中核派の白井朗批判考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元、栄和2)年.8.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2007.10.20日 れんだいこ拝


権力とカクマルの手先に転落した白井朗を断罪する
白井朗は革命党を警察権力に売る反革命腐敗分子だ 前進1951号5面
カクマルに降伏し癒着する白井朗を絶対に許さない 前進1957号4面
カクマルの手先に転落した白井朗の反革命策動粉砕を 前進1961号4面
権力・カクマルの手先と化した白井朗の反革共同策動を粉砕せよ 前進1962号4面
内村堅
警察とカクマルに全面投降した白井朗を徹底粉砕せよ 前進1968号5面
宇津井剛
獄中戦士裏切る白井 前進1975号6面
元全学連委員長・鎌田雅志
革共同への反革命的敵対行動を売り物にする白井朗を粉砕せよ 上 前進1985号4〜5面
島村伸二
革共同への反革命的敵対行動を売り物にする白井朗を粉砕せよ 中 前進1986号4面
島村伸二
革共同への反革命的敵対行動を売り物にする白井朗を粉砕せよ 下 前進1987号4面
島村伸二
日帝を擁護し闘うアジア人民との連帯に敵対する白井朗を粉砕せよ 前進1992号4〜5面
西山信秀
連載・白井朗の反革命的転向 1 前進1998号6面
連載・白井朗の反革命的転向 2 前進1999号6面
連載・白井朗の反革命的転向 3 前進2001号6面
連載・白井朗の反革命的転向 4・最終回 前進2002号6面

 週刊『前進』(1998号6面1)
 新連載 白井朗の反革命的転向 権力・カクマルと結び堕落極める(1)逮捕されて全面的に供述し権力に投降した党破壊分子
 白井朗は、一九九八年の逮捕と自供をもって革共同から完全に脱落・逃亡し、権力と反革命カクマルの側につき、革共同破壊策動を繰り返してきた。革共同は、腐敗を極める反革命的転向分子・白井朗を徹底的に粉砕する義務を負っている。シリーズで白井朗の屈服、転向、敵対の本質を暴き、断罪する。
 反階級的敵対は放置しない
 われわれは、党を離れた者と反階級的敵対者とは厳格に区別する。転向し、自己を合理化するための反階級的敵対行為を断じて放置しない。これが革共同の歴史的伝統である。まして権力に露骨に屈服して居直り、権力の力を借りようとしたり、権力に党を売ることなどを平然と口にするような変質したやからを断じて許さない。闘いの中で無念の死を遂げた同志や病などのため戦列をはずれざるをえなかった同志とともに、わが党から離れた者はけっして少なくはない。それは革命党にとって重い傷ではあるが、けっして不名誉な傷ではない。最も激しく闘い続けてきた者に不可避な傷である。革命運動とは、累々たる屍(しかばね)と党を離れた膨大な同志たちをのりこえて進むものだが、その多さは、戦歴の激しさと多さを語りこそすれ、その組織の問題性などを語るものでは断じてない。われわれは、その傷を糧に、逆に自己を鍛えて前進してきた。
 白井という人物は、そういう党を離れた者のひとりだろうか。白井が出版した二冊の本は自己の脱落の必死の弁解の文章だろうか。否である。まったく否である。白井は単なる脱落者ではなく、転向者である。実に醜悪な転向者であり、二冊とも白井の非マルクス主義的本質を公言し、自己の階級移行を明らかにした転向宣言の文書である。否、単なる転向でもない。反マルクス主義、反レーニン主義を唱えて、むきだしの敵対行為を開始している点で、過去最も悪質な分子である。白井は、党内闘争など一度もせず(すぐ自己批判し撤回することのみを繰り返し)、その後脱落して権力の逮捕攻撃に屈服し、程なく二冊の本を出版した。そこで開始したことは権力を後ろ盾にした反革命敵対行動であった。

 われわれは反階級的敵対者には厳格な階級的原則をもって対応する。白井夫婦は、われわれの怒りとこの峻厳(しゅんげん)な態度の重さを嫌というほど味わうことになるであろう。
 「理論闘争」ではなく反革命
 白井は『二〇世紀の民族と革命』なる本で、自己の「理論的違い」を明らかにするかのような体裁をとったが、すでに暴露してきたように、それは徹頭徹尾反マルクス主義、反レーニン主義を貫いた反革命的文書であった。そもそも白井は一九九九年七月、この本の発刊と同時に、公然と反革命的敵対行動の開始を告げる手紙と反革命の悪臭ふんぷんたるパンフレットを革共同に送りつけてきた。つまり、最初からこの本の出版が反革命意図をもつことを鮮明にさせてきたのである。
 続く『中核派民主派宣言』(二〇〇〇年四月発行。以下『民主派』本と略)なる本は、もはや「理論的」文書の体裁すらとっていない。そこでは、これがかつて革命家だったのかと疑わざるをえない腐敗した姿を恥ずかしげもなくさらし、信じられないほどの理論的低水準さで、ただただ反革命敵対行動をなしている。われわれは第一に、白井が手紙で「党の秘密をばらす」(党を権力に売る)と平然と書いたことを、「理論や路線の違いを争う分派闘争や党派闘争とは似ても似つかぬ、階級的憎悪に基づく敵対行動」だと弾劾し、権力への屈服、反革命への転落だと暴露した。そして第二に、逮捕された白井の権力への屈服は白井の階級移行をきわめて鮮明にしている、と怒りをもって突き出した。
 「事実なのでしゃべった」
 それに対して白井は『民主派』本で、第一の点については反論をしない形で承認した。第二の点については「デマだ」「デマだ」と言いながら弁解を試み、逆に、この弁解によって階級移行を自ら完全に立証した。すでにこの点は本紙などで暴露していることだが、ここはきわめて重要なので、以下繰り返しを恐れずはっきりさせておく。

