【提言1、諸国協和的民族主義運動を創造し満展開せよ |
(最新見直し2008.9.15日)
れんだいこのカンテラ時評354 | れんだいこ | 2008/01/14 |
【提言1、土着主義運動を志向せよ。近現代史に於ける日本の民族的独立に誉れを持て。日本左派運動は、国際金融資本帝国主義の詭計に陥ることなく、諸国協和的民族主義運動を新創造し満展開せよ】 | ||
只今より暫くの間、「日本左派運動再生へ向けてのれんだいこ提言」をシリーズでしていくことにする。まず、上記の提言を「日本左派運動再生へ向けてのれんだいこ提言1」とする。この見解は、筆者がインターネットに登場して以降に獲得したものであり、比較的新しい。主として太田龍・氏の見解から学んでおり、なるほどと思うので提言しておくことにする。 太田氏の観点から得たのは国際金融資本の裏政府的世界支配論である。識者の多くは、この見立てを陰謀論として却下している。筆者は、これを真実とみなし、国際金融資本帝国主義と命名する。いわゆるレーニン的帝国主義論は、各国ごとの帝国主義を論(あげつら)い、不均等発展に於ける新旧帝国主義の覇権争いの動きを分析しているが、金科玉条とすべき見立てなのだろうか。 真実は、各国帝国主義の背後に常に国際金融資本が潜んでおり、彼らが各国政府及び支配階級を制御し、掠奪植民地主義へと誘導し、内乱的革命により各国王朝を打倒し、あるいは懐柔し、戦争資金を用立ては戦争に次ぐ戦争を仕掛け、そのたびに支配権を拡大し今日に及んでいるとみなすべきではなかろうか。 今日、国際金融資本帝国主義の裏政府的国際支配は過去のどの時代よりも進んでおり、巨万の富を集積し、諸々の資源、食料、流通、消費ルートを押え、金融、保険、証券、株式市場をコントロールし、軍事、原子力、宇宙工学の最先端の動きを調御している。グローバル化、ワンワールドは彼らの標語であるが、その支配完成が寸前のところまで至っているとみなす。筆者は、彼らの支配を支えるイデオロギーをネオシオニズム、その系譜をユダヤ教パリサイ派、その表出権力を米英ユ同盟とみなしている。この辺りになると、太田龍・氏の見解とどこまで一致するのか分からない。そういう意味で、筆者なりの咀嚼の産物であることをお断りしておく。以下、論証する。 近現代史の特徴は、西欧世界に於ける国際金融資本帝国主義即ちロスチャイルド派金融資本の台頭と共に、彼らに世界が操られ、呑み込まれて行ったところにある。こう窺うべきではなかろうか。マルクス的資本主義論、レーニン的帝国主義論は、この実態をそれとして見ずむしろ隠蔽する煙幕的役割を果たしているのではなかろうか。 日本はその趨勢の中で、黒船の到来とともに対応が問われることになった。結果的に、半分召し取られ半分自律的に独立した稀有な国家となり民族となった。世界史を見よ、近代化しつつも独立性を維持した国が日本の他にあるだろうか。幕末維新の偉業はこの面から評されねばならない。最近、幕末維新の偉業を落とし込める理論が流行りつつあるが変調であろう。物事には両面があり、両面から捉えねばならないのではなかろうか。 幕末維新は、上からの武士革命と下からの民衆革命の双方が牽引した回天運動であった。同時にネオシオニズムの走狗達による国家権力簒奪運動であった。両者から構成された倒幕派は最終的に内乱を回避させたが、それは国際金融資本帝国主義の姦計策動を見抜いた叡智であった。こうみなすべきであろう。 回天の結果樹立された明治新政府は、後に天皇制絶対主義を生みだす水戸学派的国粋主義糸と後に西南の役で壊滅させられる西郷派的土着左派系と国際金融資本帝国主義系の寄り合い世帯三派から構成された。故に、明治維新以降の流れは底流では、前二者の独立系と後者の売国奴糸が抗争していたという裏史実があるように思われる。 