「れんだいこの著作権法論評」、悪法式読み取りとなぜ闘わねばならないのか

 (最新見直し2007.3.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「著作権法の悪法式読み取りとなぜ闘わねばならないのか」、本サイトでこれを愚考してみることにする。その趣意は既に「著作権(表現の自由)保障協会」を立ち上げよ」でも述べたが再確認しておく。

 端的な理由としては、「著作権法の悪法式読み取り」がサヨ族に多用され、「左」からの言論弾圧を招いているからである。我々は圧倒的に知識不足であり、まだまだ学ばねばならないことが多過ぎるこの局面で、知の摂取制限を為す如何なる企てにも反対せねばならない。これが我々の態度となるべきである。

 著作権法の本質については、「『ヒトラー古記事問題』で見えてくる著作権の本質」で解析した。著作権問題を研究すれば、強権著作権はいわゆるユダヤ商法がもたらしているものであり、本来蓄財の道具にしてはならない知の領域まで押し拡げようとする知の対価理論であることが判明する。更に、その流れが、近現代史の裏権力である国際金融資本帝国ネオ・シオニストの「愚民化アジェンダ」(行動綱領)に通底していることが判明する。故に、我々は自律自存を賭けて強権著作権悪法と断じて闘わなければならない。

 サヨとは何かに就いては、「左翼とは何か、ハト派とは何か、サヨとは何か考」で解析した。彼らは、正義の美名で強権著作権論を振り回すから始末が悪い。左派の理論を戴きながら「愚民化アジェンダ」に長期的に加担し得るのは、かなり変態嗜好の持主でなければ難しい。それはともかくも、著作権法の拡大解釈適用が新たな言論弾圧手段となっていることを認識し、これと闘う理論を構築せねばならない。かく問題意識が共有できれば、本サイトの使命が半ば達成されたことになる。

 ごく最近、著作権法は、歴史的な闘争を端的に具現しており、それはかの昔のイエスとパリサイ派の論争の尾を引いているということに気づいた。著作権抑制派はイエスの御教えの流れを汲むものであり、著作権強権派はユダヤ教パリサイ派の拝金蓄財主義の流れを汲むものである。この両者はレールが違うから交わることは無い。してみれば、著作権法を廻る人民派と強権派の闘いは永遠の抗争になるだろう。そういうことに気づいたので追加しておく。

 以上述べても通じない輩にもっと分かり易く追補しておく。我々は、非常に限られた情報で思想や史観や見解を編み出さねばならない状況の中にある。願うらくはもっと豊かに実証的な情報である。これを享受できるように智恵を働かせるべきで逆に向かうべきではない。著作権問題ではこれが公理となるべきである。この観点さえ保持すれば、問題は解ける。

 2006.9.20日、2007.3.5日再編集 れんだいこ拝


 【著作権の基本法理】
 ウェブ原野に著作権杭を打ち込んで囲い込みせんとする小賢しい輩が害悪を流し込みつつある。何食わぬ顔で史上のおいしいとこのタダ取りはするが、自作物には関所を設け関税を課そうとする。これを仮に「関所関税型著作権論」と命名する。それがオマンマ系の止むに止まれぬ分野にならまだしも、思想だとか政治だとかボランティアの世界でも「関所関税型著作権論」を導入しようとする。その癖云うことにそれが社会正義だと。馬鹿も休み休み言い給え。そういうウヨサヨ各界の正義仮面の不義を撃ってみたい。

 ここにきてウェブ上の著作権を廻る紛争が目立ち始めた。今や、掲示板に対する著作権規制も為されてきそうな勢いである。サヨ勢力がご丁寧にもこの動きを後押ししているように見える。:これがサヨの偽らざる生態である。連中は、権利万能市民社会万歳という訳だろうか。その無原則ぶりを見れば恐らく究極、文字という文字の全てに著作権を付与し、会話するにも一々断り書きせねばならぬ不自由権利社会へ誘ってくれるのだろう。

 こういう状況にあって、そも著作権法に関するスタンスをどう構図すべきだろうかと自問自答しながら次のように考えることにした。著作権法以前の社会的合意として、全て活字及び考案物に対しては関与者の権利がひとまずA・自然権的に認められる。この権利は、1・対象内容(客体)、2・その形態、3・主体によって区分認識される。

 但し、それが法的権利として保護されるためには、法的権利化には馴染まない自然権もある故にいくつかの要件をクリヤーしなければならない。つまり、この時点でふるいにかけられる。次に、B・社会権としての著作権が認められる為の要件の考察が必要であろう。このように論を積み立てて行くべきではなかろうか。

 【1・権利の客体(対象内容)】は、美術工芸品か詩歌音曲か小説か学術等の私的創作物か、政治・宗教・思想・評論等すぐれて公共的なものかに分岐しよう。これら客体の差は、その違いに応じて著作権法上の権利保護範囲が異なるべきではなかろうか。

 【2・権利の形態】は、活字製本その他工作物として立ち表われるものか、最新のウェブサイトのように主として閲覧に供されるものか、ウェブ掲示板のように議論用のもので、引用・転載無しには一歩も先へ進まないもの、等々に分岐しよう。これら形態の差は、その違いに応じて著作権法上の権利保護範囲が異なるべきではなかろうか。

 【3・権利の主体】は、個人か組織かレッセフェール式企業か官営企業か政党か宗教法人か行政当局かに分岐しよう。中にはマスコミ機関のように広範囲にまたがる特殊団体も存在する。これら主体の差は、その違いに応じて著作権法上の権利保護範囲が異なるべきではなかろうか。

 こうした問いかけに対する真摯な検討も無く著作権が一人歩きさせられようとしている。その様はあたかも「小人閉居して不善を為す」が如くに「駄弁にまで著作権を認めよ」と迫りつつある。

 こういう御仁は考えてみよ。仮に、医療分野で同様の権利を発生させたらどうなるか。手術にせよ処方箋にせよ幾十人百人の了解とパテント料を払わねば何も為しえず、患者は気の遠くなる手続きの過程であたら惜しくも手遅れになるケースが続出するであろう。さすがにと云うべきか医の分野ではそうした馬鹿げたことは起っていない。あるいは世の発明的特許において、これを権利で囲わず、市井の役に立てばそれで良いとした幾多の美談功績があり、我々はそのお陰を受けている。

 それを思えば、近時の著作権亡者どもの戯言は、文の分野に巣くう人士の特に貧困なる精神系側からの見境いの無い申し出としか言いようが無かろう。もう一つ思うに、政治的分野での著作権亡者に日共系の者が多いという感じがする。偶然か必然かまでは分からないが、白い心で紅い話を得手とする人種に憑きものの現象のような気がする。

 結論として、云わずもがなのことではあるが、強権著作権法は、近時の著作権の強権化には「ゴイム愚民化」を目指すネオ・シオニズムの狡知が働いており、彼らが裏で糸をひいており、ウヨサヨが太鼓を叩いて生み出しつつあるものである。こう認識すべきであろう。このことに無自覚なまま唱和する者が多過ぎる。

 2002.10.26日、2006.12.29日再編集 れんだいこ拝

【著作権問題の要諦】
 2006.9.19日付毎日新聞「余禄」の「竹中平蔵総務相が小泉純一郎首相に…」の文中に、次のような文章がある。
 「学者はテーマを決めて研究し、論文を書き、その論文が世界中で引用されることを名誉とする」。

 れんだいこは、今や新聞各社が著作権を押し出し、無断での記事引用、転載厳禁としている折柄で、「余禄」執筆者が能天気にもかように述べているのが滑稽と思う。云っていることはまさに正論で、学者であろうが政治家であろうが市井の一人であろうが、良い文章や発言はそれ自体が世間に広まる事を名誉とする。この正論が通りにくい世の中になりつつあり、よりによってジャーナリズムがこれを後押ししている。本来広め役が押え役に廻るという倒錯現象が生まれている。そういう役割の只中に有る者が正論ぶっていることが滑稽であり、稚気であると思う。

 そのことはともかく情報は伝えられることを求め、本当の思想は共認を求めて広がることないしは広められることを悦ぶ。これが思想の習性である。我々の身体機能も相互にネットワーク化しており、そのようになっているが、外界の社会も基本的には同じ構造になっていると看做すべきだろう。従って、コミュニケーションが抑圧されることを嫌う。欲深な独り占めと排他を最も嫌う。

 しかるに最近、思想の伝播を妨げるために著作権法が悪用されつつある。旧著作権法と現代著作権法の違いはここにある。著作権法理解に当って、まずこの事態認識が踏まえねばならない。しかして、著作権法が情報閉塞の関所手段として使われていることに断乎として抗議せねばならない。サヨ族がその先兵となって情報閉塞化の旗振りをしている事を見極め、彼らの社会的正体を剥がさねばならない。まず、このスタンスが確立されねばならない。

 最近の著作権問題の急所は、ネオ・シオニズムの愚民化政策を嗅ぎ取ることにある。これに気難し屋が追従し、訳の分からないヌエ正義論で事を混ぜ返していることを知ることにある。ネオ・シオニズムは隠れて良からぬ事を企むので、直に相手することはできない。とすれば、しゃしゃり出てくる気難しい屋と対決せざるを得ない。そういう訳で、我々は、事の理非曲直を弁え、ヌエ正義論を排斥する能力を持たなければならない。気難しい屋は、自分の弁舌の意味するものが自分の首を絞めていることさえ分からないまま言葉に陶酔する癖を持つ。普通の会話が通じないので、断乎退けるに如かずであろう。くれぐれも誤魔化されるな。

 著作権問題の要諦は、A・著作権化する以前の「自律的共同著作マナールールの確立」、B・それを踏まえての社会的最小限著作権法の範囲の確立、C・著作権法と全方位全域著作権論の峻別、D・英知により強権著作権論の排除、を為すことにある。目下はこの識別混同が甚だしいように思われる。

 論の積み上げ式として、1・レッセフェール式自然状態→2・マナールールの確立→3・著作権への移行→4・著作権化させない弁え→5・どうしても追加せねばならない著作権の策定という風に捉え、それぞれの段階で包摂されるべき諸権利を明確にさせ、最終の著作権法で法益とされる権利を絞り込み、その絞られた著作権法に対しては最高度な社会的権利として穏やかに保全する、という論理の流れを確認する必要があるのでは無かろうか。

