【提言4、戦後憲法秩序をプレ社会主義と確認し護持成育せしめよ】 |
(最新見直し2008.10.21日)
【提言4の1、「上からの革命果実」としての戦後憲法秩序の導入】 |
「戦後日本をどう規定すべきだったか。戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと確認し、「戦後日本=プレ社会主義」こそ始発の原理にせねばならない。今からでも遅くない護持成育せしめよ」、これを「れんだいこの左派運動に対する提言4」とする。今日から評するのに、「戦後日本をどう規定すべきだったか」と云う問題がある。筆者は、戦後日本左派運動は早くもここで重大なミステークをしたと考えている。そして、この遺風が未だに続いているとみなしている。どういうことか、以下解析する。「提言4の1、『上からの革命果実』としての戦後憲法秩序の導入」とする。 1945(昭和20).8.15日、大日本帝国は、連合国軍のポツダム宣言を受け入れ降伏した。これにより日本帝国主義が解体され、連合国軍GHQの統制下に入った。米太平洋方面陸軍総司令官ダグラス・マッカーサーが連合国軍最高司令官に任命されたことから明らかなように、戦後日本は米国の指揮権下に組み入れられつつ社会改造されていくことになった。 超規的権力として君臨したGHQは、当初ニューディーラー派に担われ、ポツダム勅令に基いて「日本国の再戦争遂行能力の徹底除去としての天皇制権力構造の解体」、その裏合わせとしての「日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化」を図った。幸運なことは、「日本国民の自由に表明せる意志に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府の樹立とそれによる新憲法策定」を配慮したことにあった。 これにより「日本国主権的な上からの革命」が着手されることになった。この革命の真の問題性は、この「上からの革命」が、近代−現代世界を牛耳る国際金融資本に操作された「ネオシオニズム・シナリオ革命」であったことに認められる。「日本国主権的」ではあったが、巧妙にカモフラージュされていたとみなすべきであろう。戦後に本論に於いて、視座をこのように据えることが少ない。 それはともかく、GHQは、1・帝国軍隊の解体。2・帝国主義関連団体の解散。3・皇国史観イデオロギーの一掃。4・戦前的反体制運動の犠牲者として獄中に捕らわれていた主義者の解放。5・労働組合運動の公認化。6・財閥解体。7・農地改革。8・天皇の人間宣言等々に象徴される日本改造諸政策。それらの総纏めとしての9・憲法改正指令を矢継ぎ早に導入した。 1946(昭和21).11.3日、GHQ改革の精華として新憲法が「日本国憲法」として公布され、1947(昭和22).5.3日より施行された。この経緯については、「戦後憲法考」(daitoasenso/sengodemocracy_kenpo.htm)に記す。 特筆すべきは、この憲法をどう看做すかにある。戦後憲法は、「上からの革命の果実」としてもたらされたものであることは間違いないが、問題は、この果実の中身である。筆者が見立てるところ、日本国憲法は、米ソ対立を踏まえて戦後日本を米国側に取り込む必要という歴史的事情に負ったと思われるが、摩訶不思議なほどに米国憲法、ソ連邦憲法、第1次世界大戦後の敗戦国ドイツに導入されたワイマール憲法よりもなおルネサンス民主主義的な理念と制度を導入していた。 新憲法が策定されていた時、これをどう評するかの眼力が問われていた。が、当時の社会科学、歴史科学の水準は、資本主義対社会主義の対立と云ういわばステロタイプ的な公式主義的マルクス主義理論の見地から評する程度のものが最高の知性という状況にあり、これを人類文明史の流れを当時の歴史情況に於いて相対的に論ずると云う真っ当な評価を為すことができなかった。 新憲法が骨抜きにされ解体改正されつつある今日の局面に於いて判明することは、戦後日本国憲法に結実した理念及び制度は、資本主義対社会主義の枠に納まらないそれ自身価値を放つ極めて先進的な良質憲法ではなかったか。その由来は、この時期のGHQの政策推進主体であったニューディーラー派の見識に負う。筆者が見立てるところ、当時のニューディーラー派の見識は、これまたこの時代限りに許容されていた「ネオシオニズム左派」ではなかったか。あるいはネオ・シオニズムを突き抜けていたかも知れない。 そういう事情により、筆者は、この時期の戦後日本憲法秩序ないし社会を、世にも珍しいルネサンスが花開いた時代と認識している。