社青同史1

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 社青同解放派内「内ゲバ」事件考察の前提として、社青同史を見ておくことにする。とは云いながら、れんだいこは社青同史について知らない。それもその筈で、インターネットで検索しても同派の党史サイトが出てこない。これは全くお粗末なことである。と書いてみたが、仔細に見ると「社青同リンク集」で拝見できるようである。これによると、60年代史から71年までは「歩み」が整理されているようである。次にいきなり「革労協再建連・社青同中央再建委から全協へ」と飛んでいる。いずれにせよ、「社青同私史」があるだけで公認党史化の段階にまでは至っていないようだ。「現代古文書研究会」に貴重な資料があったように思うが、現在パスワード式になっており直には閲覧できない。2005.12.29日現在では「労働者運動資料室」の「社青同の歴史(1960〜1988)」、「織田進氏の社青同批判」を目にすることができる。「(ウィキペディア)革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」も現われたのでこれも参照する。2022年晩秋、一気に書き直した。今後も続ける予定である。



【社青同創設】
 1959年、社青同結成の準備活動が社会党青年部を中心に行なわれた。ちょうど60年安保闘争と「三池闘争」との巨大な高揚の時期である。この闘いの中で立ちあがった青年活動家が、新しい青年同盟としての社青同創設に多数合流する。この意味で、社青同は「安保と三池から生れた」と云われる。
 1960.2.27日、日本社会党本部2階で日本社会主義青年同盟学生班協議会の結成が行なわれる。これは前年来、早稲田大学を中心として活動してきた東京社会主義学生会議が社青同の組織に発展的に転化したものである。
 東京外大で寮運動を行ない、東大に学士入学した滝口弘人が社青同東大学生班を結成(後に江田五月、横路孝弘も参加)。
 滝口弘人(たきぐち ひろひと)の履歴は次の通り。
 (1934年4月20日 - 1999年3月)
 1934.4.20日、広島県に生まれる。本名、佐々木慶明(ささきよしあき)。1955年、東京外国語大学入学。1960年、東京大学教育学部へ編入。1961年、「共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還するための闘争宣言(草案・通称「No6」)」を発表。1969年、革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)結成。総務委員。1973年、革命的労働者協会第2代議長に就任。1981年、革命的労働者協会分裂。1985年、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」結成に参画。1999.3月、死去(享年65歳)。
 1960.10.15日、社会党の浅沼委員長が右翼によって暗殺された直後、日本社会主義青年同盟(以下、「社青同」と記す)が結成され、社青同第1回全国大会が開催された。この当時の社会党は大衆の急進主義にたいする許容量が大きかった。社会党員(青年部)としての活動歴を持つ全国で数百名、多く勘定しても1千名の青年党員が結集した。社会党は、60年安保闘争の経験を総括して、日共の民青同を意識してこれに対抗しうる社会党・民同の青年学生運動組織の必要を認識して社青同を創設した。1959年頃より日本社会党左派がこれを推進し、社会党青年部特に総評系労働組合の活動家が担った。

 この当時、青年部中央役員の多くは江田三郎のもとに集まり「構造改革論」の学習をやっていた。社会主義協会派は、社青同結成を彼らが一貫して推進したかのように宣伝しているが事実は反対である。協会派は「時期尚早」をとなえたが、構革派がその抵抗を押し切って結成にもっていったのが真相である。

 安保闘争において、社会党は共産党のような「統制」をおこなわなかった。60年安保闘争の最先頭に立ったブンド系全学連の指導者はこれを好感し、三宅坂の党本部によく出入りし、青年部役員と連絡をとって東京地評工作やデモ戦術の打ち合わせなどをやったし、デモが終ったあとに大衆をひきいて党本部の門前に出かけ、「社会党ガンバレ!」のシュプレヒコールをやるようなこともあった。社会党の方でも、戦闘的な青年、学生とのつながりにおいてはいつも共産党にひけめを感じていたから、全学連とのこういうつながりを積極的に歓迎し呼応していた。戦前日共運動の山川均を頂点とする労農派マルクス主義(後の社会主義協会)の思想的伝統も汲んでいた。
 真の革命的前衛党としての社青同建設の流れを創出したのが革命的労働者協会(革労協)の書記長・解放派筆頭総務委員の中原一(本名・笠原正義)氏、滝口弘人高見圭司狭間嘉明らであった。機関紙として「解放」(旧「革命」)を発行する。

 60年安保闘争と三池闘争のなかから社青同に加盟した青年のなかで、質量共に中心をなしたのは総評系労働組合の活動家だった。社青同は労働組合青年部と切っても切れない関係をもつことになる。このことが、民青、新左翼などの様々な青年同盟、またさらに世界民青連に加わっているヨーロッパの青年同盟とくらべても社青同の大きな特徴である。続いて安保闘争を通じて立ち上がってきた者、第四インタートロツキストの意識的な「加入戦術」にもとづいて加盟した者、および社青同に加盟してから翌年に結成された解放派(今の革労協)の「社民解体戦術」にもとづいて活動しはじめた者がいた。この加盟のおおらかさが後に重大な問題となる。

【滝口弘人「共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還するための闘争宣言(草案)」】
 1961.5月、滝口弘人が「共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還するための闘争宣言(草案)」を社青同東大班機関紙/解放NO.6号に発表。その後ナンバー・シックスと呼称され、解放派の綱領的文章と呼ばれる。新左翼の多くが自らを「新左翼」と呼称し、自らを社共に変わる真の前衛・共産党と意識して共産党のことを「代々木」と呼ぶのに対して、解放派は平然と「日共」と呼称している。
 概要「日本帝国主義の新たな国家独占資本主義的展開に対抗するには、プロレタリアが全階級的政治性を身につけて、階級闘争を徹底的に貫き、支配権力を奪取して、資本制社会を根底から転覆しつつあらたな共同社会を建設する道しかない。各国社会民主党が、いわば近代的官僚主義で包囲された特殊利益の連合であるため、全世界プロレタリアートの共通利益にのみ依拠する偉大な真実の共産主義=革命的マルクス主義の創造的復活が必要である」。
 「自称他称の諸トロツキスト集団や黒田寛一は『観念論による宗派主義』であり、『反ブルジョアジーが反スターリン主義の現実的基盤であって、その逆ではない』。レーニン主義=ボルシェヴィズムの基底的原則は、マルクス主義の基底的原則を正確に逆立ちさせたもので、第一インターナショナル規約前文冒頭の原則からの断固たる背反であり、スターリン主義の真実の批判者はトロツキズムではあり得ない」。
 「現代革命に誠実たらんとする者にとって、その立場はマルクス=レーニン主義ではあり得ない。それは、はっきりとかつ徹底的にマルクス主義でなければならぬのである。労農派マルクス主義の科学としての成果を断固として擁護し、強調し、いっそう発展させなければならない。日本社会党の内部に、共産主義=革命的マルクス主義の徹底的な純化をめざす公然たる組織的な分派の形成から始めるべきである」。

