「れんだいこの全共闘運動論」

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「全共闘グラフィティ」(高沢こう司)によれば、全共闘運動は次のように概述されている。
 「1960年代後半、大学と学問の在り方を問うところから、主としてノンセクト・ラジカルの学生達によって闘われた運動。60年代中期から様々な大学や学園で個別的に闘われてきた大学紛争がもはや改良闘争や反対闘争では闘い得ないとする認識から出発し、折からの70年安保に向かいたい闘いと結合する中で全国的な大学−学生叛乱の様相を示しつつ、ラジカルな闘いとなった。全共闘とは、全学共闘会議の略称。直接民主主義に基づく組織の運営を原則とし、個々の主体がそれぞれ個の主体性のもとにその決意と責任を保持しつつ結集した大衆的戦闘組織であり、戦闘主体の結集体であった。

 こうした全共闘運動−大学叛乱の背景には、60年代高度経済成長政策によるインフレ基調とと労動力不足という状況があり、そうした状況の中で政府による大学の『労働力生産工場』化、ブルジョアイデオロギー生産工場としての再編攻撃があった。こうした再編攻撃は60年代中期から学費値上げ、寮・学館の管理強化、カリキュラム改編等として連続的に具体化され、60年代末に至って中教審答申−目的別大学、大学院大学構想、筑波大学設置等として展開されてきた。こうした教育の帝国主義的再編と管理体制強化に対する反逆が、全国的に拡大した学園闘争の背景であった。同時に世界的に同様の構造のもとに闘われたスチューデント・パワー、フランス5月革命や西ドイツ、アメリカ等における全世界的な学生叛乱とも共通の構造を持っていた。

 すなわち情報化社会の進行とその高度に発達した情報化社会の中での管理操作体制の強化に対する反逆としてである。従って、この期における学生叛乱−大学闘争は個別学園の枠を突破して、『大学革命』のスローガンを登場させ、権力闘争にまで登りつめていったのである。また全共闘運動は、いわゆる『大学解体』論、『自己否定』論などに見られるごとく、権力闘争であると同時に、思想的な運動であった」。

【れんだいこの全共闘運動雑感その1】
 初めに。ここで考察しようとしている全共闘運動は、あくまで大学生運動であり、中卒・高卒者を含む青年労働者をも巻き込んだ広範な政治運動までには発展していかざる枠組み内の限定的エリート的な学生運動であったという階層性に注意を喚起しておきたい。この「青年左翼闘争に於けるエリート階層性」という特質は、日本共産党の結党以来宿阿の如くまといついている日本左翼運動の特徴であり、どういう訳かマルクス主義を標榜しながら労働者階級を巻き込んだ社会的闘争には一向に向かわないという傾向が見られる。

 全共闘運動は、全国規模の学園闘争として「60年安保闘争」に勝るとも劣らない運動を展開させていくことになったが、「かの戦闘的行為」に対して庶民一般大衆が抱いた心情は、「親のすねかじりでいい気なもんだ」という嫉視の面もちで受け流されていた風があった。このこと自体は発生期の事実的特徴として必要以上には批判的に問題にされることもないかもしれないが、運動の主体側の方もまた「ある種のエリート意識に囲い込んだまま終始させていた」ということになると問題にされねばならないように思う。この観点からすれば、 代々木系も反代々木系も同根の運動であり、これは日本の左翼運動の今に変わらぬ病弊のように思われる。つまり、「ブ・ナロード」の能力を持たない自閉的エリート系左翼運動が今日まで続いているという負の現象をまずは認めておこうと思う。

 (付言しておけば、「ブ・ナロードの能力」を学生側が無能の民百姓を啓蒙すると云う意味で使うのは不適切であるように思う。そういう「する側のブ・ナロード」もあるだろうが、逆に民百姓が伝統的に育んできている共同体思想による知恵、その優れた伝統を学ぶと云う意味での「される側のブ・ナロード」もなければならぬ。いわば「二つ一つ」的に相互作用するブ・ナロードであらねばウソだと思うようになっている)

 私論になるが、そうであるにせよ、この当時このような学生左翼青年を澎湃と排出せしめた要因は何であったのだろうか。当時の国際的なスチューデントパワーの流れ、国内外の社会情勢、社会主義イデオロギーが幅を利かせていた限りでの象牙の塔内の動き等々にも原因を求めることもできようが、私は少し観点を異にしている。恐らく、戦後自由を得た日本共産党の党的運動が急速に社会の隅々まで影響を及ぼしていった先行する事実の余波があり、当時の党運動の指導者徳球書記長時代の穏和路線から急進主義をも包摂した野放図な運動の成果が底バネになって、はるか20年後のこの頃の青年運動に結実していったのではないのか、という面も考察されるに値するのではなかろうか。

