命題4  戦後日本左派運動の陥穽考

 (最新見直し2008.7.7日)

【戦後左派運動の陥穽考】
 1956(昭和31)年頃、後に新左翼となる急進主義系の全学連運動が発生した。その定向進化を見ておくことにする。「定向進化」としたのは、ひとたび敷かれたレール上を行き着くところまで進むことになるだろう、そこまで至らなければ是非判断ができないという意味合い表現している。今日から見て云えることは、急進主義系全学連運動は「革命を夢見る」者達の純粋無垢な正義運動であったが、近代−現代史を牛耳る真の権力体である国際金融資本帝国主義に対して全く無知蒙昧で、為に全く無警戒な、彼らにうまく操られる危険性まで帯びた左から迎合する国際主義運動にひたすらのめり込んで行った様を見て取ることができる。如何に精緻に理論展開しようが所詮おぼこさと哀しさを見て取ることができよう。これを筆者の総論としたい。

 筆者の見立てるところ、日本左派運動の本家たる共産党内で徳球系から宮顕系への宮廷革命式転換により、日本左派運動の解体が「上からの反革命」により急速に押し進められていた時、真に望まれていたのは宮顕系への転換を認めない許さない運動であった。且つ、徳球系も見過ごしていた戦後憲法のプレ社会主義性に着目しての擁護受肉化運動であった。

 戦後日本に訪れた史上稀なるルネサンス社会を、世界のどこよりも進んだプレ社会主義なる社会とみなして、これを成育発展せしめていくべきであった。いわゆる混合経済体制であったが、それを市場性社会主義の理論を創造することにより是認し、官民棲み分けの均衡的発展を目指していくべきべきであった。徒に無国籍型の国際主義にぶれず、各国在地内での土着性社会主義を目指す革命なり改革に向かうべきではなかったか。

 ところが、戦後マルクス主義派は、穏和系も急進系も、これらを全て否定する方向に靡いてしまった。穏和派は、戦後日本をプレ社会主義の具現態であるとする新理論的切開のないままに、口先で体制批判するものの、その実は「当面はブルジョア革命に向かう戦略戦術を良しとする」という変調二段階革命理論で体制内化運動に帰還するという二枚舌的変調に陥っていくことになる。

 これを仮に社民、社共運動と命名する。社民、社共運動は、戦後民主主義を「ブルジョア民主主義」と規定したまま、「ブルジョア民主主義擁護の護憲運動」に向かうことになった。この指針は、運動内部から社会主義革命を遠景に追いやるという犯罪的意図に導かれていた。しかも当初は「社会主義革命に直接転化する民主主義革命」とされていたのを次第に「社会主義革命との関係を問わない独立したブルジョア民主主義革命」方向にシグナルし始めた。「ブルジョア民主主義擁護の護憲運動」はこの流れにあるが、この理論の変調さに気づかぬとしたらお粗末と云うしかあるまいに、社共運動はこれを延々と説教していくことになる。

 他方、戦闘的左翼は、戦後日本社会をも資本制の変種と規定して、その種の「ブルジョア民主主義」を否定し、「プロレタリア民主主義」を対置しつつ社会主義−共産主義革命へ向けての反体制運動ないしは体制打倒運動を呼号して行った。戦後日本のプレ社会主義性を認めず単にブルジョア民主主義と規定し、いわばステロタイプな教条主義の道を競うように急進主義化することで立場を証明してきた。本来は、戦後民主主義のプレ社会主義的要素を革命的に護持成育発展せしめて行くべきではなかったか。

 こうして、穏和派も急進派も、「戦後日本秩序=プレ社会主義論」を生み出さないまま虚飾の左派街道へ分け進んでいくことになった。これは、理論の貧困のもたらすものであった。筆者はそのように了解している。

 皮肉なことに、戦後プレ社会主義の価値をそのままに尊び市場性社会主義の道を無自覚のままに舵取りしたのが、戦後下克上による成り上がり勢力のうちの政権与党内革新派であるように思われる。彼らは万年批判的な野党運動に逸早く見切りをつけ、政権中枢に入り込むことにより与党的責任政治を引き受けて行くことになった。吉田茂を開祖とする「吉田学校」がその水源地となった。1955年に自由党と民主党の大同合併により自民党が結成されるや、後に頭角を現す池田隼人、佐藤栄作、その弟子達の田中角栄、鈴木善幸、大平正芳らに象徴される有能士が列なることになる。