 @白井は、権力への供述を弁解して「失火事件は事実なのですべて取り調べに応じた」(『民主派』本八三ページ)と言う。しかし「事実ならば取り調べに応じる」のが、いったい革命家の態度なのか? われわれは、長期の闘いの歴史の中で膨大な逮捕攻撃を受けてきたが、事実ならば取り調べに応じるなどという態度を一度たりともとったことはない。ここに、白井が革共同にいた時に比べての決定的変質がある。この一点で白井の正体が明らかとなっている。

 Aさらに白井は、それを「連行(まだ逮捕ではない)」(同八三ページ)段階だったと開き直る。これも驚くべき事実だ。逮捕前の連行段階であろうと、完全黙秘の原則を貫くのが党の伝統ではないか。否、連行どころかいかなる場合でも、権力との関係でしゃべることは転向・屈服をはらんでいる。少なくとも権力はそう判断するということを白井は知っている。われわれが革共同創成以来、権力との接触はすべて詳細に報告する義務を確認してきているのは、そのためである。それは革共同の規約にすらなっている。これは単なる原則違反なのではない。白井はしゃべることが転向だと知っていて、「逮捕段階ではない」ことを口実に、しゃべることで自己の転向を権力に知らせ、卑屈に逃れようとしたのだ。

 Bもし白井の「逮捕前だからしゃべった」という口実が真実ならば、逮捕に切り換えられた瞬間に断固完全黙秘に切り換えたはずだ。しかし、この見え透いたうそは数行後にばれる。白井の卑屈な態度をみた権力は、「これは落とせる」とみて旅館業法違反で逮捕に移ったのだ。そうしたら白井は、なんと「すでに失火事件についてはすべて取り調べに応じているために、黙秘は意味がない」(同八四ページ)などとして、さらにべらべらと応じたというのだ!

 数行前で「事実だから」「逮捕前だから」供述は正当だと言った人間が、逮捕されるや否や、すでに供述を開始したから黙秘は意味がないというのだ。こういうのを破廉恥というのだ。この「黙秘は意味がない」という言葉を正確に翻訳すると、゛いったん卑屈な屈服と転向をした以上、もっととことん屈服、転向すべきだと思った″という意味となる。この供述は、自己の精神世界内部での転向が直接、警察権力との間で行われたという点で、決定的な意味をもつことになる。
 完全黙秘こそ革命家の原則
 C革命家の逮捕時の「階級的任務」とは、一切を権力との非妥協的闘いに集中することである。それまでの一切の任務をいったんやめて、権力との対決のみに全力を集中することに切り換えなければならない。これも闘う者の原則だ。逮捕以前に自己が遂行していた任務の重要性を理由に釈放のために屈服することは、最悪の行為だからだ。白井はこの点でも欺瞞(ぎまん)的裏切りをしている。

 『民主派』本での白井の弁解の卑劣さは、権力とのやりとり、つまり権力が何を言い、自己がどのように対応したかを詳細に明らかにしていないことにある。やりとりを一切書かず、特に権力が言ったことをまったく伏せて、「熟考した」「判断した」などと聞いたような口をきいている。しかし獄中とは、権力の攻撃とは関係なく、あたかも自分ひとりの部屋で「熟考」や「判断」をできるところなのか。獄中というのは、権力による二十四時間のすさまじい攻撃の場なのだ。結局、その攻撃との関係で人は「熟考」し、「判断」することを強制されるのだ。権力の硬軟織り交ぜた攻撃の中で思考を強制されるのだ。だからわれわれは、完全黙秘以外の闘い方は断じてしてはならないと確認して闘ってきている党派なのだ。

 しかも権力は、すでに白井が持っていた反党文書を押収し、研究し、それを白井が原稿化しようとしていることを知っている。ところが白井は、この反党文書の全部を権力に提供した事実も隠蔽(いんぺい)する。だが、そもそもそういう物を押収されたことも敗北なのだ。権力が白井のこの押収文書を前提に話しかけ、白井の自尊心をくすぐる形で攻撃をしたことは、われわれには手に取るように分かる。

 そして白井の「熟考」とは、権力が゛(中核派攻撃の)原稿を書くことが大事なのではないか″と言ってきて、一瞬悩んだが、そうだと思った−−ただそれだけに過ぎない。白井はここで、権力が゛しゃべったら釈放するから、原稿を書いた方がいいのではないか″と阿吽(あうん)の呼吸でささやいたのを、「釈放をかちとり、原稿を完成することが私の階級的任務であると判断したから」(同八四ページ)供述をしたと明確に書いているのだ。ただ、権力のささやきの方を隠蔽し、自分だけの判断でそうしたという書き方しているだけである。

 繰り返すが、革命家の逮捕時の「階級的任務」は一切を権力との非妥協的闘いに集中することだ、と白井は熟知しているのだ。しかし白井は、それに優る「階級的任務」は「原稿を完成すること」だったと言う。何ゆえ供述よりも原稿の完成が優先されたのか。それは、白井の「階級的任務」が反革命に転じたからであり、その原稿が反革命的な目的のものだったからだ。

