社青同解放派史2

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.11.20日

 これより前は、「社青同解放派史1」。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「社青同解放派史2」を記す。とりあえずの中間的な素描である。


【1969(昭和44)年】

【社青同解放派創設】
 1969.9月、社青同急進派の主流を形成していたグループが「日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派」(以下、「社青同解放派」と記す)を旗揚げし、その政治組織として革命的労働者協会(革労協)、学生組織として全国反帝学生評議会連合(反帝学評)を結成した。この時点の拠点校は明治大学。この流れを創出したのは中原一(本名・笠原正義)氏、滝口弘人高見圭司狭間嘉明らであった。 中原一・氏が革労協の書記長、社青同解放派筆頭総務委員に就任した。機関紙として「解放」(旧「革命」)を発行する。

 革労協結成をめぐっては、(社会党都本部の三分の一を占めるほどの)反戦派の内、解放派の初期メンバーが中心になって結成した社会党内グループである「革同」(社会党革命同志会)との分岐の問題があった。
 中原一(なかはら はじめ)/氏の履歴(1940年 - 1977.2.12日)

 新左翼活動家。本名・笠原正義。革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の最高指導者。革労協書記局長、社青同解放派筆頭総務委員。

 広島県江田島生まれ。神奈川県立湘南高校卒業。1959年、東京大学入学。1961年、在学中に日本社会主義青年同盟(文京支部東大本郷班)加盟。1966年、社青同学生班協議会解放派議長に就任。1968年、社青同東京地本書記次長に就任。1969年、社青同東京地本書記長に就任。東大文学部卒業。1969.9月、革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の結成に参加。以降、書記局員として社青同解放派を指導した。1970.6月、日本社会党を除名。

 1977.2.11日、茨城県取手駅付近で革マル派に乗っている車を挟み撃ちにされ鉄パイプで頭などを滅多打ちにされ、翌12日朝、頭蓋骨骨折で死亡した(享年36歳)。事件後、革マル派は事実上犯行を認めるコメントを発表した。革労協は機関紙で革マル派との「『戦争』関係に突入した」と宣言した。4.15日、埼玉県浦和市内で政治組織局員の藤原隆義ら革マル派メンバー4名を焼き殺した。中原書記局長が殺害されたことを契機に革労協は狭間嘉明ら内ゲバ・軍事路線志向の「狭間派」と滝口弘人、高見圭司ら大衆運動・労働運動を重視する「労対派」とが対立し、1981.6月に分裂した。

 革労協結成宣言は公然と社民・民同解体を主張した。このことが1970年以降社会党解放派パージの理由となった。パージを逃れた者も、これ以降社会党内で解放派として活動することはできなくなった。
 太田派も第9回大会の決定を拒否し、事実上の分裂活動を始めた。

【社青同解放派の拠点】
 「ウィキペディア(Wikipedia)社青同解放派」。
拠点労組青年部 全水道東京水道労働組合
全逓信労働組合東京地本青年部、東京南部地区青年部
私鉄総連東急労組青年部
国労高崎地本
自治労大阪市従青年部、川崎市職青年部
拠点大学校 東京大学駒場キャンパス(滝口、中原、五辻、福島、三井反帝学評議長67、平石、白形)
東京大学本郷キャンパス(浦井、野見、石井、稲川、八十島)
早稲田大学(不抜の政経、二法、理工、文連、早稲田祭実行委員会。大口昭彦、三島浩司都学連委員長65、北村行夫都学連書記長65、高橋幸吉三派全学連書記長66、石橋興一全学連委員長69、浜口、工藤永人(小嵐九八郎)らを輩出。本人たちは「社青同」解放派よりも、「早稲田」解放派を自認していた)
法政大学(中核派より多い時代もあった。10.8羽田の前日、中核派が襲撃)
明治大学(荻野反帝学評議長69を出す。70年代前半の明大和泉反帝学評は自らを「独立反帝学評」と呼び独自の路線を歩む傾向もあった。80年代以降は、労対との分裂で神奈川大の解放派が弱体化した結果最大拠点校へとなっていった。とは言え、明大生え抜きの解放派学生は少なく、実際には他大学出身の活動家の詰所になっていた。一大拠点でありながら全学連委員長経験者を出していない)
上智大学(服部反帝学評議長)
東洋大学(内城全学連委員長70を出す。協会派との闘争に敗れ拠点を失うが、90年代に労対系の学生が存在していた(現在はいない)。
駒澤大学(法文経自治会として2000年代前半まで存在。学園祭実行委員会も仕切っていた)
神奈川大学(70年代の最大拠点、北條全学連委員長72を出す。分裂の際、生協に拠点を持つ4.20グループ等学内多数派は労対についたが、全学自治会の執行部は狭間系が握った。しかし労対との分裂の結果組織は大幅に弱体化し、自治会運営も他大学の外人部隊でなんとか維持できるぐらいまで落ちぶれた。そして1996年、國學院大學たまプラーザキャンパスで起こった革マル派学生への内ゲバ殺人事件に絡む強制捜査で全学自治会は当局によって潰された。現在神奈川大では学生自治会の設置は禁止されている)
慶應義塾大学日吉(工学部及び日吉自治会、北見全学連委員長75を出す)
横浜市立大学(竜井反帝学評書記長69)
東京外国語大学(滝口弘人の出身校)
東北大学山田茂樹を出す。80年代に中核派が台頭するまで学内の運動を統率していた)
福井大学(ワンダーフォーゲル部が解放派拠点サークルとして機能し、多くの活動家を輩出した)
名城大学(東海における最大拠点)
関西大学(関西における最大拠点)
九州大学(九州における不抜の拠点。狭間嘉明、石井真作、臼田夜半らを輩出)
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/2392694.html
東京女子大学(69年11.18、大学別逮捕者2番目、1番は東大、3番は早稲田)
小樽商科大学(北海道における唯一の拠点であったが、1973年革マルの襲撃により崩壊)
ヘルメット 日本社会主義青年同盟(社青同/プロ統全学連 )
全国反帝学生評議会連合(反帝学評/プロ統AISC )

