「著作権(表現の自由)保障協会」を立ち上げよ

 (最新見直し2007.3.3日)

 (れんだいこのショートメッセージ はじめに)
 れんだいこは、「著作権(表現の自由)保障協会」の立ち上げを希求することになった。既存の協会が著作権の本来の在り方を追及するのではなく、著作権如意棒を行使して時代閉塞を作り出す桎梏物に転じていると思うからである。今や、各種著作権協会の強権著作権論に基づく反動的対応によって、各種情報が閉塞させられ、本来宝の山であるべきものが隠匿させられ埋蔵死させられつつある。これを如何せんか。

 れんだいこがネット界に登場し、サイトと掲示板を運営するうちに妙に執拗な著作権攻撃を受け続けることになった。相応の理由があった場合もあるが、過半は嫌がらせの度を越したれんだいこ誹謗であった。れんだいこの発言を封じ込め、サイトと掲示板の閉鎖を目論むものであった。これらが、著作権を盾に行使されていることに着目する必要がある。

 そういう訳で、れんだいこは防衛上、お陰さまで著作権法に精通する必要に至った。これは望外の果実であった。連中の執拗な攻撃が無ければ、れんだいこが著作権論の研究に向かうことは無かったであろう。今れんだいこは、「前門の狼、後門の虎」の例えに比するなら、現代著作権法が「前門の狼」に転じて社会悪を作用していると認識している。現代著作権法は、本来の趣旨から離れて、情報交差の制限に向かって強権歩きし始めていることに気づかされている。そして、その流れが意図的に推し進められているということを知りつつある。以下、このことを論証してみる。

 著作権強権論者が如何に正義ぶろうとも、悪意のうちにこれを推し進めている勢力の代理人でありエージェントであることがはっきりしている。故に、この連中は、陰謀集団の習い性で岩陰から矢を放つのを好む。堂々と議論を挑むことができない。れんだいこを、典型的な怪文書手法でしか攻撃できない。「人生学院掲示板1」に最後に登場する栄誉に預かった「コピペ」君は、その素体を正直そのまんまに晒し続けている。

 お陰で、「コピペ」君は、その行状を通して、著作権の情報弾圧的本質を誰の眼にも分かるように伝えるという歴史的役割を担っている。彼の今後の立ち居振る舞いに関心がもたれる所以である。この指摘に接したコピペ君がどのように変化するのか、しないのかに注目してみよう。これを仮に「コピペ君果実事件」と命名しておく。

 そういう事情によって、れんだいこは、現代著作権法の強権化の動きに特別の臭いを嗅ぐことになった。それが史上のパリサイ派的動きであることに気づいた。ならば、これに抗する為にイエス派的対応をしてみたいと思う。かの昔、同じ神の義を口にしながら、パリサイ派のそれと、イエス派のそれは真っ向から対立した。著作権法も同じで、同じ言葉を口にしながら、まったく対応の異なる著作権論を打ち出すことになるだろう。

 本来の著作権法とは、つまりイエス派著作権論とは、1・表現の自由、2・著作の自由、3・情報交差の自由、4・情報の市場原理尊重、5・権力統制の排除からなる。これらこそが著作権論の法理となるべきである。しかしながら、パリサイ派著作権論は、1・表現の自由の規制、2・著作の自由の規制、3・情報交差の自由の規制、4・市場原理の規制、5・権力統制の強化を推し進めている。

 言葉は同じ著作権であり、その法であるが、両者が護ろうとしている内実が悉く背反していることに気づかされよう。両者は、著作者の権利を護るという名目は同じであるが、イエス派は、著作権の人民大衆的享受に向かう。共生的社会空間の創出に向かう。近代曙光期間のルネサンスは、この流れにあった。他方、パリサイ派は、経済主義的には拝金蓄財教のしからしむるところ全てをゼニ対象化しようとし、政治主義的には情報の取捨選択を行い不都合情報を抑圧し、ご都合情報をプロパガンダする。そういう著作権論を吹聴し、著作権管理協会を跋扈跳梁させつつある。

 現代社会は、パリサイ派に牛耳られている為、イエス派的人民大衆的享受に向かう著作権派は公職追放され、逮捕され、巨額の制裁金を課せられている。この傾向は今後ますます激しくなりそうである。

 そろそろ、一体どちらの著作権論が正しいのか議論すべきではなかろうか。れんだいこには自明である。そこで、パリサイ派の現代著作権論に対抗するために、「著作権(表現の自由)保障協会」を立ち上げ、著作権管理団体による著作権強権化の監視に向かい、権利濫用を掣肘したいと思う。誰か趣意賛同の方よ、財団ないしは協会の届出をしてくれ。れんだいこを理事に入れてくれ。この協会は成長性が著しいぞよ。(思いつくまま)

 2007.3.3日 れんだいこ拝


 



(私論.私見)