麻呂の子の(藤原恵美)押勝が太師(太政大臣)と権勢にあるときに編んだ家伝。余技として、詩文や歌ではなく手談(囲碁のこと)に熱中したとしている。武智麻呂は天平年( )に歳で没した。武智麻呂と弁正は同時代の碁打だったことになる。(増田忠彦「資料にみえる碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」参照)

【藤原広嗣の囲碁愛好記述】
 藤原広嗣(740年年没)につき、鏡神社松浦廟宮(佐賀県唐津市)の先祖次第并本縁起が次のように記している。
 「彼(藤原広嗣)存生時に於て五異七能有りと云々。五異と謂は。一、御髻中。一寸余の角が生ず。[諺曰。人者雖賢専角不生云々。今按謂之世間希有] 二、宇佐玉殿に候頃年囲碁を奉仕す。[此れ亦希有。専人間之事に非ず]…(以下、異三項と七能のこと、後略)」。

 資料は藤原広嗣の霊を祀る松浦宮(鏡神社)の縁起で、広嗣の人間離れの異能ぶりを記す条。藤原広嗣は大宰府の少弐に左遷され、玄や吉備真備の排除を要求して叛乱、追討軍によって年に任地で斬殺された人物である。常人と異なるものを五つ、勝れた才能を七つあげ、その異の第二に宇佐八幡の祀神を囲碁で慰めたとある。神様を慰める腕は、まさしく異能の碁打ちといえよう。(増田忠彦「資料にみえる碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」参照)
 神功皇后のお子にして第15代天皇の応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12.14日- 応神天皇41年2.15)(在位:応神天皇元年1.1 - 同41.2.15日)は、囲碁の伝来伝説にも名をみる天皇である。すなわち、日本書紀 応神天皇年に「百済の王、阿直伎を遣して、良馬二匹を貢る」とあり、この時代に囲碁も百済から伝来したという説がある。日本書紀での名は譽田天皇。

【口歪む僧説話】
 仏教説話集「日本霊異記」(822年成立)の2話の第一話。748年頃、「僧が囲碁対局の最中に法華経を唱えて喜捨を乞う者が来た。この者を嘲り笑った僧は、打つたびに碁を負け、口が歪んでしまったきる」。第2話。「勤勉に法華経を誦する僧の名をひやかしながら碁を打っていると、口が歪んでしまった」の逸話を載せている。僧と一般人が碁で戦い、一般人が僧を嘲ると帰路に頓死する話も登場している。

【吉備真備ら入唐】
 752年、吉備真備ら入唐。日唐対局伝あり(「江談抄」)
 (より詳しくは「吉備真備の囲碁説話考」参照)

【奈良時代後半の囲碁】
 752年、唐大寺大仏開眼。

 囲碁は戦略、政治、人生のシミュレーションゲームとして広まっていた。古くから中国では、士大夫の学ぶべき四芸のひとつに数えられ、知識人の嗜みとして「琴棋書画」(きんきしょが)を習わせた。琴(きん)は音楽、棋(き)は囲碁、書(しょ)は書道、画(が)は絵のことを指す。奈良時代の45代聖武天皇から49代光仁天皇の御代にかけて各天皇が囲碁を愛好している。

【正倉院宝物殿の碁盤、碁石その1】
 756(天平勝宝8)年春、奈良の大仏開眼の4年後、聖武天皇(701ー756)が逝去した(享年56歳)。諡号「天璽国押開豊桜彦天皇」(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)」。5.2日、その49日の法要が興福寺で行われ、千百人余の僧侶が参列して読経した。

 その日、亡き聖武天皇の妻・光明皇太后が、帝が生前に愛用していた膨大な器具類を目録にまとめて、先帝供養の為に東大寺に奉納した。他の献物帳と厳格に区別する為に東大寺大仏殿の北西に正倉院宝物殿が設けられ、聖武天皇の遺愛品や当時の記録・品物が多く収納されている。東大寺献納目録(東大寺献物帳とも云う)の正式名は「国家珍宝帳」。