 なるほど社会がより高度複雑化していることに原因があるとは云え、それぞれに専門家がいる訳だからしてこれに対応できないというのは由々しき知の退歩では無かろうか。というか、いつの世も後追いかも知れないことを思えば、現代的課題として立ちはだかっており、いずれの日か解明を要するという只中なのかも知れない。

 上述の流れに対して、近時の傾向は、「1・レッセフェール式自然状態」→「2・マナールールの確立」、「3・著作権への移行」、「4・著作権化させない弁え」をいきなり飛び越して、5・どうしても追加せねばならない著作権の策定を「5・全方位全域著作権論」への移行へとすり替えようとしている。為に、法律用語の概念、その規定が厳密さを失い、恣意的解釈が一人歩きし始めているように思われる。

 れんだいこの見立てるところ、この連中の弁によれば、厳密に様式要求されている特許法は尻尾を巻いて退散せざるを得ない。何しろ著作権は何の審査も要せず、最も簡単横着にして云い得云い勝ちで権利取得でき、粗暴にして攻撃的な刃物的権利になっている次第である。

 そういう著作権刃物を振り回す連中は、自称「民間ネット護民官」にして実は「民間ネット警察」の役割を担おうとしている。誰も頼んではいないのに警察的な目で市民活動の取り締まりに向い始めている。通常これらをウヨサヨというらしい。連中は性格的に好きなのだろうから今後もそういうおせっかいを焼き続けるだろう。

 れんだいこがお願いすることは次のことである。頼むから説教だけはせんでくれ。お前たちは邪悪な意図を持って勝手に刃物を振り回しているだけで、それが正義などとはおこがまし過ぎる。そうか、世の中は、そういう悪が先生ぶるとしたものか。そうか、それなら次のように云い直さねばならない。正義面して説教する「白痴著作権論」に抗せよ! 

 2003.4.22日、2006.10.10日再編集 れんだいこ拝

【全方位全域著作権論を許すな】
 著作権法が誕生した経緯にはそれなりの合理的理由がある。れんだいこはそれは認める。しかし、その当初極めて限定的な権利化で始まった。それにも正当な理由がある。そこを認めても良いとは思う。ところが近時、無限定全方位全域包括式の著作権が乱舞し始め、もはや誰もこれを止められない。

 これにより人類の知恵が退化せしめられようとしているとなると我慢できない。これが偶然ならまだしも、意図的に仕掛けられている可能性さえある。通りで国際政治を見ても、マスコミに登場するコメンテーターの論理と論法を聞けば野蛮時代に突入した感がある。連中の愚論が容れられるとすれば、相対的に頭脳の背丈が低くなったのではなかろうか。

 れんだいこが「近時の著作権理解」となぜ闘わねばならないと考えているのか。述べたようにこの如意棒が振り回されれば振り回されるほど文化文明が衰退することを憂うからである。例えて云えば、著作権は「文明のシロアリ理論」に他ならないからである。この「文明のシロアリ理論」は、人民大衆の知育を妨げ、つまり愚民化に資し、認識の共有を阻害するからである。

 ちなみに、「認識の共有」は自由な議論の交差を通してしか生まれない。これを対話弁証法と云う。別の言葉で表現すれば、稽古弁証法とも云える。現代著作権法的理解は、対話とその
稽古を妨げる。人間の認識は、不断の対話と稽古によってしか進歩しない。現代の著作権法的理解は、これを妨げる。よって、我々は、著作権理解を正しく制御する知恵を身に付けねばならない。その為には、合理的な著作権法を再確定せねばならぬであろう。

 その際の基準は、その権利化によって人類の脳のシワを増やす方向になるのか、のっぺらツルツルにさせてしまうのかの見極めが当てられるべきであろう。何ゆえこの基準を持ち出すのか。それは、現代社会には国際的愚民化のワナが仕掛けられているからである。故意か偶然かまでは論評しない。汚染されていることははっきりしている。いずれ仕掛けた方も相互作用でのっぺらツルツルになってしまうのだが、そこまでは思い至っていないのだろう。

 それはともかく、そういう理由によって、著作権法の現代的展開の危険な傾向について騒がねばならない。科学技術の発展の成果が全く生かされていないと思うから。深く考えもせず、方位除け占い師の如くに著作権師を登場させ、会話一つがギクシャクするような社会への突入に音頭とることは厳に戒めねばならない。近時のこういう傾向を未然に防がねばならない。著作権法問題は、勝れて政治性の強いものであることが弁えられねばならない。

 れんだいこの趣旨が良く分からない者は次のように簡単に合点すればよい。現代著作権法的理解の全域全方位著作権論は新たな規制である。規制は少なければ少ないほど良い。我々が広げるべきは、自由・自主・自律的空間である。よって、規制強化に反対の態度を打ち出すべきである。近時の著作権論の本質はここにある。規制を撤廃せよ、こう得心すれば良い。

 2004.9.5日、2006.10.21日再編集 れんだいこ拝

【「引用、転載」考の前置きとしての「著作権法の歴史的性格」について】
 著作権法につき法理論的に考察してみたい。

 まず、日本国憲法における該当条文を確認する。「第三章 国民の権利及び義務」の章の第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」のうちの「自由及び幸福追求権」、第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の「思想及び良心の自由」。第21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」の「言論、出版その他一切の表現の自由」が関連条項であるように思われる。

 しかしながら、日本国憲法のこれらの規定は、市民(国民)対国家間の権利規定であり、市民(国民)相互間の「協調と利害の関係処理規定」とはなっていない。著作権問題は主として市民対市民間の権利規定であるから、つまり民間の利害に関する規定を憲法から直接的に導き出すのは難しいと、いうことが云えるように思われる。

 但し、憲法が、個人の自由及び幸福追求として、思想及び良心の自由として、出版その他一切の表現の自由を保障している訳であるから、大枠としてこれに反する下位法を成文化することはできず、下位法はこの大枠に添って法文化されねばならす、そういう意味で当初の著作権法はこの大枠に添って条文化されている、と解するのが相当と思われる。

 1970(昭和45).5.6日付けで著作権法が制定され、「著作権を廻る市民(国民)相互間の協調と利害の関係処理規定」が為された。これが、著作権問題を廻っての憲法の間隙を埋める直接の下位法であり、いわば著作権法は「著作権を廻る憲法」とも云える位置づけとなっている。れんだいこは仮に「ハト派時代の著作権法」と見立てている。

 但し、時代は更にめまぐるしく廻る。この当時の著作権が対象としていたのは主として書籍、新聞記事、その他広報的印刷物等いわば「古典的著作物」であり、後にテープ、レコード等を含むようになるものの、今日的なインターネット媒体つまり「最新的な著作」を前提としていない恨みがある。そういう訳で、その後続々と新条文が付加されてきている。

 留意すべきは、新条文が「ハト派時代の著作権法」に単なる接木したのならまだしも、理念思想的に齟齬している条文事例が多過ぎることである。こうなると、戦後憲法同様に「ハト派時代の著作権法」がどんどん骨抜きにされ、今や別種の「タカ派時代の著作権法」とでも云えるものに変質していることである。戦後憲法と日米安全保障法が共存競合している如く、著作権法もまた「ハト派時代の著作権法」と「タカ派時代の著作権法」が共存競合しつつある。

 という訳で、著作権法につき思想的に考察してみたい。

 最近のなし崩し的な著作権乱用の問題性が議論されていないように思われる。それは、各条項の技術的問題というよりそれ以前の著作権法の思想的問題のことを指しているのだが、これを議論せぬままに各条項の規定内容のみが解釈されているように思える。れんだいこは、「著作権法論評」、「著作権法での主要な論争点」、「著作権問題の一視角」でアプローチしようとしているがまだ十分には練成されていない。

 
どういうことかというと、著作権とは頭脳労働に対する私有財産制の導入であり、その是非が論議されねばならない、という文明的問題が介在しているにも拘らず、「頭脳労働に対する私有財産制導入の是非」を論議せぬまま、むやみやたらに条項が継ぎ足され始めている近時の傾向に対して追認と解釈ばかりで良いのか、「待てよ」と考える経路が必要であるのではないのか、ということが云いたい訳である。

 
この観点から見るとき、市井の著作権者の「あれもこれも規定せよ。規定の多ければ多いほど先進国であり、逆は野蛮を意味する」なる論調からの要請に対し、かっての法文担当官僚がそれを鵜呑みにせず一定のブレーキを掛けてきた見識が見えてくる。それはむしろ当時の官僚の頭脳の健全さを示している、とれんだいこは看做している。これがハト派時代の官僚の優秀さであった。

 しかし、次第に防波堤が崩され、ごく最近では不恰好な体裁で次から次へと法文が増やされてきているようにも思える。この現象過程には官僚頭脳の変質が認められ、「彼らの思想が萎えている」ことを証しているのではないか、とれんだいこは考えている。これがタカ派時代の官僚の頭脳貧困によりもたらされている。

 いずれの日か、ここら辺りを対象とした考察をしてみたい。

 2006.10.10日再編集 れんだいこ拝

【「著作権法上保護されないもの」について】
 一般に、著作権は活字という活字に権利付与していると思われがちであるが、旧著作権法の法文作成者は次のことに付き抑制させている。実際の著作権は多分野での著作権を認めているので、ここでは簡略にするため「活字系」のものにターゲットを絞って論ずる事にする。これを踏まえて論ずれば次のように規定されている。

 著作権法第2条その1で「保護される著作物の範囲」を示しているが、著作物とは、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」としている。この国語的解釈も多岐に分かれるように思われるが、れんだいこは、「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものであって」、「思想又は感情を創作的に表現したもの」と解釈すべきではないかと思っている。

 これによれば、著作権法上保護されるものは「活字でありさえすれば全て著作権保護の対象になる」というようなものではないということになる。更に云えば、「政治、宗教、思想、哲学」的な分野は著作権法に馴染まない」として法の適用を控えているのではないか、と考えられる。ここのところが弁えられず、著作物即著作権なる解釈で、著作権全方面全域適用を強行に主張する手合いが居る。彼らは、法律の条文を読解する知性が欠けているとしか云いようがない。

 なお、同条その19で、「頒布 有償であるか又は無償であるかを問わず、複製物を公衆に譲渡し、又は貸与することをいい、映画の著作物又は映画の著作物において複製されている著作物にあっては、これらの著作物を公衆に提示することを目的として当該映画の著作物の複製物を譲渡し、又は貸与することを含むものとする」とある。この規定は、主として書物的著作物を対象とした規定であり、インターネットサイトに対する規定としては不向きなものとなっているように思われる。