【ソ連核実験以後の「全ての核実験反対」で党内対立が発生する】
 1962年のソ連核実験以後、構革派指導部は、総評、社会党と一緒に「全ての核実験反対」を打ち出した。このことが社青同の中に最初の大規模な対立が発生した。東京地本の「左」派を中心とする部分は、こうした動きは反共主義であるとして非難した。彼らのかかげたスローガンは、「『全ての核実験反対』に反対」という、つまり、「反対にも区別をつけろ」というすっきりしないものであった。ここから始まった対立が発展して社青同の組織路線をめぐる対立になった。構革派指導部の「要求闘争」路線は社青同の「大衆化路線」として定式化された。日共との対決に意識をするどく集中した構革派は、民青と対決するために民青の「お株をうばう」活動をやろうとした。これに対して協会派の「左派」は、それが社会主義の魂を同盟が捨て去り、大衆の水準に社青同を低める「同盟を大衆化する」路線であると反撥した。

【滝口弘人「共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還するための闘争宣言(草案)」】
 1962.12月、過渡的な前衛的組織を目指した秘密組織である共産主義者通信委員会(KTC)を結成。

【社青同の特徴】

 結成から3年間、社青同の指導権は西風氏を中心とする構造改革派の手にあった。1964.2月、第四回全国大会で、いわゆる「改憲阻止・反合理化の基調」が採択され「左派」執行部が確立されるまで、社青同中央は構革派系が牛耳り、総評青年部幹部と結んで「大衆化路線」を実現しようとした。深田氏等が協会派が分裂のときまで指導してきた。構革派指導部は協会派にない良さをもっていた。彼らにはセクト主義がなく運動気質が陽性だった。それにひきかえ協会派は共産党の物真似というべきセクト主義でかたまり感性が陰湿だった。

 構造改革派の理論と社会主義協会の理論をくらべて、その左右度をいうのはむずかしい。反独占革命派、平和革命論、議会主義、国際路線ではどちらもソ連派であり平和共存派であるという点では差異はない。世界革命に開かれた政治感覚という点ではむしろ構革派の方が優れている。どちらも「護憲・民主・中立」の立場である。協会派が一貫して反急進主義であったが、構革派は右派であったものの、その運動を担った拠点的地区本部、大阪、埼玉、石川、北海道などから、1967年以降の急進的青年運動の高揚のなかで社会党の枠を飛び出して、新左翼的な分派「主体と変革」派を結成し、急進派の陣営に移行している人達が輩出していることからも見て取れるように、構革派が右で協会派が左であるという図式は、構革派を江田派と限定にしてしまえばそういえなくもないが、当時の社青同横革派にはあてはまらない。

 協会派と構革派の違いは運動論、組織論にあった。構革派は「平和擁護・民主化要求」の闘争路線を提起した。この路線は平和共存の情勢を「積極的に利用」して、資本主義の権力構造、社会構造のなかに革命の拠点となるべき「改革」をつくり出そうとするものである。社会の「大衆化状況」のなかで、権力の秩序のなかにますます多くの大衆が包摂されている。これを逆手にとって、権力を空洞化し、その空洞を革命の側が埋めていくのだ、と主張した。協会派は、こうした路線は改良主義的な幻想だと指摘する。レーニンの「国家と革命」を半分だけ引用して、(もっとも協会派が引用するマルクス、レーニンは、いつも半分なのだが)ブルジョア国家はブルジョア独裁であって、それをプロレタリア革命にそのまま役立てることはできないという教科書的な批判を展開した。構革派は「要求闘争」派、協会派は「抵抗闘争」派であった。その両者が互いに激しく嫌悪した。

 社青同は、日共民青同の統制主義的民主集中制、分派不可式組織原理を排し、組織基準を開放系に緩めていた。日本左派運動史上珍しい組織原理を導入していたことになるが、それが為に社青同は左右から常に揺さぶられることになった。ここに反日共系の急進主義的な学生グループが加入してきた。第四インター系が加入戦術で組織的に食い入ってきた経緯もある。三多摩地区を中心にかなりの勢力をもった(その後自己崩壊し、東京では1968年頃までには社会党系の運動からひきあげることになる)。社青同な内部から、それらと競合すべきとする急進主義グループが生まれ後に解放派を結成していくことになる。

(私論.私見)

 それは非ではなく是とされるべきではなかろうか。いわば「革命的組織弁証法」を実践したことになり、この原理が否定されるべきではなかろう。この原理を御する能力を関係者が相互に持ち得なかったことこそ反省すべきであり、その能力をこそ育むべきだったのではなかろうか。もっとも、この能力を史上持ちえた組織は未だ見当たらない。れんだいこ的感慨としては、戦後保守本流を形成した政権与党の自民党ハト派系の吉田ー池田ー佐藤ー田中ー大平ー鈴木が指導したほぼ30年史を知るばかりである。

【社青同東京地本第4回定期大会】
 1963年、社青同東京地本第4回定期大会。樋口/圭之介が執行委員長に選出される。
 樋口圭之介氏の履歴

 1938.2.13日、東京荒川区に生まれる。1953年、中学卒業後、大田洋紙店に就職。1959年、入退学を4回繰り返して都立台東商業高校(定時制)を卒業。大田洋紙店を退職。銀星産業(株)(貿易会社)に入社する。1961年、社青同(社会主義青年同盟)に加盟し台東支部を結成する。1962年、銀星産業を退社。日本社会党に入党、台東支部地区オルグになる。1963年、社青同東京地本第4回定期大会で執行委員長に選出される。1964年、社青同第4回全国大会で中央執行委員に選出される。同第5回大会で中執を退任する。1965年、東京反戦青年委員会代表委員になる。1967年、東京地区反戦連絡会議代表世話人になる。1970年、社青同東京地本第11回大会で執行委員長を退く。1971年、全国社青同再建連絡会議議長に選出される。全国社青同中央本部委員長に選出される。

【社青同内に急進派が台頭】

 1964.2月、第四回大会。この大会で構革派が敗北した。核実験問題をめぐる反日共主義が職場の労働者の戦闘的部分に受け入れられなかった。こうした背景のなかで、構革派の「大衆化路線」は、わずかの例外(大阪地本など)をのぞいて実践する部隊も基盤も持たなかった。これに反して「左派」が、三池闘争から出発した福岡、安保の産物としての戦闘的活動家群に支えられた東京を中心として多数を制した。「左派」は、「改憲阻止・反合理化の基調」なる決議を採択し執行部を掌握した。社青同は、「平和擁護・民主化要求」の大衆化路線ではなく、「改憲阻止・反合理化」の「基調」のもとで進むことになった。

 第四回全国大会は指導分派を交代させが、これは社青同内分派闘争の終りなのではなく始まりだった。以後、社青同の歴史は分派闘争の歴史となった。社会党は、この分派闘争に介入できなかった。民青の分派闘争はつねに民主集中制論を振りかざす共産党中央によって解決されたが、社青同の場合は社会党内の分派対立を反映して分派が常態だった。根本的には社会党内の力関係に沿って解決がはかられていくにせよ、直接の結果は常に社青同内分派闘争の独自的な力学によって決まった。第四回大会以降のめまぐるしい分派闘争は、社会党の派閥力学とは異質の展開を見せた。第四回大会は、そうした社青同の「鬼っ子」の時代をひらいた。

