今、全共闘の時代をどう受けとめるか 82年12月
English
Page 1998年12月23日
【以下は、1982年に青年共産主義者同盟(準)が作製したパンフレット ドキュメント「日大闘争の記録」12・8映画上映会資料集を復刻し、再録したものです。なお、後書きにあたる部分は省略しました。(津村 洋)】 |
目次
|
1、上映にあたって
|
日本は、十余年前に、全共闘運動と言われる階級闘争の激動を経験した。全共闘運動は、抑圧民族=帝国主義本国での階級闘争を闘う重要な観点を提出した。その核心は、帝国主義本国労働者人民が、自国国家権力と非妥協的に闘うためには、意識的変革が著しい重要性を帯びることを、大衆的な実践の中で明らかにしたことにある。
全共闘運動は中途で挫折を強いられた。そして現在、全共闘運動の意義を抹殺・清算し、全共闘が対決した既成左翼の思想、運動方法にすり寄る動きが、左翼全体を覆っている。それが、現在の運動低迷をも招いている。
この事態の克服のためにも、全共闘運動を教訓化することは、特別の現在的意義を持つと我々は考えている。全共闘運動の重要な一端を担った日大闘争-『日大闘争の記録』を通じて、全共闘運動に対する認識を深め、現在の社会情勢・政治情勢への認識を鍛えてゆくことを全ての友人のみなさんに呼びかけたい。 |
2、全共闘運動とは何か-全共闘とその背景 |
◆ 全共闘運動は、激しい街頭実力闘争や、全国の学園を覆った学園バリケードストライキ(しばしば、無期限バリケードストライキ)、大衆団交などの特徴を持った。これは、旧来の左翼運動-議会と組合を中心に、国民の多数派形成を目指す運動とは、全く異質な特徴であった。 |
◆ 60年代末-この頃は、左翼といえば、多くの人々にとって、社会党・共産党を指すものと受け取られていた。又、共産主義運動とは、ソ連・中国・日本共産党を指すものと考え疑わないのが普通の状態にあった。事実、この時期、選挙の度ごとに、自民党の「長期低落」が語られ、共産党の伸長、地方自治体での社共系「革新」勢力の急伸が注目を集めていた。特に、学園では、一部の大手私大などを除き、国立大のほぼ大半と数多くの私大の自治会を、日共・民青全学連が一挙的に掌握していた。
60年代後半の時期は、アメリカ帝国主義のベトナム軍事侵略が、65年を境に、全面化した時期である。又、日本は65年、日韓条約を境に、韓国侵略を本格的に開始した時期でもあった。
この時期、世界各地で闘いの高揚が見られた。ベトナム民族解放闘争は、その最先頭に位置していたが、「世界の人民は、ベトナム戦争の観客であってはならない」と檄を発し、自ら、キューバ経済相の地位を棄てて、南米解放闘争に身を投じ、闘争中に戦死したゲバラの実践はベトナム同様、世界の労働者人民に強い感銘を与えた。
|
◆ この時期の世界の闘いの特徴は、ソ連や、各国共産党という、それ迄の社会主義運動に於いて、揺るぎない権威とみられていた既成左翼への反発であり、既成左翼との闘いの中で、大衆的な高揚が切り拓かれたことである。
日本の全共闘運動に劣らない高揚を示した68年パリ5月革命は、社共系の影響の弱い労働者・学生を中心に闘われ、共産党の抑圧と対決しながら高揚を切り拓いた。同じ時期の、チェコスロバキアの民主化闘争は、ソ連型「社会主義」の官僚支配に対する不満の爆発であった。中国の「文化大革命」も、ソ連型の既成の体制への反発という側面を持っていた。アメリカの黒人解放闘争-ブラックパンサーを中心とする闘い、西独-赤軍など、この時期に台頭し、それらの闘いの多くは、ソ連や既成左翼-社共に対する批判・対決を伴っていた。ソ連の膨大な援助のもとで建設を行ってきたキューバですら、ゲバラ-カストロが、ソ連の日和見主義批判を開始し、中南米武装解放闘争全般もソ連の国益主義的外交や平和主義への批判を強めていた。