 分かりやすくいえば、権力は、白井の身柄を釈放して反中核派の文書を書かせる方が利益だと思い、白井は、権力の勧めに従って中核派への敵対行動が自己の「階級的任務」だと言えば権力が出してくれると思ったから卑屈に屈服を表明したということなのだ。これは薄汚い協商の成立である。権力が守ってやるなどとささやいたことも明白だ。そして、この数十年のわが党の同志たちの逮捕攻防ではまったくありえないような不起訴・釈放が与えられたのだ。

 白井よ、九三年には公然面に出て活動することを「自分の組織的位置から、権力が許してくれるはずはない」と言い張って頑強に拒否していたのに、何ゆえ不起訴・釈放になったのか。白井は、その一点でも釈明する義務がある。

 D普通の市民生活を送っている人びとならともかく、われわれにとって権力との関係は、左翼か否か、革命家か反革命への移行か、どちらの陣営の人間かを判断する分岐をなす決定的問題なのである。権力との最初の接触で供述し、供述を居直り、事実を隠蔽しているという一点は、その後の白井の一切を規定している問題なのだ。誰がなんと言おうと、われわれはこの一点で、白井は自らの階級移行を自己暴露していると断定する。われわれは、白井が革共同の指導的責任を担ったことがある人間である以上、この一点で白井を裁く権利と義務をもっている。(つづく)

 「連載 白井朗の反革命的転向 権力・カクマルと結び堕落極める(2)自己批判書への5行の言及が反革命的転落の正体示す 」。
 「偽装転向」は実質的な転向
 白井朗は、自らの転向と権力の手先化、反革命への転落の事実を「自己批判書」(一九九三年二月)への『中核派民主派宣言』(以下『民主派』本と略)での言及によって正直に告白している。白井は、革共同による白井の膨大な「自己批判書」の公表と革共同政治局の白井批判(二〇〇〇年二月一日発行の『共産主義者』一二三号に掲載)に対して、「私の自己批判文についてここで一言しておく」として、たった五行の言及で済ませている(『民主派』本九四n)が、白井の不誠実さ、いかがわしさ、腐敗・堕落は明白である。実はこの五行で白井は決定的なことを言っているのだ。

 白井は、「私は九三年当時まだ清水一派にたいする分派闘争の決意をしていなかったため、ああいう文書を書いた。妥協して党組織内に残ろうとして、屈服した。……しかし妥協で解決できる問題ではない、清水一派は正真正銘のスターリン主義だということが判(わか)ってきたため、分派闘争にたちあがることを決意したのである」(同九四n)と書いている。これは重大な言及である。

 第一に決定的なことは、白井が自分のことを゛屈服など平気でやり、そのためならうそを書くという思想をもっている人物だ″と言っていることである。つまり、本紙などで以前にも厳しく批判したが、この文章の思想は゛偽装転向″の思想なのである。しかし、偽装転向は転向と同じだというのは階級闘争の真実である。白井が偽装転向的に自己批判を書いたと明言したということは、権力にどんなに屈服してもなんの恥じらいもないと表明したことなのだ。
 脱落・転向後に「分派闘争」
 第二に決定的なことは、白井が革共同在籍中は分派闘争を決意していなかったと明言していることである。単に分派闘争の意思がなかっただけではなく、内容的に゛そのときは「中核派=スターリン主義」だとは思っていなかったから″とまで言っている。

 @つまり、まずひとつは、この本のほとんど十分の一の量を費やして書いている゛中核派は分派闘争の自由がない組織だ″という批判がまったくでたらめだということだ。分派闘争とは、党内にいる時に遂行するものだ。ところが白井は、在籍中は分派闘争を決意していなかったと言いながら、離脱後に゛中核派には分派闘争をやる権利がない、だからスターリン主義だ″などとわめいている。

 革共同は、絶えざる党内闘争を遂行している党である。党内闘争が分派闘争に発展することはありうる。われわれは党の存亡をかけた決戦を何度もくぐりぬけてきた。激しい党内闘争を経ることなしに今日はなかった。したがって「分派闘争禁止決定」など一度もしていない。白井は実は、分派闘争を決意できず、やらなかったのみならず、党内闘争すらやりえなかったと告白しているのだ。確かに分派闘争は、党内闘争とひとつ違った段階への突入である。また分派闘争は、単純に踏み切るべきことでもないし、簡単にできることでもない。だが、革命家としての絶対的確信があり、党的組織原則に基づく党内闘争を不断に厳格に遂行できるならば、同時に正しく分派闘争を遂行する能力をも持てるはずだ。

 だが白井は、実はそれ以前的に駄目な人間で、分派闘争どころか、党内闘争すら正しくできなかった人物なのだ。毎回毎回、激しい討議の場である最高の会議に出席していて、ほとんど沈黙して討議を回避し、場合によっては居眠りして避けてきた人間には、分派闘争どころか党内闘争などできようはずがないのだ。その自己の破産を革共同のせいにして、゛革共同はスターリン主義だ″などとわめいているのだ。