これを日本人民大衆から見れば、戦前的統制が外され、今日のネオコン式ネオシオニズム的悪政に侵される前のルネサンス的息吹を詠う、いわば健全な時代のアメリカン民主主義が生硬に移植され、スターリニズムに歪曲されたソ連邦的社会主義実験史に比較してもなお人民民主主義的にして、日本古来よりの伝統的な上下睦み合う醇風美俗香る「和的蓮華社会」が創出されていたと見直している。それ故に、筆者は、この時期の戦後日本を「プレ社会主義」とみなしている。 人民大衆は直覚的にこれを見抜き、故にこれを歓迎し、戦後復興に勤しむこととなった。しかるに、左右両翼の主義者運動の大部分がそれぞれ公式主義的な理論を弄び、右派は戦前的天皇制秩序の解体を嘆き、左派は「プレ社会主義」とみなして尊ばねばならないのに、これをブルジョア憲法と規定して批判に向かうと云う逆対応インテリジェンスを発揮することになった。こうして、「戦後日本プレ社会主義」を護持せんとする人民大衆と、その否定に向かう主義者運動と云うボタンの掛け違いのまま戦後の政治、思想、宗教運動が進んでいくことになった。 但し、かく美化するだけでは足りない。もう一つ念押しで補足しておく。戦後日本には、敗戦国の悲哀として、戦前的支配秩序に代わってネオシオニズムが公然と侵入し、戦後的支配秩序を彼らが企図するままに敷設していくこととなったことに注意を喚起しておく。他方、ネオシオニズムと戦前的天皇制イズムの対立の狭間を縫うかのようにして、戦後的下克上による土着的な新支配秩序も生まれ始めた。いわゆる成り上がりである。結局のところ、この両者が併行してそれぞれの戦後を創っていくことになる。こう見立てなければ、戦後の政治構図が動態的に捉えられない。 両者がそれぞれ定向進化し、やがてぶつかり、ネオシオニズム派が完全制覇する結節点が1976年のロッキード事件であり、それまでの今しばらくは両面からの考察が必要と思われる。戦後学生運動の巻頭論評に当たって、これらのことを指摘しておきたい。 最後に付言しておけば、戦後日本左派運動は、共産党の場合、体制内穏和主義運動として日共化することにより護憲姿勢を見せていくようになった。これにより「戦後日本のブレ社会主義」擁護派に位置することになった。これは日共にとって僥倖であった。今日までの日共の支持基盤の堅牢さはここに要因があると認めるべきであろう。但し、日共の護憲理論は、社会党的護憲理論と共同戦線化するよりも、独善化することで反動的役割を果たしていくことになる。この面も見ておかねばなるまい。 他方、新左翼は、日共に対する体制内穏和主義運動批判が嵩じて、戦後憲法秩序をブルジョワ体制として批判し続けていくことになった。これにより「戦後日本のブレ社会主義」解体派に位置することになった。これは新左翼にとって不幸であった。今日までの新左翼の支持基盤の虚妄性はここに要因があると認めるべきであろう。 ここに気づいただけでも値打ちがあろう。後は、自己批判を通じて大胆に軌道修正することができるかどうかである。それができるかどうかが見ものである。できなければ、筆者が自前の党建設で驀進して行くだけのことである。 2008.10.21日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評355 | れんだいこ | 2008/01/15 |
【提言4その2、戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと確認し、今からでも遅くない護持成育せしめよ】 | ||
我々は長らくの間、マルクス主義の俗流的教条により、戦後憲法秩序をブルジョア体制と評し、これを転覆せしめての社会主義−共産主義への革命的転換を標榜してきた。通念化した理論であるが、これを疑う必要があるように思われる。結論を先に述べれば、「戦後憲法秩序=ブルジョア体制論」は、理論の貧困によりもたらされた誤認識ではなかろうか。 筆者は、「共産主義者の宣言」(一般に「共産党宣言」と訳されている)の英文テキストに基く翻訳により、市井の訳本の拙さと意図的故意としか考えられない誤訳悪訳を指摘している。これについては、詳論「共産主義者の宣言考」(marxismco/marxism_genriron_gensyo_sengen.htm)に記す。筆者は、この種の研究が一向に為されていない事が不思議である。ましてや「共産主義者の宣言」と云えば基本中の基本テキストだろうに。 筆者訳から判明することは、歴史の偶然なのか意図的に導入されたものなのかは分からないが、マルクス−エンゲルスが同書で指針させた「革命の青写真」即ちプレ社会主義的政策指針の大部が、戦後日本社会にそのまま適用されているという驚きの事実である。