【社青同解放派が佐藤首相訪米阻止闘争】
 1969.10-11月決戦 (当時の首相佐藤栄作の訪米阻止に向けた一連の闘争)。日本生産性本部、日本工業倶楽部、総理大臣官邸、自民党本部、NHKに突入。

【社青同解放派が銀座駅周辺騒動】
 1969.11.13日、銀座駅の周辺の地下街でデモを行った後、銀座駅、泉岳寺駅で火炎瓶を投擲するテロを発生させる。通行人や乗客ら16人が巻き込まれて火傷などの重軽傷を負う。

【中核派、社青同解放派ら八派と革マル派が日比谷野外音楽堂で集団会戦】
 11.28日、日比谷野外音楽堂の集会で、中核派、解放派ら八派と革マル派が衝突。 「双方竹ザオをふりまわし、投石しあって大乱戦。負傷者十数人がでた」(立花隆、1975、上巻)。

【革マル派が糟谷君虐殺人民葬集会を襲撃、日比谷野外音楽堂で集団会戦】
 12.14日、日比谷野外音楽堂、糟谷君虐殺人民葬で中核派、解放派ら八派に対し革マル派が襲撃。 「双方合わせて1500人が日曜日の日比谷公園を舞台に大乱闘をくり広げ、50人が負傷」(立花隆、1975、上巻) 。

【1970(昭和45)年】

【社青同解放派・革労協が社会党都本部占拠、13名が除名される】
 1970.5月、革労協が社会党都本部占拠。革労協の13名が除名される。

【社青同解放派・革労協の70年安保決戦】
 1970.6月、安保決戦(工場からの反乱を政府中枢へ)。

【向坂派が作製した第10回大会議案(中執多数派提案)が否決される】
 1970.7月、中央委員会で、向坂派が作製した第10回大会議案(中執多数派提案)が否決されるにいたって、統一機能の崩壊が頂点に達し社青同組織そのものが存続の危機に立たされた。太田派と解放派は第10回大会そのものを開かせるべきでないと主張した。反戦派は第10回大会を統一大会としてひらき、中執多数派提案を葬むり去って、社青同の息の根をとめるほどの打撃を与えようという見解に立った。太田派と解放派が大会阻止の戦術に出たのは、社会党のなかに深く足をふみ込んでいる彼らが、自派の社青同を再建しうるという幻想にとらわれていたためである。すでに社会党―社青同を解体の対象としていた反戦派は、第10回大会をその総仕上げの機会と捉えていた。反対派のこのような乱れが向坂派に大会ひきのばしの口実を与えた。 

【中核派と革マル派の党派間戦争始まる】
 1970.8.4日、70年安保闘争後、東教大生・革マル派の海老原俊夫氏が中核派のテロにより虐殺された。
 1970.8.14日、革マル派は中核派の拠点に法政大に乗り込み報復した。以降、両派はやられたらやり返す党派間戦争に突入した。この過程で、革マル派と解放派の党派間抗争が始まり、こちらもやられたらやり返す党派間戦争に突入する。

【第34回社会党大会】
 1970.11月、第34回社会党大会が開かれたが、社青同内の対立の縮図がそのまま持ち込まれ、「社・公・民」路線を採り始めた執行部とこれに反対する左派との対立で収拾がつかなかった。13名の除名に対する抗議闘争。

【福岡地本解散】
 三池の敗北を受けとめ、自立した思考とそれを支える自分の足をもった共産主義者たろうとして、佐世保闘争の最先頭に立った福岡地本こそ、“安保と三池の社青同”にいちばんふさわしい“野武士”達であったが、“社青同は死んだ、だがわれわれに新しい路線は未だない”と宣言して、1971/10回大会を前に自ら解散した。

【1971(昭和46)年】

【社青同第10回大会】
 1971.2月、協会向坂派系執行部が会場を千葉にうつし、厳重な防衛体制を敷いて自派単独の社青同第10回大会を開催した。向坂派はこの大会を「本格的な思想統一にもとづく社青同運動の出発」と位置づけていた。第二見解派はこれを暴力的に破壊することを宣言、第三見解派は開催に反対を唱え参加しなかった。この時の大会で第二見解派が除名処分された。これを「解放派処分」と云う。解放派系地本はこれを認めない声明を発表する。
 10回大会以降の社青同は、急進派(社青同解放派)と太田派から峻別して、自らを社会党・総評と共にあるものと位置づける。構革派左派は“主体と変革派”を結成して独自の道を模索し始めた。
 第10回大会後の社青同執行部派の考察は割愛する。以下、社青同解放派の流れを追うことにする。

【パリ・コミューン百周年集会を全国各地で開催】
 1971.3月、パリ・コミューン百周年集会を全国各地で開催。

【中核派系の全国部落研と衝突】
 1971.5.30日、集会場で中核派系の全国部落研と衝突、以降組織全体で部落解放運動に関わる。

【高見圭司が参議院選挙全国区に立候補】
 1971.6月、高見圭司が参議院選挙全国区に立候補、14.6万票(次々点)を獲得。選挙時のスローガンは「議会にゲリラを!」だった。
 高見圭司(たかみけいし)(1932年1月23日 - )

 新左翼活動家。元日本社会党青年対策部長、日本社会主義青年同盟解放派幹部である。革労協が分裂した際には解放派全協(労対派)へ参加した。スペース21の中心的存在である。