 この連中が概ね自民党内ハト派を構成し、戦後保守主流派を形成し、戦後から1980年初頭まで即ちタカ派系の中曽根政権登場までの間を、政府自民党を運営するという現象が生まれた。こうして、日本左派運動が虚妄の道をひた走るのに比して、このグループが、自らを保守体制派として位置づけながらその実プレ社会主義を担っていくことになった。こうなると大きな倒錯、捩れであったが、この倒錯が倒錯と映らず、戦後政治運動は捩れたままに推移していくことになる。

 1970年代に結実した田中−大平同盟は体制内プレ社会主義を目指すハト派の精華であった。この時期までに戦後日本は大きく発展を遂げ、世界史上にも稀なる戦後復興から高度経済成長時代を湧出させた。その彼らは、国内的には鉄壁の支配体制を敷いていたが、思わぬところから痛撃を見舞われる。

 1976年、ロッキード事件が勃発し、戦後ハト派の精華を具現していた田中角栄が捕捉され、鉄の結束を誇っていた田中−大平同盟が解体せしめられることになった。代わって登場するのが国際金融資本帝国主義の露骨な下僕にして売国奴路線を敷く中曽根であり、彼を総帥として群がった連中が政府与党内タカ派を形成し始める。戦後日本政治は、これにより大きく逆流していくことになる。ロッキード事件は、その意味で戦後政治の大きなターニングポイントであった。こう位置づける必要があろう。この時、宮顕−不破系日共が、狂気の角栄政界追放を繰り広げた史実を疑惑する必要があろう。
 
 思えば、戦後左派運動が目指すべき本来の運動は例えば、かっての日本社会党的政策を持つ党派が政府与党となり、国内の左右両翼を御しながら、世界の諸対立を御しながら、戦後憲法精神で邁進していくべきであったのではなかろうか。これが実現すれば、世界が羨むプレ社会主義を率先謳歌していったのではないかと思う。実際の社会党はこれを担う能力も気概も理念もない余りにもお粗末な軌跡を遺している。

 筆者が見立てるのに、戦後直後の共産党を指導した徳球−伊藤律運動も未完のままに歴史に漂っている。戦後保守主流派のハト派運動もまた同じく未完のままに漂っている。凡そ良質なこれらの運動が放擲されたまま、どうでも良いその他運動が跋扈している。こう捉えるべきではなかろうか。

 日本左派運動の良質の道を捉え損ねた新旧左翼が、そのなれの果てに見たのはどういう現実だったであろうか。この場合、全否定とか全肯定は馴染まない。或る部分正しく或る部分間違っていたとみなすべきだろう。間違いは良い。問題は、間違いを見つけたときにどう対応するかにある。これを為すには、常に、議論と反省と相互批判と総括を媒介させ繰り返さねばならないだろう。残念なことに、これができないのが日本左派運動であり、日本左派運動にはそういう宿ア的習性があることも認めねばならないだろう。

 さて結論。日共系運動は評する価値もないので言及しない。僅かに言及に値する新左翼運動について言及すると、急進主義系の全学連運動は赤軍派まで定向進化した。筆者はそう見立てる。赤軍派の心意気は良いとして求めた青い鳥は海外に居ただろうか、かく問いたい。その赤軍派の総破産を前にして教訓とすべきは、各国人民大衆は、各国当地の青い鳥を探すべきで、その上での国際連帯の道を模索すべきであるという結論へと至るべきではなかろうか。

 そもそも在地主義と国際主義は矛盾しないのに、在地性土着性を否定する国際主義をもって左派とするのは空理空論であり有害であったのではなかろうか。我々はこれに酔い過ぎていたのではなかろうか。しかしてそれは、ネオシオニズムの扇動するタブラカシの国際主義に乗せられていたのではなかろうか。思えば、ネオシオニズムこそ本質は在地性土着主義運動であり、これを内に秘めた限りでの国際主義であろうに、その詐術でしかない無国籍型国際主義に軽々と乗せられていたのではなかろうか。

 興味深いことに、赤軍派の指導者にして獄中二十年余を経て出獄してきた塩見氏が今、在地性土着性社会主義を創造しつつある。ネオシオニズムに対する観点は持ち合わせていないようであるが、大いなる理論的成果ではなかろうか。パレスチナへ向かった日本赤軍の指導者の一人重信房子も同様の視野を示しており、よど号赤軍の指導者・田宮もそう指針させていた。してみれば、在地性土着性社会主義思想及び理論は、身命賭した赤軍派ならではの獲得物ではなかろうか。というような気づきを誰か共有せんか。




(私論.私見)