「革マル派系活動家・水本潔(日本大学生)変死事件考」

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.12.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1977年に発生した「革マル派系活動家・水本潔(日本大学生)変死事件」を考察しておく。海老原、川口事件とも違って「遺体のすり替え」という変事が発生している。これをどう読み取るべきか、れんだいこが追跡する。「宇治芳雄「水本事件 現代の謀略を追う」その他を参照した。


【水本潔・氏概略】
 本事件を考察する前提として、まず水本潔・氏の履歴を確認しておく。

 1950(昭和25).2.10日生まれ。日大に入学する。事件当時、両親の住む実家は千葉県市川市。当時、水本氏は革マル派系全学連の活動家であった。既に5回の逮捕歴があった。下記の「上智大事件」の被告人であり、東京地裁で公判中であった。その間、市川市のアパートに日大芸術学部の友人と二人と下宿していた。下宿と実家は徒歩で約20分、しばしば実家に帰っていた。週3回ほど運送会社の助手としてアルバイトしていた。この時のバイト料の支払いは毎月25日のところ10.25日まで確認できるが、11.25日には貰っていない。友人証言によると、1974(昭和49).11.27日から行方不明になった。

【上智大事件概略】
 1975(昭和50).7.9日、東京四谷の上智大学構内で中核派対革マル派のゲバルト事件が発生した。上智大自治会が大学当局に団交要求の集会を開催していたところへ、7名からなる中核派が武装襲撃し乱闘となった。2名の学生が負傷、中核派の1名が負傷したとされている。水本氏は、鉄パイプを持っている現場写真を撮られ、それを唯一の証拠として翌1951.4.17日、警視庁麹町署に逮捕され、警視庁で十日身柄を拘束された後、4.28日、東京地検により凶器準備集合罪で起訴された。

 この公判は、1976(昭和51).9.20日より開始され、事件直前の11.18日に第4回目の公判があり、証人としてホセ・デ・ベラ上智大学副学長が証人出廷している。副学長は、事件現場写真の提出者であり、「ポジネガがあり、或る学生がたまたま事件現場を撮影し、それを某教授を通じて入手し、麹町署の公安係長に提出した」ことを明らかにしている。この時の公判の遣り取りの詳細が明らかにされていないが、三日後に水本水死事件が発生する。第5回は12.20日、第6回も予定されており、中核派学生が証人出廷することになっていたこと等々からして、本人の自殺要因は見当たらない。

【水本事件概略】
 1977(昭和52).1.6日午後一時過ぎ、千葉県市川市の江戸川に浮かぶ変死体が発見された。所轄の市川署は、警察医に立会いさせた。警察医は、死体の腐敗の様子から死後1週間から10日と判断した。同署では指紋を採取しようとしたが、左手が表皮剥離し、右手は黒革手袋をしていたため漂母皮化し、採取用インクがのらず採取できなかった。外傷などが見当たらないことから覚悟の入水自殺と判断した。死体は、司法解剖はもちろん行政解剖、血液検査も行わぬまま火葬場へ運ばれた。翌日、市川署の鑑識課係員二人が火葬場へ出向き、シリコンラバーと呼ばれる特殊な方法で指紋を採取した後、死体を火葬にした。

 1.17日、市川署から水本さんのところに電話が入り、「水死体が指紋照合で息子の潔さん(26)と判明したので、はんこを持ってきてほしい」と要請があった。父親、母親は市川署に駆けつけた。鑑識主任は衣類の切れ端、腕時計、ネクタイなどの遺留品を示した。確かにそれは潔さんのものだった。ところが死体写真を見ると即座に「これは潔じゃない」と母親は叫んだ。母親の見るところ、死体写真は息子とは異なる身体的特徴のものであった。後に死体写真を知人や親戚などに見せたが、いずれも潔さんとは違うという答えばかりであった。弁護団の調べによると、歯形がまったく異なっていることが判明した。水本氏がすりかえられて死亡扱いされている可能性が考えられることになった。革マル派は、「警察側の謀略」であるとして事件化させて行った。

 1.20日、東京地検は被告人死亡として「上智大事件」の控訴棄却しようとしたが、弁護団側は「水死体は水本潔さんではなく、すり替えられたもので、警察側による謀略である」と訴え、裁判長は異例の「裁判所は水死体が被告人水本本人かどうかを判断する事実審理を行う」決定をした。裁判団が結成され、死体は水本さんではないと争うことになった。裁判は、2.16日より12.21までの13回にわたって非公開で行われた。

