「党派間ゲバルトの感性」について

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元、栄和2)年.8.9日

【仮題「告白者Aの党派間ゲバルト風景録」】
 告白者不明であるが、「党派間ゲバルトの感性」がネット空間に次のような内容のものがサイトアップされている。対革マル戦を担い、現在は離党している元中核派戦士の述懐である。 H大構内で起こった200人規模の大集団戦「H大1974.6.26会戦」の貴重なドキュメント証言をしているところに値打ちがある。これを転載しておく。

 仮に「告白者A」とする。仮題「
告白者Aの党派間ゲバルト風景録」によれば、「告白者A」は、中学・高校と陸上部に属し、秋の県大会100mで優勝の実績を持っている。中学あたりから社会意識に目覚め、高3の時はじめて10.21国際反戦デーデモに参加している。某大学社会学部社会学科入学。陸上部に入ったが、2週間で退部した。大学は6年通って、(表向き)授業料未納で除籍。ノンセクト活動家を1年ほどやった。その後、**派に入った。2018年03月12日付けブログ「」に出くわした。
 でもって、成田開港の後、どうしようもない挫折感におそわれ、無気力状態に陥ってしまう。党の大きな方針転換にも疑問があった。この方針転換とは「組織防衛」を第一義とし、これから来るであろう後退局面を退却戦として戦おう、というものであった。もちろん対外的にはそういうことは言わなかったけれど、その後の20年をみればそういうことであったと思う。おれとしても「そういうことか」、と感じていた。”おれの出番はなくなったな”というか、”もうついていけないな”という漠然とした気持ちを抱きはじめていた。きっぱりとやめようと決断したわけではない。ずるずるとやる気をなくしたのである。

 (***しかし、やはり党の指導者であったH書記長の死は大きかったと思う。□◯派のテロで暗殺されたのであるが、そのニュースを聞いたのは党本部の書記局の部屋であった。それはもうかつて味わったことのないようなショックを受けた。党本部は3階建てのビルであったけれど、建物全体が静まり返って重苦しい雰囲気に包まれたようだった。歯をくいしばって眼に涙をうかべる者もいた。

 H氏はみんなから親しまれ尊敬されていたのだ。H氏はその当時の他派やガクセイ運動の指導者と比べてもけたちがいの人物であったと思う。彼の人物感を表する多くのエピソードがある。例えば、サイリズカ闘争の初期の頃、彼は農民の指導者の家を訪ねた時、神棚に手を合わせたという。彼にとっては唯物論者としての立場などよりも、農村の慣習をふまえ人間と人間の信頼関係を得ることこそが大事であったのであろうか。こんなことをさらっとできる人はその当時ほとんどいなかったと思う。

 また、彼は、機関紙やビラなどでは難解な言葉使いをことさら批判し平易な文章を心掛けろと口をすっぱくして言っていた。ほかのサヨクと言えば難解な言葉を書き連ねてそれが知的であるかのような時代にである。70年闘争で組織破防法が発動されいよいよ危ないかという時でも党の主要な政治局メンバーがさっさと地下に移動したのにほんとは一番危ない彼が最後まで残った。また党が彼に最強の防衛隊をつけようとした時拒否されたとも聞いた。遠く離れて防衛上も安全なところから指導すべきだという意見にもがんとして拒否されたとも聞いた。そのあたりも敵の情報網にひっかかる原因があったのかもしれない。なにか当時”義理と人情の**派”と一部で言われていたけれど、これはH氏の人柄に大いに関係していたにちがいない。つくづく惜しい人をなくしたと思った。もちろん残ったS氏などもりっぱな指導者ではあるけれど、やはりH氏あってのことではないだろうか。やはりH氏ならばついていこうという面はあったと思う。いわば例えは悪いがH氏は「仁侠」にも通ずるものがあった。

 **派は当時「決戦主義」などと揶揄されたものだが、しかしそんな他派の低レベルの批判などおかど違いであり、それこそはH氏の思想そのものであった。「革命党は負けがわかっていても(たとえ局面における戦術的勝利がほど遠い場合であっても)戦わなければならない時がある」というのがH氏の持論である。奴隷根性に堕ち、敗北主義にそまるよりも階級と人民に希望を与えるために党と活動家は犠牲になって戦え、ということであった。だからこそすべての党員がどんな時であろうと「H氏なら必ずやる」という確信をもっていた。敗北主義におちいることなど一度もなかった。どんな苦しい時でも楽観主義であった。「やる時はやるんだ」という気概をすべての党員が持っていたのだ。彼についていけばまちがいないという心情すらおれにもあった。
 だからこそ彼が亡くなった時の悲しみは例えようもなかった。党内も激高していた。党内でも最左派でならしていたB戦闘同志会などは「□◯派本部とD労会館に突入しよう!」とか叫んでいた。H氏がテロに遇ってから1週間後6人の□◯派戦闘員がアジトで完全××されている。党のすべての人間がそれを長いこと(たった1週間であったのに)待ち望んでいた。みんながようやく半分くらい溜飲をさげたような気がしたと思う。それは史上に残るもっとも激烈な戦闘であったようだ。新聞各紙のトップをかざり、社会面は半分以上をさいて報道していたと思う。その後の「自民党本部火炎放射焼き討ち事件」に匹敵する扱いであった。周囲の電話何万回線も切断し、敵のアジトの鉄のドアをガソリンカッターで切断し、中のバリケードを打ち壊して突入し、一方の隊は隣の部屋からスレートを巨大なハンマーでたたき壊して突入したらしい。××された6人はH氏が受けたのと同じ打撃を全員が強制されたという。部隊は全員真っ赤な返り血をあびたらしい。
 この当時から「等価報復」という言葉が使用されている。(H氏の暗殺者の凶器はまさかりであったらしい。それに対して1mもあるバールで報復したらしい。その後の政治集会で60年アンポゼンガクレンイインチョウで有名なK氏は「ファシストの脳天にバールを!」とアジっていた。)その事件の報道を聞いてすべての党員が手に手をとりあって「やった、ついにやった!」と叫んでいた。それからその後の1年近くはまさしく嵐のようなテロ合戦であった。銃火器だけは使わなかったけれど、何百人もの死傷者を出した戦争以外のなにものでもなかった。

 戦争以外のなにものでもない多くの戦闘行動に俺も数多く臨戦している。歴史的事実を風化させないために俺はあえていまだ生々しい記憶を掘り起こしている。ひとつことわっておくが□◯派はもはや決してサ翼ではない。敵対党派や文化人らににわとりの生首や猫の死体を宅急便で送ったりするのはサ翼ではない。敵対的な労組の幹部らを尾行し電話を盗聴しプライベートな醜聞をさがしまくりそれをネタに恫喝するのはサ翼ではない。他派をつぶすためにのみ軍事組織をつくり、他派の戦闘はすべて「権力の謀略」であるなどとうそでぬりかためるのもまたけっしてサ翼のやることではない。他派をウジ虫とか青虫とか公然と機関紙で言ってるのもまた□◯派の本質を表している。したがってこの戦争をひとくるめに「内ゲバ」と称するのは決して正しくない。サ翼の仮面を被った、史上もっとも暴力的な新興宗教団体と言った方がいいかもしれない。事実、党首の「くろカン」としょうする人物は彼等の集会では録音テープで登場する!彼等は総立ちになって拍手するらしい。
 風化させないために、事実を知ってもらうために、一つの会戦(!)を掘り起こそう。個人テロ戦に対して集団戦を会戦と称していた。有名な会戦に俺も参戦していたH大6.26会戦というのがあった。H大構内で起こった200人規模の大集団戦である。その当時すでに□◯派の脅威は猛威をふるっていて、ただの学内集会すらまともに開くことすら命がけであった。全国のほとんどの大学は□◯×派に制圧され、数少ない当方の拠点大学は幾度となく襲撃されていた。多くの死傷者も出している。早稲田、東大、東工大、専大、国学院、横国大、北は北大から南は沖大までほとんどの大学を制圧されていたといっていい。大学だけではない。国鉄、全逓、教労、自治労、..労働戦線ですら□◯派の支配は猛威をふるっていたといってもいい。信じられないだろうけれど、本当の話である。例の国鉄分割の時も当時の中曽根が切り札にしボス交でとりまとめた相手こそ日共ではなくD労のマツザキであった。この人物こそ□◯派の副議長である。当時の影響力を物語っている。

 **派の学生カツドーカは大学に登録してある下宿やアパートをすべて引き払っていて友人のところを泊まりあるいたり、2.3ヶ月ごとにアパートを代えたりしながら□◯派の牽敵活動をかいくぐっていた。□◯派はインフと称して数百人規模でスパイ活動もどきをしていたし、先日権力にアジトが摘発されてあきらかになったけれど、盗聴活動などはけたはずれの規模で行っていた。警察無線のデジタル暗号を解読していたというので権力がやっきになってようやく検挙したらしいけれど、これも聞いた話によると警察内部にかなりのそれもかなり幹部クラスに□◯派のスパイが入っていたようだ。東大は□◯派の拠点校の一つであった。警察に組織的にもぐりこませていたとするならば十分ありえることだ。「加入戦術」というのは□◯派の公然たる戦術でもある。この辺もどっかオームに似ている?!オーバーに恐れていたのではなくて事実、何百件とアパートで寝込みを襲撃されている。俺などもアパートのドアは冷蔵庫などでバリケードをつくり、ふとんに鉄パイプを抱いて寝た記憶がある。両手両足には竹とガムテープで作ったプロテクターをつけていた。