 徳球時代には、戦前−戦後を通じて我が身の苦労を厭わず社会的弱者の利益を擁護して闘った共産党員の「正」の遺産が継承されており、この遺産がとりわけ青年運動に対して大きな影響を与え続けていたのではないのか、という評価をする必要があるのではなかろうか。ということは、徳球執行部の運動の成果を、宮顕式「50年問題について」的に彼の没理論性の面や家父長的な指導による非機関主義的な党運営手法等の否定的面をのみ総括して済ますやり方は酷であり、そういう総括の仕方は非同志的な似非左派宮顕式ならではの処理法ではないのかということになる。

 何にせよ如何にして時の青年を取り込むのかは非常に大事なキーワードであり、この点においてむしろ徳球時代の党運動は成功していたのではなかろうか、と思う。徳球書記長の没し方を見ても分かるように彼の深紅の闘志は本物であったのであり、その懐刀伊藤律を始め徳球の周りに結集していた数々の人士の場合も然りである。徳球時代は、戦後直後のわずか6年有余の実績の中でさえ、確実に明日の党建設につなげる種子を蒔いていたのではなかろうか。

 ということは、今日の党運動における青年運動の肌寒さが逆に照射されねばならないことを意味する。宮顕式党路線の真の犯罪性は、彼らが執行部に納まって以来50年にもならんとするのに、青年運動を全く逼塞させてしまったことに顕著に現れているように思われる。彼らは口先ではいろいろ云うが、今日の低迷状況に関して何ら痛痒を感じていない。そのオタク性こそ凝視されるべきであると考える。

 その長期にわたるいびつな党指導の結果、今日においては共産党の「正」の遺産は既に食いつぶされてしまったのではないのか。今日の党員像は、かっての周囲の者に支持されつつリー ダー的能力を発揮していた時期から大きく脱輪しており、体制内「道理」化理屈による「非マルクス主義的ご都合科学主義的社会主義」運動方向へ足を引っ張るややこしい行動で、周囲から「只の人」もしくは「事を混ぜるだけのひんしゅく者」扱いされるそれへと移行してしまっているのではないのか。果たして、青年運動を牢とした枠組みで括って恥じない宮顕−不破執行部は日本共産党の党運動の正統な継承者なのだろうか、疑問を強く呈してみたい。

 ちなみに、私は、宮顕「個人」にとやかく言っているつもりはな い。憎悪すべくもない見知らぬ人でしかない。党の最高指導者としての氏の政治的立場に対して批判を加えているつもりである。弱きを助け強きをくじく精神を最も誇り高く持ち合わせて出発した日本共産党の党是の精神を尊びたいがために、そのような精神とずれたところで党の頂点に君臨し続けた氏の政治的責任を追及しているつもりである。指導者の影響力はそれほどに強く、政治的責任というものはそれほどに重いと思うから。ところで、そうした変調振りをあからさまにしている宮顕の「無謬神話」はどこから生まれているのだろうか、私には分からないオカルト現象である。

【れんだいこの全共闘運動雑感その2】
 もう一つの私的な観点からの考察を添えておく。非マルクス主義的な捉え方のようにも思うが、仮説として考えている。どなたのルポであったか忘れたが、 韓国、中国、ベトナムと旅をしてみてベトナムにやって来たとき一番ホッとしたと云う。まるで故郷に先祖帰りしたような気持ちになったと云う。ルポ作家がこのように民族的同一性を文学的に表現しているのを読んだとき、私には思い当たったことがあった。

 わが国でひときわ1960年代のベトナム反戦闘争が沸き起こったことには、民族的同一性からくる義憤という目には見えない根拠があったのではないのかと。最新の生物分子学におけるDNA研究の語るところによれば、遺伝子は過去の生物的進化情報を記憶しており、この情報は何らかの底流で「生きている」とも云う。つまり、わが国におけるベトナム反戦闘争は、血を分けた同胞がアメリカ軍によって苦しめられている様を見て先祖の血を騒がせたのではなかったのか、という仮説に辿り着く。その根拠を今現在の科学的水準で説明することは難しいが、そういうことはありうるという超常現象的考えを私は持っている。