 その中に碁盤3面(いずれも19路盤)、碁石4種類が保存されている。碁盤は3面のうち「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)が最も技巧をこらしたものとして有名で聖武天皇御遺愛の宝物と伝えられている。正倉院御物の中でも格別に人を惹きつけてやまない逸品になっている。材は紫檀製で方1尺7寸2分、高さ5寸2分。盤面の路数は19×19の361路である。星目を十七個配している(19路17星盤)。星目は五弁花をツゲ、象牙、縁に染めた鹿角などで作り、縁を銀線でくくる。盤の四側面はシタン貼りで、盤面と同じように象牙、ツゲ、コクタン、銀板を埋め込み、宝石類を象嵌している。各側面を四区に分け、その内側に、象牙を切り抜き線刻をし淡彩をほどこした異国風の狩猟文や禽獣文などの珍奇な文様を配し獅子、象、駱駝(らくだ)、孔雀などの霰文木画を挿入している。西方や南方との交流が盛んであった唐朝ならではの文様である。その分、現行の基盤よりも一回り大きい。盤面の相対する二側面の左端に棊子を入れるための容器としての亀形の引出しがある。この引き出しは一方を引くともう一方も引き出されるようなクランク状の精巧な仕掛けが施されていて、古代の技術の高さがうかがわれる。裏面は黒漆塗である。床脚もシタン貼り、象牙で作る文様を配し、刳り面には象牙を貼る。畳摺上面は金箔地に丹色を塗り唐花文を表して半透明の材で覆っている。本品は、かく見事な美術品となっている。その装飾といい、機知に富んだ仕組みといい正倉院宝物中屈指の出来映えを示しており、聖武天皇御遺愛の品というのも大いにうなずかれる逸品中の逸品である。

 碁盤は、専用の碁盤入れとしての金銀亀甲龕(きんぎんきっこうのがん)に納められている。これは木画紫檀棊局を納めた容器である。木製、合口造の箱。合口部には身の四隅に立ち上がりをつけて、蓋がずれないようにしてある。内部及び底裏部はすべて黒漆塗。箱の表面は、中央に黒線を引いた鹿角で画した亀甲文で飾られている。その各々は緑色彩色地としたうえに、黒線で描起こした金箔と銀箔の花形を交互に配し、花形の花心には緑色を差し、弁先には朱彩をぼかし、その上をさらに馬蹄か牛蹄かとも推測される透明な角質で覆う。すなわち伏彩色の技法である。碁石入れ(銀平脱合子)は円形の木胎に黒漆を塗り、蓋表および側面に切り抜いた銀板を平脱の技法で嵌めこんでいる。棊子(きし)とは碁石のことで、正倉院に伝わる紅色と紺色の染象牙の碁石を切手の意匠に採用している。(「畑ホームページの正倉院展」参照)
 正倉院には碁盤、碁石、碁笥などが何点か収蔵されているが、そのうちの「紅牙撥鏤棊子」、「紺牙撥鏤棊子」、「白棊子」、「黒棊子」といった碁石や「銀平脱合子」の碁笥の計5点については、宇合の祖父である藤原鎌足が百済の義慈王から贈られたものであるとされている。収蔵されている碁盤は3面あり、そのうち「木画紫檀棊局」については19路17星(天元と他に16個の星)盤である。他の2面は「桑木木画棊局(螺鈿撥鏤荘)」、「桑木木画棊局(紫檀加里武荘)」で、19路9星(天元と他に8個の星)である。日本の碁盤はやや縦長だが、中国の碁盤は正方形である。(「古代日本における「碁」(3)」参照)
Go board and stones from Nara Shosoin (Go board made about 1,300 years ago)
Place of manufacture unknown
Among the three Go boards in the Shosoin Repository, the most exquisite is the wood-painted sandalwood Go board, which is said to have been a favorite treasure of Emperor Shomu. The wood is sandalwood, and each side is inlaid with ivory cut out in the shape of a figure, animal, plant, or other animal, then carved with hair and decorated with light colors. Go stones, which are made of red and dark blue dyed ivory from the Shosoin, are used in the design of the stamps.
(私論.私見) 「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)から何を読みとるべきか。
 思うに、これほどの「名器たる碁盤、碁石」が世界の他に保存されているだろうか。恐らく正倉院宝物殿にしかない。仮に囲碁が伝来したものなれば、伝来祖地に正倉院のそれを上回る「名器たる碁盤、碁石」が遺されているべきではなかろうか。正倉院宝物殿にある「名器たる碁盤、碁石」は逆に囲碁発祥先進国の逸品と窺うことができるのではなかろうか。