 A次に、自分は脱落して以降、中核派がスターリン主義だと気がついたと言って、あろうことか゛革共同は、本多書記長以来一貫してスターリン主義であった″などと言っていることである。そして白井は、本多書記長は「少数意見の保留の権利」や「(少数意見を)機関紙上に発表する権利」を認めなかった(同二二n)とか、「分派闘争の自由を肯定することがなかった」(同二二n)と非難している。

 だが革共同は、例えば「共学同」問題(注)の総括において、分派闘争をしたことそのものを否定するような総括をしたことがあるだろうか。また、革共同第三次分裂は、文字どおり激しい分派闘争を経て遂行されたが、分派闘争を否定するような総括は行ってはいない。当時われわれは、黒田の党内闘争の非組織性については厳しく弾劾したが、必要不可欠な段階に至って断固フラクションを結成し、組織的に正しく分派闘争を遂行して勝利してきた。

 さらに、本多書記長は白井への厳しい批判を繰り返し、文字どおり党内闘争、思想闘争を行っていた。何よりも、二重対峙・対カクマル戦争突入過程の本多書記長の行った党内闘争は苛烈(かれつ)だった。決断した闘いの意義が党内に浸透していない段階では、実際には党中央の見解が「少数派」の見解であるため(予想を超える段階への突入にあってはいつでもそのようなものだ)、激しい党内闘争の形態をとらざるをえないのである。本多書記長は、絶えずそういう「少数派」的自覚で党内闘争を遂行していたのであり、少数意見を禁止していたら、そもそも党は成り立たないのだ。

 白井は、厳しい党内闘争に耐えきれず、逃げ回り、沈黙でそれを回避してきたが、本多書記長にはそれすら許さない厳しさがあった。それを恨んで、革共同は創立以来「スターリン主義組織論を前提として生きてきた」(同二二n)と歴史を偽造するのだ。むしろ白井は、党内闘争を行いえない自らの脆弱(ぜいじゃく)な精神と卑屈さ、卑劣さ、ねじ曲がった根性を恥じるべきなのだ。

 悪質なのは、ここで「自己批判の強制=スターリン主義」という項目を入れたことだ。批判とは、変革を求めて自己批判を要求するものだが、自己批判の否定とは、裏返せば批判の否定をしか意味しない。では、他人には官僚主義的に恫喝的批判だけを行って、他人の自己批判書を保管するのが好きだった白井は、最悪のスターリン主義者だったということなのか?

 つまり、゛革共同は創立以来、スターリン主義組織論に立ってきた″という白井の非難の裏側にあるものは、本多書記長の党内闘争の厳しさへの恨みだけなのである。変革(批判)と自己変革(自己批判)がない党が、どうやって思想闘争や党内闘争、分派闘争を遂行できるというのか。曲がりなりにも分派闘争を主張するのならば、党的組織原則を守った党内闘争を行う力とともに、変革(批判)と自己変革(自己批判)の能力を蓄積してから言ってほしいものだ。白井は、その最も基本的なところで党員以下的だったのだ。
 「分派闘争」の名で敵対行動
 第三に決定的なことは、白井にとって分派闘争とは、白井がいま行っているような革共同への敵対行動のことであり、転向したがゆえに決意できるようなものだった、ということだ。白井はこうした意識で、「分派闘争の自由の否認」はスターリン主義組織論によるものだと言っている(同二二n)が、白井が現にやっているような公然たる反階級的敵対行動や党破壊行動の権利など、革命党員にあろうはずがないではないか。

 白井は自己合理化のために、自らの権力への卑屈な屈服を隠蔽(いんぺい)し、ごまかし、転向と非転向の区別を自覚的にあいまいにしている。だから、分派闘争と敵対活動をいっしょくたにして、そういう地平で『二〇世紀の民族と革命』(以下『二〇世紀』本と略)や『民主派』本などを書きちらしているのだ。とりわけ『民主派』本の出版は、白井が言う「分派闘争」すなわち権力への卑屈な屈服と転向の上での反革命的敵対行動にほかならない。白井の「分派闘争論」「スターリン主義組織論」の核心はここにある。
 デッチあげた「事実」に文句
 第四に決定的なことは、白井は反革命的変質の後の反階級的敵対行動を「分派闘争」や「党内闘争」と称しているが、では、『民主派』本で書き並べている「事実」がもし本当に事実ならば、なぜ、白井はそういう組織に長年、平気で一緒にいたのか、ということである。白井は、このことをまったく説明できない。つまり、ここで書かれた「事実」が事実ではないか、あるいは白井という人物が無責任なまったく信用できない人物であるか、どちらかだということだ。要するに、ここで書かれた「事実」は、白井が革命家であった時の事実ではなく、後からのデッチあげなのだ。白井が自らデッチあげた「事実」=虚構に向かってどんなに文句を言っても何の説得力もない。それはただただ革共同に敵対するための行為でしかない。

 第五に決定的なことは、゛脱落以降、革共同がスターリン主義だということが判(わか)ってきたため、分派闘争にたちあがることを決意した″という文言の意味である。これは、脱落して反革命的敵対行動を決意したから革共同をスターリン主義呼ばわりすることにした、ということを意味しているのだ。白井は、脱落を契機に革共同の革命的なスターリン主義規定をほうり出し、スターリン主義論を革共同の理論とはまったく別のものに仕立て上げていく「理論活動」を開始した。その産物が『二〇世紀』本と『民主派』本にほかならない。したがってこれらの本は、必然的に没理論的でデマゴギッシュなものにしかならないのである。(つづく)