 1932年、熊本県球磨郡多良木町に生まれる。1950年、熊本県立人吉高等学校卒業、早稲田大学入学。雄弁会に入部(2年生時に退部)、同期に松永光がいる。1955年、早稲田大学第一政経学部卒業、日本社会党文京支部書記となる。早稲田在学中に浅沼稲次郎と出会う。それが社会党入党(就職)の切っ掛けとなる。同年10月、松前重義議員秘書となる。1957年、 社会党中央本部青年部副部長に就任。党内では江田派に属したが、党内に非公然フラクション「高見派」を作る。1960年、社会党第2次訪中使節団として中国訪問、浅沼稲次郎に同行する。友好のつもりが大躍進政策の爪痕(失敗)ばかり見せつけられたと感想を残す。1962年、社青同第3回大会で書記長となる。1964年、社青同第4回大会で協会派・解放派共同提案の修正動議が可決され、執行部総辞職。書記長を退く。1965年、全国反戦青年委員会事務局員となる。一転して左傾化し解放派との関係を深める。1967年、社会党青年対策部長就任。1970年、第33回社会党大会で青年対策部長解任。反戦青年委員会の運動が社会主義協会から批判され、10月に社会党を除名処分(書記職員としては解雇)される。1971年、参議院選挙全国区に立候補、13万5620票を獲得(52位)して次々点で落選する。無所属だが「70年代戦線」と称しての立候補。荒畑寒村小田実羽仁五郎戸村一作が呼びかけ人に名を連ねた。選挙ポスターのスローガンは「第2第3の三里塚を!議会にゲリラを!」だった。1977年までに1名死亡で次点に繰り上がる。1972年、新産別運転者労働組合(新運転)に加盟。1981、 解放派分裂、革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会(連帯社)に参加。1990年、 スペース90(現在、スペース21に改称)に参画。現在はスペース21を主宰し、連帯社(解放派全協)に関わっている。新運転に所属する「現役」の労働者(実際に仕事をしているわけではない)である。新運転では反主流派としてグループを形成し活動しており、執行部と組合運営を巡り対立、排斥され訴訟を行ったりした。三里塚闘争成田空港問題)の活動にも参加している。2017三里塚芝山連合空港反対同盟(旧熱田派)の活動に「スペース21」所属として参加している。2014年、東京都知事選挙で、鎌田慧河合弘之瀬戸内寂聴湯川れい子らと共に細川護熙を支援し、宇都宮健児に対して出馬辞退や選挙活動中止などを迫った。

【社青同解放派の第10回大会】
 1971.9月、社青同解放派が独自に神奈川大学で「社青同第10回再建大会」を開催し、自派傘下の社青同を結成し、樋口圭之介を委員長とする執行部を選出した。機関紙は「団結の砦」。こうして解放派は1970年代に入って社会党・社青同内の分派としての実体を失い独自の党派となった。これ以後解放派組織は革労協と社青同の二本立てとなる。
 社青同系の分裂はブント系の四分五裂に比して少ないという特徴があるがない訳ではない。この時が初事例である。

【1972(昭和47)年】

【革マル派と社青同解放派が衝突、党派間抗争に突入する】
 1972.3.30日、大阪地評青年協集会の場で、社青同解放派と革マル派との衝突がおこり、集会が一時的に混乱した。

【革マル派と社青同解放派が大阪城公園集団会戦】
 1972.4.28日、「革マル派-社青同解放派による大阪城公園集団会戦事件」。沖縄、東京、大阪で労学業会が持たれたが、大阪集会で社青同解放派と革マル派との衝突が発生。革マル派が社青同解放派を蹴散らした。ところが、革マル派の木下正人が社青同解放派メンバーの集団から棍棒で滅多打ちにされ死亡した(「木下事件」)。社青同解放派は被害者の死因を「心停止」、「心臓麻痺」等と、あくまで偶発的死亡と主張したが、被害者の体には多数の骨折や出血、アザがあり、警察は殺人事件として捜査した。結局、犯人が見つからぬまま1987(昭和62)年、公訴時効が成立し迷宮入り未解決事件となった。

【革マル派が早大で川口君リンチ致死事件を引き起こす。早稲田解放闘争始まる】
 1972.11.8-9日、革マル派が、中核派のスパイと見做した早大文学部2年生の川口君をリンチで殺害。早稲田解放闘争が始まり。WAC(早大行動委員会)が結成され、革マル派は次々と自治会執行部から罷免される。再度、早大支配をねらう革マル派は学生集会を襲撃し出すが、自衛武装を始めたWACに、社青同解放派、ブント等が助太刀に駆けつけ正面戦の対峙が続く。

【1973(昭和48)年】

【早大で、社青同解放派が革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕】
 1973.5-6月、社青同解放派が早稲田大学で革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕する。

【革マル派が神奈川大学に泊り込んだ社青同解放派を襲撃】
 1973.9.14-15日深夜、新学期の直前、早稲田解放闘争の継続を恐れた革マル派150名が、神奈川横須賀での空母ミッドウェー母港化阻止集会に参加すべく神奈川大学に泊り込んだ社青同解放派約50名に夜襲をかけ4時間にわたり激闘する。この結果、社青同解放派のほとんどが入院という大きな打撃を受ける。このとき革マル派のレポ2名(金築寛(東大、23歳)、清水徹志(元国際基督教大生、24歳))が捕まる。寮にいた現場指導部の永井啓之は、集めうる部隊でのキャンパスへの救援を優先するとして、レポへのリンチを制止し反撃の準備に全力で取り掛かる。早朝ぐったりしたレポ2名を運びだし放置した結果、2名とも死亡し、北條全学連委員長、永井啓之が指名手配される。

【革マル派がWAC(早大行動委員会)を三越デパート屋上で襲撃】
 1973.9.16日、革マル派がWAC(早大行動委員会)を三越デパート屋上で襲撃する。

【神大戦闘で革マル2名の死】
 1973.9月、神大戦闘で革マル2名の死。

 「社青同史」が次のように記している。
 「われわれは、69―70安保決戦に対する反革命弾圧を突破しながら権力闘争・党派闘争での戦闘性を堅持し、72年以降の総評青年協をめぐる闘い――戦闘的労組青年部の戦闘的労働者とともに革マルを一掃していく闘い――を切りひらいた。

 そして、早大、青年協をめぐる大部隊正規軍戦を含む対革マル党派闘争をへて、73年9月神大戦闘を転換点として組織絶滅型の死闘戦へとふみこんだ。神大戦闘での革マル2名の死は革命的テロルでの打倒ではなかったが、歴史的必然性をもって死闘戦へとふみこむ飛躍点となった。73年にはわれわれの後を追って中核派も参戦し、革マルに「2正面作戦」を強制することとなった」。

【中核派が革マル派への反攻を開始する】
 1973.10.20日、中核派が2年間の臥薪嘗胆のすえついに革マル派への攻勢を開始する(殺人段階に入る)。

【1974(昭和49)年】

【革マル派が社青同解放派の滝口弘人他十人近くを襲撃(中延ハイツ事件)】
 1974年、ガスの検針員を装った革マル派の襲撃部隊が社青同解放派の滝口弘人他十人近くを襲撃(中延ハイツ事件)。一年後の1975年、解放派は、報復戦として革マル派全学連本部創造社を武装襲撃する。