 更に指を滑らせれば、この血の同盟による日本−ベトナム民族こそ、16世紀以降の欧米白色イズム(目下はもう少し的を絞り「国際ユダ邪」と言い換えている)に互して唯一といって良いほどによ く闘い得た民族であるという歴史的事実があり、こうした認識の仕方はもっと注目されても良いとも思ったりしている。簡単に言えば、日本−ベトナム民族は、自治能力と民族的イデオロギー形成能力の高い知的民族ではないかということであり、この点に関しては我々はもっと自信と関心を持てば良いのではないのか。

 但し、これが「負」の面に立ち現れれば、欧米白色イズムに勝るとも劣らない隣接諸国に対する侵略者としても立ち現れることにもなる。大東亜戦争はその大義名分にも関わらずこの負の面の現われの面もあり、解放後のベトナムのカンボジア・ラオス他侵略的な政策もまたそうであるように思われる。とはいえ、大和民族の優秀性とは言ってみても、第二次世界大戦における敗戦と今現在進行させられつつある国債大量発行自家中毒的経済的敗戦渦中は、その能力の二番手性をも証左しているとも思っている。アングロ・サク ソン系、その中枢に君臨しているネオシオニスト・ユダ邪の狡猾さには遠く及ばないということである。ワンワールド化時代におけるこういう民族的自覚と認識は保持していて一向に差し支えないとも思っている。

【れんだいこの全共闘運動雑感その3】
 話を本題に戻す。全共闘運動は、ノンセクト・ラディカルの澎湃な出現を前提とせずには成立しなかった。興味深いことは、ノンセクト・ラディカルと新左翼各派の統一連合的運動として全共闘が結成されたが、運動の初期においては この運動の主導性を行動的にも理論的にもノンセクト・ラジカルの方が握っていたことである。このパワーバランスが次第にセクトの方へ揺れていくのが全共闘運動の経過となった。

 ノンセクト・ラディカルが非党派を良しとしていた背景に理論的優位性があったためか、単に臆病な気随性のものであったのかは個々の活動家によっても異なるであろうが、全共闘運動が、ノンセクト運動の可能性と限界性を突きつけた史上未経験な実験的政治的左翼運動であったということは相違ない。

 この運動の実際は、歴史の摩訶不思議なところであるが、 片や最エリート校東大と典型的なマスプロ私大校日大という両校によって担われることになった。その要因として、たまたま両校に有能な活動家が出現したということと、両校に教育政策上の権力性がより強く淀んでいたことが考えられる。それにしても、この時期党派であれノンセクトであれ、かなり広範囲に左翼意識者が雨後の竹の子の如く出現し続けた訳であり、今日的水準からすればよく闘い得た素晴らしい青年運動であったと思われる。なぜこのように評価するかというと、あれは立派なコミニュケーションであったと思うから。コミニュケーションの通過性こそ人間存在の本質性だと思うから。現在このコミニュケーションが矮小化させられていると思うからである。

 今日全共闘が懐かしく回顧されつつある理由として、「大学の自治」という美名の中に牢として秩序化されていた講座制という権威的封建主義と功利的近代主義の両面に対してよくぞ闘い得たという正の面の評価が挙げられる。全共闘運動の精髄は、既成の権威・価値・装置の全てと自己の存立基盤を疑い、アナーキーな問いかけで社会に問題を提起した姿勢にあった。

 彼らのこの当時の「訴え」は今なお有効であり、否ますます有効さを示しつつある。元々彼らの問いかけは、ベトナム戦争に対する義憤に発したと思われるが、これを極めて思弁的に語った。彼らの論理は、単にベトナム戦争に白黒の政治的立場を表明するに留まらず、米帝国主義に加担して太り続けようとするわが国の人格的(というのも変だが他に適当な言葉を知らないので)在り方を凝視し否定することで普遍性を獲得していた。それは、大量生産時代の物資的な豊かさに呑み込まれつつあった時代の「先進国的豊かさ」を享受しようとして競争している「体制」に対する反逆の狼煙となっていた。

 今この姿勢の真価が評価されようとしている。あの時代から今日まで世界の資本主義体制は、ますます経済的利益最優先論理の下に資本を爛熟させてきたが、現在我々はこのことによって失った代価もあまりに大きいという現実を突きつけられている。公害の発生、空気・河川・大地・食物等の環境複合汚染、当然我らが体内にもまた同様の汚染が進行していることが考えられる。危険極まりない原子力発電化、生態系を無視した森林伐採、生物・動物の乱獲、政治も教育も医術も算術優先化させたことによる精神の荒廃・人々の相互疎外化等々は、「既存的な豊かさ享受の論理」と矛盾を深めつつある。