 で、学内集会であるけれど、のこのこと大学に歩いていってたらその途中で襲撃されてしまう。帰りもまたしかり。したがってそのころはもう、60年代にみられたような(「いちご白書」にみられたような)ある種、牧歌的な風景などみじんもない。大学に入るのすら命がけである。例えばこうだ。前の晩、3人ずつぐらいで各所に分宿する。朝4じに起床し、決められた結集点に集合する。結集点はいくつかある。そこで幌付きトラックにのりこむ。そのなかでヘルメットと竹ざおで「武装」する。鉄パイプでないのはその時点で権力に遭遇した時「凶器準備集合罪」に問われないようにするためだ。そして大学近くの公園で各所からきたトラックが集合し、そこから全員が隊列を組んで大学に向うのだ。大きい集会であれば、50人から80人くらいであろうか。この部隊は先発隊であって、いわば集会防衛隊である。そうやって防衛隊が学内に陣取った後でもう少し大衆的なレベルの参加者らが合流するのである。
 ***一部で有名になった”糾察隊”というのはこの集会防衛隊から派生した部隊のことであって、この言葉にはいろんな誤解がある。「公安調書」などは、「糾察隊」が「軍」そのものであるかの記述があるが水準が低いのかアホなのか笑ってしまう。ノンセクトのなかにもそう理解している人もいてこれもこれも低水準。この頃、集会がしょっちゅう襲撃されるのでα(アルファ)という集会防衛隊を作った。これは軍組織でもなんでもない。集会参加者はβ(ベータ)、防衛隊はα、それだけのこと。だから「○×大は、αを○人出せ」とか指示を出してその集会の都度、急造した隊編成なのだ。「求殺隊」なんて笑かすなよ。集会場の周辺を見回りしてスパイとか襲撃部隊とかを摘発しようとして動いていただけのこと。α(防衛隊)とは別に攻撃隊を配置したこともあったけどね。こっちの方が本来の誤解された意味の方だね。まあ、ただαは軍隊的行動を要求されたので本来の軍から指導を仰いでいたのはたしかだけれどもね。このα隊が、他派や一般学生らから反発を買ったのも事実。だって実際、一般人の荷物検査をしたり、(武器=Pを持ってないか)服装チェックをしたりしたわけだから。警察なみだよね(だから-警察と区別して-人民糾察隊と言った-正式名称ではないと思う-αの組織化をまかされたキャップクラスが勝手に命名したようだ)。αは、ただの活動家クラスの若い学生や労働者が多かった。だから実直だし使命感に燃えていたし硬直でもあったわけで、一般民衆にはまずい対応もいっぱいあったと思う。それは指揮官クラスの指導のつたなさの問題でもあるんだよね。
 6.26当日もそのようにしてH大構内に60人ぐらいで登場したのだ。実はこの日は背水の陣でゴリゴリのメンバーを総動員していた。ガクレンのイインチョウHもいたし、マルガクドーのイインチョウのFもいた。SOB議長O氏すらいたのだ。なぜかと言うと、その1週間前のサンリズカ支援集会を襲撃されて大敗北を喫していたのだ。こっちが100人に対し、それ以上の数ではさみ打にされこてんぱんにやられている。1人の死者も出した。重傷は数しれない。その当日、俺は党本部にいたけれど、夕方になって血だらけになってみんなもどってきていた。H大といえば**派の最大拠点である。そこを襲撃され惨敗したとあっては立つ瀬もない。たいしてダメージを受けていないぞ、という姿勢を内外になんとしてもアピールし党内外の動揺を払拭しなければならない。そうした政治判断における1週間も経たないうちの大動員であった。なりふりかまわぬ召集だったわけだ。逆に敵もそんな早い再襲撃もきついだろう、という読みもあったのではないか。召集したメンツにそれがあらわれているように思う。

 しかし、それは甘い読みであった。敵はより以上の強力な布陣を敷いていたのだ。我々は部隊を校庭に布陣し、学内の検索隊を何隊か出した。数分して検索隊が戻ってきて「異常なし!」という報告があった。だが、その時である。正面の69年館の中でなにか白いものがうごめいていた。すぐにそれはヘルメットがゆれたものとわかった。誰かが「Yだ!」と叫んだ。一斉にこっちの部隊が建物に殺到し衝突が始まった。それがそれから1時間以上におよぶ壮絶な死闘のはじまりであった。発見が一瞬こちら側が早かった分さいわいしたのだろう。敵が建物からでてこないうちに殺到したおかげで緒戦の激突はこちらが押していた。(もしもであるけれど、発見が遅れて敵に奇襲をかけられていたならば、もっと悲惨な結果になっていたであろう。)喊声をあげて突っ込んだ部隊は竹ざおで69年館のドアとガラスをぶちやぶり敵に猛然と襲い掛かった。だが敵の数は半端ではなかった。倍(百以上)はいたであろう。「斥候は何を見てきたんだ!」とおれは思った。しかも竹ざおと鉄パイプではやはり勝負にならない。ばしっ、ばしっ、と竹がたたきおられてしまう。がつん、がつん、とヘルヘットが陥没してしまう。10数分でずるずると押し出されて校庭が主戦場になってしまった。総勢2百人規模で校庭いっぱいにひろがって白兵戦が展開されている。まさしく斬り合いであった。何人かが血まめれになって地べたに倒れている。敵は長めのパイプと短かめのパイプの2種類の役目の人間がいて訓練された部隊であろうことはすぐわかった。(当時□◯派にはJACという襲撃の特殊部隊がいてテロのプロといってもいい組織があった。)「こいつらがJACか」と思った。おれはJACに遭遇したのはこの時がはじめてであった。頭上からヘル越しに1発くらってクラッとなった。グシャとヘルが割れた。さらに左手に一発くらった。幸運にも時計にあたって壊れてそれが幸いした。それでも左手のダメージは大きくてその後ずっとしびれて握力がほとんどなくなった。こんな白兵戦になると竹ざおなど何の役にもたたない。突いたって当たりはしない。さおのまん中を両手にもって右、左と鉄パイプの嵐を振払うのがせいいっぱいであった。そのうちこっちの部隊のうち20人くらいが押されて正門の外にだされてしまった。
 いよいよやばいかなと思った時、助っ人が出てきた。学生会館に泊まり込んでいたこっちの部隊5.6人が鉄パイプをもってでてきたのだ。それでまた押したり押されたりの均衡状態になった。というより双方疲れてきたのであろう。みんな竹ざおをふりおろせない程、疲弊していた。一瞬不思議なにらみあい状態が続いていた。後ろの方でSOB(カクキョウドーガクセイソシキイインカイ)議長の「隊列つくれ!かたまれ!」という声が聞こえていた。(かたまってどうするんだ、とおれは思ったけれど、彼はJACの怖さを生身で知っている人間である。勝てる相手ではないと思っていたのであろう。)その間をぬっておれは使い物にならなくなった竹ざおの替わりをさがしに後ろへさがった。本館の柱の影で鉄パイプをもってふるえているW大の仲間をみつけた。「何やってんだ、こんなとこで!」。そいつは先輩であったけれど、おれはついどなってしまいその鉄パイプをよこどった。これでおれはようやくまともに戦えると思った。

 そこからおれは鉄パイプを手にして意気あがりなんとも無謀なことをしたのだ。にらみあって横を向いている□◯派の部隊に真横からたったひとりで突っ込んだのだ。Pをふりかざす瞬間大声を上げた。「ナロ〜!」ひとりの右肩にぐさっと一撃。とってかえして顔面に二撃。だがそのとたんに3人ほどにかこまれて猛然と反撃された。だがそれが合図になってにらみ合いから一転、戦闘がはじまった。おれは敵の陣地からなんとかのがれて部隊に復帰した。それから俺は二人ほどやりあい鉄ついをくらわせただろうか。こっちの人間も何人か地べたに倒されている。倒されているのに助けるひまなどないのだ。足元にも敵がすごい量の血をふいてねころがっている。「こいつ死んだのか。」と一瞬考えたりしている自分の妙な冷静さが不思議であった。
 10数分続いた後だろうか。むこうは徐々に隊列を整えて上回る数で扇型にじりじりと追い詰めてきた。「あいつだ、あいつをやれ!」という声が敵の隊列から聞こえてきた。なんだ、おれを差しているではないか。その一瞬、4.5人がこっちに殺到してきた。ワーッ、とボコボコにされてたえられなくなって学館の方へ逃げた。ところがそれがまた合図になってわが方の部隊が一斉に学館にむかって逃走したのである。全員が学館に逃げ込んだ。敵はそれ以上追ってこなかった。中ではマルガクドーイインチョウのF氏が、入り口にバリケード築け、と指示を出していた。たたかいは終わったのだ。全員疲れきり、血まみれの服をまとい、ある者は折られた手足をだらりとさせてうずくまっていた。そしてその一時間後くらいに機動隊が入り当方は全員逮捕された。襲撃した□◯派は逃走している。幸いにも死者は出なかったが、双方あわせて数十人の重傷者を出した。
 勝てはしなかったけれど互角に戦った。それまで常勝のプロ軍団JACは初めて手痛い傷を負ったのである。JAC神話が崩壊した日であろうか。こんな会戦が何十回となく全国であったのだ。立教で横国大で慶応大で、あるいは相模原とか新橋駅構内とかで、...。
 (なぜこんな戦争が起こったのか、なぜ□◯派のような集団を生み出したのか、もっとはっきりと明らかにすべきである。もっと言えば、連赤、クメールルージュ、そもそものスターリン。キヨーサンシュギ運動のなかからなぜこのような部分を輩出してしまったのか、をはっきりさせないかぎり未来の青年を決してマルクス主義で引っ張っていくことはできない。おれはこの戦争の正当性を主張できる。当事者としてその事情を知っているかぎりにおいて、戦うしかなかったし、戦わなければやられていたし、もし我々が戦わずに□◯派の天下になっていたとしたらそれこそおぞましい。しかし何も知らない若者に対してマルクス主義運動がなぜそうような部分を生み出すのか、と説得するはっきりとした論拠を俺は持ちえていない。みななぜ口をつぐんでしまっているのか。もちろんそれはいまだに□○派のテロがこわいという面は十分にあるが。)
 怪物のような人びと(松尾・北小路・マオさん・藤田・稲辺)