【社青同解放派が革マル派襲撃】
 1974.5.7日、社青同解放派が、革マル派の拠点・早大第一学生会館を襲撃。

【1975(昭和50)年】

【革マル派が中核派の本多延嘉書記長虐殺】
 1975.3.14日、革マル派が中核派の本多延嘉書記長を暗殺(全面戦争の開始)。

【革マル派が革労協福岡県委員会のリーダー石井真作虐殺、狭間嘉明が瀕死の重傷を負う】
 1975.6.24日、加藤登紀子(夫が「反帝全学連」結成の際歩調を合わせた縁で貸した伊東)の別荘で会議中、水中銃などを手にした革マル派に襲撃され、元九州大学生で革労協福岡県委員会のリーダー石井真作が殺され狭間嘉明が瀕死の重傷を負う(狭間の口元に手をあててきたので、咄嗟に息を止めたとの事)。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1975.6.27日、社青同解放派十数名が、東大教養学部生協食堂前で情宣活動中の革マル派東大生(22歳)を鉄パイプ等で殴打し、同日死亡させた。殺害された学生は後の仏文学者石田英敬の駒場寮同室。石田英敬は、この2年前に目の前でやはり革マル派の友人を殺害されている。「石田は私の知らなかったいくつかの事実を教えてくれた。駒場寮では同室にもう一人、梅田順彦という学生がいたが、彼もまた1975.10月に大学の学生会館の前で社青同の手で頭蓋骨を割られ、惨殺されたこと」(四方田犬彦 2009)。後に劇作家となる野田秀樹はこの事件を至近距離で目撃しており、後の NODA・MAP 「贋作・罪と罰」などに大きな影響を与えている。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1975.7月、社青同解放派が福教大革マルせん滅。「総攻勢の狼煙をあげる」。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1975.10.8日、社青同解放派が、立正大で、革マル派の秋本をせん滅(「6.24事件の報復戦」)。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1975.10.27日、社青同解放派が、東大で、革マル派の梅田をせん滅(「6.24事件の報復戦」)。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1975.11.9日、社青同解放派の女性活動家が、東京女子大革マルを構内奥深くで捕捉・せん滅。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1975.12.11日、社青同解放派が、上智大正門前で革マル派2名を襲撃する。

【1976(昭和51)年】

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1976.1.13日、社青同解放派が、横浜市立大構内で革マル派を襲撃する。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1976.3.19日、社青同解放派が、総評青年協集会で動労青年部を武装襲撃。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1976.5.21日、社青同解放派が、大東文化大文連本部を襲撃し、革マル4名が負傷(うち一名は一時危焉)。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1976.5.29日、社青同解放派が、福岡教育大で集会中の革マルを襲撃。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1976.6.3日、社青同解放派が、上智大で情宣中の革マル15名を襲撃。

【革マル派が社青同解放派テロ】
 1976.6・27日、革マル派が、社青同解放派の自治体・教育労働者に対する白色襲撃を凶行した。

【1976年、9.14―15公判闘争を廻って、路線的対立が発生】
 1976年、「9.14―15公判闘争」を廻って、路線的対立が発生している。「凶準の騒乱罪的通用粉砕・致死デッチ上げ粉砕」を掲げ、対権力・対革マルの正面対峙・突破作戦をとる急進派路線と、合法的法廷闘争を押し進めようとする応法派路線との重大な岐路であった。
(私論.私見) 
 この種のことで対立が更なる対立へと向うように煽られた経緯が見て取れる。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1976.10.27日、社青同解放派が、革マル派東大生(22歳)を東京で殺害。

 「社青同史」が次のように記している。
 「70年安保闘争で革命派・戦闘派に武装敵対した革マルは、権力の弾圧によって大きな打撃を受けたわれわれにその背後から襲いかかってきた(革マルは「首根っこ急所」論=「権力が首根っこをつかみ革マルがその急所を蹴り上げる」と称した)。70年代初頭、革マルの初期的優位性とわれわれの反撃、たちまちにして露呈した革マルの敗勢は、革マルに「謀略論」、「敵の敵は味方」論、「権力の革命的利用」論を強制し、革マルと権力の癒着・一体化が一挙的に進んだ。 74年4・30指導部の頸椎を狙い打ちにしたテロルに対してわれわれはいちだんと戦闘力を強化し、75年6・24石井同志虐殺―指導部指名テロ・大量虐殺(未遂)としての革マルの虐殺攻撃に対して、史上はじめての革命的テロルの行使をもっての報復戦闘として10・8、10・27のふたつの完全打倒戦闘を闘いとった」。

【1977(昭和52)年】

【革労協書記長(中原一)氏が革マル派に虐殺される】
 1977.2.11日、革労協書記長・解放派筆頭総務委員/中原一・氏(本名・笠原正義)が茨城県の国電取手駅前を車で走行中、待ち伏せしていた革マル派の襲撃部隊に挟み撃ちにされ、降りてきた6名の革マル派テロ集団に鉄パイプで頭などを滅多打ちにされ、翌12日朝、頭蓋骨骨折で死亡した(享年36歳)(革労協書記長内ゲバ殺人事件)。

 革マル派は犯行を認める次のコメントを発表した。
 「革労協の最高指導者である中原一に対して、革命的鉄槌を下した。これはあくまでも、我々労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的戦いである」。

 革マル派の機関紙「解放」(77.2.21日付け)が、「中原一派の盲動を未然に粉砕」の見出しで、次のように報じている。

 「『人殺し、助けてくれ』という消え入りそうな萎えきった声がお前の最後の言葉となった」。

【社青同解放派・革労協が革マル派に対して全面戦争宣言】
 最高指導者を殺された社青同解放派・革労協の怒りは凄まじく、次のように声明した。
 「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」。

 以降、復讐戦を誓い、革マル派に対する全面戦争突入宣言した社青同解放派・革労協は中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の全面に踊り出ることとなった。