戦前の日本左派運動は、このことに余りにも無自覚なままにやり過ごしてきた。それを思えば、下手なイデオロギーを持たない百姓一揆の方が、あるいは無政府主義の方がまだしも眼目を得ていたようにさえ思われる。西南の役に象徴される士族の反乱、それに続く自由民権運動が押し込められ、代わりにマルクス主義が登場することになったが、いずれも単に西欧に憧憬する欧化主義的なものであり、日本左派運動史上に本当に役立ったかどうか分からない。 戦前のマルクス主義系日本左派運動は、ネオシオニズムに裏で操られるコミンテルン式国際主義運動に随伴してきた。これは戦後も然りであり、明治維新以来続くいわゆる「洋もの被れ」の系譜であった。ここに、人民大衆的支持を今ひとつ取り損ねている原因があるように思われる。そういう意味で、日本人民大衆の賢さを見て取るべきだろう。日本が固有の歴史的発展の中で培ってきた人民大衆的闘争史は卑下されるべきではなく、もっと誇りと誉れを持つべきである。「洋もの」を正しく吸収し、肉付けしていくべきべきである。 このような見地から、我々は一刻も早く在地主義土着型の左派運動を獲得せねばならないのではなかろうか。西欧事象の猿真似をすれば先進的などと気取る必要は一切ない。それらは咀嚼すべき対象であって拝跪するものではない。このスタンスの確立が肝心なのではなかろうか。 日本左派運動史上、在地主義土着型の左派運動の必要に逸早く気がついたのは、戦前の転向派であった。但し彼らは概ね、時の支配権力であった絶対主義的天皇制の礼賛に転じただけの機会主義者となった。あるいは、国際金融資本帝国主義の秘密エージェントとして身売りした。 そういう意味で、日本左派運動の正統系譜としては、戦後直後の左派運動を指導して来た徳球-伊藤律系の日共運動を嚆矢とする。但し、徳球-伊藤律系運動の展開時はGHQ統治下にあり、この絶対的な権力の壁を押し切る力はなかった。やがて「50年分裂」を迎え、所感派としての自律的立場を確保したが、朝鮮動乱下の混乱で非合法化されるに及び北京へ逃亡した結果、結局はスターリン式国際主義の権威に服し、中共式革命方式を指令することを余儀なくされた。 この武装闘争が失敗して以来、徳球-伊藤律系運動の灯が消え、以来この系譜は消滅したまま今日に至っている。これを撲滅したのは宮顕であった。彼は、「50年分裂」時、声高に国際主義を標榜し、徳球-伊藤律系の自主独立型運動に敵対した。その宮顕は、徳球-伊藤律系運動破産の間隙を縫って党中央へ返り咲き、1955年の六全協で党中央を簒奪し、その後今日までこの系譜が日共党中央を一手独占し続けている。 宮顕系日共運動は、中ソ対立に対して中共に与し、その後中共とも対立すると云う経緯で余曲折を経て「自主独立」に転ずる。その経緯を見れば、「宮顕式自主独立」は日共の私物化の為に生み出されたご都合主義のものであり、在地主義土着型の左派運動を創出するものではなかった。国際共産主義運動に辛うじて維持されていた共同討議と云う正の面があるとすれば、その正の繋がりさえをもをひたすら破壊に狂奔する悪辣なものでしかなかった。ここに、宮顕式自主独立路線のイカガワシサがある。 しかしながら思うに、日本左派運動の推進母体的地位を持つ日共をして、その動機はどうであれ、「自主独立」に転じせしめたのは功績ではあろう。問題は、正しく自主独立し、在地主義土着型の左派運動を担うと同時に、それを軸足にしながら国際主義的連帯をも生み出すべきではなかろうか。ここに現代的左派運動の責務が課されていると窺うべきではなかろうか。 日本左派運動は長らくの間この見地から離れて、戦前の日本帝国主義の非を論(あげつら)い、日帝打倒こそ日本左派運動の責務とする立場でもって左派性を競ってきた。しかし、事はそう単純ではないのではなかろうか。