 鬼っ子時代の社青同にふさわしい“極左派”として協会派中央の憎悪の的となった二つの分派を確認しておく。第一は第四インター派である。第四インターは60年安保闘争以後、社会党への加入戦術を行ない、社青同内に無視し得ない力をきずいた。影響力を行使した地方は三多摩を中心とする東京、宮城を中心とする東北、そして大阪を中心とする関西の三つである。第四インターの加入活動に終始神経をとがらせていた協会派は次のように説明している。「加入戦術とは、社青同の思想・運動・組織・構成員の全体を認めず、全体はだめだが部分的によい者がいるという考え方で加盟することである。したがって全体強化や全体の意志統一を追求せず、正反対に、全体から『正しい部分』をいかに分離させ別の方向へ向わせるかを追求する。社青同の自由な討論はよくこのような加入戦術に利用された」(労大新書「青年運動」)。非常に甘い認識であることが分かる。「革命的カードルは革命的運動のなかからしか生れない。だが、革命的運動は改良主義的な運動から発展しうる。そのために革命的カードルが改良主義の運動に『外部注入』する」として加入するのが戦術である。この加入戦術が成功したのは三多摩や宮城である。

 もう一つの鬼っ子分派たる解放派の加入戦術はかなり事情が異なる。スターリニスト派社民たる協会派が党と社青同の外に排除してしまった。解放派が左へ移動した基本的な動因は、協会派の長期抵抗闘争路線が穏和路線過ぎたことによる。解放派の中枢的な担い手は元々は協会派の若手カードルの戦闘的部分であった。協会派の長期抵抗闘争が“なしくずし敗北路線”でしかないことを見てとったこれらのカードルは協会派への批判を開始した。先行的に登場していた新左翼に負けず劣らずの戦闘性で“一点突破、全面展開”闘争に突入していった。これを促進し指導したのが、山川均の直系を自称する滝口弘人氏がひきいる学生“共産主義”者のグループであった。このようにして解放派は生まれた。解放派は暴力革命=ソビエト革命を認めた。但し、強面のレーニン式暴力革命論を認めなかった。

 1964.2月、社青同は第4回全国大会で、旧社会党内の構造改革論をめぐる対立が社青同内に持ち込まれ、「改憲阻止・反合理化」を今後の闘いの中心に据えることを決定した。これが「基調」(または「基調の確立」)と呼ばれている。その後の社青同は、この 「基調」評価を廻って対立していくことになる。「基調」は、思想闘争の重要性を踏まえ自由討論を重視していた。皮肉なことに、このことも又社青同を翻弄していくことになる。

 社会主義協会派が構改派から指導権を奪うなど社青同内での対立が激しくなっていた。そのころから解放派も次第に勢力を伸ばしはじめた。左へむかった解放派は、1965年から東京社青同の主流派の位置をしめ、群馬・栃木・愛知・大阪・京都・徳島など少なからぬ重要な県で急進派が生まれ、激しい理論闘争を展開した。解放派は東京地本の執行委員会を握り、地本内部でも全国の同盟に対しても理論闘争を促し始めた。当時のブント系、革共同系と伍するべく社民運動を批判しつつ革命的労働者の結集による前衛党建設を志向し始め、社会党・社青同内部で分派闘争を展開し始めた。この立場から、第4回全国大会以後「基調」批判を強め、遂に上部団体の社会主義協会的穏和運動を「日本革命の最大の敵」とまで公言するに至る。

【社青同が原潜闘争で飛躍】
 1964年、原潜闘争で飛躍(学)。

【社青同解放派(日本社会主義青年同盟解放派)を結成】
 1965年3月、滝口弘人(佐々木慶明)らが日本社会主義青年同盟(社青同)の分派として社青同解放派(日本社会主義青年同盟解放派)を結成した。指導者は中原一(笠原正義)、高見圭司、狭間嘉明。機関紙誌は「解放」(旧「革命」)。学生組織は反帝学生評議会(反帝学評)。大衆組織はプロレタリア統一戦線(プロ統)。ヘルメットは青。スローガンは「万国のプロレタリア団結せよ!」。

 社青同解放派は、新左翼の多くがトロツキーあるいはレーニンのマルクス・レーニン主義路線をとるのに対して、ローザ・ルクセンブルク主義、左翼共産主義、労働者反対派(アレクサンドラ・コロンタイなど)的立場からボルシェヴィキ的な前衛党による外部注入的な大衆指導路線を批判する運動論で「マルクス主義の復権」を提唱する。なおレーニン主義の外部注入論を否定しているが、前衛的部分の組織化を否定していたわけではなく、共産主義通信委員会という前衛的組織が存在した。日本の社会主義思想としては、労農派を評価した。

【反戦青年委員会結成】
 1965年、日韓条約反対闘争の頃、公労協青年部を中心に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、労組青年部の団体共闘を中心に、社会党・社青同が加わり、さらに個人加盟を認め、様々な学生集団のオヴザーバー参加をも認める構成だった。そして中央に続いて、各県段階、さらに地区段階にも結成されて大きな役割を果していくことになる。この「反戦青年委員会」もその組織基準を開放系にしていた為、当時活性化し始めていた新左翼の加入に洗われることになる。

【三多摩社青同の動向】
 第四回大会で左派中央が誕生した直後から、大衆運動はベトナム・日韓闘争にむけてうねり出しはじめた。その最先頭の位置に突然踊り出たのは第四インター派が指導する三多摩社青同であった。三多摩社青同は、未組織労働者を組織する統一労組運動を土台として、民間・官公労青年労働者の間に組織をのばし文化運動、婦人運動、高校生運動などの拡がりをつくり上げ、1964年の原潜寄港反対、横須賀闘争以降、政治闘争への全力投入を開始した。三多摩社青同の全員ヘルメットをかぶった戦闘的な闘争にひきつけられたのは都内の解放派系同盟員であった。1964年末に、解放派と第四インター派のブロックが結ばれ、解放派は協会派との提携を打ち切って“左派の左派”をつくり上げる路線に乗り変えた。この解放派の態度の変化が協会派を硬化させた。こうして、65年から66年いっぱいまでの2年間、解放派=第四インター派連合と協会派とのあいだに、主として政治闘争の路線をめぐる対立と闘争が続いた。奇妙なことに、この関係は東京に限られていた。宮城でも京都でも解放派は第四インター派に対抗し続けた。宮城では協会派を利用して第四インター派指導部を攻撃したし、京都では第四インター派の加入を認めようとしなかった。解放派は全国分派というよりは地方分派の連合体であり、中央の判断が必ずしも地方に受け入れられない組織体質だったのであろうか。

【社青同全国学生班協議会解放派(学)と東京解放派(労)が結成】
 1965年、社青同全国学生班協議会解放派(学)と東京解放派(労)が結成される。日韓闘争(労学)、早大闘争(学)を主導する。