【党内対立発生】 
 「反革命―革マルによる同志中原虐殺に対する正面突破をかけた闘い」が始まったが、次のような弱点が露呈した。
 「60年代以来の積み残した組織問題、革労協と社青同の関係整理、『独自党=革労協(解放派)か、分派闘争路線=革労協(社会党・社青同解放派)か』等々について何一つとして解決済みのものがない。わが解放派全協との党内闘争に突入して十年近くもたつにもかかわらず、何も作業が進んでいない」。

 結果的に、狭間ら学生委員会武闘派・PSD(プロレタリア統一戦線戦闘団)の軍事主義への押さえが利かなくなった。他方、対革マル戦が激化する中で、後の労対派となる潮流は革マル派に対して報復を唱えるものの、革マルという党派の持つ宗派的イデオロギーを徹底批判するなどイデオロギー闘争を主にすべしとした。これに対して、学生組織・戦闘組織に影響力を持つ狭間派は、革マルという革命党派に敵対する武装反革命集団をテロルにて物理的に解体するための軍事組織を早急に強化する必要があると主張した。
 この時、「革マルによる同志中原虐殺の真相究明過程で、「当日の運転手にスパイの疑いをかけ査問する」ことを含めて党内に「スパイ問題」が発生している。「いわゆるヨーロッパ問題」と云う。これに対して、「事実に反して同志をスパイに仕立てあげ組織制圧をはからんとした動き」とする批判が生まれた。これにつき、次のような解説が為されている。
 「より詳しく言えば、2・11以降、『革マルのスパイ』の潜入の可能性をめぐって疑心暗鬼が生み出され、それが『同志殺し』にまで走っていったということでしょう。80~81年の労対派との分裂にしても、解放派全学連初代書記長だった狭間が、解放派全学連初代委員長だった石橋に『革マルのスパイ』の疑いをかけ、これも分裂の原因になっていることは、有名な事実でしょう 」(「★革労協★永井殺害が時効★解放派★」№70)。

 党内の「スパイ摘発対応」につき次のような批判が為されている。

 概要「主流派は、同志をスパイにデッチあげ、反階級的抑圧を加え、さらに党中央機能停止、『スパイ問題』をもって77年革労協大会開催停止を策動する解党主義へ転落した。以来宗派グループは『歴史的大会をかちとることを期す』(解放88年新年号)と宣言するが、党大会開催をいかに期しようとも根底を規定する解党主義ゆえに不可能事になってしまった」。
 概要「レーニンは1909年の『解党主義の清算』において、『党中央委員会を破壊し、この機関の機能を停止させようとした事例』を『解党主義の特にはっきりした例』としてあげているが、この通りの動きをした」。
(私論.私見)
 話は双方から聞いて見ないと分からないが、いずれにせよ、解放派は対革マル派戦に向かう最中で党内スパイ問題を浮上させ、これにより求心力を失い始めたことになる。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1977.3・7日、社青同解放派が早大革マル渡辺殲滅。「2・11報復戦に敢然と決起」。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1977.3.9日、社青同解放派が九州大革マル菊池せん滅。「2・11報復戦に敢然と決起」。

【社青同解放派が、革マル派幹部藤原隆義(杜学)他4名を焼殺す】
 1977.4.15日、社青同解放派が、革マル派幹部藤原隆義(杜学)他4名が乗車した印刷局のワゴン車を前後から車で挟み撃ちにして攻撃。右翼の街宣車のように鉄板で防御してあったので攻めあぐね、発炎筒を投げ込み、いぶりだしをはかるも失敗、時間切れのため撤収し、攻撃失敗と報告する。攻撃の衝撃でドアを中から開けることが出来なかったのか、積荷のインクが引火し4人は焼死。事件から二日後に行われた三里塚の集会にて革労協活動家が犯行を追認するビラを配布し事件の動機が明確になった。当初意図したこととは違う結果となったものの、残虐な軍事的手段をもって革マル4人の「死」をもたらしたこの襲撃は後の軍事路線の方向性を決めたという点で、解放派の重要な転換点になった事件である(浦和車両放火内ゲバ殺人事件)。この反撃が復讐劇の第一弾となった。

