吉備真備の囲碁説話考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).6.6日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「囲碁発祥譚考その2、自生論」を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【吉備真備の囲碁元祖説話】
 奈良・天平時代の官人、吉備真備が遣唐使として入唐し帰国した際に中国から囲碁を持ち帰ったという吉備真備囲碁伝説がある。慶長見聞集(1614年成立)がこの伝来伝説を伝えている。以降、江戸期に編まれた棋書の序文にはお定まりの枕ことばのように吉備真備囲碁元祖説話が記されている。この逸話を平安後期の説話集「江談抄」(ごうだんしょう)の第三雑事中の「吉備入唐間事」その他を参照して確認しておく。
 概要「吉備真備は695(朱鳥9)年、吉備の備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市真備町矢掛東三成で、下道圀勝の長男として誕生した。

 716(霊亀2)年、遣唐留学生となる。
 717(養老元)年、23歳の時、留学生として阿倍仲麻呂、玄昉らと共に入唐した。唐では経書と史書(儒学)のほか天文学、音楽、兵学などを幅広く学んだ。帰路、種子島に漂着する。
 735(天平7)年、入唐18年後、多くの典籍を携えて帰朝した。経書(唐礼130巻)、天文暦書(大衍暦経1巻、大衍暦立成12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(楽書要録10巻)、弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し『東観漢記』をもたらした。帰朝後、聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、735(天平7)年、従八位下から一挙に10階昇進して正六位下に、736(天平8)年、外従五位下、737(天平9)年、従五位上に順風満帆に昇叙した。
 738年(天平10)年、橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した僧・玄昉とともに重用され、真備は右衛士督を兼ねた。
 739(天平11)年.8月、母を葬る。
 740(天平12)年、真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こす。 741(天平13)年、東宮学士として皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。743(天平15)年、従四位下・春宮大夫兼皇太子学士に叙任される。
 746(天平18)年、吉備朝臣の姓を賜与される。
 747(天平19)年、右京大夫に転じる。
 749(天平勝宝元)年、従四位上に昇った。孝謙天皇即位。
 750(天平勝宝2)年、藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に左遷される。 751(天平勝宝3)年、年遣唐副使となる。
 752(天平勝宝4)年、再度入唐する。阿倍仲麻呂と再会する。二度にわたり通算20年間、唐にあった。754(天平勝宝6)年、鑑真を伴って帰朝す。帰路、屋久島、さらに紀州太地に漂着する。帰朝してからは聖武天皇の殊寵を得、東宮であった後の女帝孝謙に学を通じ、唐の新知識を注入した。 同年、正四位下・大宰少弐に叙任されて九州に下向する。
 756(天平勝宝8)年、新羅に対する防衛のため筑前に怡土城を築く。
 758(天平宝字2)年、大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受ける。
 759(天平宝字3)年、大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。その後、暦学が認められて、儀鳳暦に替えて大衍暦が採用された。
 764(天平宝字8)年、70歳の時、造東大寺長官に任ぜられ帰京した。藤原仲麻呂の乱が発生する。従三位に昇叙されて中衛大将として追討軍を指揮し、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げた。
 765(天平神護元)年、勲二等を授けられた。
 766(天平神護2)年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となる。同年、藤原真楯の薨逝に伴い大納言に、次いで従二位・右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執った。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも近世以前では吉備真備と菅原道真のみである。正二位右大臣、正二位勲二等右大臣中衛大将兼備中国下道郡大領に累進。軍制を改め、新暦を定め、農産を奨め、民訴を聴き、律令を定め、内乱を除き、人倫を諭し、片仮名を創始する等、善政を布いた。国政に大きな功績を遺し吉備朝臣の姓を勅許された。