 それにしても党生活・活動を通して人間の深さみたいなものを垣間見た。世の中は広い。他では出会えないような怪物のような人がここには何人もいた。自分の小ささを何度も思い知ったものだ。
 松尾氏

 ホンダさんは言うまでもない。頭の回転の速さ、判断の速さでいったら、マツオ氏はすごかった。普通うーんと悩むような問題をいつでも一瞬にして解決策を提示できた。ビラや新聞原稿を執筆する速さもべらぼうであった。全国紙の巻頭論文をあっと言うまに書き上げていた。ただ、それに比してその判断が性急過ぎるのではないかと感じることはいくつかあったけれど、やはり後になって、失脚することになったようだ。詳しいことは知らない。おれが戦線を離れた後のことだから。ただおれをR大の担当からはずすという不可解な人事をおこなったのも彼であったのはまちがいない。彼は今、公然と某大学の講師を勤めているけれどその変わり身の速さも理解しがたいが。
 北小路氏

 キタコウジさんの演説のうまさは格別であった。いつ聞いても感動的に盛り上げていくのである。さすがに60年アンポゼンガクレンのイインチョウともなるとまるでものが違うといつもうなっていた。(この人は、60年安保トーソー時、6.15国会前のゼンガクレンのデモシキをして国会内突入を果たしたその人である。この時、かの樺美智子さんが死亡している。)キタさんの眼力というのもすごい。おれが書記局に入った頃、まだほとんど話もしていないのに(単ゲバと度胸だけで売っていた?おれを)「君はまるでスルメのような人だねえ」と褒めた?のだからすごい(笑^^;)。
マオさん
キタさんと同世代のオノさん(マオさん)は人間そのものの大きさに敬服するしかなかった。嘘偽りのまるでない人。人民とカイキュウトウソウに対するまるで微動だにしない深い愛情。オールドボルシェビキの典型のような人。他派からも愛された偉大な人だ。彼は最近戦時下のイラク・バグダットに入り、「人間の楯」として世界中から入国した人々を組織してバグダット市内デモを敢行したそうだ。うーん!なんともすごい。当年60歳を越えているはずだ。生還したのだろうか?
藤田マル学同委員長
政治的センス、バランス感覚でいったらM同盟イインチョウのフジタ氏。その才能もある意味で究極であった。オノさんとは逆に他派からはもっとも嫌われた人物でもある。それだけ政治的力量が際だっていたことの証左である。
 稲辺氏(日大)と作り上げた最大拠点=立教大学支部

 ガクレンショキチョーをしていたN大のイナベ氏も人間的魅力にあふれた人であった。マツオ氏ほど頭が切れるわけではない、フジタ氏ほど政治的力量があるわけではないが、人を見る眼と人を育てる力という才能があった。イナベ氏はおれの直接の指導部でもあった。彼はいっしょに活動を始めてからしばらくしておれのことを「おまえはほんとにどんぶり勘定だなあ」と言っていた。何と言う眼力!そう、おれは「どんぶり勘定」でそれでいて「スルメのような」人間なのである(笑い)。まったくそのとおりだ。まちがいない。おれ自身は言われてはじめて、しかも何年かして気が付いたのだが、彼等はわずか半年やそこらで言い当てたのだ。**派の70年代のR大学生運動は彼とおれとでたった二人ではじめ、育てたと言っても過言ではない。最初同盟員はおれだけ。それが数年して**派最大拠点H大をしのぐ首都圏最大の動員力を誇る拠点校へと育てたのである。今にして言うけれど、H大など新入学生もノンセクトもほとんど誰ひとり獲得できなかった。党の動員力をかけてでかい立て看を作り旗を振っていただけである。おれらのR大はちがう。クラスに入り、サークルに入り、ノンセクトと論争し説得した。74年以降、学生大会で2千人以上集め、何百人規模の純粋の学内集会を開くような盛り上がりをみせた大学運動が他にあっただろうか?たぶんない。この時期**派の学生運動を全国的に牽引していたのはまぎれもなくR大であった。
 1年間の地下工作の実績

 ぼくとイナベ氏のたったふたりではじめたR大の組織化。何から手を付けるか?ノンセクト時代の人脈を生かして個人オルグをトコトンやろうということになった。ノンセクト運動の指導部と接触しコンタクトをとり話をする。集会に誘う。イナベ氏にも同席してもらう。なにせイナベ氏は日大全共闘の有名人である。効果はかなりあった。メシを食う。酒も飲んだ。親近感をもたせることがまず大事。当時、××派はノンセクト内部でもカリスマ的影響力をかなり持っていたけれど、その反面、近寄りがたい「怖さ」みたいなものもあった。いっしょにメシを食うというだけでもその垣根を取り払う効果はまちがいなくあった。表面には出ない地下工作を地道に1年近くも続けただろうか。そしてたまに(決してぎょうぎょうしくではなくさりげなく!)ビラ入れも行なった。ビラ入れ自体が衝撃的だ。なにせR大はノンセクトが最大党派でそのうち機関誌の学習会もできるようになった。自派集会・デモへの参加者も徐々にふえていった。地下組織化はちゃくちゃくと進んだのである。やがて大々的にいっきに登場する舞台裏は整いつつあった。...(この項、後述...の予定)
 「H大は何をやってるのか」というのが当時のおれの口癖で会議でもH大指導部を攻撃したものだ。

党本部というのは全国の傑物ばかり集まってきた怪物屋敷ようなところだったんだなあ。それでもみんな欠点がある。これだけの人物がそろっていたのに完璧な人間などいない。マツオ氏もいくつかまちがいを犯した。これこそ傑出した人間であっても権力を集中させてはいけないということの証なのだ。たしかに当時、マツオ氏には権力が集中しすぎていたようだ。キタさんやタカギさんですら彼の下のように見えた。ということは彼は地下のPBと同格であったのか?この体制を不可解と思っていたのはおれだけではあるまい。彼がその後、降格したことは**派の自浄作用が働いたと信じたい。
 野木さん

 ほかには、オルグの天才とかもいた。信じがたいスカウト術!新人をぞろぞろと連れてくる天才。大物や文化人らをじっくりと落としてしまう天才。おれはその点まるでだめであったなあ。突っ込ませる時の扇動だけはできたかな(笑)。ノギさんという人がいてこの人はマツオ氏、オオモリさんの前にSOBのトップだった人。非常におだやかで物腰が柔らかく頭のいい人であった。マツオ氏やフジタ氏のような独断専横のにおいはまるで感じられない。殺伐とした戦況が頻繁にとびこんでくる書記局のなかでもいつもひょうきんな笑顔を絶やさないような人。印象はマオさんに近いが、マオさんほど「実直なボルシェビキ」ではない。もっと醒めて冷静に戦局をみつめているようなスタンスの人だ。こういう人のほうが人物としては大物だと思うけれど、「戦争」という状況下ではどうしてもマツオ氏のような、決断の早さ、リーダーシップの強さという部分の資質が重用されるのだろうか。おれはM加盟論文を彼に「講評」を受けた。”自分が見た中では最高の論文です。ということはこの書記局内の誰よりも優秀だということですよ。M主義の理解、党の方針の理解という点でここまで理解して加入を決意した人はいません。”というような極上の評価を受けた。そのせいかなあ?おれはノギさんに悪い印象は一つもない(笑)。
 傑物たちの欠点。権力の集中問題

 党本部というのは全国の傑物ばかり集まってきた怪物屋敷ようなところだったんだなあ。それでもみんな欠点がある。これだけの人物がそろっていたのに完璧な人間などいない。マツオ氏もいくつかまちがいを犯した。これこそ傑出した人間であっても権力を集中させてはいけないということの証なのだ。たしかに当時、マツオ氏には権力が集中しすぎていたようだ。キタさんやタカギさんですら彼の下のように見えた。ということは彼は地下のPBと同格であったのか?この体制を不可解と思っていたのはおれだけではあるまい。彼がその後、降格したことは**派の自浄作用が働いたと信じたい。
 (追記。最近、オノダとかアラとかその当時のことを振り返る本が続々出版されている。ヒドイ。読む価値もないが、逃敗走した兵隊が、悪態を着いて醜行を繰り返しているようなザマだ。アラとかオノダとかいったイイカゲンでデタラメな奴らが、歴史を偽造してまで自己弁護を繰り返し、自分の自慢話をべらべらとしゃべりまくる。一方で、真摯に取り組んできた優秀な部分は、真面目さゆえに、{主に}マルクス批判をできないまま思考停止におちいり沈黙を決め込んでしまったという80年以降の現実。今現在の思想状況のていたらくの原因はこの辺にもあるのではないかとおれには思えるのだが。)
 しょうもない俗物の堀内氏

 傑物ばかりをあげてみたけれど、もちろんしょうもない俗物もいっぱいいた。あまりけなしたくないので気が引けるけれど、例えばマツオ氏の後のイインチョーHなどは、声がデカイだけ、アジだけは(中身がないけど)まとも、下部にはどなりちらすだけという程度の人物。よく戦争映画にでてくるいばりくさった鬼参謀みたいなもの。その程度で起用しておけばいいのに、とおれはいつも思っていたし、ずっとそりが合わなかった。こういう輩はふだんいばりくさっているのにいざ戦さになるとほんと絵に描いたようにてんで役立たずなのだ。まあ、時効だからこのへんにしておくが、戦時下では(帝国軍であれ革命軍であれ)こういう輩が出てくることを記憶しておいても悪くはない。
ずいぶん、つらいことやきびしいことを書いてきたようだけど(?)、(おれも含めて)当事者たちは、決してつらいことばかりだったわけではない。むしろ、楽しかった。みんな生き生きしてた。毎日わくわくしていた。”血わき肉踊る日々”であったと思う。その間かれこれ5年以上にわたる間、ほぼ毎日3時間ぐらいしか眠っていなかったと思うが、そんなに苦ではなかった(もちろん、無茶苦茶眠くて、食事中に寝てしまったり、歩きながら寝てしまったり、なんてこともあったけど)。ハイテンションがずーっと続いていたから、むしろあんまり眠れないんだよねえ。つらい時代であった、などと言うつもりはひとつもない。
何年か経ってから同時代を同じように生きたかつての仲間やノンセクトの友人らと何人かと酒席についたことがあるが、最初はみな疑心暗鬼である。こわいものを見るような眼で見ている。言葉も選びながら、静かに話をしている。はじめはなにやら総括やらなにやら言ってるけれど、でもたったひとこと「でも、おもしろかったなあ!」と言うとみんな一気に打ち解けてしまうのだ。「そう、そう!」と合鎚を打ち、「あの時は..、」という話で盛り上がってしまう。みんな体を張って生き抜いてきた戦友だし、インターやワルシャワロードーカは軍歌なのだ。かつてのエンゲルスの著作を思い出してしまう。「かつて敗れはしたが歴史的ホーキをやりとげたヨーロッパの片町の酒場は、その後何十年にもわたって労働者の誇り高き唄声がきこえる...」と。
 カツドーカをやめた。離脱、脱け殻の日々

