中核派の白井朗批判その2考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元、栄和2)年.8.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2007.10.20日 れんだいこ拝


 「白井朗は革命党を警察権力に売る反革命的腐敗分子だ 反革共同の「書簡」を断罪する」。
 (一)
 わが同盟から脱落し、権力に投降して階級移行をとげ、公然と反革命活動を開始した白井朗(ペンネーム山村克)に対する闘いは、『共産主義者』一二三号における政治局声明の発表と「白井自己批判書」公開、および本紙一九四四号の西山論文をもって白井に決定的な打撃を与えている。

 さらにわれわれは、白井の反革命性を際立たせている決定的事実を怒りをもってここに暴露する。白井は、昨年七月に反革命パンフ二冊と民族問題に関する反革命的著書を発行するにあたって、前進社に対して実に許しがたい書簡を送ってきた。二十七ページの長文の手紙が言っていることは、要するに自分の著作の発行を妨害しないでくれ、妨害したら革共同の指導部に関する情報を日帝・警察権力にばらすぞ、という憎むべきものである。

 「私の著作の刊行にあたった出版社にたいして、いっさいの妨害を断じて拒否する。万一いかなる形にせよ、出版社にたいして、お前さんたちの手で妨害が加えられるならば、或いは脅迫・恫喝のことばによる暴行を加えるならば、私はただちに以下の処置をとる」

 その内容は、第一は、清水議長の「健康と住居の安全にたいして、パンフの暴露以上のはるかに高いレベルの暴露をおこなう」、第二は、対カクマル戦で権力の指名手配攻撃が続いている事件で、その「責任者」の名前の「暴露をためらうことなくおこなう」というものである。しかもすでにその「文書を作成し終わり、すぐに社会的に暴露する準備が完全にできている」と言い放ったのである。

 なんということか。これは白井が国家権力の意識的な手先=スパイそのものに転落したことの明白な自白でなくて何であろうか。第一の「パンフの暴露以上のはるかに高いレベルの暴露」とは、権力に重要な情報をたれ込むぞ、権力の革共同弾圧にとって役立つ情報をばらすぞ、ということだ。第二の点は、権力のデッチあげ指名手配に積極的に協力し、わが同志を差し出すということである。

 白井朗は、革共同とすべての党員が、権力の破防法攻撃、指名手配攻撃、デッチあげ弾圧を打ち破り、非合法・非公然の体制を守り、党を守って闘ってきたことを踏みにじって、革命党を警察権力に売り渡すと公言したのだ。しかもその文書=権力への報告書を作成し終わったというのだ。全党員と支持者・協力者による長期にわたる営々たる闘いの総体に真っ向から敵対することを表明したということだ。白井自身、かつては政治局員としてこれらの闘いに守られてきたことへの一片の感謝の念も、そこにはないのである。

 白井は、問題が何か革共同内部あるいは左翼内の路線・理論をめぐる対立であるかのように装おうとしているが、右のことをみればそんなものではないことは明々白々ではないか。古今東西、これほどあからさまな敵権力へのたれ込みを予告・実行する者が左翼内部の一分派であったためしはない。どこの世界に自分の本を出版したいがために、革命党を警察に通報して、権力弾圧を引き出そうとするものがいるか。これは左翼内部の対立ではありえないことなのである。白井にとって日帝・警察権力は敵ではないのだ。これはかつての黒田寛一の大川スパイ事件と並ぶ犯罪である。

 こうして白井はバリケードの向こう側に行き、敵権力のスパイ分子に成り下がったことを自ら告白したのである。白井は、底無しに腐敗した革命党破壊分子、現代の「イスカリオテのユダ」に転落したのだ。
 (二)
 『共産主義者』一二三号で公開した白井の一九九三年二月の自己批判書を読めば、白井の今日の言動がいかにかつての自分自身をも裏切るものであるかは明白である。この自己批判は、革命家とりわけ指導部の自己批判としてはきわめて不徹底かつ不十分なものであるが、文字に残されているという点で決定的なものである。

 白井はこの自己批判について討議する会議から逃亡したが、その逃亡にあたって「欠席届け」として「政治局の同志が、今後小生がおかしな活動をはじめたと判断されれば、自己批判書を公表して下さって結構です。……自己批判書を公表して下されば、小生に賛同してついてくる同志などひとりもいない、ありえないことは明々白々です」などと書いていたのだ。

 この自己批判書にあるように、白井が自ら「組織原則違反」「政治局破壊行為」を犯したと具体的に自己批判し、「私みずからがボルシェビキ的な党的なあり方の破綻(はたん)をきたした」として、「全政治局員の指導のもとに党の道徳と規律を守り、たたかいぬく」と誓っていることは紛れもない事実である。

 ところが白井は、まとまった自己批判を一度は書いておきながら、さらに本格的な自己批判に進むことに恐怖して逃亡・脱落した。しかも、いったん自己批判したものを撤回するという実に卑劣な態度をとったのだ。その際、白井は、この自己批判は「偽装転向だった」とうそぶいたのである。この一言に、この男の卑劣さが全面的に露呈している。「自己批判したふりをした」などということが、およそ革命家のとる態度ではないことは明白である。「偽装転向」などという苦し紛れの言い逃れをした瞬間に、白井は根本的なところで党から脱落し階級移行したのである。
 (三)
 白井はわが同盟指導部を「カクマル主義者」とか「スターリン主義者」とかののしっているが、まったく見当はずれである。白井の反革命パンフと反革命本の発行は党内の誰ひとり獲得することはできなかった。これに最も喜び、飛びついたのが日帝国家権力とともに、ほかならないファシスト・カクマルだった。ガイドライン闘争や組対法闘争で反革命的介入を図ろうとして手痛い敗北を喫し、危機を深めていたカクマルは、この白井の反革命的転落を材料に何か革共同に傷をつけられるのではないかと、はかない望みを抱いたわけだった。

 黒田を始めとして異様な興奮状態に入ったカクマルは、これを使って大騒ぎすれば革共同に打撃を与えられるのではないかと錯覚して、考えられるあらゆる卑劣な策動を試みた。白井パンフを抜粋コピー・マスプリし各方面にばらまき、白井の宣伝役を買って出た。カクマルは、それだけではなく、白井を装って「第三パンフ」(青パンフ)を発行し、革共同に対するデマ攻撃を満展開した。しかし、われわれはこれが白井の反革命攻撃に乗じた悪質なデッチあげであり、白井なら絶対に言わないことを並べていることがカクマルによる偽造の証拠であることを暴いて、カクマルの浅はかな策動を粉砕した。

 さらにカクマルは、百万人署名運動を推進している人びとに対して「白井政治局員を支持する会」なる名前で革共同の中に分派があるかのように装ってデマビラを送りつけ、運動に混乱を持ち込もうとした。

 われわれはこのようなカクマルの策動と闘い、打ち破ってきた。われわれは絶対に許さない。徹底的にカクマルの悪行を暴露し、今や空前の危機に陥っているカクマル=JR総連の打倒に突き進むものである。

 同時に、このようなカクマルの革共同破壊攻撃に利用されその手先の役割を果たしている白井を絶対に許さない。本多書記長虐殺を始め数限りない反革命襲撃をもって革共同破壊攻撃を続けてきた現代のナチス=ファシスト・カクマルと同列の反革命に、ついに白井は転落したということなのだ。革共同の創立時のメンバーであることを権力に高く売り込んでいる白井よ。その反革命ぶりはあまりにも惨めだ。自分の存在と行いのおぞましさ、罪深さをお前の全身をもって認識しなければならないのだ。
 「カクマルに降伏し癒着する白井朗を絶対に許さない! ゛謀略論″認めろ 懇願し破産したカクマル 」。
 第1章 「黙秘は意味がない」と大転向
 カクマルは『解放』一六一七号(五月一日付)に、“白井朗を捕捉し、自己批判と組織暴露をかちとり、継続討論を確認した”などという記事を掲載した。そこで明らかになっていることは、@カクマルにとって白井は平和的な話し合い・取引の対象であるということ、Aそれを前提に、白井がファシスト・カクマルに全面的に屈服し、革共同の指導部であった当時に知り得たという“組織情報”(その内容はまったくとんちんかんである!)なるものを提供したということである。

 カクマルは、階級闘争の革命的発展に一貫して敵対し、七五年三・一四本多書記長虐殺を始め白色テロルをもって革共同や闘う人民に襲いかかってきた反革命である。このファシスト・カクマルによって本多書記長を始め数多くの同志が虐殺され、傷つけられ、これとの命がけの戦闘が戦いとられてきた。そのようにして闘う人民と革共同は革命と階級的立場を守りぬいてきたのである。