【社青同全国学生班協議会解放派がブントや中核派とともに学生運動/都学連を再建】
 1965.7月、都学連をブント中核派とともに再建(学)。

【社青同全国学生班協議会解放派がブントや中核派とともに全学連を再建】
 1966年、社青同全国学生班協議会解放派がブント中核派とともに全学連を再建(学)。

【社青同解放派が東交反合理化闘争を主導】
 1966年、東交反合理化闘争を主導、社青同東京地本の中軸となる(労)。

【社青同東京地本第7回大会の混乱/「九・三事件」】
 社会党東京都本部オルグなどに解放派メンバーが多数起用され解放派組織拡大に有利に働いた。解放派は協会派と対立を深めて行った。
 東京での協会派と解放派の“左派の左派”対決は、六五年の日韓闘争を通じて感情的暴力的対決の水準にまで高まった。東京地本の力関係では、解放派&第四インターの左派連合が協会派を圧倒しつづけた。べトナム/日韓の政治闘争においても、東交を中心とする反合闘争においても、運動を活発に展開して大衆をひきつけたのは左派連合であった。このため、旧来の協会派の拠点といわれていたいくつかの職場班や活動家グループが左派連合に加担した。協会派は中央本部を全一的に掌握していたため、対立は応々にして中央本部対東京地本という形態をとるようになった。そこから、組織規律の問題が発生し、分派闘争は路線上の対立から“規約上”の紛争の次元に移っていった。
 1966.9.3日、社青同東京地本第7回大会が社会文化会館の五階ホールで開かれた。協会派は、この大会にむけて重大な決意をかため、中央本部の強権を発動して少数派たる協会派を東京地本の指導権にくいこませようとした。このため協会派が、東京地本の執行部である解放派が座るはずの演壇を占拠し解放派を挑発した。この挑発に解放派が乗った。解放派の集団暴力が協会派に加えられ、協会派は百数十名の重軽傷者を出した。 「急進派が執行部独占を意図して、反対派に対し開会直後からゲバ棒を手にして数時間にわたる暴行・テロを加えるという事件を引き起こした。午前1回、午後1回、相当激しい乱闘となり、これにより入院者1名を含む百数十人が負傷者させられ、半身不随で療養する者も生まれた。これを『九・三事件』と云う」。別説として、「解放派が素手で殴りかかったところ、協会派はあらかじめ鉄パイプを準備しており、解放派をメッタ打ちにし軍事的に勝利した」とある。大会は流会した。
(私論.私見)

 こうなると、真相が分からなくなる。解放派と協会派のどちらがテロったのか、通説は解放派の暴行となり、一夫氏の見解によると、解放派がテロられたことになる。こういうことは史実で確認できるわけだから、曖昧模糊は良くなかろう。当事者がはっきりさせる責任があると思う。


【社青同協会派が解放派系の社青同東京地本を解散させる】
 協会派が社青同全国大会を大牟田で開き、「解放派というテロリスト集団を社青同から排除するために東京地本を解散し、新たなる社青同東京地本を再建する事」を緊急中央委員会決定で決議した。こうして協会派が政治的に勝利し、解放派は社青同から追放された。(「人生学院2の投稿bP011の一夫氏の2009.4.30日付け投稿「前衛党を否定した者の末路(左翼運動の歴史、13)」参照)
 「九・三事件」の不祥事は、協会派に絶好の口実を与えた。中央本部は直ちに東京地本を解散して同盟員の再登録を行ない、協会派だけの東京地本を“再建”して、これを電光石火の早業で社会党に認めさせた。解放派は、社会党内派閥の介入をあてこみ、“妥協”の姿勢でこの動きに対処しようとしてはね返されてしまった。第四インター派は、“妥協”をこばんで強硬路線を走り続けたため左派連合自体にすきま風が入りこみ、やがて解消の方向にむかっていった。東京の第四インター派は、この頃から加入活動の中止の方向へむかっており、第四インター派内部の対立のために社青同運動自体が解体されていった。解放派・第四インターは、再登録にともなう自己批判を拒否し東京では社青同を脱退した。「社青同中央を握る社会主義協会派により東京地本が排除された」(「社青同東京地本の解散」)。
 社青同第7回大会では福岡地本と宮城地本の連合が成立し、反戦闘争と三池CO闘争の路線をめぐって中央本部と対立した。東京地本処分に関しては大会の多数は中央本部を支持したが、福岡宮城連合と、大阪―埼玉の構革派系地本が痛烈に批判した。

【砂川闘争が始まり、この頃から急進的青年・学生運動が爆発し始める】
 協会派の東京における勝利は社青同の全国的な一枚岩体制には結びつかなかった。1967年、砂川闘争が始まり、この頃から急進的青年・学生運動が爆発し始めた。砂川闘争は反戦青年委員会運動を全人民的な視野に登場させた。砂川反対同盟は、共産党の妨害を押しのけて反戦青年委員会と全学連に公然たる発言の場を提供し戦闘的実力闘争を鼓舞し防衛した。60年安保闘争の敗北以来、離合集散をかさねてきた“新左翼”諸セクトがいっせいに活気を取り戻した。

 砂川闘争ではずみをつけた急進的な青年・学生運動は、二次にわたる羽田闘争を闘い、佐世保エンプラ闘争、王子野戦病院反対闘争、三里塚闘争を経て、1968年の10.・12新宿“騒乱”へと連続的に爆発した。これらの闘争は、ベトナム革命の1968年テト攻勢にはじまり、チェコ政治革命、フランスの五月と続く国際的な青年運動の急進化に呼応しており、戦後革命の敗北過程における共産党の“武装闘争”とは異なる大衆的叛乱の時代の幕が開きつつあることを示した。この一連の“反戦闘争”の爆発が大学キャンパスに燃えうつり、1968年から69年にかけて、日大、東大を中心として全国の大学で“帝国主義大学解体”のバリスト闘争の波をつくり出した。

【社青同解放派系が東京地本を再建、独立する】
 1966.12月、東京地本が再建され独立した(樋口圭之介委員長)。

【社青同内大論争始まる】
 第四インターと急進派は、再登録にともなう自己批判を拒否し、東京地本の急進派は社青同を脱退した。 全国的には各地本内部で主導権を争いながら両派の暴力的衝突を引き起こしつつ共闘している。

【社会党30回大会】
 1967.1月下旬、佐世保闘争の熱気が会場にあふれた社会党30回大会で、成田委員長は「反戦青年委員会ぬきに70年闘争はたたかえない」と言明し、井岡大治国民運動局長は「三派全学連は同盟軍である」と規定した。60年安保闘争で大衆の急進化にたいする無原則的な包容力を見せた社会党は、67年〜68年に再び“左”にぶれた

【社会党大会の親急進主義路線にたいするまき返しが始まる】
 1967.3月、先の社会党大会の親急進主義路線にたいするまき返しが始まり、総評青対の“反戦青年委員会を改憲阻止青年会議に移行させよ”という提起、いわゆる“三月逆流”が始まった。

【社会主義協会第8回大会、太田派と向坂派に分裂する】

 6月、社会主義協会第8回大会が開催された。この大会で、規約第二条の修正をめぐって、太田派と向坂派に分裂する。当時多数派は太田派であり、大会は、少数派としての向坂派の戦術/規約第ニ条の修正にともなう向坂、大内両代表の辞任によって休会となり、事実上分裂した。次のように解析されている。