戦後日本国家権力が、国際金融資本帝国主義から自律して独自の権益を張り巡らした帝国主義的史実はない。戦前も然りであったが、国際金融資本帝国主義によって育成され、その枠内で活動しており、今や使い捨てにされようとしている脆弱なものでしかない。 我々は、幕末維新から明治維新を通して日本が東アジアに於ける最初の近代化を為し遂げたことを正と認め、その背景に日本民族のしなやかな叡智があることを見て取らねばならない。これを称賛せねばならない。同時に、その成果が、国際金融資本帝国主義への身売り派によって捻じ曲げられ、東アジアに於ける帝国主義国家として成育せしめられ定向進化せしめられていった挙句召し捕られたことを見て取らねばならない。最新の研究はこのことを明らかにしつつある。 この観点を共有するならば、日本左派運動が矜持とする立場は、第一に反国際金融資本帝国主義運動に対する闘争であり、今日的にはイスラム運動と連帯することになる。第二に幕末維新期以来の正の面としての人民大衆解放運動を見据え継承すべきであろう。我々は権力一般を忌避するのではなく、権力をして抑圧機構から転じて正しく善良せしめる官民共同の共生装置へと転換せしめるべきであろう。可能な限りこれに向かうべきであり、各戦線でこれを為すべきである。 この運動は、空疎な国際主義に基くものであってはならない。国際主義ワンワールド運動は、国際金融資本帝国主義の奏でる詭計イデオロギーであり、騙されてはならない。各国各民族は固有の文化と歴史を継承しつつ、ネオシオニズム的選良主義、排他主義、独善主義に汚染されることなく、正しく諸民族協和の国際主義の水路を生み出さねばならない。これを為す為に「精神の自律、政治の自律」を勝ち取らねばならない。「精神の自律、政治の自律」無きのっぺりな国際主義は究極ネオシオニズムに繋がる悪しきそれであることを知らねばならない。 以上より、「提言1、近現代史に於ける日本の民族的独立に誉れを持て。日本左派運動は、国際金融資本帝国主義の詭計に陥ることなく、諸国協和的民族主義土着型運動を新創造し満展開せよ」を指針させる。これを第一指針、第一提言としておく。 昨今の日本政治を見よ。国会に巣食う与野党ともどもの馴れ合い談笑政治の貧困を見よ。議員貴族達による田舎芝居ばかりではないか。一見善政と見える要求あるいは施策でも、手前の懐が痛まない限りの無責任なものでしかない。このご時勢で更にとめどなく軍事防衛予算を注ぎ込み、自衛隊の武装派兵を積み重ね次第に常在化させつつある。 他方、これほど内地が荒廃しつつあるのに口先だけでしか顧みようとしない。真に有益な公共事業が見送られ、明日の活力からみてどうでも良いような利権事業、国家の補助金稼ぎに勤しんでいる。国家も家計も財政が悪化しつつあり、政治がこれに有効な対応を為し得ない。その癖引き続き国際金融資本の御用聞きに精励している。全く馬鹿馬鹿しい限りではないか。 この連中にはこの程度の事しかできないのであり、我々が権力を握り政治を為すべきである。その為に何を為すべきかのグランドデザイン作りに向かうべきである。左派能力の脳髄を絞り英明な政策指針を打ち出すべきである。道中で例え国際金融資本の走狗にテロられようとも、次から次へと人士が輩出しよう。歴史というものはそういうものである。人は齢五十を過ぎればそのように立ち向かうべきである。そう思う。以上を「提言1」としておく。 高橋和巳が、「生活に根ざし生活の中からにじみ出る果汁のように思想は形成されるべき」と述べているとのことである。まことにその通りではなかろうか。日本左派運動は未だにここに至っていない。 2008.1.14日、2008.4.2日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)