 今日のこうした情況は、もう一度「あの問いかけ」に戻ってみる必要があるのではないか、ということを訴えつつあるように思われる。「否定はまず自分自身に向けられた。徹底的な自己否定なく してはいかなる肯定もあり得ない内なる個の否定」、「我利我利亡者的エゴイ ズムの徹底的破壊。我らの闘争の根元的な拠点」(進撃3号「砦の狂人たち」)は、こうした感性の表現であるように思われる。

【れんだいこの全共闘運動雑感その4】
 こうした全共闘の「訴え」の歴史的背景には、丁度中国で毛沢東が紅衛兵に呼び掛けていた「造反有理精神」の発揚があったものと思われる。実際には 紅衛兵運動は政治主義的に利用されたようではあるが、わが国ではその理論面が輸入された。前述したように儲け合理主義一辺倒がとめどなく進行しつつあったあの時代において、全共闘の「体制」に対する「違和感」がこの「造反有理精神」と結合したとき、ベトナム戦争を通じてヒルの如く戦争の血を吸って高度成長しつつ帝国主義的に世界列強への仲間入り政策を進めつつあった国家体制に対する「叛乱」へと進むことを良しとさせたのではなかったか。

 自己の存在が否応なくこうした帝国主義的な成長過程に組み込まれていることに対する反逆として、「自己否定運動」というものを生み出しつつ決起せざるをえなかったのではないのか。こういう体制はまずもって解体されるべしと。 「自らが日々従事している『平和』的な労働=生産こそ、日本の侵略加担の巨大な構造を支えている歯車であり、まさに血に汚れた『人殺し』労働なのではないのか」(共労党)という「訴え」はこの辺りのことを表現しているように思われる。

 この論理は、東大闘争における医局員の次のような論理に見て取れる。「東大闘争は、医学部に於ける青年医師連合の基本的権利を守る闘いと、医療部門における人民収奪の強化、及び医学部に於ける研究教育体制の合理化=帝国主義的改編への闘いを発端として火の手を挙げた。そして独立資本との産学協同を推進する国立大学協会自主規制路線の下に、この闘いを圧殺 しようとした東大当局に対する叛乱として展開される」ことから始まった。この叛乱は、曰く、研究の自由に措定されている階級性の告発、曰く、特権的身分の否定、曰く、これらの告発に何一つ答えることができなかった知性の府の腐敗の告発を通じて、やがて学問的営為全体に対してブルジョワ的という名を賦与 してまず「否定」から始められねばならないという運動を創出していくことになった。この論理が共感を生みだしていくことになった。

 これを社会的関わりの中で見据えれば、概要「産学共同路線の実体は、大学の産業(資本)への従属であり、企業からの資本投入による安価な受託研究施設として機能し、安価な人材養成機関と化し、研究者の自立した研究を妨げる。研究内容そのものも帝国主義的価値との絡みに規定されており、大学の自治や学問の自由といっても偽善であり、現体制を美化するものでしかなく、大学に於ける帝国主義的な本質を隠蔽しているのではないのか」という認識を生みだした。こうした仕組みの中でノホホンと研究が進められていく事の「学者面した不義」に対して、全共闘は、当初の「研究者のあるべき姿勢の問いかけ」から次第に破壊的行動へ、更に解体的運動へと理論を発展させていくことになった。

 つまり、「自己否定論理」から「世界の解体−再創造」に立ち向かっていくことになった。こうした観点を究極化して「層としての学生運動」を生みだしていったのが東大ノンセクト・ラディカルであり、セクト的社会革命運動とは別個に創出された思弁的ラジカリズムによる学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。

 ただし、東大ノンセクト・ラディカルに思弁性の高さは認められても、政治運動化の論理はおぼこかったように思われる。「自己否定論理」は、帝国主義的要員としてプロイダー教育・研究化させられている自身の存在の「自己否定論」 となり、「造反有理精神」は、その産みだし機関の否定としての「帝大−大学解体論」となり、「世界の解体−再創造論理」は、「体制破壊−解体へ向けての革命運動論」へと発展することになった。