 このカクマルとの闘いは現在、まさに闘う人民と革共同によるカクマル完全打倒の決定的な情勢を迎えている。

 白井は七〇〜八〇年代の内戦過程に革共同の指導部として存在していた。ところが、今回、白井はカクマルの口先だけの脅しと形ばかりの「自己批判要求」に対していとも簡単に屈し、すでに転向しているがゆえに守るべき節操もなく、まったく卑劣にも自己保身の一点で対応したのである。

 カクマルに屈服し、ヘラヘラと組織暴露的な「話し合い」に応じるということなど絶対に許せないことである。白井は階級移行し腐敗しきっている。白井の階級的罪状はいま一つ深まった。

 白井は、九八年の金沢での権力による拘束に対して、完黙の思想を投げ捨て、取り調べに全面的に応じた。しかも権力は、中核派破壊の先兵にするという目的で白井を釈放した。中核派と同じように権力と闘う立場をもち、権力にとって脅威になる人物であるならば、権力が短期で釈放することなどおよそ考えられないことである。

 この点について、白井自ら次のように語っている。「失火事件は事実なのですべて取り調べに応じて、一旦はその件は終了した。しかし翌二八日正午頃、ホテル宿泊が偽名であったため旅館業法違反で逮捕状を執行された。……漸(ようや)く五月一三日に略式起訴・罰金刑の判決をうけ罰金を支払って釈放された」「このかん私は熟考した末に……黙秘は意味がないと判断した」「一六日間の留置場生活ののち、漸く五月一三日に釈放された」(先ごろ出版した『中核派民主派宣言』と称する反革命的な出版物の八三〜八五n)

 何が「事実なのですべて取り調べに応じ」た、だ。何が「黙秘は意味がない」だ。完黙・非転向の闘いは単なる対権力での対応技術では断じてない。権力と闘う根本的思想問題なのだ。白井には権力と闘う立場や思想がなく、投獄の恐怖から逃れるために権力に屈服しべらべらしゃべったということではないか。権力に屈服し取り調べに応じたという一点で、白井は階級闘争を闘う立場を失ってしまっているのだ。革共同にいた者がこの原則を知らないとは絶対に言わせない。

 「略式起訴・罰金刑の判決」とは、完黙・非転向の立場を投げ捨て、自分のことや組織のことを供述した見返りとして、現場決着で釈放されたということである。わずか十六日間の勾留なのに、何が「漸く釈放された」だ。この言葉の中に白井の度しがたい脆弱(ぜいじゃく)ぶりが浮き出ているではないか。

 四半世紀を超える獄中闘争を闘う星野文昭同志を始めとする多くの同志や、革命軍とみなされたり、革共同の指導的同志というだけで無実なのに指名手配されたり、起訴された同志がいることを、白井が知らないとは言わせない。権力と闘う思想を堅持して完黙・非転向で闘う者には二十三日間の勾留がつけられ、さらにデッチあげで起訴されるのだ。それは完黙が権力にとって許せないことであり、階級的憎悪の対象だからだ。

 白井は長期投獄という恐怖にうち震え、そうならないために権力に対して「もう革共同はやめました」と弁解し、その証明のために組織情報を提供し、釈放を懇願したのだ。こういうのを権力に情報を売った(スパイ行為)と言うのであり、転向と言うのである。

 わずか十六日間の勾留で音を上げ、べらべらしゃべりまくったような人間には、階級闘争について語る資格などまったくない。「略式起訴・罰金刑・釈放」の文言に、白井の転向と投降がはっきりと刻印されているではないか。中核派のメンバーで、これまで旅館業法違反で略式起訴で釈放されて出てきた者など誰一人いない。

 階級的な感性、権力と闘おうという意志を持った者なら、逮捕されて供述し、それでも「スパイでも転向でもない」などと抗弁することは、考えられないことである。階級的良心を失っているとしか言いようがない。階級移行しきったとはいえ、白井の言動はあまりにも見苦しいと言うしかない。
 第2章 白井一人だけの脱落・逃亡
 前述の白井の反革命的出版物は、白井が過去に発行した二冊の小冊子(赤パンフ)をベースに加筆し、一層権力受けするように中核派をデマゴギッシュに描き上げ、しかも中核派破壊を売り物にするため「中核派」という言葉を表題として大きく写し出した絶対に許せない反革命的出版物である。

 白井は、自己崩壊しブルジョア的な生き方を求めて革共同から逃亡した自分の行為を、あたかも理論的問題や路線問題が原因であるかのように描き出し、革共同指導部が分裂しているかのごとくに書いている。白井一人の脱落・逃亡をあたかも分派闘争のように描き出すことで、権力にその役割を売り込んでいる。もちろん白井は、現在、革命運動に取り組んでいるわけでは毛頭ない。ただただ革共同とその運動を破壊するために悪あがきしているだけである。

 革命運動から身を遠ざけた者がその瞬間から陥る資本主義体制の擁護者への道を、白井も転げ落ちてしまった。革共同の指導部にいて得た情報をデマゴギッシュに売り物にする一層あくらつな売文屋=反革命スパイの役割を果たしているのが、現在の白井だ。

 そして、プロレタリア自己解放の立場を否定して、階級的解放と民族解放とを意図的に対立させ、帝国主義国のプロレタリアートと被抑圧民族人民の対立をあおっているのである。

 今日の白井は、在日朝鮮人・中国人の民族性を貫く闘いを破壊するために、日本国籍取得を繰り返し呼びかけるなど、日帝と同じ立場に立った許せない輩(やから)だ。民族を口にして、民族性の堅持と民族解放闘争に敵対している人物だ。

 白井は今や革命の対極に立って、レーニン主義に悪罵(あくば)を投げつけ、プロレタリア革命を否定し、プロレタリア独裁を否定している。アメリカ帝国主義の民主主義を至上の位置におしいただいて、資本主義の物質力の前に完全屈服し、ブルジョア思想に降参したことを告白し、そのことで権力から容認されている。

 白井は自ら階級闘争を担う気持ちなどひとつもないくせに、権力の意を体して革共同破壊の目的で二冊の小冊子(赤パンフ)を出した。カクマルがそれに飛びつき、白井別動隊となって自らパンフを増刷してばらまいた。そして、カクマル自身が、白井の名をかたったデマ小冊子(青パンフ)を大量に作り、白井の名で郵送したのであった。

 白井のこの行為が、まさに、カクマルに「白井政治局員を支持する会」なるデマビラやニセ『百万人署名運動ニュース』の発行などを可能とさせ、白井は大衆運動破壊の水先案内人となったのだ。

 昨九九年、米日帝による朝鮮・中国―アジア侵略戦争の歴史的切迫情勢の中で、革共同および闘う人民がガイドライン攻撃と必死に闘い、大衆運動の爆発のために全力を挙げている時に、日帝の侵略戦争政策と一切闘わない者が、革共同と大衆運動の破壊のためにだけ、躍起となったのだ。それがカクマルであり、白井なのである。

 自己崩壊の末に革共同から逃亡し、権力の懐に飛び込んだ白井が、今度はファシスト・カクマルに投降したことは最も腐敗した恥ずべき行為であり、革共同ならびに闘う人民にとって絶対に許せないことである。

 今回の事態は、白井がファシスト・カクマルと野合し、革共同や闘う人民に敵対する存在になりはてていることを誰にでも分かる形で明らかにした。この白井朗を絶対に許さない。同時に、白井との「合作」に埋没しているファシスト・カクマルを打倒しよう!
 第3章 デマで内部を欺くカクマル
 ところで、白井朗がファシスト・カクマルに簡単に屈服し、“組織情報”を提供したことに対し、カクマルもまったく腰が入っていない。その証拠に、『解放』紙面には、カクマルお得意の“自己批判書の写真”が載っていない。それは、今回の事態が階級移行した白井とファシスト・カクマルとのいちゃつきであり、“反革命に転落した白井とファシスト・カクマルとの取引・合作”でしかないからである。『解放』によれば、白井とカクマルは「全面的自白を前提とした論議の継続を確認した」というのである。

 このことは、白井が革共同のそれ自体まったくとんちんかんな“組織情報”を提供し、カクマルが白井の「対カクマル戦には、直接タッチしていないのでよくわからない」という対応を受け入れていることに示されている。お互いが利用し合う関係だということである。白井にとって、三・一四反革命がカクマルによる本多書記長に対する「虐殺のための虐殺」であったことなどなかったことなのだ。怒りもまったくない。カクマルとのおぞましい癒着である。