 同第10条で、「保護される著作物の対象」を示している。「活字系」のものにターゲットを絞って論ずるとしてこれをみれば、「一、小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物」、「二、音楽の著作物」が指定されている。この国語的解釈も多岐に分かれるように思われるが、れんだいこは、「小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物」という規定に注目する。

 単に「論文」と明記されているところが曖昧であるが、凡そ「非政治的、非宗教的、非思想的、非哲学的なそれら」という言外の意味が込められているのでは無かろうかと解する。この識別は、著作権の及ぶ範囲を認識する上で重要と思われる。

 注目すべきは、その2で、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない」としていることである。この国語的解釈も多岐に分かれるように思われるが、れんだいこは、「新聞、雑誌などの事実の伝達にすぎない報道は、極力著作権保護から排除する」旨の表記ではないかと解する。つまり、著作権法は何から何まで保護規定しようとしているのではなく、「抑制的であることが弁えられている」ことを察するべきではなかろうか。

 しかしながら、「日本新聞協会編集委のネットワーク上の著作権に関する協会見解」は、れんだいこ的な解釈を徹頭徹尾排斥して次のように述べている。
 概要「著作権法で『著作物に当たらない』とされている『事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道』とは、死亡記事、交通事故、人事往来など、単純な事実を伝える記事だけであり、ほとんどの記事には著作権が働いています。なお、解説付きの死亡記事、解説記事、一般のニュース記事にも『記者の個性』が働いており、著作権法で保護されるべき著作物であると言えます」。

 しかし、日本新聞協会編集委的解釈はあまりにもギルド利権的では無かろうか。れんだいこは、本来の法の趣旨と反する解釈をしていると見る。「記者の個性作動論」をもってすれば、あらゆる記事に著作権を被せることができ、「単純な事実を伝える記事には著作権を適用しない」という法の趣旨を骨抜きにすることができる。これを公然とぶっている日本新聞協会編集委的解釈はオーバーランしているのではなかろうか。

 ちなみに、日本新聞協会編集委がこのように著作権万能棒を振り回すのであれば、あらゆるプレス的特権が剥がされねば却って不公平だろう。例えば、首相の記者会見時などにおいては、公正な入札制度による機会均等的取材システムが確立されねば「特権取材による取材勝ち著作権」を許すことになろう。現にそうなっているのであるが。

 著作権法は賢明にも抑制的であるから次のようにも記している。第13条で「権利の目的とならない著作物」を掲げ、「憲法その他の法令」、概要「行政機関の発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの」、概要「裁判所の判決、決定、命令その他」、概要「行政機関が作成したこれらの翻訳物及び編集物」。


 れんだいこは更にこう思う。著作権法は明確には規定していないが、フィクション系の創作物には著作権法を適用している。しかし、ノンフィクション系のもの例えば歴史書、思想、宗教の類の分野に於いては、条文化していないことでもって暗黙の非適用を示唆していないだろうか。実際に、歴史書、思想、宗教の類の分野に於いて著作権を適用すれば、学ぶこと、練磨することが非常に出来にくくなろう。そういう弁えから条文化することを抑制していると受け取るべきではなかろうか。

 以上の様に著作権の及ぶ範囲が絞られている様を見ておく必要がある。

 2005.11.25日再編集 れんだいこ拝

【「著作権法上の弁え」と近時の全域的万能著作権主張者について】
 まとめとして確認しておくべきことは、では、本来の著作権法が何故に「政治、宗教、思想、哲学的な分野は著作権法に馴染まない」と弁えしてきたのか、その理由を尋ねることであろう。それは偏(ひとえ)に、「それらが本質的に共同共認的なものであり、相互の議論練成、練磨を要請しており、その故の産物であり、これらは個人の思惟的産物として権利主張させるべきものではない、馴染まない」という認識に拠っているのではあるまいか。

 現代著作権論による全域的万能著作権主張者にはこのことの弁えが無く、為に勘違い的自己都合的権利意識を芽生えさせ、それが為に非常に精緻な著作権法作りに勤しんでいるように思える、しかしその道は百害あって一利無しの不毛の道と考える。


 これを考えるのに、諺(ことわざ)を例に挙げれば分かりやすい。諺は古今東西の優れた言い伝えであるが、これがあるために人間相互間の意思疎通に非常に便宜なものとなっている。今仮に、諺に著作権を導入したらどういう事態になるであろうか。一々誰それのどこそこへ記されている云々と断り書きしつつやり取りが為されねばならないとしたら不都合極まるであろう。我々は誰しも諺の無償無規制のやり取りという恩恵を受けた上で意思疎通を堪能している。

 しかし、もう少し考えてみれば、諺段階に至らない定型句あるいは類似の思惟も又多少なりとも諺的便宜を提供しているのではあるまいか。それを相互に無償無規制でやり取りし得ているからこそ便宜を得ている訳である。つまり、我々には「人類史に於ける相互無償共有財産域」というものがあり、これは著作権法を適用させてはならない領域であるということを賢くも知るべきではなかろうか。

 最近気づいたことに、その昔卒業式で歌われた「仰げば尊し」も作者不詳である。よって著作権侵害の心配なく唱歌されている。世の中にはこういう恩恵で満ち満ちているのではなかろうか。

 ところが、近時の全域的万能著作権主張者はこのことを全く弁えず、規制が無いこの分野に対して規制が無い故に遅れているとでも錯覚し、あたかも正義気取りで規制の網を被せようとしている。日本新聞協会編集委然り、政党然り、学術団体然りで、近頃は図書館までがそのあおりを受けて率先して著作権的取り込みに励んでいる。

 その姿は既に滑稽でもあろう。付ける薬が無い連中であることが判明しよう。何の知識人であるものかは。自称だけの、槍で知識の藪を突いて獲物を取ろうとする野蛮人そのものではなかろうか。本質的に愚昧な者が下手に知識を得ると、余計に馬鹿になる。というより危険な馬鹿になる見本ではなかろうか。

 なぜ「政治、宗教、思想、哲学的な分野は著作権法に馴染まない」と弁えしてきたのか、その理由を考える便宜理論を思いついたので書き留めておく。仮に囲碁、将棋の例で考えてみよう。それらには古人より伝承されてきた技芸としての定石というものがある。この定石は今日に於いても発展系で次々新型定石が生み出されている。今仮に、この種の定石に著作権を被せたとしたらどうなるか。囲碁、将棋に興ずるのに厄介なことになりはすまいか。技芸としての囲碁、将棋の自殺行為ではなかろうか。

 囲碁、将棋の棋院はさすがに賢明で、今のところ棋譜に著作権を被せる愚は採っていない。否最近は著作権を主張し始めたかも知れない。しかに、どんなに転ぼうと石の運び、駒の動きの定石に著作権を被せることはしないだろう。これをやれば忽ち囲碁、将棋がゲームとして成り立たなくなることを知っている筈だから。

 ところで、政治、宗教、思想、哲学的な分野に著作権法を被せようとする全方位全域著作権論は、そういう愚を犯そうとしているのではなかろうか。この観点、この記述は俺の著作権であるが故に、今後は俺の断りなしには使用させないという主張は、定石に著作権を被せようとするものではなかろうか。

 誰もそういうことは主張していないというなかれ。れんだいこの見るところ、引用・転載のルールとマナーの指摘を超えて、出典ないし出所明示の引用・転載であるにも関わらず盗用呼ばわりする輩には共通してこの種の野蛮な主張が認められる。甚だしきは、自分が編み出した定石ではなく、他人の定石の目先を少し変えて開示しているに過ぎないその種のものに対してさえも盗用呼ばわりする輩がいることである。

 これを満座の中でやるものだからいずれ恥をかくのは当人だろうが、弁えが無いものだから未だ正論ぶっている。れんだいこは、恥をかかすのは嫌だから特段の遣り取りは控えているが、常識を欠損させた漬ける薬が無い手合いであろうぐらいには思っている。驚くことはこの種のエセインテリが跋扈しすぎていることである。

 2005.11.25日再編集、2007.3.5日再編集 れんだいこ拝


【逮捕されない著作権法】
 著作権法の現代的適用について「著作権Q&A」で解説している。膨大すぎて紹介しきれないので、リンク先で確認すれば良い。


【「白田教授の著作権の話」】
to Hideaki's Home 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: hideaki@orion.mt.tama.hosei.ac.jp
 著作権法問題について、法政大学社会学部助教授・白田秀彰 (Shirata Hideaki)氏が、「もう一つの著作権の話」で貴重な言及しているのでこれを全文転載しておく。(れんだいこが興味を覚えた箇所につき任意にゴシックにした)

1 はじめに

 私は、まだ中学生または高校生である皆さんのために著作権の仕組みを解説して、皆さんの自主的な意思のもとに著作権を尊重してもらえるように、と考えてこの文章を書くことにしました。

 皆さんにむけて書かれた著作権の話は、すでにいろいろとあるようです。しかし、そうした話の大部分は「著作権法を守りましょう」「書籍やコンパクトディスク(CD) やビデオを勝手にコピーすると法律で罰せられます」ということを皆さんに訴えるだけに止まっているようです。既にしっかりとした判断力と自分の考えを持っている皆さんにとって、ただ「法律を守りましょう」といわれるだけでは、納得がいかない部分もあるのではないかと私は考えます。

 そこで、この『もうひとつの著作権の話』では、「なぜ私たちが著作権を尊重しなければならないのか」という根本的な理由についていっさい手を抜かずに、でも難しい用語や概念を使わずに説明することを目標としています。もし、この文章を読むことで皆さんの心の中に著作権の考え方の基礎が作られれば、一つ一つの自分の行動について自分で判断することができるようになるでしょう。


2 こまった著作権!