 「既成の大学の自治」とは、そうした根元的な問いかけ−運動の創出の前には全く無能なあるいはまた帝国主義的に組み込まれた擬制でしかなく、小手先の改良によりどうなるものでもないむしろ欺瞞的として否定の対象とされた。こうした認識は、実践的に「戦後民主主義体制のイデオロギー的否定」へと向かい、学内運動としては「ポツダム自治会粉砕」へと向かい、対置したものが「直接民主主義論」(一種の代行主義的な多数決原理に基づく間接民主主義のポツダム自治会のアンチ・テー ゼとしての直接民主主義)、「コミューン的組織論」、「政治運動におけるラジカ リズムの肯定」となった。対社会闘争としては青写真なきままのラジカリズムによる革命運動への志向となった。

 「否定は内から外へと向けられた。否定さるべきもの、現に存在する大学当局の管理権力機構、としてそれを可能にし背後から支えている国家権力そのもの。だが二つの否定は論理的な区別を有するのみであって、現実に闘争を担っている主体にとっては同時的であり不可分離である」(進撃3号「砦の狂人たち」)という語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。

【れんだいこの全共闘運動雑感その5】
 こうした全共闘的論理の実際の政治的運動としての立ち現れ方は後述するとして、全共闘は組織論的にもユニークさを発揮していた。全共闘的組織は、 当然既成の前衛意識的組織論とは異なる個々人の主体的決意をリンクさせたものとなっていた。これを代表的に表現していたものとして、東大助手共闘の次のような了解事項がある。

 曰く、1.個人の主体的決意のみによる参加、 2.指導部は創らず、問題は全て全員討議にかける、3.組織の維持を自己目的化しない。つまり、前衛党的な「民主集中制」とか分派禁止にまつわる細かな規約を持たず、極力シンプルに個々の「内なる思想的闘い」を重視させた非統制的組織論に依拠させようとしていたことになる。

 この三規約は、一切の党派的イデオロギーからの自立と、こうしてアトム化された個人の結集体と しての自律的自主的運動体としての可能性を追求する運動を担おうとしていたものと思われる。ベ平連系にもこのような論理が見られることを思えば、こう した思考と行動様式はベビーブーマー的論理の特徴であったのかも知れな い。

 「私は、ノンセクト・ラジカルということになっていますが、その内実はアナーキズム・ニヒリズム・プランキズム・マルキシズム・フーテニズム・ヤクザイズムのごった煮でありまして」(最首悟)というカオス派的語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。つまり、左翼運動史上前例のない相互の自主性を重んじた組織運動を目指していたことになる。「われわれは連帯を求めて孤立を恐れない。力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽さずにくじけることを拒否する」という語りもまたこの辺りのことを表現しているように思われる。

 全共闘的組織論は、全員加盟制自治会の多数決原理に基づく形式民主主義な右派的引き回しに対するアンチテーゼから生み出されたものでもあった。急進主義的戦闘的闘いを目指す者にとって、従来式の自治会制は足かせ手かせでしかなく、情況に合わせて突出した闘争を牽引するには、執行部を掌握していないかぎり絶望的であった。事実、執行部を掌握していない自治会では、新左翼が相当の組織勢力をもっていても有効な闘いが組織できないと云う状況が続いてきた。全員投票による形式民主主義に対して直接参加、直接行動による闘う組織の結成が急務となっていた。

 全共闘運動は、自治会的活動に代わるクラスやサークル闘争委員会を核とする運動を創出して行った。学生の闘うエネルギーを結集する全学的闘争組織が生まれ、全共闘へと発展していった。既成の組織の理念や論理から逸脱した大衆の直接民主主義を理念とする行動組織であった。実際の運動過程では、比較的少数の戦闘的集団が、まず突出した闘争(校舎占拠、バリケード・スト)をおこない、事後的に大衆を周囲に結集しつつ、運動の大衆化を実現するという“マッセン・スト”型の闘争戦術が日常化し、学園のゼネスト状態をつくりだして行くこととなった。