 そして、何年か経って戦争も闘争も一つの峠を超えたかにみえたある日、おれはふと党本部に帰るのをやめたのである(当時俺は党本部に寝泊まりし、飯を食い、24時間それだけに没頭していた「職革」であった)。はっきりと説明できる理由があったわけではない。エネルギーがなくなったロボットのように動くのをやめたとしか言いようがない。その後、10何年かは、まるでせみのぬけがらのようでもあった......、この混乱は何なのか、思想的拠り所を見つけない限り、帰れないと思った。確信も持たずに戦争はできない。
呪縛からの解放(過去を隠して)
あれからもう25年以上も経つのにいまだに呪縛からのがれられずにいる人も多いにちがいない。数年前、大学の同期生に会った時、税理関係の仕事をしていた彼は、最初かたくなに何もしゃべろうとしなかった。過去のことは一切しゃべってくれるな、という態度であった。彼は20年以上にわたって女房・子どもにも、もちろん会社の同僚にも**派カツドーカであったことを隠し通してきたのだろう。しかし飲むにつれて、おれは何のこだわりも持っていないこと、やましいこと等なんにもないこと、それどころか我々がやらなければ今の世の中がどうなっていたのかということ、そんなことはおまえも知っているはずだということ、Yの暗黒を阻止したのはあの戦争なんだ、誰が何と言おうとわれわれがやってきたのはホーキなんだということ、おまえもおれも歴史的ニンムを果たしたんだということをおれは自分に言い聞かせるかのようにしゃべった。しばらく黙したあと彼は、「眼からウロコが落ちた」と言った。「肩の荷が全部おちたようだ」とも言った。おれのようなノーテンキとちがって彼のようなまじめで実直なタイプはカツドーカにはけっこう多かったし、そういう多くの元カツドーカが彼のようにじっと身を潜めるように生きているのかと思うと少しやりきれない。おれがこんなヤバソな話を書きはじめた理由のひとつもその辺にある。だけどもう25ねんも経ってんだぞ。おい、おい。我々がおやじ達の太平洋戦争の話を聞いていたのも「戦後20年」とかであった。う〜ん!?..我々の戦争はまだ終わってないのか?
 離脱

 多くの仲間と別れるのはつらかったけれど、おれはやめようと決めた。多くの、いまだに整理できない、理由がある。それはまた後で述べる機会があれば整理してみよう。とにかく、少しごたごたした後で、おれは戦線を離れた。そして、血のついた手足を洗い、食うために仕事を探したのだ。だけどなかなか職がない。どこ行っても1週間もすると公安のデカが張り付いてくる。すぐ会社の社長に知れるわけで、どこ行っても2.3週間で首になった。こりゃあいかん、とかなりおいつめられたと思った(なにせ金が一銭もなかったから)。まともな職場には行けないだろうと観念した。とにかくハエのごとくうるさい公安に、俺はもう足を洗ったんだ、組織とは切れたんだ、と分からせるほかないとおもったんだ。それに追いかけてたのは権力だけじゃなかったからね。みっともなくテロられたり、新聞ネタにでもなったりしたらアウトだから。1年ぐらいフラフラしながら食いつないでしのいだってわけだ。たいへんだったのはアパート。ことごとくデカにおそわれた。しかも公安、本庁、所轄、ばらばらだけどみんな来るんだよね(これはたて割りで意志の疎通ができてないみたい。)。日本の警察はこの辺は徹底している。というか60年代後半からアパートローラーのシステムができあがっていたからね。
カメラマンとして
で、えーと、2年ぐらい逃げたりしのいだりしているうちにカメラマンの口を見つけたんだ。都合のいいことにそこのチーフが元京都大の赤軍のシンパらしかった。それでもって面接したらあっさり採用されたってわけ。カメラなんてリコーオートハーフしかさわったことなかったのにねえ。だから、後年よく聞かれて答えるのだけれど、カメラマンはそれをめざしてなったわけではない。他に才能も、つても、コネもなにもないおれが食って行くために選択した残り少ない就職口のひとつでしかなかったのだ。しばらくして、やっとこさ、なんとか生きていけるかなあと思った。で、そこでアシスタントを2年やらしてもらった。いいとこやったな。1から10まで手取り足取り教えてくれた。いまでも感謝しとる。ありがとさんでした。札付きをやとっていただいて(笑)...。で、無謀にもたった2年で独立してしまった。申し訳ない。このあたりなど写真の世界など何も知らないで飛び込んだ者の浅はかさであったのだろう。独立して2年後、六本木に事務所設立。1982年だったかな。物撮りや建築写真など、広告写真全般を撮っていた。けっこううまいこといっぱい仕事をさせていただきました。年収もかなりあったけど、ほとんど飲んだくれて....。84年。JPS 展に今の「幻色の都」の写真の原形である写真を出品したら入選をもらった。そのころもちろんパソコンなどなく、フィルターとマスキングと多重露光をつかって制作したものだ。93年。アートボックス大賞展に出品。これも入選をいただいた。これはもうほとんど今の作品に近い。それでもまだアナログ作品である。デジタルをやりはじめたのは97年ごろである。99年。スタジオを恵比寿に移転。
【注】写真家としての経歴で本人が特定されそうだ。ただ、悪いがそのままにした。
 追記
 ブント同窓会なるものが某ホテルで盛大?に開催されたらしいけど、ほんとにオメデタイなあ、こいつら。ふぉんとに!無責任というか、なーんにも考えてないと言うか...。デタラメで無責任な、学生気分丸出しで(労働者に何の根っこも張らず)ブントなるカクメイ党を作ってしまったという、そういう根源的なものこそ赤軍、果ては連赤なるお化けを作ってしまったのだとは誰も思わないらしい。荒(日向)の「ハテンコー伝」なる駄文をみればブント(2次ブントではあるがたいして違わない。それでもアラなんて1次ブントの島とかキタさんとかにくらべたらどうしようもなく矮小であると思うが)のトップなるものがかなりいい加減であったというのがわかろうというもの。赤軍なんて子供のマンガである。軍だけの党なんてあほらしい。大衆を組織しないカクメイウンドーなんてばからしい。こういう子供を産み落としたのはブントだ。そっから総括したらどうなんだ?!何も考えずまたぞろただ気分的にブントを再結成しようったって、また同じ轍を踏むだけだべさ。
 カクキョウドーも同じ。**派の指導部の中に未だにクロカンを払拭しきれていない者がいることを知ったのはおれもそういう立場の連中と少しは直接話できるようになってからのことであり、唖然としたものだ。今だから言えるけれど、**派のセンソーのやり方はどんどん□○に似てきたのである。現場の兵隊はとっくに気付いていたのだ。シドウブの感覚の方が麻痺していたのだ。「他党派を一掃し指導権を握る」、...、□○の他党派解体論とあまり変わらない一歩まちがえばおっかない路線だ。なぜならこの思想は外部だけではない。内部にも適用されうるのだから。ただ**派は、その後、戦闘的な闘争を展開した。だからこそおれも違和感を持ちながらも、多少はしょうがない、と思ってやってきた。シドウブが「ぎりぎりのおっかない路線だぞ」という意識をしっかりもってやればそんなにまちがわないとも思っていた。でも違うのだ。カクキョウドーのシドウブのなかに、そうではなくて肯定してやっているものがいたのだ。クロカン組織論の盲目的実践者が。(カクキョウドーのシドウブ内にもクロカンを批判しきれていない人間がいたというのはおれには驚きであった。ヒドイね。クロカンなどとるに足らない、というかあまりに稚拙な観念論だよ。「プロレタリア的人間」とか「共産主義的人間」とはいったいなんなのだ。「革マル主義者」という「前衛党」の拡大運動こそがカクメイウンドウだとする組織運動論をなぜ否定できないか。「他党派解体-小ブル諸雑派一掃」というあきれた論理になぜすりよるのか。連赤を生んだブントも同列である。「内ゲバ反対論」の四トロなどもっとお話にならない。共同で粉砕すべきであったはずなのに何を言っていたのだ。埴谷雄高や久野収らの「文化人提言」の連中も的はずれである。今にして思えばもっとしっかりと全面的にクロカン理論を批判しつくすべきであったと思う。クロカン理論とはカクマル以外のあらゆる運動を許さない運動なのだ。その上、「大衆」は「カクマル前衛党」に指導さるべき「無自覚な存在」なのだから恐ろしく始末に悪い。こんな大衆蔑視の思想などマルクス主義とは相容れない。...だから、問題なのである。このクロカンもまたマルクスを読み間違えてこんなになってしまったのだ。ML思想の見直しは絶対必要だ。)
 れーにんの末期を思い浮かべてしまう。敵に勝つためには党組織はこうでなければならない、でもこの党の形態は危ないものだぞ、と、れーにんは意識していた。特にすたーりんが力をもちはじめてからはよけいに意識していた。だから後期には「中央委員会の100人化」とか必死になって暴走しないように歯止めをかけようとしたのだ。でも遅かった。れーにんは自分の路線によってすたーりんをもって追放され指導権をにぎられたのだ。賢明なれーにんが元気ならば問題なかった、たしかに。でもそういう問題ではない。「れーにん」はそんなにいないのだ。匹敵するようなひとがいても倒されたら終わりなのだ。だからちがう。ちがう思想、ちがう組織論が必要なのだ。アオカイなら、だから「ローザ」なんだというかもしれない。でもちがう。そうでもない。ローザは矛盾している。アオカイも同じあやまちを犯しているではないか。アオカイ同士でみにくい××をやっている。問題はやっぱり本家のMなんだよ。だってほら、□○はれーにんを読まないよ、まるで。で、だから...、ちがう思想が必要なんだ。