 770(神護景雲4)年、称徳天皇が崩じる。その際、妹の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。『水鏡』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この皇嗣をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い。光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。
 771(宝亀2)年、再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっていない。真備は、元正天皇から、聖武、孝謙、淳仁、称徳(孝謙天皇が重ソ)、光仁天皇までの6代の天皇に仕え、右大臣の地位にまで出世した。
 775(宝亀6)年10.2日、薨去(こうきょ)した(享年83歳)。最終官位は前右大臣正二位。奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。
 吉備真備が唐にあった時の次のような話しが伝えられている。717(養老元)年頃、真備が入唐し、以降18年間、唐の都・長安で諸芸諸道(儒学、天文学、音楽、兵学、医学など)を幅広く学んだ。忽ちその才知が評判となり名声を高めた。時の皇帝・玄宗と能吏が、真備の才知を試すために官邸に呼び、「大臣と囲碁の勝負をせよ」と命じるところとなった。この時、真備は囲碁を全く知らなかったと説話されている。真備は、「私が負ければ命を差し出します。代わりに飼ったときには暦道の奥義をお授けください」と願い出、聞き入れられた。唐土(もろこし)の人は負けることを恥に思い、真備を楼に登らせた上で階段を取り外した。餓死させようとの企みであった。真備が思案苦吟しているさ中、その夜、風雨が次第に強くなり、どこからともなく鬼が現われた。恐れおののいている真備に、鬼は自分は先年この地で果てた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)だと云う。やはり唐の人に妬まれて、高楼に閉じ込められ餓死したのだと云う。真備が、仲麻呂の子孫がみんな官途について栄えていることを述べと鬼は大いに喜び、それから毎日食物を届けてくれるようになった。唐人は、いつまでも餓死しないでいる真備を見て驚き、今度は難解な古書として知られる文選三十巻読ませて皆なの笑いものにしようと図った。すると鬼はその古書をひそかに盗んで真備に届けたので、たちまちこれを覚え、諮問の際に簡単に明解した。帝王を始め唐人たちは驚嘆させられた。こうして真備は阿倍仲麻呂の亡霊に助けられた。玄宗の能吏が「才はあっても芸は如何ほどなるや」と訝り、今度は囲碁で彼を試すことにした。例によって阿倍仲麻呂の亡霊が現れて囲碁の特訓をし、定石を覚えさせジゴにする方法を教えた。いよいよ玄宗皇帝の御前で唐の名人と命をかけた勝負碁を打つ。四つ目殺しも知らぬ真備を、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の亡霊が教え導く。終盤形勢不明のとき、真備は盤面の黒石を一つ盗んで飲み込んだ。これにより真備が一目勝ち、唐の名人の負けになった。終局後、盤面の石を数えてみると黒石が一つ足りない。易で占ってみると、真備の腹中にあるとの卦が出た。唐土の人は怪しく思い、真備に下し薬を飲ませたが、真備は下痢を止める呪術で対抗したため石を出さなかった。こうしてとうとう一目勝ちで決着させた。(別話。1目勝ちを目前にしたとき、対局を見守っていた大臣の妻が、夫に恥をかかせたくないばかりに石を一つこっそり飲み込んだ。玄宗は不思議な力を持つ鏡で石を探したところ、女が飲み込んでいたことが分かった。玄宗は激怒し女に死刑を宣告する。この時、真備が女の命乞いをし、玄宗が聞き入れ、女は許された云々。これは浮世絵や歌舞伎の舞台に登場する名場面の一つとなっているとのことである。(蕎科満治「囲碁文化の歴史を辿る」、NHK囲碁講座2015.5月号参照)」。
(私論.私見)
 この説話の興味深いことがもう一つある。それは、「真備が黒石を一ケ飲み込み、真備の一目勝ちとなった」ことである。この時代の対局では上手が黒石、下手が白石を持っていたと考えられる。となると、唐の名人が黒、真備が白で、真備の先番で打ったことになる。故に、「真備の黒石一ケ飲み込み」は、よしんば「真備の白石1ケ飲み込み」になろうとも、それにより地に変化が生まれるのは、中国式ルールでは地と石数の和を争うので、地の中の石を取り上げても和には変化がないので日本式ルールで打っていたことになる。即ち、この説話に従う限り、遣唐使の頃の中国囲碁は日本ルールで打たれていたことになる。囲碁の発祥地推理に照らすとき、なかなか意味深なことになるのではなかろうか。