 「革共同憎し」の一点で、カクマルと白井は利害を一致させて、いちゃついているだけなのである。カクマルには、これまでにない危機に陥っている反革命的「謀略論」の修復のために白井との「合作」がなんとしても必要だったのである。『解放』には、白井の口から「革命軍はない」とか、「赤色テロルは謀略だ」とかの言辞が出てくることを、カクマルが期待している様子がありありと見える。しかし、カクマルの追及に対して、白井は「考えさえてくれ」と応じ認めなかったという! カクマルは、これまで繰り広げてきた荒唐無稽(こうとうむけい)の「中核派解体」願望を、白井の言葉をもって組織内部に信じこませたいと必死で白井に訴えたということである。

 カクマルが語ってきた中核派「万年分裂」論、「組織崩壊」論の願望は、何の根拠もないカクマルの捏造(ねつぞう)であり、今日までの唯物論的事実で完全に粉砕されている。カクマルは常に組織内部に向かってデマ情報操作(「中核派はもう崩壊する」「中核派の指導部は分裂している」など)を行って組織を持たせてきた。またぞろ言い出した「今世紀中の一掃」もまったく根拠のないシロモノである。かつての「勝利宣言」以下のものでしかない。そのために白井から決定的言辞を引き出そうとあがいたのである。

 われわれは、このカクマルの脆弱さを見抜き、危機ゆえに白色テロルに走るファシスト・カクマルの完全打倒に決起する決意である。そして階級移行した白井朗を絶対に許さない! 二〇〇〇年三大決戦に総決起し、六月衆院選決戦での長谷川氏当選をなんとしてもかちとろう!
 週刊『前進』(1961号4面1)「カクマルの手先に転落した白井朗の反革命策動粉砕を」。
 「三・一四」への怒り捨て全面投降
 反革命通信『解放』一六一七号の4〜5面に「ブクロ派脱落・スパイ分子白井朗を完全捕捉、自己批判かちとる」という政治的雑文が掲載されている。もとより、これはカクマルの反革命文書、政治的作文であり、デッチあげに満ち満ちた性格のものである。われわれはそうした性格をきちっとおさえたうえで、革命的観点をもって、そこに表れた問題の核心をつかみ取ることができる。われわれは、あらためて明らかになった白井朗の反革命的本質を全人民に徹底的に暴露し、白井朗を階級的に断罪し、粉砕しつくす闘いを断固として展開していくものである。
 第1章 カクマルへの抵抗もせずに命乞いの弁明
 『解放』の反革命的意図、作為に満ちた駄文からも、われわれはいくつかのまぎれもない事実を確認できる。その中でも、最も重要な事実は、白井朗がカクマルの捕捉(ほそく)行為に対して、何一つ原則的な抵抗をせず、カクマルの白色テロル態勢に屈服し、カクマルと長時間にわたって話し込み、反革共同的言辞をべらべらとしゃべったということである。

 このことはけっして小さなことではない。このことは白井朗が七一年十二・四反革命以来のカクマルの白色テロル戦争に対しても、さらには七五年三・一四反革命=本多延嘉書記長虐殺そのものに対しても、断固として生命をかけて闘うという革共同の当然の、しかし厳粛な立場、任務というものを百パーセント捨て去り、カクマルの白色テロルの前に完全に屈服し、革共同の、そして階級の大義を裏切ったことを決定的に確証するものである。

 何一つ抵抗しなかったということは、カクマルのファシスト的白色テロルの前に白井朗がただただ命乞いのために、反党的、党破壊的言辞をしゃべりまくったということである。白井朗は現代のナチス・カクマルの前に全面的に転向者として這(は)いつくばったということである。三・一四反革命への怒りのひとかけらでもあったら、゛平和的な話し合い”などが成立するわけがないのである。

 卑劣きわまる白井朗はたぶん後から、この『解放』の記事に゛抗議”するポーズを取るに違いない。しかし、白井がカクマルの白色テロルに怯(おび)えて全面的に屈服し、命乞いの弁明を繰り返したという事実を塗り隠すことは絶対にできない。ファシスト・カクマルに全面的に屈服し、投降した白井朗! ファシスト・カクマルへの怒りのすべてを投げ捨て、カクマルの前に這いつくばった白井朗! この事実を全階級・全人民の前に徹底的に暴露しなければならない。

 第2章 完黙の思想を投げ捨て権力にも完全屈服

 第二に間違いなく言えることは何か。白井朗は、国家権力に対する闘いでの完黙の思想を捨て去り、権力にもべらべらしゃべっている実績をすでに持っている。しかも最近の出版物では、白井朗は「(まだ逮捕ではない時点で)失火事件は事実なのですべて取り調べに応じた」「(逮捕状が執行されてから)すでに失火事件については取り調べに応じているため、黙秘は意味がないと判断した」と開き直っているのである。 このことは「権力にすでにわかっていることはしゃべっても構わない」という思想なのである。これこそ、国家権力への裏切り分子・投降分子・転向者のおきまりの言動である。重要なことは、権力にこのように投降し、通敵する人間がカクマルの白色テロルの前で完黙の闘いなどできるはずもないし、するはずもないということだ。

 この面からすれば、『解放』一六一七号の4〜5面の記事に出ていることは、多くはすでに白井朗のパンフや出版物(「反革共同宣言」の本)で彼が書きまくっていたことであり、白井朗の理論からすれば、「すでにカクマルにわかっていることについてはカクマルにしゃべっても構わない」ということになるということである。白井朗の反革命性や、命乞いのためだったら何でもする卑劣性、転向・腐敗分子的性格からして、白井朗がすでに公表されている文書に書いたことはカクマルにべらべらしゃべったと見て間違いない。

 このことは、白井朗が今や、ファシスト・カクマルに対する通敵分子となり果てたということを示す。さらにいえば、カクマルの反革命的な手先に転化したということである。白井朗の、「革共同はスターリン主義党である」などというデタラメな規定は、革共同を破壊するためだったら何をしても構わないという論理と結合している。そのためには、三・一四反革命への怒りも投げ捨て、先制的内戦戦略の第二段階はもちろん第一段階をも投げ捨て、カクマル=真正ファシストの規定を投げ捨てていくことと直結している。

 白井朗は、革共同を破壊するためだったら、〈かってにファシストでなくしてしまったカクマル〉に革共同のことについて、組織暴露することを平気でやるということである。白井朗は完全にカクマルに屈服し、投降し、転向し、カクマルの手先になり果てたということである。われわれはこのことの重みを、白井朗自身にトコトン味わわせることをきっぱりと宣言するものである。

 カクマルの白色テロルの前にどれだけの革命家が、活動家が、闘う大衆が傷つけられ、殺されてきたか。カクマルの反革命的ゲバルトと階級的裏切りがどれだけ労働者階級人民、労働運動、学生運動、市民運動の利益を損なってきたか。かつて、かりにも革共同の指導部の一員としてあった白井朗が、このようなカクマルに這いつくばり、べらべらと組織的暴露をして命乞いをするということは、断じて許されることではない。このような白井朗を許しておくことは、もはや革共同にはできないし、許されない。革共同の怒りは今や頂点に達している。
 第3章 革共同の破壊のための談合継続は超重大
 第三の事実は、『解放』が「論議の継続を確認した」としていることである。うそ八百の作文に満ちたこの長い駄文ではあるが、白井朗の持つ卑劣さ、命乞いのためなら何でもするという態度、カクマルの白色テロルの対象から自分は許してもらいたいということを狙っている破廉恥さからして、白井朗が「論議の継続」に応じたこと自体は事実と見て間違いない。このことは、われわれから見れば、さらに重大なことがらである。つまり、ファシスト・カクマルと反党腐敗分子=白井朗は革共同の破壊のために、繰り返し「会談」や論議を持っていくという関係に突入したということだ。この意味でも完全に白井朗はカクマルの手先と化したのである。
 第4章 白井を革共同から守ろうとするカクマル
 第四の事実は、カクマルがこの『解放』の長大「戦果報道」記事において、なんと白井朗の住居の住所・番地を伏せているということである。「戦果報道」としての必要条件を欠いているのだ。要するにカクマルは白井朗をわが革共同から守ろうとしているのだ。つまり、カクマルは白井朗を革共同破壊の道具として、手先として、利用しつくそうとしているのである。カクマルによる白井朗のアドレスの防衛というこの端的な事実こそ、逆に、白井朗がカクマルに対して取った屈服、投降、通敵、手先化という態度の何よりの証拠である。カクマルにとっては、反革共同のためにかけがえのない協力者=白井朗ということなのだ。白井朗の反党破壊分子としての階級的犯罪性はここに極まったというほかはない。革共同は、この階級的犯罪を断じて許さない。
 第5章 カクマル内部危機の激化を全面自己暴露
 第五の事実は、この長い駄文全体を見ても、今日のカクマルの中味のなさ、カクマルの内部危機の激化というものが透けて見えるということである。そもそも白井朗は、革共同の組織的原則的党内闘争の中で徹底的に糾弾、打倒され、共産主義者としての当然の組織的態度、自己批判をしきれず、組織からひたすら逃亡したという人物にすぎない。このため白井朗の知っていることなどごく限られたものでしかない。そのうえ、レーニン主義的党建設をスターリン主義だなどと言って排撃する白井朗をまともに相手にするものは誰もいない。カクマルはこんなことをある意味でわかっているので、白井朗の別働隊として動きまわって革共同を少しでも傷つけられればとあがいているのである。だが、この白井朗問題に小躍りして騒ぎまくっている九九年〜二〇〇〇年におけるカクマルの姿は、逆にこんなことにでもすがらなければ革共同に根本的に何一つ対応できないという、彼らの内面的危機性を自己暴露しているのである。

