人間の心を失った『前進』
人間の心を失った人の文を読むのは悲しい。それがかつての同志であり、いまもなお反帝・反スターリン主義の立場を自称する共産主義者の文であればなおさらである。
『前進』五月二二日号(一九五七号)は、「白井朗を絶対に許さない」という雑文をまたもや掲載してその紙面を汚している。次いで六月十九日号(一九六一号)、さらにまた六月二十六日号(一九六二号)とたてつづけに私への誹謗・中傷の読むに耐えない記事を掲載した。記事は全文デマゴギーである。
いちばん悲しいのは人間の心がまったく失われていることである。日本共産党の五〇年分裂を経験した或る先輩は、「最近の『前進』を読んでいると三〇年代のスターリン統治下にあるような錯覚に陥いる」と発言された。
ここでは先ず『前進』が私にたいして、国家権力に屈服して黙秘権を根本的に否定していると誹謗・中傷している点と、さらにカクマル反革命分子に屈服し中核派組織の秘密を話したと誹謗・中傷している点について反論する。そののちに理論的な問題について、私の見解を述べることにしよう。
「黙秘権を根本的に否定している」への反論
『中核派民主派宣言』において、私は詳細に九八年四月に金沢市で失火事件を起こした問題について事実を記載した。『前進』の誹謗・中傷は、この問題について清水丈夫の執筆した内部通達が私の詳細な事実の記述によって完全にその論理が破綻し、維持できなくなったことをとりつくろい、恥の上塗りをしているだけである。
私が『中核派民主派宣言』で述べた事実の基本点をもう一度確認しよう。私は次のように述べている。
「私は一九九八年四月二七日午前零時半頃、当時宿泊していた金沢市のホテルで失火事件を起こした。著作の原稿執筆で自分が思っていたよりもはるかに疲労し、不注意で失敗を犯した。このため、午前二時すぎころ警察に連行(まだ逮捕ではない)された。失火事件は事実なのですべて取り調べに応じて、一旦その件は終了した。
しかし翌二八日正午頃、ホテル宿泊が偽名であったため旅館営業法違反で逮捕状が執行された。そして即日検察庁に送置され、、勾留の法的手続きがとられた。勾留は執拗にもう一度、二回目の限度ギリギリ一杯までおこなわれ、漸く五月一三日に略式起訴・罰金刑の判決をうけ罰金を支払って釈放された。このかん私は塾考した末に、すでに失火事件についてはすべて取り調べに応じているために、黙秘は意味がないと判断した。なぜなら失火事件についてはすでに争うべきものは何もないからである。
釈放をかちとり、原稿を完成することが、私の階級的任務であると判断したからである」(『中核派民主派宣言』八三~八四ページ)。
この文を平静に読めば誰でも私の言わんとすることは判るはずである。私は政治的な階級闘争の事件で黙秘権を否定するなどというようなことは、一言もいってはない。
『前進』の誹謗・中傷は、私が普通の刑事事件でも延々と無意味な争いを続けて、何カ月も勾留されることを避けたと言った事実を歪曲して、「白井は黙秘権を根本的に否定した」としている点にある。
失火事件を自分自身の失敗で起こしてしまったことは争いようのない事実なのであるから、この問題で万一黙秘した場合には、何カ月も無意味に勾留されることになる、それを避けたのだと、私は言っているのだ。そして政治的な問題についての取り調べはいっさい無かった、ただしこの失火事件の取り調べとは別に、それが終わったのちに公安部が私にたいして情報提供を求めてきたが、それは黙秘権を行使して断固として拒否したと、私は事実をすべて明らかにしているのだ。