 この間、不審の重要証拠となっていた歯の治療カルテが焼却されている。2.10日、裁判所が提出命令したところ、担当歯科医は妻の不注意により過って処分したと陳述している。3.12日、市川市役所の国民健康保険課税務係より「過誤納金還付請求書」が届けられ、調査したところ、市川署刑事により戸籍の除籍手続きが行われ、法務局、社会福祉事務所との協議を経て市民課が受理したことが明らかになった。

 これまでに、警察は勝手に死体を火葬し、戸籍を抹消し、重大な証拠物件である歯科医のカルテを消却させている容疑が強まった。3.15日、弁護団は、市川署刑事一課長・田丸氏を偽証罪で告発した。

 社会党の目黒今朝次郎議員が、水本事件を採り上げ、10.19日の参院予算委員会、10.27日の参院法務委員会で質疑している。

 1978.3.28日、東京地裁は水死体が水本さんであるという検察側の主張を認め控訴を棄却した。検察側の主張を認め、被告死亡による控訴棄却の決定を出した。

 革マル派とはいえ、一学生活動家に過ぎない水本氏がなぜこのような謀略に巻き込まれたのか、事件は闇に包まれている。

【「ウィキペディア水本事件」 】
 「ウィキペディア水本事件」。
 水本事件(みずもとじけん)とは、1977年1月6日に江戸川の下流左岸で1974年11月27日から突然行方不明になった(当時)日本大学藝術学部の学生水本潔と思われる「水死体X」が発見されたことを機に話題となった事件である。市川警察署が、「水死体X」の司法解剖を行なった結果、水死体が当時行方不明であった日本大学芸術学部の学生、革マル派全学連のメンバー、水本潔であり、死因は溺死、覚悟の入水自殺であると判断したが、水死体Xの顔写真を見た水本の母親が「これは潔ではない」と発言したという。革マル派はこの事件をCIAも関与した権力犯罪であると規定した。革マル派は、水死体は水本とは別人の「そっくりさん」であり、水本は権力によって謀殺された権力犯罪であると規定して「水本運動」を展開し、街中に水死体Xと水本の顔写真をあしらったポスターを多数貼りつけ、多数の文化人の署名を集めた。このとき、署名した文化人の中には、革マル派に反感を抱く立場の人々も少なからず含まれていた。水本は上智大学で発生した中核派との内ゲバを理由に逮捕され、被告人となっていた。革マル派の主張によると、この事件は権力の謀略であり、水本は権力にとって都合が悪い人物であったということになる。水本事件をめぐる裁判では、証人として当時の上智大学副学長デベラが裁判所に出頭、目黒今朝次郎が国会で採り上げるに至った。

 対する中核派や革労協は、水死体Xは水本本人であり、かつ「そっくりさん」を探すことなど絶対に不可能であると主張した。また、もしも水死体が水本でなければ、水本は生きている可能性があるにもかかわらず、革マル派は水本がすでに死亡していると断じており、「水本運動」が権力謀略論の論拠として使われていることなどから、革マル派が水本事件に言及している運動のことを「水本デマ運動」と呼称し、「究明する会」メンバーを殺害するなど、激しい攻撃を浴びせた。

 1977年4月15日、埼玉県にて革労協が革マル派幹部藤原隆義(杜学)他4名を焼殺。(浦和車両放火内ゲバ殺人事件)

 1977年4月17日に京葉道路妨害事件が発生。京葉道路の武石インター付近に通行を妨害するために、盗難車を使い大量の廃油や釘がばらまかれるという事件が発生した。革マル派は犯行声明を出し、同事件は「水本事件や4.15殺人事件に対する報復」であると表明した。

 しかし中核派は、盗難された車が、革マル派4名が焼き殺された浦和車両放火内ゲバ殺人事件が発生した4月15日よりも前に盗まれたことや、同事件の現場が埼玉県であるにもかかわらず、千葉県の道路を標的としていることや、三里塚につながっている京葉道路の下り線を標的としていること、そして、革マル派はこの妨害事件により、三里塚での集会に結集しようとしていた人々の到着が大幅に遅れたことを誇示していたことから、三里塚闘争への妨害を目的としたものであると断じた。三里塚芝山連合空港反対同盟は「水本運動」に対して激しい怒りを表明した。反対同盟の幹部は、もしも三里塚闘争のことを知っている人間であれば、水本運動についての署名などは、絶対に出来ないはずだとすら言明した。