そして、日本の全共闘運動も、社会党・共産党系既成左翼への鋭い批判、激しい対決を伴って闘われた点では、世界各地の運動に劣らない際だった特徴を帯びていた。
|
◆ 我々は、上述の運動のそれぞれの特徴・方針のどれもが支持できると考えているわけではない。しかし、60年代末に、労働者人民の闘いが旧来のソ連・各国共産党を中心とする既成共産主義運動の権威からの脱却を目指して、新たな運動構築を模索する中で世界各地に大衆的な高揚を実現させた現実が持つ重大な意義を見過ごすことはできない。
労働者人民の運動、共産主義運動は、60年代末に世界共通に根本的脱皮を求められていたのである。全共闘運動も-自覚の有無は兎も角-その要請の下に展開された、世界史的意義を持つ運動の一環にほかならないものであった。 |
3、全共闘-その思想と実践
|
◆ 全共闘運動の思想と実践の特徴-「自己否定」、実力闘争、社共批判が持った重大な意味について
全共闘運動は、10・8羽田闘争を画期とする街頭実力闘争-政治闘争の展開、及び、日大・東大闘争を起点に、全国に波及した全国学園闘争の展開という主要な側面を持っている。この両側面である政治闘争と学園闘争は、勿論、多く共通する勢力が担っているだけでなく、思想的にも重大な共通性を帯びている。
|
◆ 「被害者意識」に頼る運動への疑問-国際主義と自己否定
それ迄の社会党・共産党系の運動は、「平和と民主主義、よりよき生活」という標語に要約できる。社会党・共産党系の運動は、アメリカ帝国主義-自民党の悪政に苦しめられている日本国民が「平和・民主主義・生活擁護」という、“誰にでも賛成できる”内容で、着実に多数派形成してゆけば、より良い日本が実現できる、という思想に集約出来る。
社会党・共産党にとって、この「合理的な主張」が国民の多数を捉えるのは、時間の問題でしかないと考えられていた。従って、議会での多数派形成を目指す彼らが唯一恐れるものは、“左翼は怖い”という“デマゴギー”に口実を与えてしまうような、「挑発的」「分裂主義的」な“極左的”行動のみである。-こうした思想から、社会党・共産党は、日本国民を“被害者”として描き出すことに腐心し、日本をアメリカ帝国主義の従属国として描き出した。アメリカからの独立・自立という課題であれば、国民の誰しもが賛成出来、支持を得られるだろうというのが、それ迄の左翼の思想であった。
-全共闘運動は、当時の、この“常識的”な思想への根底的な疑問と批判を突きつけた。
|
◆ 67年10・8羽田を起点とする政治闘争の高揚
新左翼-全共闘系の政治闘争と社会党・共産党-既成左翼の政治闘争
<67年10・8羽田闘争>
67年10・8羽田闘争は、全共闘-新左翼系の闘いが、広く全国的に影響を与えた闘いである。67年10月8日、三派全学連(共産同、中核派、解放派)を中心とする労学大衆は、首相佐藤のベトナム訪問を実力で阻止すべく、ヘルメット・角材で武装して、羽田に進撃した。この闘いでは、京大生山崎君が機動隊に虐殺された。
それまで、デモと言えば、広く国民の支持を広げるため、国民に反発をかわない合法的な形態をとることが普通になっていた。しかも、デモの目的の多くは、「日本が戦争に巻き込まれること」への反対や、生活擁護・民主化に限られていた。
しかし、新左翼は、日本帝国主義のベトナム侵略加担という課題、他民族抑圧に対して、身をもって決起し、死者をも出す実力闘争を展開した。
新左翼は、日本共産党の対米従属論-二つの敵(アメリカ帝国主義と日本独占)論を鋭く批判し、自国帝国主義との闘いを根本任務と据えることを訴えた。10・8闘争が、全国の労学大衆に衝撃的な影響を与えたのはこの点にある。
それに対して、日本共産党は、当日『赤旗祭り』に打ち興じ、三派全学連の闘いを挑発と非難し、山崎君虐殺に対して、“自分たちが車でひき殺した”という権力の見えすいたデマを事実上支持するなど、腐敗した体質をさらけ出した。