 革共同は、五月テーゼ下の対カクマル戦を強力に推進し、圧倒的にカクマルに打撃を強制してきている。JR総連の今日の危機とカクマルの大混乱はその何よりの証左である。革共同はさらに前進し、カクマルを階級全体の中で暴露し、彼らを包囲し、階級的に一掃、せん滅するために、二〇〇〇年代冒頭の闘いを展開していくであろう。
 「権力・カクマルの手先と化した白井朗の反革共同策動粉砕せよ 『民主派宣言』を怒りこめ弾劾する 中村堅」。
 第1章 カクマルの白色テロを恐れ無抵抗で屈服

 白井朗は、九三年三〜七月に革共同から脱落・逃亡を開始し、九八年四月に金沢における「失火事件」によって卑劣にも権力に投降し、屈服・転向を深め、その後、権力の手先と化して悪質な反革共同策動を行ってきた。この反党分子が、今年に入って反革命カクマルに捕捉(ほそく)された。白井は、ファシスト・カクマルの白色テロルに恐怖し、まったくなんの抵抗をすることもなく、カクマルの前にはいつくばったのだ。七五年三・一四反革命=本多延嘉書記長虐殺への階級的怒りを投げ捨てて屈服し、日帝権力だけでなく反革命カクマルの革共同破壊工作の手先に転落するに至ったのだ。反党・転向分子白井は、本多延嘉同志の全生涯、全存在を公然と裏切ったのであり、ここに白井の反革命化が決定的な地点にまで進んだのである。

 日帝政治危機の激化、森・石原の超反動的な突出に対して、労働者人民の先頭に立って闘っている革共同に敵対する白井の昨年来のこ息な革共同破壊策動は、権力の庇護(ひご)やファシスト・カクマルとの有無あいつうずる関係のもとに行われてきたが、そのことごとくが、この間のわれわれの革命的暴露と闘いによって全労働者人民の前で粉砕されてきた。

 その白井が今年四月に、『中核派 民主派宣言−−新左翼運動の再生』(以下『民主派宣言』と略)なる反革命本を出版し、革共同への許すことのできない敵対をさらに一歩進めた。すでに白井は、昨年七月に、二つの反革共同パンフ(赤パンフ)と同時に、『二〇世紀の民族と革命』(以下『二〇世紀』本と略)を出版している。

 われわれは、赤パンフはもとより、この『二〇世紀』本が、ただただ革共同を破壊しようという反革命的意図から書かれたものであることを暴露し、「白井朗は、今や反スターリン主義・革命的共産主義を捨て、革共同を捨て、革共同破壊を目的として活動し、入管闘争に真っ向から敵対する者、反革命に転落した」(西山信秀論文、『前進』一九四四号・二月十四日付)と断罪した。『二〇世紀』本で白井は、民族とか「七・七」とか口先で言いながら、在日朝鮮人民に日本国籍を取得することを要求するなどという思想、つまり法務省・坂中英徳の帰化政策と同じ思想の持ち主であることを自己暴露したのである。白井は、こうした階級的断罪を受けたことに打撃を受けながらも、恥知らずにも開き直り、今度はファシスト・カクマルに協力した革共同破壊攻撃にもう一歩踏み込んできたのである。

 第2章 「自己批判書」を否定して通敵行為に走る

 われわれが脱落・反党分子の白井を、反革命転向者と規定し、怒りに燃えて階級的に断罪するのはなぜか。どのような白井の言動に根拠をおいているのか。

 第一に、白井が自ら書き記した自己批判書(九三年二月)を討議する場から逃亡し、再三の呼びかけにも応じず、完全に組織的に脱落したばかりか、その自己批判書を「妥協」「偽装転向」と後になって言い出したことである。つまり白井は、われわれから見てなお決定的に不十分であっても、自分が到達した自己批判の立場に立ちきるのではなく、それに百八十度反する立場にはっきりと転換したということである。革命家、共産主義者が組織的討議=実践の全過程および自分自身の自己批判書を後になって全否定することほど、あからさまな階級的転向はないのだ。

 第二に、白井が、九八年四月の金沢での「失火事件」によって日帝権力に投降し、卑劣にも屈服・転向したこと、そしてこれをも機に権力の革共同破壊攻撃の手先となったこと、こうして白井は階級的な移行を遂げたということである。

 第三に、白井が権力の手先化を自ら実証する行為として行った昨年七月の『二〇世紀』本の出版にあたっての通敵行為の予告がある。この時、なんと白井は「私の著作の刊行に妨害が加えられるならば」「(清水議長の)健康と住居の安全にたいして、パンフ(赤パンフ)の暴露以上のはるかに高いレベルの暴露をおこなう」「(革共同の対カクマル戦での指名手配攻撃との闘いの)責任者の名前の暴露をためらうことなくおこなう」という許しがたい書簡を前進社に送りつけてきたのである。つまり、反革共同の出版物を出すという目的のためには、党の秘密をばらす、権力に革共同を売り渡す、ということを公然と宣言したということだ。

 これは、もはや党内闘争とか党派闘争とかという次元をはるかに超えた反階級的行動である。自覚的に権力の側に立って、つまり階級移行して、革命運動を破壊する手先として行動するということ、それが白井の行動原理となったことを誤解の余地のない言葉で自ら明らかにしたのである。

 以上の第一、第二、第三の点は、白井がもはや共産主義者どころか左翼でも何でもなく、また体制に対して、日帝権力に対して闘う活動家ですらなく、完全に権力の側に立場を移行させた人物であること、それを白井が自認していることを決定的に示している。白井の『二〇世紀』本は、このような反階級的立場に立った革共同破壊活動として書かれ、日帝権力への通敵行為を条件として、初めて実現したものなのである。

 その上で『民主派宣言』は、その反革命を一歩進め、「革共同・中核派はスターリン主義の党となった」「革共同の変革的再生を」と宣言し、「中核派の万年危機論・万年戦争論」なるものへの非難を行っている。これは、帝国主義の危機−帝国主義の侵略戦争・帝国主義戦争の切迫情勢−革命党の任務、という革共同五月テーゼに真っ向から敵対し、「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」という戦略的路線の解体を要求する、『二〇世紀』本にも増して許しがたい反革命出版物である。

 第3章 「黙秘は意味がない」と権力への全面投降

 この『民主派宣言』の最大の反革命的核心は、九八年の「失火事件」についての弁明にある。そこで白井は、われわれが、「山村(白井)の権力への屈服とその先兵への転落が……金沢市における逮捕と全面屈服・無罪放免を結節環にしていることは明白である」(『共産主義者』一二三号)と国家権力への白井の全面屈服を弾劾・批判したのに対し、「私がスパイ・転向者であるという(革共同の)デッチアゲ・デマゴギー」(八三ページ)と書いて、自らの権力に対する恥ずべき屈服を、必死になって正当化し、ごまかそうとしている。ところが、この弁解そのものが、白井の警察権力の取り調べへの屈服、転向の事実を、本人の口から生々しく告白するものになっているばかりか、さらにこれで「弁解」したつもりでいるほど、対権力の意識が解体していること、腐敗が深々と進行していることが、同時に暴露されてしまったのである。