ところがその事実を平明に紹介することをしないで、清水一派は『二〇世紀の民族と革
命』に続いて『中核派民主派宣言』を組織内で講読禁止にしておいて、自分たちのデマゴギーがどんな卑劣なかたちであろうと組織内では通るような措置を講じておいて、私の言い分をねじ曲げて、政治的な階級闘争の任務で逮捕された場合においても私が黙秘権を否定したのだというように、一〇〇%のデマゴギーを放っているのである。
例えば中核派の組織員が交通違反事件で警察に尋問乃至逮捕された場合に、すべて黙秘を通すということが原則的な態度だと主張されているのか? よく考えてみれば判ることである。自分自身は社会から孤立・隔絶した生活を送っていて、社会の常識を失ってしまった清水丈夫、あらゆる現実社会との接触を避け、権力との接触(それがたとえ交通係の警察官であろうと)には気を失うほどに恐怖して、ただ無意味に非合法生活を続けている清水丈夫の意識を、『前進』は忠実に反映しているだけのことである。
「いやあくまで黙秘権を行使すべきだったのだ。黙秘をするかしないかは、中核派の弁護士を送ろうとしたのだから、指導部と相談してから方針を考えるべきだった」清水一派はなおもこのように言うかも知れない。『中核派民主派宣言』でも書いたようにA弁護士が電話をかけてきたことは、知っている。しかし私はすでにこの時点で中核派の組織とは同志的な関係をもてない状況になっていた。
九四年三月の謀略・略奪事件、政治局会議出席阻止事件が清水一派によって引き起こされたのであるから、私はいかなる意味でも中核派のの指導部を親しい同志、人間の心をもった人とは認められないとの態度を採っていた。九四年三月の謀略・略奪事件、政治局会議出席阻止事件について全面的に謝罪し、略奪物を一〇〇%返還しないかぎり、いっさいの関係を絶つと言明し、その旨を伝えてあった。だから弁護士を送ろうなどという行為自体、私からすれば余計なお節介であり、その背後に邪悪な意図が潜んでいることは歴然としている。人の住居に不法にも無断で侵入して一四〇〇冊もの書籍・雑誌、二〇〇冊ものノートを略奪し、住居にはそれ以上安心して住むことを不可能にした清水一派! 人間として住居を奪われることがいかに苦しいことなのか、それは非合法生活者にとっては最も痛切な問題であることは自明である。そういうきびしい苦しみを私たち夫婦に強いておいて、それについて謝罪もしない当の犯人が、弁護士を送って面倒を見るなどということを信用する人は、この世にはいない。
これで問題はすべて明らかになった。
この問題についての『前進』の誹謗・中傷の記事は極端に説得力が無い。白井が刑事事件について警察に喋った(それは当然だと私は元々言明している)という客観的事実に、「逮捕されるや否や、革共同を辞めると転向宣言した」とのデマゴギーをくっつけて、キャンペーンで組織内の恐怖政治を敷くためのものにすぎない。
「カクマルに屈服した」への反論
次にカクマルに私が屈服し、組織の情報をすべて話したからケシカランという『前進』のデマゴギーについて。
カクマル『解放』紙(五月一日付一六一七号)の記事は、私の家を彼らが訪問したという事実以外はすべてウソである。彼らは一体何をしに来たのか? カクマルの朝倉は私にむかって「いっさいのゲバの始まりは、七〇年八・三海老原事件にある。それ以前は小競り合いはあっても、殺害はなかった。ここから相互の戦争的状態が開始されたのだ。だから八・三を自己批判せよ」と私に執拗にくりかえした。