 1978年1月17日には、東京都で水本事件の真相究明を訴える内容の電波ジャック事件が発生した。午後0時からのNHKニュースが15分間音声が電波ジャックされたというもので、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区、新宿区の一部の東京都道318号環状七号線の半径5kmの範囲であった。車で移動しながら放送したものと見られる。同日夜に、電波ジャックを行ったのは国際人民連帯委員会という組織だとの革マル派の声明が発表された。声明では、革マル派は同委員会とは無関係であるとも説明していた。中核派は署名した文化人を徹底的に追及し、結果、署名を撤回する文化人が続出した。

 脚注

  1. ^ 「怪電波、NHKテレビ"乗っ取り" 過激派が演説 昼のニュース 音だけ15分間」『中日新聞』1978年1月18日付
 参考文献
宇治芳雄『水本事件 現代の謀略を追う』(龍溪書舎)
青木英五郎渡辺千古『死体すりかえ=水本事件の真相』(現代思潮社)
奥村陽一矢島治雄『ねつ造された水本事件 これがカクマルの正体だ』(前進社) - 中核派による批判本。
革命的労働者協会日本社会主義青年同盟『久我スパイ問題』(現代社) - 「水本運動」世話人久我美陽(くが みや)が権力のスパイだとして攻撃した。
 関連項目
  • 埴谷雄高 - 「権力謀略論」を肯定する発言が「解放」に掲載。中核派が埴谷を追及したところ、「革マルが勝手に書いた」と主張した。
  • 赤塚不二夫 - 水本運動のポスターに漫画を提供したが、革マル派に政治利用されることを忌避し、署名を撤回した。
  • 森哲郎 - 劇画『権力犯罪 水本事件』を執筆。一方の当事者である中核派の主張を検証していないことを自己批判し、署名を撤回、同書の絶版を表明した。

【竹田誠氏の事件見解】
 竹田誠氏の「第4章 国家権力の謀略とネオ・ファシズム体制への傾斜」に「革マル派系活動家・水本潔(日本大学生)変死事件」について次のように触れている。これを転載しておく。興味深い次のような記述がある。
 「国家権力者は、***派を『放置しておけば革命が成功』する可能性が高いという危機的情況を、いかに、乗り切ったのか。弾圧による乗り切りを主張していた田中角栄の子分=後藤田正晴が掌握していた公安警察は、***派系労働者、学生に対する謀略殺人という手段に訴えた。1970年代、80年代には、78名もの***派系労働者、学生、市民が虐殺され、数多くの者が、半身不随になり、頭脳を破壊されて正常な思考能力を失なった。青年労働者を中心とするランク・ランド・ファイルの組合員の反幹部闘争が高揚していた全逓東京地本は、『第二の動労』となることが予測されていたが、謀略殺人、謀略襲撃によって、***派の力は微弱なまま推移した。国労、全電通、日教組、自治労など、他の官公労における勢力拡大も壁に直面した。日本帝国主義は、***派系活動家に対する、残虐な謀略殺人によって延命することが可能となったと言っても過言ではなかろう。

 しかし、日本の警察は、これらの殺人のすべてが、***派と対立する極左集団(***派、***派)による犯行だと発表している。それに対して、***派は、殺人襲撃の一部が極左集団によるものと認めつつも、その多くは、国家権力の謀略部隊の凶行だとしている。まず、我々は、国家権力者が、放置しておけば***派による革命が『成功』する可能性が高いと考えていたことを想起すべきである。権力者には、***派系活動家を大量に虐殺、または、廃人にする動機が有ったのである。