 さて、皆さんはこれまでに一度くらいは「著作権」という言葉を聞いたことがあると思います。読書を楽しむ人であれば、書物の奥付けに、音楽を楽しむ人であれば、CD やMDのパッケージに、コンピュータを使う人であれば、ソフトウェアの使用許諾書に「著作権」という言葉が書かれています。でも、そうした皆さんのほとんどは「著作権」について書かれた法律である「著作権法」を読んだこともないと思います。そして要は「無断複製・無断転載・無断コピー」をしなければよいのだろう、程度に理解しているものと思います。そして、皆さんのなかには「そんなめんどくさいことをいちいち守っていられないよ」と考えて、近所のコンビニエンス・ストアで本のコピーを取ったり、お気に入りの曲をコピーしたMDを友達にプレゼントしていたりする人もいるのではないでしょうか。

 最近は情報化社会という時代に入ったとよく言われます。この情報化社会という言葉が何を指しているのかについては実はまだはっきりとした定義があるわけではありません [1]。しかし、ここでは、おおよそ次のようにまとめておきましょう。

 まず、情報化社会とは、私たちの欲望の対象が具体的な「物」に加えて、形を持たない「情報」に広がった時代だということができます。皆さんは、流行の服やバイクや化粧品が欲しいだろうと思います。その一方で、ゲーム機やステレオやビデオなども欲しいでしょう。服やバイクや化粧品は「物」です。ではゲーム機やステレオやビデオはどうでしょうか。「それも物でしょ?」と考えるのが普通だと思います。

 しかしながら、たとえばゲーム機の場合、ゲームの機械だけを買ってきても意味がありませんね。ゲーム機で再生するためのゲームを収めたCD-ROMが必要です。ステレオを買ってきたときも同じように CDが必要ですね。つまりゲーム機やステレオやビデオがなぜ欲しいかと考えるとき、それらの機械そのものが欲しいのではなく、私たちはその機械の上で利用される情報が欲しいわけです。こうした「物」とはちがってそれ自体では形を持たない「情報」に対して私たちが欲望を抱き、積極的に利用する時代を情報化社会ということができると思います。

 次に情報化時代とは、そうした「情報」の取り使い方が大きく進歩した時代ということができます。私たちが「情報」に対して欲望を持つようになったのは最近のことではありません。以前から存在する本やレコードや映画も情報を中心とした商品でした。しかし、そうした以前から存在する情報商品は、その情報を収めた紙の束やビニールの板やプラスチックフィルムと密接に結合していて、そうした「物」と「情報」を分離して取り扱うことはほとんどできませんでした。例えば、コピー機が無い時代には本を複写しようとすると、たいていの場合は手で書き写すしかありませんでした。本からその書いてある内容である情報を分離するためには大変な手間がかかったわけです。

 ところが、情報化時代においては、コピー機やMDやビデオデッキがあります。それらの情報機器を用いれば、私たちは本からその内容だけを別の紙に移すことや、音楽の情報だけをCDからMDに移すことが容易にできるわけです。もはや「物」に収められた情報は自由に分離して移動させることができるようになりました。さらにコンピュータを使いますと、そうして情報を取り出すだけでなく、情報をいろいろと変形したり加工したりして、全く別の種類の「物」に移すこともできます。たとえば、スキャナを使いますと雑誌の内容からお気に入りのアイドルの画像だけを取り出すことができ、その画像に「暑中お見舞い申し上げます」とコンピュータで書き込み、葉書に印刷したりできるということです。

 さて、明治時代以来の私たちの国でこうした情報の取り扱いについて定めた法律として著作権法や特許法のようないくつかの法律があります。情報化時代に至って、これらの法律がより注意すべきものになっていることは、すぐに納得いくことだと思います。ところが、そうした法律は情報化時代のような時代が来るとは全然考えもしない時代につくられているのです。著作権法では、権利を持っている人に無断で作品のコピーを作ることを禁止しています。そうした権利は最初に作品が作られてから50年以上保護されることになっています。

 情報化時代以前の時代では、先にも述べたように情報を物から分離して取り扱うことは非常に大変で、普通の家庭で作品のコピーを作ることは実際にはほとんど不可能でした。カセットレコーダーもないときに、レコードのコピーを作ることは考えられもしませんね。だから、ある作品をもう一つ欲しいときには、それが本であればもう一冊買ってくることが当たり前だったわけです。そんな状態でしたから、情報化時代以前の時代の著作権法は、そうしたコピーを作ることのできる機械や設備をもっていた、ごく一部の業者を禁止や処罰の対象としていたのです。現在の著作権法も、家庭内でごく少数作成されるコピーについては違法でない、としています。これはこうした時代の名残です [2]

 ところが情報化時代になりますと、普通の家庭の周辺にカセットデッキやビデオレコーダ、コピー機、コンピュータなどがごく普通に存在するようになりました。こうした便利な情報機器は、私たちが情報を積極的に楽しみ、いろいろな知識を得、そうしてそれを手軽に扱うことを可能にしました。ところが、せっかく新しい技術が情報を自由に扱うことを可能にしたのに、大変な問題が生じてきたのです。

 あまりにそれらの機器の性能が向上したために、書店やCD店で売られている作品とほとんど同じ品質のものを家庭で作成することができるようになってきました。このため、書籍やCDやビデオを作製し、販売している作家さんや業者さんたちは、商品が二つ、三つと売れるはずのときに、コピーが作られてしまっているので、経済的な損失を受けていると考えるようになりました。そこで、これまで私たちのような普通の人々に関わってくることがほとんど無かった著作権法が社会の関心事となり、「著作権法を守れぇ」という叫びが私たちの耳にも頻繁に届くようになってきたのです。

 これは情報化社会の矛盾の一つです。情報機器をいろいろと開発し、それを苦労しながら安価で使いやすいものに改良してきた技術者の人たちは、それらの機器が私たちの生活を便利にして、情報の取り扱いを容易にすることを目指してきました。そして情報化社会は、こうした技術と努力の上に成立しているのです。私たちは実際にそうした情報技術の進歩の恩恵を受けていますし、そうした情報技術は、私たちの知識や文化を大きく広げてきました。

 その一方で、著作権の規定があるばかりに、そうした情報技術の進歩の成果が台無しになっている場面も見られるようになっています。せっかくコピー機が近所のコンビニエンス・ストアにあるのに、参考書の一部をコピーして友達に上げることもできませんし、友達を自分のお気に入りのアーティストのファンに引き入れるために、ヒット曲をMDにコピーしてあげることもできません。著作権法の保護がなくなる50年後まで待っていたら、私たちはおじいさん・おばあさんになってしまいます [3]。このように「できること」はどんどん広がっているのに、それらのできることのたいていは「してはいけないこと」になっているのです。

 著作権法を以前のように安定したものにするためには、便利な情報機器を家庭から追放してしまう、という方法も効果的です。しかし、そうした後ろ向きの対策では、私たちが幸せになれないだけでなく、作品を作り販売している人たちも幸せになれません。そうした商売をしている人たちもまた、新しい情報機器のおかげで新しい表現方法を使えるようになったり、新しい商品を開発することができるわけで、やはり情報機器の進歩の恩恵を受けているからです。では、情報機器の進歩で「できること」がいろいろとあるのに、その「できること」を我慢すべきでしょうか。これもまた、そうした情報機器を進歩させるために努力している技術者の人々の知的努力をないがしろにすることになります。では、著作権法を変えてしまえばよいのでしょうか。いろんな学者や研究者がこの問題に取り組んでいます。いろんな説があります。なかには「著作権法などなくしてしまえ」という意見まであるようです。

 そこで次に、そもそもなぜ著作権が存在しているのかについて考えてみることにしましょう。この点が明らかになれば、情報化時代において著作権がどうあるべきで、私たちがどのような態度を取らなければならないのかが明らかになるでしょう。そして、その理由についてしっかりと理解した皆さんは自らの判断力と良心に従って著作権に対処していくことができると思います。


3 なぜ著作権?

 著作権が存在しなければならない理由として「もし著作権がなければ、既に出版されている作品については、無料でいくらでもコピーができるので、作品を利用する側は得をするだろう」「しかし、著作権がなければ、作品を作る人たちへの報酬を集めることができなくなるので新しい作品が作られなくなる」だから「この不都合を避けるために著作権法が存在するのだ」としばしば説明されます。

  このように著作権によって作られた権利と、この権利を源泉として生み出される経済的利益を理由として、著作権の存在理由を説明する考え方を「誘因理論」と呼びます。誘因理論が成立するために必要な創作者への報酬を集めるためには、人々からお金を取りたてなければなりません。どういう理由で創作者が私たちからお金を取りたてることができるのかを考えるときに、大きく分けて二つの考え方があります。

 一つは、著作権というものは、法律学的または経済学的理由付けよりも先んじて、自然の権利として存在しているのだという考え方です。それは、あなたがあなた自身の頭脳を使って、しかも苦労して作品を生み出したのだから、その作品があなたのものであることは、法律的・経済的理由付けを必要としない当然であるとするものです。だから他人がそうした作品を勝手に使用することは、基本的に不正なことということになります。こうした考え方を「自然権理論」と呼びます。

 この考え方では、作品に対して創作者が当然に持つ権利は所有権に似たものであるとします。この結果として、ある作品を「物」と同じように扱えるようにできる権利を想定します。形をもった「物」については、ある人が「物」を使っていると、当然に他人が同時にその「物」を使うことを排除してしまうことになります。あなたが使っている鉛筆を同時に私が使うことはできませんね。

 この他人の使用を排除する状態のことを「占有」と呼びます。形を持たず、また何人もが同時に使用することができる「作品」についてもこの占有状態を作り出さなくては作品を「物」と同じように扱うことはできません。そこで、創作者がある作品の使用や複製について一つ一つ許可したり許可しなかったりする権利、すなわち「排他的独占権」を持つことが認められるわけです。ここでは、この「排他的独占権」を「自然権的排他的独占権」と呼ぶことにします。

 この権利は文字どおり、権利を持っている人がその他の世界中の人々に対して作品を一人占めして、ある作品を利用するにあたって対価を取りたてたり、ある作品の利用を禁じたりすることができるという権利で、たいへん強い力を発揮する権利です。例えば、あなたが何かの理由で「あかとんぼ」という童謡を歌うことの排他的独占権を獲得したとしましょう。そうするとあなたは「あかとんぼ」を歌う人から対価を徴収することができます。また、対価を支払わない人が「あかとんぼ」を歌うことを禁止することができます。こうして結果的にあなたは「あかとんぼ」という曲の排他的独占権から経済的利益を得ることができるのです。

 逆に、著作権というものは、過去においては学問や芸術の振興、現在はそれに加えて産業秩序の維持を目的として政策のために作られた人工的な権利にすぎないという考え方があります。これを「規制理論」と呼びます。こちらの考え方は、著作権といわれている権利には二つの要素があると考えます。すなわち、創作者がある作品を生み出した事実から当然に発生する「創作者の権利」とこの「創作者の権利」に加えて法律の効力で作られた「排他的独占権」が組み合わさっていると考えるのです。