戦後憲法が採択公布された時、日本左派運動に理論的知者がいれば当然、これをプレ社会主義憲法と認め、歴史の僥倖に感謝しつつ遮二無二その護持成育発展を目指したはずである。が、史実はそのように受け止めなかった。安逸なブルジョア体制批判運動に耽っただけだった。 こういう次第だからして、戦後日本左派運動はそもそもオカシゲな役立たないヘンチクリンな方向に向かうことになった。穏和系の社共は、戦後憲法秩序をブルジョア体制と認識したまま、まずは民主主義革命を遂行するのが優先だとして議会主義的な反政府運動を専らとし、合わせて護憲運動に向かうことになった。護憲という面では辻褄は合っているが、その真意には、社会主義−共産主義運動を当面の目標にせずむしろ排斥するという、口先はどうであれ革命を遠ざける意図が込められた運動でしかなかった。つまり、社共運動は本質的に当局に投降迎合した体制的なものであり、無責任なアリバイづくりだけの口先批判運動に堕したものでしかなく、護憲運動も叉防御的なものであった。 問題は、これを否定出藍しようとした新左翼系運動がどのようなものであったかにある。彼らは、戦後憲法秩序を教条主義的にブルジョア体制と認識することにより、戦後憲法秩序をブルジョア秩序の偽装とみなし、その権力的本質を引き出すという戦略戦術で否定破壊運動するところまで定向進化していくことになった。それを支えるエートスが社会主義−共産主義的理念であり、この善運動の正義のためには何事も許されるとしてきた。暴力主義的体質はここに胚胎しているように思われる。 この種の運動が急進化せざるを得ないのは自明であるが、権力と対峙して行使される場合にはある種認められようが、戦後憲法秩序のプレ社会主義性に対する暴力的破壊に向かうとなると考えものであろう。この種の運動が革命的であったかどうか疑わしい。むしろ単に観念的善運動でしかなく、実際に為したことは反動的であったかも知れない。 思えば、新左翼が共感を得たのは、60年安保闘争時の第1次ブント運動のタカ派岸政権の反動的施策に対する果敢な闘争に対してであり、70年安保闘争前の全共闘運動のハトタカ混淆的佐藤政権の対米盲従ベトナム政策に対する果敢な闘争に対してであった。人民大衆は、プレ社会主義的戦後秩序の破壊者に対する抵抗を願望しており、新左翼がこの願望を代替する形で闘う姿勢を見せた時に共感したのであり、彼らの理論に共鳴したものではなかろう。なぜなら彼らの理論は独善的思弁的でかなり難解な辟易するだけのものでしかないから。 筆者は今はっきりと分かる。新旧左翼両者が戦後憲法秩序をブルジョア体制と評してきたことそのことがそもそも誤りなのではなかろうか。戦後憲法秩序は世界史上稀なるプレ社会主義性のものとして認識し称揚していくべきではなかったか。これまでの運動は、本来のこの歴史要請に対して正面から向かいあっていないのではなかろうか。 皮肉なことに、戦後憲法秩序をプレ社会主義と認識したかどうかは別として真に護持成育せしめてきたのは、戦後与党を形成してきた自民党の主流派を一時期形成したいわゆる保守系ハト派であった。これに人民大衆が広範に列なった。池田−田中−大平政権下の施政が特に顕著であったが、彼らが戦後憲法秩序に即応した政治を舵取りしたところに世界史上稀なる経済復興と高度経済成長が獲得されたのではなかろうか。今から思えば善政時代であったのではなかろうか。 但し、その政治も、左右両翼から挟撃されて、1976年のロッキード事件勃発とともに始まったハト派からタカ派への戦後保守主流派の政権交代により終焉する。タカ派の政権奪取とともに日本は失速し始める。その要因は、タカ派が戦後憲法秩序に具現されたプレ社会主義秩序及び機構及び精神を破壊解体せしめ始めたからである。この国益を損ない、国際金融資本の下僕と化してきたからである。 タカ派のらしさは、ハト派が優先してきた内治主義的な公共事業を抑圧し、外治的な軍事防衛事業への散財に認められる。興味深いことに、宮顕−不破系日共の公共事業抑制論は、社会福祉費増大を要求しているものの、タカ派的公共事業抑制その代わりの軍事防衛国際責務論と通底していることである。この両者は、ネオシオニズム論を介在させると裏で共同していることが透けて見えて来る。 タカ派は、「提言2」で指摘した国際金融資本の御用聞き政治を専らとしており、対外的には米英ユ同盟の腰巾着外交を繰り広げ、自衛隊の海外武装派兵で「米英ユ貢献」に勤しみ、国内的には善政の産物である年金制、医療制、均等社会、内治主義的公共事業制を破壊し、つまり国際金融資本帝国主義の願う通りの売国奴政策に精勤している。これが現代日本政治の本質であり、お粗末さの原因である。民主党の政権交代論が、これに抵抗するものならともかく、この政策延長上での政権争いに興ずるだけなら何の意味もなかろう。 筆者は、このように見立てする。