 『極左集団』と言っても、そのメンバーの多くは学生である。殺人に関しては素人である。自衛隊の基地内部等で殺人の訓練を重ねたプロフェッショナルなテロリストである国家権力の謀略部隊との違いは一目瞭然である。襲撃を受けた***派系活動家が、***派、***派によるものか、国家権力の謀略部隊によるものかを識別できるのは当然である。しかし、第三者が、本当に、国家権力の謀略か否かを判断するためには、当初、***派が公表する情報は不充分なものでしかなかった。国家権力が放った職業的テロリスト集団であることを示す多くの特徴を、***派が挙げても、それが事実であるという客観的証拠は充分であるとは言いがたかった。***派が、謀略であることの根拠として挙げていることでも、それらは、***派の調査隊が調べたことであり、敵対する勢力が虚偽だと言った場合、第三者には、どちらの主張が真実なのか判断しえないことも少なくなかった。
 さらに、全学連戦士・水本潔(日本大学生)の虐殺も、革マル派系活動家謀殺の真実を白日の下にさらした。水本の殺害は、どのセクトによっても追認されていない。

 1977年1月17日、水本潔の実家に千葉県市川警察署から、江戸川から、水本の死体が収容されたとの連絡があった。市川署にかけつけた両親の前に提示されたものは、水本の遺体ではなく(遺体は既に焼却されていた)「彼とは似ても似つかない変死体の顔写真1枚」と衣類の断片、時計などの遺留品だけであった。

 確かに、遺留品は、水本の物であった。しかし、変死体は、まったく別人のものであった。水本が行方不明となったのは1976年11月21日であるが、同年3月に歯の治療を受けている。その時のカルテに記載された歯の治療状態と、変死体の「身元不明死体票」に書かれた歯の状態とは、まったく異なっていた。水本の歯にはプラチナ冠が無かったが、変死体には5本も有った。プラチナ冠を5本入れるには40万円(非常に高額)もかかり、学生が入れることは、まず、ありえない。一般に、そのように歯を「金ピカ」に飾るのは、ヤクザである。さらに、変死体には金冠が2本、有ったが、これも、水本には無かった。

 また、変死体には、「入れ墨」があった。入れ墨をする者の多くも、ヤクザである。さらに、変死体から指紋を採取するために使用されたシリコンラバーと、水本の指紋と合致したシリコンラバーとは別のものであることが明らかにされた。水本の指紋と合致したシリコンラバーは、変死体からではなく、あらかじめ水本から指紋を採取した後、保存されていたものであった。変死体から指紋を採取したシリコンラバーは、水本から指紋を採取して保存されていたシリコンラバーに、警察内の何者かの手によって、すりかえられたのである。

 市川署の鑑識係員達は、変死体の多くの指をくっつけて、シリコンラバーを塗布して指紋をとった。そして、そのシリコンラバーをハサミで一本ずつ切り離して、袋に入れ、千葉県警察本部に届けた。したがって、シリコンラバーには、隣の指との間の切断面があるはずである。また、その切断面は隣の指同士の間では、勘合符のように、合致するはずである。

 ところが、指紋照合に使用したシリコンラバーには、そのような特徴が、まったく無かった。ハサミで切った切断面が無いか、切断面があったとしても切断面は合致しなかった。鑑定依頼を受けた理化学研究所変形工学研究室の牧野内昭武博士は、変死体から採取したシリコンラバーと、水本の指紋と合致したシリコンラバーとは、「別のもの」だとの鑑定書を提出した。変死体の指紋と水本の指紋が一致したとする警察の主張の論拠は崩れ去った。

 水本は謀殺され、水本の持物と、別人の変死体の写真が水本のものとして、提示されたのである。その変死体の歯型は、水本のものとは、まったく違い、変死体から採取したシリコンラバーは、あらかじめ水本から採取したシリコンラバーにすりかえられた。死体のすりかえが行なわれた根拠は判明していない。しかし、日本の左翼が他の左翼組織に対して行使したことがない、あるいは、行使したと警察等によって発表されたこともない銃殺のような手口で虐殺された可能性はある。それを、死体のすりかえによって隠蔽したのは、「極左集団の仕業ではないのではないか」という疑いが広がるのを防ぐためだったのかもしれない。

 この水本事件については、「真相の徹底究明」を要求する「申入書」に署名した177名の知識人・文化人が起ち上った。また、動労が労働組合の組織決定として「水本事件の真相を究明する会」に参加した。そして、前動労委員長・目黒今朝次郎参院議員が、参院予算委員会で警察庁を追及した。朝日新聞、読売新聞、内外タイムスなどの新聞、『週刊現代』、NHKテレビも、水本事件について報道した。こうした「真相究明」運動の広がりに対して、国家権力の謀略部隊による、数多くの残虐な報復殺人が行なわれた。