 (注)共学同問題 六〇年安保闘争後の共産主義者同盟(ブンド)の解体とその革命的諸潮流の革共同への大量結集の結果、一九六一年には革共同が全学連のヘゲモニーを握るに至った。だが、巨大な学生戦線を指導するには政治的に未成熟なことが明らかになる中でこれを、マル学同の解体、社学同系の部分との「共産主義学生同盟」の結成によってのりきろうとする動きが発生した。これを共学同問題という。革共同指導部は、この動きを解党主義であると批判し、労働者党のための闘争の決定的意義に関する無自覚をその思想的根源とし、スターリン主義運動の戦術左翼的延長上に自己を位置づけるブンド主義への揺り戻しであると徹底的に批判し、粉砕した。

 「連載・白井朗の反革命的転向 権力・カクマルと結び堕落極める(3)思想的無節操と腐敗を深めカクマルの側に立つと宣言」。
 前号までで、白井朗が脱落以降自覚的な反革命への道を選択してきた事実を暴いてきたが、今号より、その結果白井が陥っている腐敗・堕落と恥知らずな変質・後退の事実を暴く。白井の思想的節操のなさ、おぞましいまでの思想的腐敗の第一は、白井が、膨大な同志の命と血を流して懸命に闘ってきた対カクマル戦争を裏切り、カクマルへの降伏を表明し、自らカクマルと同列に並ぶ明白な反革命的意思表示をしたことである。白井は対カクマル戦から脱落したのではなく、カクマルの側に立つことを意思表示している。
 「内ゲバ」規定は投降の表明
 その一つ目は、白井が「内ゲバ」という言葉を使い出したことである。われわれは対カクマル戦争について「内ゲバ」という用語を使っていない。この用語は、第四インターナショナルなど、「カクマルは反革命ではない」、「ファシストではない」、「意見が異なるが左翼の一部である」と頑強に主張した人びとが用いてきた、まったく誤った言葉なのだ。白井は「内ゲバ」という用語でカクマルに“反革命規定をしません。対立的に闘うことをやめます゜と意思表示し“許してくれ゜と公然と表明したのだ。それだけではない。この「内ゲバ」規定に表れた白井の意識は、“反革命として自分も中核派敵対行動に移るから、カクマルよ、自分を容認してくれ゜というものだ。「内ゲバ」という用語の使用は、白井が自らカクマルと同列に並ぶという宣言なのだ。

 白井は、革共同とカクマルとの非和解的絶対的対立関係を熟知している。その白井のカクマル=反革命規定のあいまい化の意図は、白井がカクマルと同じように対革共同の敵対行動に入るという決断と一体のものなのだ。

 インターネットのサイトで白井は「池上の目が異様で、腐った目をしていた」などと言って、あたかもカクマルに屈服も同調もしていない証明にしようとしているが、このような表現は非和解的対決とはまったく別物である。『中核派民主派宣言』(以下『民主派』本と略)でも白井は、一方で「内ゲバ」と言いながら、「もちろん私は対カクマル戦争の先頭にたってたたかいぬいてきたのであり、カクマルを反革命としてもっともはげしく憎み、糾弾する者である」などと言う(一四n)。しかし、その舌の根も乾かぬうちに「戦争をいつまでも二〇年もつづけること」が正しかったのか?と、闘い方の問題であるかのごとく言う(同一四n)。だが、カクマルを反革命と規定するなら、二十年でも三十年でもカクマルを倒すまで闘うべきなのだ! その二つ目は、白井が対カクマル戦が戦術的選択の次元の闘いだったと宣伝し始めたことである。
 対カクマル戦は戦術問題か
 白井は「(対カクマル戦)は多くの人々から大きな反発を買い離反を招いた」「(別の)途(みち)を選択することは不可能ではなかった」「最良の方法が戦争をいつまでも二〇年もつづけることにあったのか」などと言う(同一四|一五n)。しかしカクマルとの内戦への突入は、いったいわれわれの自由選択だったのか。大衆闘争が恐るべき打撃を受けても、大衆的納得がかちとられるか否かにかかわらず、反革命的襲撃と内戦的手段で対決するしか、われわれは生きられなかったのだ。このぎりぎりの選択をあいまいにすることは、カクマルの反革命性の隠蔽(いんぺい)だ。しかもこれは、世界史上類例のない反革命と直面したわれわれが、懸命に闘って、先制的内戦戦略を樹立してきた地平を足蹴にし、踏みにじるものである。

 先制的内戦戦略の思想的内容は、十二・四反革命直後から「段階・過渡・変容・危機」を契機とする戦後世界体制認識と結合させて、三〇年代的内戦が階級闘争のひとつの恒常的形態であるという認識として深められてきた。われわれは、追い詰められた地平からまずは生き残るために猛然と決起していったが、熾烈(しれつ)な闘いを革命綱領の中に位置づけることなしに一日たりとも闘うことはできない。革共同は、この戦争を革命綱領の中に位置づけずに存在しえなかった。

