【提言13、日共の国際ユダ邪親和的本質こそ疑惑せよ |
(最新見直し2008.9.3日)
【提言13、日共の国際ユダ邪親和的本質こそ疑惑せよ疑惑せよ】 |
以下のことに注意を喚起されたい。驚くことに、有能の士が体制側に入り込み、政府与党内のハト派に位置し、戦後日本のプレ社会主義を牽引したのに対し、この間、日本左派運動の本家的地位にある共産党内部では逆事象が発生している。 戦後直後、日本共産党を再建し、党中央を形成したのは徳球−伊藤律系であった。徳球−伊藤律系は、1947.2.1ゼネスト、1949.10月革命等々に大きな政治的なヤマ場をつくりながらも、次第に戦後革命を流産させていった。当然、政治責任は問われるべきであろうが、進駐軍の重圧下のことでもあり割り引かねばならないだろう。いずれにせよ、戦前戦後を通じて一筋の真紅の革命派であったことは間違いない。まずここが合点されねばならないのに、多くの論者は早くもここで徳球−伊藤律系批判のボルテージを上げることで左派の証とする変態性を見せている。これにつき異論を持つ者が望むなら、筆者はいつでも受け太刀することを約束しよう。 1955年の六全協で、徳球−伊藤律系党中央がイニシアチブを失い、野坂−宮顕系が政権を奪取し新党中央を形成した。野坂−宮顕系党中央は、戦前も日本共産党を最終的に瓦解させたいわくつきのスパイ同盟であり、戦前党史が正確に綴られ学ばれていたならば再登場させてはならない、有り得てはならない闇の同盟であった。 これを知らない知らせない党史論による洗脳によって、この闇同盟が再度党中央を牛耳ることになった。結果は火を見るより明らかで、次第に本来の共産党運動を撲滅解体し始め、仕舞いには似ても似つかぬ共産党に変質させてしまって今日に至っている。筆者は、これより共産党という表記を止め日共と記すことにしている。戦後共産党運動は、野坂−宮顕系党中央以来の日共運動に辿り着いたことにより大きく捩れて行くことになった。 六全協後のこの捩れが日本左派運動に新型の運動を産んでいくことになる。1956年、まず革共同が、国際共産主義運動の歪曲に抗するという形で、1958年、革共同に向かわなかったもう一つの急進主義派の全学連主流派が日共の変質に抗する形でブントを生み、両者相まっていわゆる新左翼系運動を創出した。これを歴史的必然と看做さないわけには行くまい。 ブントの誕生経緯を確認しておく。ブントの元祖系譜たる全学連中央の武井派は元々、徳球−伊藤律系党中央に叛旗を翻すところから運動を始発させた。その頃、宮顕はしきりに急進主義的言辞を弄んでいたので自然と誼を通じることになり、かくてブントの元祖系譜はこれに騙された。しかし、野坂−宮顕系が六全協で党中央を簒奪して以来、宮顕は本来の地金である右傾化路線を敷き始めた。全学連急進主義派はこの反動に堪らず、新党運動の立ち上げに向かうことになった。これに徳球−伊藤律系党中央支持派が連動し、国際派系列の島−所感派系列の生田の指導する第1次ブントが結成され、反日共新左派運動を創出していった。かく了解すべきであろう。 野坂−宮顕系日共は、この新左翼運動の徹底殲滅に向かう。野坂−宮顕系日共の戦闘性はこの方面にのみ発揮されるという史実を遺している。他方で、徳球−伊藤律系時代には幾分か痕跡していた政権奪取を指針から取り外し、党運動を徒な口舌批判運動に捻じ曲げていった張本人でもある。しかも、政権与党内のハト対タカの争いに於いて、陰に陽にタカ派と誼を通じ、ハト派叩きにシフトしてきた形跡が認められる。60年安保闘争時の変調指導然り、党内反対派駆逐手法然り、新左翼運動敵視指導然り、全共闘運動解体策動然り。 その中でも最大の事案は、ロッキード事件に於けるハト派総帥の田中角栄に対する執拗な政界追放運動であったであろう。今日なお居直り正当化し続けているが、追って史実が不正をなじろう。角栄派とそれに連動した大平派同盟こそは、戦後日本左派運動のもうひとつの裏の流れの代表であり、これに徹頭徹尾敵対した日共の反動性は醜悪極まるものである。これからでも遅くない徹底解明検証されねばならないであろう。 もとへ。この間、結成間もないブントは、目前に控えた60年安保闘争に組織を挙げて玉砕していった。これを第1次ブントと云う。第1次ブントの真の功績は、政府自民党内のハト派対タカ派の抗争に於いて、タカ派総連合として登場していた岸政権を退陣に追い込み、吉田以来の流れを汲むハト派池田政権を誕生せしめ、その後二十余年に亘るハト派主流派の時代を引き寄せたことにある。筆者に云わせれば、これが第1次ブントの史上に燦然と輝く最大功績であった。 しかし、第1次ブントは、マルクス主義の字面的教条主義に染まっており、その急進主義性を競うと云う功罪相半ばする理論により自らが歴史に刻んだ手柄を確認できぬまま、60年安保闘争後の虚脱に陥り、これに合わせるかのように日共と革共同の集中砲火を浴び、最終的に革共同に吸収される形で解体するという憂き目に遭う。つまり、日本左派運動の唯一の成功事例の赤子をタライごと水に流してしまった。ブントはその後再建されるが、分裂に忙しく第1次ブント的偉業を為さぬまま今日に至っている。 日本政治運動はかような捩れの中にある。戦後学生運動は、こういう構図の下で、捩れに無自覚なままに担われてきた形跡がある。かなりな高等数学的組み合わせの捩れの中にあるので、これを当時の青年学生運動が見て取れなかったしても致し方ない面もあろう。問題は、今日の時点に於いて、どう確認するかである。ごく平凡な通説的な正義論を説く者は、よほど幸せ者と云うべきだろう。 2008.3.26日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)