それにたいして私は当然にも「八・三事件の前にお前たちは一体何をやったのか? 炎天下で八・六広島に参加するためのカンパを必死で集めて、かなりの金額を集めたところを、お前たちはそれまで涼しいところで休んでいて、突然襲撃してきてカンパを略奪していった。卑劣なことこの上なし。言語道断だ。それを数日くりかえしたではないのか」「なぜ本多書記長を虐殺したのか」と非難した。
当然議論は堂々めぐりとなり、私は「四〇年間激しい対立をつづけてきたのだから見解が一致するはずがない。早く帰れ」と追い返した。これが真実である。私がカクマル幹部にたいして自己批判したとか、謝罪したなどということは、すべてカクマル反革命分子のデッチアゲである。『解放』紙上でカクマルがあたかも私が彼らにたいして組織内の事実を暴露したかのように書いている「事実」なるものは、すべて私が昨年の小冊子二点と『民主派宣言』で暴露したことを、彼らとの話しの席で新たに暴露したかのように粉飾しているものか、或いはカクマルのスパイ活動によって以前から知っていたことにすぎない。
それにしてもカクマル朝倉のあの腐って濁った眼は、一体なんと表現したらよいのだろうか? 私は六七年間生きてきて、あんなに気持ち悪い眼を見たことはない。腐って濁った眼こそ、人間の心を失った二重人格者の告白である。朝倉が持参した黒田寛一の廣松渉追悼文たるや、廣松が左翼スターリン主義をのりこえることがついにできなかったと一方で言いながら、実質的には全面的な礼賛文であり、廣松渉の表面上は旺盛な執筆=本の生産に完全な劣等感コンプレックスを抱いていて、それに苦しんでいることの表明である。
廣松支持者のあいだでも最後の主著と言われている『存在と意味』など亡くなる直前の著作は迫力がないと疑問があるのに、黒田寛一のあの賛美のていたらくは一体何だ。黒田寛一の思想的活力の喪失をまざまざと物語っている。こんな黒田寛一を依然として教祖としておしいただくカクマルに未来はない。それは腐りきった朝倉の眼がよく証明している。
カクマルは私の堂々たる批判の前に諦めて私の前から去っていった。これが真実だ。
カクマルのデマゴギーを一00%信頼する『前進』
清水丈夫よ、お前さんはいつからカクマル反革命の言い分を信頼するようになったのか?『前進』九九年九月二七日号(一九二六号)の「カクマルデマパンフを断罪する」では「白井は事実を知っているからこういうウソは書くはずがない。ここに書かれていることはウソである。したがってこのパンフは白井の筆ではなく、カクマルの作成によるものである」という三段論法で一貫していた。
いっさいの文章が私への信頼という基準の上に書かれていた。その点を私が『中核派民主派宣言』で徹底的に暴露し、「スパイ・警察の手先」と私を誹謗・中傷しながら、その実私をウソは言わない人格だと信頼して、私を正しい基準として私に依拠してカクマルの言い分を批判している。『前進』は自家撞着・支離滅裂だと批判した。清水丈夫自身が私をスパイだなどとは本気では思っていない。そのことを私が徹底的に追求して、その心理が文章に正直に表れている点を衝いた。
この批判がよほど痛かったとみえて、清水丈夫は今度はカクマルを一〇〇%信頼することに宗旨がえしたというわけである。なんとその見識のないこと、惨めなまでに私の批判にひとつひとつ動揺しているそのありさまよ!