-労働者・学生大衆は、10・8闘争によって、左翼運動・共産主義運動に対する、それ迄の常識・前提を突き崩された。
翌年頭、佐世保エンプラ入港阻止闘争では、社共県評系の集会で、例によって「集会防衛隊(権力からの防衛ではなく、新左翼からの防衛隊)」を組織して、新左翼排除を行うとする日共・民青に対し、労組・地元市民から「誰と闘っているんだ」という怒りの糾弾が浴びせられ、ピケの解除に追い込まれている。
-こうして、新左翼・全共闘系は、日共・既成左翼との鋭い対決の中で、政治闘争の牽引力を急速に強めた。
|
<学園闘争と自己否定>
社共系の学園闘争は、学費値上げ反対や処分撤回など具体的要求をのみ中心とするものであった。しかし、全共闘系学園闘争は、具体的要求に止まらず、「帝大解体」「大学解放」「などの「抽象的」なスローガンを掲げ、無期限バリケードストライキなどの戦術を広く取り入れるところに特徴があった。
そして、これらの運動全体を貫く思想として「加害者としての自己の否定」があった。「自己否定」論は、元々は東大闘争の中で形成されている。エリート養成機関である東大で運動を発展させるためには、自分たちの存在が労働者人民に敵対していることを問題にし、それを否定することなしには、労学の連帯もない-という思想が、自己否定の骨格である。
しかし、この思想は、エリート大学=東大に止まらずに、全国学園闘争に波及した。それは、“学生の存在、学園の存在一般が、体制に組み込まれ、資本主義を支えている”ことを認識し始めたことと結びついている。この自覚は、帝国主義本国=日本の労働者大衆が、韓国-アジア人民に対する抑圧民族・加害者であることを自覚し始めたこととも重なっている。
全国学園闘争は、この「加害者」意識を重要なバネとして、日共=民青が実現できなかった戦闘性と大衆性を獲得したのだ。実際、学園闘争の中で学生自治会に対するそれ迄の日共系の支配は、全国的に覆された。
「加害者」意識が、大衆性を持つなどということは、社会党・共産党などの既成左翼にとっては、全く理解できない事であった。
これらの既成左翼にとっては、労働者大衆は、無条件に肯定的存在=「善」であり、悪いのは、一部独占とアメリカ帝国主義に限られていた。社共の票田である国民を「加害者」などと規定することは、社共にとって、絶対にあってはならないことなのだ。
そのため、日本共産党・民青は、国家権力や学園当局に対しては、決っして行使しない暴力をもって、全共闘運動・バリケードストライキに襲いかかり、既存の秩序維持のために、奔走したのである。
既存の秩序を前提に、「善玉」(=勤労者)が悪玉(アメリカと日本の一握りの独占資本家)を議会などで追い詰めるものとして、階級闘争を考えるのか、既存の秩序自体を否定し、変革する対象として捉えるのか-社共既成左翼と全共闘・新左翼は、こうした思想的対立を激化させた。
|
<沖縄返還と70年安保>
こうした全共闘・新左翼運動の高揚は、「70年安保」をめぐる闘いに凝縮されてゆく。
70年安保再編は、全共闘運動の闘いの高揚によって条文改訂は見送られ、自動延長という形をとった。この点は変更がなかったが、70年安保再編の最大の眼目は、沖縄返還であった。
「極東の軍事的要石(キーストーン)」である沖縄を日本が取り戻し、自衛隊派兵を行うことは、日本帝国主義のアジア侵略強化の一大画期に他ならないものであった。多くの大衆が、日共や既成左翼の対米従属論に不信を持つ全共闘に共感を強めていった根拠に、日本帝国主義の侵略戦争体制の攻撃強化があった。
だが、日本共産党は、「沖縄『返還』で日本はますますアメリカ帝国主義への従属を深めます」と時代錯誤的な主張を行い、日本の帝国主義的自立を否定することに血道をあげることで、日本の侵略強化を容認する反動性を強めていった。
|
4、全共闘-その意義と限界
|
◆ 今、全共闘運動をどう受けとめるか