【仮題「狂おしく悩ましく」氏の対革マル戦考
 「狂おしく悩ましく」氏の2010年05月12日ブログ「49対革マル戦の結末」。中核派産別戦士の対革マル戦生態述懐となつているところに値打ちがある。
 49 対革マル戦の結末
 対革マル戦とは何だったのか。本多さんにとっての意味、その半分は解けた。残りの半分は、まず結果から考えよう。90年以降、中核vs革マルの鉄パイプによるテロは途絶えた。80年以降は断続的なテロだ。その後の死者もいるけれど、大局的には80年で終わったと言ってもいい。中核派も革マル派も「党派」としては生き残り、消滅していく新左翼系の中では、相対的に存在感を維持し続けた。双方共に活力を失い、「棲み分け」も出来たようだ。大事な事は、互いに軍事によっては相手を解体する事が出来なかったという歴史的事実だ。傷み分け、だ。

 もう1つ。中核派の革命的武装闘争は、敗北した。けれどもまた、権力は中核派を消滅させる事も、組織破防法を適用して非合法化する事も出来なかった、しなかった。見方によればここまでやれる、ここまでやってしまった、という事を土台として、私は考え続けたい。
 (注 破防法の団体適用が回避されたことと並んで、自衛隊の治安出動も回避された。かわりに機動隊の警察軍化が進んだ。55年体制の内側からの解体の実像を改めて点検する必要がありそうだ)
 内戦の構図
 私の問題意識は「どの程度まで、そしてどこで止めれば良かったのか」にある。とりあえず、3つの問題を確認しておこう。1つ目は、初期の優位性の下、革マルが、中核派の組織・運動の絶滅を期してきた事だ。「党対党」の主導権と死活を巡る抗争の問題。もう1つは、革マルの反革命的武力支配への「解放戦争」としての意義だ。川口大三郎君虐殺を契機とした早稲田解放闘争。あの闘いを単なる「内ゲバ」とする事は許されない。最後に、「中核の革マル化」と言われる領域だ。法政大学での他党派の排除、三里塚での第4インターへの2波にわたるテロはその領域だ。「3・8分裂」そのものも俎上に上る。最近の主張を見ると、中核派(中央派)と革マル派本体の主張が極めて似通ってきたこともある。

 両派の戦争体制を比較してみよう。双方とも、党員数はほぼ互角。動員力は中核派の浮沈の大きさに比べて、革マルはほぼ一定だ。まず戦闘主力。革マルはJac(全学連行動隊)、インフ(索敵情報活動=レポ)には、多数の女性が体を張った。「労働者本隊」は、これとは一線を画しながら、「水本運動」を総力挙げて展開している。対する中核派は、学生・OB・反戦だ。そして「諸戦線」の力が大きい。大学戦争では、反戦が主力を占める。新橋や東神奈川での大会戦は、反戦だった。次に攻撃目標と戦争目的。革マルは初期から、中核派の組織丸ごとの壊滅を目指していた。「あと1撃」論だ。「あと1撃で中核派は消える、ガンバレ」。75年「3・14」本多さんの虐殺は、革マル根本によれば「半年間をかけて議論してきた」結果だった。それは「知識人の停戦の呼びかけ」とセットされた余りに虫のいいプランだ。
 解放戦争としての総括軸
 対革マル戦を「解放戦争」として総括しようとする時、多くの壁が立ちはだかる。第4インターへのテロを頂点とした、力による他党派・無党派への圧迫、これは釈明できない。次に「生と死」の問題。「完全せん滅」(殺人)の重さ、その目的意識的追及――その事実から目を背けることは出来ない。71年の海老原事件は、意図せざるものだったが、革マルの好戦世論を引き寄せた。中核派の中に、「内ゲバ主義」への嫌悪と動揺が広がる。もちろん、辻・正田同志の虐殺[1]や、本多さんの虐殺への怒りをもって、この事件を相殺する事は根本的な詰まりだ、今、私はそう思う。「生と死」、人のあらゆる可能性の全抹殺という事の前に私たちはたじろぐ。私はこの意味を「戦争をもって戦争を養う」という視点から解明してみたい。革マルの死の問題は措こう。問題は中核派側の対応にある。中核派は、「殺す意図は海老原事件では無かった」とのみ声明した。沖縄の比嘉事件では、最後まで誤爆の死であることを認めなかった。

 私は思う。除名を含む処分、軍法に則り、処分は厳正でなければならない。弾圧・長期投獄によって代替する事も許されない。軍の規律・モラルなしに解放戦争はあり得ない。もちろん、「一部の未熟分子」への責任転嫁も許されない。その責任を、党自らのものとして、共に荷うべきなのだ。指導の重心・組織・財政その全てで、苦しみを共有するべきだ。「謝罪と賠償」は不可欠だった。障壁になったのは「革マルに謝罪するのか?」、「軍がもたない」だったろうか。救対は、その重みを荷うに足るものだったろうか? 指導は共有したろうか? この問題を避けた結果、恐るべき「モラルの崩壊」が起こってしまった。精神が萎縮する。「負け戦の中でそんなの空論」だろうか?では問おう。いつなら出来たのか?いつやったのか? 誤爆事件への唯一つの自己批判があった。74年、在日女性への襲撃、この時は『前進』紙上でも明快に自己批判し謝罪した。

 中核派はこの戦争に、「戦略的無準備」の中で突入した。無準備性の中には、この生と死の問題がある。とすれば、その無準備さをはっきり見据え、それを埋める過程として「戦争をもって戦争を養う」べきではなかったろうか。「生と死」の問題の重さに向い合うために、戦術もまた本当の意味で、組み立てられるべきではなかったか。目的意識的な、政治を欠落した「殺し」をもって党の体質を変える事が出来る、という軍事万能論的発想こそ、自壊を生み、不利を招いたのではないか。この点での「上からの先制的な党内闘争」こそ、今改めて断罪されるべきではないか?

 浮上した同志、長期下獄した同志――その多くが党に見切りをつけ、あるいは「反党分子」として除名された。この事実、そして「反党分子」には、治療費も「軍人恩給」も出さぬ態度、これが「戦争党派」なのか?それとも、こういう立て方がそもそもおかしいのか?
 動労革マルとの闘い
 解放戦争としてはどうだろう。国鉄分割民営化攻撃と、国労・動労千葉の闘い。ここでの「赤色テロ」は益だったのか、害だったのか。国鉄労働者の中で革マルを批判する『前進』が回し読みされたと聞いた。動労革マル(=JR総連革マル)への怨嗟の念はもちろんだ。けれども今、私の答は「害」だ。労働者たちは「テロル」の前に戦慄して立ちすくむ。「赤い用心棒」こそ、「テロと結託した国労」という「世論」の総反発を引き起こし、国鉄労働運動を孤立の中に追いやったのではないか。浅草橋と同じだ。「党対党」としての総括と、解放戦争としての視座と、どう考えたら良いのか?

 内戦初期、労働運動や各種の救援運動で、まだ諸党派の統一行動は維持されていた。69年と71年の「2つの11月」での逮捕者・解雇処分に対する新しい共同行動が各地で生まれていた。当時「戦争状態」にあった解放派はもちろん、動労革マルもこの隊列の中にいた。この矛盾と葛藤をいともたやすく切り捨てて「大衆運動主義」者を排除していった結果、生まれたばかりの県党の創設者たちを多く失うことにもなったらしい。地元で育ち地元で戦う指導部の形成ということの意味、それはどこまで位置づいていたろうか?
 ファシスト規定について
 革マルが「神学的サークル主義」から、反革命として姿を変えていったのはいつからだろう。「死闘の7か月」、大学闘争、そして差別排外主義との闘い――革マル自身、この激しいうねりにもみくちゃにされながら、それに憎悪と侮蔑で対抗して満身武装していった、と言えるだろう。やはり、70年が生み出した独特な反革命、だ。

 革マルが「武装反革命」として登場したのはいつか。私は今、69年秋の早稲田の暴力支配、解放派と反戦連合の放逐こそ、その原型ではないかと思う。北大での「5派連合」対革マルの連日の集団戦。5派が、ついに革マルに屈したのは70年10月だという。この時点で中核派が、事の重大さを認識していたら、後の展開は全く変わっていただろう。いや、重大性を踏まえつつ中核派は、2つの11月という大決戦に全力を集中しようとしていた。他の事は眼中にない。「2つの11月」で解放・ブントを一気に解体・吸収できる。全国全共闘を手中にした中核派は、革マル派を一気に叩けるだろう。‥けれどその目論見は、ついに実現しなかった。対革マル戦を「戦略的無準備性」の中で迎えた中核派、総括軸の1つは、こういう構造からなる「決戦主義」と「ボリシェヴィキ化」ではなかったか。本多さんが常に、情勢全体を切り開くことで局面を打開しようとしたことは確かな事実ではあるとしても‥。

