【提言7、民主集中制論を否定せよ】

 (最新見直し2008.9.3日)

Re:れんだいこのカンテラ時評358 れんだいこ 2008/01/18
 「民主集中制という名の党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義論、権力分限制論に転換せよ」、これを「れんだいこの左派運動に対する提言7」とする。これも議論を呼ぶところであろう。

 「提言6」で、外に向けての統一戦線論の胡散臭さを指摘したが、内へ向けての党中央権限集中制論が対応していると思われるので、これも批判せねばならない。党中央権限集中制下での団結とか統一の過度な強調は、党中央拝跪主義を生むだけのことではなかろうか。実際にはそうは云わず民主集中制なる素敵な用語を生み出しているが、規約を改正していけば容易に党中央集中制論へと辿り着くことになる。実際に党中央拝跪主義でしかない民主集中制論が振り回されており、日本左派運動が大きく毀損されてきたことは承知の通りであろう。

 彼らは何ゆえにかような組織論に固執するのであろうか。目前に決戦的な闘争が控えているのならある種の有事対応として考えられないこともないが、日共的なずぶずふの体制内化議会主義運動に何の必要があろうか。為にする党内の統制的強権支配以外の何ものでもなかろう。


 党中央見解及び指導に対する異見、異論、異端は党内に常に担保されるべきであり、堂々と開陳されるべきではなかろうか。筆者は、最低限綱領さえ一致するなら党内分派(派閥)さえ容認されるべきと考えている。組織と云うものは元々そういうものだと考える。党中央派と反党中央派が共存し、各派閥が前提されてこそ民主集中制論が真に生きるのであり、戦後自民党のハト派が主流時代に模範的な党運営をして見せた史実がある。つまり、できない訳ではない、御し能力の問題ということになるであろう。

 左派運動内に機能する民主集中制論はそういうものではなくて、党員が一枚岩的に党中央に列なるべしという恐ろしい整列衛生理論として鼓吹されている。これにより、異見、異論、異端、分派一切が極端に制約され、封殺され、禁止され、撲滅されてきた。イカガワシイ話ではなかろうか。それを思えば、組織論、運動論の両面からこの悪しき理論を追放せねばならないであろう。

 更に云えば、党中央に対する盲目的服務こそ左派運動にそもそもあってはならない原義矛盾ではなかろうか。我々が社会運動に目覚めた際、自由自主自律的な自覚に基いて眉目を開いたのではなかったのか。ならばそれをどこまでも貫徹するのが筋だろう。それをどこで間違えたか、どう云い含められ納得したのか分からないが、いつのまにやら反対物を信仰し始めているのは滑稽であろう。


 
理論には異論、異端がつきものであり、組織には分派の発生は当たり前のことであり、その上での結社であろう。結社と云うものはそういう類いのものではないのか。自由自主自律的な結社にして組織も運動もしなやかになるのであり、真の団結になるのであり、能力者を呼び込み、互いの練磨で組織も運動も質が向上し、大きなうねりを作り出す。いわば「自由自主自律規律」は虎の子の元手である。これを捨てたら、ありきたりの権力的凡庸なものにしかならないのではなかろうか。反体制運動が権力的凡庸なものに被れることは原理矛盾ではなかろうか。

 そのような組織、運動への拝跪を要請したり受諾するのは、学んで馬鹿に成る典型であろう。異論、異端、分派を取り込めないような組織なり運動なら止めてしまえ。もっとも世の中複雑だから、組織潰しで送られてくる連中も居る。こういう場合には別基準が要るだろう。そういう意味で、「紅い心」の仲間同志ならと云う条件にしておこう。但し、これを誰が判定するのかを問わねばならず、下手をすると振り出しに戻ってしまう。何事も大事なところが難しいとしたもんだ。ここに智恵と能力と分別が要る。


 内部がそのように形成された党派にして初めて外部に輝き始め、次第に外へと運動が迸(ほとばし)り始め、しこうしてそれは共同戦線論となり、多くの勢力を糾合せしめ、一大政治運動に発展するのではなかろうか。そういう意味では内の論理も外の論理も相似形であり、内輪の在り姿が外にも表出すると分別するべきではなかろうか。