 当初、国家権力は、水本事件に関して、マスコミに報道させなかった。そこで、全学連戦士は、1977年4月8日、トラックに積んだ積荷を高速道路全国4ヶ所(東京、名古屋、大阪、下関)に投棄し、高速道路の自動車をスットップさせて、水本事件をアピールした。この闘争に対する報復として、日本の左翼の「犯行」とは信じがたい虐殺が実行された。

 1977年4月15日には、頑丈な自動車に守られた4人の活動家が、ナパーム弾だと推測される武器によって焼殺されるという事件が起こった。日本の「過激派」の殺人の手口とは、あまりにも、かけ離れた、ベトナムのアメリカ軍まがいの「焼殺」という手段だったため、虐殺を追認した革労協(革命的労働者協会=解放派)は、「焼き殺した」という事実を、その機関紙『解放』上で公表できなかった。
 
 謀略は政争の具としても利用された。成田空港建設反対闘争(三里塚闘争)においては、「第4インター」「ブント戦旗・日向派」「プロ青同」から成る「赤ヘル集団」が、管制塔に登り、管制室の機器を破壊したが、「赤ヘル集団」が管制室に到達する前に、管制室がある16階には、機動隊や制服警官が居たのである。『読売新聞』(1978年3月31日、夕刊)に掲載された写真が、この事実の証拠である。「赤ヘル集団」は機動隊に邪魔されることなく、管制室内の機器を破壊できた。管制塔占拠は、公安警察によって演出された事件である。この事件によって、福田赳夫首相の国際的威信は傷つけられた。福田が田中角栄を逮捕させた事に対する田中派の公安警察のボス・後藤田正晴による福田首相に対する復讐であった。
 
 謀略襲撃による、数多くの活動家の虐殺、廃人化、負傷によって、国家権力者が「放置」しておけば「官公労全体を制し、革命が成功する」可能性が高いと認識した革マル派の伸長は、多くの組合でストップした。あるいは、組合内の党組織が破壊された場合も少なくなかった。(玉川信明編著『内ゲバにみる警備公安警察の犯罪(上)』2002年、あかね図書販売、147頁、337頁、『内ゲバにみる警備公安警察の犯罪(下)』18頁)(「人生学院2の投稿bP034」の一夫氏の2009.4.30日付け投稿「第3節 国家権力の謀略」より)

【れんだいこの事件見解】
 この事件は、以上の解明によっても解けない闇の面がある。革マル派の主張によった場合でも、水本君は「すりかえられた遺体により戸籍上殺された」ことまでは確認できるが、ならば水本君はどこへ行ったのかは依然としてはっきりしない。この経緯に於いて謀略論を聞かされるが、それとは別に水本君論をせねばなるまい。この場合、1・殺されているが遺体が見せられない事情によりすりかえられた。2・殺されたかどうかも未だ確認できないの二点が詮索の対象となる。水本君は果たしてどちらなのだろうか。つまり、この事件の不可解性を謀略論で済ますのは片手落ちであるということになる。

 ところで、水本君がこういう不可解な事件に巻き込まれたのは偶然なのだろうか、それとも裏事情があるのだろうか。れんだいこには、こちらの方が気になる。考えられる有力な線として、直前の「上智大事件第4回目公判」の証人として出廷したホセ・デ・ベラ氏との絡みが考えられる。ホセ・デ・ベラ氏とは何者か。宇治芳雄氏の「水本事件 現代の謀略を追う」は、上智大、イエズス会、CIAについて考察している。これはなかなかの異例な研究となっており、値打ちが認められる。宇治氏は、その上で、現場写真を提供したホセ・デ・ベラ氏の胡散臭さに言及している。

 しかし、ホセ・デ・ベラ氏の胡散臭さが確認できたとしても、革マル派の一活動家に過ぎない水本氏が何故に消息不明にされなければならなかったのか、殺されたとしても死体をすりかえられねばならなかったのかという事情までは辿り着かない。肝腎なことはこちらの方ではなかろうかと思うが、依然として闇に包まれている。れんだいこの勘として、水本君が不可解な事件に巻き込まれたのには更なる裏事情がある気がする。判明次第に書き付けておくことにする。ネット検索で情報規制されている節が窺えるのも何やら怪しい。






(私論.私見)