 「私は一九九八年四月二七日午前零時半頃、当時宿泊していた金沢市のホテルで失火事件を起こした。著作の原稿執筆で自分が思っていたよりもはるかに疲労し、不注意で失敗を犯した。このため午前二時すぎ頃警察に連行(まだ逮捕ではない)された。失火事件は事実なのですべて取り調べに応じて、一旦その件は終了した。しかし翌二八日正午頃、ホテル宿泊が偽名であったため旅館業法違反で逮捕状を執行された。そして即日検察庁に送致され、勾留の法的手続きがとられた。勾留は執拗にもう一度、二回めの限度ギリギリ一杯までおこなわれ、漸く五月一三日に略式起訴・罰金刑の判決をうけ罰金を支払って釈放された。このかん私は熟考した末に、すでに失火事件についてはすべて取り調べに応じているために、黙秘は意味がないと判断した。なぜなら失火事件についてはすでに争うべきものは何もないからである。釈放をかちとり、原稿を完成することが私の階級的任務であると判断したからである」(八三〜八四ページ)

 一体、これが、「政治局員」「一九六九年、非合法生活に入る」(『民主派宣言』著者略歴より)と自ら言う人物が、権力の弾圧について書き記した文章だろうか。弾圧経験者でなくても、権力との闘いを真剣に考える人ならば、とても読むにたえない文書である。この文章には、階級敵であり、打倒すべき国家権力との対峙における命のかかった緊張感がまったくない。

 (1)まず「失火事件」とは何か。これ自体が問題だ。白井は、「不注意で失敗を犯した」などとこともなげに言っているが、そんなことですむ問題か。非合法・非公然の革命家であるならば、自分の失策で権力の弾圧を招き権力の手に落ちることは、革命運動全体に対する大打撃であり、非合法・非公然体制を支えてきた党と関係支持者に対する裏切りというべき事柄である。自らの非合法・非公然活動の大敗北として、権力との攻防の関係において深刻に自己批判的に掘り下げ、原因を徹底的に究明することが死活のかかった課題である。

 だからこそ、われわれ革共同は、日帝権力との死闘のただ中で、数多くの犠牲を払いながら、勝利と敗北を真剣に総括し、党の全力をあげ、支持者の血のにじむような苦闘、支えによって、基本的に党の骨格をなす非合法・非公然体制を数十年にわたって守り抜き、日帝権力と反革命カクマルに勝利してきたのではなかったのか。

 自分の大敗北を、何の痛みもなく、自己批判の立場もなく、恥知らずに「経過報告」のように書いていることの一点をとっても、白井の対権力の闘いにおける思想的解体、組織的無責任性、恥知らずな心情は恐るべきものがある。失火事件の事実が示すものは、逮捕以前にすでに白井の対権力姿勢が完全に崩壊していた、ということである。

 ところが白井は、恥知らずにも本書の別の個所で、「私は一九六九年秋……破防法弾圧を受けて非合法生活にはいって以来約二六年間、アジト防衛に失敗したことは一度たりともなかった。公安警察はもちろんカクマルの反革命的な攻撃にたいしても、自分自身を守りぬくことに二六年間成功しつづけた」(二八ページ)などと言っている。だがこれがまったくのウソであり、見栄をはった強がりであることは、以下の白井自己批判書そのものによって明らかである。

 「私のアジトの撤退という私自身の防衛上の失敗」「このときに撤退のため莫大(ばくだい)な財政と労力を本社指導部が支出して、私の非・非生活を支えて下さったことを、あまりにも遅くなったが、ここではじめて感謝の意を表すものです」(『共産主義者』一二三号)。
 白井は、革共同から逃亡するや、それまでは党の組織的力でかろうじて支えられてきた非合法・非公然の生活防衛の姿勢を自ら解体させていったのである。だから「失火事件」そのものが、白井にとっていつ起こっても不思議ではない事態だったのだ。

 白井にとって、そもそも「非・非生活」とは何であったのか、そしてとりわけ革共同から逃亡した以後の「非合法生活」は何だったのか。実は、白井自身の反革命的変質によって、「非合法生活」は革共同から逃げ回る以外に、対権力的には何ら必然性のないものになっていた、ということである。九三年に革共同から逃亡して五年、白井の思想的・人間的崩壊はここまできていたのだ。

 (2)次に、「失火事件は事実なのですべて取り調べに応じて、一旦その件は終了した」と言い、そのあとで「熟考した末に、すでに失火事件についてはすべて取り調べに応じているために、黙秘は意味がないと判断した」などと説明している。ここには、二重三重のウソとペテンがある。

 まず、「失火事件は……取り調べに応じた」ということは、初めから権力にべらべらと「事実関係」をしゃべったということだ。それは、自分が白井朗であることから始まり、人定事項と事件の事実関係をすべてしゃべったということである。そして「革共同を辞めた」と公言し、露骨に権力に許しを乞うたのである。これは「黙秘」の思想と闘いの恥ずべき放棄である。

 黙秘とは、対権力の姿勢、闘いとして、一切取り調べに応じず、口をきかないということである。人定事項などあれこれの項目についてはしゃべったが、一定の項目については「黙秘」した、などということはなんら黙秘ではない。だからわれわれは、単に「黙秘」というのではなく、完全黙秘つまり「完黙」として原則化しているのだ。これは革命運動のイロハとして、弾圧から組織と運動と仲間を守り、自分自身を守るための大原則である。それを公然部門であれ、非公然・非合法部門であれ、党内外の多くの仲間たち、労働者人民大衆が、日帝権力との日常的な闘いの中で命がけで守ってきたのである。まさに、こうした闘いによって現在の革共同は存在し、闘い続けることができているのではないのか。

 白井が、「失火事件は事実なのですべて取り調べに応じた」ということは、権力と闘う意志をまったく持たないということを権力に意思表示し、革共同を辞めた人間だから見逃してくれと哀願したということにほかならない。白井は、敵権力の手に落ちるやいなや、「熟考」することもなく、待ってましたとばかり、転向の決定的シグナルを敵に送ったのである。

 (3)さらに問題は、白井がすでに「すべて取り調べに応じた」後の時点で、「熟考した末」「黙秘は意味がないと判断した」ということの意味である。

 白井は、一体何を「熟考した」のか。これは、次の文章が物語っている。すなわち、「釈放をかちとり、原稿を完成することが私の階級的任務であると判断したからである」と。つまり「黙秘は意味がないと判断した」ということが「釈放」の条件になったということである。そこには、黙秘=完全黙秘の思想と実践を原理=原則的に否定しているという大問題があるのだ。これはもう左翼とも、反体制ともまったく無縁な、転向者の思想である。

 「革共同の政治局員」として二十六年間非合法・非公然生活を送ってきた白井が、このように権力に完全に屈服したことによって初めて、「略式起訴・罰金刑」で釈放され、反革共同文書の作成という「階級的任務」の続行を保障されることになったのである。こうして、白井と権力の間に、一定の関係が形成され、白井の権力の手先化の第一歩が記されたのである。これは権力への投降、屈服・転向以外の何ものでもない。

 第4章 三・一四反革命への怒り喪失した白井

 白井は日帝権力への卑劣な屈服、転向と手先化の中で、革共同憎しの一念にこり固まり、革共同を傷つけ、革共同を解体させるためだったら何でもやる、だれとでも手を結ぶ、という唯一の動機に突き動かされて、反スターリン主義・革命的共産主義運動に根底的に敵対し、その結果おそるべき思想的解体、反革命的変質・腐敗、思想的原点の崩壊を遂げている。『民主派宣言』では、こうした白井の階級移行が、左翼的アリバイの仮象さえ自ら一切放棄し、もはや理論の痕跡(こんせき)さえとどめないほどの低水準な姿で自己暴露されている。

 第一に、対カクマル戦への敵対と否定である。白井は、「内ゲバがあまりにもながく続きすぎて……」「カクマルとの戦争を二〇年にもわたってつづけなければならない必然性があったのか」と、「内ゲバ」などという言い方で、われわれが膨大な血を流して闘い、勝利してきた現代のファシスト・カクマルとの内戦の階級的性格を否定・解体している。破廉恥にも「ゲバを嫌っていた本多書記長」などという歴史を偽造するデマをもって白井自身の臆病さ、卑劣さとすりかえ、三・一四反革命に対する階級的怒りを心の中から一掃し、三・一四復讐戦を放棄しているのである。
 白井は「たしかに復讐戦は必要であった。しかしそれを軍事主義的に徹底する方法ではなく……政治宣伝と大衆闘争に力をいれることでカクマルを凌駕(りょうが)し究極的な勝利を獲得する方法を追求するべきであった」などと言っている(『民主派宣言』七三ページ)。