 中核派の「革マル=ファシスト」規定は、どうだろう。「ファシスト」規定は、混乱の元凶でしかなかった。「ファッショ的」はいい。けれどファシストとは何だ。「ファシスト、ファシスト」と決めつけながら、そのエセ共産主義性を暴露しようとする『前進』重要論文を前に、多くの成員は立ち往生してしまった。反スタの正統争いに執着する政治局に、一体何が言いたいのか、と困惑する。要はやっぱり内ゲバなのか?結局、凶暴で得体の知れぬ連中、ということでしかない。これでは、革マルと面と向かい合うことは出来ない。
 革マルとは、黒田哲学と反スタの反動的固定化、激動期に激動を憎悪する神学的集団――これで良いのではないか。略して、革マル反革命だ。ファシスト規定の誤りをいくつか並べよう。
 1つ. 黒田哲学の反動的固定化、変質。うんころじーはその崩壊的混乱の論である。けれども、80年代後半の中核派は、「正統争い」を放棄してしまった。
 2つ.学生革マルの位置。その拠点は東大、早稲田、上智……。ナチスやファシストよりも、オウムに近いくらいだ。
 3つ.その「労働者本隊」論と「プロレタリア的人間」という人間完成論。特殊に、基幹産業にのめり込む姿。「反辺境、反・反差別」の極端化
 4つ.ワイマール体制下の内乱の奥深さと比べた場合の「70年」の激動の限定性。特殊性。「革命と反革命」は、まだ共に未成熟で「萌芽」に過ぎない。
 5つ. 。新左翼(反スタ、革命的左翼)内の「主導権争い」と言う視点は、やはり欠かせない。互いに、共産党との全面対決を避けての「戦争」なのだ。

 結局私たちは、「革マルとは何か」「その生態=動態はどんなものか」を捉える事に、破綻し続けたのではないだろうか。黒田を乗り越える事を放棄してしまったのではないか。そもそも何でこの「内戦」が生まれ、発展し、消滅したのか?結局は、分からずじまいと言う事か。革マルの革マルとしての新たな変質が、また一歩進んでいるようだ。
 50 政治なき戦争
 沖縄の失陥
 中核派にとってもう1つ大きい痛手は、「沖縄の失陥」にある。内戦初期、93年の「対峙段階」への突入に当って、沖縄県党もまた、鉄パイプの戦いに突入した。結果は惨憺(さんたん)たる敗北だ。海に囲まれた狭い沖縄で、「殺人罪」に問われた戦士たちは、逃げる場も無くなってしまった。北海道・東海などでも同じような構図が生まれたようだ。地域の政治地図を無視した全国1律のテロ合戦への決起という中央の方針が正しかったのか否か、改めて問われると思う。特に、沖縄をどう守るか、真剣な突き詰めた議論があったのか自体を疑う。当初、テロ合戦は長くて1〜2年という読みがあったはずだ。本土で有利な局面を得るまで、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」もまた選択の1つでは無かったろうか? 沖縄革マルは、復帰前までの「マル同」。「沖縄の自決」は内戦論上でも避けて通れない。「沖縄の県内政治」を無視することはできないはずだ。ここでも「党内闘争」として全国1律の戦争方針を持ち込んだ清水さんそして本多さんの政治は政治的「同化主義」との疑惑を覚える。点検しなおしたい問題だ。
 勝利の為の「戦略」
 私のアパートへの襲撃と、相次ぐ「ナーバス」は、厭戦(えんせん)主義者だった私を、「好戦主義」の側に引き寄せた。「労働者会議への襲撃」への怒りは、神奈川での産別戦争を拡大させる力になった。果たして革マルは、そういう結果を予期しただろうか? 和平派の陶山さんを、生涯政治活動への復帰が出来ないほどの重態に追いやった事は、革マルの戦争プランにかなうものだったろうか? いや、革マルに「戦争」の認識が無かった事が、革マルの初期の圧倒的優位性を支えていた。 同じ事は、中核派にもある。互いにやり合いの過程に入った「戦略的対峙」段階は、半年か1年くらいだと信じ込もうとしていた。産別戦争を拡大すれば、革マルは必ず音をあげて自壊する、そう信じ込もうとした。 多少の優位に立つと、すぐおごり高ぶって、力に頼る無知と無政治――中核派の「内戦」が頓挫した最大の原因は、これではなかったか。「解放戦争」の契機、不断に政治を追求する軍事――問題は、「政治の質」・「政治の豊かな内実」であって、俗物の政治屋では無理だ。中核派もまた、戦争観が無かったのだ。あるいはまた、あまりに軍国主義的戦争観しかなったのではないか。 「結節間を切り落とす」[1]という言葉がさもさもしく語られた。「革マルの中枢分裂」もくり返し語られた。けれど、それに見合った方針は有ったろうか?「人民の海」で革マルを包囲し、的確な情報をもとに敵の痛いところを攻撃し、力を分散させる。内部分裂を促進して足並みの乱れを撃つ。そんな「戦争の要諦」は、いったいあったろうか? 「内ゲバ主義」、「内ゲバの延長線上」という「社会」の思いを塗り替える事から始めなければならなかったはずだ。中核派は、その最大のチャンスを自ら踏みにじって、内ゲバ主義に一層純化してしまった。今、改めてそう思う。
[1] 戦略。革マルの、見境のない襲撃は、たしかに「まともな対応」の余地を奪った。破防法弁護団への襲撃、政治局員を狙い撃ちした陰湿さ。家族への脅迫と策謀。争議団そのものへの襲撃。動労を押し立てた反原発運動への襲撃的介入もあった。けれどまた、多くの無党派集団が立ち上がっていた。内戦への協力を惜しまなかった。この統一戦線を「人民の海」に転化するためにどれだけ苦しみ、煩悶しただろうか?
 熟成と「軍人魂」
 殺しだけを目的に「軍」に志願した奴がいる。「A」としておこう。こいつは同時に、「同志的連帯感」もない。現場で私が捕らわれそうになった時、間違いなく1人で逃げだすだろう。こんな奴とチームを組まされた時には、行き場を失う。人によっては脱走するかもしれない。しかし「脱走」だけは嫌だ。どうするか。
@ ターゲットをやり過ごし、素知らぬ顔をして戻る。
A Aに合図せずに、他のメンバーと共にオペを発動する。その為には、あえて危険な条件をも覚悟する。
B Aを組織的に排除するために闘う。けれどもそれは、あまりにも不可能な選択だった。
実際、逮捕されて自白してしまった人間の背後に、「転向」を促す様々な事情が控えている。「転向」以外に、人としての生き方を回復し得なくなるような「党の現実」を、どう考えたら良いのだろうか。
 「赤色テロ」が正当化される条件とは何だろう。あるいは与える打撃の「重度」を規定するのは何だろう。この内戦をどういう視点から取り組むべきだったろう?彼我の激突が極限化し、殺し合いという「絶対戦争」化して行った日々を振り返りながら考えたい。私は「熟成」という事をを考える。私・相手・第三者の3つの熟成が求められる。相手―革マル分子、というだけでは無理だ。Jac(全学連特別行動隊)が戦闘し、労働者は高みの見物だ。確かに「情報提供」は彼らの罪状ではある。やはり、1人の人格としての諸々の明確な罪状が、せん滅戦の正当性・有効性を左右する。その反革命労働運動の罪状は、この「内戦」の直接的な課題ではない。現に中核派は、産別戦争への労働界の批判に対して、「これは内戦の問題」として撥ねつけて来た。テロ合戦では「手数」も戦況を左右するけれど、やはり「差」をつけなければならない。また、職場に敵・味方が多数混在しているような場合、政治的配慮も一層問われよう。

  味方――「志願」が原則でなければいけない。そしていつでも、「戦場離脱の自由」が保障されている事だ。あるいは「有期」。趣旨に賛同しても、出来ない事情はいくらでもある。「そんな事を許したら、志願する奴などいなくなる」。その時には、やめればいいではないか。抗命や離脱を許さぬ結果が、大量の脱走を生み、そしてまた、逮捕→自白・転向を生んだのではないか。どの道、同じ結果ではないか。「脱走→転向→権力への全面的自白」という、あまりにも古い連赤的思考、それが夜郎自大を極限化する。この期に及んで逮捕を恐れて人前に出るのを恐れる清水さん、清水さん1人のためにまともな形式の大会も開けない現実‥。