60年代末全共闘運動が持つ重大な意義は、次の点に要約出来る。それは、帝国主義本国(抑圧民族)の階級闘争はどの様に闘われるべきかを垣間見せたことである。
|
◆ 帝国主義本国階級闘争の特殊な性格と全共闘運動
我々は、資本主義社会に生活している。従って、勤労者は資本家によって搾取・抑圧される階級であり、資本家の横暴を暴露すれば一致団結して闘うことが出来る-日本共産党もここまでは言う。
しかし、日本は、ただの資本主義ではない。世界は、20世紀初頭に、少数の抑圧民衆(帝国主義列強・本国)と被抑圧民族(植民地従属国)とに分裂した。帝国主義列強は、被抑圧民族からの超過利潤で潤い、労働者までもがその利潤の一部である程度潤い、ブルジョア化する。左翼運動は、どれ程反政府的ポーズをとり、経済闘争(賃金要求等)を闘い、資本家と闘っているつもりでいても、それだけでは階級的に闘うことは出来ない。
自国の他民族抑圧と、それを認める排外主義思想と闘わない限りは、支配階級の側に巻き込まれることが避けられないのだ。
第一次帝国主義戦争時(1914~18)に、ロシアを除く、欧州の社会主義政党が、祖国擁護の立場をとって戦争協力を行ったこと。第二次帝国主義戦争(1939~45)に向けたフランス人民戦線などは、いずれも、愛国主義・民族排外主義の立場に立っていたために、支配階級の侵略戦争に引き込まれた例である。
他方、帝国主義本国の労働者大衆は、自分達が抑圧民族であることを科学的に自覚することによって、大衆的戦闘性を発揮できる。全共闘運動やパリ5月革命は、このことを大衆的な実践をもって示したこと、ここにこそ重大な意義があった。
労働者は、被害者意識や、「誰でも分かり易い」具体的な課題でないと大衆的に決起することはできない-という、それ迄の左翼の「常識」であった、大衆を蔑視した思想、経済主義思想は、全共闘運動の実践によって打ち破られた。
同時に、先進国の労働者は、豊かになったので最早階級的に決起することはない、という俗説も、全共闘運動や、パリ5月革命の運動が、根底的に打ち砕いた。
-帝国主義本国日本の階級闘争を具体的に考える時、全共闘運動の教訓化なしには豊富な認識は得られない。
|
◆ 全共闘運動の意義と限界
全共闘運動は、帝国主義本国階級闘争を闘うに際して、“忘れ去られていた観点”に接近した。
それは、次の点にわたっている。
第1に、対米従属論を批判し、「被害者意識」に迎合する既成左翼に対して、労働者学生大衆に、「体制を支える加害者」としての自覚を促したこと。これは帝国主義本国抑圧民族としての政治的自覚の重要性を認識しつつあった事を示している。
第2に、議会や合法的手段に限らずに、大衆自身の実力で、国家権力との闘いを切り拓こうとしたこと。
自国帝国主義が日々不断に推進し強めている他民族抑圧と闘うには、大衆的実力に立脚した非妥協的闘いが不可欠である。
第3に、労働者大衆を身近な具体的要求でだけ行動するものと決めつけていた社共既成左翼の大衆蔑視に対して、「自己否定」-自己変革を促し、積極的な思想闘争、理論闘争の必要性を大胆に持ち込んだことである。
特に、既成左翼に対する厳しい路線的批判を大衆自身が認識し、公然と討論の俎上に乗せられたことは、労働者人民の理論的認識を著しく高めた。革命路線をめぐる大衆的討論を始めとして、全共闘の時代に、労働者大衆の理論的関心は前例のない程成長した。
第4に、前者と関連して、ソ連-日本共産党型の大衆蔑視の官僚主義に対する批判を大衆的に展開したことである。
-これらの認識は、現代世界と帝国主義に対する科学的認識に成長する(しかも、大衆的規模で、実践と結びつきながら)戸口に立ったことを示している。
しかし、左翼党派は、それに応える内容を持てなかった。日米関係については「対米従属」との対決に突き進む大衆に対して、左翼党派の世界認識は、「対米従属論」により妥協的なものであった。(それが現在悪い方向に開花している)