 とんでもない言い草である。この一語で白井は階級的断罪の対象である。先制的内戦戦略の第一段階では政治宣伝も大衆闘争も党建設もすべて軍事の観点をもって、内戦性を貫いて闘ったのであり、それ以外のあり方はなかった。第二段階にもこの関係、この内戦的性格は貫かれたのであり、対カクマル戦下の対権力戦争という性格もそこには求められたのである。白井の言辞は、カクマルの軍事的勝利を認めようというイデオロギーなのである。

 白井は、内戦の第一段階だけでなく、第二段階にも敵対し、「国家権力に軍事的に敗北した事実を正面から認めて、先制的内戦戦略の第二段階(PU)を否定する総括がいま求められている」などと言い、一九七一年以来、内戦の第一〜第二段階を闘いぬき、五月テーゼのもと現在に至る革共同の全歴史への敵対を表明しているのである。

 革命党の本格的登場に対する敵階級の内乱・内戦的攻撃としてのK=K連合政策を、われわれは二重対峙・対カクマル戦争として迎え撃った。「だからこそ革共同は、この戦争的プロセスのなかで長期持久的発展の観点にたちきることで、七〇年代から八〇年代の三里塚・国鉄(労働運動)・大学・沖縄・天皇をめぐる戦闘的大衆闘争を根幹において防衛し発展させることができたのだ」(清水選集第三巻序文八四ページ)。

 この三十年間における日帝の危機の深刻化、階級闘争の屈折に富んだ動向、その中での革命党の任務の重大性、というレーニン主義的なスタンスを白井は根底から捨て去っているのである。一体、この全過程で、白井は自分がどこにいて、何をしていたと言うのか!

 第二に、白井は、「ソ連崩壊をたんに従来の一国社会主義論の視点からのみではなく」「恐怖政治をソ連スターリン主義の体制の本質として捉える」「何と三〇年以上も前の一九六六年革共同第三回大会の一国社会主義論の『正しさ』を自己顕示的に守りぬこうとする」などと言っている。これはスターリン主義打倒を現代革命の綱領的課題から引き下ろし、スターリン主義にかんする革共同の綱領的規定−−「ロシア革命で開始された世界革命への歴史的過渡期の一国社会主義論による歪曲、共産主義運動の反動的歪曲」という核心的な規定を解体し、スターリン主義を、たかだか「反民主主義的体制」ぐらいのものに無害化しようとしているのである。

 だから、白井が゛革共同・中核派は、日本共産党と同じスターリン主義の党”゛戦術左翼として、ハードスターリン主義”となったから「革共同・中核派の変革的再生」のためにこの本を書いた、などと仰々しくわめいても、その内実なるものは、たかだか「民主派宣言」なるものにすぎないのである。

 第三に、レーニン主義に対する敵対である。白井は、「(中核派は)レーニン主義とスターリン主義の連続性を無視しつづけた」「レーニン主義組織論・国家論の全面的、徹底的な再検討」「レーニン国家論自体の弱点をソ連崩壊後のこんにち、われわれは冷静に究明してマルクス国家論を復権する必要がある」「独裁による社会主義の建設ではなく、プロレタリア民主主義による社会主義社会の建設」、あるいは「ボリシェビキの権力意欲(人間はすぐに威張りたがる動物である)の自己満足」などと言い、日本共産党=不破の文章と見紛うばかりの反レーニン主義をわめきちらしている。

 では、レーニン主義組織論に反対する白井の「組織論」とはどのようなものか。「白井自己批判書」について白井は、「私は一度妥協的に自己批判したが、それは誤りであった」「妥協して党組織内に残ろうとして、屈服した」と開き直っている。なんとこれが、転向分子白井の「組織論」なのである! 自分自身が書き記した自己批判書について、それを「妥協」とか「偽装転向」と弁解し、しかもそれすら破棄してしまうのが白井である。そこにはプロレタリアート自己解放のための闘い、そのための革命的自己変革、組織活動をとおした主体変革の闘いというものがまったく欠落し、否定されているのである。こうして見てくると、労働者階級の自己解放論に立つレーニン組織論に白井が反対するのは、むしろ当然のことであろう。

 第四に、白井は、「人権の確立だけが歴史の進歩である」「マルクス主義は個人の解放の思想」などと言って、プロレタリアートの階級的自己解放=人間の普遍的解放というマルクス主義そのものの階級性をブルジョア的に解体してしまっているということである。

 ■結語

 われわれは、このような白井の反革命的言動をもはや許してはおけない。われわれの怒りは頂点に達している。二〇〇〇年決戦の巨大な高揚の中で、権力・カクマルの手先として革共同破壊の目的だけで生きている反党転向分子・反革命分子=白井朗の犯罪的所業を全労働者人民の前に徹底的に暴露し、反革命的策動を粉砕し尽くさなければならない。わが革共同はこのことをきっぱりと宣言する。
 週刊『前進』(1968号5面1)「警察とカクマルに全面投降した白井朗を徹底粉砕せよ 革共同破壊の反革命策動許すな 宇津井剛 」。
 白井朗は完全に反革命の立場に移行してしまった。腐敗を極め、これまでの革共同の闘いと歴史を否定しているばかりか、それを汚し破壊しようとしている。白井は革共同から脱落・逃亡した途端、反帝・反スターリン主義世界革命戦略やその理論を投げ捨て、九八年の逮捕と自供とその後の過程をもって完全に階級移行したのである。白井の主張なるものが、プロレタリア世界革命の実践、その一環としてのファシスト・カクマルとの革命的内戦に対して終始敵対視し、その意義を否定していることは驚くばかりである。革共同は階級的怒りを込めて、白井の革共同破壊策動を徹底的に粉砕することを重ねて宣言する。

 権力への屈服居直り「正当化」する卑劣漢

 白井朗は反革命の立場に完全に転落した。そのことを示す決定的事実の第一は、白井は権力への投降分子であり、もはやどのような意味でも階級闘争を語る資格などない、恥多き反階級的な卑劣漢に成り下がったということである。この点を確認することは、階級闘争を担う者にとって決しておろそかにできない原則問題であり、重要なことである。白井は九三年に革共同から脱落・逃亡した後、九八年に金沢のホテルで自滅的失火を起こして権力に逮捕された。都合のいい時には、自らを「革共同政治局員」「最古参の最高幹部」などと名乗っていながら、それを名乗ったら革共同の指導部と見なされて弾圧を受けるとみるや、白井は「自分は革共同からは逃亡しました。革共同の一員ではありません」と言い訳したような人物なのである。

 白井は「失火事件は事実なのですべて取り調べに応じて、一旦はその件は終了した」(『中核派民主化宣言』八三n)と書いている。一体いつから革共同が、事実か事実でないかで完全黙秘をしたり取り調べに応じたりと使い分ける党になったというのか。そして「ホテル宿泊が偽名であったため旅館業法違反で逮捕状を執行された」件については、「すでに失火事件についてはすべて取り調べに応じているために、黙秘は意味がないと判断した」(同八四n)と居直っているのである。要するに白井は初めから敵権力と完全黙秘で闘うという思想性や立場をもっていないのである。敵に捕らわれたときに自ら名前を明かさないことや、事件の大小にかかわらず完全黙秘をもって対決するのは革共同の同盟員のイロハである。白井は、権力の弾圧を回避したいという一点で、自分の意志で権力の取り調べに積極的に応じたのだ。こういうのを権力への屈服というのである。

 白井は釈放してもらうために、べらべらしゃべる無節操な輩であり、帝国主義者への屈服を恥じない人物だったからこそ、権力は略式起訴・罰金刑の判決ですませたのである。これまでこの種の事件で逮捕されて完黙して闘った革共同の同志で「罰金刑で釈放」というのは聞いたことがない。「釈放をかちとり、原稿を完成することが私の階級的任務であると判断した」(同八四n)というが、権力と闘うことを第一の階級的任務としないような立場とはどういう立場なのか。権力と闘えない思想で書かれている白井の原稿とは一体何だというのか。それこそ、闘う運動と革共同を日帝権力と一体となって破壊する目的の原稿なのだ。

 3・14復讐戦を否定し本多書記長を裏切る

 第二は、白井がカクマルとの革命的内戦を完全に否定しており、三・一四復讐戦を否定し、先制的内戦戦略の第一段階(フェーズT)、第二段階(フェーズU)の闘いを否定しているということである。白井はなんと、ファシスト・カクマルの「訪問」に対してまったく闘わなかったばかりか、反革命に命乞いをし、投降・屈服した上で、果ては「談合」までしたのである。白井にはカクマルに対する怒りなどかけらもない。カクマルが反革命であるという階級的規定とも無縁となった。本多延嘉書記長は命をかけて反革命カクマルと闘い、無念にも虐殺された。その対極に、カクマルと取り引きして、生きている白井朗が存在している。反革命に命乞いし投降した上で、革共同破壊のために、かつて革共同指導部であったことを材料にカクマルと反革命的に談合したのだ。そこでデタラメなことをしゃべりまくり、闘う人間であれば絶対にしないことをして平然としているのだ。白井は身も心もカクマルに売り渡した投降分子である。この一点だけでも、白井は階級闘争から追放されなければならない。また白井はカクマルとの革命的内戦の意義を完全に否定している。