 「向坂派、太田派の分裂は、前者が協会の理論集団化への回帰をはかり、後者が完全な政治集団化への転化をはかったというものではなく、太田派、とくに当時の社青同協会派が、より完全な党派化をめざし、その主導権を向坂派はじめ学者グループから活動家グループヘ奪還しようとしたところにあったと正確に理解することが必要である」。
 「規約第ニ条の修正は、社会主義協会を党内派閥化、あるいは別党化させようとする一部組織破壊分子の策謀によるものであり、社会主義協会の伝統を杏疋し、社会主義協会の正しい発展を妨げるものであった。したがって、われわれの統一のための努力もついに結実せず、八月にいたって社会主義協会は分裂のやむなさにいたったのである。しかし、この分裂によって、われわれはマルクス・レーニン主義の理論の重要性を忘却し、社会主義協会の伝統に反する分子を除去することに成功した」。

 社会主義協会向坂派(以下「向坂派」という)は以降別党コースを執り、党派化を非難しながら自らもまたセクト性の強い党派として成長、発展していった。向坂派は、労農派系学者グループの再結集をはかると共に、当時社会党内の主流派であった鈴木派、佐々木派に協力と援助を求め、総評民同の中では太田氏と対立していた岩井章氏の全面的協力を得て再建をはかった。社研(佐々木派)は、前身である五月会以来社会党内左派の統一的政治派閥として、社会党内において社研社会主義が具体的な政治指導の任務を果し、協会は理論団体として理論、学習の任務を果たそうとしていた。

 向坂派は、1966年に協会テーゼ「勝利の展望」の討論をはじめて、この期に分党、11月に再建第1回大会を開き、翌年9月の第2回大会で「向坂派テーゼ」を決定した。こうして向坂派の党派的再建、登場とあいなった。向坂派は自らをマルクス・レーニン主義の集団と規定しつつ、ソ連共産党20回大会及びモスクワ81ヶ国共産党・労働者党宣言と親和させ、ソ連、東独などとの交流を深めながらソ連型社会主義を目標とし始めた。1960年モスクワ宣言で平和移行(平和革命)、平和共存、平和競争のフルシチョフ路線が国際共産主義運動の中で公認されたことを受け止め、向坂派はこれに追随し始めた。以後、向坂派は、「わが祖国ソ連」に対する絶対服従の方向をとることになる。

 まなぶ−労大−社青同−向坂派協会−社会党という図式の中で、まず社青同を向坂派が独占し、労働組合のなかに浸透、介入し、さらに党への介入、支配、占拠を強める中で、自らの組織を強化、拡大していく組織路線を着々実行し、社研からもぎとった三月会という社会党内派閥を隠れみのとして、全野党共闘の名のもとに、実は日本共産党との統一政治戦線を結成しようとする方向性を明らかにしてきた時期である。(「国際革命文庫」の「日本革命的共産主義同盟小史」その他参照)


【社青同第7回全国大会】 
 6月、社青同第7回全国大会開催。東京地本の官僚的組織処分に成功した協会派が、新しい全国分派闘争を再開した。他方、新しい反対派が宮城―福岡連合、大阪―埼玉連合が登場した。前者は協会派系自らの内部から、後者は第四回大会で一度はほうむりさられたかにみえた構造改革派の戦闘的再建として。宮城地本意見書は、第一に反戦闘争の強化、第二に「改憲阻止・反合理化」の基調の全面的再検討、第三に組織の民主的運営を要求した。それは反対派全体に共通する意見でもあった。協会派のメッカとされていた福岡地本が中央に反逆したことは全国協会派に大きな打撃となり、反対派にとっては全国展望を与えるものとなった。社青同第7回大会直後より、党内に大論争が始まった。

【総評全国大会における“反戦青年委員会凍結”決定】
 1967年の夏、総評全国大会における“反戦青年委員会凍結”決定。総評民同は、社会党指導部を呼びつけて叱責し、“組合の実情”を無視した党の“極左的偏向”の修正を要求した。10・21新宿騒乱の時点で、1月大会の言明は、反故になった。

【新三派系全学連定期全国大会開催される】

 1967.7.12日、新三派系全学連定期全国大会。44大学(結成時35大学)・85自治会(結成時71自治会)・275代議員(結成時178代議員)、他に168評議員.21オブザーバーの1500名が参加。新三派系が急速に勢力を扶植しつつあった。主な演説を各派が分担し、運動総括は中核派の秋山委員長、状勢分析は社学同の成島忠夫、運動方針は社青同の高橋幸吉が行い、秋山委員長を再選した。副委員長は、成島忠夫(静岡大.社学同).蒲池裕治(同志社大.社学同)、書記長に高橋幸吉(早大.社青大)、情宣部長に青木忠(広島大、中核派)、共闘部長に渡木繁(早大、社青同)、組織部長に久保井択三(中大、社学同)を選出した。中大連合自治会の加盟承認、都交通局合理化反対・佐藤訪ベト阻止等を決議した。但し、新三派系全学連の蜜時代はここまでであり、これ以降、中核派、社学同、社青同がそれぞれ自前の全学連を誕生させていくことになる。


【羽田闘争前夜、法政大闘争をめぐり社青同解放派と中核派の確執表面化する】
 1967.10.6日、全学連(三派系)佐藤訪ベト阻止統一集会〔日比谷野音〕。法政大闘争をめぐり社青同解放派の全学連書記局員が、中核派の書記局員の書記局員/丸山淳太郎を殴打する事件が発生している。

【社青同解放派の全学連書記局員が法政大闘争をめぐり中核派の書記局員を殴打する】
 1967.10.7日、中核派と反中核連合の対立で全学連(三派系)総決起集会が流会し、三派全学連は中核派と社学同.社青同解放派の二派に分かれて集会を開いている。中核派1000名は法政大、社学同・社青同解放・ML派900名は中大に陣取った。革マル派は早大、構政派は社会文化会館に各々泊り込み。この時、中核派と社青同解放派の二派があわや衝突寸前の動きをも見せている。

【羽田闘争前夜の法政大学で、中核派が解放派の高橋幸吉などへリンチ】
 1967.10.7日、羽田前夜の法政大学で、中核派が、社青同解放派が中核派書記局員に暴力をふるった仕返しとして、社青同解放派の全学連書記局員2名(渡木繁と高橋孝吉)に自己批判を強要しつつリンチする事件が発生している。その反動として、革マル派と並んで解放派が優勢な東大駒場で中核派がラチ・テロの対象になった。東Cの中核派はしばらく後に、駒場寮からも追われて「亡命生活」に入る。

【中核派全学連誕生】

 1967.12.17日、中核派が、秋山委員長、青木情宣部長(広島大)、金山克己中執委員らを迎えて単独で全学連主流派大会を開く。全学連(三派系)主流派全国大会〔法政大・板橋区民会館〕に中核派千名参加、エンプラ寄港阻止佐世保現地闘争を第三の羽田≠ニして闘うことを決議、現地派遣団の組織化・越冬体制を決定。


【社青同解放派が反帝学評を結成】

 1967.12.17−19日、社青同解放派が、全国反帝学生評議会(反帝学評)を結成し、早大で大会を開催した。48大学代表の400名が参加し、反戦・反ファッショ・反合理化闘争推進等を決議(議長・三井一征)した。