とりわけ私の『中核派民主派宣言』の刊行によって清水一派が打撃を受けている点は次の二点である。
第一に私の著作の刊行によって、新左翼の良心的党派や知識人は、清水一派にたいする批判に起ち上がりつつある。清水一派のセクト主義と官僚主義に批判をもって中核派から心ならずも離れざるを得なかった同志たちも新たな意気込みをもって批判を開始しつつある。いまやセクト主義をのりこえて、新左翼の再生の途を歩もうとする新鮮な意思が大きく結集しつつある。六月十九日号、六月二十六日号とまったく無内容な私への誹謗・中傷の記事を、『前進』がたてつづけに掲載せざるを得なかったのは、新左翼の新たな改革の潮流を阻止しようとする惨めなあがきである。
第二に今回の一連の『前進』記事の最大の特徴は、『中核派民主派宣言』で私が最も力を注いだ清水丈夫の民族解放闘争にたいする全面否定の暴露への完全な沈黙である。清水丈夫の民族解放闘争にたいする身を焦がすような憎悪を暴露し、民族解放闘争を帝国主義国のプロレタリアートの階級闘争より一段も二段も低い次元の運動、いやそもそも反動的な運動とみなしているその思想的な根源は彼の「レイシズム」(人種差別主義の思想)にある。私はこのように徹底的に追及した。この批判に清水一派は完全に沈黙を守り、自分自身はこの批判に答える力がない、批判は正しいと認めてしまっている。
私の批判が事実であり鋭いから、清水丈夫はその痛みで全身が転倒するばかりに苦しみ到底答えられないのである。そして次に述べるように、朝鮮南北首脳会談の開催という歴史的な事態の展開は、清水一派の破産を白日のもとにつきだしたのである。
南北首脳会談の具体的な分析については「反論その二」を読んで頂くことにして、ここでは『前進』の二月一四日号西山論文の卑劣な二枚舌を批判しておこう。私が日本国籍を在日朝鮮人が取得すべきだと主張し、それが日帝入管当局の帰化攻撃と同一だなどというこの西山論文の真っ赤なウソは、誰も信じない。こんなデマゴギーで私を批判しようというのでは、およそ論争の勝敗は最初から明らかだ。
西山本人も自分自身では信じてはないこんな低劣なデマゴギーを、私の『二〇世紀の民族と革命』にたいする批判の中軸に据えなければならない、という事実こそ、清水一派がいかにプロレタリア国際主義を完全に喪失しているか、逆に証明している証拠である。日帝のかつての被抑圧民族たる朝鮮民族、在日朝鮮人・韓国人を清水一派がいかに蔑視しているのかを、証明していると言わなければならない。
在日朝鮮人はサンフランシスコ講和条約の発効直前に、一方的に日本国籍を日帝当局によって奪われた。私はこの「一方的に日帝国家権力が日本国籍を奪った」という歴史的な事実を問題にしているのである。在日朝鮮人作家・金石範(キムソッポン)氏は言う。
「日本敗戦後の一九四七年、在日朝鮮人を治安対象として管理、規制すべく外国人登録令が実施されたが(外国人のほとんどが植民地支配から解放された在日朝鮮人、中国人だった)後の韓国籍を含めて当時の在日朝鮮人全体を『朝鮮』と記載したのが始まりであって、いわば日本政府の勝手な表記だった。一九四八年、南・北分断政府樹立後、その一部が『韓国』記載になり、一九六五年の韓国・日本国交正常化によってそれが『国籍』化し、その他が『朝鮮』となって今日に至っている」
「日本政府は一九五二年四月、講和条約発効をまえに在日朝鮮人の『日本国籍』を一方的に剥奪して『外国人』とした。勿論民族的感情から在日朝鮮人が『日本国民』として残るかどうかは別として、少なくともその措置は『国籍選択権』を前提にしての当事者である在日朝鮮人の意思に基づくものでなければならない。そしてそれに準ずる何の保障も代替権利もないまま、いわば一文無しで、そうでなくとも朝鮮人にたいするひどい差別社会に放り出されて、日本国籍であれば当然受けるべき諸権利を失った。一例として戦争犠牲者に対する援護法による障害年金、遺族年金、遺族給与金、その他の補償が適用されないことが挙げられる(戦争中の徴兵朝鮮人軍人、軍属は三十七万。強制連行一六〇万、そのうち五万死亡)。その一方で日本政府は『国家百年の大計』として陰に陽に在日朝鮮人に対する帰化政策を協力に押し進めてきたのだった」(『世界』九九年五月号。「再び『在日』にとっての『国籍』について-準統一国籍の制定を」)。
