命題2 | 運動自身の中に目指すものを具現せよ、その逆は不可 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「運動自身の中に目指すものを具現せよ、その逆は不可」を者しておく。 2008.1.10日、2008.8.10日再編集 れんだいこ拝 |
【運動自身の中に目指すものを具現せよ、その逆は不可(はじめに)】 |
2008年時点で「別章【れんだいこの日本左派運動に対する提言綴り】」を書き上げ、今日(2022年)まで経過しているが、何か言い足りない気持ちが拭えなかった。最近そういう気持ちが高まり、私自身が何を言おうとしているのか胸調べして「そうだ、これだ」というものに気づいた。これを書きつけておく。 書き失していたものは「運動自身の中に目指すものを具現せよ、その逆は不可」の命言である。聡い者には説明不用であろうが、私自身の思念を強くする為に復唱しておく。要するに、現在2022年の夏、安倍元首相の白昼暗殺劇に遭い、容疑者が勝共連合統一原理に対する怨恨からの犯行と供述したことを奇禍として、勝共連合統一原理とは何者か報道が連日続いている。私の興味は、そのことに増して1970年代の時点より日本左派運動が逼塞したのに比して、勝共連合統一原理が着々と勢力を扶植し現在では政権与党中枢に深く食い入っていることの方に注目している。本稿では勝共連合統一原理問題に言及しない。勝共連合統一原理問題から逆照射される日本本籍の政治運動、宗教運動、その他その他の団体運動の逼塞ぶりを問い、その原因を尋ねたい。 そういう問いから生み出されたのが本稿の「運動自身の中に目指すものを具現せよ、その逆は不可」の命言である。日本本籍の政治運動、宗教運動、その他その他の団体運動の足らざるものとして、目的と手段の混同ないしは両者の接合齟齬による倒錯があり、その否定事象をそのままにして昔ながらの杵柄で餅を搗き続けているので、運動としてはさっぱり要領を得ないことになっているのではなかろうかという思いをバネにしている。仮にこれを旧式運動とすれば、これから述べる新式に転換させねばならぬのではなかろうか。以下、れんだいこの新式運動論を開陳する。 2022.8.21日 れんだいこ拝 |
【運動自身の中に目指すものを具現せよ、その逆は不可】 |
「運動自身の中に目指すものを具現せよ、その逆は不可」。これを「命題2」とする。これを提言するのは、ここでは戦後日本左派運動を念頭に置いているのだが、それが旧左翼であれ新左翼であれ、何故に成功裡に首尾が進展しないのであろうか。必ず原因があるはずであるという思いから切開して見る。結論は、要するに理論と運動の未熟と云うより齟齬にあるのではなかろうか、ということになる。どういう風に齟齬しているのかというと、運動目的に対する追っかけ方が禁欲的と云うか過剰統制と云うかあらぬところで戦っていると云うか、これをカメラレンズで表現すればピンボケになっている。ここに運動逼塞の原因があるのではなかろうか。 その実態を別の言葉で云えば「外在的」とも云えようか。こちらの表現の方が能く分かるかもしれない。れんだいこが思うに、運動はすべからく内在的でなければならない。もっと的確な表現を求めているのだが今はこの言葉を使っておく。要するに、運動体が求めているものを、組織は組織内にまず具現せねばならない。これを仮に天理教式に「ぢば」(地場)と表現すると、運動体が求めている方向に向けてその「ぢば」(地場)を同心円的に拡大し続けていくことが求められている。よってその最初はごく少数の模型モデルになる。その運動体が世に適合しているものであれば、最初の模型モデルが次第に大きくなる。少なくとも停滞したり後退するなどの局面は考えられない。あるとすれば、運動体が強権的に妨害されたり弾圧された時のみで、それでさえ逆に跳ね返して行けば進展する契機となる。この流れが次第に大河になり奔流となり政権奪取にまで向かうのが自然であろう。だから、運動体が現在局面でそれほど酷く妨害、弾圧されていないのに組織としての伸長がないとならば、その組織内に要因を認めるべきである。 これを少し具体的に述べてみよう。護憲運動を採り上げる。護憲派が護憲を云うからには、党内に逸早く護憲運用状態を具現するのが責務である。外に向けて護憲を云いながら、党内で反護憲的規律を敷き、何食わぬ顔で護憲第一の政党が我が党でございますと吹聴するのは、オカシイのではないのか。普通にはこれをペテン師又は詐欺師と云う。具体的にどこの党がと云わない。恐らく多かれ少なかれ、全ての政党にその傾向が認められるのではなかろうか。例証一として代表選を採り上げる。護憲派が護憲を云うからには、その党の代表選を憲法規定的に公明正大に執り行うのが筋だろう。残念ながら、まだしもマシなのが自民党の代表選で、その他の政党の代表選は選挙にならなかったり、票数カウントの閉鎖、機械任せカウント等による不正選挙戦に堕している。こういうことで、護憲を云う資格があるだろうか。 次に民主集中制と分派に関する組織規律論を採り上げる。興味深い事に、日本の政党では今日に至るまで、この規制を最も緩くしているのが自民党である。逆に最も厳しくしているのが共産党と新左翼系又は反日共系諸派である。民主集中制と分派に関する組織規律論に関する限り、共産党と新左翼系又は反日共系諸派は同じ穴のムジナ関係にある。組織規律論に関する自民党とそれら諸党との差は、根底的にはいわば人間論、徒党論に絡む認識の差であり、れんだいこの評で゜は、自民党の方が大人(成人)組織論、その他諸党の方が子供(未成人)組織論ということになる。少し考えてみるだけで分かる事だが、強権民主集中制と分派禁止を組織内に敷けばその時の党中央は未来永遠に反対派を封殺でき恒久的安泰が保証されることになる。革命の弁証法で云えば典型的な反革命派であることになる。党内に於けるそういう反革命派が、党外に向けては革命、改革、改良を指針せしめて賛同を得ようとするのは二枚舌でうあろう。私はそのように了解するので、民主集中制の強権化と分派禁止論を掲げる組織と絆を結ぶことは永遠にない。 (略) 以上のことが分かれば、今より以降、「まずは手前達の運動自身の中に目指すものを具現せよ、そのミニチュアを育成として模範足らしめよ、その逆は不可」を実践すべきである。このことを申しておく。 2022..8.21日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)