【反戦青年委員会】
 1968年、ベトナム反戦運動の高揚の中で、社会党・総評の主導で、社会党青年局長であった高見圭司を中心として、反戦青年委員会が結成された。「反戦」の主導権は次第に新左翼のほうに移っていく。それまでの解放派や第四インターだけでなく、革マル派、中核派などが地区や単産に入りこみ勢力を拡大し始めた。彼らは、「第三期反戦青年委員会運動」を自称し独自の反戦運動を提起し始めた。その頂点は、いわゆる「職場反戦青年委」で、「自主・創意・統一」というスローガンの下に職場毎に組織されている労働組合運動を越えた横断的活動者グループを組織し始めた。

【九大教養部学館で中核派と社青同解放派が乱闘】
 1968.2.12日、九大教養部学館で中核派と社青同解放派が乱闘、1人重傷。

【中核派対革マル派・社青同解放派連合という構図での「公然内ゲバ」始まる】
 1968.6.15日、日比谷野音で6.15記念・ベトナム反戦青年学生総決起集会。「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する 6.15集会」開かれる。1万2000名結集。

 このベトナム反戦青年学生決起集会で、秋山発言をめぐり中核と革マル派が衝突。中核派対革マル派・社青同解放派連合という構図での乱闘騒ぎが起こる。集会は中止となりデモに移る。全国反戦は以降完全に分裂、三派全学連も実質的に解体することとなった。社学同は別個集会〔全電通会館〕。大阪反戦主催の大阪集会〔大手前公園〕に反戦3千名、各派学生2千名参加。御堂筋デモで機動隊と激突、12名逮捕・ 負傷者2百余名。

【中核派全学連の誕生、三派全学連の分裂】

 1968.7.14-16日、中核派全学連大会が開催される。こうして中核派は、中核派全学連(委員長・秋山勝行)として単独大会を開催して正式に三派全学連から離脱することになった。101大学・157自治会・127代議員・1500名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派の進出もまた凄まじいものがあったということになる。してみれば、ブント−社学同系の分立抗争ぶりとは対照的に元革共同勢が大幅に組織を伸ばしていることが分かる。12.10日、中核派全学連臨時全国大会、委員長に金山克巳氏を選出した。10.21武装闘争、社学同・反帝学評とは個別闘争で共闘等の方針を決定。


【反帝全学連大会創出を廻って社学同と解放・ML派衝突】
 1968.7.19日、中核派全学連の旗揚げに対抗して、三派全学連内反中核派連合の第二次ブント統一派(社学同)、ML派、社青同解放派、第4インターなどが反帝全学連第19回全国大会大会を開催し、反帝全学連を発足させることになった。ところが、冒頭から社学同と社青同解放派(反帝学評)/ML派が対立し、社青同解放派とML派が壇上を占拠し社学同と衝突、流会となった。社学同は中大学館に、社青同解放派とML派は明大学館に立てこもる。翌7.20日も前日に続き反帝全学連主流の社学同統一派(ブント)と反主流の社青同解放派/ML派の両派が乱闘し、全学連大会が流産した。 

【反帝全学連結成される】
 7.21-22日、反帝全学連第19回全国大会が開催された。79大学・131自治会・170代議員が参加。これだけのセクトが寄り集まって革マル派、中核派の元革共同のそれぞれに匹敵しているという勢力関係が知れる。藤本敏夫(同志社大学文学部新聞学科中退、ブント社学同)氏が委員長、久保井が副委員長に選出された。これで4つ目の全学連が誕生することとなった。しかし、反帝全学連は結成当初よりのゴタゴタが付きまとい、社学同と社青同解放派の対立が激化していくことになり、翌年、社学同が社学同全学連、社青同解放派が解放派全学連を独立させることになる。

【社青同第8回大会】
 1968年、社青同第8回大会開催。前年末の社会主義協会の向坂派、太田派への分裂によって三派鼎立の大会となった。社青同に福岡―宮城連合に構革派系の地本が参加して反戦派フラクションが形成され大会の三分の一を数えた。結局、どの派も単独過半数をとることができなかった。協会両派の妥協が成立し、両派による中執を選出することで社青同は辛じて統一組織の体裁を保つことができたとはいえ、社青同の政治的分解はもはや明らかだった。中央委員会を開いても何も決定できない状況が続いた。福岡―宮城連合は旧東京地本との合同会議を開催するなど、社青同中央を“反戦路線”で掌握するための公然たる活動を開始した。

 この時、第一見解、第二見解、第三見解と略称される事実上三つの流れが生まれており、これを確認しておく。背景に「社会党・総評ブロック」の評価があった。当時の「社会党・総評ブロック」は、社会・公明・民社三党合同を強めつつあり、労働戦線でも総評・同盟を再編する労働運動の「再編統一論」を打ち出していた。いずれも右傾化の流れであった。

 論争は、「第三期反戦青年委運動」の評価をめぐっておこったようにみえるが現象面であり、根本的には「社会党・総評ブロック」の評価が問われていた。社青同は社会党の影響下にあったし総評労働運動を基礎としていた。だがしかし、60年代後半、社会党・総評系の運動全体が展望を見失ないかけていた。この情況に対し、急進派は、「第三期反戦青年委運動」をテコに社会党も総評もダメだ、別党や別運動をつくらなければならないと主張して攻撃を開始した。社会党などの一部幹部からは社会・公明・民社三党の合同による新改良主義政党結成構想や、総評・同盟的労働運動の「再編統一論」が出されていた。右派と急進派は主張は真反対だったが「社会党・総評ブロック」を解体させようという点では同衾していた。この全体の動き、論争の中で社青同内部の論争が進んだ。

 急進派の主張は第二見解と云われる。「社会党・総評ブロック」の右傾化を批判した。解放派、第四インター、構改左派、主体と変革派、福岡地本執行部がこれに加わり「社会党・総評ブロック」の社民運動と決別し左派運動の左派化による再生を主張した。但し、内部では更なる論争と対立が繰り返された。右派の主張は第三見解と云われる。歴代の社青同委員長をはじめ中央執行委員会の多数派がここに加わった。太田薫と思想上のつながりを持っていたので太田派とも呼ばれた。太田派は、急進派に反発する対抗勢力となった。第三見解派は執行部に代表を送らず、事実上の分裂活動を始め、復帰の呼びかけを拒否し続けた。中間派の主張は第一見解と云われる。彼らは社青同の今日を築いてきた派であり、当時の中央執行委員会主流派の見解であり、兵庫・東京・福島などの地本の支持を受けていた。但し、この当時少数派となっていた。組織維持を責務とした観点からの見解であり、左派系の第二見解、右派系の第三見解のどちらをも批判したが、「第一見解は急進派の第二見解に対して批判的、右派の第三見解に対して宥和的であった」。

 社会党の“左傾”は半年ももたなかったが社青同の場合はそうならなかった。東京地本処分で“左の足”を切りすてたはずの社青同は、1967年から70年までのまるまる4年間にわたって深刻な対立と抗争に向うことになった。東京地本を切りすてたことは、社青同中央が急進的青年運動の一方の極として活躍する手段を放棄したことを意味した。砂川、羽田闘争を領導した三多摩、東京反戦青年委員会は東京地本が主軸であったし、佐世保闘争は“三池”を語る全国の協会派の尊敬の的となってきた福岡地本が社青同中央に反旗をひるがえす契機となった。社青同中央は反戦闘争・大学闘争を闘う全国の青年・学生運動からとりのこされ全国各地本が急進的青年運動に合流していく様子を絶望的に眺めていることしかできなかった。

