【提言17、学生運動の可能性と限界考】

 (最新見直し2008.9.3日)

【提言17、学生運動の分限と功罪考】
 学生運動の今日の低迷水準と、筆者が既に還暦前に至ろうとしている分別の両面から次のようなことを云わしてもらおう。

 一般に、青年とは、ひた向きな純粋さの面があるものの、残念ながら、その時流の価値判断まで為し得る分別智がない、というか欠けており、純粋さが時流に翻弄され易い面があるのではなかろうか。つまり、青年の若さは功罪相半ばしているように思われる。

 青年が時流に流される場合、その時流が正の流れである場合には青年の能力は如何なく発揮される。それは良いとして、逆の場合には、こと志と違って邪悪な勢力に利用されたり、壮大な消耗に終わる、あるいは徒に衝動的なままに立ち振る舞う事で社会に害を与える。

 学生運動もこの例に漏れないのではなかろうか。学生運動にも正の面と負の面がないまぜになっており、いわば本能的に正の面を追及して行くべきところ、時に負の面に入り込み、あるいは現在の如く身動き取れない事態に陥ったりする。これを如何せんか。良き指導者が必要とされる所以がここにある。但し、この場合の良き指導者とは、居たとしても千年に一人、万年に一人であり、歴史の流れから見出す以外にない。これが、筆者が学生運動史検証の結果、会得した見立てである。

 最後に提言しておく。青年学生運動は三種類の性格のものから構成されているように思われる。一つは、社会に対するプロテストとしての抗議運動。二つ目は、改良的改革運動。三つ目は体制変革運動。この三系は全体的には関連しながら当面は質の違うものであり、このボタンの取り違えがないよう運動を推進すべきではなかろうか。

 筆者が見るところ、抗議運動を無理矢理に体制変革運動化せしめたり、体制変革運動化せしめるものを改良的改革運動にしてみたりのチグハグが目立つ。これまた英明な指導者が待たれる所以である。

 2008.8.19日、2008.9.14日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)