この金石範氏の書き方ですべては明らかになる。植民地として支配されていたがゆえに宗主国・日本の国籍を朝鮮人はもっていた。しかし敗戦国日本は講和条約発効直前に、その国籍を一方的に、在日朝鮮人の意思を予め聞くことなく奪ってしまった。それは当時の在日朝鮮人のあいだでは日本共産党にたいする支持者が圧倒的に多いので、支配階級にとっては不利であるから、国籍を奪って選挙権を剥奪しようとの意思が働いていた。在日朝鮮人にたいして日本社会での政治的発言権をいっさい認めない政策であった。そのために金石範氏が指摘しているように、戦争中「日本人」として戦争に参加した在日朝鮮人の補償をいっさい認めないというおよそ在日朝鮮人を蔑視した理不尽なことが平気で罷り通ったのである。
私はこの視点から日帝当局の在日朝鮮人にたいする差別を糾弾しているのであって、入管当局と同じ帰化攻撃に屈服しているのだなどという西山論文のデマゴギーなど論外である。誰もこんなデマゴギーは信じない。
私は金石範氏が主張するように、朝鮮人の民族性を十全に保持したままの二重国籍が日本でも認められるべきだと考えている。日帝入管当局の民族性剥奪・帝国主義的同化主義の帰化攻撃と私の主張が同じだなどとは、とんでもないデマゴギーである。
ではなぜこんな誰も信じないデマゴギーを西山は書いているのか? それは西山本人が私の『二〇世紀の民族と革命』の批判が到底不可能だと絶望し、論点を一〇〇%ねじ曲げて誹謗・中傷する以外に方策がないからである。『二〇世紀の民族と革命』において、私は自称マルクス主義者がプロレタリア国際主義のもとに主観的にはプロレタリアートの戦列の強化、指導部の一本化ということを望んで、事実上の同化主義に陥りやすいことを指摘し、批判した。私の著作は全三三〇ページ(原稿にして四〇〇字約七〇〇枚)の全文すべては同化主義批判である。この同化主義者には、私はレーニンも含めており、ユダヤ人ブント批判の方法は破産していることを強烈に批判したのである。この私に向かって同化主義だとは一体何を言うのか?
また中核派がレーニンの一〇〇年前の破産した論理と組織論にもとづいて在日朝鮮人を中核派に組織するにあたって同化主義を基本とした「単一党」論に依拠して、民族問題に無理解・無関心な抑圧民族としての日本人の意識まるだしのままの「階級的指導性」なるものの発揮によって、中核派に接近してきた心ある在日朝鮮人青年を絶望させ、国際主義の党の建設を決定的に阻害してきた犯罪を私は改めて弾劾する。被抑圧民族の民族主義を否定して、階級性、実は日本人の無自覚的な民族性・民族主義をおしつけてきたのだ。
西山ももし『二〇世紀の民族と革命』を読んだとすればそれは判っているはずだ。だから批判は自分の力に余ると考え、私の主張を一〇〇%ねじ曲げて「民族性と民族解放闘争の無視・蔑視」と誹謗・中傷した。なぜか? 言うまでもなく自分自身が同化主義だからである。こういう誹謗・中傷の仕方、すなわち自分自身がいちばん痛いところを衝かれており、また自分自身では相手の批判が正しいことが判っているために、その相手の批判の内容を、相手そのものが犯した誤りだと図々しくも破廉恥にも歪曲してレッテルを貼る、これはまさにスターリンが発明した論争の方法である。スターリンが一九二二年にグルジア問題でレーニンの批判を浴びた時点で、彼は自分へのレーニンの批判をレーニンその人が犯した誤りであると偽って、レーニンにレッテルを貼ったのである。
民族解放闘争を私が否定している! 誰もこんなウソは信じない。私は『二〇世紀の民族と革命』でスルタンガリエフらムスリム共産主義者の役割を徹底的に称揚し、もしレーニンがこういう正しい立場にたっていたならば、ロシア革命はまちがいなくアジア革命として世界革命的に発展していただろうと論じているのだ。この論理に打撃を受けているために、清水一派は一八〇度逆のデマゴギーにすがり、スターリン主義の方法に依拠して私への誹謗・中傷をおこなうことに逃避したのである(「反論その2」については別途掲載)。
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