【東大闘争の主軸を担う(学)】
 1968年、東大闘争の主軸を担う(学)。

【反帝全学連大会でブントと、社青同解放派/ML派の両派が乱闘】
 1968.7.20日、反帝全学連大会でブントと、社青同解放派/ML派の両派が乱闘。

総評青対部、社青同中央が全国反戦凍結
 1968.10月、10.21新宿騒乱を機に総評青対部、社青同中央によって全国反戦が凍結された。しかし青年労働者、学生の闘いはさらに発展していった。

【社青同全国青年党員会議】
 1968.12月、社青同全国青年党員会議が150名の青年党員により、神奈川県下の金沢八景で、一泊二日の激論をくりひろげた。反戦青年委員会と70年闘争論をめぐって討論となり、圧倒的多数が中央の方針を支持し協会派は完全に浮き上った。

 高見圭司が「70年闘争と青年労働者の任務」なる討議資料を提案していたが、協会本部の方針と著しく違っているということで批判が集中した。とりわけ「70年闘争は60年闘争の幅広統一戦線を追憶するものではない。平和と民主主義の破産。一国社会主義路線としての平和共存路線の誤り。政府危機ではなく政治危機をつくり出さねばならぬ、等々」という下りが、社会党の「平和と民主主義を守る」路線と抵触し過ぎていた。高見圭司はこの頃、新たな労働者反戦派の小ブル左翼と区別された運動を推進する決意をもって月刊雑誌「根拠地」を発刊し、その運動を進めはじめていた。それは構造改革路線の桎梏からの飛躍を意味していた。この飛躍は、第一期反戦、第二期反戦を経て労働者反戦派との共同の闘いの中で遂げられていった。「国際革命文庫」「日本革命的共産主義同盟小史」参照)

【革マル派が早大で社青同解放派に対するテロ始動する】
 1968.11月下旬、東大紛争の最中、革マル派が、早大文連及び早稲田祭支配を絡めて、早大政経学部自治会を長らく維持し早大全共闘を主導する社青同解放派メンバーを襲撃、テロを開始した。これが両派の党派間抗争の始まりとなる。両派は昨年来の束の間の蜜月時代を経ていたが深刻なゲバルトに突入した。結果、社青同解放派が早大より追いだされた。この時テロられた解放派の数名は重度の身体障害者となっていると聞く。以降早大キャンパスは、革マル派の日常的パトロール隊の監視により、社青同解放派はむろんのこと敵対党派は一歩も構内へ入れないという事態が続いていくことになる。

 高原駿「沈黙と軌跡」は次のように解説している。
 「解放派の動員力低下を、革マル派は解放派を叩き潰すチャンスと見た。一九六八年十一月もおしつまったある日、『党派折衝』に名を借りて革マルは早稲田の解放派の主だったメンバーを呼び出してテロを加える計画をたてた。組織性に欠ける解放派は全学のキャップだった浜口竜太(りゅうた)ひとりがのこのことあらわれ、テロでやられたのは浜口一人だった。早稲田の解放派メンバーは早稲田構内に入れない状態になり、東大駒場の教職員会館を拠点にして全国動員で革マルとの武装対峙に入った」。

【革マル派と社青同解放派の抗争史】
 12.1日、革マル派が社青同解放派の文連常任委員Nを商学部地下自治会室に拉致。同日常任委員Sに対して暴行。眼球負傷。浜口竜太に対する暴行/高原峻証言。
 12.2日、革マル派が文連常任委員会をでっち上げて、早稲田祭ブロック会議に参加した革労協反帝学評(青解派)のS、Kの2名に暴行する。
 12.3日、革マル派が社青同解放派のH、Yに暴行する。
 12.4日、早大で社青同解放派と革マル派が乱闘。12・8緑会のビラ「ながらく早大で第1政経自治会、文連、東大闘争等をめぐり争っていた革マルと社青同解放派」(毎日新聞社1998)。
 12.5日、林文連委員長にテロとリンチ、眼球破裂。社青同解放派は早稲田を撤退し東Cに集結する。
 12.5日、東大駒場寮で社青同解放派と革マル派がお互いの拠点を襲撃しあう。12・8緑会のビラが次のように記している。
 「革マルと社青同解放派は、一昨夜早大で乱闘を行なった。これをめぐり5日夜10時頃、東C社青同解放派約70名は駒場寮マル研の(革マル派の部屋)を襲い、洞田某を監禁し、立て看に油をかけて燃やした。急をきいた革マル(早大・東大etc)約50人は完全武装でかけつけ、社思研(社青同解放派の部屋)を襲った。この襲撃で白形、松本ら10人近くが負傷し、うちひとりが脳内出血の重傷を負った」(毎日新聞社1998)。
 12.6日、革マル派50名が東大駒場寮(明寮)の社青同解放派を襲撃し、7名に重傷を負わせる。
 「12/6 東大教養学部駒場寮で革労協反帝学評(青解派)の部屋に早大等の革マル派とみられる学生約50人が角材・白ヘルメット姿で押しかけ乱闘、止めに入った寮生8人が負傷」(毎日新聞社1998)。
 12.7日、早稲田革マル40名が中寮に入ろうとして、拒絶される。社青同解放派40名が教職員会館に泊まり込み。その後150名の社青同解放派が教職員会館に泊まり込み。
 12.9日、早大で革マル派集会。
 12.10日、東大教養学部(駒場)で革マル派と社青同解放派の対立が激化。革マル派200名が駒場寮に入り、7時40分より教職員会館を攻撃。約200名が衝突、45人が負傷。
 「教養学部での反代々木系革マル派と革労協反帝学評(青解派)の学生同士の対立激化し、駒場察前で200人が衝突」(毎日新聞社1998)。
 12.11日、社青同解放派と革マル派が衝突。10数名が重傷うち2名が意識不明。累計で70名の重軽傷者が出た。
 12.11日、警視庁が東大学側に警告書を渡す。次のように報じられている。
  「警視庁は田村二郎教養学部長に対し『今後、衝突があった場合、大学側の要請がなくても警官を学内に立ち入らせることもある』との警告書を渡す」(毎日新聞社 1998) 。
 12.16日、革マル派が社青同解放派の労学討論集会を襲撃し、 東大駒場及び駒場東大駅ホームで革マル派と社青同解放派が衝突。
 「反代々木系学生同士がまた衝突、一部は井の頭線駒場東大前駅ホームでも乱闘したため、機動隊が出動し13人逮捕」(毎日新聞社 1998)。
 12.17日、東大駒場で反代々木系学生間でリンチ。
 「反代々木系学生聞の乱闘が続く東大駒場で翌未明にかけてリンチ事件があり2人重体、12人けが」(毎日新聞社1998)。

反帝学評臨時全国大会開催
 12.19日、反帝学評臨時全国大会(東大駒場教職員会館)が開催され150名集結。社青同解放派の追及により各大学で革マル派の自己批判が出る。