そして何よりも左翼党派は、労働者大衆の理論的認識を成長させることと不可分一体に結びついた政治闘争を組織できなかった。政治闘争の発展を、軍事的エスカレートとしてしか認識できない水準に、左翼党派は置かれていた。
ここから
① 政治闘争の発展を志向した軍事化→赤軍
② 政治闘争を「やるだけやった」のに勝てなかった→別の道を、という2つの敗北の道に進んでゆく。
党派の理論・路線的限界によって、全共闘大衆は、彼らがつかみかけた核心を、科学的認識に高めることが出来ず、霧散を余儀なくされた。
|
◆ 全共闘とその後の大衆運動の腐敗
全共闘運動の後、数年を経て、左翼運動の首座に躍り出たのは、78年三里塚開港阻止決戦を闘った菱田ブロック-労働情報系と言われている潮流である。(これは、第四インター、プロ青、戦旗<日向派>、赫旗、労調委などの党派が属し、日市連、6・15潮流系市民運動などと、相互浸透している。)
この潮流は、全共闘運動をただ否定的にのみ捉え、その積極的意義を一切葬り去ってきた。
確かに、全共闘運動は挫折を余儀なくされた。だからと言って、既成左翼社会党・共産党にすり寄ることで、新しいものが切り開けるわけではない。だが、現在の左翼党派が行っていることは、これなのだ。
一例を挙げよう。
82年に、反核運動が未曾有の高揚を示した。この時、社会党・共産党指導部は、「推進連絡会」を組織して、これを牛耳り、米帝の核軍拡だけを問題にする反米運動・国連要請運動にねじ曲げ、固定化した。だが、労働情報系左翼-及び、中核派など既存左翼は、この事態に対して驚くべきことに、何ら警告を発することをせずに全面賛美を行ったのである。
もう一例。
労働情報系は、労戦統一反対のために、総評三顧問-太田薫・岩井章・市川誠を天まで持ち上げた。彼らの積極的な面を活用する事自体は問題ではない。しかし、既成左翼の代表的人物に属し、多くの日和見主義的行動を行ってきた彼らの立場への公然たる批判を行う事なく、彼らを賛美する事は、労働者人民に対して、三顧問の否定的な面、克服すべき面から一切目を閉ざさせるものであり、既成左翼と変わりない大衆蔑視に他ならない。
労働情報系を中心とする既存左翼は、全共闘運動を科学的に分析する事なく、“大人の政治を知らなかった”“社共既成左翼を反対派的に批判するだけではだめだ”という感性的な総括から、既成左翼へのすり寄りをみせている。
既存左翼は、
(1)「米・レーガンの圧力による日本の軍拡」論に迎合・屈服する事で、日本共産党なみの対米従属論にすり寄っている。
(2)全共闘運動は、一部官僚だけでなく、大衆自身が理論的・路線的に武装する闘いを目指した。だが、労働情報系など既存左翼は、「わかりやすい課題での人集め」に熱中し、公然たる理論闘争を蔑視している。
(3)裏取引政治の横行-政治的決定を、非公然に、裏政治で行う方法は、今や、社共なみになっている。
こうした方法が大衆の戦闘性を解体することは避けられない。
|
5、全共闘の地平をどの様に受け継ぎ、発展させるべきか
-全共闘運動とレーニン主義党- |
全共闘運動の積極的な要素を受け継ぎ、80年代の階級闘争の中に生かしてゆくためには、レーニンとボルシェビキ(ロシア社会民主労働党、『多数派』、後のソ連共産党)が切り拓いた共産主義党・全人民的政治闘争・帝国主義をめぐる理論的・実践的蓄積の継承・発展を行わなければならない。これが結論の核心である。
-しかし、このように言うと、真っ向から反対する人々が、(左翼党派を自称する人々の中でさえ)圧倒的に多いはずである。「とんでもない。レーニンが提起し、スターリンが引き継いだ中央集権的-官僚的な前衛党組織との闘いこそが、全共闘運動の重要な特徴だったではないか」と。
だが、このような一般化・俗流化した認識こそは、全共闘運動の今一歩の成長を押し止める。全共闘運動のマイナスの、誤った側面であったのだ。
