山村政明焼身自殺事件/考 |
(最新見直し2009.5.16日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「山村政明焼身自殺事件/考」をものしておく。(「山村政明さんの焼身自殺死(川口大三郎さんの死の2年前)」その他参照) 2009.5.16日 れんだいこ拝 |
【山村政明焼身自殺事件/考】 | |
山村政明遺稿集「いのち燃えつきるとも」(大和書房)。山村氏が文学部キャンパスで革マル派に襲われた時の様子を生々しく書いている。 1970.106日早朝、早稲田大学第二文学部(現・文化構想学部)学生/山村政明が、馬場下交差点を挟んで文学部キャンパスの真向かいにある穴八幡神社境内で焼身自殺した。山口県美祢(みね)郡。10歳の時、韓国籍から日本国籍に帰化。高校卒業後、地元の大手自動車メーカーに入社したがロシア文学を勉強したいとの思いがあり、1967年、早稲田大学第一文学部入学。1969年、経済的理由から夜間の第二文学部に転部。民青同系学生運動に身を投じた。 革マル派執行部に反対する立場から学生大会の議長に4度立候補し議長に選ばれている(1969.5.19日、11.25日、12.6日、12.8日)。勇気のいる立候補であり、且つ山村君が学友によほど信頼されたことを証している。このことで革マル派に目をつけられるようになり、幾度となく殴る蹴るの暴行を受け、数度にわたって重傷を負わされる。当時の出来事を、朝鮮名の梁政明(ヤン・セイメイ)のンネームで、同人誌に寄稿していた。
山村氏はついにはキャンパス内に入ることすらできなくされた。 1970.10.6日早朝、川口大三郎リンチ殺害事件(1972.11.8日)の2年前、文字部キャンパスを道一つへだてた穴八幡神社の境内で、民族の問題、恋愛の破局、革マル派からの度重なる暴力、負傷による経済的破綻等々様々な苦悩に打ちひしがれた山村政明氏は肉親への遺書と抗議・嘆願書「早大二文当局およびすべてのニ文学友に訴える」を残して、焼身自殺で自らの命を絶った(享年25歳)。 抗議・嘆願書には、早稲田大学で「学園変革の闘い」に参加した経緯が記され、「革マルの学園暴力支配により退学に追い込まれつつある学友は少なからぬ数にのぼる」と訴え、「学友が自覚して立ち上がり、連帯して闘うことのみが、暴力の一掃、自治会民主化、学園改革への道を開くだろう」と呼びかけている。山村氏の焼身自殺の後、学生たちの一部は自由の回復を求めて立ち上がった。キャンパスに入れなかった数十人の学生たちも一斉に授業に出て、クラス討論を提起し、革マル派を追求するデモも組織された。しかし、半年ほどで革マル派の暴力が復活し、学生たちは再び沈黙していった。 |
【山村政明(梁政明)の抗議・嘆願書「早大二文当局及びすべてのニ文学友に訴える」】 | ||||||||||||||||
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(私論.私見)