 「創作者の権利」として分類できる権利は「自然権理論」と同じ考え方に基づいて発生するものとされています。これはある作品を生み出した創作者が、その創作の事実と結びついて獲得する権利です。それらは著作権法に記された次のような権利として説明することができます。作品の作者が誰であるかという事実を主張する権利、自らの作品を誰かに勝手に作りかえられてしまわない権利、自らの作品を公表するか、それとも公表しないままにしてしまうかを決定する権利です [4]

 一方、法律の効力で作られた排他的独占権は、全く人工的な権利であるので、法律の条文に依拠してどのようにでも設定できるということになります。ここで、先の「自然権的排他的独占権」と効果は同一でも、まったく政策的・人工的に設定された排他的独占権を「政策的排他的独占権」と呼ぶことにします。

 さて、先に排他的独占権は非常に強力な権利だと書きました。この権利が創作者が受けるべき正当な報酬を徴収するかぎりで使われるならばよいのですが、もしその権利を握っている人が悪意を持っていたら大変なことになります。たとえば「あかとんぼ」の歌の権利を持っているあなたが「この曲の権利で大もうけしたいな」と考えたならば、「一曲歌う毎に100万円の対価を取る」と決めてしまうこともできます。さすがにこれほど露骨であれば「権利の濫用である」と裁判所が判断して、この権利主張を制限してしまうでしょうが [5]、理屈としてはそういうこともできうるわけです。また、あなたが自分に都合のわるい論文や新聞記事の排他的独占権を買い取ったとしましょう。そうすれば、あなたは著作権の効果として、そうした論文や新聞記事が世に出ることを禁じてしまうこともできます。

 排他的独占権の保護を考えるとき、どこまでもその範囲を広げていけば、私たちが情報機器を使って見たり聴いたりする情報のほとんどが誰かの財産ということになってしまい、私たちは何かを見たり聴いたりするたびにお金を払わなければならなくなります。逆に、その範囲を小さく小さくしてしまえば、創作者が手に入れることができる経済的利益がどんどん少なくなっていきます。そうすると、作品をわざわざ作成して世に送り出そうと考える人が減っていくことが考えられますから、結果的に私たちは十分な数の作品を楽しむことができなくなることが考えられます。排他的独占権はその強力な効果ゆえに危険な権利ですから、その権利をどの範囲にまで認めて、どの範囲からは認めないのかを決めることが重要になります。強い薬ほどその適量の判断が大切になるのと同じことです。

 ところで、法律に限らずあらゆることについて言えることなのですが、境界なり限界なりを定めようとするときに、その境界にある物事をどのように取り扱うかが必ず問題となります。白から黒まで少しずつ明るさを変えていくとき、どこから黒になったと考えるべきでしょうか。その中間の灰色をどちらかに分類しなければならないときには、どちらに含めるべきでしょうか。これによってある明るさの灰色が白か黒かの領域のいずれに含まれるかが大きく左右されます。例えばまったくの黒でなければ黒の仲間に含めないと考えるとすると、灰色は全て白の仲間に含めることになります。

 同様に排他的独占権について考えてみましょう。権利をどんどん広く強くしていきますと、権利を持っている人は幸せになるかもしれませんが、その作品の利用者たちは費用がたくさんかかったり、いろいろな不便な制限を守らなくてはならなくなります。逆に権利をどんどん弱くしてきますと、権利を持っている人たちは必要な利益を得ることができなくなってしまいますが、作品を楽しむ私たちは自由に作品を利用することができるようになります。

 「自然権理論」では、作品は創作した人の所有物と同じであると考えていますから、本来創作者は自分の作品について無限の権利を持っていると考えます。それが制限されるような理由があるとするならば、それは他の人々の利便を図ったり、理不尽で面倒な手続を避けるために権利を行使しないままに止めているか、あるいは、公共的な利益のために法律によってその権利が制限されていると考えることになります。だから、創作者と私たちの利益のいずれを優先させるか判断に困ったときには創作者の利益を優先させて考えることになります。一方、「規制理論」では、排他的独占権については法律で自由に設定できるものと考えていますから、先に見たようにいずれの利益を優先させるか判断に困ったとき、どちらを優先させるかさえも政策的に判断することになります。

 自然権理論の考え方を採用するならば、これ以上深く基準を追及する必要はありません。判断に困ったときには常に権利を侵害しないような態度を取っていればよいのです。著作権法の規定は複雑で、どのようなときに、どのような方法で著作物を利用すれば法に反しないで済むのか判断することは、法律の素人の皆さんにはかなり困難だと思います。実はそうした判断は法律の専門家にさえ難しいことが多いのです。そうすると、皆さんは「とにかく法律に反しそうなことはしない」という態度を取れば安心ですね。皆さんが学校などで読むように薦められている「著作権の本」は基本的にこのような考え方に従って書かれています。だから皆さんは通常この態度をとるべきでしょう。この考え方に従っていて失敗することはないと断言できます。


4 あなたのための著作権

 でも、もう少し考えを進めてみましょう。だからこそ、この小冊子は『もうひとつの著作権の話』と題されているのです。

 「こまった著作権!」の部分でも書きましたように、実際には教科書で教えてくれるような安全な態度を取ってばかりもいられない現実があります。皆さんの周りには便利な情報機器があって、皆さんがそれらを活用するのを待っています。また、そのこと自体を悪いことだと決め付けることもできません。友達にCDからコピーしてもらったMDを聴くのが悪いことだろうことはすぐに納得がいっても、レポートを書くために雑誌や新聞の記事をコピーして貼り付けたり、面白いテレビ番組をビデオで録画して友達にダビングしてあげたり、軽音楽クラブの発表コンサートでヒット曲を演奏するためにも権利を持っている人の許可が必要だと言われれば「ちょっと待ってくれよ!」と言いたくなるでしょう。

 最近の興味深い例でいえば、インターネットが挙げられます。皆さんもご存知とは思いますが、Webブラウザというものがあります。これは著作物だといわれているWebページをインターネットを経由して皆さんのパソコンの画面に表示するソフトウェアです。実はこのブラウザは、インターネットを経由して、著作物であるWebページのコピーを皆さんのコンピュータに持ってきて表示するものなのです。

 日本国の著作権法では、著作物の無断複製は禁じられています。そして Webページを構成している情報はいずれも著作権法で保護されていますし、また、いくつかのページには「無断複製を禁止します」とはっきり書いてあります [6]。もし、皆さんが「自然権論」をそのまま受け入れるならば、インターネットを使うべきでないということになります。

 なぜなら、Webページをブラウザで見ること、すなわち自分のコンピュータにコピーすることが著作権法で禁止されている複製に該当するかどうか、法律にははっきりと書いていないからです。法律の専門家もはっきりとしたことは言えません。ただブラウザを使っているたいていの人が「大丈夫だろう」と考えて使っていて、また Webページを作成した人が自分のページを見た人を著作権侵害で訴えたりしてないという事実があるに過ぎません。

 こうした著作権法の灰色の領域は広く、また新しい種類の情報機器については常に灰色領域が付きまとっています。レコードがこの世に現れたとき、写真がこの世に現れたとき、映画がこの世に現れたとき、いずれもそうした新しい技術が著作権法に違反したものでないのか、それらの技術が可能にする著作物の利用法が正当なものなのかが激しい論争を呼びました。もし、世界中の人々が「自然権理論」の考え方一本でまとまっていたら、それらの技術が普及することはなかったと言ってよいでしょう。灰色である以上は、それらの技術を使うべきではないのですから。そこで、もし私たちが新しい技術を享受して活用することが望ましいことならば、自由に表現したり議論したりすることが望ましいならば、もう一歩踏み込んだ基準を探して、著作権法の違法・合法について考える必要があるといえるでしょう。

 そこで、一度この章のはじめに紹介した「誘因理論」自体から検討し直してみましょう。「もし著作権がなければ、既に出版されている作品については、無料でいくらでもコピーができるので、作品を利用する側は得をするだろう」というのは正しいでしょう。既にある作品を自由に使えるということは単に経済的な利益のみならず、私たちが学習したり新しい作品を作る時の基礎に、過去の作品を活用できることを意味していますから、私たちの得になります。

 では、「しかし、著作権がなければ、作品を作る人たちへの報酬を集めることができなくなるので新しい作品が作られなくなる」という部分はどうでしょう。実は多数の研究者が指摘していることなのですが、著作権制度が存在するはるか以前から創作活動は立派に行われてきたし (実際には著作権制度がなかった時代の作品のほうが優れている場合も多いのです) [7]、創作者たちがたくさんの報酬を受けたから、次の作品に一層励んで取り組むということも確かな推論ではありません。たくさんの報酬を受けた小説家が、引退してしまって作品をまったく書かなくなる可能性も十分にあるからです。

 付け加えるならば、創作物が排他的独占権を得たことで獲得できる利益というのは、その作品が私たちの興味を引く強さに依存していて、その作品を作るのに費やされたお金とは全く関係がありません。たとえ30億円を使って映画を作ったとしても、つまらなければ3万円だって取り戻すことはできません。その映画の経済的価値は30億円ではなく皆さんがそれに支払おうと考えた費用の合計なのです。誰も見たくない映画なら0円ということになりますね。一方、そうした人気のなかった映画の価値が乏しいものと判断することもできません。たとえたくさんの人を映画館に集めることができなかった映画でも、高い文化的価値や歴史的価値を備えたものもあります。すなわち、内容のもつ文化的価値と経済的価値もまた直接関係があるわけではないのです。

 このように考えますと、私たちが作品にお金を支払っているから、作品が生み出されるのである、と単純に言うことはできないことになります。確かに、お金は創作活動をしている人たちの生活を支えるのに必須ですが、これのみが理由となっているのでは、著作権制度の本質を見失う結果となります。

 では、さらに進んで著作権制度の本質的な主体としての「創作者」について考えてみましょう。創作者というと小説家やマンガ家やミュージシャンという特殊な職業に就いている人たちとイメージしがちですが、そうした人たちは、はじめからそうした職業に就いていたわけではありません。皆さんと同じように小説を読み、アニメを観、流行歌をカラオケで歌ったり、学園祭で演奏していたりしていた皆さんの先輩なのです。

 著作権法では、あらゆる種類の表現は著作物でありうると規定していますから、皆さんが書いたノートや、イラストや、日記にも著作権があるのです。だから「創作者」という特殊な人がいるのではなく、利用者である皆さんの中でたまたま作品を他人に見せたり聞かせたりすることで報酬を得るだけの技能や才能を備えた人が「創作者」だということができるでしょう。