全共闘運動が対立した日本共産党・ソ連共産党などの組織論は、ボルシェビキ・レーニンの組織論とは何の関係もないスターリン主義党組織論である。だが、全共闘運動の担い手の多くは、両者を漠然と一体のものと捉え、民主集中制を否定したために、底なしの泥沼に落ち込んだ。
全共闘は、「組織のない組織」「誰でもやる気のある者は指導部になれる組織-固定した指導部のない組織」をつくることで、官僚主義を克服し、個々人の自発性を汲み上げるようにした。
-この目的は達せられたか?達せられなかった。それだけではない。彼らが意図したものとは全く逆の結果がもたらされた。
「誰でも指導部になれる組織」では、さしあたり政治的力量のあるものが、どんな責任も負うこともなく、実質上の固定的な指導部になった。とりあえずは指導部より政治的力量が弱く被指導部にある者にも保障されなければならない指導部批判の権利は、「批判があるなら君も指導部に」「対案を出して、その方針で運動を進めてくれればいい」という“善意”の主張によって黙殺された。とりあえず政治的力量が弱く指導の力を未だ持たない者(階級社会で育てられてきた人々にとっては、政治的力量のさしあたりの不均等発展は避けられない)が、指導部に対する部分的批判の権利(=全面対案がなくとも批判できる権利)、被指導部が指導部を監視する組織的保障の下で、指導部と同等の力量を獲得してゆく組織活動上の条件は一切奪われた。
政治的力量、否むしろ政治的力量のたけた部分による、責任を負わない官僚主義支配-これこそ、全共闘組織が避けられず辿った道である。
何故、官僚主義になるのか? 組織形態が不明確な組織では、実質上、指導部と同等の力量、全般的な対案が、あらかじめ求められるからである。
そして、こうした事態の克服を、最も系統だって追求したものこそ、ボルシェビキ・レーニンの党組織論に他ならなかった。
もし、レーニンの『一歩前進、二歩後退』と、その前後の著作を研究する労をいとわないならば(新左翼は、ここを通り一辺にやりすごすか、トロツキーの誤った組織論によって科学的認識を妨げられた)、レーニン主義党と、日本共産党やソ連共産党の上意下達の官僚組織とが全く異質の存在であることは、容易につかみとれたはずである。
レーニン主義党は、戦闘の機能だけでなく、①全組織員の思想的成長、率直で発展的な理論闘争の保障のために、②指導部の監視のために、民主集中制が不可欠であることを詳細に明らかにしている。レーニン主義党は、激烈で活発な党内闘争を、公然と労働者人民の目前で行いながら、そのことによって強化されてゆく党として成長した。-これこそ、全共闘運動が、根本に於いては目指していたものなのだ。
ボルシェビキ・レーニン主義党は、このような党であったため、二月革命後の激動期に、中央指導部の多くが動揺した時にすら、全党の自覚的結束はゆるがず、十月革命勝利を導いた。
ロシア十月革命後、欧州諸国の革命は敗退し、帝国主義列強の反革命干渉戦争がロシア全土を襲った。革命ロシアは何とか持ちこたえたものの、自覚的な中堅党員、労働者の最良の部分の大半が戦死するという政治的焦土の上に、スターリンは権力を握り、レーニン主義党を全く異質なものに変質させた。
このことは、重大な敗北ではあるが、しかし、ボルシェビキ・レーニン主義が目指したもの、その思想の敗退を意味するものではない。
同様なことが、政治闘争論をめぐっても言える。全共闘は、しばしば「体制を否定する思想的表現としての無期限スト」という主張を行い、実践化した。
これは、旧来の既成左翼からみれば、開いた口がふさがらない程、とんでもない代物であった。何故なら、既成左翼にとって、政治闘争とは、大衆の身近な要求を組織しながら、或いは、わかりやすい要求を組織化しながら、支持を拡大するものに他ならなかったからである。