 「読む・聴く 昔話」の「吉備真備と阿倍仲麻呂」。
 捕えられた吉備真備

 吉備真備は遣唐使として中国に渡ってきました。しかし唐王朝の役人たちは、真備のあまりの頭の良さに危機感を覚え真備を罠にしかけました。「さあさあ真備殿、この楼台に上ってください」。「景色がいいんですよ」。「そうですか。では…」。ギシギシ…。階段を登っていく真備。楼の上に設けられた部屋を覗きこむと、「えいっ!!」。「わあ!!」。後ろから尻を蹴られ、部屋の中に押し込められてしまいました。バシッと戸が閉まり、カタリと錠が下されます。「ひひひ、真備、これでお前もおしまいだ。その楼には恐ろしい人食い鬼がいるのだ」。役人たちは大笑いしながら、引き揚げていきました。

 鬼の正体

 (鬼だと?面倒なことになったなあ…)真備はムニャムニャと呪文を唱え、自らの姿を消します。そして、暗闇の中にいると思われる鬼に向けて、話しかけます。「これ、鬼よ。私は日本国の使いだ。それを取って食おうとは、とんでもない了見だぞ。何とか言ってみろ」。すると、暗闇の中から声が響きました。「日本国の使い?おお…嬉しや!我も日本国からの遣唐使よ」。「なんと!そちも遣唐使か。早く姿をあらわすがよい」。暗闇の中から、すーーと悪鬼の姿が浮かび上がります。悪鬼といっても、冠をつけてキチッとした正装姿です。「私は阿倍仲麻呂」。「おお!あなたが仲麻呂殿ですか。お話はうかがっております」。仲麻呂の霊は、この楼に閉じ込められ食物を絶たれ、死に至ったまでを涙ながらに語ります。吉備真備も同情し、涙を流しました。そして吉備真備は、夜通し阿倍仲麻呂の霊に語ります。日本のこと、仲麻呂の子孫が官位をたまわって立派に出世していることなどを。「おぉおぉ、嬉しや。嬉しや」。朝になると、仲麻呂の霊は引き返していきました。

 「文選」の試練

 次の朝。「死んだかな真備の奴」。「ズダズダに引き裂かれているかもなあ。いひひ」。役人たちが楼台の上の部屋をのぞきこんでみると、真備は何食わぬ顔で眠りこけていました。「こ…こいつ!ただ者ではない!」。夜。ふたたび仲麻呂の霊があらわれます。「真備、油断するな。奴ら、ロクでも無いことを考えているぞ。お前に書物を読ませて、ぜんぜん解釈できないのを見て、なんだ日本の使いもたいしたことないないかと、バカにするつもりだ」。「ううむ。ただバカにされるなら我慢するが… 事は外交問題だ。それで、何の書物だ」。「文選だ。難しい本だ」。「仲麻呂、お前暗記しているなら俺に講釈してくれ」。「俺はしらん。自分で勉強してこい」。「勉強してこいって仲麻呂、そんな…」。言ってるそばから仲麻呂の霊はすーと吉備真備を引っ張り上げて、空に飛んでいきます。「わあああーーーっ」。吉備真備の体はどんどん上がっていき、はるか真下に長安の街並みが小さくなっていきます。「すごいなあ。仲麻呂。お前こんなこともできるのか」。「ふはは。これぞ飛行自在の術。それ、着いたぞ」。すーっと降りていくと、そこは、皇帝の学問所でした。ここでは夜通し『文選』の授業を行っているのです。吉備真備は何食わぬ顔で教室に入って行って、生徒たちにまじって『文選』の講義を受けます。「ふんふん、なるほど」。「覚えたか?」。「覚えた」。「よし」。ふたたび阿倍仲麻呂は吉備真備を引き上げてすーっと空を飛び、長安の上空を飛び、楼台まで戻ってきました。「仲麻呂、チラシの裏かなんかあったら、差し入れてくれ」。「何をするんだ?」。「まあ見てろ」。吉備真備はチラシの裏かなんかに文選の文句をズラズラズラッと書きまくりました。翌朝。儒学者の一人が吉備真備を試みようと楼へやってきます。すると、なにかチラシの裏にいっぱい書いてある。なんだろうと見ると、「これは…!!」文選の文句でした。「どうして知っているのだ!わが国の『文選』をッ」。「ん?日本では『文選』なんて、そのへんの子供でも暗記しているぞ。ふつうだ」。「なっ!!」。儒学者は打ちのめされて、すごすごと引き返していきました。この顛末を皇帝に知らせると、皇帝は大変口惜しがった。