 そうした「創作者」たちもまた、自分たちの先輩である「創作者」の作品を見たり、読んだり、聴いたり、場合によっては、借用したりして創作活動を行ってきたわけです。こうした「創作者」が全員そろって著作権法の条文に一度も違反したことがないということはできないでしょう。学習がそうであるように、創作活動も過去の作品を基礎としているからです [8]。実際に著作権法は、いくらかの目的について著作権に由来する排他的独占権が及ばないと規定しています。これは、創作活動を奨励するためには、排他的独占権が場合によっては害となりうることを端的に示しています。

 だから、あまりに著作権法が広く厳しいものになることは、利用者にとって不便で迷惑であるだけでなく、実は創作者本人にとっても不便で迷惑であるということができます。著作権侵害の基準として先に挙げた「自然権理論」の考え方は、創作者の利益を第一に考える態度でしたから、ここで説明したように創作者の利益と利用者の利益が実はつながっていると考える場合には、基準とならなくなってしまいます。そこで私たちは別の基準を探す必要があるわけです。

 そこで著作権の仕組みがどのような歴史を経て誕生してきたかを見てみましょう。とても長く込み入った歴史なので [9]、ここではその概略だけ説明しますと、私たちの情報伝達の方法を革新した15世紀の活版印刷術が現れるまで、先に説明した「著作者の権利」について考えられたことはあっても、著作権を理由とする「排他的独占権」は存在していなかったと考えられています。このころまでの排他的権利は、特許とまったく同じように国王の持つ特権、すなわち国王大権を根拠とした純然たる「独占権」に他なりませんでした。「著作者の権利」と「独占権」は本来別々の目的のために別々の権利として存在していたということです。このころ印刷物に与えられていた独占権は何を目的にしていたのかといいますと、出版業という産業自体を保護するためでした。

 印刷術が始められた頃、印刷される作品は既に存在していた名作でした。だから、独占権を与えて創作を奨励する必要は全くなかったのです。一方、まだ生まれたばかりの印刷業はいろいろな問題に直面していました。今でもそうなのですが、出版という仕事は大がかりな機械設備を必要とします。また、印刷が始まってしまえば、印刷物一つ一つの価格は非常に安くできるのですが、その印刷を始めるまでの準備に大変な費用がかかっていたのです [10]

 さて、ある出版業者が聖書を出版することにしたと仮定しましょう。その聖書を買ってくれそうな人の数をまず考えます。そうですね、当時の常識ではだいたい3,000部くらいでしょうか。聖書を印刷するための準備にかかる設備の費用や原版の費用は、1部印刷するのも、 10,000部印刷するのもほとんど変わりありません。だから、出版業者とすればたくさん印刷して、その本が全部売れるならば、それだけ1冊あたりの価格を安くすることができます。だから3,000部売れそうだと考えた時点で、1冊あたりの費用が決まりますから、本の価格を決めることができます。そして、出版業者の思惑通り 3,000部売れれば経営的には成功することになります。

 そこで別の印刷業者がたまたま同じ時期にやはり聖書を印刷しようと考えていたとしたらどういうことになるでしょうか。二人の印刷業者が互いに知らずに聖書を同時に出版してしまったら、そして、そのいずれもが3,000部売れると考えていたとしたらどうなるでしょう。買ってくれそうな人が3,000人しかいないところで、 6,000部の聖書が売られることになります。そうすると、3,000部は売れ残るか、もとの値段よりも値下げして、よりたくさんの人に買ってもらわなければならなくなります。そうすると、 3,000部売れることを基礎にして計画されていた経営は、その出版事業の費用を回収することができなくなってしまい破綻します。

 今のように、たくさんの種類の本を出版することができる大きな出版業者がいる時代ならば、一つ一つの本の経営の失敗や予想外の成功を平均化することで経営を安定させることができます。しかし、ここで考えているような昔の小さな印刷業者なら、あっという間に倒産してしまうことになります。もし、なんの手当てもせずに放っておけば、印刷業自体が成立しなくなってしまうのです。そうするとせっかく生み出された、私たちの知識や文化を大きく発展させる可能性のあるメディアが死んでしまうことになります。私たちはまた以前のように口伝えで物語りを伝えていくか、手で本を書き写さなければならなくなります。これは学問や文化の発展にとって大変大きな損失です。

 なぜ印刷業などのメディア企業がなくなると私たちにとって損失になるかについて説明しておきましょう。メディア企業はいずれも設備産業です。そうした設備産業については「規模の経済」という原理が働きます。たとえば本を印刷して製本するという作業をそれぞれの読者がする場合を考えてみましょう。この読者が3,000人いると仮定して、そのうちの1人が印刷・製本するのに費やした費用を平均1万円と仮定します。すると 3,000人の読者全体では、3,000万円の費用がかかることになります。この例にしたがって説明すれば、企業というものは、大規模な工場を用いることで、 3,000 人が総額 3,000万円の費用で作り出すはずの物よりも優れた物をはるかに安く生産し、そうして安く生産した物に利益を乗せて3,000人の需要を満たすことで成立しています。大規模で高度な機械を用いれば、500万円ほどで3,000冊の本を生産でき、それに 1,000万円の利益を乗せて販売しても、一冊あたりの価格は5,000円ほどになります。そうすると、企業は1,000万円を儲けることができ、また読者も一人当たり 5,000円、読者全体としては1,500万円得をするわけです。このようにメディア企業が存在することで企業を経営する人も私たち自身も利益を得ているわけです。

 また企業には「事務にかかる手間を減少する」という機能があります。ある作品の創作者は、ほとんどの場合一人から数人です。なかには百科事典のように数百人が取り組んで製作する種類の創作物もあるようですが、そうした場合も根本的には一人一人の創作者が仕事をしているわけです。さて、ある作品の創作者が 1人であると仮定します。一方、その作品の利用者は非常にたくさんいるとします。やはり3,000人と仮定しましょう。もし、3,000人の人全てが著作権を尊重して、一人一人創作者に使用許諾を求めてきたらどうなるでしょう。創作者は使用許可を出すための事務作業に追われてしまい、十分な創作活動ができなくなってしまいます。もし、ここにメディア企業が存在すれば、どうなるでしょうか。資本力をもったメディア企業は創作者から、作品の複製物を3,000部つくって販売する権利を一括して購入することができます。こうすると、創作者は面倒な権利処理を一回するだけで済むことになります。また、まとまったお金を手に入れることができます。一方、メディア企業は創作者への支払金額を、それぞれの商品に必要な原材料費の一つとして処理することができるのです。こうして、社会全体の手間を省き効率よく処理するためにもメディア企業が役に立っているのです [11]

 さて、このように必要なメディア企業を維持するために「独占権」が大きく役に立つのです。たとえば国王大権で聖書の印刷をある印刷業者だけができるものと決めます。すると、ある作品を複数の事業者が同時に出版してしまうことによって生じる損失を避けることができます。なぜなら、自分以外の業者がその作品を出版しないことが法律で決められているならば、着実な出版事業計画を立てることができますし、もし誰かがこの計画を乱すような行為をするならば、国王の権威をもって法によって排除してもらえることが保証されているからです。このように、排他的独占権は、出版事業のような、情報を整理統合して一つの商品として構成し販売する種類の事業には、不可欠の権利であるということができます。著作権の効果として与えられるといわれている「排他的独占権」は実際にはこうした事情を背景にこの世に現れてきたのです。

 一般に「独占権」というものは悪いものだといわれてます。ある人が何かの商品を独占することが法で認められると、その人は思うままに商品の価格を高くすることができます。売り手の決める値段で商品を買わないわけにはいかないからです [12]。こうなると、独占が与えられると商品の品質はどんどん悪くなり、値段はどんどん上がっていくことになります。しかし、著作権でいう「排他的独占権」は、もしそれが無ければ出版業、音楽産業、映像産業などのさまざまなメディア企業が成立し得なくなりますから、社会の情報の生産のみならず伝達もまた大きく阻害され、私たち社会全体の利益が大きくそがれてしまうことになります。だから、メディア産業の「独占権」は「独占権」から生じる害よりも大きな利益を生み出している限り、必要でありまた正当なものであるということができるでしょう。

 ここで著作権に関してもう一つの考え方があることが示されました。基本的には「規制理論」と同じように「著作者の権利」と「排他的独占権」を分けて考えるのですが、排他的独占権が認められる理由として、「誘因理論」に依拠するのではなく、社会の情報伝達の装置としてのメディア企業を維持することに根拠を置く考え方です。すると、新たな基準が見つかりました。すなわち、著作権を根拠とする排他的独占権をどこまで認めるべきかという問題は、その排他的独占権が維持している産業から生み出される社会的利益とその独占権が生み出している社会的害悪を比較検討することで解決することができることになります。

 さて、現在の著作権制度が支持している排他的独占権は私たちの利益になっているでしょうか。私たちは安く合理的な値段で本やCDやビデオを買ったり、映画を見たりすることができているでしょうか。現在の本やCDやビデオの値段でも安すぎると主張している人たちもいます。しかし、現在のそれらの商品の価格は、残念ながら独占によって売り手の自由に設定されている価格ですから、妥当な価格であるかどうかははっきりとしません。妥当な価格は、市場で商品が自由競争するときにはじめてはっきりするからです [13]

 情報化時代に生きる私たちが直面している問題に戻って考えてみましょう。今、著作権についていろいろな論議が沸き起こっている理由は、コピー機や MDやビデオデッキやコンピュータ等の高度な情報機器が私たちの家庭に入ってきたことあると述べました。私たちはそれらの情報機器のおかげで新しい方法で情報を取得したり、利用したりできるようになりました。このような情報機器を用いて、先ほどの例であげられた本の印刷・製本を私たちがそれぞれ行ったとしても、 1,000円しかかからなくなったとしたらどうでしょう。また、高度なコンピュータ・ネットワークの仕組みを利用して、私たちが創作者本人の邪魔をせずに作品の使用料を直接に払うことができるようになったとしたらどうでしょう。もしかすると、私たちはネットワークを通じて創作者本人と直接に語り合ったり、自分が感じた感動や創作者への感謝の気持ちをいろいろなかたちの支援で表すことができるかもしれません。お金という冷たいメッセージだけではなく、私たちの温もりのある行動で感謝を表すことだってできるのです。