 第三者――「天の時」「地の利」。大学戦争という相互の激突の戦場とテロ合戦は様相を異にする。権力の弾圧、家族の事情、そして職場、何よりも大衆的認知度。そして、情勢全般の成熟。「人民の海」を育て、家族を守り、職場で闘いを広げる、そういう多重の「政治」の熟成の程度が、「戦争」の烈度、成否を決めるはずだ。
 中核派の建軍・建党論の背後の思想とは、何だったのだろう。ベトナム戦争でのソンミ事件、米軍法会議にかけられた虐殺者たち。ドイツでは抗命の権利、アメリカには良心的兵役の拒否‥。形だけとは言え、「現代の戦争」への反省はある。「戦争法規」は、流血の中から生み出された歴史の教訓だ。その理念には「意味」がある。私たちの「戦争」は果して、「戦前的」な「軍国主義・軍人魂」の発想と対決する、という問題意識を有していただろうか。小林多喜二の「党生活者」。それを見据え、乗り越える問題意識があっただろうか。完全せん滅をもってする「党内政治」は、この熟成と真っ向から対立するものだ。「先制的内戦戦略」そのものが、こうした熟成の思想を拒否するものではある。しかしなお、「熟成」を踏まえることは不可能ではない。「解放戦争」としての視点、陣形の形成の有無が問われたはずだ。私たちは「党中央」の暴走に対して、あまりにも無力だった。「暴走」でないならば「独走」と言っても良い。中央自身、「歴史的に与えられた役割」を演じきる以外になかったのかもしれない。自ら作ってしまった「指導の型」に束縛され続ける。「上からの党内闘争」を貫徹する。私はここで、「中核派という宿命」論に陥る。程度の差こそあれ、革マル成員もそうであったのではないか。
 コラム 革マルの3・14
 相次ぐ政治局員へのテロと本多さんの虐殺。それは「やり合い」の過程に突入した時の革マルの断末魔のあがきだった。「権力が(中核派の)首根っこをつかみ(革マルは)下の急所を蹴り上げる」と公言したおぞましいのもくろみは崩れ去っていた。尊大・ごう慢な「教育的措置」論や「お尻ペンペン」論は、革マル幹部たちは恐怖の反映だった。「3・14」=「勝利・一方的停戦宣言」と「停戦」を求める文化人声明、そして「謀略」論は3身1体だった。もしこの抗争を停めることができるとすれば、それは本多さん以外にありえない。そんなことは、革マル(黒田・松崎・土門=根本)自身が十分すぎるほど知っていたはずだ。それが分からないほど、革マルは、幻影・幻覚の中に現実逃避していたということか。解放派への襲撃と中原氏の虐殺は、新たな戦場を生んだ。「人を呪わば穴2つ」。以降の革マル指導部は、黒田をはじめ、現場責任から逃亡し、怯えと夢想の穴倉に閉じこもってしまった。革マルもまた、いくつもの節目を経て、変質と内部抗争をくり返している。革マルもまた「かつての革マル」とはほど遠いところに行ってしまった。元中核派と元革マル派、ともに集まって、「戦史研究」を始めるべき時ではないか。
 2 厭戦(えんせん)と抗命
 厭戦と抗命
 対革マル戦の初期、革マルとの調停に田川さん、陶山さんの2人が動いたと、ちまたで言われる。田川さんは除名され、陶山さんは白色テロの後遺症を癒せぬままに世を去った。陶山さんが、対権力のゲリラに反対していた事は私も聞いた。対革マル戦の調停も多分……と想う。しかしこの時点、すでに「政治局」は、事実上存在しない。本多さん・清水さん・野島さんらの「○○小委員会」が、実権を掌握していた。ここには、「大衆運動主義との闘い」がリンクされている。「党」の戦略は、戦争激化論だ。調停などあり得ない。本多さんの「上からの分派闘争」、それはまず、権力掌握から始まっている。

 戦争の激化を阻んだ力、窮極的に停戦へと導いた力、それは各級・各レベルの条件闘争、あるいは面従腹背の力、そして「時代の流れ」だ。さらに、続々と出る指名手配によって、戦闘主力が奪われていく。内ゲバに嫌気がさし、軍令主義に反発し、多くの人が辞めていった。「辞める」という形での反対意見、今私は、それを貴重な態度表明として改めて見直したい。各県委員会の運動を創立し、広範な統一行動を体現して来た人々が解任され、あるいは辞めていったのはいつ頃だったろう。軍への志願者などもういない。私の転属と同時に地下に移行した爆取さん、彼もブースカブースカ言いながら渋々従った。私も彼も、もし職場があったなら、転属など受け入れはしなかったろう。

 実は私自身、「革命軍」だ。初期の革命軍は、正規とパートタイムの兵士で構成されていた。盗聴器の設置は特殊任務だ。私も軍令で軍の兵士になった。約束の期間を過ぎて、私は復帰を申し出た。自分の為すべき事の数倍はやった。それでいいじゃないか、と私は思う。永久の地下生活なんてご免だ。「会議で言ってみろ、全員で判断する」という回答に、私は浮き足立つ。私1人が戻る事、戻りたいという事、それが問われる。私は「家庭生活を守りたい」という事を理由にしていた。そこに批判の矢が突き刺さる。「軍と家庭、革命と家族、家を変革する事と何が矛盾するか。革命的立場こそ鍵だ」と批判された。この時点、それは私たちの思想性の核でもある。けれども、私は切り返した。「ブルジョア的家族関係は、解体すべきものではない。家族のちゅう帯を内から見直す事だ」。女性たちも多い、みんなこの問題で葛藤している。本当はこんな形で議論したくはない。「それほど言うのなら自由意思に任せよう」。ようやく納得が得られた。私はホッとした。けれど残る人たちが、私のように主張できずに残されているのなら……断腸の思いではある。軍から復帰したという罪を、私は負い続けなければならない。

 α隊(行動隊)の役割が、私にくり返しも回って来る。「穴があいた」と「要請」される。私は何度も断る。けれどもくり返しの「要請」に折れる。そんな事のくり返しだ。反戦のα隊要員が、たびたびの動員に音をあげているのだ。社防、集会のα隊、そして大学戦争、さらに三里塚のゲリラ戦。「もう有給も無い、首になっちゃうよ」。「首になるまでやれと言うのか、冗談じゃない」。金も無い、時間も無い。生活も職場の課題も、もう待てない。自分たちは労働者として闘いたい。反戦はこの「内戦」を「やっぱり内ゲバの延長」と腹の中で思っている。「付き合いきれない」が本音の所だ。「抗命」という形で、労働者は主張している。クシの歯が抜けるような動員が続く。けれども作戦は変わらない。「無能な」中堅指導部は、股裂きに苦しむ。そして「有能な」手配師が、昇格の階段を昇って行く。虚偽と力と面従腹背で、自らの組織の温存を謀り、力を発揮する事も横行する。戦争指導としては、大学戦争をもっと絞るしかなかったのだ。そして1.5倍の兵力を集中して、守りきる。ここでは学生運動中心論が尾を引いた。「戦争としての戦争」は、「対峙段階」で終わらせる。「あと一撃」論を粉砕した後は、中枢防衛こそが要だった。3・14さえなかったら。本多さんその人が「非合法軍事」と、度し難い公然主義生活の自己分裂を凝視し得たなら……。
 「非公然の党」という虚構
 破防法の団体適用を覚悟した対権力の武装闘争、それを支える「非公然・非合法の党」について。破防法とは「3人以上の集結」を犯罪とするものだ。80年代、中核派はどこまで本気に党の非公然かを進めたろうか?「本気」だったのすら疑わしい。角田さんが中核派に通報・提供した2つのスパイ問題の答えは、角田さんへの「テロ」だった。清水さんのアジトまで提供した宮崎学事件、関西の党の全貌をつかまれた事件。この2つについての組織的総括。責任追及はなされない。「全党・全人民」への責任も、だ。大衆集会での「指揮系統」。集会での最大の課題の1つは「撤収・解散」だった。屋外集会でも、司令部→地区責任者→班→メンバーへの軍令の伝達が行われた。この系列は、「党の系列」そのものだった。新しいメンバーも、彼・彼女がどの系列に属するかが一目りょうぜんだった。公安警察が囲み注視する中での「軍事優先」は、「非公然性」を踏みにじって平然と行われ続けた。権力に割れていないメンバーがどれほどいたか?公安の「能力の低さ」を置いて、確信を持って「割れていない人」の数と質こそが、破防法の団体適用への備えだったはずだ。それがゼロだ。「中央集会への参加者の数」こそ「決戦の総括の軸」であったこと、「参加の頻度」こそが「党員性の証し」だったという事実。  

  「非合法の党」は「職業革命家の党」だという言説が80年代にまことしやかに語られた。今では公然生活を営む労働者党員を切り捨てて、職革だけ生き延びれば良いということだったろうか? けれども「職革」は前進社などの公然事務所に陣取っている。いざと言う時には彼らが真っ先に捕まるだろう。団体適用を前に、でっち上げ逮捕が大々的に展開されることは自明ではないか?結局、「非合法・非公然の党」へのまじめな取り組みは一切無かったというべきではないか?権力への甘え、という以外に無い。これではオウムの武装闘争と変わらない。
 「戦争法規」に学ぶ
 「内戦」に協賛した「党員」は、無条件に「戦士」になるべきだろうか? ある時期から、実際には、「軍への志願者」はいなくなった。ほとんどが「指名」「軍令」で軍に移行する。常任・専従には逃げ場が無い。いったん軍に移行すれば、よほどのことが無い限り、「生涯」地下生活だ。それが1人1人の生き方と人としての成長にどんなに激しい破壊性をもったか? 私は思う。どこにいても、や「内ゲバ」から、私たちは自由ではありえない。どんな運動・集団も、つまらぬ内紛でせっかくの蓄積を無にすることは、避けられない。それをどこまで抑えることが出来るかが、問われ続ける。そのためにこそ、口を閉ざしてはならない、と。[1] 「戦争を知らない世代」がほとんどになった。「殺し合い」がどんなものか、「臨戦態勢」がどんなに破壊的作用をもたらすか、私たちの体験を総括することで、生きた「反戦論」を作り出したい。ほとんどの戦争の死者や犠牲者は、「戦場」ではなく「銃後」で生まれるものだ。「臨戦態勢の中での視野狭窄(きょうさく)」。味方の吊るし上げと、自損事故、そして後ろから飛んでくる石ころで怪我をする。

[1] 内ゲバ。民主主義とは、果てしない抗争から生まれた。むき出しの主張と利害の抗争、策略と取引の場だ。であればこそ、少数派の拒否権・離脱権を含む。「離合集散、割れても末に会わんとぞ思う」。そのために幾重ものルールがある。
 3 分岐点=三里塚の分裂とテロル
 51  分岐点=三里塚の分裂とテロル
 三里塚テロルへの自己批判
 私が83年三里塚「3・8分裂」の意味について改めて思い知ったのは、前進社を出てからだ。まず、第4インターへのテロルの自己批判を私として、はっきりしたい。「348氏の声明」を以下、再確認しよう。 84年3月7日 前田俊彦、福富節男、近藤悠子、吉川勇一氏の四氏が記者会見を行い、348氏の連名による4項目からなる声明を発表した。この声明は、三里塚飄鰻亭の前田俊彦氏の呼びかけに端を発している。
声 明
一、一月九、十日におこされた三里塚闘争にかかわる活動家への暴力による襲撃事件にわれわれは衝撃を受け、このような事件の再発を深く憂慮する。
一、万人の自由と平等をめざし、平和を希求するわれわれは、物的利益主眼の権力政治に反対するとともに、運動内部での排他的なイデオロギーによる支配にも反対する。
一、運動上の意見や方針の相違を、物理的暴力、とくに肉体的な抹殺や、それを背景とした脅迫によって解決しようとするような行為は、運動の基本原則とまったく無縁であり、人民の運動の荒廃のみか、広く民衆一般の政治不信を広げるものと憂慮するわれわれは、このような行為が2度と起こされぬよう、強く要望する。
一、今回の不幸な事件を契機に、対立する2つの反対同盟の農民が、話し合いをもち、万人の共感を得られるはずの三里塚闘争の大義において一致されるよう、心から希求する。 