 「情況から言葉へ 、学生運動」の「」は次のように述べている。
 「とりわけ、多数決原理にもとづく、全員加盟制自治会組織と、その運営上にみられた形式民主主義の不毛性は、闘争が高揚するにつれて矛盾を露呈し、闘争の発展にとって桎梏とさえなっていた。全共闘運動が、戦後民主主義がもつ限界性を突き破って、大きな発展を示すことによって、その神話を突破したのである。こうして、全共闘運動は、全員投票による形骸化した民主主義にたいして、直接参加−直接行動による真制の民主主義を、自治会的団結にたいして、コミューン的団結を対置することによって、“ポツダム自治会”を大きくのりこえ、学生運動史上画期的な地平をきりひらいた。これは‘60年安保闘争において、「前衛神話」の崩壊をもたらしたものと、底部で深く共鳴していた」。
 「学生大衆の自主的参加と、意識的結集によって組織された闘争委員会−全共闘の結成は、そのまま当時の学生運動の到達点を示しており、質的内容の豊かさを物語っていた。戦後、日本の学生運動は、全員加盟制自治会に体現されるように、学園改良闘争(日共型)や、新左翼による強力な政治指導の下で、普遍的任務を階級闘争の最先端においてになってきた「革命的」学生運動へと両極分解し、それが固定化していた。そのなかで、全共闘は、このような学生運動の、実体的かつ組織的な閉鎖性をのりこえ、発展させるものとして画期的な意味をもった。

このような闘争戦術の方式は、政治党派からは、既成の‘ポツダム型’組織をドラスチックに解体・再編し、大衆的な自己権力組織へと自己形成をとげるべきものとして、組織論的観点から“ソヴェト”へ結びつくものとして期待された。その意味で、全共闘は、政治党派からみても、従来の自治会組織かわるべき、現実的な展望と、ダイナミックなイメージを提供した」。
 「また、全共闘運動の、さらに大きな特色は、それまでの学生運動がすすめてきた政治党派などの、何らかの勝利や獲得をめざす闘争方式よりも、闘争にかかわる個人の意識や行動に主体がおかれたという理念上の問題がある。それは、党派や指導部によって組織されたものではなく、参加者一人ひとりが、自らの決意と責任によって参画したという闘争形態と必然的に結びつくもので、学生が絶えず自らの存在について問いかける中から出発したものであった。「自己否定」あるいは「自己変革」という言葉が、全共闘運動のなかで産まれた。全共闘運動が、きわめて主体的、思想的な運動であったとされるのはこのようなスタイルをとったためである。全共闘運動が、個々の大学の改良闘争、あるいは、共通の政治目標をこえたラジカルで広範な運動となったのは、それが提起した個々の闘争主体の内面をゆさぶる理念と経験を獲得したためである。

しかし、後の世代から見ると、残念ながら、このような運動が全く姿を消してしまって承継されなかったのはなぜか、という問題意識は当然でてくるはずである。60年代後半の学生を中心とする若者の闘争が、国家に対する「異議申し立て」として発生しつつも、言葉が現実に追いつけなかった点こそが、第一の敗因であるとの結論にもつながってくる。

だが、これらの闘争を微細に遡っていくと、私が今いる場所からは、もっと別の見方もできるような気がしてならない。一般的な見方からすると、資本主義が高度化するにともない、「恣意的な自由の意識」や「私的利害の優先意識」が伝統的な社会意識とぶつかり、価値観が世代間の軋轢をひきおこしたことが、運動の原動力になったとの見方がとれる。それが、学生という自己の存在と激突し、自分たちの民主主義を直接的な方法でおしだしたというのだ。

また、日大闘争も東大闘争も、大学という場での権力関係、その構造的な閉鎖性に対するものであり、それは優れて社会的な権力をめぐる闘争であった。社会的な権力の構造、その非民主的な性格への闘いだった。そして、そのような言葉にならない学生大衆の無意識の歴史観を方向づけることができなかったことが、悔やまれるような反省がでてきてもやむをえない」。

【れんだいこの全共闘運動雑感その6】
 こうした東大闘争とは別途の方法で共に戦い抜かれたのが日大闘争であっ た。共にあったのは、ぶんぶく太りし続ける日本経済の発展の仕方に対する拒絶の姿勢、と私は観る。日大闘争ならではの特殊性としては、日大には過去学生運動の歴史がなく、それもその筈で建学理念の保守性とこれを護持しようとする強力な右翼系体育会、応援団運動こそが日大の学生自治運動となっていたという背景があった。

 ところが、世情騒々しさのおりがら古田理事会体制による不正入学金の使途不明問題が勃発した。学生の怒りが沸き起こり、「不正入学金の使途不明告発から学内民主化闘争へと発展。大学を学問探究の場から利潤追求の場とした古田理事会体制との闘争」が組織されてい くことになった。この闘いは、大学当局の意を挺した暴力機関体育会・応援団の介入と血みどろになりつつ勝利的に切り開かれていくことになった。それはあたかも、「ベトナム人民が武器を持って立ち上がり、侵略者を追い出し、自ら の解放を勝ち取ろうとしていた」ことになぞらえられる闘いであった。