 「社青同史」が次のように記している。
 「77年2・11同志中原虐殺は革マルの側からの目的意識的な最高指導部の虐殺であった。われわれは全党・全潮流あげて革マルを反革命として規定=対象化し、敢然としてその報復、解体・絶滅の闘いにふみこんだ。藤原ほか4名を一挙打倒した4・15戦闘は、その戦闘の苛烈さ・徹底性において、2・11反革命正面突破にむけた解放派の非妥協性・徹底性を鮮明にし、指導部暗殺に対する革命党の実践的態度を革マルのみならず、権力、ファシストに対しても公然とつき出した」。
 4.17日、社青同解放派(革労協)が犯行声明を出す。成田空港問題の集会で犯行を自認するビラ「革マル「政治組織局員」藤原ら4名を完全に打倒!」を配布している。
 「革マル政治局員藤原隆義ら4人を打倒!2.11中原同志暗殺に対する怒りの革命的テロル炸裂!更に、すさまじい革命的テロルの猛攻を黒田ら反革命頭目の頭上に」。
 わが革労協―プロレタリア統一戦線の革命的戦士は4月15日午後9時10分、反革命印刷所「こだま印刷」から出た反革命装甲車輌を的確に補足し、革マル「政治組織局員」藤原隆義、「こだま印刷」指導者関口誠司、金沢大革マル伊東亘、岐阜大革マル伊藤修に革命的テロルを叩き込み、車輌もろとも完全に打倒した。この偉大な闘いは2・11反革命、わが革命党の最高指導部同志中原暗殺に対するプロレタリア革命党の鉄の回答である。最悪の反革命分子藤原らは格子、鉄板を溶接し、内側から白スプレーで目かくしをした反革命装甲車輌に乗り、「この車は鉄壁防衛だから大丈夫」という"神話"にとりつかれ、「こだま印刷」から出てきた。我が戦士たちは直ちに戦闘体制に入る。反革命分子どもは約70メートルすすんで県道を左折して約400メートル、わが革命的部隊の手の内にスッポリとはまりこんだ。わが部隊は直ちに4トン車をもって車道をふさぎ、2トン車で後方からはさんだ。卑劣漢革マルどもは逃げ道をふさがれるやサイレンをならし、権力を唯一のたよりにする反革命ぶりを発揮したのだ。反革命分子らは右前方つづいて左前方に逃げようとしたが無理とみてバックしようとしたところを、わが革命戦士の2トン車が後方から突撃し、数回革マル装甲車の後にぶつけ、反革命車輌を完全ストップさせた。革マルは自らの2・11反革命の罪業の深さにおののき、まったく抵抗を放棄し、権力と鉄板に身を委ね、ドアのとっ手をにぎりしめ、助けを求めるばかりであった。しかしわが革命的部隊は敵の頼りの反革命装甲車を「鉄の棺桶」に変えたのであった。わが部隊は2・11反革命への煮えたぎる憎しみに燃え、猛然と突撃し、前面フロントガラスをたたきわり、それに対して天井からおろした防御板でふせごうとした。革マル「政治組織局員」藤原隆義、反革命印刷所指導者関口誠司、防衛隊員であり、反革命「全学連」特行である伊東亘、伊藤修計4名の反革命分子に革命的テロルを炸裂させた。わが戦士達は、埼玉全県、首都各県、都県境橋全域にわたる権力の戒厳令をあらゆる手段を駆使して突破し、全員帰還した。この闘いこそ、2・11反革命、わが革命的労働者協会総務委員会書記局員であり、偉大な共産主義者である、同志中原暗殺に対する煮えたぎる怒りと憎しみを、鉄の組織性と計画性、戦闘遂行における大胆さとして絞りあげ、階級的革命的原則にのっとったすさまじい革命的テロルとして革マルの頭上に炸裂させたものである。この闘いは3・7早大革マル渡辺―3・9九大革マル重撃沈に続き、敵中枢への革命的テロルの炸裂の第一弾である。わが解放派は2・11反革命・同志中原暗殺にあらゆる方法、手段をもって復讐すると宣言してきた。そして2・11復讐戦は日本党派闘争史上空前の炸裂をもって激烈かつ熾烈に闘いぬかれるであろうことを宣言してきた。4・15戦闘こそまさしくかかるわが革命党の宣言の実践化である。プロレタリアートとその革命党の怒りを更に更にすさまじい革命的テロルとして革マル反革命分子の頭上にうちおろすであろう。革マルの完全な解体までやむことなき猛攻として炸裂するであろう。最悪の反革命分子藤原はわが機関紙「解放」191号ではっきりと示したように、革共同分裂以前からの早大最古参の反革命分子として、山代と肩をならべる位置にあり、革マル政治軍事中枢を握る「政治組織局」の中枢であった。第一次早大闘争(66年)当時の早大革共細胞のキャップをつとめ、68年早大文連乗っとりの総責任者であり、徹頭徹尾、わが解放派への憎悪をむき出しにして革マル内部でのしあがってきた最悪の反革命分子だったのだ。革マル「政治組織局員」藤原に対する革命的テロルの炸裂こそ、黒田・山代・朝倉・土門・西条ら革マル反革命指導部打倒の鮮血の導火線である。わが解放派は必ずや革マル「政治組織局」全員を革命的テロルで打ち倒すであろう。 革マルよ!直視せよ!彼我の真の戦闘関係を直視することを恐れ、自らの絶望的敗退、崩壊的現実をウソとペテンで糊塗し、「ボーリャク」を吹聴し、内心わが解放派に恐怖しながら、内外をあざむくアヘンとして「謀略論」をがなりたててきた報いが、藤原を守るべき防衛隊、反革命「特行」2名が戦闘時になにひとつ反撃しないという脆弱ぶりとして露呈しているのだ。

 4・15戦闘の大戦果の意義は
第1に、革マル政軍中枢=反革命「政治組織局」の一角の打倒という対革マル戦史上最大の成果として裏指導部―敵中枢の補足打倒という新たな地平を戦取し、2・11復讐戦の本格的第一弾を闘いとったことである。
第2に、反革命機関紙エセ「解放」発行体制に重度の打撃を加えたことである。
第3に、方法・手段・戦果において革命的テロルの徹底性、反革命党と革命党との相互絶滅戦にふさわしい革命党の戦闘指導の徹底性、非妥協性、革命党指導部暗殺に対する回答にふさわしい徹底性を一点の曇りもなく明らかにしたことである。
第4に、党の戦闘指導下におけるわが軍の作戦能力の飛躍的前進及び本格的死闘戦にふさわしい革命的敢闘精神の戦取による戦果であったこと。
 以上の必然的帰結として
第5に、革マルの党的危機を決定的地平にまで促進したことである。