 ところが白井にとって対カクマル戦は、軍事的手段の行使をめぐる単なる戦術問題にすぎない。内戦的手段を用いず大衆闘争を続ければ反革命の襲撃を回避できたかのように言う。これはカクマルにくみする悪宣伝そのものである。何ゆえ十二・四反革命、三・一四反革命が起こったのか。何ゆえ七〇年決戦の高揚の中で立ち上がった人びとや同志たちが次々と命を奪われ、血を流さなければならなかったのか。何ゆえ破防法裁判の弁護団が襲撃を受けなければならなかったのか。考えてみよ!恒常的な内戦の必然性とは、革共同とプロレタリアートのもつべき時代認識、階級闘争観なのだ。
 3・14復讐戦を平然と否定
 その三つ目は、白井が「三・十四復讐(ふくしゅう)戦を肯定的に総括できるのか」(同六七n)と平然と言い始めたことだ。@白井には、三・一四反革命に直面した革共同と闘う人びととがどういう事態にたたき込まれたかについてまったく認識がない。事実、七〇年決戦を闘った何万人もの人びとが「これで日本革命は終わりになるのでは」とすら思ったのだ。われわれは「三・一四宣言」で「一度死んだわれわれ」とまで言った。だが、党首を暗殺されて復讐戦に決起できない革命党は、絶対に誰からも信用されない。にもかかわらず白井は「三・一四復讐戦を肯定的に総括できない」と平気で言う。これは、白井が三・一四反革命の瞬間に転向・屈服していたことを示す。そうでなければ、十二・四反革命以降は内戦的に闘うのが正しく、それよりも巨大な三・一四反革命以後は内戦的に闘うのは間違いだという論理は絶対に出てこない。

 Aそのうえで白井は“本多さんは対カクマル戦争をやる気がなかった゜などと本多書記長を辱め、荒唐無稽(こうとうむけい)の歴史解釈をやってのける。当時の本多書記長の戦争意志の苛烈(かれつ)さや段階的戦争論の提起とその強い指導性など、どこかに吹っ飛んでしまっている。

 白井の感性はカクマルと戦ってきた同志の感性とも無縁だ。対カクマル戦争を“人を傷つけるのが好きな人と嫌いな人゜の存在などで解釈するとは、あきれて言葉もない。敵階級の残酷さに対して、ものすごい反発力をもって戦争的に決起できるか否かが三・一四反革命の瞬間、全党員に等しく問われたのだ。白井の三・一四反革命に関する叙述には、カクマルの恐るべき反革命性についての言及がひとことも出てこない。怒りがない。自分の隣で闘っていた本多書記長が卑劣な手段で暗殺されたことに恐れおののき、ヘタヘタと座り込んでしまっている。
 全くでたらめな歴史の解釈
 その四つ目は、白井が先制的内戦戦略に関するでたらめな歴史解釈を始めたことである。白井は、先制的内戦戦略の第二段階への突入の意義を否定して、一九八六年五月に東京サミット粉砕の軍事行動をやったから大弾圧で党勢は削り取られたと歴史を偽造する。「五・七宣言」体制の大弾圧は、八六年サミット粉砕決戦への反革命報復という要素もあるが、何よりも八五年蜂起戦(三里塚・国鉄決戦)に対する敵階級の報復なのだ。白井が「五・七宣言」体制の大弾圧を避けるべきだったと言うなら、八五年蜂起戦をやるべきではなかったということになる。

 八五年蜂起戦の勝利的地平の巨大さは明らかである。それをはずして先制的内戦戦略の第二段階を弾圧のすごさで否定するのは日共以下だ。確かに八五年蜂起戦への敵の弾圧は激しかった。しかし、多大な犠牲を払ってでもやらなければならない決戦が階級闘争にはある。三里塚闘争が壊滅させられて、さらに国鉄分割・民営化に対する命懸けの闘いとその後のカクマル=JR総連への正義の内戦的闘いの遂行がなくて、したがって日本の階級情勢が恐るべき勢いで後退してしまっていて、弾圧を回避したわれわれが強大化していたはずだなどというのは、階級闘争を知らない人間のたわごとだ。しかも、犠牲を払ってでも「五・七宣言」の巨大な弾圧と熾烈(しれつ)に闘いぬいたがゆえに九〇年天皇・三里塚決戦の偉大な地平がかちとられたことなど、もはや白井にはまったく理解できないのだ。

 八〇年代後半から九〇年代前半の党勢の後退は、先制的内戦戦略に基づいて闘い弾圧を受けたから生じたと言うならば、何ゆえ日和見主義的な諸党派・潮流がこの時期におしなべて転向と変質と後退と衰弱を進行させたのか、答えてみよ。八〇年代後半から九〇年代前半の時期は、日帝の総評解体(社会党解体)をかけた国鉄分割・民営化と三里塚闘争解体策動、「五・七宣言」体制による革命党弾圧という大反革命・大反動の時期だった。われわれは弾圧にひるまず、八五年三里塚・国鉄蜂起戦と九〇年天皇・三里塚決戦を大反動攻勢との真っ向からの対決として死活かけて闘う道を選択したがゆえに生き残った。闘えなかった全潮流は転向と解体・衰弱・消滅の道を歩んだ。われわれのみが真っ向から対決できたのは先制的内戦戦略をもっていたからなのだ。

 その五つ目は、白井が権力やカクマルの悪質な宣伝の片棒を担ぎ、“革共同をゲバだけがまかりとおる思想闘争がない組織だ゜と言い始めたことである。これは白井の自己破産しか意味しない。もしそうならば、白井は革共同に何ゆえ二十年以上もいたのか。しかも最も重要な位置にいたのか。“ゲバだけがまかりとおる組織゜と言うならば、自分がそのように組織を作ってきたからだという以外にないではないか。白井の今日の姿は、反革命に転落した者の実に腐敗した醜悪な姿である。