 革共同は本多書記長を先頭に、破防法弾圧を打ち破って七〇年決戦を党の総力を挙げて闘った。その決戦の真っただ中で、カクマルは「権力と闘ったから」という理由で七一年十二・四反革命を凶行した。革共同はこの反革命との闘いを、日本階級闘争の発展が生み出した、独特の形をとった不可避な内戦として受け止め、二重対峙・対カクマル戦として闘ってきた。今や白井はこの闘いを全否定し、カクマルの本多書記長への虐殺に対する三・一四復讐戦に反対している。

 「たしかに復讐戦は必要であった。しかしそれを軍事主義的に徹底する方法ではなく、…政治宣伝と大衆闘争に力をいれることでカクマルを凌駕し究極的な勝利を獲得する方法を追求するべきであった」(同七三n)白井はカクマルとの内戦が軍事を抜きに戦えたかのように描き出している。三・一四復讐戦の爆発が革共同を守り抜いたのであり、二重対峙・対カクマル戦の勝利を切り開いたのである。

 さらに許せないことに、三・一四虐殺は本多書記長にも誤りがあったと、カクマルへの怒り、自己の主体的な責任を抜きに言及している。「(本多書記長が)自分自身の戦争の方法を十分練り上げられないままに……彼の本来の落ち着いた判断力を低下させた結果があのような悲劇的な事態をうみだしたと考えている」(同七二n)。絶対に聞き逃せない言葉だ。

 その上許せないことに、白井は先制的内戦戦略のフェーズTの闘いを全面的に否定したうえで、フェーズUの闘いを敗北主義的に描き上げることに必死になっている。「この誤りの決定的な深化はいわゆる先制的内戦戦略の第二段階(PU)の決定であった。……その誤りの頂点は八六年サミット粉砕の軍事主義であった」「国家権力に軍事的に敗北した事実を正面から認めて、先制的内戦戦略の第二段階(PU)を否定する総括がいま求められている」(同七四n)と言う。

 反革命との闘いは先制的内戦戦略のフェーズT、フェーズUの戦争方式をとって初めて可能だったのだ。ファシスト・カクマルとの内戦を革命戦略的に位置づけ、革共同が民間反革命と積極的に闘って勝利してきたことが、今日の革共同と闘う人民の隊列を防衛してきたのだ。革共同は、ファシストと最もよく闘ったし、今も闘っていることで人民の尊敬をかちとっているのだ。実際この闘いの勝利的貫徹が今日のファシスト・カクマルの弱体化をもたらし、人民の闘いを活性化させているのである。

 特に、フェーズUの闘いは、ファシストとの死闘が続いている条件下にあって、いまだ革共同がそれに基本的に制約されている中で、日帝の反動政策への踏み切りと革共同への絶滅攻撃に必死で対応した闘いであった。このフェーズUの闘いはゲリラ・パルチザン戦という形をとって、戦後政治の総決算攻撃と天皇制攻撃による総転向攻撃に反撃し、三里塚闘争、国鉄闘争などを守ることで、戦闘的大衆闘争を切り開いていったのだ。九〇年決戦の勝利に上りつめる過程は、現在の五月テーゼ下の戦闘的大衆闘争を準備する闘いでもあった。今日の戦闘的大衆闘争はフェーズUの闘いなくして語れないのだ。

 「国家権力への軍事的敗北」などと歴史を偽造する白井は、今日の革共同と戦闘的大衆闘争をつくり出してきた土台的闘いそのものを否定している。それこそ自ら権力に屈服し、カクマルに命乞いして革共同と戦闘的大衆闘争を破壊しようとしている白井の転向した姿を象徴的に示している。

 共産主義者としての自己崩壊が最大根拠

 第三は、白井があたかも「分派闘争」「党内闘争」であるかのように装っているが、とんでもないということである。白井は自己の破産を理論的粉飾をもってごまかそうとしてきたが、理論的にも完全に破産した結果、脱落・逃亡したのである。日々、日帝と闘っている革共同に対する憎悪、その破壊願望をむきだしにしているだけである。

 @まず、白井は「党が理論問題を封殺した」というような言い回しをし、あれこれ何か理論問題で革共同と白井が対立し、白井がそれを契機として理論闘争をする立場で党から脱落したかのように押し出そうとしているが、事実はまったく違う。白井は組織原則にのっとった問題解決の闘いを何ひとつしなかった。責任を取ることを放棄したあり方が批判され、それに耐えられなくなって逃亡したのである。

 白井の問題は、九〇年決戦の真っただ中に、政治局としての政治指導・組織指導の放棄、現実的な運動と戦争の責任を一切取らない問題としてあった。自分の意見を組織原則にのっとって討論することを放棄したことに根拠がある。問われたのは、白井自身が革共同の一員(指導部)として、反帝・反スターリン主義世界革命の綱領的立脚点に立ち、組織原則にのっとって闘うかどうかだった。

 そのことを、白井自身が自己批判で明らかにしていた。「私は『共産主義者』の責任者であるはずなのにその指導責任を果たしていないで……私一人だけが、党の理論の向上のために努力しているかのようなポーズを取っているが、『恐ろしくクダラナイ』態度である、という批判を全面的にうけいれなければならない」「私は全同志の批判によって、会議においてはそれを認め、自己批判を約束しながら、アジトに帰ると別のことをやり、まったく別の主旨の文書や手紙を書く、というおよそボルシェビキ的ではない作風を八カ月も続けたことについてふかく反省せねばならぬと思う」(『共産主義者』一二三号一四三n)と白井は自己批判していた。

 A次に、政治局声明で明らかにしたように、白井の脱落・逃亡は、共産主義者としての内的な自己崩壊が最大の根拠だった。それが白井の組織指導の問題に象徴的にあらわれたのである。白井は革共同の指導部でいながら、「個人的」特権に固執し、これ以上ないほどの官僚主義であった。白井の官僚主義的体質と革共同は我慢強く闘ってきた。白井の指導は、同志の実践上の苦闘を共有したうえでの指導や批判となっておらず、非だけを一方的に高みに立ってあげつらうものだった。指導−被指導の関係の中でメンバーが変革されると同時に指導部自らも変革されるような生きた組織的同志的関係を、白井はつくろうとしなかった。それは白井の無責任さと同志への責任の転嫁の手法として現れた。 「他人を批判し口汚くののしりはするが、けっしてみずからに引きつけて考えない(=自己批判的にはとらえようとしない)山村の組織的あり方への厳しい批判の爆発だったのだ。実践家を軽蔑(けいべつ)し、厳しい実践の真っただ中で死活をかけて責任をとる者への同志的信頼をまったく理解できず、自己の失策を他人のせいに」(同一二〇n)してきたのが白井だったのだ。

 白井は革共同は官僚主義だとかスターリン主義だとか言い出しているが、まったくマンガ的な「黒を白と言いくるめる」言い草でしかない。まさに白井の組織指導や組織的あり方こそが問題とされ、その無責任さ、官僚的で非同志的・非組織的あり方こそが問題となったのである。指導部としての共産主義的変革が真正面から突き出され課題となった時に、白井は一度はその変革への道を歩もうとしながら(九三年自己批判)、それを貫けず、革命を目指すという立場も放棄し、自己の変革から逃げ出してしまったのだ。これが白井の脱落・逃亡の核心的な問題である。だから白井はそこを一言も語れない。

 白井は、「内戦の激烈化と非合法・非公然活動と生活の困難さの中で、革命家としての自己喪失(自信喪失)のゆえに理論家であることに我執したと率直に認めるべきだったのだ。それを素直に認めず『創成以来の唯一の指導部』だから自分はそれだけで最高の指導部だというこだわりを『理論家』であることですりかえようとした」のだ。(同一二〇n)。