 2・11復讐戦は更に激しく徹底的に闘い抜かれるであろう
 同志中原虐殺に対する復讐・報復戦は革マルの確実な解体を実現する解体戦として貫徹され尽くされるであろう。黒田を頭目とする「政治組織局」全員を革命的テロルで打倒せよ!反革命白色テロ部隊を総殲滅せよ!労学両戦線から革マルを粉砕・放逐せよ! 2・11反革命の正面突破を藤原ら4名の反革命分子への革命的テロルの炸裂をもって貫徹し、かつ革マル「政治組織局」全員の打倒への鮮血の導火線となるべき4・15戦闘の超巨弾に、今や革マルは大混乱、大動転し、おしとどめることのできぬ破局に叩き込まれ、死の行軍に入っている。小心虚飾の革マル「指導部」は自らに迫りくる"最後の日"への恐怖に眠れぬ日々を送っている。革マルは又もや、4・15戦闘に心底驚がくし、真の現実を直視することを死ぬほどに恐怖し、「権力による謀略」論をがなりたてている。そして革マルの「反撃の第一弾」たるや京葉道路に重油とクギをぶちまけるという、ブル新からも"ヤツアタリ"と言われる始末の、笑止千万ぶりなのだ。そして革マルは、己れにせまる根底的破局の危機をわが解放派の"政治軍事中枢の壊滅(6・24、2・11)"なる主観的判断に立って「権力の手先」規定から「謀略グループの広報班に転落した解放派」なる規定に変化させつつ新たな反革命テロ襲撃によって乗り切ろうとしている。革マルの言う「権力による報復的謀略」たるや、「JCIAの凶行」と"水本謀殺"問題以上に「権力」を肥大化して描いたかと思うとその舌の根もかわかないうちに「謀略を可能とする追認者=走狗集団の解体・一掃の闘いを断固としておしすすめ、もって謀略の息の根をとめる」と"追認者"の一掃が「謀略」の封殺になるという180度逆に「権力」の甘い評価になるというデタラメぶりである。まさにこれこそ、わが解放派の戦闘能力の飛躍的前進に対する革マルの完全敗北の自認であり、わが党―軍の圧倒的優勢を正面打開する力を失った革マルがコケオドシ的テロ襲撃で急場を乗り切ろうという最後のあがきである。わが対革マル戦闘は確実に革マルをしめあげ、彼らの絶滅へ追いつめてきた。革マル学生戦線は敗退に敗退を重ね、全国数少き"虚点"大学自治会支配の崩壊が続き、3月30~31日に行なわれたエセ「全学連」中央委員会に全国から結集した学生革マルはなんと百名そこそこという凋落ぶりで、革マル反戦を叩き込んでようやくもたせるという破産を示したのであった。他方革マル労働戦線は動労・全逓の破産と崩壊が続き、この労学両戦線の破産は3・26総評青年協闘争を通して一挙に促進してしまった。わが解放派の部隊制圧によって革マルはもはや総評青年協に本隊登場すらできず、エセ「労学共闘」は完全破産し、青年労働者運動と全く無縁になり、権力による解放派排除を唯一の頼みに登場の機会をねらった。しかし動労革マルの総評民同に泣きすがっての権力導入は逆にわが解放派と青年労働者の怒りによって粉砕され、会場は革マル・民同・向坂・権力糾弾の爆発の場となってしまったのだ。その後の青年協幹事会での動労革マル大久保の惨めな大破産についてはさすがに消耗したらしく革マルは内外に口を閉ざし、今やデマゴギーとわが全逓、自治体の革命的労働者に対する名指しのテロ宣告で乗りきりと敗退のまきかえしを策している。6・27襲撃に続く新たな労働者襲撃をわれわれは絶対に許さないであろう。革マルの戦略的路線的思想的破産はなだれをうって進行し、"ハンガリア革命20周年運動"なる原点再確認、反スタ主体性再確立運動がパンクし、そして今や、反スタのバネを「スターリニスト・ソ連による北方四島支配反対、公海の占有支配弾劾」にもとめるほどに破綻し(要するに「反スタ」なら内容ぬきになんでも飛びついていく)、又、朝鮮問題を"日韓疑獄弾劾闘争"にするというデタラメぶりなのだ。反革命テロ部隊は河合・水本問題をめぐって大混乱し、更に脱落者、転向者・消耗者が続出している。謀略論のいきつく果ての"水本謀殺"で、乗り切りを策してみたが、うまくいかず、さりとて次に打つ手もないと無方針の中で、あの笑止千万な"道路遮断"の茶番劇が延々と4回も続いているのだ。
この出口なしの大破綻の革マルの頭上に、2・11復讐戦の猛然たる炸裂である4・15の超巨弾が深々と叩き込まれたのであった。

 革マルのドンヅマリの危機を直撃せよ!
 わが解放派は確実に革マルをしめあげ追いつめてきた。革マルを解体し尽す闘いへ敢然と踏み込み血みどろの死闘を通して勝利を闘いとるであろう。プロレタリア解放、永続革命=世界革命、共産主義=革命的マルクス主義の名において勝ち抜くであろう。同志中原の生前の闘いと意志は我々の団結と死闘の中で生き続け発展するであろう。2・11復讐戦を更に徹底的に貫徹せよ!敗走する革マルにトドメの第2の4・15を!黒田を頭目とする革マル指導部を一人残らず葬り去れ!白色テロ部隊を総殲滅せよ!全党―全軍―全勢力をあげ、革マル解体を闘いとれ!4・15戦闘の大勝利万才! 全学連(伍代委員長)

 出典: 革命的労働者協会政治機関紙「解放」193号1977年05月01日

【社青同解放派の革マル派テロ】
 1977.5.13日、社青同解放派が、革マル東北地方委議長城の完全打倒。

【社青同解放派の革マル派テロ】
 1977.5.30日、社青同解放派が、独協大革マルせん滅。

【社青同解放派の革マル派テロ】
 1977.7.4日、社青同解放派が、千葉大革マル中枢矢萩完全打倒。

【社青同解放派の革マル派テロ】
 1977.10.8日、社青同解放派が、革マル派の立正大生・秋本雅治を、大学構内で火炎ビンを用いて虐殺する。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1977.10.27日、社青同解放派が、革マル派の東大生梅田順彦を駒場構内で虐殺する。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1977.12.9日、社青同解放派が、東大革マル兵頭を完全打倒。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1978年、社青同解放派が、「2.11反革命一周年決戦へ全党全軍総決起」をうたう。

【1978(昭和53)年】

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1978.1.27日、「水戸市、勝田市内ゲバ殺人事件/社青同解放派-革マル派」。社青同解放派は、勝田市.水戸市などの茨城県下で同時多発的に革マル派のアジト4箇所を襲撃、中武、古橋、高井の3名を殺害、中島、嶋野、堀切3名に重症を負わせた。

【目上委差別ビラ事件問題発生】
 1978.10月、この時、党内に「目上委差別ビラ事件問題」が発生している。東京・目黒上映実行委員会の映画「造花の判決」上映宣伝ビラの記載事項と配布を廻って党内が混乱した。「百歩譲って石川が黒だったとしても…」という記述が大きな批判を受けた。「目黒区上映委員会」(「目上委」)は地域における地域の小さなサークルであり、批判を受けたビラの作成責任を担っていたのは社青同解放派シンパであった。革労協としては採択について激しい論争が起きたが意見がまとまらなかったことを受けて、社青同解放派中央主流派は、党内整風運動を押し進める機会と捉えて、「目上委差別ビラ事件」対応を通じて「組織内部糾弾闘争〈内糾〉路線」を満展開し、反主流派を「反解放派差別主義脱走グループ」と規定し、「この差別主義グループを解体することが目上委差別ビラ事件の自己批判」なる統制主義路線を敷いて行った。これに乗じて、党内で力をつけていた狭間嘉明ら革労協学生委員会中心の武闘派グループが滝口弘人・高見圭司を中心とする労働者活動家グループと対立を強める。内糾本部は連日神奈川大学宮面寮にあった査問室に反対派の疑いがある活動家を呼び出し、スパイ、差別者、と攻撃し自己批判を迫った。これらの内糾本部の活動に対し潮流を問わず多くの活動家から批判の声が上がったが止められる者はいなかった。当初は反内糾の意思表示をしていたのに、その後内糾本部に与する活動家も多く現れた。  