それに対し、全共闘は、真の政治的内容、即ち、体制そのものの根底にかかわる政治闘争を求めた。或いは、闘争主体の思想的変革、成長を促す政治闘争を模索した。-その稚拙ではあるが、強烈な表現が、「思想性の表現としての無期限バリスト」等の位置づけである。
政治闘争の中で、どのような思想変革も追求せず、大衆の現在のあるがままの意識にどっぷりと迎合して、支持の拡大だけに汲々としながら行われている既成左翼の腐敗した政治闘争論に全共闘が反発したことは、全く正しいものであった。
だが、全共闘は、この問題意識を、誤った方向に押し進めてしまった。
政治闘争を、何よりも労働者大衆の思想変革・成長のための最大の源泉として捉え、その観点から、全人民的政治闘争論を厳密に展開したのは、レーニンに他ならなかった。レーニンは、政府に一般的に反対するだけの、政府に要求をつきつけるだけの政治闘争を「経済主義的政治」として厳しく批判している。レーニンは、労働者大衆が身の回りの具体的課題の方が大衆的に決起できるという経済主義を鋭く批判した。これは、全共闘が既成左翼に対して批判しようとした核心の一つに他ならない。
そして、レーニンは、政治闘争の中で、労働者大衆が階級関係全般、社会関係全般に対する科学的認識を獲得し、支配階級と被支配階級の利害の非和解性を唯物論的に認識してゆくことが出来る政治闘争だけが、全人民的政治闘争であり、共産主義的政治であると強調している。
全共闘が行おうとしたこともこれであった。
政府に合法的手段でお願いするだけの既成左翼の政治闘争は、支配階級と労働者人民との非和解性を少しも明らかにしない。それに対して、全共闘は、「無期限スト」「体制を否定する思想性の表現」という形で、この目的を、一挙に達成しようとしたのだ。
これは、成功するものではなかった。闘争が、「思想性の表現」になった時、逆に、闘争は政治自覚を希薄化させ、思想性をも解体していった。
例えば、「大学解体」というスローガンは、その典型である。このスローガンは、大学が現体制に組み込まれていることの分析に立ち、体制と、それを支えるものの根底的否定への肉迫を目指したものと言える。しかし、ブルジョア大学を解体する課題は、国家権力の打倒との関連抜きにはあり得ない。にもかかわらず、この点をあいまいにして、「大学解体」や「永続的バリケード」を主張する時、それは、国家権力との対峙関係の根本を見失わせる役割を果たす事になる。即ち、支配階級との非和解性はあいまい化する。従って、「大学解体」や「無期限バリスト」は、体制を根底的に否定する思想性の表現ではあり得ないものになる。体制否定の志向がありながらも、それを科学的な階級分析と結合しない限りはこの結論は避けられない。
全共闘が目指したもの-政治闘争・諸闘争を、思想変革・成長と不可分に結びつけることは、唯一、レーニン主義的政治闘争論の厳密な研究、継承・発展を基礎にしてだけ可能になること、このことを、現在、我々は、徹底して自覚しなければならない。既存左翼(かつての新左翼)が、かっての既成左翼なみの、経済主義的政治を露骨にすることで、全共闘運動の意義を清算主義的に洗い流そうとしている現在、全共闘運動が既成左翼との対抗の中で目指した政治闘争論を、マルクス・レーニン主義の科学的世界観に裏打ちされた全人民的政治闘争として結実させ、発展させることが求められているのだ。
(尚、全共闘系大衆にとって、彼らが目指したものが、レーニン主義的政治闘争論に内包されていることなど思いもよらなかったことには根拠がある。それは、レーニン主義を口にする新左翼が、レーニン主義とは全く異なる政治闘争を展開したことによるものだが、この点は、『マルクスレーニン主義をかかげて』9号で詳細に検討する予定である。尚、4号、6号、7号でも若干触れている。当時の全共闘大衆にとって、レーニン主義政治とは、せいぜい、軍団化、武闘強化ぐらいにしか映らない状況が存在していた。)
|
最後に(略)
ホームページに戻る
|