【正倉院宝物殿の碁盤、碁石その2】
 756年(天平勝宝8年)の東大寺献納目録に、百済国の王である義慈王(ぎじおう、第31代、599~660年)が、時の日本の内大臣・藤原鎌足(614ー669)に「納物」したものとして「赤漆木規木厨子一口」(せきしつかんぼくのずし)、続いて「白石鎮子」、「銀平脱合子(ぎんへいだつのごうす)四合 各納棊子」と記されている。義慈王の贈り物が「赤漆木規木厨子一口」なのか、続いて記されている「白石鎮子」、「銀平脱合子四合 各納棊子」まで含むのかに諸説ある。ちなみに「赤漆木規木厨子」(欅けやき材)は現存していない。現存している聖武天皇愛用の碁石は紅牙撥鏤碁子(こうげばちるのきし)と名づけられ、直径1.6cm、厚さ0.8cmのもの。当初は600ヶが納められたと伝えられるが現存するのは252ヶで、象牙を染めて花鳥の文様を彫りつけたもので、色は緑色の瑪瑙(めのう)と紅色の珊瑚(さんご)、璃(ガラス製)のものがある。 

 碁石、碁笥につき「百済の義慈王から贈られた物」(これを仮に「百済物説」とする)とするのには理由があるが、「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)も然りとするには距離がある。百済物説の他にも中国伝来説がある。しかし、誰がいつ作ったのかにつき定かではないとするのが穏当である。歴史的な碁盤には19路盤3種類、17路盤1種類ある。西川明彦氏の「木画紫檀棊局と金銀亀甲碁局*」が実体顕微鏡や内視鏡を駆使して材質、構造、製作技法を詳細に分析している。それによると、木画紫檀棊局は、松を基本材にして厚さ1ミリほどの紫檀を張り、盤上の線には象牙を埋め込んでいる。金銀亀甲碁局*は、碁盤をぴったり収めており、こちらも基本材は松である。銀平脱合子の天板(ふた)と底板(身)は「ヒノキの可能性のある針葉樹」であることがエックス線透過撮影によって判明している。こうなると日本製の確率が高くなる。(2017.9.25日号週間碁11面の「木画紫檀棊局についての一考察 古代のロマン脈々と 正倉院、囲碁宝物の謎」参照)

【光仁天皇の囲碁逸話】

 鎌倉時代初期の1195年頃と推定される歴史物の四鏡の一つの「水鏡」に、奈良時代の光仁天皇(在位期間770(宝亀元)年 -781(天応元)年)の囲碁逸話「光仁天皇―井上の后の博奕」が残っている。

 ある時、井上皇后(聖武天皇の娘)と賭け碁を打った。「自分が負けたら、たくましくていい男を紹介する。私が勝ったら、美しい女性を紹介しなさい」。皇后はこの条件を受け入れて対局に挑む。結果は皇后の勝ち。適当にごまかそうとする天皇に、皇后はしつこく催促する。やむを得ず、36歳の親王を皇后のもとへ。56歳の皇后は親王を激しく愛し、天皇を遠ざけるようになったという。この親王は実は桓武天皇だった、とする言い伝えもある。次のように記述されている。

 「亀宝3年(772)に、御門(光仁天皇)井上の后と博奕し給うとて、たわぶれ給うて、『我負なば、壮りならむ男を奉らむ。后負けたまいなば、色かたち並びなからむ女をさせ給え』と宣いてうちたまいしに、御門負け給いき。后、まめやかに御門をせめ申し給う。御門たわぶれとこそ思しつるに、こと苦りて思い煩い給う程に、(藤原)百川この事を聞きて、『山部親王を后にたてまつり給え』と御門にすすめ申しき」(日本文学研究資料刊行会1982)。





(私論.私見)