 カクマルは、この白井のカクマルと同列に立つという意思表明を喜び、早速、池上洋司(朝倉文夫)を先頭にのこのこと出掛けた。案の定、白井はカクマルへの怒りや憎悪のひとつもぶつけることなく、投降と屈服の意思を示し、ヘラヘラと会話に及んだのだ。そして中核派批判をしてみせて、自分がカクマルと同列であることを示し、継続討議を確認している。反革命転落分子同士のおぞましい会見の様子がうかがわれるではないか。(つづく)

 週刊『前進』(2002号6面2)連載・白井朗の反革命的転向 (4) 権力・カクマルと結び堕落極める
 レーニン主義とスターリン主義の連続性主張する変節 白井朗の権力への屈服による思想的節操のなさと思想的腐敗のおぞましさの第二は、革共同に敵対するために反スターリン主義の立場を放棄し、スターリン主義の発生をレーニンの思想的問題性に求める、あらゆる反革命への転落者と寸分違わぬ伝統的方法を引き継いでいることである。そしてその転向の合理化に本多書記長を利用する、実に卑劣な態度をとっている。
 一国社会主義の問題も蒸発
 その一つ目は、白井がスターリン主義の本質規定を「大粛清と大虐殺の恐怖政治」であるとし、それを根拠に現在の革共同はスターリン主義になった(『中核派民主派宣言』=以下『民主派』本と略=一七―二一n)、「故本多延嘉書記長と私などにあっては、もっと明快な反スターリン主義の意識があった」(同二〇七―二〇八n)と言っていることである。

 スターリン主義の〈大粛清と大虐殺の恐怖政治〉は、スターリン主義の本質規定である〈一国社会主義論〉の一帰結である。ところが白井は、前者を後者と対立させ、前者こそスターリン主義の本質規定だとすることで、右派スターリニスト構造改革派に綱領的に屈服し、本多書記長を自らの道連れにしようとする。本多書記長へのこれほどの侮辱はない。

 二つ目は、白井がプロレタリアート独裁の思想に反対し、スターリン主義を「民主主義の否定」と規定し、革命的共産主義を放棄していることである。そのために白井は革共同の「社会主義論」なるものをデッチあげる。白井はなんと革共同が、「(プロレタリア独裁の)もっとも重要なたたかいは、農民・知識人・被抑圧民族等々のプチ・ブルジョアジーを正しく指導すること、判(わか)りやすくいえばせん滅することによってのみ社会主義社会を建設できる」「ソ連・スターリン主義の農業の強制集団化、被抑圧民族にたいするマルクス・レーニン主義文化の普及による民族文化のせん滅、さらにプチ・ブル知識人の粛清によるせん滅は、すべて偉大な社会主義建設の前進なのである」などと言っているというのだ(同一八八―一八九n)。反共主義まがいの反動的デマゴギーだ。

 しかも、白井は本多書記長は自分と同じ考えだったかのごとく言う。だが、本多書記長は「帝国主義者やその小ブル自由主義的な追従者たちは、あたかも独裁が民主主義に対立する概念であるかのようにあつかう」(「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」=以下「継承か解体か」と略=本多延嘉著作選第一巻九六n)と言っている。白井のプロレタリアート独裁論の否定、民主主義論の俗物性は、本多書記長によってすでに容赦なく暴かれ、粉砕されているのだ。自己合理化のために平気で本多書記長をもってくる白井の恥知らずさは、驚くばかりである。
 レーニン帝国主義論を否定
 三つ目は、帝国主義と民族=植民地問題、農民=農業問題という領域において、白井がトロツキーを絶賛し、トロツキーに依拠してレーニンを繰り返し否定していることである。例えば、トロツキーの『結果と展望』について白井は、「これこそ……二〇世紀の社会主義革命論・世界革命論である。レーニンを含む誰もがロシア革命がブルジョア民主主義革命だと唱えているとき、独りトロツキーは社会主義革命を唱えた。それはこんにちでも理解されていない深遠な意義をもつ」(同五二n)と言う。あるいは「トロツキーの『複合的発展の法則』は後年レーニン『帝国主義論』が、……レーニンよりも一〇年も早く先駆的に真理を明確にしたのである。これによって半封建制か否かを革命綱領の最大の争点として農業問題において争うという次元とレベルを超えて、綱領論争が発展する基礎を獲得した」と言う(同五二―五三n)。

 だが、これも、すでに革命的共産主義運動の創成の過程で決着をつけてきている問題である。とりわけ反革命カクマルとの分裂の過程で黒田批判をとおして明確にさせてきている周知の問題である。ところが白井は、こうした地平を平然と踏みにじり、レーニンの『帝国主義論』の意義を低め、否定する。白井がもし革共同の歴史を再びひっくり返したいのであれば、レーニンの優位性を確認した本多書記長の「継承か解体か」を問題にしなければならない。そうしないとしたら不誠実であり、ペテンである。