とならば、自ずと結論は次のようになろう。日本左派運動の採るべき道は、タカ派の売国奴政策と太刀打ちし、憲法改正策動を許さず、戦後のプレ社会主義を護持生育せしめ、この地平からの後退を全戦線で阻止せよ。むしろ逆攻勢的革命的護憲運動に向かうのが筋と云うものだろう。 思えばこの点に於いて、日本左派運動の新左翼系が掲げた理論は一切虚妄なものではなかったか。これに比して、社共運動が一定の支持を受けてきたのは、戦後憲法秩序の護持ゆえではなかったか。今新左翼は、このことを悟るべきだろう。ここから導き出される結論は次のようになろう。社共的弱弱しい護持運動ではなく、プレ社会主義論に立脚した戦闘的護憲運動を展開せよ。 以上より、「日本左派運動は、戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し、護持成育せしめよ。これを第2指針とする。第1指針の民族主義的土着型運動と結びつけよ」に続く「第2提言」としておく。 2008.1.15日 れんだいこ拝 |
【提言4その3、日本左派運動が戦後日本=プレ社会主義論を生み出せなかったのがそもそもの間違いである。「戦後日本=プレ社会主義」こそ始発の原理にせねばならない】 |
今、筆者は、戦後学生運動の歴史を振り返り、筆者も参加したその運動を見つめ、今日の惨状に照らす時、或る種の感慨を抱いている。一つは、戦後左派運動が戦後革命を流産させたことについての感慨である。二つ目は、戦後革命は流産して良かったという感慨である。前者の意味では日本左派運動の能力が問われており、後者の意味では見識が問われている。戦後左派運動は、この両観点に於いて失敗するべくして失敗したとの感慨を湧かせている。以下、この感慨を検証していくことにする。これを、「提言4その3、日本左派運動が戦後日本=プレ社会主義論を生み出せなかったのがそもそもの間違いである。「『戦後日本=プレ社会主義』こそ始発の原理にせねばならない」とする。 筆者は、戦後革命の失敗理由その1として、そもそも「戦後日本の歴史的社会的規定」を誤っていたのではないかと考えている。戦後日本を、ステロタイプ的なマルクス主義的歴史理論と資本制社会論で概括し、よろず反権力、体制否定に向かったのはマルクス主義理論の硬直的機械的当て嵌めではなかったか。 日本左派運動は、その程度の頭脳しか持っていなかった為に、それを覆い隠すために小難しく語り、あるいは空元気な大言壮語ないしはそれに基づく行動のみを競ってきたのではなかろうか。こう受け止めないと、2009年現在の政治貧困が解けない。 事実は、戦後日本は、これを相対的に見れば日本史上のみならず世界史上に於いても輝く稀なるプレ社会主義的な社会状況を創出していた。それは、独特とも云える日本史の和的発酵的発展史の伝統にも合致していた。かく認識し、そのプレ社会主義を強めるのか弱めるのかを廻って、権力側に立つ派と人民大衆側に立つ派との綱引きが行われることが期待されていたのではなかったか。 この時期、日本左派運動は、何としてでも権力を奪取し、ロシア型マルクス主義とは違う日本型マルクス主義により戦後社会のプレ社会主義制を踏み固め更に創造発展させていくべきであった。それが世界史的使命であった。その可能性が大いにあったのに、その政治責任の重圧を引き受けようとせず、徒に安逸な体制批判運動に終始したのではなかったか。 左派運動が健全であり有能ならば、人民大衆側に政治を引き寄せ政権を奪取し政治責任を引き受けるべきではなかったか。ロシアのように、中国のように。そしてロシアとも中国とも違う日本的革命方式に於いて。実際には、敗戦により進駐軍と云う名の国連軍という名の国際金融資本の傭兵に過ぎない米軍の統治下にあり、決して叶わない重圧下にあったのではあるが。しかし、少なくとも理論としてはそう構えるべきであっただろう。今にしてそう思う。 これが問われていたときに、戦後日本左派運動は、徒な反権力、体制批判運動に終始し、政権奪取に向かわない、担わない、つまり政治に責任を負おうとしない、左派ポーズ的気取りに過ぎぬ、あらぬ運動に横ズレした運動に向かったことで、運動史を蓄積せぬまま単に費消させていったのではなかろうか。 これを善意に窺えば、当時は、ロシア10月革命に続く日本革命を夢見ており、ロシア10月革命を憧憬するのに忙しく、戦後日本革命を引き受け担うには能力も責任感も無さ過ぎたということになるのだろうか。後付けで見えて来る話ではあるのだけれども。しかし、後付けであろうが見えてこないとどうしようもないではないか。 2008.3.26日、2008.7.2日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)