社青同全国青年党員会議開催、1968社青同政変」となる】
 12月、社青同全国青年党員会議が150名の青年党員により、神奈川県下の金沢八景で、一泊二日の激論をくりひろげた。反戦青年委員会と70年闘争論をめぐって討論となり、圧倒的多数が中央の方針を支持し、協会派は完全に浮き上った。

【革マル派と東大駒場へ移動した解放派の党派間抗争が続く】
 1969.1月、東大闘争のさなか、革マル派と東大駒場へ移動した解放派の党派間抗争が続き、両派が武装対峙する。社青同史に次のように記されている。
 「これに対してわれわれは、全国学園で革マルを粉砕し、早大―東大教養学部(教職員会館)を貫く全国部隊戦闘と、その継続としての九州での精鋭部隊間戦闘を闘いぬいた(教職員会館で前線指揮をとったのが同志中原・同志狭間であった。そしてこの戦闘での最精鋭が、同志荻野佳比古であり、同志石井真作であった)。この闘いをとおして全国反戦・全国全共闘は革マルを追放して戦闘的に結成され69―70安保決戦を牽引した。他方革マルはこの過程を経てあらゆる戦闘的闘いへの敵対者として全大衆的に刻印され、その裏切り者としての姿を69年1月安田講堂死守戦における権力への陣地引き渡しによって示した。そして69―70安保決戦にむけては、『武装蜂起主義反対』という、反革命への転落を決定的に準備する主張を基調とし、『他党派解体』にのめりこんだのである」。

【社学同派全学連を発足】
 1969.3月、社学同全国大会開催し、社学同派全学連を発足。先に4つ目の全学連として誕生した反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化し、社学同もまた自派単独の全学連を結成した。この大会で 軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。塩見孝也や高原浩之らの関西派グループが、「軍イコール党」・「秋期武装蜂起」など最も過激な軍事路線を主張し、「武装蜂起は時期尚早」とする関東派グループと対立した。

【反帝全学連結成される】
 1969.7.21-22日(7.15-16日?)、三派全学連から前年に中核派が離脱し、先の3月、社学同側が単独で全学連大会を開催し社学同派全学連を発足させたのを受けて、社青同解放派/反帝学評が「プロレタリア統一戦線の一翼としての全学連運動」を掲げて単独の反帝全学連第20回を開催し解放派全学連として独立させた。79大学・131自治会・170代議員が参加。委員長に石橋興一(早稲田大学)を選出。明治大学を拠点とした。9月全国全共闘へ積極参加、10-11月闘争方針等を決定。

 こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67〜69年の学生運動の流れ となる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。12月、社青同解放派が「反帝学生評議会」(反帝学評)を結成する。


【社青同第9回大会】
 1969.9月、第9回大会で、協会向坂派、太田派、そして反戦派の三つどもえの大会となり、「三つの見解」が鼎立して譲らず、どの派も単独では過半数がとれないという事態になった。そこで大会は、三つの見解を「今後1年間かけて徹底的な討論により団結の道を探す」という妥協案を採択して三派鼎立の中執体制を選出した。妥協案は、運動の上では既成事実となっていた統一指導機能の崩壊が組織上の現実として追認されたことを意味した。このとき、向坂派に忠実な地本は主なものでは再建東京地本、兵庫、千葉、福島、岩手など。太田派が新潟、愛知、広島。反戦派は北海道、宮城、埼玉、福岡、大阪、徳島などであった。中執の相対多数をにぎる向坂派にとって困難であったのは、従来からの拠点地本が形ばかりの東京をのぞいてことごとく反対派にまわっているという事情であった。太田派と解放派は第9回大会の決定を拒否し事実上の分裂活動をはじめた。
 第一見解は、第9回大会までの中央執行委員会の少数派を中心に提出され、兵庫・東京・福島などの地本、労働大学の学習誌「まなぶ」の読者から支持された。社会党も総評の将来を楽観しており、労働組合から一時的にせよ撤退して先進部分の個人加盟組織をつくる主張には耳をかさなかった。反戦闘争では「第三期反戦」、「職場反戦」、改憲阻止青年会議に批判的で地道な方向を主張し、青年部の団体共闘としての結成当時の反戦青年委員会を続ければよいと主張した。反合理化闘争でも、社会党・総評幹部の指導責任を問うのではなく大衆闘争路線を実行する個々の活動家の能力を問い、高めようと主張していた。
 第二見解は、急進派の解放派、第四インターを中心に、第4回大会以前に中央本部に多かった右派の後身が迎合し(構改左派・主体と変革派)、また福岡地本執行部を中心にした部分が動揺をくりかえした後で加わった。内部で論争し続けていた。第四回大会の「基調」を攻撃した。はじめは「基調を守る」といっていた第三見解に突っかかっていたが、やがて第一見解が敵だと気づくと、ここに激しい攻撃を集中しながら第三見解を引きつけていこうとした。中心は、60年代前半からこのような「社青同・社会党の解体」を追求していた解放派であった。解放派は、1966年に脱退していた東京の残党も一緒になり、暴力攻撃を含むあらゆる手段をとった。
 第三見解は、それまでの社青同の委員長をはじめ中央執行委員会の多数派を中心に出された意見であり、太田薫氏と思想上のつながりを持っていたので太田派とも呼ばれた。この見解は急進派に反発したが、運動の展望と指針を提起することはほとんどできなかった。第4回大会の『基調』を守ること、そこにいわれている改憲阻止青年会議(個人加盟)の組織化を強調したが、論争の本質についてはアイマイで中間的だった。社会党ナンセンス論を承認しながら、社会党を見捨てて新党をつくるというわけでもなかった(一部はこのコースをとって人民の力派をつくった)、党内闘争を積極化すると主張した。総評についても、「新たな潮流」を形成すべきだ、ただし総評から飛び出すとはかぎらないという主張だった。反合理化闘争については「いかなることがあってもたたかう」と強調したがモノトリ主義的な運動で事足りようとしていた。第三見解は、執行部に代表を送らず、大会後すぐ事実上の分裂活動をはじめ、復帰の呼びかけを拒否し続けた。はじめは旧主流派として支持者も多かったが、最も意志統一のない中間派であり、社会党・総評についてだけでなく社青同の混乱に関しても人のせいにして逃げまわったので急速に影響力を失なっていった。
 第9回大会以後、第一見解の人々が社青同中央本部を担って、組織を継続させる責任を買って出た。だから執行部の責任を負うといっても多数決で決定をおしつけるようなことはしなかった。第二見解は解放派をのぞき、この執行部に代表を送ったが、一年たたぬうちに辞任し、第一見解の人々にも総辞職を要求した。しかし他方彼らの大衆運動は、急進派といっても革共同革マル派、中核派などにくらべれば基本方向の意志統一もできていない連中だったので次第に自己崩壊していった。後に残ったのは革労協と名をかえた解放派の一部だけである。

【協会派の分裂】
 1969年、協会派内部が分裂し深刻な打撃となった。分裂は社会党内闘争の路線をめぐって起った。協会常任委員会多数派は党内分派闘争を強化する路線を打ち出したが、向坂氏を中心とする少数派が、これを“別党コース”であると否認して、あっという間に二つの社会主義協会ができ上った。協会派の分裂は直ちに社青同にもち込まれ、社青同中執も分裂した。

 これより後は「社青同解放派史2」に続く





(私論.私見)