 こういう状況が現れてきたとき、企業はより一層の努力をして、個人がそうするよりももっと安い価格で商品を供給しなければなりません。もし、個人がそれぞれ行う作業よりも高い価格でしか供給できないのなら、その企業が存在すべき理由はありません。そしてもし、その企業が「排他的独占権」を購入したことを理由として、より安く複製できる私たちの能力を奪ってしまい、かつ、自分に都合のよい値段を付けたとしたらどうでしょう。その「排他的独占権」はまさに「悪しき独占」を支えるものとして社会の害悪に他ならなくなってしまうのです。

 今のところ、私たちが高度な情報機器を購入するためには、かなりの出費を必要としますし、私たちがそれぞれに印刷・製本を行う場合には、どのようにして作品を生み出した創作者に対価を支払うのか、という問題が解決されません。さらに言えば私たちが高度な情報機器を購入することができる環境は、またメディア企業についてもそうした高度な情報技術をより大規模に応用することができるのですから、そうした個人と企業との関係で見るとき、生産にかかる費用が個人について有利に働く場面はほとんどないといって良いでしょう。

 だから、皆さんが「コピーすればタダだ」と思ってやっているコピーは、たいていの場合は、社会全体としてみれば無駄が多く不効率なものなのです。本来、企業が安く合理的にできることを、わざわざより多くの費用をかけて行っているわけですから。したがって、社会全体の効率という観点から見たときに、著作権法の決まりを守ることは私たちの利益に適うことだということができます。しかし、だからといって、「排他的独占権」をもっているメディア企業が漫然としていて良いわけではありません。メディア企業は、社会の情報伝達を効率化する目的のために最大限の努力をし、常にもっとも安い価格で私たちに情報を伝達しつづける使命を負っているのです。

 しかしながら、次のような場合においては、私たちが直接に創作者と連絡を取り合いながら作品を広めていくという方法が、企業を仲介した情報伝達よりも既に効率的になっています。それは、商業的な出版が成立しないほど少ない利用者しか想定できない作品の場合です。具体的には同人誌やインディーズ・レーベルの CDや専門的な学術出版です。これらの作品は、発行部数が非常に少ないので、メディア企業の大きな生産設備を動かすと、かえってたくさんの費用がかかってしまい採算が取れません。だから、メディア企業が基本的に利潤を目的としている限り、こうした作品は出版されることはありません。それゆえ、こうした種類の作品は、いままで手作りに近い形で生産され、ごく少数の人々のみに流通していたのです。しかし、こうした作品が決して価値が乏しいわけではないことは既に指摘したとおりです。ごく少数の人の関心しか引かなかったとしても、その少数の人たちには重要な作品であるかもしれないからです。また、こうした小さな作品たちは、これから世に出る才能ある人々の最初の舞台として重要な役割を果たしているのです。

 これまで地理的制約や経済的制約のためにごく狭い範囲にしか流通しなかった作品が、新しい情報環境、とりわけコンピュータ・ネットワークを経由して新しい読者に届くようになりつつあります。このことは、文化をおし広げていくだけでなく、文化それ自体を新しい局面に引き上げる可能性をもった現象です。私たちはネットワークという見えない世界にあって私たちの作品を待ち続けている、巨大な印刷機を手に入れつつあるのです。

 この巨大な印刷機が私たちの文化的な向上や幸福に役立つかどうかについて、疑問を感じている人たちがいます。しかし、 500年ほど昔にグーテンベルクが印刷機を作り出したときにも、この道具が国王の権威や統一された宗教をバラバラにしてしまう害悪になると考えた人たちはたくさんいました [14]。「真実はみずから立つ、虚偽のみが支えを必要とする」という言葉があります。知識が広く遠く届くことは真実にとっては助けになりこそすれ、邪魔になることはないのです。

 著作権が、学問や芸術を振興するという目的を掲げている限り、こうした種類の小さな作品や出版物を振興することはその目的に適うことです。だから、著作権を解釈したり運用したりするにあたって、こうした小さな作品を作っている人々に過剰な負担をかけるようにすべきではありません。排他的独占権を厳格に適用して、若い才能の芽や隠れた天才に足枷をかけてしまうことは、結果的には、優れた作品が生み出す経済的利益の一部を受け取ることで成り立っているメディア企業の自らの首を絞めていくことなります。文化や芸術は、かつての天才の作品を骨董品のように崇め奉るだけでは腐ってしまいます。それは、常に新しい価値を求めて変化を続けるダイナミックな運動なのです。新しい才能が自由に表現を広げていくことこそが文化に熱い血を流しつづけるのです [15]

 こうした表現に自由をもたらすことで学問や文化を広げていく態度は、民主主義という自由な議論を基礎に成り立つ国の制度を採っている私たちの強く支持する所なのです。日本国憲法第21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」「検閲は、これをしてはならない」「通信の秘密は、これを侵してはならない」と規定しています [16]。憲法は国の根本的な法規として第一の地位を占めています。著作権法の規定が、もし仮に憲法の規定と調和しない場面があるとするならば、まず憲法が規定した価値を優先し、これを侵害しない範囲で著作権法を解釈運用しなければならないことになります。

 これが、著作権法第1条に記された「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」という条文の趣旨なのです。すなわち、「公正な利用」と「権利の保護」を両立させつつ「文化を発展させる」ためには、ただ、便利だからとって勝手に自分の好きなように他人の作品を利用することは許されませんが、かといって著作権法を盾に私たちの表現活動の自由や可能性を縛ってしまうこともまた著作権法の趣旨に反することなのです。


5 おわりに

 これを読んでいる皆さんは、「あれれ、話が随分遠い所をまわって、また最初に戻ってきたぞ」という印象を持たれたと思います。「結局、僕たちは著作権についてどのような態度を取ればいいのか、はっきりと教えてないじゃないか」と憤慨している人もいるでしょう。「他の教科書では『とにかく著作権法を守れ』ってはっきり教えてくれたのに」と困惑する皆さんの声が聞こえてきそうです。

 そこで、私は言い訳をしましょう。文化や学問が一つのところにとどまっていられないように、法や権利もまた一つのところにとどまっていることはできません。全ての物や出来事が移り変わっていくように、正義もまた時と場合に応じて違った姿を見せるのです。それゆえ、「とにかく著作権法を守れ」という教えは、ある時ある場所において真実であるかもしれませんが、皆さんがこれからの人生において経験するだろう、様々な場面に常にあてはまると考えるのでは、あまりにも単純に過ぎる考え方です。だから、私は皆さんに「なぜ著作権法を守らなければならないのか」をいっさいの手抜きをしないで説明してきました。そしてできるだけ「どこまで著作権法で守られるべきなのか」について説明してきたつもりです。たとえ最初と同じところに戻ってきても、この小冊子を読んだ皆さんは、ずいぶん遠く困難な旅を終えてきたわけです。皆さんは、それだけの知識を備えて、新しい見方で自分の立っているところを見据えることができるものと確信しています。このように皆さん自身で考え、皆さんの意思で著作権を尊重していくことによって、はじめて著作権法は「生きた法」になるのです。

 とはいえ、最後に簡単に整理しておくことにします。商品として販売されている著作物を買わずに済ますためにするような種類のコピーは、結果的に皆さん自身の利益を損なうことになります。だからすべきではありません。その理由については既に説明しましたね。何かの理由で作品の部分的なコピーが必要になる場合があるでしょう。そのコピーが皆さん自身の学習や研究や表現のために必要であるならば、また、その必要な部分だけを簡単に買うことできないのなら、それは容認されるべきと私は考えます。とくに若い皆さんには積極的に創作活動に挑戦してもらいたいと思っています。皆さん自身が積極的に創作活動に従事することで、創作者の天才や苦労を実感できるでしょう。そうした創作者の立場にたった皆さんは、どのような種類の作品の使用法が創作者をがっかりさせたり傷つけたりするか、また逆に、励ましたり喜ばせたりするのか自分で判断できるようになるはずです。そうすれば、皆さんはもう六法全書などめくらなくても「著作者の権利」を十分に尊重できるはずなのです [17]


Note

[1]
未来学者A.トフラーは、著書『第三の波』のなかで、文明史的な時代区分を行っています。農業段階が第一の波、産業革命以後の工業段階が第二の波、そして、現在始まりつつあるのが第三の波であると位置づけています。

第三の波の社会においては、人間の欲求が多様化します。このような社会の中では「情報」が行動を決定する大きな要素となるわけです。従来「物」の生産・分配・消費などが人々の生活を動かす主要な要因であったのに対して、それを基盤としつつも、無形の情報の収集・伝達・享受などが社会の重要な要素となった社会が情報化社会であると説明されています。

[2]
[第30条] 著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とする場合には、公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器(複製の機能を有し、これに関する装置の全部又は主要な部分が自動化されている機器をいう。)を用いて複製するときを除き、その使用する者が複製することができる。
[3]
[第51条] 著作権の存続期間は、著作物の創作の時に始まる。2 著作権は、この節に別段の定めがある場合を除き、著作者の死後(共同著作物にあつては、最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。)五十年を経過するまでの間、存続する。
[4]
[第18条] 著作者は、その著作物でまだ公表されていないもの(その同意を得ないで公表された著作物を含む。次項において同じ。)を公衆に提供し、又は提示する権利を有する。当該著作物を原著作物とする二次的著作物についても、同様とする。(後略)

[第19条] 著作者は、その著作物の原作品に、又はその著作物の公衆への提供若しくは提示に際し、その実名若しくは変名を著作者名として表示し、又は著作者名を表示しないこととする権利を有する。その著作物を原著作物とする二次的著作物の公衆への提供又は提示に際しての原著作物の著作者名の表示についても、同様とする。(後略)

[第20条] 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。

[5]
[民法 第1条] 私権ハ公共ノ福祉ニ遵フ 権利ノ行使及ヒ義務ノ履行ハ信義ニ従ヒ誠実ニ之ヲ為スコトヲ要ス 権利ノ濫用ハ之ヲ許サス
[6]
[第21条] 著作者は、その著作物を複製する権利を専有する。

[第10条] この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。一 小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物二音楽の著作物三 舞踊又は無言劇の著作物四 絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物五 建築の著作物六 地図又は学術的な性質を有する図面、図表、模型その他の図形の著作物七 映画の著作物八写真の著作物九 プログラムの著作物 2 事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない。 3 第一項第九号に掲げる著作物に対するこの法律による保護は、その著作物を作成するために用いるプログラム言語、規約及び解法に及ばない。 (後略)