 囲碁の試練

 また阿倍仲麻呂の霊が吉備真備に教えます。「今度は囲碁で勝負を挑んでくるぞ」。「囲碁って何だ」。「なに!そこからか。もうダメだ」。「安心しろ仲麻呂。お前知っているなら教えてくれ。俺の記憶力を甘く見るな」。「わかった。…天上を見ろ」。阿倍仲麻呂の霊は、格子状の天井を碁盤に見立て、囲碁のルールを説明します。「ふんふん…こうなって、ああなって。これで勝てるわけか」。二人でイメージ上の白石、黒石を戦わせているうちに、朝がきました。「吉備真備!今度は囲碁で勝負だ!」。「望むところ!!」。ピシッ、ピシッ、「黒三の六」「白八の七」とかどこかのテレビ局の囲碁中継みたいな、陰気な声もあったかもしれません。ところが吉備真備は敵の白玉を前もって一個、飲み込んでいました。ここが引き分け、あと一手で勝負が決まるという時、敵方が碁石をつかもうとすると…「ん?あれ?無い?」。碁石がありません。吉備真備は余裕で言います。「どうやら私の勝のようですなあ」。「いや、しかし、これは、納得できん」。そこで碁石の数を数えてみると、一個足りませんでした。「お前、飲み込みおったな!!」。「さーて、何を証拠に?言いがかりですよ。名誉棄損だ」。「証拠なら、今すぐつきつけてやる!!」。そこで呵梨勒丸(かりろくがん)という下し薬を無理矢理飲ませますが、吉備真備は術をもってぐっと下痢をおさえ、ついに出てきませんでした。こうして囲碁は真備の勝利ということになり、唐の役人たちはいよいよ納得いきませんでした。

 野馬台詩の試練

 食物を与えず餓死させようとしても、夜ごとに仲麻呂の霊が物を与えるので、平気な顔で吉備真備は生きていました。「仲麻呂。いつもお前が助けてくれるんで助かるよ」。「それがな真備、今度ばかりはどうにもならん。あの難解な野馬台詩を解読させようとしている」。野馬台詩はその昔、さる徳の高い僧によって書かれた予言の詩です。しかし文字がバラバラで暗号のようになっていました。誰も読めませんでした。皇帝は吉備真備を召し出し、野馬台詩を前に、さあ読め、お前がそんなにかしこいなら、読めるはずだ野馬台詩を。読めといったら読め。もし読めぬならその時はとすごみます。(はあ…まいったなあ…)。そこで吉備真備は日本の方角を向いて、(住吉大明神よ、長谷寺観音よ、私にご加護を!)すると、ぽとりと蜘蛛が一匹落ちてきて、野馬台詩を記した紙の上を、糸を引きながら歩きまわります。(おお…読める!読める!)こうして吉備真備は野馬台詩を見事解読し、今回の試練も切り抜けました。

 日月を隠す

 皇帝以下、驚きあきれて、もう食物を一切与えるなと再び吉備真備を楼台に押し込めてしまいます。「どうしよう。いかな俺でも、お前を日本まで連れて帰ることはできんぞ」。「うーん。仲麻呂。用意してほしいものがある」。吉備真備が阿倍仲麻呂の霊に用意させたものは、サイと、サイを振るための筒。そして双六の盤台でした。吉備真備はサイを盤台の上に置き、「きええええーーーっ」。筒で、サイを覆ってしまいます。すると、一天にわかにかきくもり、太陽も、月も、その姿を隠してしまいました。唐土全土がまっ暗闇となります。「あわわ、どうなっちゃったんだ」。「これじゃ生活できない」。「祟りか?世の終わりか」。恐れおののく人々。占わせてみたところ、吉備真備の幽閉されている楼の方角が指し示されました。ワアワア文句を言う役人たちに、真備は「日本に帰してくれるなら、日月を戻しましょう」。「わ…わかった」。そこで真備がサイをおおっていた筒をはずすと、たちまち太陽と月がもとに戻りました。こうして吉備真備は無事に日本に戻れたという話です。