 「継承か解体か」は、一九〇五年のトロツキーの革命論に基づくレーニン批判や、トロツキーがすでにこの段階で帝国主義段階論的認識を先駆的に出していたかのごとき見解について、「農民=農業問題におけるレーニンの実践的立場、階級論構築にかんするレーニン的方法の優位性を完全に見うしなっている」(同四八n)と批判している。「もともとレーニンが帝国主義段階論を確立する過程にあってレーニンがマルクスのいわゆる農業分解論の視点をロシア社会の戦略的解明に適用し、そのことによって生ずる理論と現実の矛盾を原理論と段階論の分離として逆転的に解決したことは、レーニンの限界を意味するものではなく、レーニンの方法論の卓越した位置を示すものである」、「このような批判の方法によっては、トロツキーではなく、レーニンにおいてはじめて帝国主義段階論が確立されたことの理論的、実践的根拠を正しくつかみとることは不可能だからである」、「重要な点は、帝国主義段階におけるプロレタリア革命が農民=農業問題を重大な戦略的課題としてかかえこむことについてトロツキーが……確固とした認識をもちえなかったのにたいし、レーニンが当初から首尾一貫して農民=農業問題のプロレタリア的解決にかんし実践的対決の態度を確固としてもちつづけたことである」(同四八―五一n)。以上のような本多書記長の見解を白井はどうとらえるのか。白井の見解は本多書記長を明らかに裏切っているではないか。
 レーニンの党組織論を憎悪
 四つ目は、白井がレーニン主義的党組織論の公然たる否定とそれへのブルジョア的憎悪を全面的に表明していることである。白井は、革共同をスターリン主義組織論へと転落したと批判し、「中核派がこうしたスターリン主義組織論に転落した内在的要因として、レーニン主義組織論にたいする批判的検討を一貫して欠如し、レーニン主義とスターリン主義との連続性を無視しつづけたことを指摘しないわけにはいかない」と言う(『民主派』本七七n)。

 白井のこの見解は、ただただ革共同への反革命的敵対をのみ動機としているがゆえに理論の体すらなしていないが、あえて白井の特徴的な見解を拾ってみる。

 ひとつは、白井が「一九〇二年『なにをなすべきか』のいわゆる外部注入論は、ほかならぬ一九〇五年革命の労働者自身によるソヴェトの創成と一〇月革命のソヴェトの革命的役割によって否定されている。レーニンもこの事実を十分自覚し理論の改善と拡充に努めた」(『二〇世紀の民族と革命』一四n)と言い、『なにをなすべきか?』をスターリン主義組織論の根拠であるかのごとく描いていることである。

 また、いまひとつは、非合法・非公然の闘いの否定と解体の主張をもってレーニン党組織論を否定していることである。白井は、非合法・非公然体制にある革共同を「異常なもの」に描き、清水同志の「三〇年間の非合法生活」をののしっている(『民主派』本二〇〇n)。これは、白井の反革命的意図とは逆に、清水同志への礼賛と白井自身のコンプレックスの吐露しか意味しない。

 ただ断じて許せないことは、白井が「非合法生活」による「知的鎖国が精神の枯渇の最大の原因である」などとデマゴギーを展開していることである。白井は、自己が非合法・非公然の生活を行っている時は、自分だけが「知的存在」であるかのごとく威張り、公然面で活動する同志たちを「非知性のかたまり」だとして嘆いていた。ところが権力への合法主義的屈服に陥るや否や、今度は非合法・非公然の生活が「精神を枯渇」させると言い出す。でたらめなのだ。

 しかし、ここでの基本的問題は、「革共同はレーニン主義とスターリン主義との連続性を無視しつづけた」という白井の革共同批判の反革命性であり、それをレーニン党組織論に求める論点であり、それと白井の「継承か解体か」賛美とがいったいどう関係するのかということである。

 白井は、レーニン党組織論の結果として「レーニンは自分を神格化してしまい」(『民主派』本二三n)とまで言っている。だが、白井が賛美する「継承か解体か」は「ソ連共産党のスターリン主義化は、レーニン主義的党組織論そのものの社会的発展として生じたものではなく、レーニン主義的党組織論の基礎をなす世界革命論の一国社会主義論的な歪曲を条件として形成されたものなのである」(本多著作選第一巻一三一n)と述べている。

 白井のレーニン党組織論の否定、革命党の規律の否定は、白井におけるプロレタリア自己解放の思想の消滅とプロレタリア革命論の蒸発、プロレタリアート独裁論の否定、反帝国主義・反スターリン主義綱領の拒否と一体のものなのだ。白井の『民主派』本には反革命的レトリックと理論外的な中核派憎しの感情、邪悪な魂胆しかない。理論的装いを取り払った底にはカクマルと同じくレーニン主義の小ブル自由主義的な解体だけが残る。
 「七・七」問題で弱点を露呈
 白井の転向による思想的な節操のなさと思想的腐敗のおぞましさの第三は、民族問題を論じる中で七〇年七・七自己批判を利用してレーニンやボルシェビキ批判を行いながら、自分自身は徹頭徹尾、七・七自己批判と入管闘争の実践から身を避け、七〇年「七・七」問題がまったく分かっていないことを露呈し、それを恥とも感じないまで堕落しているということである。民族理論に関する思想的腐敗、理論的水準の低さ、破廉恥なばかりの没理論的デマゴギー性については、本紙一九四四号西山論文と一九八五―一九八七号島村論文、一九九二号西山論文ですでに徹底断罪した。しかし、白井が「七・七」問題に関して道徳的な腐敗を極め、革命的共産主義とはもはや縁もゆかりもない存在となっていることは、何度でも怒りをもって確認しなければならない。(おわり)





(私論.私見)