 秋田明大を議長とした日大全共闘が結成され、「一.理事長総退陣、一.経理の全面公開、一.不当処分撤回、一.集会の自由、一.検閲制度の廃止」という5つのスローガンに集約された闘いを進めていく運動の中から、次第に「古田体制の帝国主義政策の先兵、帝国主義者に反抗せず支配者の言いなりになる人間の養成の場とした体制を打倒し、ブルジョアジー教育に於ける砦を破壊し、 学生の戦闘的拠点を建設する闘い」の創出へと向かうことになった。この日大ノンセクト・ラジカルもまたセクト的社会革命運動とは別個に創出された反封建・向民主的ラジカリズム的な学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。

 残念ながら、こうして盛り上がった東大−日大闘争は、次第にセクト理論の洗礼を受けていくことによりみずみずしさを失ってしまう。(もう少し時間をかけて各派ごとに対比させつつ研究してみたいが、この場合は何せ時間と資料がないのではしょります)セクト理論の影響を受けて闘争が深化発展する方向へ向かうのならよいとも思うが、トンデモの方へ行ってしまう。

 「民主主義は労働者階級の闘争を市民的秩序に押しとどめるもの」→「大学の自治は幻想であり守るべき自治は何もない」とする帝国主義の欺瞞的支配の図式化→「ブルジョア民主主義をプロレタリア民主主義と対立させ、打倒されるべきものとする」という論理による民主主義闘争の放棄→「一切の改良主義的妥協と自己欺瞞を峻拒した永続的闘争」→「権力を引き出すことを目的意識的に追求する闘争」→「先駆的集団の挑発によって国家の暴力支配を登場させる」→「国家の暴力支配の登場が大衆を闘争に駆り立てる」→「先駆的前衛的にこの闘争を担うというヒロイズム精神による特攻隊化」。

 このような論理は、完全な政治的引き回しでしかない。各派がこの段階のどれかに位置しつつ全共闘運動に揺さぶりを掛けていくことになった。その結果、全共闘運動は、さてどこに向かおうとするのか、何処まで向かうのか分からなくされてしまったのではないのか、と思われる。

 こうして、当初のアナーキーな問いは、大学制度改革運動から次第に離れてこの問い自身のデカダンスへと発散していくことになった。「自己否定の否定はやはり否定」と揶揄されている破滅的論理に沈んでいくことになった。残された方向は先鋭的暴力化の競い合いという構図となった。

 興味深いことは、 大学制度改革運動から全共闘運動が生み出されたにも関わらず、全共闘運動がこうしたデカダンスの深みに入っていくことにより、大学制度改革運動を民青同系が担っていくことになったという経過がある。私は、これを全共闘運動の自己転落と観る。この自己転落の責任を民青同に転嫁させ「民青殺せ!」 の道程へ踏み入って行くことになったのではなかろうか。「誰のせいでもありゃ しない。みんなおいらが悪いのさ」という歌の文句をはなむけとしたい。

【れんだいこの全共闘運動雑感その7】

 さて、最後に付け加えておくことがある。全共闘運動が賞賛されるべき内容を保持していたにも関わらず、その運動の中に無条件に胚胎させていた暴力性の論理である。この暴力性は、彼らがどう政治的な言葉で言い繕ろおうとも、事は至って単純エゴイスチックなものでしかなかった。「トロが学生自治会の執行部に選ばれた場合、自分たちの支持が無くなると、何年間も改選しなかったり、不正選挙、不正投票をしたり、学生大会から反対派を暴力的に閉め出したりしてきた」(川上氏「学生運動」)と言わしめるような手法を日常化させていたのではないのか。なぜ、彼らは堂々と所見を述べ、学内外にプロパガンダしていかなかったのだろう。

 私に言わせれば、全共闘は値のある理論を持っていたように思われる。当時も民青同は宮顕論理の影響を受け、ほぼ自主性のない運動しか為しえない窮屈な姿を見せていた筈である。なぜ堂々と民青同と渡り合い、自治会執行部を取れればよいし、取れなければ取れるように根気強く運動を組織していくねばり強さを培えなかったのだろう。「民青殺せ!」と絶叫 しつつデモしていた事実は一体何を語るのだろう。「悪魔も寄りつかぬ静寂の中でドン・キホーテは夢をみていた。しかし僕らは自己を主張するのに不可欠なハンマーを見ている。反革命分子よ気をつけるがいい。血と肉を持った存在が今や鉄槌無しには主張され得ないのだ」などとうそぶきつつ「自己の内なる東大を否定せよ」とは、一体何を洒落ているのだろう。