 × × ×  
中核派は、最も鋭く対立していた第四インターに暴力的テロルを加えた。第四インターを「反革命」と規定して83年1月そして7月に第四インター系の8人の活動家を襲い、頭蓋骨骨折、両手足骨折、片足切断などの重傷を負わせた。その後も活動家や一坪共有地運動に対して「次はおまえの番だぞ」と脅迫を続けた。
 × × ×  
ここで語られている事は間違いの無い事実であり、当時私が知っていた事だ。私自身は積極的にこのテロを協賛したことは無いけれど、中核派の1員として、編集局の1員として、「批判」もせずに従っていたことだ。

これに加えて、「熱田派」農民に対して同様な「弾劾・脅迫」があったこと、さらに味方の「北原派」支援すらも天神峰から排除したことも語られている。多分、これも事実だろう。中核派は、民衆にとっての希望の星でもある三里塚を、「内ゲバ」の泥沼に落としこめることで、破壊してしまった。三里塚と中核派を、「革マルと同じ」にしてしまった。
 「攻勢的な分裂」方針
「中核派は分裂を積極的に進めた」と言われている。それが事実だと思える。三里塚闘争は、確かに中核派を中心に闘われてきた。けれどまた、諸党派の競合で多彩な闘いを生み出してきた。岩山鉄塔も青年行動隊と「連帯する会」の発案だ。何よりも、78年「開港阻止」の管制塔占拠という偉大な闘いは「連帯する会」の闘いだ。その後の「組織破防法」適用を巡る大弾圧で苦しみ、混乱したとしても、それは第1義的には「温かい目で」見つめるべきものだったはずだ。仮に又、第4インターが「中央丸ごと反革命に転落した」としても、第1義的には、当該の党内闘争に託すべきものだ。「3・8分裂」は、それに逆行するおぞましい思いに満ちたものだったと言える。あれこれの「裏切り・動揺」をあげつらい、主導権を奪い返そうとする無様な思想だったと言うべきだ。
 
「三里塚2期決戦勝利=革命的武装闘争」が「先制的内戦戦略」に純化・格上げされる中で、中核派は、もろもろの対応能力を自ら放棄してしまったように思える。「テロとゲリラ」万能観が、まともな政治・思想を排除して満展開して行くその結節環として、「3・8分裂」とテロルがあったように思える。
 
反対同盟自体の葛藤と分裂について中核派は、「熱田派」の「裏切り」をあげつらった。けれど、その10年後、「熱田派」は総体として、依然として「反対同盟」であり続けた。仮に反対同盟の分裂自体が避けられない物だったとしても、その対応は余りにお粗末だ。「三里塚大地のまつり」に反対したこともその1つだ。熱田さん自身、中核派と北原さんの硬直した「独裁」に嫌気が差して離れたと聞く。分裂後の「熱田派」農家への「弾劾行動」は、「支援」の枠を超えたものだった。仮に、「脱落」した農民であっても、長年の闘いで傷つき疲れ切った農家・農民を労わり、守るのが「支援の道」であるはずだ。その農家に長年係わり、その農家にこだわり続けてきた現闘や諸支援団体にとって「弾劾」などあるはずも無い。この板挟みで崩壊した現闘メンバーもあると聞く。「3・8」は中核派と三里塚闘争の終焉への分岐点だったと今、改めて思う。三里塚「3・8分裂」と第4インターへのテロによって、中核派は「革マルと同じ」と忌み嫌われる党派になってしまった。三里塚に賭けた「希望」は消え去った。
 革命的独裁という「利権屋」
 中核派から離れた後、89年に法政大学で、黒ヘル・ノンセクト200人による、松尾追放運動が爆発していた事実を初めて知った。 2文連予算から1千万円を中核派に渡せという松尾の要求に、隷従を続けて来た黒ヘルがぶち切れた。「利権屋=松尾を追放せよ」。それは松尾(中核派)の言う「革命的独裁」の犯罪性を顕著にし、革命軍戦略の公然面での、全面的崩壊を顕わにした。
 松尾の「革命的独裁」
ここでは趣旨に反して1度だけ、見聞していない事実を確認したい。2チャンネルからの引用だけれど(http://www.josephandleon.co.jp/joe/eki-matsuo-seiji.htm)、中川文人氏の語っている内容と一致するので……。[以下、無断引用]
×××
 松尾氏の目に、1978年当時の法大学生運動はどう映ったのだろうか。彼の書いたビラの文章をみてみよう。 「……われわれは率直に反省、自己批判する。こういうインチキを黙認しているわれわれ自身の腐敗が法大学生運動を腐らせてきたのである。階級闘争は数の問題ではない。なによりも革命的戦闘精神、魂の問題である。……」。松尾氏は同盟と全共闘=黒が「馴れ合っている」姿が、どうしても許せなかったようだ。そして、彼は宣言をする。「わが法大学生運動は……いま、最も鋭い革命的飛躍を求められているのである。このとき、一切の右翼日和見主義者は害毒を流すのみであり、容赦なく粉砕されなければならない」。そして、松尾氏は法大学生運動=同盟を「立て直おそう」と黒その他諸派への潰しオルグ=「イデオロギー闘争」に着手する。徹底的に討論して自らの誤りを認めさせ、「前進」を有料購読させたうえで同盟の運動方針に従わせるというものである。彼にとっては階級闘争の一環でもあるので非常にシビアである。「……階級闘争は情け容赦ない。選択は2つにひとつなのである」。階級闘争が情け容赦ないのか、それとも松尾氏が情け容赦ないのか。この間、学館黒ヘルの実名批判ビラが何枚もだされた。ビラにかかれた人物はつぎつぎと白ヘルの拠点である自治会室の1室に呼び出され,松尾氏と討論することになる。それだけでなく討論の内容がビラになって公開される。ついに耐えきれず自己批判書を書かされて自らの手で配付させられるものや、サークル団体の執行部を辞任させられるものが出てきた。
 [続いて、ネット「われら少数派」の『法大学生運動史』]
中川 松尾さんがね、『ボルシェビキ』って個人機関紙を作って、Tさんを徹底的に攻撃する。で、Tさん1派と目される人間を1人1人呼びつけて、かたっぱしから自己批判を取っていく。で、2週間くらい経ってからかな、ついにTさんも自己批判。で、Tさんを含めて3人が放逐されて、Tさんの反乱はあえなく鎮圧されます。
外山 あー。
中川 もう1つ、これは絶対に引けないなと思ったのは松尾さんのやり方。あまりにもバカっぽいんだ。だってさ、「イデ闘(イデオロギー闘争)を申し込む」って云ってイデ闘をガンガンやるんだけど、結局、最後は「おまえはカクマルだー。カクマルじゃないなら自己批判しろー」だからね。あれには呆れたよ。カクマル規定された1人なんて、「中川、教えてくれ。革マルって何の略なんだ?」って奴よ。そんなのが革マルのわけないじゃん(笑)。あんなのイデ闘でもなんでもない。ただの言葉遊びだ。
×××

 松尾の名誉のために、中川氏の評価も引用しよう。彼は松尾追放運動の張本人だ。
中川 ああ、でも、松尾さんとの出会いはやっぱり大きいね。松尾さんを見て、「日本人でも共産主義者になれる」「日本人でもKGBの大佐になれる」って確信が持てた。
外山  松尾さんの影響ってでかいんだね。
中川 でかいよ。ジョー・マジャールもそうなんだけど、我々の世代って、なんだかんだみんな松尾さんが大好きなんだよね。あんなひどい目に遭ったのに。
外山 なんでだろう?
中川 ジョーは「ストックホルム症候群」だと云っているけどね(笑)。誘拐された人が誘拐犯に好意を持っちゃうってやつ。でも、それだけじゃないと思うよ。88年の事件[1]が起きる前からあの人、人気者だったから。善人か悪人かっていわれれば、そりゃもちろん悪人だけど、悪人って魅力的じゃん。
外山 善人はつまらない、と。
 松尾の「名言集」もある。 「中川よ。おれが全学連委員長をやっている時は、全国から問題意識のある奴が結集してきた。が、最近は問題のある奴しか寄ってこない」ってやつね。
 [学館人質論]
中川 ‥(人質論について)上のほうは分かっていたと思うよ、少なくとも黒ヘルがそう考えてるってことは。だけど現場の人間はそこまで考えてなかったと思う。彼らの意識といえば、私は中核派だ、法大は中核派の拠点だ、だから中核派に逆らう奴は排除しなければならない、って程度だから。ああ、でも「戦わない学館なんていらないんだ」「うちは別に自主管理の学館じゃなくてもいいんだ」「対カクマル戦を考えれば、当局管理のほうがむしろいいんだ」なんてことはよく云ってたよ。
 学館が人質にとられているから、結局、最後は我々が譲る。で、中核はやりたい放題。「云うことをきかないと、おまえらの命よりも大切な学館を潰すぞ、それでもいいのか」と、彼らは無理難題をふっかけてくる。我々が白ヘルを憎む最大の理由はこれだね。彼らへの憎悪の根は深いよ。白対黒の対立は政治的対立のレベルを超えてたね。……解説はいらない。




(私論.私見)