 これに対して、反主流派は、次のように批判している。
 「1978.10月の全組織をあげての自己批判-実践的克服への路(風車差別事件の自己批判の闘い)をとるのではなくて、差別問題を政治利用することによって組織制圧をはからんとした問題は、これまでの解放派の共通の確信をゆるがし、革労協-社青同-解放派潮流組織への決定的打撃となってしまった」。
 「目上委差別ビラ事件の全組織的自己批判―党の自己批判の否定、居直りの結果として宗派グループは差別問題把握のおどろくべき誤謬を犯した」。
 「『党の地平』を絶対化=無謬化し、『党の地平』を階級闘争―党員の活動から分離し外在化させ宗派主義へ転落した」。
(私論.私見)
 話は双方から聞いて見ないと分からないが、いずれにせよ、解放派は対革マル派戦に向かう最中で、この種のことで対立が更なる対立へと向うように煽られた経緯が見て取れる。

【1979(昭和54)年】

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1979.1.27日、社青同解放派が、茨城県下の勝田市、水戸市などで革マル派3名を殺害し、3名に重傷を負わせた。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1979.3・16日、社青同解放派が、革マル派のこぶし書房防衛隊/角田を完全打倒。

【革マル派-社青同解放派が「全国青年労働者層決起集会」会場で集団会戦】
 1979.4.11日、革マル派280名と社青同解放派260名が、総評主催の「全国青年労働者層決起集会」会場でゲバルト。4・11総評青年協集会でのエセ「全学連」部隊の敵対を粉砕。

【社青同解放派の革マル派テロ】
 1979.6.9日、社青同解放派が、専修大革マル大岡・越塚を完全打倒し3名を重せん滅。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 11.16日、「新宿区外苑東通り路上内ゲバ殺人事件/社青同解放派-革マル派」。午後7時10分頃、新宿区愛住町の外苑東通り路上で、若い男2名が10数人のグループに取り囲まれ、大型ハンマーや鉄パイプで全身メッタ打ちにされ、1人が死亡、もう1人も翌日病院で亡くなった。襲ったグループはトラックで逃走、トラックは2km離れた新宿6丁目(丸の内線四谷3丁目)に乗り捨てられていた。これは10月に横浜市内で盗まれた車両だった。死亡したのは横浜国大教育学部・佐藤修平(26歳)、北大生・小林智(26歳)、所持品などから革マル派の活動家と判明した。

【革マル派が社青同解放派テロ】
 1979.11.21日、革マル派が、東京、神奈川の社青同解放派アジト3箇所を襲撃。午前4時40分頃、藤沢市大鋸のアパートで、学生2人が黒ヘルをかぶった11人の男に襲われ大怪我。寝こみを襲われたもので、逃げようとして下着姿のまま階段や庭先に倒れていた。また同じ時刻、平塚市南原で、8人の男がはしごをかけてビルに侵入し、中にいた人をメッタ打ちにした。そして午前7時過ぎ、八王子市椚田町でも2人が重傷を負う事件があった。この一連の事件で、革マル派は「革労協の軍事アジトを摘発した」という声明を出した。「権力と革マルとの結託を物語るように、襲撃された側が逆に凶器準備集合罪で弾圧された」。

【革マル派が社青同解放派テロ】
 1979.12・10日、革マル派が、関西大において「障害者」に対する差別主義白色テロを凶行した。

【1980(昭和55)年】

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1980.1.7 日、駒場の東大教養学部、北寮の一室で、寮生10人が懲罰委員会を開いていたが、社青同解放派と見られる12、3人の学生が室内と廊下にいた計100人に殴りかかり、11人が負傷した。襲った学生は逃げたが、うち3人は逮捕された。大学の拠点化をめぐり、対立セクトの革マル派とにらみ合う社青同解放派は、前年末、他大学の学生を呼ぶなどして、東大の一部を占拠し立てこもった。このことで、寮生から「不法占拠だ」との批判を浴び、社青同解放派を懲罰にかけることとなった。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1980.2.5日、文京区向ヶ丘のアパートで、この部屋の東大文学部4年の男性(当時24歳)が寝ていたところ、ヘルメットをかぶった4人組の男が窓ガラスを割って押し入ってきた。男性は鉄パイプで全身を殴られ重傷、一緒にいた女友達(当時21歳)も頭に大怪我を負った。男性は革マル派の集会に出たことがあった。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1980.2・15政治集会の当日、社青同解放派が、東大革マル箕田を重撃沈。

【革マル派関連】
 1980.3月、革マルが党派闘争の「完勝宣言」開陳。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1980.5.5日、「千葉県旅館「権兵衛」内ゲバ殺人事件/社青同解放派-革マル派もしくは誤認」。千葉県安房の旅館「権兵衛」で、西洋史研究会の合宿中、「トミオカはいるか」と入ってきた6人の男におそわれ、助教授が死亡、学生2人が重傷、1人が軽傷。メンバーの17人に「トミオカ」という名字の人はおらず、また死亡した助教授も東大在学中に学生運動をしていたことはあったが、近頃はどのセクトにも繋がりを持っていなかった。革労協は「革マルの秘密メンバーを殲滅」という声明。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1980.5月、社青同解放派が5月攻勢―東西2連打。5.5日、「非常任POB」桑原完全打倒―駒澤大「特行」10余名を粉砕。

【社青同解放派が革マル派テロ】
 1980.5.27日、大経大Ⅱ部学友会委員長3浦を重撃沈。

【革マル派が社青同解放派テロ】
 1980.7.3日、革マル派が社青同解放派労働者テロ。

 これより後は「社青同解放派史3」。





(私論.私見)