 「党中央の云うことはその通り」的組織、運動ほど詰まらなく、左派運動を壊すものはあるまい。組織ないし運動に於いて異論、異端、分派は芸の肥やしであり、むしろ尊重せねばならないというのが、そもそもの近代精神の始まりにして日本古来の群れ方も然りなのではなかろうか。これはあらゆるところに通用するし通用させねばならない法理ではなかろうか。「内で強権支配、外で民主主義擁護」を云う手合いほど信用できないものはなかろう。これが通用しているから嫌らしい。

 実際、日本左派運動史に於いて、戦後直後の党運動を指導した徳球−伊藤律系運動はこれを踏まえていた。かの時代、党大会に対案が堂々と提起されていたことを思えば。徳球がオヤジと愛唱され畏敬されたのは、宮顕の云うが如く家父長制の然らしめたものではなく、組織論的懐(ふところ)の深さに対して敬愛された表現であったと窺うべきだろう。(「日本共産党戦後党史の研究」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi.htm)の該当箇所で確認すれば良い) それにしても宮顕−不破運動は何と無茶苦茶な党組織に改竄してしまったことよ。


 以上を踏まえ、次のように見立てねばならない。統一と共同、強権と民主は大きく食い違って対立しており、別の表現で云えばロゴスとカオスの差でもある。ロゴス派は、この世を万事に於いて神=真理的な整理序列化に向かう癖がある。ロゴスを専らとする最強勢力は、かのユダヤ教パリサイ派であり、かの昔イエスが果敢に批判し続け処刑された。

 ロゴス論理は現在的には国際金融資本が依拠する哲学でありイデオロギーである。この連中は去る日「シオン長老の議定書」で意思統一し、陰謀とテロルを得手としながら以来着々と世界を席捲しており、巨万の財貨を積み上げ戦争とシオニズム革命に勤しんでいる。その手法が今や地球環境を破壊するところまで定向進化しつつあるというのに為すすべを持てない。我々は一刻も早くこの汚染から脱出し、対抗力を生み出し、彼らの時代を終わりにせねばならない。

 世界の諸民族は、彼らを除けば概ねカオス派である。カオス派は絶対的定言を持たず、森羅万象から筋道を読み取り、それなりの倫理道徳を生み出し折り合いをつけながら暮らし、互いにそこそこの付き合いをしていくという弁えを持っている。それは自然との関わり方も然りである。この暮らし方でどこがオカシかろう。ユダヤ教パリサイ派を除けば殆どの部族民族が共生し得る。昔からそうしてきた。交易も然りである。無数のシルクロードを生み出してきたではないか。それで良いのではないのか。

 
我々が尊ぶべきはカオス派的秩序であり、ロゴス派的絶対真理の如意棒ではない。さような棒を振り回して「我は正しい。選ばれた民である。君は我になびけ。さすれば名誉と地位と権力を与えよう。下につく者にはそこそこの生活を与えよう。我に刃向かう者は徹底して殲滅してみせよう」などと云いながら、これを行う者は理論的狂人である。その狂人が現代世界を支配、テロリスト退治を声高にし無慈悲な人民大衆虐殺に興じている。その論に同調する者がまま居るのが現実だがオゾマシイ。今や世界史は、この狂人派を押さえ込む知性を獲得し、彼らを如何に制約し矯正し共生するのかが望まれている。これが時代のテーマであろう。

 考えてみれば、党中央は、指針打ち出し権、人材登用権、財務及び予算権を握っている。それで充分満足すべきだろう。その上何を欲張ることがあろう。異論、異端、分派が発生するのは当然と弁え、後は指導能力で牽引すればよい。その能力のない者あるいは邪な者が権力棒を持ち出すのではないのか。そして万年同一系執行部をん十年にわたって作り上げている。どれもこれもオカシイ。

 2008.1.18日 れんだいこ拝




(私論.私見)