 この荒唐無稽(こうとうむけい)の奇談は、後の絵巻物や謡曲、さらに近世の草紙や実録物に翻案されて有名になった。 「江談抄」は院政期の説話集で、帥中納言大江匡房(1041-1111)の談話を、進士蔵人藤原実兼(黒衣の宰相といわれた信西の父)が筆記したもの。匡房は後三条、白河、堀河三帝の侍読を勤め、詩文に秀で、また有職故実にも通じた名高き才子。彼の博学を反映してか、江談抄はあまりに雑多な内容を持つ。そのうち、朝儀公事に関する故事や詩文にまつわる逸話が大半を占めるが、貴族社会の世相を伝える説話も多く、後者は後世の説話文学へ影響を及ぼした。長治から嘉承にかけて(1104-1108年)成立したと考えられる。現存本は、雑纂形態の「古本系」と、類聚形態の「類聚本系」に大別される。談話形式を取り、連関性を欠く古本系に対し、中世に改編・加筆されたと思われる類聚本の方では内容に沿って六部に分けている。「江談」二字の偏を取って「水言抄」ともいう。漢詩文・公事・音楽など多方面にわたる談話の記録である。  

 吉備真備(きびのまきび)(693~775)にまつわる雑俳は次の通り。
「明日の碁を 鬼が教へて 帰りけり」。
「おふちやくな 丸のみにした 碁の妙手」。
「帰朝して にわかに那智の 砂がへり」。

 村松梢風の「本朝烏鷺(うろ)争飛伝古今碁譚抄」が次のように記している。
 「享保12年正月26日、寺社奉行・黒田豊後守を以て本因坊家に対し、囲碁の伝来に関する御尋ねがあった。その時、本因坊、安井、井上、林の家元四家が連名で答えた口上書に、『囲碁の始は尭舜より起り、吉備真備公朝の節より伝来、本朝に流布仕り候由承り及び候。尤もその以前より相渡り候様にも申し伝え候得ども確かの儀は奉ぜず存じ候云々』とある。吉備真備が遣唐使として彼の地に赴いた時、『日本に囲碁ありや』と問われて、例の愛国心的自尊心から大いに心得顔をした結果、玄東と云う支那随一の名手と対局を余儀なくされたが、安倍仲麿の亡霊に教えられ遂に1目の勝ちを得たと云う話しは頗る著名ではあるが信用できない。囲碁はもっと早く伝来したものであろう」。
 「囲碁の吉備真備伝説」は、三嶋大社(三島市大宮町、静岡県)の蛙股(かえるまた)彫刻、南宮大社(垂井、岐阜)の蟇股(かえるまた)彫刻にも見られる。716年、吉備真備(本姓は下道真吉備しもつみちまきび、693-775)が遣唐使として入唐、735年、帰国。孝謙天皇の信任を受け、遣唐副史として再び渡唐、帰唐する。この時、吉備真備が唐の名人と囲碁を打って勝ったときの様子を彫ったものと云われており、この勝負に勝ったことよって、暦学書を日本に持ち帰ることを許されたと伝えられている。

 江戸時代の記録に、吉備真備が遣唐使の一員として唐から囲碁を移入したとする説が記載されているが、「囲碁勝負に勝ったことより暦学書を日本に持ち帰ることを許された」とするのが正しいのではなかろうか。ちなみに、真備が持ち帰った暦は唐代の優れた暦であった大エン暦(たいえんれき)。28年後の763(天平宝宇7)年より用いられ、その後857(天安元)年に五紀暦、861(貞観3)年に宣明暦が用いられ、その後は遣唐使が廃止されたことにより中国の新しい暦は入ってこなくなり、宣明暦が渋川春海の貞享暦 (大和暦) に代わるまでの実に八百年間用いられることになった。(****氏「*****」参照)
 
 三嶋神社(ホームページ): 
 http://www.mishimataisha.or.jp/precinct/carve_h02.html




(私論.私見)