命題6 | 政治運動を事業と捉える目線を獲得し理論を再構築しよう |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.8.21日
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
これも言っておきたいことである。即ち、政治運動、その目的を革命に据えるなり改革、改善に取り組むなり、それはその時期時機に対応すればよいとして、それらを一貫して事業として捉える感覚、認識、実践が欲しいと思う。これを少し掘り下げてみることにする。案外と凄く重要な事を指摘する気がする。
2008.9.15日 れんだいこ拝 |
【革命事業考】 |
日本左派運動の指導理論は永らくマルクス主義であった。その理論の古典的適用と現代的創造と呼称する新理論のどちらに重きを置くかで諸派が生まれたという経緯がある。れんだいこは、にも拘わらず共通して陥っているマルクス主義の陥穽に気づいている。本稿の指摘より後は、この指摘とどう向き合うのかの詮議を抜きにして通れない。 それは何か。解は、「革命は事業である」というテーゼを承知することである。このテーゼは、マルクス主義の基本中の基本である「ブルジョアジーとプロレタリアートという二大階級の最終決戦としての革命論」に深く関わる。どういうことかというと、マルクス主義は資本家としてのブルジョアジーの打倒を通じての社会主義、その先に共産主義社会を構想しているが、ここに陥穽がある。 ブルジョアジーの打倒を通じての社会主義革命を実際に引受け担うとならば、その時点で革命は事業となる。ならば、革命を事業として捉えた場合、その担い手の党派運動は革命運動を事業家せねばならず、党員の意識も個々に事業家にならざるを得ない。運動主体側が、この「事業家になる」という感覚を身につけないと、その運動が首尾よく成功することはない。であるにも拘わらず、ここのところの意識が、目下の左派運動、党派運動に欠落している。このことが運動を首尾よく進展せしめられない主要因になっているのではないのか。 興味深いことに、プロレタリアートが事業家になる時、階級敵であるブルジョアジーは「事業家の先達(せんだち)」であって、事業の担い手という一線では自ずと誼(よしみ)を生む関係にもなる。よしんばブルジョアジーの事業とプロレタリアートの事業は目的と質が違うという面があるにせよ、先達(せんだち)の事業家として位置づけ学ぶことはできるのではなかろうか。こうなると、ブルジョアジーの位置づけをブルジョアジー階級敵論だけで済ませて事足れりとするのは扁平すぎることに気づこう。運動理論にはこの両面からの睨みが必要なのではなかろうか。 事業は何であれ、そう平坦な継続ではない。片手間でできるようなものではない。その成長も衰微も、集団的な高い能力と意志を結合させてこそ成長するものである。党派と党員がそういう事業精神とその実践能力を持たない限り革命に成功することはあり得ないのは自明であるのに、この観点を欠落させたままマンネリ運動に勤しんでいるように見受けられる。為に万年空念仏的運動に終始せざるを得ず、その結果として今日の如くの衰微に陥っていると承知したい。 目下の日本左派運動は、「革命は事業である」というテーゼに背を向けたまま、実際の生活ではともかくも精神的理論的には安逸を貪っている。本来、「革命は事業である」としてその事業能力を生み出すべき営為を怠り、その代償として、雇用の期間中を、マルクス主義の搾取理論に基づいてブルジョアジー攻撃する。それでいて雇用を解雇されるとなると、不当解雇だとしてブルジョアジーを攻撃する。どちらに転んでもブルジョアジーを攻撃できる便利な理論に耽っている。プロレタリアートが革命事業の精神とその実践能力を持っておれば、雇用と解雇についてもっと真剣な議論と交渉に精出すことができよう。あるいは生産管理的な運動を創造し始めるだろう。そういう拮抗関係の果てに、能力に応じて革命の内実がたぐり寄せられるのではなかろうか。 日本左派運動が、「革命は事業である」というテーゼに忠実であるならば、農林水産工業、その他文化的芸術的伝統的団体等々あらゆるところから知恵と経験を学び生かそうとする筈である。その際、広範な共同戦線的繋がりを求めて翼を拡げて行くことになろう。これを思えば、「革命は事業である」というテーゼに背を向けたままの組織による運動は視野が狭く、手前たちの利益を主にして相争い、排除の論理を振り廻し、結果的に革命事業を毀損する。これらは「革命は事業である」というテーゼに対する背徳から生まれていると読む。 今、かっての学生運動、その後の労働組合運動、大衆団体運動等々が追憶され映画、ビデオ、小説、講演、議論等々がそれなりに生まれている。興味深いことは、ここでも革命は事業であるというテーゼに対する背徳からの回顧が主流になっている。どういうことかというと、日本左派運動を局面的に盛り上げた方向の出来事よりも衰微方向に作用した出来事の方に傾注する傾向がみられる。具体的には言わないが、こう指摘すれば合点されるだろう。 れんだいこは違うと思う。「革命は事業である」という観点から、その盛り上げに寄与した運動をこそ積極的に採りあげ共感を呼び起こすことが肝要である。具体的に指摘すると、戦後最初期の全学連創設運動、砂川闘争、60年安保闘争、70年安保闘争に向かう全共闘運動、特に結成大会の壮観等々が挙げられる。これらを基調にしたうえで、他のトピックス的運動に言及するのなら構わない。日本左派運動の盛り上げに目を向けない、日本左派運動の衰微に寄与した方向のものばかりに目を向けるのは、事業的観点からは失敗策の表彰でしかなかろう。もっと成功策を映し出さないといけないのではないのか、こういう義憤がある。 以上、思いつくまま(続) 2008.9.15日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)