 綱領的立場を喪失しマルクス主義を放棄

 Bさらに、そもそも白井は思想的理論的に、すでにマルクス主義を放棄し、プロレタリア独裁とレーニン組織論を否定して、ブルジョア民主主義者に転落していた。ソ連スターリン主義崩壊の過程で、プロレタリア世界革命に絶望し、共産主義を投げ捨てた転向者なのである。白井はソ連スターリン主義の崩壊を最後まで確信できなかった。白井は「ゴルバチョフ=最後のスターリニスト」「エリツィン=転向したスターリニスト」という規定に反対し、スターリン主義は必ず歴史的破産をとげるという綱領的立場に反対した。しかもプロレタリア革命に絶望していた白井は、民族革命こそが世界革命をもたらす力であるとした。労働者階級自己解放の思想によって、プロレタリア世界革命の実現をめざすという革命的共産主義者の綱領的立場を投げ捨てた。それは『共産党宣言』の全否定として進行した。

 「私の民族論文に対する清水同志の『民族問題メモ』における批判は、最大の問題点たる『宣言』のプロレタリア国際主義を帝国主義段階においてこそガッチリと確認し、民族問題、民族対立を止揚する普遍的階級としての、世界史的存在としてのプロレタリアートの歴史的に偉大な役割の確認、これをなしとげていないという論点、これが第一にして最大の問題である」(同一三七n)「民族問題を歴史的に解決しうる普遍的な階級としてのプロレタリアートの世界史における歴史的な登場の画期的・根源的意義について、『共産党宣言』がきちんと説きあかしているにもかかわらず、それを引用して論じながら、肯定的・積極的にマルクスの主張を押し出すことをせず」(同一三六n)、プロレタリアも祖国をもつという強調をもって、『共産党宣言』の真髄そのものを否定していったのである。

 白井はマルクスやレーニンの労働者階級自己解放の実践上の問題意識を共有する立場に立って、民族問題についての理論的深化と実践の豊富化=強化をかちとっていくという課題から逃げ出し、実践的にも思想的にもマルクス主義、レーニン主義を投げ捨てた。

 白井は“帝国主義国プロレタリアは腐敗していて、今日の革命主体として論じることはできない。今日では民族解放闘争が世界革命の主体となるべきだ”と強調したいのである。プロレタリア階級闘争と民族解放闘争を対立的に論じるのが白井の手法である。プロレタリア世界革命の立場が吹き飛んでいるのである。それは労働者階級を主体にした階級の自己解放を軸にしてあらゆる抑圧・差別からの解放をかちとっていく綱領的立場に敵対するものである。世界革命は階級によってか、民族によってかと設定し、民族の第一義性を主張するのである。それを突き詰めていって、結局、マルクスは誤っていた、またスターリン主義はレーニンが間違っていたから発生した、として論じていくことになる。

 それは、白井朗には「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱へ」のプロレタリア世界革命(アジア革命)の路線と反帝・反スタ世界革命という綱領的立場がまったくないことに起因している。国家権力やファシスト反革命と命をかけて闘うという思想も綱領的立場もまったくない白井が、革共同への非難・中傷攻撃を全力で行っているのだ。白井の今の目的は革共同を破壊することだけである。革共同を破壊するのに役立つという限りで権力に容認され、ファシストと取引している反階級的存在だ。そのことに本人も積極的意味を見いだしている反革命的人物である。二〇〇〇年決戦の重要な柱のひとつとして白井反革命を粉砕しよう。
 週刊『前進』(1975号6面4)「獄中戦士裏切る白井 元全学連委員長 鎌田雅志」。
 指名手配を粉砕した勝利に拍手  

 一九七四年一・二四カクマル戦闘で指名手配されていた五同志に続いて、八五年四・一二成田・羽田ロケット弾戦闘でデッチあげ指名手配されていた高田武同志が、時効をかちとって地下から姿を現しました。国家権力・反革命との戦争、非合法・非公然の党建設における偉大な勝利です。二十六年、十五年という超長期にわたり、その生活と行動を秘匿しぬいて同志を守りぬく活動と組織のあり方をつくりあげ、闘いぬき、勝利したのです。この長期の困難に耐えぬき、逆にそれをバネにして強靱に闘いぬいて勝利をかちとった当該の同志たちに心から喜びの拍手を送ります。七四年一・二四戦闘にも八五年四・一二戦闘にも、強い思い入れがあります。

 中核派に結集することを決意し、横浜国大でカクマルとの戦争に決起していったころ、大きな精神的支えになったのは、投獄されている一・二四戦士の存在であり、また潜行して指名手配攻撃と闘っている戦士たちの存在でした。一・二四戦闘精神で戦う−−同世代の同志たちがすでにこんなに偉大な戦いをやってのけていることに感動し、これから闘いを始める自分も負けてはいられない、くじけてはいけないと大いに鼓舞されたものです。四・一二戦闘は、三里塚二期着工実力阻止、国鉄分割・民営化阻止−中曽根打倒の八五年蜂起戦へ、闘う全人民に突撃を呼びかける号砲でした。前年九・二七の自民党本部炎上戦闘に続いて、敵・日帝権力の度肝を抜く革命的武装闘争だった。「九・二七−四・一二の革命軍に続け」を合言葉に、われわれは十・二〇成田空港突入の目標に向かって進撃を開始したのです。今日まで十五年に及ぶ獄中闘争を闘ってきましたが、指名手配攻撃と闘う同志たちとわれわれ獄中戦士とは、ともに党と運動を階級闘争の最深部で支えるきょうだいだと思ってきました。全獄中同志が、そう思っています。

 党建設の苦闘からの逃亡が本質

 ところで、このような勝利と感動の対極にあるのが脱落・転向者=白井朗にほかなりません。われわれがはっきりと勝利感をもって確信できる非合法・非公然の党建設の苦闘と前進に背を向けて逃亡し、権力に投降して転向したのが白井です。九三年に党から逃亡・脱落し、九八年に権力に投降した白井は、今では意識的な反革命スパイとなり、革命党(=革共同)破壊攻撃の悪辣(あくらつ)な手先になっています。そしてファシスト・カクマルにまでいいように利用されるような、唾棄(だき)すべき存在になり果てている。白井は腐りきっている。

 @政治局会議における自己批判の場から逃亡し脱落したばかりか、自己批判を「偽装転向」などと言って逃亡を開き直っていること。A九八年「失火事件」で権力に投降し、完全な転向を表明して革共同破壊攻撃の手先となったこと。B九九年七月『二十世紀』本出版に際し、通敵行為(権力への組織機密の暴露)を予告してきたこと。C対カクマル戦を否定し敵対するに至ったこと、等々。明らかにされている事実は、どれひとつとっても白井の腐敗と反革命化の進行を物語っています。白井は完全に階級移行したのであり、われわれと相入れるところは何ひとつ残っていません。

 「民主派宣言」とはお笑い草です。レーニン主義とロシア革命のプロレタリア独裁(論)、革命党・ボルシェビキの民主集中制に対して、帝国主義とその反動イデオローグどもはブルジョア民主主義をふりかざしてさんざん非難をくりかえしてきました。「民主派宣言」などは、白井自身がプロレタリア革命の立場、ボルシェビキ的な革命的労働者党の立場を捨て去って、ブルジョア民主主義の側に思想的退却と転向を遂げたことの証拠でなくてなんだろうか。

 白井は、八五−八六年を境につくりだされた党の獄中と獄外(と地下)への分割という厳しい死闘の中で、政治局員としての指導部性を喪失し、空洞化していった。日帝・中曽根の「戦後政治の総決算」攻撃に対し、われわれは総力をあげて蜂起戦に立ち上がりました。それは、党の存亡をかけた試練を思い切ってくぐりぬけることをとおして、情勢に対応した組織、蜂起に勝利する党への変革をかちとっていこうとしたものでした。非合法・非公然の本物の革命党への変革が求められているという、あの時のわれわれの切迫した思いはまったく正しいものでした。帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制はそれから五、六年のうちに根底的な崩壊を開始したのです。待ったなしの時代の要請だったのです。
 大量の同志を長期にわたって獄中に奪われ、日帝が革共同絶滅宣言を発して攻撃を激化する中で、非合法・非公然の組織と活動を創造的につくりあげるという死闘が、小ブル的なあり方にしがみつく白井を激しく打ちのめしていったのは当然なのです。白井の逃亡・脱落は、革命党を革命党としてつくりあげるための死活的な、厳格な思想闘争の勝利です。党の破壊や分裂を一切許すことなく、裸でたたき出したのです。

 白井の存在を許してはならない。裏切り者、権力のスパイは、その裏切りと悪行に見合った死にざまをさらすのだ。非転向の党を強化し、守りぬいて闘いぬこう。 七月二十四日記(八五年十・二○三里塚蜂起戦戦士、八五年十一・二九浅草橋戦闘戦士、府中刑務所在監)





(私論.私見)