[7]
著作権からあがる収益によって作家が生活できるようになったのは、著作権制度が早くから発達した欧州でも19世紀に入ってからです。その理由も、排他的独占権のおかげではなく、印刷技術の発達でたくさんの普通の人々が読書を楽しむようになったからです。もし、作家が自分の作品について、頑なに「見せない」「読ませない」という態度を取っていたら、たくさんの人が読書に親しむようにならなかったはずです。作家が得られる収益の基礎は、出版業と職業作家を支えるだけの多くの読者の存在にあります。権利による独占のみでは作家の生活を支えられないのです。
[8]
「学ぶ」という言葉の語源は「真似をする」という意味の「まねぶ」という言葉です。あらゆる芸術は、特に古典作品ほど、すでに存在している優れた作品を真似て、そこに新しい表現や個性を盛り込むことを重視しています。作家の個性や感性を特に重視する態度は20世紀に入って現れた新しい現象です。ある作品の何パーセントまでが本当にその作家のものなのかを考えてみることも大事です。
[9]
著作権制度の発生と発展について詳細に知りたい人は、私が書いた 「コピーライトの史的展開」 (信山社, 1998)を読んでみて下さい。また、インターネットを使うことができる人は、この欄外のアドレスにアクセスしてみてください。関連する記事があります。 http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/copyrigh.htm
[10]
今では少なくなりましたが、印刷のためには大きくて重い鉛の原版、すなわちステレオタイプを作成しなければなりませんでした。これは、金属の固まりなので高価なうえに、一ページについて一つずつ作成されましたので、保管に困り、扱いにくいものでした。こうしたステレオタイプの作成費用や保管費用が印刷に先立って必要だったのです。
[11]
例えば、織物を作るとき、羊から羊毛を刈り取る人、それを糸に紡ぐ人、それを織る人、またそれを染める人などが関与することになります。こうした人たちは、それぞれに独立して仕事をして、それらの製品を市場で売買してもよいのです。しかし、市場での売買では、いちいち交渉したり、品質を確かめたりといった、取引に関わる手間がかかります。これを取引費用と呼びます。もし、企業が羊の放牧から、織物の染色まで一手に行ったらどうでしょう。市場でされていたような取引に伴う手間はいらなくなります。もちろん、企業を維持するためには、また別の費用がかかるわけです。そこで取引費用と企業経営の経費を比較して、企業を経営したほうが有利な場合にのみ企業は設立されることになります。
[12]
商品の価格は、その商品を売ろうとする人と、買おうとする人の間の関係で決定されます。すなわち、商品を売ろうとする人が多ければ、売ろうとする人の間で競争が始まりますから、売り手側の努力で商品の品質はよいものになり、また、値段も下がることになります。逆に商品について独占権が与えられていれば、買い手は、決められた売り手から商品を買うほかありません。すると、売り手は、競争する必要がないので、品質を向上させる努力や値段を下げる努力をしなくなります。
[13]
例えば、本やCDには再販価格制度というものがあります。これは、決められた定価でしか販売してはならないという一種の独占価格です。この再販価格が必要な理由としてはいろいろとあるようですが、すくなくとも、私たちは、この制度のおかげで、ある商品についての妥当な価格を知ることができなくなっています。 CDについて再販価格制度のない外国では、同じCDが日本の半額ほどで売られているのはよく知られた事実です。
[14]
印刷機は、この世に現れてすぐに、国王や教会といった、その時代の権力の支配下に置かれました。彼らの許可を受けた人しか印刷機を使ってはならない、とされたのです。しかし、そうした権力の支配を逃れた小さな秘密の印刷機から真実が溢れ出し、国王や教会の腐敗や不正を暴き出しました。そうして市民革命が生じたのです。メディアをくだらないことに使う人もいるでしょう。しかし、たとえそこから害悪が流れ出すにしても、私たちの自由な言論が表明される場所がまったく無いよりは、はるかにましなのです。
[15]
芸術家は、芸術において自由であるのと同時に生活においても自由を求める人たちです。そうした人たちは、自分の発想を束縛したり妨げたりするような制限のあるところでは実力を発揮できません。ロックやダンス ミュージックの好きな皆さんなら、すぐに納得してもらえると思います。
[16]
[憲法第21条] 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
[17]
[第32条] 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。 (後略)

[第35条] 学校その他の教育機関 (営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任する者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。(後略)

[第38条] 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。) を受けない場合には、公に上演し、演奏し、口述し、又は上映することができる。 (後略)

(私論.私見) 「白田教授の著作権の話」考

 著作権理解に関する沿革史を知る意味では為にはなった。但し、著作権法で保護される著作権の理解に於いて根本的なところで疑問がある。「著作権法では、あらゆる種類の表現は著作物でありうると規定していますから」とあるが、これはれんだいこ理解と違う。ここが異なっているので、生ぬるい話になっていると思う。「思想、宗教、政治、歴史」等の分野に於ける著作物の著作権をどう考えるのか、その功罪を問うという観点から言及して欲しい。財産権的観点からの説明にとどまらず、「フェア・ユース」概念からも説いて貰いたい。ならばもっと為になる話になるのではなかろうか。

 2005.12.18日 れんだいこ拝


【「団藤教授の判例談義」考】
 刑事法の神様と云われる東大名誉教授にしてロッキード事件の嘱託尋問調書の扱いを廻る最高裁宣明の時の最高裁判事でもあった団藤重光氏は、退官後の1984年春、学士会で「判例というものについて」と題する講話をした。学士会報の59年度第3号にその速記が掲載された。その一部を引用しておく。
 「実は最高裁でも、一種の大岡裁判をやることが無い訳ではないのであります。厳密に言うと、原判決は少々オカシイ、しかし原判決がこういう事実を認定してこういう判断をしたのについて記録を読んでみますと、これは事件の処理としてはまことにもっともだ、ここら辺りに落ち着かなければどうも落ち着きが悪い、こういうことがあります。こういう場合には、できるだけ原審の判断をそのまま維持いたします。それが本当の裁判というものです」。
 「法は判例によって生命を与えられ、生命を持続するのであります。法律は文字に書かれたもので、比喩的に云えば無生物みたいなものでありますけれども、裁判所の手を通して事件に適用されることによって社会の上に活かされる、又場合によっては殺されるのであります。剣道に殺人剣、活人剣というのがありますが、それと同じようなものです。法というものは大体は六法全書にありますような条文の形で書かれておりますけれども、無論全てを書き尽くしているわけではございません。書き尽くしているように見えましても、色々と解釈の余地があります」。
 「どんなに直截(ちょくせつ)簡明に書いてありましても、それについては解釈の余地というものが必ずあります。しかも大抵の場合には解釈をする人の立場によって内容がいろいろ変わってくるのであります」。

(私論.私見) 「団藤教授の判例談義」考

 これが、法学会の碩学の言葉である。意訳概要「法が条文だけでは解決しない、最終的には大岡裁き的さじ加減によって決せられる」ことを明らかにしている。直接的には述べられていないが、「権力の意向の臭いをかいで迎合しがちな面がある」という指摘とも汲み取ることができよう。

 2005.12.18日、2006.9.20日再編集 れんだいこ拝


【れんだいこは現代強権著作権論の気難しさをからかう】
 「稽古弁証法的発展を阻害する現代強権著作権論の本質」について愚考しておく。我々は、ある事物事象を考究する場合、次の作法に基づいて認識を高めて行く。まずは、基礎情報の収集(骨格)。次に、補足情報の収集(肉付け)。次に、関連情報の収集(彩り)。次に、異論、異端情報の収集(対比)。凡そ以上の精査を経て、何がしかの見立てを生む。これを理論化させて見識を生む。歴史の場合には史観を生む。この作業を高次的に何度も繰り返して、次第に精度の高い認識に至る。判断を生むためには、これほどの作業が必要となる。この道中は、猫の手を借りたいほど忙しいほどの各種情報の摂取と排泄の繰り返しである。人には寿命があり、論には期限があるから、これを高速度でやらねばならない。

 ということが理解されるなら、現代強権著作権論者の「要通知要承諾、無断転載、引用御法度論」が如何に有害な理論であるかが分かろう。

 我々は、対象に一生懸命取り組んでも正しい認識、史観に辿り着けるかどうか覚束ない。そこへ持ってきて現代強権著作権論者の「要通知要承諾、無断転載、引用御法度論」が振り回されたらどうなるか。良知を生むことは絶望ではないか。そうなると、政府や党中央の言う事はその通りとせざるを得なくなるではないか。政府や党中央が良知に基づき善政を敷く場合は許されても、その保証がどこにあるのか。

 かく問えば、現代強権著作権論者が正義ぶって「要通知要承諾、無断転載、引用御法度論」を説けば説くほど、白々しくなるべきではなかろうか。こういう手合いは元々が賢くないのだと思う。そういう連中であるが故に、彼らは、新理論に対して有益理論であるか有害理論であるかどうか見極めることなく単に鵜呑みに学ぶ。その結果、却って訳が分からなくなっているのではなかろうか。馬鹿は学んで余計に馬鹿になるという事例である。最近は、人文系は特にこういう事例に満ち溢れている。

 れんだいこが推測するのに、彼らをどう好意的に評しても、彼らは「武家の商法的著作権論」を振り回しているのではなかろうか。彼らが武家の出自であるかどうかとは別であるが、その昔の士農工商社会に於いて、武士は百姓町民に対して高圧的であった。その名残りで今も、「当方の商品を、誰に断って勝手に触っているのか、人づてしているのか」と小難しく理屈をこねる。この小難しさが愚昧な者の特徴である。他方、百姓町民は、「お武家さん、商品を宣伝しようとしたならお金がかかるのが我々の常識です。むしろ喜ぶべきですぞ」と云いたいのを堪えて、「仰せご尤もでございます」と受け答えしていたと思われる。

 現代強権著作権論者の正義ぶりっこぶりは、この「武家の商法的著作権論」であるように思われる。事の理非曲直が根本的なところで分かっていない。こういう手合いにはつける薬が無い。問題は、本当の武士は、そういう小難しい理屈を云わなかったところにある。とするなら、「武家の商法的著作権論」を振り回すこの連中は本当の武士でもない。ならば、一体誰が何の為に小難しくしているのだろうか、ということになる。

 2007.3.16日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)