 私が民青同を評価しているのは、次の一点にある。度々指摘しているように 党中央指導によるゲバ民化の事実を隠そうとは思わない。しかし、民青同は学生運動内に曲がりなりにも民主的手続きと原則に対して踏まえる術を知っていたと思う。学生大会の運営も然り、逆にやられたらやり返せとばかりに 「他党派のあれこれを殺せ!」と絶叫しつつデモったという事も知らない。こう いうことは誰に教えられるのでもない、何かイデオロギー以前の人としてのたしなみではなかろうか。反代々木系運動にはこのたしなみに対して欠落したものがあるのではなかろうかという不信がある。

 残念ながら私には民青同の良さは他には見あたらないが、民青同が踏まえていたこの手続き民主主義の精神こそ最も大事なものなのではなかろうか、と思う。民主主義は、間接であろうが直接式であろうが手続きなしには成立しない。この手続きの野蛮化と権力をチェックし民主化するということは、「人と人との群れ方」というコミュニティーの約束事としてイデオロギー的メガネを掛ける以前の話なのではなかろうか。受験から解放されてわずか数ヶ月か数年のうちにいっぱしの活動家が促成され、「日共解体、民青殺せ!」と呼号しながらデモることに不自然さを覚えない感性が分かりにくい。人の弁証法的成長過程として許容される部分も有るとは思われるが、その際手続き民主主義の精神と切磋琢磨精神の涵養は前提にされていなければならないのではなかろうか。

 この精神が大事でないというのなら、70年に入って以降学内に立ち現れた特定セクトによる暴力支配に対して手を焼いた経験がない者の物言いとしか考えられない。このキャンパス内に立ち現れた憲兵隊的存在こそ70年以降の学生運動の特徴であり、学生運動低迷の真の原因と私は思っている。元々少ない左翼意識の持ち主がパージされ続けた結果、キャンパス内に「白け」が蔓延してしまうことになった。いつの間にか「白け」が日常となってしまったのではないのだろうか。

 対話弁証法のないところには発展がないのであり、それは飛行機が摩擦抵抗を利用しつつ滑走路からフライングしていくという物理法則 と同じ現象であり、その逆の例である。左翼運動自体が古くなったのではなく、もっと単純に左翼人士の登場が押さえつけられているのではなかろうか。これが二度と全共闘運動を創出させない主要因になっているのではなかろうか。これに対するのに、負けた者の遠吠え的にではなく、まず自ら左翼運動内にこうした現実を生み出させない強固な運動理論とその仕組みを構築することが必要とされているのではなかろうか。

 単純に言えば、「されて嫌なことはしない」という平明な原理を守れば良いだけの話である。万事ブルジョア的と言いなせば粉砕されたり、プロレタリア的だとか言いさえすれば免罪されるという作法は、命名者側の権力の乱用的常套手段であり、この物言いに納得する側の「知」の頽廃を前提にして成立 しているのではなかろうか。互いの活動を認め合うという原理は万古不易に墨守されねばならない大人の嗜みなのではなかろうか。こうした原点の確立から運動を模索することこそセンチメンタリズムを越しえて全共闘運動を総括しうるものとなるのではなかろうか。


【れんだいこの全共闘運動雑感その8】

 全共闘運動は、大学の任意の会館を占拠しバリケードで囲い、コミューン叉は解放区とした。そこで自主カリキュラムを組み、あるいは講演会を開いた。或る意味で至上未曾有のカルチェラタンを創出した。

 これに対し、例によって革マル派の絶対指導者・黒寛は「革命的マルクス主義とは何か?」の中で次のように罵倒している。

 「学園や経営などを少数精鋭主義的に「占拠」することを自己目的化するだけではなく、バリケードによってつくられた箱庭的小空間を<コミューン>とか<解放区>とかとするにいたっては、本質上、子供の遊びとなんらえらぶところがない。それは、まさにコミューンのカリカチュアでしかない。…中略…そうした「占拠」によって偶然的な自由を獲得し持続することの直接的な延長戦上に、権威もなく権力も存在しない社会の創造を、政府が経済的有機体に解消された無政府的社会の出現を、夢想することは、明らかに、すでにプロレタリア階級闘争の歴史そのものによって破産を宣告された小ブルジョア社会主義の時代おくれの復活でしかなく、またアナルコ・サンディカリズムの轍をふむ以外のなにものでもありえない」。






(私論.私見)